嘱託のバーサール



「ねぇ、何度云えば解るのだい?」
 声と同時に脇腹を熱く奔る一閃。奥歯を噛み締め、二撃目を紙一重でかわした。
「僕の近くで焔を使うなら、火力制御くらいし給え」
 奴の外套の端に燻った痕。それを見てなんとなく気分が良くなった。
「俺が間合いに居ても刀を振り回す様な奴に、云われたくない……」
 視線を逸らし呟いてやれば、何故か眼前の煉瓦が煌々と照らされ始める。ハッと視線を戻せば、まさに火球が向かって来る瞬間だった。
「ざ、っけんな」
 避ける暇は無く、打ち消す事を脳が指令する。指先から熱が迸り、朱色の塊を食い止める。掌からまるで喰らう様にして、俺の腕の中で爆ぜ失せた。熱気で揺らいだ視界の先に佇むのは、噛み合わせた歯列から煙を燻らせるケルベロス。だが……肝心のデビルサマナーが居ない。
「焔を焔で受ける訳? 君はさぁ……」
 俺は振りかぶり、声の方向に拳を叩き込んだ。容易く砕ける煉瓦に、拳が埋まり込んでいる。標的は回避済だった。
「相殺する術を持たぬからとはいえ、短絡的だね」
 すぐ傍から鋭い蹴り。呻いて咽た俺、肋骨の軋む音。
「ゥぐ……」
 瓦礫から腕を抜いて、そのまま胎を抱えた。よろめく脚を踏んじばると、其処へ黒い影が絡んだ。
「っ」
「さ、此処までにして帰ろうか」
 払われた脚はぐい、と掴まれ反転する。地面すれすれの俺の頭蓋は、髪を鷲掴みにされる事で接地せずに済んでいたが、今の状況の方が遥か腹立たしい。これなら脳天が地を割っていた方が、幾許かましだ。
「ほら、遊んでないで早くおし、功刀君」
「ぁ、ひッ……」
 腰に膝を入れられ、仰け反りつつ逃れようとすれば、喉元を舌が這った。血錆びの匂いの中に微かに混じる、白檀の香り。
「やっ、めろっ! 変態野郎がっ!」
 突き飛ばせば、同時に髪から指がするりと離れていく。暖簾に腕押しとなった俺は、そのまま自ら突っ伏した。
「フフ、遊び足りぬのかな?」
『サンポガ、タリナイノダロウ』
「おや、僕は人修羅を結構な頻度で連れ歩いているつもりだが」
 見上げなくても判る、俺を見て愉しそうに哂っている奴の眼。ケルベロスまで、あんな事を云いやがる……やはり悪魔は好きになれない。
「鎖に繋いで、檻に入れておくべき?」
 ククク、と含んだ笑い声が鼓膜を揺らす。辺りには他の音も無く、先刻屠った悪魔の死骸しか転がっていない。
 ……そう、対象が既に絶えているのに、俺達はこんな事をしていたのだ。酷く馬鹿馬鹿しい。
「しかしねぇ……自慢の愛玩動物は見せびらかして歩きたいだろう?」
 自慢の、ときた。
「片時も離れず、狗の様についておいでよ、功刀君……ククッ」
 恨めしげに睨んでやればそんなのいつもの事だ≠ニ、向こうも眼を弛ませる。俺を支配するデビルサマナー、十四代目葛葉ライドウ。奴の漆黒の外套が夜風になびいた。


『どうされましたかな! ヤシロ様!』
 急かす様な声で、嫌な現実に引き戻される。傍を見ればしゃれこうべがカタカタと喚いて、俺の衣類を腕にしていた。
「誰が勝手に開けて良いと許可しました」
 ソーマの雫が睫毛から垂れ落ちて、水面に慌てふためくビフロンス伯爵が歪曲して映り込む。
『も、ももも申し訳ありませんっ! しかしながら何時見てもお美しい斑紋でして! もぉう私と致しましてはちらりと覗き見る事さえ至上の歓びに等しいのでありまして!』
「御託は要りませんから、さっさと……退け!」
 俺の見開いた眼に、金の光がいっそう宿ったのだろうか。伯爵の骨身がキシリと強張っていた。
『た、大変失礼致しましたぁッ』
 薄い繻子幕をさぁっ、と戻し、ビフロンス伯爵は向こう側に消えた。ソーマに浸かったままの俺、溜息が自然と出た。猫脚の浴槽は伸ばした手脚の自由を遮らず、折り曲げる必要も無い。ああ、この身体に適応する設備に苛々する……斑紋が水底で反射して、ゆらゆら揺らぐ。
  
──まるで海洋生物みたいだね

 暗い水辺でライドウに沈められ、弄ばれた記憶が一瞬で甦った。
(深海の生物見た事あるのかよ、妄想野郎が)
 ぞわぞわとしてきた身を奮い、ざぱりと立ち上がる。黒い斑紋の縁は、穏やかな水の色に潤った。それを黒曜石の姿見でぼんやりと眺めた。冷たい床を、たん、たん、と雫が叩いている。先日ライドウに付けられた傷はすっかり癒え、見る影も無い……
『ぁあぁヤシロ様ぁ! そろそろ急がないと!』
 幕の向こうから、やはり慌てる伯爵の声が聞こえてきた。そうだ、ルシファーに呼ばれていたのだったか。今の水浴びが〈何か〉の為の禊にならなければ良いのだけれど。自嘲する俺が、姿見の中で項垂れていた。


「どうしたのだね、矢代?」
 気持ち悪くて吐きそうです、などと云えるだろうか。
「い、いえ」
 舌の上で踊る、蟲の様なイキモノを無理矢理嚥下した。それが喉元を通る瞬間、きっと俺の眼は歪んだ。卓上は晩餐の彩り。でも其処に並ぶのは、とても料理とは呼べない様なブツばかり……とりあえず俺の知る物は無い。そんな物を、銀食器で一口サイズに切り、綺麗な唇に運ぶ堕天使が……酷くおぞましい。
「口に合わぬかな?」
「……そんな事は」
 きっと、面子を保て、と云いたいのだろう。俺を囲む同席者が居るからだ。四体……どれも悪魔らしい風貌。ライドウならば、名前がすらすらと浮かんでくるのだろう。俺にそんな造詣は無い、知りたくも無い。
「そろそろ矢代にも守備範囲を広げてもらおうかと思ってね、此処の魔将らしく」
「守備範囲……」
 ルシファーが舌舐めずりして、その眼が月みたくたわむ。俺の項の角が突っ張り、緊張した。
「だからこうして四凶に君をお披露目しているのだが……?」
 それが合図となったのか、周囲に囲むよう配された悪魔達が、貪っていた口を一度閉じる。
『渾沌(コントン)』
『窮奇(キュウキ)』
『饕餮(トウテツ)』
『檮木兀(トウコツ)』
 ああ、辛うじてトウテツは分かる。ライドウが使役する中に、その姿を見た事があった。今みたく、ずっとぼそぼそ喰らう姿に眉を顰めた覚えがある。口々に己の名を発する悪魔を一瞥して、俺は一応軽く頭を下げた。
「……人間名は、クヌギヤシロです」
 馬鹿らしい、何が哀しくて人間名などと、わざわざ添えなければならないのだろう。
『人修羅……噂には聞いている』
『寧ろオレは知ってる』
『何故人間名云うの? ネ〜ネ〜?』
『ソンナ眼デ見ルナ、食事ガ不味クナル』
 どいつが何を云ったか有耶無耶だ、ほぼ同時に四重奏の悪魔達。俺は呆気に取られて、ナイフとフォークを皿に置く事もせずに口をぽかんと開いてしまっていた。ふふ、と対面に鎮座するルシファーが笑う。
「貪欲な彼等に認めてもらう為、頑張るのだよ? 君の国とは違う界隈の者達だから」
「……何処かに、行けば良いんですか?」
「物分かりが良い、偉いね。君のデビルサマナーが居る時代の、オリエンタルな場所に赴いておくれ」
 うっそり微笑む堕天使の視線が、俺の首から下を舐めていく。それに何となく勘付いて、思考を巡らせる。この席の為に用意された着衣は、民族的なものだった。所謂チャイナだ。当然、男性用。
『ワシ等ノ領域ヲ、荒ラス奴ガ居ル』
『人間の分際で……お陰で良質なモノが流れんわ、糞ったれめ』
 犬頭が、がうがうと吼え猛る。その傍の猪の牙も。まるで獣の寄せ集め、これでは動物園だ。
(動物達が食卓囲んで、肉を喰らってるとか……無い)
 滑稽で残虐な図に、乾いた笑いが一瞬生じてしまう。
「矢代」
 瞬間、堕天使の声と金属音が空気を裂いた。
「っ!」
「微笑みはもう少し上品に頼むよ、私の息子≠ネら、ね」
 真っ直ぐ向かって来た肉切りナイフは、咄嗟に閉じた俺の歯に白刃取られ、未だに振動している。それが歯から伝わって、頭蓋から脳天へ、恐怖を流して往く。
「さ、腹ごしらえしなさい、矢代」
 堕天使の気遣いは、催促であり有無を云わさぬ強要だ。
「っ、ぁ……は、い」
 そうっと口のナイフを手に取れば、微かに切れた舌からの出血に赤く煌く。それがぽたぽたと白い皿に模様を描けば降り注ぐ。
「料理が達者なだけはある、皿にまで彩を忘れぬとは流石」
 残酷な嗤い声。俺をいつも褒めて突き落とすんだ、眼前の魔帝は。
「い、いただきます」
 四凶なる悪魔共が、俺をじっとり見つめる。笑いを抑えてふるふると虎が震えていた。極彩色の魑魅魍魎を銀のフォークに串刺し、何も考えず口内へ運ぶ。味なんか判らない、ただ、気持ち悪い。とても、人間の食べるモノでは……
 いよいよ虎頭が堪えきれず、噴くと同時に盛大なゲップをした。それにつられた俺は、胃から一気に嫌悪感と、酸っぱい何かが込み上げてきた。耐えられない。一瞬で決壊した歯列の堤防は、吐寫の濁流を掌にブチ撒けた。温かなそれが指の隙間から零れ伝い、民族服の袖を染めた。綺麗な刺繍の糸の一針一針が、蒼い華の先端までが……赤く色を変えていく。
「綺麗な瑠璃蝶々が枢機卿の色になったな、やれやれ」
 くすり、と微笑むルシファーを歪んだ視界で見つめれば、優しい声音で返してくる。
「悪意、敵意、貞淑、謙譲……お前にはぴったり、お誂え向きな華刺繍だ、その模様」
『ルシファー閣下、そりゃあ人間の勝手にあてがった花の言葉でしょうに』
「悪くない、彼にはね」
 ああ、もう、早く此処から離れたい。誰が好き好んで自分の吐寫物まみれの服を纏っていたいのだ。
(こんな物、一刻も早く脱ぎたい、引き裂いてやりたい)
 赤い糸を引いて、唇を開いて、漏らした吐息。滲む嫌悪、怒りの禍つ火が胸中にゆらめく。
「矢代」
 その瞬間、ルシファーの声と拡がる翼が空気を裂いた。椅子から転げ落ちる俺に、吹き荒れる鎌鼬の様な疾風が羽根と舞う。いとも簡単に放たれる魔術は、直前まで察する事も出来ず。
「っは、ぁぐっ」
「そんなに脱ぎたいのなら、素直に云いなさい」
 まるで親みたいな、優しい叱咤。しかしその眼は冷酷に俺を見下ろし、嗤っていた。
「っ、も、申し訳御座いません」
 ああ、糾弾ですらない、今の俺の吐く言葉。支配されている、魂の奥底から畏怖している。
 襤褸切れを肌に僅か残して、俺は裸のまま、よろりと立ち上がった。裂けた皮膚はじわじわと熱を持つばかりだ。
『ほぉ、そっちの黒服の方が好きだな』
 犬頭がでかい声で云い放つ。波紋の様に、他の悪魔に広がる嘲弄。注がれる視線のねちっこさ。奴の云った黒服≠ェ何を指しているか、嫌でも解る。
(この斑紋こそ、本気で脱ぎたいのに)
 俺だけが奥歯を噛み締めつつ、羞恥の晩餐会は閉幕した。



『ネェ、あんたサァ、ちょ〜っと悪魔的にまあまあなルックスしてるからって、チョーシこいてない?』
「……別に」
『つかサァ、ちょっとは喋ったら? こんなに可愛いアタシが必死に話しかけてんのにサァ?』
「煩いから黙ってて下さい、俺は悪魔が嫌いです、用事が済んだら君ともすぐに別れます」
 キイキイ喚いていた小さな地霊幼女に、ぴしゃりと撥ねつける様に述べた。すると彼女はピタリと停止して、ピクピクと頬を引き攣らせた。
『むっかぁ……! 人修羅! マジでお高くとまってんじゃ無い? アンタなんざルシファー様の命令でもなきゃ丸焼きにしてやってるトコ』
「……花魄(かはく)」
『あによぉ?』
「君が協力してくれなかったら、今回の用事は長引く。君は魔力が干からびる……でも、同行する俺からしか魔力は吸えない」
 小さな赤い頬が、更に赤くなる。
「俺は悪魔が嫌いですけど……一緒に居たく無いからこそ、用事は早く済ませたいんです」
『……っきぃいいいいい!』
 いきり立つ彼女に、胸が微かにすっきりしている俺は、間違いなく悪魔なのだろうか……
 白けた空色、銀楼閣を後にして、かなりの距離を移動してきた。
『ネェ、あんたの御主人様ってそぉいや今どーしてるワケ? 悪名高い葛葉ライドウ!』
 周囲に人が殆ど居ないのを確認してから、ぼそりと返答する。
「さぁ? 俺の知った事じゃないんで」
『ハァ? いちいち云い方がムカつくわねアンタやっぱ! 首吊って死んでもアンタんトコには生まれてやんね〜! 絶対!』
 なんでそんなに元気なんだ、寧ろ尊敬したくなる覇気。俺は悪魔の少女に負けている。
「でも、確かに……どうしてるんですかね。俺がケテル城から戻る日は、いつも待ち構えているんですけど、あいつ」
 そう、確かに妙だった。鳴海も行き先を知らないし、ゴウトが留守している訳でも無い。あの銀楼閣という建造物から、俺の主人の気配は失せていた。
『ヤタガラスっつ〜怪しい集団のサマナーっしょ? ソコの仕事じゃない?』
「悪魔が人間の集団を怪しい≠ニか云うの……どうなんです、それ」
 花魄のケタケタと笑う声が耳障りだ。先刻の様に云われ、実際そうだと納得したい俺が此処に居る。そうだ、でなければ……何処へ行ったというんだ、あの男。
『ネェ、今回何したら用事ってのは済むワケ?』
 ふと、飽きたかの様に無気力に聞いてくる花魄。まるでクラスの女子が談笑を止めた瞬間に似て、むず痒い記憶が甦る。
「とある中国人のサマナーが居る、そいつがあの四凶って集団にとって邪魔らしい。何かの流通をストップさせてるそうで」
『殺んの?』
「俺は……人間は殺さない」
『何それぇ、目ぇ醒めてる? アンタ』
 彼女にとっては馬鹿な冗談に聞こえるのかも知れないが、俺は至って真面目だ。こんな事に手を汚して堪るか。同族を……人間を殺して、堪るか。
「邪魔って事は何か理由があるんでしょう……だから、それを止めさせれば済む話です」
『ぶっ殺せば早いのに』
「俺は悪魔とは違う」
 呟いて、踏み入れるチャイナタウン。日本人向けの看板がゆらゆら薄暗がりに揺れている。
 聴こえてくる会話は、人語に聞こえない。こういう時にライドウが居れば、きっと軽やかな足取りで闊歩しているのだろうに。
『ネェ、その中国人のサマナーってさ、人間の中でもビミョーな奴なんじゃない? 悪魔の物をパチってんでしょ?』
「でしょうね、きっと相容れない」
『アンタ、このまま頭っから突っ込むの? 悪魔ってバレんじゃない?』
 朱色の欄干が艶やかな橋を渡る。人の気配が薄れてから、傍の花魄に返した。
「悪魔じゃない、俺は半分人間です」
『あっそ』
「相手はサマナーだと素性は割れている……つまり悪魔を利用して何かやらかしている、という事です」
 暮れてきた空の中、建物が光を灯し始める。まだ殺してもいない俺の肌に、夕陽が赤く飛沫を浴びせる。
「だから、その悪魔だけ≠処分すれば良いでしょう」
 そう発した瞬間に、花魄の眼が歪んだ。俺が悪魔を見る時と同じ、嫌悪の眼だった。居た堪れなくなって、ふいと視線を逸らした。日本人も中国人も判らない、人混みへと。
「……えっ」
 人種なんか、同じ亜細亜で判らない。でも、その中ではっきりと、鮮明に俺に訴える存在を感じた。
 傍で何か云いかけた地霊を無視して、場違いなスニーカーで駆け出す。疑問より先に罵声が出始める。
「ライドウ! あんた何やって」
 脚が止まってしまった、ぶつかる数歩手前。まじまじとその相貌を見つめる俺、それは向こうも同じく。
 艶やかな黒髪は烏の濡羽色。高い背、すらりと伸びた脚。孔雀睫毛も切れ長な、闇色の眼だ。
「ラ、イドウ? じゃ、ない……んですか」
 思わず語尾は疑問の上がり方をして、ゆるゆると小さくなる声量。訊ねておいて、自分から消えたくなった。
「ワンシャンハオ」
 首を少し傾げ、くすりと笑って俺に何か云った。胸は膨らんでない、やはり男。だが、その身を包むチャイナドレスが倒錯させる。
「こ、紺野……夜じゃ、なくて?」
 我ながら情けないくらい小さな声で呟いた、問い質してない、ただの独り言みたいになってしまった。するとそのライドウ似の中国人は、ひらりと扇子を取り出す。
「ヘンガオシンレンシニー」
 涼しげな眼元だけ覗かせて、俺を見据えつつ扇いでいる。その瞬間、脳髄に鋭敏に伝わる香りが、身体を勝手に動かしていた。
「何云ってんだよ……あんた」
 その扇を掴む手の、腕に掴みかかってやった。相手の強張る筋。さあ何が飛んでくる? 蹴りか? そうだろ?
「ブゥヤオ!」
 だが、俺の予測に反して、そのまま扇子で頬を弾かれた。奔る熱は蚯蚓腫れの感触。片脚で踏み止まれば、眼前の中国人は俺を睨んでいた。おかしい、おかしい……だって、声もそれっぽい。シルエットは一致している、この時代には滅多に居ない、モデル体型だ。
『ちょっと、何先走ってんの人修羅! アンタ言葉解んないでしょぉが』
 赤く小さな生き物が、背後から接近してくるのが視界の端に見えた。俺の傍らまで来ると、翅を落ち着かせジトッと見つめてくる。
『……あによ、知り合い?』
 視線だけ、花魄に投げかけた。するとぎょっとして、彼女は戦慄く。
『そんなサァ、縋る様な眼で見ないでョ』
 溜息ひとつ吐き出し、俺に対面している問題人物へと一瞥くれた花魄。
『アタシに続けてよ、訊いてやっから』
 云うなり彼女はすらすらと異国語を述べ始める。俺は弾かれた様にそれに追従した。ブレスの位置すら解らない謎の言語を吐寫し続ける。そんな俺を怪訝な眼で見るライドウ似、扇ぐ仕草すら優美で……そんな所作すら似ていた。
「ブゥヤオ ダーラオ ウォー……」
 何か返事された。扇子をパチリとたたみ、その根元に提がる銀糸のタッセルを爪先に弄んでいる。
『今わたしの事分かりません?≠チて訊いてやったけど……ほっとけ≠チてさ』
 花魄の翻訳は、半分しか頭に入らなかった。そうこうしている間に、眼の前から奴が消えようとしていたのだ。
「ま、待って!」
 俺の制止は届かず、口角をニィと吊り上げ颯爽と歩いて往くそいつ。向こう側には黒光りするリムジン。ややアンティークに見えるのは俺が未来人だからだろうか。左ハンドルの運転席から顔を覗かせた男が、呼びかけている。
「イェニャン」
 その呼び主に、まるで召し寄せられたかの如く……奴は澱みない歩みで其処に向かって行った。俺を振り返りもしない。人も通るこの道で、憚る事なく唇を寄せ合っていた。その光景に、背筋が凍った。喉奥から、嫌悪が漏れる。
「……ぅ」
 あんな、ライドウと瓜二つの姿で……全く素知らぬ中年男性と……やめてくれ。
『だ、大丈夫アンタ……封神台にでも飛ばされてたん?』
 花魄の声に引き戻されて覚醒する、視界から既にリムジンは消えていた。
『あのまま道なりに行ったけどぉ……エ? どうよ?』
 彼女に返答せず俺は脇道へ、隙間の暗がりへと脚を伸ばす。なるべく背の高い建造物を、瞬時に選別して。
『返事くらいしろっつ〜の、むっかァ……ん、ぎゃッ』
 不貞腐れた花魄の翅を指で掴み、襟から突っ込んでパーカー内に押し込んだ。擬態を解除して、全身に魔力が充ちるのを感じつつ、壁を蹴り駆ける。この地帯の煉瓦は脆く、稀に踏みつければ欠けてしまうが、そんな事に心を痛める程、冷静ではいられない。天辺まで到達すると、歓楽街の光が夜光虫みたく夕闇にぼやけていた。上から眺めるとその光は海洋生物みたいだ。
「……深海の生物、見た事あるのかよ」
 独りごちて、虚しく失笑した。悪魔的な視力を得たこの視界で捜せば、あのリムジンはすぐに捉える事が出来た。





 今回の調査対象《韓愈(ハンユゥ)》
 熊みたいにごつい容姿、中肉中背、無精髭。青幇(ちんぱん)なのか紅幇(ほんぱん)なのか定かでは無いが。どうやら、そのどちらにも属していない模様。警戒心の強いデビルサマナー……特に、悪魔に対しての警戒が頓着だ。彼自身の戦力は大したものでは無いが、その韓非子(かんぴし)でも読んだのか?≠ニ確認したくなる口上には納得する。
 しかしどうして神は人間を完全体にせぬのだろうか。この男、陰徳にはめっぽう弱い。
「韓愈」
 取り入るのは容易かった、僕が男であるのも要因のひとつ。女性への警戒の方が、幾許か強いから。
 僕がこの様な件に駆り出されたのはそれなりの被害が出ている≠ニいう実情が有る為だ。拉致、人身売買、まあまあよく有る話。ヤタガラスに噂が舞い込んできた理由は悪魔絡み≠セから。
 所属せぬサマナーは有害と見做すのが烏の常。そしてこの中年男、雄しか愛さない。まず接近したがる者は機関に居らぬ。それでも数人充てられたらしいが、駄目だった。
「フェァコウマー?」
 そして今、僕の眼前に並べられている駄目だった<Tマナーが、皿上で僕を恨めしげに見上げている。
「ヂェンディヘンハオチー」
 美味しいよ、と返せば、満足そうにニタニタ笑って、僕の唇に付着した赤い血を、ぬめる舌で拭ってきた。やや錆臭いソース。まず、これが食せねば、この男の信頼と共感は得る事が出来ぬのだから、確かに酷といえば酷である。
「ティェン」
 甘い甘いと呟き唇から血を舐め啜る男、悪魔に等しいその陰徳行為。ちくちくと刺す髭が、僕を苛々させる。
「ティエン……イェニャン」
 僕は舌で返す、眼で堕す、微笑んで、脚をスリットから差し出し絡ませる。動く度に、首輪の鎖がしゃらりと鳴った。この拘束癖は、サディズムというよりは小心がさせているのだろう。
「夜娘(イェニャン)」
 そんな偽名、呼ばれても答えるのは上辺だけだ。何も気持ち好くはない、寧ろ吐き気がする。だが、そんな脂ぎった指に慣れきった僕は、善がる吐息を漏らす事すら厭わない。
 僕を最終手段とし、帝都守護すらおざなりにさせる訳だ。此れを僕がカラスから請ける事は、果たして愚かしいといえようか。
「ん、ふ」
 老いぼれ烏達に犯されるのとは、全く違う。見返りが間違い無く有るという事が重要だった。
 このサマナーの背後に在る、悪魔達の中に……どれだけ僕の知らぬ種が居るだろうか?
「は、ぁ……んむ」
 椅子の上でまぐわいながら、其れを夢想し僕はほくそ笑んでいた。ヤタガラスに回収悪魔を全て流す筈無いだろう? そう、ピン撥ねというやつだ。これは悪徳なのか? 超國家機関の勅令なれば、それを受けただけで光栄か? それ以上を欲しては駄目だろうか?
「ひ、ひぃ、っ、あ……ぁ、んぅ」
 下を繋がれたまま、寝台に運ばれる。背のある僕を運ぶのは一苦労と思うが、かなり興奮しているのだろうか、大して苦でも無いらしい。確かに、僕と同等な背丈に加え筋肉も隆起している。実際熊の様な奴なのだ。
 ドサリ、と韓愈が寝台に腰を下ろせば、膝上の僕にいっそう打ち込まれる肉。それにいちいち嬌声を上げてやれば、こいつは満足そうに鼻を鳴らす。
 下から滲む歓喜のMAG(マグネタイト)すら脂質過多で食中りを起こしそうだなと、可笑しくて思わず胎に力が篭った。すれば韓愈は、締め付けられ更にご満悦らしく、ドレス上から臀部を撫でてくる。
 見る限りでは……この刺繍の金糸や銀糸すら、退魔の加工が施してある。確かに、悪魔には着こなせぬだろう。美しい絹の支那服、悪魔を信用せぬ悪魔使いの拘束具。釘錫繍の華や蝶柄……貴州省の黄平出だろうか、このサマナー。注文服や首輪、今こうして腰を下ろしている寝台のシーツひとつ挙げても、妙な気配を感じる。
(どれだけ悪魔を警戒しているのやら、悪魔使いの癖に)
 ヤタガラスが気軽にサマナーを寄越せぬ訳だ、此処まで辿り着いても悪魔が使役出来ないのだから。悪魔という悪魔をことごとく打ち祓う呪具、装飾、この屋敷で数えきれぬほど確認した。
「黒牙(ヘイヤー)」
 韓愈が僕を犯しながら用心棒を呼ぶ。この男、飼い慣らしたヘイヤーという黒豹にしか気を赦していないのだ。勿論この黒豹はただの動物……悪魔では非ず。一方、のそりとペルシャ絨毯から身体を起こす黒豹。
 背後から僕の両脚を観音開きさせ「ドゥズーメイェァマー?」と、その豹に聞いている韓愈。腹は減っていないか?≠セと。
「はぁ〜ッ、は〜ッ……はぁあ、っ、ぁ、ふ」
 ザラザラした別珍みたいな黒豹の舌に、僕の勃ち上げられた雄が嬲られる。突っ張った皮を、刻まれた脈を、圧迫摩擦する。畜生に舐められ、畜生が如く舌を垂らす僕に、背後の男は嗤った。黒豹の唾液と、僕の生理的に先走った液が混濁して、後孔へと流れ伝い……結合部の水音がいっそう響く。
「良いモノが手に入ったんだよ=v
 その体位のまま、耳元で囁かれる異国の言葉。きっと僕の使役するアレにとっては言語にさえ聞こえぬのだろうな、と脳裏を過ぎり、少し笑ってしまった。何せ、先刻だって悪魔に翻訳させていた程度なのだから。
「今宵お披露目しようかと思ってね、夜娘と一緒に=v
 ぺろり、とついでに耳を舐めていった韓愈。鼓膜に粘着質な音が直通し、思わず背中をついとしならせた僕。向かい壁の鏡に映った顔は淫靡だと、自分でも感じる。嗚呼、これで問題無い。
 このサマナーの仲間も仲魔もおびき寄せ……僕とゴウト童子で、打尽出来るだろう。武器は無くとも戦える、現地調達で十分だ。
「ほら、御覧=v
 黒豹を除けさせ、繋がったまま運ばれる。僕の腕は、自然と背後の男の太い首に回される。
 縋る仕草は服従の証、これに心酔するのは人間の愚かな性だから。そうして酔わされたこのサマナーは、鏡の前まで来ると片脚をつい、と前に出す。毛深い熊の如きごつい手脚が、接近した鏡面に鮮明に映りこむ。なにやら可笑しく失笑しそうになり、僕は唇を噛んだ。
「君もきっと気に入るよ、夜娘=v
 その熊脚が、ずず、と鏡を横にずらしていく。光の反射が入り乱れ、その鏡が普通の鏡で無い事に気付いた。これは硝子鏡だ、明るい此方側からは普通の鏡に見えるが、向こう側からは此方の空間が薄っすら見えていたという事になる。
(フン、悪趣味め)
 普段の自らを棚に上げ、未だ僕を貪る捕食者に呆れた。別に構わぬ、見られる事には慣れきっている。涎を垂らして、猿神が如く紅潮したその面を逆に見せてみろ。
 ずるずると、その境目が開けて往く。この男の仲間共が催している、浅ましい空間が向こうに在ると、そう思っていた。
「………ぐ……っひ、ぅ」
 漏れてくる微少な喘ぎ。苦しげに嗚咽される呼吸、歓びからは程遠い苦悶が刻まれている。眼を思わず見開いた。その苦痛の声音は、ボルテクス界から僕の鼓膜をずっと揺らし続けてきたのだから、聞き違える筈も無い。
「ぅ、ぁ、ぁ、よ、る」
 喉奥が、引き攣る。僕を間近で見上げる、斑紋がくっきりと浮かぶ半人半魔が、ぜえぜえと這いつくばって居る。身体には呪文の刺繍された帯が、ぐるぐると巻きついていた。
「綺麗だろう? アゲハの様な黒紋様が=v
 唇を寄せてくる韓愈が、うっとり呟いた。その動きで、ぐじゅりと結合部が主張する。
「ぅ、ぅぐぇええぇ」
 零距離で見てしまった半人半魔が、眉を顰めて胃液を吐き散らした。今までの淫行を見ていたのだから、きっとこの吐寫は数回目だろう。
「上手く捕まえられた、まるで蝶々が如く飛んでいたよ=v
 知っている、身体能力くらい。
「完全な悪魔とは違う様でねえ、簡単な退魔具は通じなかったよ=v
 知っている、半分人間で半分悪魔という事くらい。
「強い魔力を感じるが、如何せん策謀がなっていない……あっさり騙されてくれてねぇ=v
 知っている、浅はかな事くらい。
「そうそう! 今宵の晩餐の為に、まだ下ごしらえも施してないのだよ! なあ夜娘はどう食べたい?=v
「……」
「翼侯炙? 鬼侯臘? 梅伯醢?(炙り? 干し? 塩漬け?)」
「……」
「夜娘?」
「喰らうのは……」
 回していた腕を、その太い首に強く絡ませ、絞め上げる。
「コレを喰らうのは僕だけだ!」
 突如、日本國の言葉を喚いた僕にぎょっとした韓愈は、背後の豹に号令する。
「ッグ……黒牙ァ!」
 僕は腕を緩ませ、韓愈の両膝を踏み台にずるりと離脱し、間合いを取った。
 その黒豹が此方の喉笛に咬みつく、という算段だろう?
『チッ』
 第三者の、舌打ちの様な声がした。発生源を視線で捜す韓愈にその″封^が喰らいつく。噴出した赤は、黒い毛並みを艶やかに濡らす。韓愈の脚を引き裂きつつ、黒豹がようやく牙を引き抜き吼えた。
『ライドウ! 何を血迷うたか! このうつけ!』
 がなりたて、流石に普段の黒猫よりも迫力のある器で威嚇してきた童子。
「文句がお有りでしたら、其処の人修羅にどうぞ」
 僕は口早に述べ、己の首から伸びる鎖を手繰り寄せると、立てなくなったサマナーの首へと直に巻きつけた。嗚呼、どうしてか血が滾る、苛々する。
「可悪(腹立たしい)」
 この苛々を、絞め上げる鎖に籠めた。自身の後孔から流れ伝う残滓が、更に煽る。
「可悪!(忌々しい!)」
『おいライドウ! 殺してしまうぞ!』
 ゴウト童子の警告に、寸前で止まった。鎖を弛めれば、失神し舌をだらりと垂らした韓愈。いつの間にやら、僕は馬乗りになって暴行に及んでいたらしい。
「ぅ……」
 鏡の傍、暗がりで呻いている人修羅に、てらてら濡れたままの脚で歩み寄る。鎖がじゃらじゃらと煩く響く。
「がはぁぁッ!」
 その汚れた頬を蹴り上げ、吹っ飛んだ裸の彼の顎を掴み、面を上げさせる。金色の光が潤っていた。
「どうして帰らなかった? 放っておけ、と、傍の花魄にも云った筈だが? ねえ功刀君」
「は、ぐぅ、ぁ」
 巻きつく帯が、魔力を吸っているのか……指で掴むと、じゅ、と皮膚が灼けつく感触がした。他に除き方が在るという事なのだろうが、気にせず引っぺがす。人修羅の表皮を攫いつつ、拘束具が解かれていく。
「あぐ、い、痛ッ! ラ、イド……」
「浅はかな己を呪い給えよ」
 僕の指には熱が燻るだけだが、半分悪魔の人修羅には喰らいついていた様で、吸血した帯を傍に捨てた僕は、呆然と見つめ来る金色を捉えて詰る。
「僕の仕事、解っている? 君に説明も無く取り込み中なれば、それは工作と知れよ、功刀君」
「……城から戻ったら、居なかった」
「確かに、君を放置するのは僕としても好ましくは無い……が。この件、君は不在の方が都合良くてね」
 ガルルと唸りつつ背後から黒豹がにじり寄って来る。開いた眼はいよいよ翡翠の色を宿し、煌いていた。本来の器の眼とは、違う色。ヤタガラスはまるで手伝ってもらえ≠ニいわんばかりに、用心棒の死体だけは用意してみせたのだ。これには童子も半ば呆れ、溜息していた。黒牙へと着替えた童子によれは、その用心棒は広い庭をぐるぐると見張るのが習慣だったらしい、おそらくそこを狙われたのだろう。
『人修羅よ、お主は妙な情にほだされ、人間というイキモノに理想を抱き過ぎてはおらぬか?』
 豹の鳴き声に、魔力の囁きを解した人修羅が唇を開く。
「ご……ゴウト、さん、ですか……?」
『黒い猫には変わり無いであろう? 我とて魂の術は心得ておるでな、条件さえ揃えば、成り代わる事は容易い』
 艶めく鼻を鳴らして、僕の脚へと黒い尾を添わせる……が、ピタリと止め、つい、と離していった。その反動でチャイナドレスの裾がふわりと揺れる。
『だからとて、まさか十四代目に奉仕する事は想定外だったがな』
 その鼻の艶は、僕の垂らした液だろうか。可笑しくて含み笑いをしていれば、震える声で人修羅が吐き出す。
「あんな事、よく出来ますね……!」
『此処のサマナーを堕すには手っ取り早い。まぁ、我の案では無いとは進言しておこう』
「ライドウですか? 其処の悪趣味野郎ですか……っ? ねえゴウトさん!」
 嫌悪を滲ませた声音と、睨みあげてくるその金の眼が近くなる。
『おい人修羅! もう打ち切りだ、そこの韓愈というサマナーの仲間が来る手筈であったのが、これでは説明がつかん』
 云いつつも、僕を下からねめつける翡翠の眼。僕の下した思わぬところでの暴力に、きっと童子は辟易している。
『そうであろう、ライドウよ……このサマナーを裏から操作する事も、最早叶わん』
「フフ、ですね……一先ず、この男だけ回収して帰りませう、童子」
 あとは烏が適当に啄ばんで、吐かせるだろう……他の仲間の事を。悪魔の場所を。
「残念だ、せっかく淫猥サバトと引き替えに、新種の悪魔が手に入ると思ったのに……ククッ」
 ぐい、と首の鎖を掴み、標的であったサマナーの喉元を仰け反らす。突如、張った金属の鎖が、糸切り鋏で裁断した時の様な悲鳴を発した。ゴツ、と絨毯床に頭蓋を打ち付け、より昏迷に陥ったであろうサマナー。僕は片脚で踏み止まり、原因を睨みつけた。
「功刀君は先刻から邪魔ばかりして、何が気に喰わないのかな?」
 僕と床の男を繋げていた鎖を、その細い腕で断ち切った君。魔力の流動に反応してか、耳鳴りがする。部屋のあらゆる呪具が人修羅を咎める。
 彼の指先から迸った光の刃は形を潜め、諸刃の如く、黒い斑紋の縁から鮮血を噴出させていた。
「ほら、馬鹿だねぇ本当、此処は魔力が跳ね返る……だから仲魔を避けてゴウト童子にまず潜って頂いた訳だが……そこのサマナーの愛玩動物の器を奪ってまで、ねえ」
「……に……喰わない」
 だらりと、樹液みたいに甘い蜜を滴らせて、紅く染まった腕を抱く彼。
「気に喰わない」
 はっきりと述べた人修羅、その憎悪の滾る眼に、僕は昂ぶる。きっと浅はかな君は、無暗に魔を揮い自滅する。その可笑しな姿を見て、哂ってやろう。
 ドレスの隙間から鋭く蹴り放とうかと、僕の脚が動き出す。
「どうしてあんたが鎖に繋がれてんだよ……ライドウ」
 スリットを割り、刺繍の華を揺らすだけに終わった。
「繋がれて飼いならされるなんざ、フリだとしても赦せないっ!」
 苦悶の金色が、僕を射抜く。止まったままの僕の脚を無視して、君が背伸びする。
「俺を飼いならす鬼畜野が……ッ、どうしてこんな物提げてんだぁあッ」
 僕の首元の金属輪を、その華奢な両手で掴み上げる。僕の頬に、熱い君の飛沫が降り注ぐ。肌から既に来たる、甘美な魔の気配。金属だけを蒸発させる人修羅の、指から、腕から、爆ぜる血飛沫。泣きそうな悲鳴をぐぐ、と口に閉じ込めて、君は鎖を抹消させんと魔力を解放し続ける。
『人修羅……おい功刀!』
 黒豹のゴウトが声を上げた、呆れを情に変えたのだろう。が、眼の前のしなやかな獣には聞こえていない。そう、ただ純粋に憎いのだ、この僕が。
「安心おし、僕の悪魔」
 唇の端が吊り上がる……己の身を裂いてまで僕を赦さぬ君が愉しい。ねえ、その眼にどうして不安が滲む?
「君を飼う事は止めぬから」
 融けきらぬ鎖の端を掴むと、妙な熱さに指先が焦げ付く。女性に似せて長めに揃えた、桜貝の色をした爪先も欠け。焼け付く鎖を、君の細頸にしゃらりと掛けた。
「っ……ぁ、ぁああぐぁあ熱……あづ、ぃぃッ」
「ねえ、苦しい? 僕に繋がれるのは……」 
 その頸と、悪魔の突起を焦がす鎖。呻くその小さな唇に、哂いつつ吸い寄せられた。
(返事を求めず、呑み込んでやろう。優しいデビルサマナーの僕が、ね)
 人修羅の血で、部屋一面、紅い華が咲いた。どんな技巧を施した壁紙よりも、美しかった。





『信じらんねぇ〜ッ! どぉしてアタシがゴミ屑と一緒に廃棄されなきゃなんないのよッ』
「……だから、それに関しては謝罪しましたよ、俺」
 ケテル城の廊下はひんやりとしている。傍の花魄が一人でカロリーを担当しているのか、問いたい位に喧しい。が、確かに仕方ないとは思う。俺のパーカーと一緒くたに、丸め捨てられていたのだから。
『そもそもアンタがね、あんなヒョイヒョイ云う事聞かなきゃねェ!』
「……ライドウに、まだ死なれちゃ困る」
『あ〜んなおっかないデビルサマナーだったら、オッサンのいいなりになってる訳ねぇじゃんッ! ってかムカツクんならどぉして心配すんの? イミフ』
 花魄の発言に、ライドウの……里や機関からの扱いを思い出し、ぞわぞわした。
 そのまさか≠ェあるから、俺はあの瞬間……
『って、あぁ〜アレ見て見てぇ』
 赤い総身を舞わせ、俺の傍らから窓辺へと飛んだ花魄。溜息を吐きつつ、俺は追従する。暗い窓の外、眼下に見える悪魔達。
『あそこの赤! 最近生まれたコ、あたしの後輩! 二つ名はムーランってゆ〜の!』
 視線を追えば、確かに。今此処で喋る花魄と瓜二つの悪魔が、妖樹に留っている。
『ど〜して生まれたか知りたい?』
「別に」
『あのねェ〜』
 有無を云わさず、俺の声を遮って彼女は愉し気に述べ始める。窓辺の、アイアンのリムにもたれ、饒舌に。
『首吊って死んだから、三人』
 俺の眼を探る様に、残酷な子供の笑みで。
『だかんさぁ、あのチャイナタウンのサマナーからどんだけ吐かせても無駄だって』
「それと何の関係が」
『だって、首吊ったの、そいつ等の幹部だっしぃ〜……ま、噂よウ・ワ・サ』
 ライドウから聞いて知っている。三人以上首吊りされた木から生まれる悪魔なのだと、花魄は。
『やっぱアレかね? 漏らさない様に消されたんかね〜? どー思う人修羅?』
 何故、俺に聞く? 何故、俺を笑う? 下手に介入した俺が悪いのか?
『ま、情報漏洩はしなかったけど、死体からは糞尿垂れ流しだった訳でぇ〜そこは漏洩?』
「煩い」
 その、カラカラと笑い転げる姿を尻目に、一言発して窓から離れる。
『アタシの妹、生んでくれてあんがとぉね〜ヒ・ト・シュ・ラ』
 花魄の声が俺をまだ糾弾するかの様に聞こえて、足を速めた。ああ、眼の奥が、熱い。
 どうせあの界隈を牛耳ってたんだろう。それなら、消えてしまった方が世の為だったのではないか? その首を吊るに至った奴等は、人間に害を及ぼしていたのだから。
 そうだろう、俺はいつか下される裁定を早めただけだ。


 晩餐会の扉を開く。先日と同じく着席している面子。出来れば、これを最後の晩餐にしたいのが本音だ。
「おや、遅かったな矢代……君の主人の方が、先に来ているぞ」
 真正面、向かいに鎮座するルシファーが、白い指先を口元に躍らせ嗤った。俺の為の席……の隣、黒い影が視線を寄越した。 堕天使が面白がって人間のコイツを招くのは、よくある事だった。
「主役だからとて、遅れて出席かい?」
 冷たい色の眼が俺を刺す。食事の席だからか、あの学帽は膝上に置かれ、額に斜に掛かる黒髪が際立つ。その胸元から下まで確認すれば、どうやら武器や管は持込みを禁じられている様子。
「ライドウ、祝いの席なのだから、躾は別の機会に頼むぞ?」
 うっそりと微笑む堕天使に、口元の笑みで返すライドウ。その横顔は何も臆してない、人修羅である筈の俺より、強かに其処に居る。
「過保護でしょう、ルシファー陛下」
 時折、連中が妙に親し気に見えるのは……俺の気のせいか?
『しっかし突き止めるの早かったの、人修羅、ヒント無しだった割に』
『思っていたより強行派かい?』
 四凶がやいのやいのと、既に飲食を開始している。豪奢なクロスに、その喰い滓が散り、気分が悪い。
「先方にて、人修羅と出くわし……結果共闘となりましてね」
 クスリと哂うライドウ。囲む悪魔達と同じく飲食しているのに、どうしてか奴は優雅だ。
「ほう、では君も今の矢代みたく、其処のドレスコードを尊重したのかな?」
 赤い何かを呑むルシファーが、グラスを傾けて聞いている。液体が揺れる赤い歪曲面に、ライドウがぐにゃりと映った。
「ええ、纏いましたよ、民族の服」
「ふふ、今度見せて頂きたいな……ところで矢代、どうしたのだ?」
 突如矛先が変わり、食器に指すら伸びていない俺は、びくりと身体が揺れた。
「はっ、はい!」
「先刻から、会話ばかり流し込んで。いい加減モノを流し込みなさい」
「ぁ……」
 素直に、その勧めに「はい」と云えるだろうか? 確かに、皿上は先日の極彩色とは違う。彩りは、人間の食事に近い。
『ようやっとそこそこのモノが流通するの、これで』
 檮木兀と思われる悪魔が、長い毛の隙間から牙を剥き出しにして笑いつつ述べた。そして皿上の肉に牙先を引っ掻け、ぶん、と掬い上げる。
『コリコリしてる耳がうめぇんだわな……あぁ、この肉は実直たぁ云い難いんで、鼻肉はパス』
 その傍で、窮奇と名乗っていた虎がゲラゲラと食む。啜る音、咀嚼音、嚥下する音……
(何の肉…だよ)
 先刻からの寒気に、肩が震えた。すると目敏いルシファーは濡れた赤い唇を開く。
「民族服は薄いか? 膝に掛けてやろう、矢代」
 サイドに置かれたグラス、その縁に黒い爪でカツカツ、と鳴らせば、垂れ幕の影から蝙蝠羽の鬼が躍り出る。その腕に、黒い毛皮を携えて。
『脚を失礼致します』
 ガーゴイルだろうか。椅子に座る俺の傍に跪き、その黒い毛皮を掛けようとしてきた。が、ぶらりと垂れ下る質量に気付いた俺は、瞬時に撥ね退けた。その衝撃で、鬼の尖った耳が壁まで飛んで、びちゃりと音を立てる。
「ゴ、ゴウト、さ、ん……!?」
 戦慄く俺に、ライドウは横目のまま平然と呟く。
「落ち着き給え、ゴウト童子はあの後すぐに元の器に還っただろう、人修羅」
 はっとして、刎ねつけた黒豹の毛皮を眺めた。恨めし気な瞳は、翡翠ではなく濁った白色だ。そう、器にされていた黒牙だった。ここで再利用とは、どういう流れだ、ライドウがルシファーにくれてやったのだろうか。
「まったく、早とちりだねぇ、矢代は」
 はははと朗らかに、しかし嘲弄を滲ませて笑うルシファー……つられて周囲の四凶も笑った。
『不要でしたら控えます』
 耳を俺に刎ねられたガーゴイルは、その黒豹の残骸を持ち直して、幕に帰って往く。俺からの理不尽な暴力を黙って受け流す、その姿に苛々する。どうして、俺を蔑んだ眼で見なかった? あんな、勘違いで、身体を削がれたんだぞ? 俺がそれをするのは、当たり前とでも云いたいのか?
『いやしかし、人間ふぜいが、この味を真に理解していたとは思えんな』
『尤モ! 肉ト臓器ノ流通ハ、美食家ノ我々ニトッテ重要デアル! デカシタゾ人修羅!』
 ああ、やはりそうなのか。
(違う、違う、俺は……俺はそんなつもりじゃ)
 俺があそこでライドウの邪魔をしなければ、ヤタガラスが捕らえていた? 流通は止まっていた? いや、あの中国人のサマナーが横取りしていたのだから、どのみちこうなる……筈。
「さあ、啜りなさい、矢代」
 ルシファーの声に、スルスルと卓上のクロスが廻る。と、俺の眼の前に来たのは輝くグラス。虫唾の奔る、肉のジュースがたゆたうソレ。
「さあ」
 声には、強い力が篭っている。声量ではなく、魔的な何か。
 魔界に流れる筈の肉を、食用臓器を横取るのは、実のところ人間だったんだぞ……?
 人間とは、はたして俺が思う程……綺麗なのか?
 嗚呼、悪魔に喰わせてなるものか……だが、その歯止めは人間にすり替わっただけであり、結局人肉は食まれていたじゃないか。人間を優先した俺は、この食卓より酷いカニバリズムを赦した事になる!
「は、い」
 唇がぱくぱくと、勝手に返事した。もう脳内の柵から逃げたかった。俺は……食む事で、赦されよう。
 薄く笑うルシファー……きっと今回、俺が葛藤する事を解っていてやらせたのだと思う。
(喰えば、赦される、喰えば、まだ半分……同族で居られる)
 贖罪か? その食材は酷く背徳の味を蓄えている筈なのに?
 それは本当に贖罪か? 本当に食材か?
 伸ばす指が震えない様に、腿に下ろした指先で、椅子を掴む。共振しない様に、決意がぶれない様に。みきり、と椅子が軋む。逃げたい、本当は……本当は、俺は!
「それにしても、本当に美味しゅう御座いますねぇ、四つ帝よ」
 俺が伸ばした指先はグラスに触れる事無く、横からの声と共に攫われていった。
「あ」
 隣から伸ばされた腕、席からやや腰を浮かせた彼から、ふわりと脳髄に薫るあの香。馬鹿みたく間延びした声を発する俺を尻目に……
「使役悪魔の物は、僕の物でしょう?」
 ぐい、と酒を呷るかの如く液状化した人間≠、その綺麗な形の唇へと流し込んでいった。
(どうして)
 身体は別の意味を持ち、震える。嫌悪感と恐怖は……慟哭へと味が変わっていく。
『やや、其処なるサマナーは解っておるな……そうそう、他者の分まで喰らいたくなる程だわな』
『人間の癖に、良い食みっぷりだの! クケケ』
 無責任な酔っ払いみたいに、四凶がライドウの呑みっぷりを絶賛した。俺の物を横取りした事については、怒っていない様子だった。
「やれやれ、過保護はどちらだ?」
 四凶のがやがやと囃す声の中、堕天使の呟きがライドウへと真っ直ぐ放たれたのを、俺は聴き逃さなかった。



「あんたさ、そんなに美味しかったのかよ、あれ」
 結局は、傍を数歩遅れて僕に追従する人修羅。鎖がある訳でも無いのに、毎度それは澱み無い。
「人の味覚こそ千差万別だろう? 今の君に味の感覚が大して無い様に……ねぇ、功刀君?」
 当人が気にしてやまない悪魔の体質を、態と挙げてみればすぐ声が返る。
「悪趣味」
「フフ、賞賛として受け取っておくよ」
 晴海からの電車に揺られる。どうして黄龍を使わないのか? と聞かれたなら、まだ人の気が多いから、とでも答えれば良いのだろうか。
 夕闇迫る車窓に映り込む君の横顔。人間の形に擬態して、ケテル城で用意された民族服を纏うままだ。車内に数人しか居ない乗客が、ちらちらと振り返る。深い藍色のそれはお世辞では無く、こざっぱりとした彼に似合っていた。
 自慢の愛玩動物は見せびらかして歩きたい、と云ったろう?
「あのサマナーはね、吐かずに死んだよ」
 ひそりと呟けば、僕を見上げて一瞬その眼を金色に光らせる君。その瞬間を他の誰もが見逃したかと思うと、気分が良い。一番星を見つけるのは、昔から得意だ。
「やはりね、あの場で誘き寄せるべきだったのさ。まだ三人程、残っているそうだからね」
 その哀しい眼は、誰の為?
「折角、童子にまで御助力賜ったというのに……何処かの誰かさんの浅はかな行動が……」
「ぅ、ぐ」
「……おい、功刀君」
 傍で、視線を落とし口元を押さえる姿。明らかに催している。思い出しただけで? まさか、どれだけ精神虚弱なのだ? 人修羅だろうが、お前は。此処に吐かせる訳にもいかぬ、溜息ひとつ零し、その頼り無い背に掌を添わせる。こうすれば、周囲からの危惧は薄らぐ。丁度開いた扉を見て、その襟を掴み立ち上がらせた。
「吐くもの吐いたら、とっとと銀楼閣に帰らせておくれよ」
「べ、つに、先行ってろよ、っていうか、来ん、な」
「粗相をせぬ様、見張ってなくてはね、帝都は僕の守護域な訳だし? フフ……」
 指を解いて、食い縛るその口を開いた人修羅。怒りからなのか、幽かに残る夕陽の残像がさせるのか、眼が既に悪魔の色をしている。
「俺を畜生みたく扱うな……」
「ならば、君は僕の何?」
 糾弾の口元は、それ以降を発せぬまま閉じられる。そう、答えなど無いのだろう。
 降り立ち歩き着いた先は、まるで呼び込まれたかの様に出来た話だが、あのチャイナタウンだった。
 誘ってくる夜蝶達を笑顔で退け歩む僕。傍で不快そうな面持ちの君は、少し気分が落ち着いたのか歩みが速くなる。妖しい異国の空気は、異界にも似ていて。こうして二人で歩むのは、結局変わらないのだと感じる。ボルテクスだろうが、帝都だろうが。
「あんたが」
 少し先を、僕より狭い歩幅で往く君が呟き始める。
「あの時、俺を見つめる眼が、まるで知らない奴を見る眼をしていた」
「僕はあの時、葛葉ライドウでもなければ紺野でもない、夜娘(イェニャン)さ」
「ボルテクスから、散々俺を突き刺してきた眼が、無かった」
「どうしてそういう時ばかり、君は欲しがるのだい?」
 数歩分速めれば、すぐに君と肩が並んだ。
「おい、欲しがってなんか…なんでそういう解釈に……!」
「どうして僕を見つける事が出来た?」
 歓楽街を抜けた、寂しい畦道。人間の気配が徐々に失せ、秋の空に呑まれて往く。
「女性が如き支那服、注した紅、下ろした髪……いくら僕の姿を見慣れていようが、他人の空似という可能性を抱かなかったのかい?」
「そ、れは」
 視線でやや向かい合うと、僕等の間を割る様に何かがひとひら舞った。涼しい風が、帳を運んでくると同時に連れ去ったか。風上を見据えれば、空を背負った木蘭が、季節も厭わず咲き誇っていた。
「おやおや……ブーシーカイワンシァォバー? ムーラン」
 あまりに狂い咲きなので、思わず笑ってそう問い質す。すると傍らの人修羅は、怪訝な表情で舞い散る花弁を掬う。
「ムーラン……って云ったのか、今」
「華國の京劇にもあるだろう、花木蘭……其処なる木は木蘭(ムーラン)と呼ぶ」
 途端、駆け出すその姿。袖先から覗く指に、斑紋が浮かび上がっていた。
「功刀」
 僕の声を無視するとは、良い度胸だ。腰に提げた刀を確認してから、外套を翻す。彼の突然の擬態解除は、紛れも無く攻撃の意思を感じる。夕の空、木蘭の白い花が幽玄に染む……景観だけは大変宜しい。
「これだ! この木だっ、絶対」
 何か唸りながら、人修羅はその木蘭の幹をがっしと掴み、揺らす。上から白い花弁が君に降り注ぐと、華と踊る様なそれが京劇に見えた。
「これだけ、この樹だけ咲いてるっ……この樹に居る=I ライドウ!」
 叫び、幹を抱くまま顔を此方に向ける人修羅。
 ……と、降り注いでいた白に雑じり、一気に三つ。首吊りの影絵が夕刻の空に、ぶらり遊んだ。
「あ、ああ……やっぱ、り」
 自ら揺らしておきながら、張本人である筈の人修羅が慄く。僕はそのぶら下がる人影に寄り、面を見る。既に醜く歪み、肉体の液という液が乾ききり、民族服にこびり付いていた。
「丁度三人……韓愈の一味で間違い無いかな。クックッ……これは褒めてやらねばね。御苦労様、功刀君」
 醜悪な残骸と成り果て吊り下がる肉、それを見た君が怯えている……だけかと思いきや。
「違う……違う!」
 その金色の眼を潤ませて、指の先からは鮮やかな焔を揺らめかせるのだ。抱いていた幹を、轟々と焦がし。
「生み出したのは俺じゃない! 俺じゃないんだっ!」
 下がる三つの肉も、その養分で咲いたのか狂った華も、暗くなった辺りを煌々と照らし燃える。そのまま火の化身の如し人修羅が、いっそう焔を立ち昇らせる。
(本当、馬鹿な奴)
 内心で唱えつつ胸元から引き抜いた管が、焔に負けぬ毒々しい光を放つ。
 僕のMAGと踊る仲魔に視線を配せば、理解したのか微笑んで吹雪かせた。
『ブフ・ラティ』
 それだけ唱えて、後は御自由に、と帰還して往く薔薇の可憐なアルラウネ。人修羅に視線を戻せば、煤けて濡れた姿で呆然と立ち尽くしていた。
「樹と心中するつもりかい? 君」
 折角似合っていたのに……その纏い物は襤褸になり、薄く肌が見え隠れしていた。
「君の事情なぞ知らぬが、勝手に死なれても困る。まだまだ先は長いのだから」
 寄れば、鋭く睨み上げてくる……その眼に僕は、やはり哂うのだ。今宵、空に月は無いが、僕の手元には在る。そんな気分にさせられる。
「幹部もこの様に灰と化した……君の赦せぬ存在は、全て闇に隠滅出来たかい?」
 云い返してこない、肯定だろうか。それとも疲れきったのか? ボルテクスの時、よく見た表情に近い。
「まぁ……残るものが在るとすれば……」
 その、蹴り上げれば砕けてしまいそうな頤を、するりと指先に掬う。小さく呻いて、僕を見上げる君に、教えてあげる。
「僕の舌に残る、後味の悪さかな?」
 眼を見開く人修羅に、僕からはそれ以上顔を寄せなかった。
「ぁ」
「口直し、してよ、矢代」
「……っ」
 融ける、合わせられた唇が、震えて開花する。狂い咲いた其処から、甘い魔力を……
 眉根を顰め、狂おしげに君の舌が僕を蹂躙していく。見えない鎖に引き寄せられたかの如く、謎の引力で。僕の口に残る苦味を、贖罪の如く啜る。
「あの時、香ったんだ……」
「何」
「夜の……薫りがしたんだ。だから……確信した」
 解放された唇で、浅く呼吸を繰り返す君が呟いた。
「あの葬式みたいな薫り」
「フン、白檀と云い給え」
 呆れ声の僕を突き放し、濡れた唇を民族服の切れ端で拭っていた。食後みたく。
「あんたをぶっ殺したら……白檀焚いてやる」
 食後みたく? いや、僕はまだ、足りない。その髪を鷲掴み、無理矢理引き寄せる。
「フフ……その薫りを狗みたく嗅ぎ回って、ついておいで」
 僕の揶揄に、君が返してくるのは、憎悪と同居する安堵。
「他に喰わせるなぞ、永劫赦さぬから」
 自覚はあるのか? 君の頸に繋がれている鎖の先は、僕の手元に無い事を解っているのか?
 其れは、互いの首を絞めている。
(縋る仕草は服従の証、これに心酔するのは人間の愚かな性だ)
 焼け付く臭いの中、藍色に木蘭の刺繍を纏う君に、もう一度噛み付いた。 
「最後の晩餐は二人きりでしようか……矢代」
 
 ケテル城でもなく、堕天使の御前でもなく。
 いつか、灰の山の上で。


 -了-

* あとがき *

贖罪と食材をかけてしょくたくのバーサール≠ニお読み下さい。チャイナゴシックを書きたかったのと、淫靡で背徳的な花鳥画をイメェジしたので。白檀の薫りを鍵にしたかった。食人は半分人間の人修羅にどのような感情を呼び起こさせるのか、という個人的な好奇心から。サルクス(ギリシア語の肉)を引用しなかった理由は、バーサールの方が物質的であり、より人間肉の雰囲気が強まると思ったので。(2010年、原文ママ)

【バーサール】
ヘブライ語における「肉」の意。生命を持つ人間の身体であり、人間らしい命ある者を指す。だが罪を犯した肉は、ただの体に過ぎず、罪の支配下にある。[wiki]

【四凶】
しきょう、と読む。渾沌、窮奇、饕餮、梼木兀の四匹。古代中国の舜帝に、中原の四方に流された四柱の悪神。それぞれ偉大な帝王の血を引くものとされるが、生まれつき凶暴で、一説には舜帝の時代に流罪となり、西方から魑魅魍魎が侵入してくるのを防ぐ役割を与えられたという。しかし、もともと凶悪な彼らはすぐに役目を忘れ暴虐の限りを尽くし、このために四凶と呼ばれて恐れられたのだという。[wiki・神魔妖精名辞典様]

【花魄】
かはく。中国における木の精の一種。三人以上の人が首をくくって自殺した木に、自殺した人の恨みによって誕生するという。手に乗るほどの大きさの裸の美女で、体には全く毛が無く(髪の毛など以外)、声はインコの鳴き声に似ていて人間には通じない。木の精なので水がないと生きられず、水を与えないと干からびて死んでしまう。しかし、干からびた花魄の体の上に水をかけてやると再び生き返るといわれている。[神魔妖精名辞典様]

【瑠璃蝶々】
ロベリア。花言葉は「悪意・敵意・貞淑・謙遜」

【木蘭】
モクレン。花言葉は「高潔・崇高な心」