渋谷交差点-青-
『まさに《人の皮を被った化け物》と云えましょう』
この喧噪に掻き消されても良い筈だが、司会者のその言葉だけがいやに鮮明に聴こえた。
【横行する少年犯罪】というテーマで進行されるニュース画面が、横並びのテレビを占拠している。
「お父さんっ、青だよ青っ」
娘に袖を引かれ、肩と肩が掠めつつ行き交う横断歩道を抜けた。休日の渋谷だ、人混みを覚悟せずに来た訳でも無い。
「折角の109だし、どうしよう。ねえねえ予算はいくらまで?」
「一万とちょっとかな……」
「欲張りしなければ上下買える、やったあ」
はしゃぐ娘の後ろ姿に、穏やかな気持ちが広がった。テストの点数が良かったら御褒美が欲しい、との約束だった が。さほど高くなくとも、何か与えるつもりだった。
親馬鹿というやつだろう、承知している。これが私の至福なのだから、甘やかすなと云われても無理な話。
本当は、もっと幼い頃に遊んであげるべきだったのだ。それを「仕事が多忙だから」と、言い訳にしたこれまでを悔いている。
「やっぱさっきのセシルのが良いかなあ……でもセシルの服なら、もっと大人になってからでも着られるもんね」
煌びやかなショップブースに入るのは流石に気恥ずかしいので、私は通路側で待機姿勢を取る。娘は縦長な姿見の前で、一人ファッションショー。
年頃の少女が父親同伴を許してくれるのだから、きっと我が家は円満なのだろう。
「ねえ、さっきのお店のワンピースと、このセットアップとどっちがイイと思う?」
振り返って、有頂天のまま問い掛けてくる。
娘が身にあてがうのは、鮮やかなチェック柄の赤いプリーツスカート。それと白いニットのトップスだ。
服飾に関しては知識が乏しいので、専門的な事は云えないが……そんな自分でも嗜好がはっきりと明暗を告げた。
「それにしておきなさい、さっきのワンピースは少し刺々しいから」
先刻の店で、彼女がしきりに気にしていたワンピースというのがフェイクレザーで出来ていて。蛇革を模したプリントも、些か華美であった。悪く云えば、毒々しい。
「じゃあこっちにするねっ! レジ行こうレジ」
財布を持たせようとジャケットの内側を探れば、娘も同じ様に自身の手提げを探っている。
「ん、有った〜! リズリサ来たの結構前だから、財布に入れてあったか判らなくって」
ショップの会員カードを指に挟み、はにかんで私の財布を受け取った娘。牛革の、滑々として、それでいてしっとりした重みがこの手を逃げていく。
そう、同じ革でもこれなら愛用出来る。模様のある革は個性が強く、持ち物では避けがちだった。
「あっ、そういえば値段は一万円以内だよ。えっと……この上下で八千円くらい」
「それなら二千円程度の小物でも合わせて買いなさい」
「ええっ、いいよおそんな。二千円有ったら毎日のお弁当、もうちょっとランクアップ出来るんじゃないの?」
「今のお昼で充分だから」
「……ありがと〜お父さんっ」
構わなかった、たったの数千円。これで我が子の笑顔が増すのなら、安いものだ。
会計を済ませるその横顔を遠目に眺め「妻に似てきたなあ」と、ぼんやり考えていた。
「お父さんがハッキリ云うの、珍しいね」
帰路の途中、娘が唐突に呟いた。ビルの隙間から零れる夕日を、ショップバッグが反射させる。
「……何を?」
「コッチにしなさい〜って即答だったじゃん。ほら、だって普段はあんまり好きも嫌いも無いみたいだし……しかも服の事なんてサッパリ、でしょ?」
「それはそうだね、しかしあの蛇っぽいのは頂けないなあ」
「ケバい?」
「そうだね、色気を出すにはまだ早いかな……」
「あのね、自分でもちょっとそう思って、迷ったの」
薄い街路樹、無機質な建造物の群れ、空を投影する窓硝子の壁。色の無い街中で、忙しなく揺れるのは人影ばかり。
「でも、背伸びしたいのって解かる? お子様だからこそ、お姉さんぽいアレコレへの憧れがですねっ」
「背伸び……」
「お金がいくらでも有るなら、全部お願いしちゃうけど。でも御褒美に服を選んだのは、それが気分転換に手っ取り早いからで……」
ショップバッグの掴みを握り直した娘が、一呼吸おきに呟いた。金縁が施された黒リボンに、みるみる皺が寄っていく。
「例えば皆が裸だったら……パッと見じゃ良く判らないよね。その人の好みとか、立場とか」
「裸?」
「ガリガリで頼りない体格のお父さんでも、スーツ着たらちゃーんとサラリーマンに見えるもん」
「ははぁ、つまり着てる物で印象が変わるって?」
「形から入るのって大事じゃないのかなあ……気分が変わるのよ、まじ」
「そうかもしれないねえ」
「ほらぁ、詐欺する人ってまずは制服を着て騙すでしょ! 作業着とか適当なの買って着込んで、それで家を訪問するじゃん」
まさか其処へ例えを結びつけると思わずに、唖然とした後、笑ってしまった。冗談では無く、彼女は純粋に思ったのだろう。述べた表情はニヤニヤとはしておらず、寧ろ閃きの笑顔だったから。
実際、その言葉に違和感は無い。印象操作という観点で見れば、着衣はつまり擬態なのだ。
「羊の皮を被った狼、って言葉が有ったね」
「それってちゃんとしたことわざなの? たまに聞くけど、習った覚え無いよ」
娘の指摘に、それもそうだなと思い返す。
羊の姿で油断させておきながら、中身は狼が如く凶暴……勝手にそういう意味と受け取っていたが。正式な意味を知らないのかもしれない。羊と狼のイメージだって、一般的なもので捉えているだけだ。
「でも、ずっと羊の皮被ってたら、本当に羊みたくなっちゃわないのかなあ、性格とか」
またあっけらかんと云い放った娘に、笑いを忍ばせつつ相槌をすれば。「あっ、そしたら脱げば良いだけか」などと続けたものだから、久々に口を開けて笑ってしまった。
「あ、すいません」
「ん、こちらこそ失礼」
と、いよいよ他人と肩がぶつかった。少し引っ掛かる感触、相手はレザーのシングルライダースを着ていた。私のジャケットはさらりとした布地だったが、それでも摩擦にキュっと啼く。
互いに一瞬で謝罪し、事無きを得る。妙な相手でなくて良かった、それこそ今日び犯罪者として挙がる少年達と同世代に見えたから。
「ねえ、今の人……」
数秒後、私の肩を今度は娘が叩く。直後に掘り返すとは、父親としては捨て置けない。
「まさか、好みだったとか?」
「MONOみたいな色のジャケットだったね」
意味が解らずに押し黙れば、もうひとつ肩を叩かれる。
「ほら、消しゴムの!」
「……ああ!」
「でしょ!?」
その着衣ならば、つまりあの少年はどういう人物なのか? と。思わず顔を見合わせ……親子揃って笑いをかみ殺した。
「今日はありがと、お父さん。今度遊びに行く時にさっそく着るよん」
消しゴムの様に真っ白だから汚れ易いのだろうか……それとも、消しゴムの様に何でも消してしまうのか……
そんなどうでも良い事は、愛しい娘の声に掻き消され霧散した。
-了-