最後の一葉?


「それ、お幾らですか」
 籠に溢れんばかりの紅い実を見て、思わず訊ねる。返ってきた金額に、心躍らせ財布を開いた。
『お主、こういう時だけは生き生きしとるな』
 足先の黒猫を蹴飛ばさない様に、視線をやや落として街路を歩む。
「俺の時代と違って、旬の物しか並びませんから、良いですね」
『未来は違うのか?』
「栽培する時に時差ボケさせたり、品種改良して強靭にしたり、薬撒いたりして、店先に並ぶのは形の整った精鋭だけなんですよ」
 買い物籠の中、根菜類に埋もれる林檎をちら、と見てこそばゆくなった。帰って鳴海が居るなら、何か作ろう。何が良いだろうか、包み焼きのパイでも悪くないが、酢漬けも日持ちして長く楽しめる。
 空の色が朱に染まり、漆喰壁に注がれている。端に捌けられ、水路に入水した紅葉達が格子に押しかけひしめき合う。
『すっかり秋めいたな、急に寒くなりおうたわ』
「この季節って、外歩くと微妙な気分になりますよ」
 フゥ、と鼻を鳴らし俺を見上げたゴウト、しかし歩みは緩めていない。俺は周囲に人が多くない事を確認してから、下方に向けてぼそりと零した。
「……外套姿の書生が多くなってきて、一瞬ライドウに見えるので」
 述べれば、髭を揺らしミャアミャア笑うゴウト、人の気も知らずに呑気なものである。そもそも、あの十四代目を制御出来ていないのは俺の気の所為か、飾りだけの御目付役め。
『ほれ、そこにもおるぞ』
 揶揄う様に、俺を視線の先へと促す黒猫。素直に眺めれば、確かに外套が歩いていた。
「止めて下さいよゴウトさん、ああいう書生見たら、背後からマグマアクシスぶちかましたくなってしまいますから」
 五割の本気を交ぜて返答するが、しかし俺達は沈黙してしまった。その前方を歩む書生の影は、よくよく知るシルエットをしていたからだ。
『おい、本当に奴ではなかろうか? あの様な長身、滅多に居らぬぞ』
「銀楼閣に帰る方向……では無い感じですけど」
 もう角を曲がるつもりだったのだが、俺の脚は妙に浮き足立っている。あの影がライドウなのか……何処へ往くのか……
『あっちは抜けられんぞ、行き止まりに建造物が在るのみだ』
 常連と化している猫集会で見知ったのか、黒猫は断言する。
「あの、ゴウトさん」
『どうした』
「晩飯の秋刀魚、もう一匹欲しく無いですか?」
 下駄上の足袋が、きゅう、と鳴りつつ向きを変える。既に背は角を向いていた。
「あれがライドウだったら、晩飯要るのか訊いてきます、それだけ聞いたらすぐ帰りますんで」
『おい、人修羅……首を突っ込むな、知らんぞ』
 猫の声を後に、ずけずけと俺は落ち葉を踏み始める。少し鬱蒼としている小路、端に除けられてもいない紅葉、両脇では更に山となっている。その構図が、朱色の欄干に見えた。人の通りがあまり無いのだろうか……茂った蔭を進めば、黒い鉄柵が見えてきた。
(病院?)
 そのアイアンフレームの隙間から、黒い外套が中庭を闊歩する姿が覗いた。それに弾かれる様にして、俺はまだ揺れる柵に近付き、開く隙間を潜り抜ける。門の彫刻は《院》の文字を残して蔦に覆われていたので、正確には此処がどの様な施設か判らない。
 扉が閉まる音を追って、涸れた噴水の傍を駆けた。
「……失礼します」
 外来受付だろうか、白衣の女性がちらりと、此方を探る眼で覗く。何故かいけない事をした気分になり、俺は口篭る。
「あ、あの……葛葉ライドウって男、来ませんでした?」
 直球で名を出せば、その年齢不詳な女性は、探っていた眼に瞼を幾度か下ろし瞬いた。
「葛葉様のお連れの方ですか」
「はぁ、まあ……そうです」
 すると少しの間の後、受付の境界から出てきた女性、その手には鍵があった。
「案内致します、後に続いて下さい」
「すいません」
 俺が余程無害に見えたのか、あまりにもあっさり通される事実に、やや困惑してしまった。
「通路に鍵とか……此処から先は防犯、かなりしっかりしてらっしゃるんですね」
 それとなくぼそりと呟けば、幾つ目かの格子扉を解錠する女性が云う。
「……ええ、帝都の安全の為に、ですわね」
 その返答に妙なしこりを感じつつも、指し示された病室扉へと視線を流し、会釈した。
「お帰りは、此方で」
 しゃらり、と差し出された鍵束。疎い俺でも気付く、先刻よりも下がる本数が少ない。
 受け取りつつ、奥の暗がりを見れば、まだ鉄格子は在る。
(この奥には行くな、って事か)
 暗にそう語られ、帰路のみが赦された鍵を指に携える。扉に向けて耳を傾ければ……声がする。二人分。朗らかに笑い合う……この病院には不釣り合いな……しかし、それがピタリと止む。気付かれた、だろうか。
「入り給え、盗み聴きの悪趣味者め」
 その台詞にカチンと来て、鍵束を指に掛けた手で扉を横にスライドさせた。
「自分を棚に上げてんじゃねぇよ!」
 俺を学帽の下から見据える、その切れ長な闇色の眼。やはり、俺の知るデビルサマナーだった。
「こんにちは」
 ……が、その傍の寝台に、上半身を起こして微笑むのは、俺の知らない少女。
「あ……こんにちは」
 一応挨拶を返す。記憶を掘り起こすが、見当たらない。誰なんだ、ヤタガラスの関係者? 依頼関係か?
 すると、その少女は両肩に垂らした黒髪をさらりと零してクスクスと笑った。俺の姿が何か可笑しいのだろうか。
「お兄さんは、お洒落さんですね」
 何を云っているのか理解出来ず、その細まる眼を改めて見ると、再度口を開いた。
「紅葉の袴なんて、此処まで秋を運んでくだすったんですねえ」
 はっとして脚を見れば、茂みを掻き分け来た所為か……袴の濃紺に紅葉の朱色が舞っていた。
「すいません! ちょ、っと……これすぐに掃ってきます」
「いえいえ、そのまま。風情あって大変宜しいかと思いますの、ねえライドウさん」
 傍の椅子に脚組みで座るまま、ライドウがくつくつと哂った。
「そそっかしい男で、申し訳無いね。本来は着飾ることに興味を示さぬのだよ」
 白い病室の中、俺の運んだ紅葉の赤色と……ライドウの黒が交互にチラつき、眼に痛い。
 だが寝台の少女が白過ぎて、部屋と同化している錯覚にも、同時に陥る。
「僕の知人、功刀」
 色々省いているライドウ。知人というには非道な仕打ちを喰らっている俺は、その紹介に納得出来ず、苛々した。
「はじめまして、功刀お兄さん。私、まゆみって云いますの。蚕の〈繭〉に……似合いませんが〈美しい〉という字で、繭美」
「突然すいませんでした。そこの男が晩飯要るかどうか報告無しでぶらついてたんで、見かけてつい」
 そう云うと、また口元を押さえて笑い出した。陽に当たらないのか、黒髪は灼けてすらいない漆黒だ。
「晩御飯……もう夕飯時ですか。そういえば、甘い薫りがしますねえ、その籠」
 繭美の視線が、俺の買い物籠に注がれて、そういえば……と思い出す。手を突っ込み、根菜類を少々傷付けながら引きずり出した。
「これ……きっと旬だから、美味しいです」
「まあ、綺麗な紅玉」
「あの、果物ナイフとか有りません?」
 林檎片手に問い質す俺に、失笑したライドウが脚を組み替えて云い放つ。
「功刀君、病室に常備するのは穏便で無いね、だろう?」
 馬鹿にした様な哂いで、片手を差し出してくる。その長い指先が、くいと示す。寄越せ≠ニ。
 それなら、お前にはどうこう出来るのか? 鼻で笑って投げ渡したそれを、ぱしりと掌で受け止めたライドウ。
「繭美君、少し失礼、動かぬ様にね」
 直後、腰の柄に空いた片手が伸びていた。その姿に俺の本能がビリビリと戦慄いたが、ライドウからの殺気は無い。すらりと抜刀されたその刃先が、窓から薄く射す夕陽を跳ね返す。
「まあまあ、器用ですことねえ、ライドウさんって」
 一瞬でも強張った俺が虚しい。奴は抜刀した得物で、果実の表皮を器用に剥き出したのだ。紅い帯は途切れる事無く、ずるずると奴の膝上に路を作っていくばかりで。
(俺だって途切れさせず最後まで剥ける)
 そう思ったが、発さなかった。刀で剥く方がきっと遥かに困難だから、揚げ足を取られる前に、塞き止めた。
「それに、その鍔、綺麗な蔦柄」
 少女の着眼点が、ライドウの笑みを引き出す。
「でしょう? ま、伝う血を食い止める効力は薄いですがね」
「まあまあ物騒な」
「ほら、今も甘い蜜が指にまとわりついて離れない」
 林檎を丸裸にしたライドウが、刀を脇に締めて固定すると、柄を握っていた指を差し出している。まるで動物みたいな反応で繭美は舌を出して、それを確認しようとしていた。
「汚いっ」
 俺の声に、彼等が止まる。
「武器、握った指ですよ……病人が、直に舐めるもんじゃ、ない」
 鼓動がどうして跳ねる。それを無理矢理抑えて、視線だけでも逸らせた。
「……あら、私ったらいやだ。確かに、殿方の指に……思えばはしたないですねえ」
 動き出したと思えば、ころころと笑った繭美。そんな無邪気に笑われると、俺が惨めになる。やめて欲しい。
「切り分けます?」
「ええですのよ、皮無ければ、そのまましゃくりと齧りつけます」
 ライドウが、紅い衣を剥がれた果実を引き渡す。彼女はそれを両手で受け取り、にっこりと云った。
「マルカジリ、ってねえ」
 ふふ、と微笑むと、彼女の精一杯齧りつく瑞々しい音が病室に響いた。



「なあ、どういう関係?」
帰路が一緒なのも本来喜ばしくないが、銀楼閣に居候しているのは俺の方だ、文句が出来る訳も無い。
「出るなり開口一番それかい? フフ、嫉妬深い事だ」
「違う、被害者出したくない、それだけだ」
 少し軽くなった買い物籠の持ち手を強く握り締め、吐き捨てた。この男……女性に気を持たせ過ぎるのだ。遊びすらしないのなら、一瞬でも夢を見させるべきではない。
「あんたみたいなのは、遊郭で発散する方が無難だって、最近気付いた」
「おや、以前はあんなに喚いていたのに、遊郭は公認?」
「……だからっ!」
 カッときて振り返る、と、ライドウは居ない。予感に背筋がピシリと凍る……周囲に人影の無い事を知る俺は、静かに擬態を解く。
 反射的に地を蹴り間合いを取れば、宙を舞った買い物籠から飛び出た残りの林檎が、真っ二つになった。一閃する刀の軌道を見て、相手の位置を確認する。掌で着地すると同時に、振り上げた脚がバチリと雷光を纏い、袴から放たれたその衝撃波が紅葉を雨と降らせる。
(どこだ)
 焦りが滲む。自分で舞わせた紅い雨に、奴の姿が葉隠れする。感覚を研ぎ澄ませる暇は無い。瞬間、くすんだ銃声が響いた。郊外だからといって、こんな処で撃つ奴の気が知れない。
 銃弾が葉を啼かせた位置へと、反射的に意識を集中させてしまった俺。
「一言主でもあるまい」
 全く無関係な方向からの声。
「ぁが、っ」
 背中が熱い、きっと斬られた。食い縛って落ち葉を踏みしめ、振り向かずに両腕を背後へと送る。焔が足下の紅葉を高揚させ、灰燼と化す。だが、ライドウへの手応えは無い。
「見えなくなる位なら、葉など舞わせるでないよ、浅はかだねぇ本当」
 どうしてだ、いつの間にやらライドウは眼の前に来ており、俺の胎に銃口をぐりりと押し当てていた。
「あんたが……先に仕掛けてきた」
「僕は跳んだだけ。それを君が勝手な解釈で擬態解除し、戦闘体制に入ったので僕も応えただけだが?」
 撃鉄操作の音、それが胎から響いて、内腑がぞわりとする。そのまま、ずるずると追い詰められ背が当たる、背後には乾いた色をした樹木。項の突起が擦れて、思わず唸った。
「フフ……ねぇ、そういえば、まだ甘いと思うが……如何?」
 空いた手で、すらりと再び抜刀したライドウ。奴の眼は、嗜虐に歓びを見出している……俺の口元に刀の柄を寄せ、哂った。
「指と柄、どちらが良い?」
 怒りで頭がかあっと熱される。俺に舐めろ≠ニ云う狂った神経は承知済みだったが、今しがた、である。柄を汚いと糾弾した俺の選択肢は、片方にしか残されていない、それでも。
「どっちも願い下げだ」
 睨みつけた、せめて怒りを顕にした声音でぼそりと呟けば………胎にぼそりと埋まった何か。自身の瞼が目一杯上がり、唇はぱくぱくと魚みたく閉開を繰り返す。
「消音のマズルが無くとも、押し付けて撃てば音は呑みこまれるからね、ククッ」
「は……ひっ」
「ねえ? どっち?」
 悪魔め。
「つ、か、柄……だっ!」
 胎に埋まった銃弾の熱が、じわじわ冷めていく。筋の収縮に、再生が始まっている事を感じつつ、再度口を開いた。
「あんたの指ぃ、舐めるくらいなら──……あ、ぐぅ」
 叫び終える事すら赦されず、俺の口には刀の柄が、既に突っ込まれ始めていた。
「んっ、んぐ、うぅぅう」
 口内を金属と絹糸が蹂躙する、ぐぽぐぽと抜き挿しされ、脳天が揺れる。
「林檎の薫り、する?」
「んぐ、ぉ、おおっ、おぶっ」
 喉奥までそれが挿し込まれると、自然と目元が歪み、薄っすらと視界がぼやけてくる。
「潔癖なのに、僕の指より此方を選ぶ訳、君は」
「っげ、ほっ……げええっ、は、あっ」
 ようやく引き抜かれ、呼吸を取り戻す。林檎の薫りも味も、判らなかった。したのは俺の血の味だけだった。
「僕の指、そんなに嫌? ねえ、功刀君!」
 息をする暇も無く、胎からずらされた銃を頬に打ち付けられる。よろければ、横腹へと追撃の蹴りが入って、俺は雑木林の朱絨毯に倒れこんだ。
「っは」
 ああ、何故俺は今、病院の傍の樹々の中、こんな事してるんだ? そういえば、買い物の帰りだった気がするのに。指先の斑紋を視界に映し、日常にこんな姿の己が居る事を拒絶されている感覚に陥る。激しい違和感……酷く……寒い。
「人間への擬態は疲れるだろう? 買い物の為とはいえ、御苦労だね」
「違……う! そんな事だけの為じゃない、俺はいつだって」
 起き上がろうとした矢先、圧し掛かられた。片手は刀に、もう片手は管に伸ばすライドウ。俺を見下し哂う……これは脅迫に等しい。
「いつだって中途半端だろう? 人間と悪魔の狭間でね」
 袴の結び目が、ぎゅ、と啼くと、後はするすると解かれる一方で。驚愕して口を開けば、猿轡の如く横にした柄を咬まされた。開かれた着物のあわせから、斑紋で光る俺の脚が晒されると、羞恥と憎悪に頬が熱くなる。
「ああ、そういえば……忘れ物だよ」
 そう呟き、何かを探る仕草のライドウ。視えない分だけ恐怖が増す。
「僕の指、嫌なのだろう? だからといって管も飽きたし……ねぇ? フフフ」
 俺の頭の傍に引き摺られて来たのは、買い物籠。そこから管でも品定めするかの様に、ライドウは指を滑らせる。まさか、ありえない、狂ってる。
「さぁ、どれにしようかな……秋は旬の物が多くて迷うね」
「ん〜っ! んっ! んんッ!」
 必死に首を振る俺を無視して、愉しそうに青果を選ぶこの男の表情は……店で林檎を見ていた時の、俺の顔に近いのだろうか。
「細いのからにしてあげようか? あ、いや、これで良いかな」
 土さえ付着している、その新鮮そうな野菜を俺の頬にヒタリとあてがい、ニタリと微笑む男。
「んぁ、が、ゃ……め」
「今宵、これで大學芋でも作っておくれよ……ねえ? フ、フフッ、あっはは」
 倒錯した状況に、俺はひたすら脳内でレシピを漁った。後孔を抉るそれを払拭して、血の臭いよりも、離れて転がる林檎の薫りを必死で嗅ぎ取っていた。



『どうしたのだ、人修羅……』
「……え」
『心此処に在らず、といった風だぞ?』
 ゴウトの声で、今何をしていたのか、ようやく思い出した。昨晩、結局俺が買い物籠ごと燃やしたので、晩飯が消えたんだっけか……
 手ぶらな上、ボロボロの俺を見て……鳴海が気遣い出前を取ったという経緯がある。その出前の食器を廊下に置こうとしゃがみ……その体勢のまま、放心していた。
『結局、あやつだったのだな?』
「……ぁあ、昨日の……?」
『おい、本当に大丈夫かお主?」
 駄目に決まっているだろ。あれから結局、全部挿入を試されたのだ。俺が吐いても止めないあの男には、本当に辟易する。それならどうして俺は、徹底的に刃向かえない?
(絶対的な恐怖、だろうか)
 ボルテクスで植え付けられた……その感情が未だに拭えないのか。あの頃よりは、確実に力を増した俺なのに。勝てない。
 俺はライドウと共闘……というよりも、使役される立場にあると、いつも思い知らされる。
「ゴウトさん、俺に出来る雑用、もう無いですか」
 唐突に問えば、黒猫は顔を洗いつつニャ〜と鳴いた。
『好きにしていろ、どうせまたライドウに弄ばれたのだろうて、疲れが出たか?』
 その返答に、図星過ぎて頬が引き攣った。



「あらあら、功刀お兄さんですねえ」
 どこか間の抜けた喋りで、昨日と同じ様に迎え入れられた。
「また突然来てしまって、申し訳ありません」
「良いですよお、暇でしかないので、お話しましょ?」
 本を枕元に置き、その手で椅子を促した繭美。俺は置かれた本の表装を、ちらりと視線だけで見た。
「冊子ですの《新青年》なる御本でしてね、ライドウさんが暇ならば、と持ってきてくだすって」
「あいつの本ですか? 趣味合います?」
 あの男、確かに色々読むが、こんな大正乙女と感性を共有するとは到底思えない。サイドチェストに積まれた本を手にとって、めくって見る。すると、とんでもない文字が飛び込んできて、思わず噴き出した。
「ど、どうされましたの? お兄さん」
「い、や、その……これ、どういう」
 何の本だこれは。
(山本禾太郎:著『童貞』)
 〈道程〉ですらない、この単語に既に背徳感を感じる。そして説明する気にもなれない。他の頁や号にも、めくればわんさか出てくる。
(『死屍を喰ふ男』『死体蝋燭』『殺人淫楽』『恋人を喰ふ』『錯覚の拷問室』……)
 こんなのを、おっとりとした笑顔で読んでいる彼女がおかしい。まさか、ライドウと同じ嗜好に興じる人種だろうか?
「あの、今度もう少しまともなの持って来ますよ」
 溜息を吐いて云う俺に、朗らかに笑む彼女。
「まあまあ、この新青年も大変に面白いのですが、既刊を古本屋で揃えているそうですのよ?」
「悪趣味だ」
「夢野久作さんとか素敵ですよ?」
「赦せても江戸川乱歩までです」
「『陰獣』の?」
 ああ、どうしてそこへ飛ぶ? この人はライドウに洗脳されているのだろうか?
「掲載小説に探偵ものが多いので、ライドウさんも参考になすってるのかしら?」
 黒髪を撫ぜ、呟く繭美に首を振る。絶対、それは無いと。
「あの、ライドウの奴……どうして此処に通うようになったんですか?」
 キリが無いので、唐突に切り出してみた。これが探偵小説をあまり読まない俺の頭だ。遠回しに探っていくだなんて、難しくて疲れてしまう。すると彼女は、大して悩みもせずにすんなりと返答をくれた。
「私が入院した頃には、別の理由で通われておりましてよ」
「え……」
「私はついで≠ナすの。暇な患者に付き合ってくれている、優しい探偵見習いさんです」
 そう云って、くすくすと微笑む。そんな彼女に……俺は、奴の非道を大声で喚きたい衝動に駆られる。
「ライドウさん、不思議ですのよ、異界のお話を沢山してくだすって……妖精とか、神様とか」
 それは、悪魔です。
「私、勉学が遅れていて……此処から出た時に一番がとれる様に、って勉強も教えてくだすって」
 それは教師の真似事です。
「それでいて、あんなに綺麗なお顔してますのよ? さぞかし女学生憧れの──」
「繭美さん」
「はい?」
「…………デビルサマナーって御存知ですか」
 悪魔召喚師……悪魔を使役し、同じ魔を祓う。人間には視えぬものが視える。
 そう、あの男はヤタガラスの一羽根。
「デビル……サマナー?」
「悪魔を使役する者の事です」
 きょとん、とする彼女に、俺はまるで毒を流し込む様に。
「その中でも、あの男……ライドウは、歴代随一の化け物……で」
 本当の化け物は誰だ? そんな事解ってるだろうが、馬鹿だ、俺は。
「使役悪魔を畜生みたく扱き使って、はだかる様なら残虐に斬り殺ぐ、そんな奴なんです」
 云い終えて、妙な優越と後悔に胸がざわめく。十四代目葛葉ライドウを……全面に押し出して、この少女に今問い質す。怖くないのか? と。
「……でしたら功刀お兄さんはどうして一緒に居るんです?」
 桃色の小さな唇から紡がれる……俺への言葉。心臓を締め上げる棘の様な、彼女の吐息。
「怖いのでしたら、どうして一緒に居たいのです?」
「一緒に居たいって?」
「でなければ、もう一緒に居りませんよね? どうなんでしょう、ねえ」
 ぞわぞわとして、思わず椅子から立ち上がった。窓の外、病院の塀上から微かに夕陽が滲むのを視界の端に納めた俺は、口走る。
「また、来ます」
 白い床を踏み鳴らし、白い扉を開ける。
「失礼しました」
 短く唱えて、別れの挨拶も待たずに扉を塞いだ、故意に遮断した。
(俺が、あいつと一緒に居たい?)
 まさか、彼女にはそう見えたのか? だとしたら、困る、憤慨してしまう。いや、それより……どうして俺は、あんな事を云った?
 よろよろと鉄格子に近付き、鍵を袖から出そうとした……感触が無い。
「これかい?」
 唐突に響く声。咄嗟に防御体勢を取る、ただし、人の姿のまま。
「落とした事すら気付かぬ?」
 迫り来る黒い影。俺は擬態を解けば良い……それだけだろう?
 この病院、受付にしか人は常駐していない。病室もほぼ空室だ。此処で悪魔に戻ろうが、傍の部屋の繭美にさえ気を付ければ……
「ほら」
 床に何かを放るライドウ、病的なまでに艶めいた床上を滑走して往く鍵束。急いで足を伸ばしたが、俺の股の間を掻い潜って、入口側の格子向こうへと消えていった。
「……っ」
 俺は何を惑っている? 擬態を解けば、アイアンクロウでこの鉄格子なんか、簡単に裂けるだろうが。
「ひ」
「成れば? 悪魔に」
 俺より高い視点から見下ろし、哂うライドウ。
「でないと、そのままの君を、畜生みたく扱き使って、残虐な殺しをさせるよ?」
 背筋が凍る。押し付けられた鉄格子に熱を奪われている所為では無い。
「どっちが悪趣味だ……盗聴野郎」
「君の声がしたのでね、イヌガミを介し、少々又聴きさせて頂いただけさ」
 がしゃがしゃと、格子に縫い止められるかの様に羽交い締めにされた。耳元で囁いてくる、蔭っていて凛とした……慣れた美声だ。
「ほら……早く君も化け物≠ノ成って、この状況を打破し給えよ、功刀君」
「俺は化け物じゃない、あんたと違ってまともだ」
 ひと息に述べれば、そのまま耳をがりりと齧られた。
「んぅ、ッ」
 病室に届かぬ様に悲鳴を呑み込むと、自然と身体が震えた。再び哂うライドウは、ぺろりと咬み痕を舐め上げた。
「見せてあげようか? 化け物って奴を」
「はぁっ……な、に」
「もっと暗闇までついておいでよ」
 ライドウが、しゃらりと鳴らす鍵束。それに吊るされる鍵の本数は、俺が渡されていた束より多い。
「灯を持て」
 管に指を伸ばし、先端の輪をカツリと爪先で叩いた途端、ライドウの身体からMAGが溢れた。
『ヒーホー! すっかり秋だね! ハロォウィンはどうだホ?』
「残念ながら此処では栄えてないよ」
 哂って返答し、クイと顎で指し示すライドウ。ジャックランタンが光源となって奥の方へとふわふわ飛び始める。
「さあ、おいで功刀君。僕が通っていた最初の理由を教えてやろう」
 俺は羽交い締めの痛みが残る身体を震わせつつ、追従した。
 更なる暗闇へと入っていく……幾つかの鉄格子を経る度に、闇が濃くなる。空気が湿ってくる。
『ヒホホ! トリックオアトリート!』
「云っておくがジャックランタン、お菓子は出ぬよ」
『残念だホー……』
 最奥の扉まで辿り着いたが、ジャックランタンの夢は打ち砕かれた様子だ。
 しぶしぶ主人にMAGを貰って、管に帰還していった。光源が消えた事で一気に闇に閉ざされ、感覚が自動的に警戒する。
「扉を開ければ視える、落ち着き給え」
 使われずにいた最後の鍵は、その扉のものだった。開く隙間から、薄い光の帯が……此方の廊下にまで流れ出す。人が通れる程度に開かれると、ライドウは中に入って行く。そのまま閉ざされては、俺はどうしようもない。急いでライドウの傍に駆け、その病室に入り込む。

 ひゅうううひゅうううう

 隙間風の音が酷い。そして何か≠ェ居る。その周囲に揺れる蝋燭の灯まで、共に蠢いた。
 いや違う、これは蝋燭では無い。同時に揺れる灯≠ヘ、まるで悪魔の眼の様にまばたきしている。
『クゥ、クァアアアア! キツネ! キツネメェエエエエ!!』
 どこが口なのか判らないその図体で叫び、思ったよりも速く這い寄って来た。
「ひッ!」
 扉まで腰の引けた俺に反し、ライドウは佇むままである。そんなサマナーの手前で、蠢く影は「ビタン!」と阻まれ崩れ落ちた。
「キツネ……クズノハ……カラスゥ……」
 まるで隙間風の様に、後は僅か唸りを上げるのみだ。
「これ、僕の同僚達=v
 抑揚も無い声でライドウが発した事実に、一瞬理解が出来ずに視線で返す。
「しくじってねぇ……百々目鬼の様な肉体に成ってからは、お払い箱」
「お、お払い箱、って」
「治そうにも、これ当人等しか解らぬ事情が多過ぎてね。おまけに裏で消そうにも、消せぬ理由がある」
「消すって何だよ」
 その隙間風は哀しげに啼く。俺に視線をゆっくり合わせたライドウの眼は、暗闇の中でさえ黒曜石が如く光っていた。
「ヤタガラスは、機能せぬ羽根は捨て置く、その重みで飛べなくなる前にね」
 口の端を吊り上げて、更に近付いてくるライドウ。何かを避ける動作をしたので、その足下を見れば……退魔札の様な物が並べて貼ってあった。あのラインより先には行けないのか、同僚達とやらは。
「しかし彼等は、お偉方の御息子だったから、こうして魂だけでも看られてるという訳さ」
「此処、ヤタガラスの施設なのか?」
「いいや、ヤタガラスがこの一室を借りているだけ」
 違和感……この妙な病院に対し、今更過ぎる疑問が湧いてきた。
「なあ、此処……普通の病院じゃ、ないよな?」
 うっそりと哂うライドウが、隙間風を遮断して声を張り上げる。
「此処は《癲狂院(ていきょういん)》……化け物共の隔離施設さ」
 笑い声を上げるライドウに、床に蠢く沢山の眼達が恨めしげに視線を送っていた。



『ふぅむ、確かに聞いた事はあるがな』
「ゴウトさん、詳しく知らないんですか?」
 本棚を漁る俺の近く、通りすがる黒猫を呼び止め、訊いた。
『何処かの廓に、御上方の子息等が居る……と、噂程度には』
「貴方でも噂程度……?」
『公にする事でも無いからな……悪魔化が進み、更には身内が居らぬ者なれば、それこそさっさと消去されているだろう』
 背表紙達を撫ぞる指先が、その台詞にぴたりと止まる。
(身内が居ない)
 今の俺、みたいな。そして十四代目葛葉ライドウ……紺野夜、みたいな。
『奴は同僚達≠ニ云ったのだな? したらば、それはきっと葛葉の席を獲り合った同胞だろう。して、連中は紺野夜に破れた』
 あの時、キツネ、キツネ、と……恨めしげに呻いていたのを、鼓膜の震えがはっきり覚えている。
「あいつ恨まれてるんですか、やっぱり」
『幼き頃より一つの席を獲り合うたのだ、因縁も深かろうて。まあ、それよりもあの男の才に問題が有ったのかもしれぬがな』
「ライ……紺野の?」
『栴檀は双葉より芳し………だ。芳しいモノには、蟲も寄るし烏も啄ばむであろう? 知ってか知らずか、よく白檀の香を纏っておる……いや、皮肉かも知れんがな、あやつの場合』
 するり、と、云い残して部屋を出て行く黒猫。取り残された俺は、本棚からまともそうな書籍を探す作業に戻った。



「ま、本当に持ってきてくだすったんですねえ、あらあら」
 繭美に数冊差し出して、極め付けには林檎の焼き菓子まで、サイドチェストにドサッと置いた。
「わぁ! お兄さんて、調理師さんだったのですねえ」
「キャラメリゼして、胡桃練りこんだタルトにしました、悪くないと思いますよ」
 ざっくり述べて、踵を返そう。もうこれで良しにしよう。この少女も、きっと何処かおかしいのだ。此処は……精神病院なのだから。
「ライドウさん、明日は来てくれるって話でしたけど、こうして合間に功刀お兄さんがいらしてくだすって、なかなか楽しいですよ」
「……そうですか」
 ああ、確かにおかしい。こんな処に閉じ込められていて、どうしてそんなに無邪気に微笑む事が出来るんだ?
「母様は来てくれませんのでねえ」
 継いでくる身内話に、身体が強張った。そういうのに弱い、やめてくれ。
「きっと私が怖いんですわねえ……まぁ、無理も無いんですけどねえ」
 ぱちり、と大きな眼をまばたかせ、窓を眺めて続ける。
「私が妖精さんを見た≠ネんて云うものだからです、だからお家の迷惑になるんです」
「え……妖精」
「ふふ、冗談、御伽草子」
 黒髪が、薄く開いた窓から入る風になびいた。とはいえ窓にも、鈍く輝る格子が掛かっているのだが。
「ほら功刀お兄さん、あすこの煉瓦を這う蔦葉、見て下さいな」
 もう出るつもりだったのに、ずるずると引き摺られ、ついその声を聴いてしまう。
「ああやってねえ……しがみ付いているのですねえ、皆何かに」
 何が云いたい。
「……繭美さんは、何に」
「私ですか? 私は……そうですねえ、やはり母様なんでないかと、思うのですわねえ」
「どうして、来てくれないんです……貴女の母親」
 こういう時、無神経な人間だと自分でも感じる。でも、叩き付ける相手は選んでいるつもりだ。
「人間、自分の視得るモノしか共有したくないですし、同じ痛みしか解らないんですのよ」
 大きな眼は、いつもきらきらと輝いている様に見えた、が。その奥に……一瞬揺らめいた闇色。
「此処で大人しく待っていれば、嘘吐きになれば、母様は迎えに来てくれるのですわ」
 薫る林檎の甘酸っぱい風を掻き消す、その昏い微笑み。
 誰かを思い出す色に、瞬間怯えて俺は立ち上がる。
「功刀お兄さん」
 渇いた喉が張り付いて、返事の代わりに生唾を嚥下した。
「美味しそうです、ありがとう、お菓子」
 的外れな台詞に、何故か俺は安堵し切れずに、ふらふらと病室を出た。



「そうだよ、彼女には悪魔が視えているのさ」
 平然と云ってのけるこの男に、俺は妙な高揚を覚える。銀楼閣に帰還したところに問い詰めれば、この展開だ。
「あんた、ヤタガラスの関係であの人に接近したのか?」
「そう解釈して頂いて結構。あの少女を廓に閉じ込めたのは、当人の身内だがね」
 管を選別し、煙草を咥えつつホルスターに納めて往くライドウ。
「けふっ……あ、あの人をどうしたいんだよ、あんた」
 燻らせる紫煙は、俺への嫌がらせだろうか。咽ながら尚問い質せば、椅子を傾けて、その支える脚と共にクスクス哂ったライドウ。
「デビルサマナーへと引き抜くのだよ、里にも後世への候補者がまだ必要だからねぇ」
 唖然としてしまった。ぽかんと佇む俺に、ライドウはせせら哂い、更に続ける。
「折角、本来は不可視の存在が見得るのだよ? これを生かさぬ手は無いだろう?」
「別にあの人、好きで視たい訳じゃないだろ」
 反論すれば、灰皿が眼の前に在るというのに、素早くその吸殻を俺の手に押し付けてきた。表皮がじゅ、と焼け焦げる臭い。
「っ、て、め」
「ククッ……何、可哀想なの? あの少女が……それは何、自己投影から派生した善意?」
 振り払って飛んだ吸殻を、指先から発する焔で灰にした。この男の部屋なら、厭わず悪魔に成れる。
「あの人にはまだ身内が居るだろ!」
「視えぬモノは認めぬと、実の娘でさえ廓に隔離する母親がかい?」
「それでもっ、彼女にとって親にはかわりない!」
「あの奥の化け物を見たろう?」
 その返しに、俺は口を閉ざした。ライドウは机の帽子を手に取り、それで自身の口元を隠す。
「存在の事実しか認めたく無いのだよ……失態やあの見目は、邪魔でしか在らぬのさ……親にとってもね」
 表情が読めない、哂っている……そうじゃないのか? どうなんだ? ライドウ……
「己に嘘を吐いて生きるのか、真の己を認める処に生きるのか、それは彼女に選ばせる」
 椅子から立ち上がり、すらりと長い脚で佇む……煽がれようと、揺るがない葦で。
「僕がデビルサマナーをしているのも、葛葉ライドウとして在ろうとするのも、定めでは非ず」
 何も考えられずに、呆然と立ち尽くす俺の傍を、颯爽と吹き抜ける風の様に。
「紺野夜が選んだ血塗りの路だ」
 ばたん、と扉が閉じた。この、自分のモノではない場所に、悪魔のまま、ただ独り……取り残された俺は、酷く寒かった。
 ああ……ライドウは……夜は、そうやって生きてきたんだ。縋っていない、独りで立っている。
 己を穢す御上の子息、そいつ等の息の根を止めたくは無いのか!?
 狐と蔑まれた過去を、あの百の眼を、夜毎潰して、清算してみたい欲望に駆られないのか!?
 それすら通り越して、あの男は……根底から覆し、組織すら消す、そんな支配の夢を見ている。そうさせた、奴の人格を破壊したヤタガラスは……やはり、ロクでもない。そんな機関に引き抜かれるなんざ、あまりにも。



 幾度目かの紅い小路。あの日と同じ袴を捌いて、茂る影を縫い歩く。
 門の彫刻、指先で蔦の目隠しを掃えば《帝都××癲狂院》と……確かに続いていた。黒い門を開き、あの病室まで真っ直ぐ進む。
(……何だ)
 院内に足を踏み入れると、無人の受付が視界に入る。まるで東京受胎のあの日を思い出して、ぞわりとした。それと同時に身体を蝕む……気配がする、魔の。
「繭美さん!」
 開いたままの鉄格子、その無意味な障壁を潜り抜け、白い扉に手を掛ける。
「ひっ」
 白い病室、では無い。彩が在る、人影が在る。
「……功刀お兄さんですか? ねえ、どうして其処なる看護人は死んでおられるのですか?」
 寝台から、いつもの様に起き上がり、うっそりと微笑む繭美。おっとりと口にした言葉は、眼前の床を見て明らかになる。
『ぎ、ぎぎぎっ、カラスは、どいつだ?』
 何とも形容し難い悪魔が……四肢を伸ばし絡ませた人体の生気を啜っている。まるで夏の樹が急速に枯れ往くかの如く、横たわる女性は骨が浮き出る。酷い形相だが、恐らく着衣からして、あの外来受付の人間だ。
「ひ、ひぃっ、な、何、何ですの!? あ、貴方も誰!? 一体何が」
 混乱し切った声は、繭美の傍からだ。視線を移せば、窓際まで後ずさり、床のミイラを見る女性。悪魔を素通りして……人の死体だけを見て慄いている。洋装を乱し、靴は半分脱げていた。突然の出来事だったのだろうか、そこにいる悪魔の出現が。
『なあ、お前かぇ? ん?』
 ふぁさふぁさと、ススキの穂みたいな体毛を揺らして繭美に寄る悪魔。寝台の脚に絡みつき、這い上がる。だが、繭美は微笑むまま。
「ねえ、母様、何やら怖いですわ、どうかお傍に」
 眉一つ動かさず、傍の母に愛おしそうに語りかけている。まるでそこに、何も居ないかの様な振る舞いだ。
 俺は駆け出し、繭美の肩を抱きしめて寝台から転げ落ちた。俺の背を僅か掠めた攻撃、躱された悪魔は枕に突っ伏し埋もれている。
 ヒリつく背中で死体の隣に転がった俺を、母と呼ばれていた女性がヒリつく声でがなりたてる。
「何するの貴方! 繭美を離してっ!」
 何も見えていないのか、やや裂けた此の背にも気付かないのか……所有物を抱える俺を敵と見なし糾弾してくる、背後から掴みかかってくる爪が食い込んでくる。俺は歯を食い縛り、隙間を潜って叫んだ。
「ベッドから、離れて下さいっ!」
「離しなさいよぉおおおッ! 私の娘ぇえッ」
 首で振り向けば、寝台上から此方を覗く悪魔。俺達を見て、愉しそうに嗤っている。
「ねえ、功刀お兄さんは、何か視えているのです? ねえ」
 腕の中からくすくすと微笑む少女の吐息が、首筋を撫ぜ上げる。その声色に冷や汗が滲んだ。
「人には視えぬモノが居るのですか? 私には何も感じられませんのよ、ねえ、母様」
 俺の髪を鷲掴み、ただ己の物を取り返そうと掻き毟る女性。そんな母親を、微笑むまま……闇色の眼で、繭美は。
(この、人……っ)
 この少女は視えぬ者≠演じている、母に疎まれるならば命すら惜しくないのだ。心中する覚悟だったのだ、愛する母と。
「ねえ、お兄さんは、視えているのでしょう?」
 この場に灯蛾の如く飛び込んできた俺を、礎にするつもりか。
「功刀さん! 貴方が視えている化け物≠ネら! その悪魔とやらを屠ってくだすって!」
 焼け付く背、引き攣る髪、耳を穿つ糾弾、腕の中の冷笑。
 俺に、此処で悪魔に成れと云うのか、貴女は。そして、自分だけまともで在ろうとするのか、俺を供物にして?
「繭美……さん、俺は、悪魔、なんか……っ」
 ああ、でもきっと、あの悪魔がもうひとたび暴れても、俺だけが生き残るだろう。もう、それで良くないか? この少女の為に、己の魔を曝すなんて。
(俺は人間で居たいんだ)
 寝台から飛んだ悪魔が、俺に圧し掛かる女性へと腕を振りかぶっていた。その気配に息を呑みつつ、繭美の母が崩れ落ちるのを待った……
『ぐぎぇっ』
 背面の女性が上げたとは思えない悲鳴。
 咄嗟に視線を配せば、窓の格子まで弾き飛ばされたその悪魔。反吐を散らしてずるりと壁に滑り往く。その壁に縫い付けるかの様に、銃弾が二発、続けて撃ち込まれた。
「きゃぁあああッ」
 俺の背を毟る母親は、いよいよ俺からも離れて床にもんどりうった。その焦点がぶれる視線の先は、病室の入口に向かっている。
「可視の化け物≠ノ御座います、御婦人」
 流麗な口調で、黒い外套を翻し踏み入るあいつ。
「其処の窓下に憚るは邪魅。この奥の百々目鬼が、浅ましくも最近飼いならした使役悪魔に御座います」
「ひ、あ、あああ貴方、その銃」
「ええ、これで双眸を潰しまして候」
 綺麗に哂い、黒光りするリボルバーを頭横に持ち上げ、母親を見たライドウ。
「視えぬ日向の者はこの場において足手纏い……娘さんを連れ、退院なさい」
 ホルスターへと回し入れた銃の代わり、今度は刀の柄に指を掛けている。それを見た母親は、立ち上がれずに失禁していた。
「ばっ、ばけ、化け物ォっ」
 彼女の眼には、恐らく本物の化け物は映っていない。視えているライドウのみが、化け物なのだ……
「然様、僕はカラスの化け狐。貴女方とは遠い翳りにて働く、葛葉が十四代目なり」
 ライドウは唱え抜刀し、壁の悪魔に突き立てた。その刀身から伝う体液が、整った指を濡らす……林檎の蜜と同じ速度で。
「其処なる娘さんが視えざる者≠ニ理解したのなら、早く此処から連れ発ちなさいな」
 悪魔から切っ先を抜き取る瞬間、血飛沫に彼の頬が染まれば、母である女性は失神した。
 虚ろ眼の娘を残して。



「今回はヤタガラスの落ち度という事になるからね」
 繭美と失神した母親を乗せた車が、鬱蒼とした路を走って紅葉の雨に消えて往く。
「フン、此処まで来れるならばアレの後始末も己等でし給え、と云いたい所だよ」
 踵を返すライドウを見て、よろよろと俺は追従した。あの脚に迷いが無いから、俺はいつも無意識にそれを頼る。無人となった院内は、静寂に包まれていた。
「この奥にアマラ転輪鼓が在って、受胎したら面白いねえ功刀君?」
「冗談でも止めろ……悪趣味野郎」
 廊下の途中、クク、と哂って呟くライドウ。俺に向かってそんな発言が出来る、その神経が知れない。
「アレもいよいよ一般人に害をなしたからね消去≠セよ」
 まだ鍵の掛かっていた格子を、まずは一枚開けライドウが云う。俺はその単語にぞくりとして、眉を顰めた。
「未だ人としての意識が有るのか……僕を見ると恨めし気なのさ、いつもね」
 もう一枚。
「あの百の眼で、僕に蹴落とされた他者の分まで恨み上げているのかね」
 もう一枚。
「別にそんな世話を焼かずとも、他からの眼は散々喰らってきたのだが、フフ」
 最後の扉。
「…………山が朱に萌え立つ今の時期……襲名前の僕は、修練を共にする数名と山に入ったが、いざ踏み入らば針の筵だった」
 鎖した鍵を回さず、そのまま続けるライドウ、顔は哂ったまま。
「その面子は皆、一部の御上等の子息……そう、僕は謀られ、山に骨身を埋める予定だった」
「……どうして」
「十四代目ライドウを継がせるのが孤児の僕では気に喰わぬ、という者も多かったからね」
 おかしい、どうしてお前は哂ってそれを話すんだ?
「流石に多勢に無勢。管の悪魔も、彼等の方が上等の者を持たされていた、その日だけね。僕は百穴と呼ばれる山の胎内に追い詰められた、そうして其処へ悪魔の声が聴こえてきたのさ」
 唇を吊り上げて、錠を回した。
「汝、我が法力をもって得脱せよ≠ニ」
 開かれた先、揺らめく無数の瞳がいっせいにライドウを見つめた。その百在らんかという眼の中で……瞳孔が収縮し、魂まで覗き見ようかという幾つかが目立つ。
「お、い……この、悪魔になったのって」
 聞きたくも無いのに、俺の口は、ライドウの言葉の続きを待ち望んでいたかの様に、引きずり出そうと動き出す。
「云ったろう? 同僚達と、ね」
 眼の前に蠢く悪魔は数個の肉塊であって、魂を共有しているのだ。傍の男への恨み妬みという憎悪で以って。
「ククク……僕は誘き寄せ、契約した悪魔にこいつ等を捧げた……そして、実体と生した」
「ライ……」
「流動する骨、肉、内腑を見、その眼球が表皮に浮かび上がって僕を見つめた瞬間、心の其処から歓びが溢れたよ」
「ライドウ!」
 叫び返す俺の身体は昂ぶって、この暗い空間に斑紋を光らせていた。
「満身創痍の僕が、百々目鬼を引き摺り降ろしたその日から……里での地位は確立した」
 ライドウは、胸元の管を指先でうっとりと撫ぞり上げ、舌を舐めずり唱えた。
「化け狐という、ね」
 気付けば、俺はその両手を掴み上げ、睨んでいた。暗闇で痛々しく光る、黒曜石を……
「何だい、人修羅の君?」
「始末、すりゃ良いんだろ……この、悪魔」
「そういう事になったねぇ。あの頃、僕を支持していた御上が、もう殺せと下したそうだから」
 乾いた笑い、ライドウは掴まれた両手も払わず、俺の眼を覗き込んでくる。
「何? 僕の罪の産物を、君が消してくれたりするのかい? ねえ、どうなの」
 毒の吐息、俺の鼓膜を揺らさず融かして、脳髄まで侵蝕して突き動かす。操られるかの様に、唇が開いてしまう。
「今だけ……悪魔を、有効活用させろ」
 頼る、という形を避けたい俺は断りを入れ、放した両腕を頭上に翳し念じる。すると傍に降り立つ剃髪の女神、召喚が未だ出来た事実に自分でも驚く。
『大変久しゅう御座います、ヤシロ様』
「そこの悪魔の眼を潰して下さい」
 たった一言、挨拶抜きで冷たく云い放つ俺に、ディースはやんわりと微笑んで襟を揺らす。
『お任せあれ』
 ディースは見下ろした先の、揺らめく灯火達を、蝋燭を吹き消すかの様に、ひと睨みで消した。
 -ペトラアイ-
 ただ、それだけをさせて、俺は彼女を内に帰還させた。労いの言葉も無しだ。やはり、悪魔は嫌いだから。それを使役する自分も、嫌いだから。
「ほら、もうあんたを見ていない、さっさと……殺してやれよ」
 隣に佇む黒い外套に、ぽつりと零した。
 途端、このデビルサマナーは、俺の前髪を引っ掴んできた。息が詰まり小さく悲鳴したなら、対照的に薄く哂う……冷たい相貌で。
「何、恩を売ったつもりかい? それは……フ、フフ……ねえ!?」
「ち、違、う……あんたの事、憎んで、見てるのは俺だけ……ぅ、ッ」
 その眼に宿るのは、やはりあの闇なのか。そのまま、床に打ち据えられ、言葉の尾は千切られた。見上げると、既に抜刀したライドウが己が罪≠見据えている。
「なれば、そのまま灼きつけ給え、僕の悪魔」
 あれは的殺の構え……
「お望み通り、その金の眼球にね!」
 百の石目、視線に沿って割れる様に、砕け散った。

------◇-----


 紫煙が空の白けた雲に重なり、境目が判らない。肺に吸い込む毒は、しばし思考を停滞させる。
『おい、ライドウ。下で何やら騒いでおるぞ』
 扉をしっかり閉めた筈なのに、するりと掻い潜り現れる黒猫に、溜息で哂う。
「何ですか? また鳴海さんが珈琲でも零しました? 子供の粗相みたいに」
『たわけ、もう少し真面目に受け取らんか』
「病院帰りで疲れておりましてね」
『お主の通院ではなかろうて、おまけに勝手に能力者を誘い込みおって……ヤタガラスの許可も得ず』
 そうさ、僕の勝手でした事だ……あのまま少女が家で朽ちるより幾許マシかと思い、緩やかに勧誘していたのだが。そう……もののついで≠セ。僕の使命は、罪の生存確認。本来それだけだったのだから。
 だから、ある日突然埋まった病室に、同類が居た事なぞ……別に、待ち望んでた訳でもない。
「サマナーも多いほうが宜しいかと思いましてね」
 喉を鳴らして哂う僕の方が猫みたいだ。そう思いながら、吸殻を缶で揉消す。屋上から下った先の事務所、其処から甲高い声。
「だから! 悪魔の仕業ですって! 絶対!」
 タヱの声、という事は明白だ。
「見えておりました≠チて呟いて、車の窓から飛び降りたのよ? 意味不明でしょ!?」
「落ち着いてよタヱちゃん〜そもそも何故車の窓から? 施錠は? だって良いトコの娘さんだったんだろ?」
 返答は鳴海だろう、相変わらず圧倒されているのか、おどおどした声音が等間隔で返る。それとも喫煙しながらなのか、珈琲を啜っているのか。
「そのコ、最近露出したのよ? それまで何処に居たのかも謎だったし……幽閉でもされてた? んんん? 貴族界隈の陰謀?」
「おいおい……」
「母親は虚脱状態だそうよ、そりゃそうよねえ……視えない何かに殺されたとしたら、どうしようも無いものね」
 何について話しているのか大体理解出来たので、事務所まで下り切らずに自室の扉を開けた。
「あ……」
 本棚の前で、人修羅が此方を向いた。僕を睨みつつ後ずさる……それは畏怖する仕草。
「何か? 功刀君」
「繭美さんに、実は此処から引っこ抜いた本、数冊貸したままで」
「知っているよ、もう回収した」
「えっ」
「あの日、僕が見舞うと云ってあったからね、貸した物はまとめてあったよ、あの部屋にね」
「……あ、そう」
 その横顔は、やはり虚ろだ。水面に映る月の様に、頼り無くたゆたう。
「なあ、あの母親」
「僕も来るとは知らなかった。娘が正常になった頃合かと、様子見にでも来たのだろうさ」
「俺は、あの人が……繭美さんが怖かったよ、正直」
 項垂れて、意外と長い睫毛をゆっくり下ろした人修羅。
「おかしいだろ、視えてるのに! あのままじゃ、自分も、母親だって……死ぬかもしれなかったのに」
 もう死んだ、とは知らないのだろうか、人修羅。あの少女は結局嘘に押し潰されて、死んだ。
 去り際、車窓に連なって飛ぶ妖精達がちらりと見えた……恐らく彼女の暇潰しの相手だったのだろう。窓でも開けさせたか……最早憶測に過ぎぬ。
「病院を這い回った邪魅は、恨みより召喚されたし……狙いは僕だったのだから、彼女等はとばっちりを受けたのさ」
「どうして……どうしてあんな母親なのに……縋り付いてるんだよ」
 その人修羅の、先日の発言との矛盾に、可笑しくて失笑してしまった。彼は本棚に背を向け寄りかかる、僕はその細い身体を見つめた。
 あの時……少女を抱き、背をその母に打たれる君を見て、僕は様子を窺ったのだ。君がどう出るのか、確かめたかった。
 僕は化け物で構わない。ただ、君が葛藤に揺れ、溺れて、僕に縋れば愉しいだろうと、勝手に思っていた。
「ねえ、功刀君。彼女をその腕に護る様でいて、その実、何を護っていた?」
 引き攣る君の頬、その傷を抉る、君の中を視る、胎の中を。
「己の尊厳の為、彼女達の身は……無視した?」
 瞬間、飛んでくる拳を、抜刀した刀の柄で受け止める。共振する痛みに、悪魔へと戻った君が顔を歪ませる。
「っつ…ぅ」
「そうやって僕しか居らぬ空間では厭わず悪魔へ返るのに? 他の眼が在ると生れぬのかい?」
「あ、んたは……だってあんたはっ」
 そう、だって、悪魔の君を生まれた瞬間から見てきたのだから。人間で、ただ一人、僕だけが化け物≠フ君を。
「縋る蔦の様だね、その黒い斑紋は」
「ひ…っ」
 細い首筋に切っ先をあてがうと、鎬筋を流れる……赤いそれは、禍つ火。僕の刀を熱し鋭く熔かす君は、鍛師。
「己で立つ葦でも無し……僕に使われ、ようやく初めて葉を広げる事が出来たのだろう? それを解っている?」
「ぁ、っ、は……こ、のっ」
 刀身を掴む人修羅の指が、退かそうとしてくる。力の篭った其処目掛け、指を絡ませ阻止する。
「っ、ぐ」
「化け物同士、仲良くしようか……ねえ?」
 呟いて、一層絡ませれば、僕の指を裂いて赤く解け出す。どちらの血なのか、もう判らない。
「俺は化け物じゃない! 悪魔じゃ……無い……っ」
「其処が重要なのかい? あの母親と同じだろう……それではねぇ」
 びくりと震えて、僕を睨む金色が揺らいだ。眼を通し、毒の様に脳髄に流れ込む。求める視線が、狂おしいまでに孤高と孤独を薫らせる。たった一人の人修羅という生き物。
「そ、そういう問題じゃ」
「その慟哭する魂、もっと見せてよ、中まで、ねえ」
 顔を背けた君の鼓膜に、叩き付ける。
「悪魔の君を生かせるのは、僕だけだろう? 今の君の半身すら喰らえぬ衆とは、違う……僕は」
「ん、ぁ……変、態ッ……悪食」
 首筋の裂け目を舌で拭う、眼を見開いた君の唇から、小さく零れる悲鳴にも似た喘ぎ。赤い蜜はMAGを騒がせる。
「ねぇ、呼び給えよ、君の主人のサマナーを」
 何も信じ切れぬその眼差しは、見つめる程に堕落して往く、深い坩堝に。
「契約の限り応えてあげる、君がどんな形になろうがね」
「っは……ぁあ、あんた、は、鬼畜だ……」
 あの丸い世界と、結局は同じ。寄る辺も無い、孤独な魂。人間を浅ましく追い求める、人ならざる者。
「さあ、選び給えよ」
 浅く呼吸する、酸素不足の君に差し出す、選択肢。僕の血塗れの指で掴む、刀の柄を、その綺麗な眼前に。
「下衆……」
 かすれた声で、ゆるゆると柄を押し退け、僕の指で絡まり合う二つの赤を舐め啜った人修羅。林檎が錯覚で薫る。
「ん、ふぁ、あ」
 化け物の血が融け合うそれは、極上の魔力の美酒。ずちゅ、ずちゅり、と切なげに啜る、頬を羞恥に染めて。
「ぁ、ま……あ、まぃ、いっ……ん、ぅう」
 眉根を顰めるのに、どうしてその斑紋は歓びに脈打つ? 悪魔の本能か? それとも倒錯的な性? 自然と哂えてくる、この状況。本当は強い君を、手篭めにする快感に酔いしれる。絶望に引き摺り下ろす、僕の居る処まで、そうすれば、僕しか縋る事はできまい。
「ん、ぁ、まてっ……待てよ、おい、やめっ」
「君、とんでもない本を持っていったねぇ?」
 這い上がる欲の正体すら掴めぬまま、傍の寝台に押し倒す。頭の隅で、あの少女が本に挟んだ手紙を反芻して。

――功刀お兄さんて、面白い方ですのね。病人の私に、凄い御本を持ってきてくだすったのですよ。

「はーっ……はぁッ……」
「もっと絡ませて御覧」
「や、めろ」
「指先まで、爪先まで、枝先まで、蕾の先端まで」

――オー・ヘンリーの短編集ですの! 『最後の一葉』が収録されている事、御存知無かったのかしら?
――ふふ、この病室、窓から蔦が丁度見えますのよ、嫌がらせにも思えますねえ。

「やだ……もう、やめ、て」
 懇願……哀願……刀と悪魔で嬲る時と同じ。だが、吐息に混じる微かな熱が違う。
「フフ……ねぇ、止める必要が、あるのかい? これだって、契約の内……」
「んな、事、赦してな、ぁあ、あっ、ひぐ」
 膨らむ芽を揉みしごけば、その黒い斑紋が潤って、黒髪が雨粒を滴らせる。僕の寝台に、涙雨の跡を残す。

――蔦は、その縋る相手に依存している、弱きモノだと思います? ライドウさん……

「化け物とて……繋がれる、だろう? 此処から……」
「良く、な……いっ!」
「は……僕しか、知らぬ癖に……フフ……」
 その僕の言葉に、耳まで染めた君。悔しげに食い縛るその歯列からは、くぐもった喘ぎが。

――雁字搦めになる蔦が、何時の間にか、その脚を侵蝕して……

 背中から、君の腕を絡め取る。黒い蔦を、僕の指先に宿らせて、掴んで開く。掌の蓮を撫ぞる。そのまま、黒い蓮の花弁で僕の幹を包ませて、じっくりと摩擦で融かす。嫌悪だけでない蕩けた表情の君が、もう呆然と僕に操られている。全ての罪を僕に押し付けて、ヤドリギになりきっている。
「棘に刺され給え、矢代」
 そうしたなら、楽になれるのだよ。そんな眼で見ているだけでは、ねえ、口の端から芽から、蜜を垂れ流すばかりで、そうやって蟲を呼ぶのか、君は。
「こわ、い、怖ぃ……」
「呼べ、刺されろ、さもなくば」
 赦せない、ユルセナイ、僕の他へと、その蔦を伸ばしたら。折角見つけたのに、僕しか縋れぬ、種を。

――気付かぬ内に、蔦に支配されるのですよ。

 脅迫めいた言葉と同時に指先をふっと離せば、追い求めるかの如く、君から絡めてきた。ボルテクスで掴み上げた君の手を思い出す。
 あの山の胎内の、遠い日の僕が重なっていた。朽ちるをただ待つ、縋る他無い孤独な異端。それが闇へと伸びている事を知っていたのに、差し伸べられた手を取った……僕等の罪は等しからん。
「違う! んあっ、あ、怖ぃ、怖いっ……おか、しくなるんだ、ほどけなく、なる」
 先刻より更に、僕の身体を余すところ無く、侵蝕して往く悪魔。
「その黒蔦、僕に這わせなければ、生きれぬ様にしてあげる」
「……ッ、あがぁあァッ!」
 刺す、契約の時と同じ様に、幾度繰り返しても、鮮明に甦る甘美な儀式。一気に引き戻される記憶。繋がる度に、零に戻る。
 ずるり、と崩れる君の、濡れた黒髪を掴んで引き寄せると、僕の乱れた髪にしとりと張り付いた。そこまで絡みついてくるのか。
「ぁ……」
 睫毛の先、透明な雫が、金色を透過させて輝いている。
「ねぇ、君は……誰の物?」
 散らばった人修羅の着物の裏地は、燃える紅葉の色をしていて、表の藍色と真逆のそれが、まるでその性質にも似て。散った血の色を覆い隠す、その包容力に、閉じ込められる。
 僕の罪の眼を閉ざした君の……残酷な情が、此の水底へ続く鉄格子を解錠して往く。もう聞こえなくなった百穴の風穴音、今代わりに鼓膜を震わせるのは、切なく苦しい悲鳴だけ。
 嗚呼、なんて酷い顔。涙と唾液で、ぐしゃぐしゃの、眉根を顰めて僕を睨む……嗚呼、なんて綺麗なんだろうか、潔癖な悪魔の艶。
 僕しか知らない、ぞくぞくする、どんなデビルサマナーとて、永久に知り得ない。

――最後の一葉……残る限り、その呪縛から逃れられないのですよ、私と母の様に。

「さあ、君が最期に見るのは? 矢代?」
 震える唇が、喘ぎを伴い唱える、僕を憎悪に睨みながら。
「ぁ……あん、たの、死に顔、だ……っ」
 魔性の言の葉が、僕の中に舞い落ちる。
「……夜っ」

――ライドウさん……貴方にとって最後の一葉……誰ですか?

 人修羅という化け物を、狐の僕が喰らう。その呼ばれた名前を、合わせた唇で呑み込んで、胎に大事に嚥下した。

――サイゴノヒトハ……ダレデスカ?

 手紙の、最終行が、脳裏から離れない。

――最期の人は……誰ですか?


 -了-

* あとがき *

著名なオー・ヘンリーの作品『最後の一葉』から連想した話です。「最期の人は?」という疑問系にしたかったので。ライドウが見舞う人間に対しての人修羅の嫉妬。 異端とされる性質の者達が、自己の尊厳を勝手気ままに揮うエゴの強い展開。
(2010年原文ママ)

【癲狂院】
てんきょういん。帝都には唯一と言える 官公立の精神病院である巣鴨病院が存在します。 巣鴨病院は以前は東京府癲狂院として、最初は明治12年(1879)に神田にありましたが、明治14年に本郷区に移転、更にその後、明治19年に巣鴨へ移転します。この後、明治32年に癲狂院の名を嫌った榊らによって東京府巣鴨病院に改められます。更にこの後、大正8年(1919)に東京の外れ、荏原郡松澤村北上澤へ移転し東京府立松澤病院となります。
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【百々目鬼】
どどめき。日本の栃木県宇都宮地方に伝わる鬼の一種。身の丈は三メートルはあり、毛は刃の如く尖っており、体中には百の目がついていたという。馬捨て場に現われ死んだ馬を貪り食う。藤原秀郷によって倒されたが、死んでなお体からは火炎と毒気が吹き上がっていたので近づけなかった。通りかかった本願寺の智徳上人の呪文 により火炎と百の目は消え、百目鬼はその場に葬られたという。
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【百穴】
ひゃくあな。古墳時代(7世紀初頭)に造られた横穴式の群集墓。百々目鬼伝説が残る長岡百穴古墳をイメェジ。[wiki・巨石巡礼様]

【新青年】
1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つでもあり、「都会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。国内外の探偵小説を紹介し、また江戸川乱歩、横溝正史を初めとする多くの探偵小説作家の活躍の場となって、日本の推理小説の歴史上、大きな役割を果たした。また牧逸馬、夢野久作、久生十蘭といった異端作家を生み出した。[wiki・探偵小説資料館様]

【石目】
いしめ。岩石中に存在する割れやすい特殊の方向をいい,岩石の中の鉱物の配列を示している。
[岩石学辞典様]

【邪魅】
じゃみ。人間を害する妖怪の総称、山林の悪気を起こして人を害する。晋時代の中国の書『神仙伝』には、あらゆる病気の治療に長けた王遙(おうよう)という仙人が、魔物に魅入られた者に対し、地面に牢獄を描いて魔物を呼び出し、正体を現した魔物を牢獄に入れることで病気を治したとあるが、この魔物が邪魅と指摘されている。[wiki]