109



『ねえねえライドウ〜っ!似合う?』

 小花柄のスカートを翻し、モー・ショボーが鏡の前で旋回してみせる。本来それは膝丈なのだろうが、幼女が纏えば途端にワンピースへと変貌する。
「寸足らず」
『……いいもーんだ、お直しして貰うんだもん』
「誰がしてくれると云うのだい、そういった店は何処も営業しておらぬよ」
『あっ、こっちのマネキンが着てるブラウスも可愛い〜』
 ブラウスなど、スカートよりも無理が有るではないか。
「体躯を無視した選定は、最早一笑する他無く、僕は先に店を抜けた。
 翼でささっとマネキンの埃を掃うモー・ショボーが、ブラウスのボタンを外そうと四苦八苦。
『あぁん、待ってよライドウ〜釦外せないよお』
 当然だ、ミトンをした手でこなす作業では無いだろうに。
 つかつかと通路を往く僕を見て、いよいよ諦めたのか。ガタンガタンと豪快な音を立てつつ、彼女は追従してきた。ちらりと背後を確認すれば、中途半端に手足を切断されたマネキン達が転がっている。その死屍累々とした光景と、店の内装のギャップには、失笑せざるを得ない。
 非常灯がぼんやりと明滅する空間は、眼さえ慣れてしまえばよく視えた。廃墟の様に静まり返り人の気配も無いが、蜘蛛の巣さえ見当たらない。
 巨大なビルヂングの中に小さな店が幾つもひしめいており、此処は百貨店を連想させる。煌びやかな配色や照明が活気を匂わせたが、重厚な高級感とは少し遠い。
「先刻の《LIZ LISA》とやらはもう良いのかい。マネキン解体ならば、イケブクロの巨大倉庫で存分にすると良い」
『だって、ブラウスの前が開かなかったんだもん』
「確かに、中身をバラせば脱がすに早いね」
『でしょーえへ、ねえねえショボー頭良い?』
「寸足らず」
『ちょっとライドウ真面目に聞いてるのお!?』
「ザンをしくじったろう、マネキンだけでなく服も切れている」
『えっ? あっ、あーホントだぁ』
 片腕だけ半袖、裾は胸下まで大胆短縮。今度は当人では無く衣類側が寸足らずとなった訳だ。
 がっくりと肩を落としたモー・ショボーは、それでもブラウスを放さなかった。しきりにその襟を気にしている、恐らくあの部分に使用されたレエス生地がお気に入りなのだ。
『いいなあニンゲンってずるい、着るモノに色んな形があってうらやま〜』
「妬む事も無い、人間はこの世界にもう殆ど居らぬのだから」
『それもそっかぁ、お金も払わなくていいもんね! ショボー達がニンゲンの物を使い放題だあ〜!』
「ちゃんと払っていた事が有ったのかい?」
 問えばぺろりと舌を出した凶鳥、しかし僕もそれに遺憾を覚える事は無い。悪魔とはそういうものだ、人間の規則に従う必要は無い。無論、出過ぎた杭は打たれるが……それは人間も同じ。
 それだから異界と定義付け、互いの住処に線引きをしたというのに。このボルテクス界という処は、人間の世界にそのまま悪魔が移住したかの様だった。
『広いねーっ! ギンロウカクの何個分の高さだろ。ショボー迷子になっちゃう』
「置いて行くからそのつもりで」
『あの黒猫も置いてくの?』
「さて、どうしたものかな?」
 迷子センターと看板が掲げてある一角、接近すれば例の黒猫が此方を睨み、眼を光らせた。
『聴こえておったぞライドウ』
「此処一帯の悪魔にやられる貴方では無いでしょう、それに食品売店も外に御座います。良いですか、猫の絵のラベル缶ですよ?」
『たわけ!散歩もほどほどにしろ、しかも缶……爪も牙も欠けるわ』
 預り所にゴウト童子を待たせるのは、何ともいえず心が弾んだ。
 傍に浮くモー・ショボーが『あれって猫肉のカンヅメじゃないの?』と呟き、其処へ黒猫が更に怒鳴る。
「ただ遊び歩いている訳では御座いません童子、折角参った世界ですから色々と捜索しているのです」
『人修羅はどうした』
「彼は最近アサクサに入り浸っておりましてね、流石に此方から捜査対象を急かすのは問題でしょう?」
『……痺れを切らすなよ』
 案外鋭い童子の指摘に、僕は軽く哂って往なした。
 第三カルパで一戦交えた時の高揚を、この身は未だ憶えている。悪魔の力を宿した人間が、其処には居たのだ。人型の悪魔ならば大勢居るが、それとも違う。
 強く膨大な魔力は、人間の器を内部から損壊させる。常人では到底耐えうるとは思えぬ力が、彼からは発される。だが人修羅が壊れる事は無い、肉体そのものを変質させられた所為だ。
 生体エネルギイを繰り、外からの攻撃を緩衝させる事は僕にも可能だが、限度は有る。なので呪いを施した装備を巻き、外套を羽織る。流れる剛毛も分厚い皮膚も、持ち合わせていないから。
『そういえば人修羅って、いつも裸だね!風邪ひかないのかな、あっ悪魔だからひかないか』
 ザンでビリビリとブラウスを裂くモー・ショボーが、無邪気な声で人修羅を詰った。
 彼は悪魔の身を恥じている、今の言葉は挑発の様なものだ。
「半裸と云っておやりよ」
『えっ、あれ下の黒い部分って、もしかしてズボンか何かなの? アレも紋様かと思ってた』
「鳥眼」
『だって鳥だもーん』
 テロン、とミトンの先で摘ままれたレエス襟が揺れた。身頃から離され、最早リボンの様になったそれを僕の胸元に突き付けてくる。
『ねえ、ショボーの管にこれ結んでおいてよライドウ! 蝶々結びで可愛くね、リボンみたいに』
「己が入っている時に見えぬだろう」
『もうっ、乙女心が分からないのねライドウってばぁ! ベッドも可愛い方がいいでしょ!』
「見えぬ所に気を遣うなら、下着くらい穿き給え」
 レエスを受けとりながら唱えると、頬を膨らませ胸を張るモー・ショボー。
『えっへん! サービスだよっ』
「莫迦だね、穿いていた方が歓ばれるよ」
『そうなの!? じゃあ今度、下着売り場の傍通ったら召喚してよお』
「残念だが、この後はアサクサに赴く。確か、褌専門店なら在ったかな」
『ライドウのばかっ!』
 翼でビンタでもしたかったのだろうが……咄嗟に身を引いた僕の学帽を、ほんの少し浮かせただけに終わった。
「寸足らず」
 僕はニタリと哂って、これを別れの挨拶とした。膨らませた頬の空気が抜けぬまま、モーショボーが淡い光の粒となり管に吸われる。
『あれも喧しい小娘だが、お前も仲魔をからかう癖を何とかせんか』
 黒猫の説教は環境音に等しく僕の耳を撫でるだけで、109から表に出るとそれは更に顕著となる。
 悪魔達のささやきは、其処かしこから聴こえ来る。潮や雷の、遠鳴りの様に。

『おい、ヨヨギ公園に妙な奴が陣取ってるってよぉ……もう聴いたか?』
『皮ヲ剥グ《マネカタ》ダロ? 気ニスル事モ無イ、野次馬スルダケ無駄』
『んだな。妖精も厄介なのばっかだし、きっと一人じゃどうにも出来ねえな、はは』

 無意味な会話から噂話まで様々……永くを生きる彼等は、存外お喋り好きである。そして僕にとっては、四方八方から押し寄せる悪魔の声が興味深いのだ。ゴウト童子の声こそ認識出来なければ楽だ、などと思ってしまう。
「行先変更ですゴウト童子、徒歩でヨヨギ公園へ向かいます」
『たった今、モウリョウ共の傍を通った際にお前は耳にしなかったのか?』
「何を云うのですか、探偵はまず野次馬からでしょう」
 黒猫は「フーッ」と、威嚇なのか溜息なのか判断し難い息を吐いた。その素振りを見た僕は、自然と口角が上がる。
 御目付役の体毛が、ボルテクスの砂塵で白く濁るであろう予測。反して、外套をひとつ靡かせ砂を掃えばそれで良い僕。移動の際の消耗が、僕と童子では違うのだ。
『まだ……まだ来ないのか!? フォルネウスゥウ!』
 ハチ公前にて相変わらずフォルネウスの居場所を訊いてくるデカラビアに、僕は《迷子センター》へ赴く事を勧めてみた。
 身体を傾げ、くるくると旋回した後『では目の前の109から』と、流れ星が如く駆け込んで行く。
『弄びが過ぎる、いつか刺されても知らんぞ』
「人に殺されるよりは本望でしょう、実に悪魔召喚師らしい死に様だ」
『抜かせ。それに我は、悪魔だけと限定しておらんわ。例のマネカタにも気を付けろと云っている』
「皮を剥ぐあのマネカタですか? 僕は喧嘩を売った憶えは御座いませぬ、童子」
 まったく、人の事を《人で無し》の如く述べる、全く失礼な御目付役である。
 容易く人で無しと成れるなら、僕とて衣を脱ぎ捨て悪魔の身ひとつで生きたいというのに。



 シブヤの街並みが徐々に褪せ、風紋が薄っすらと連なる砂漠に変わる。気象も何も無いこの世界、大気が風を巻き起こし肌を撫でる事も無い。
 上空を飛び交う悪魔の羽ばたきが織りなすものであり、この砂模様は自然現象とは云い難い。しかし自ら踏み締め撒き上げた砂を被る事は有る為、僕は帽子を深く被り襟を立てた。
 煌々と存在を誇示するカグツチが、生体や建造物の影を地に落し込んでいる。人間である身体ではさほど感じぬ訳だが、この光が悪魔達を一喜一憂させているのだと思えば、少しばかり警戒もする。
『ふむ、随分と静かだな……ピクシーの一体も居らん』
 ヨヨギ公園駅を横切る。以前ならばこの辺りから妖精の気配が強かったものだが、それが無い。童子の訝しんだ台詞を反芻しながら、工事現場の柵を見上げた。
 不可視だが、そこはかとなく立ち昇る力を感じる。この世界の住人が求める《マガツヒ》の予感だ。
 申し訳程度に残った樹木達よりも、はるかに高く封鎖されている一帯。柵から頭を覗かせている重機に、目測を置く。あれは起重機と思われるが、己がこれまでに見てきた物とは随分形状が違う。確か異国ではクレーンと呼び、天を貫きそうなビルヂングを建てるのに重要な存在だった。
「出入口は施錠されていた筈ですからね。別の手段で、するりと入りましょう」
『そうだったな……妖精は一所に集い、外界から住処を遮断する性質がある。部外者の排除に――』
 台詞の途中でフギャッ、と悲鳴する黒猫。小脇に抱えられ、只の小動物と化し脚をばたつかせる。
『おいっ、ライドウ! 説明をっ、先にしろ!』
 僕は指先に携えた管を掲げ、召喚したツチグモに命じ糸を吐かせた。白い線がぼやけた空に一閃、明瞭な軌道を残す。
『もごご、背ぇ高ノッポな車。釣竿みてえに首傾げてらぁ』
「その通り、今から僕等は魚が如く釣られ、あそこに赴くのだ。宜しく頼むよ」
ツチグモの背に飛び乗り、臀部を軽く爪先で蹴る。クレーンの先端に粘着した糸が、微かに揺れた。
『しっかり掴まっとけよぉライドウ』
 撃ち出される銃弾の如し速度で、しゅるると糸を手繰るツチグモ。柵を眼下に捉えるも一瞬、一呼吸の間にクレーンの天辺へと到達した。
「君は少し目立つからね、一先ずは管に戻っておいで」
『今度は獲物を釣りたいぞ、動き回る方が捕まえ甲斐が有るってモンだぁ』
「ばりばりと頭から喰う気かな? 悪いが今回は簀巻き程度にしてくれ給え、妖精の集団に喧嘩を売るつもりは無い」
『んだぃ、そりゃつまらんな! お前さんもそう思ってんだろぅ?』
「さあ?」
 哂ってはぐらかし、管を翳せば大人しく中に納まった。
 重量の変動に、足場の鉄塊が少しだけ鳴く。見下ろした先の操縦席は強固な硝子を前面に構え、こぢんまりとした部屋の様だ。工事作業とは明らかに無関係な飲料瓶や本が、計器や舵の脇に放置されていた。
『せっかちな移動をするでないわ、まったく……ヒヤリとさせおって』
 文句を吐き、もぞもぞ四肢を伸ばそうとする童子。それを腕から逃すと、僕も下方の足場に靴先を引っ掻ける。扉を開き、砂埃に白んだ席へと身を乗り出す。地上まで降りる事が億劫なのだろう、この位置から外を一望すると、それが理解出来た。
『何をしておる、思念体でも居たか』
「いえ、荒らされてすらおりませぬ。妖精達にとって、興味の対象では無かったという事に御座いましょう」
『……で、お前にとっては興味の対象という事か?』
 こういう時のゴウト童子は、呆れるばかりでしっかりと此方の手先を見ようとしない。それだから、捜査手帳に綴られる情報が『覚え書き』にしかならないのだ。
「この世界での見聞は、どれだけ有っても損にはならないですよ」
『その様な冊子なぞ……朽ちた書店に幾らでも転がっておるだろう』
「あれ等は売り物ですからね。此処に転がる物は個人の物。残留した思念というものが付与される」
『それだって星の数ほど転がっているぞ。いくら東京受胎に荒廃したとて、この世も人間の物だらけだろうが、キリが無い』
 足場が整っているとはいえ、かなりの高所。そわそわと尾を揺らす黒猫、視界の端にそれを認めながら僕は物を漁る。
 手に取った一冊……《週刊○○》なる誌名の下、記事の見出しが赤裸々に踊っていた。これだけの厚さの割に、色写真が多い。
 はらはらと指先にめくれば、乾ききった頁に水分が吸われていくかの様だ。
『大衆向けの娯楽冊子であろう、大した情報は無い、断言出来るぞ』
「不正を暴くとの文言で、議員汚職の記事も有りますよ」
『露見する事の半分は統制された件だ。お前も国家機関に居るのなら、その辺りは把握しているだろうが』
 呆れなのか諦観なのか、ゴウト童子の声音は無感情に響いた。
「これはこれは、タヱさんには聴かせられませんね」
 確かに、我々の請けている依頼に直接関与する記事は無かった。それでも、変質する以前の東京の事は知っておくべきなのだ。
 ボルテクスにてコトワリを掲げる彼等が、かつて生きた世界を知る事が……僕は愉しい。
『何をニヤけておる、破廉恥な記事でも有ったか?』
 そういったモノを見たいのなら、裸体の写真集を回収すれば早い。それに、アルラウネやスカアハで免疫がついている。というよりも、既に見飽いていた。
「愉しい記事……そうですね。まさに此処、ヨヨギ公園にて発生した殺人事件など掲載されております」
『……それは氷川の関わっている暴動の件か?』
「いえ、それより以前の事でしょう。《少年犯罪の犠牲となった少女》という、まあよく見る類の事件です」
 さらりと紙面に目を通すだけでも、被害者の顔写真は笑顔を此方に向けるばかりで。その事実は、この「生前愛されていた被害者」という文章に説得力を持たせていた。
 所属していた部活、交友関係、趣味や将来の夢、被害者の何もかもが記事に集積されている。これでは、まるでちょっとした棺桶だ。
 反して、加害者の顔には黒い修正が施されている。この扱いの違い、実に判り易い。暴ける方を暴いているのだ、人間の世の中が。
 生体で口も有る加害者の服は取り払えぬので、死体で口も無い被害者を裸にし、皮ごと剥いでいるのだ。
 行き過ぎた正義感や同情は、鋭く刺さる。悪魔が人間を唆す際に付け入る、まさしく入口……道徳や自尊心。
 僕はこうして人間の弱点を再確認する度に、滑稽で哂えてしまうのだ。莫迦にしたい訳ではないが、しかし人の世を面倒と感じる。
『ふむ、特に楽しい記事では無いな、人間同士の闇だ。そして改めて鑑みれば、お前はいつもニタニタしておったわ』
「加害者よりも被害者の個人情報が多く、なにやら不遜な心地にさせてくれますね。特に、殺傷された際の着衣だとか。トリックや加害者の動機に関連性が有るのならともかく、不要な点まで鮮やかに書き出すのは……フフ、如何なものかと」
 上は白いニットソー。下はチェック柄のプリーツひだが入ったスカート、赤い色だそうだ。
『真偽構わぬ内容なぞ、我等の時代からありふれておるわ。しかしこの時代の記事は……何が何でも美女・美少女にしたがる辺りがな』
「よく御存知ではありませんか、ゴウト童子」
『フン、何処ぞの十四代目が油を売ってばかりなのでな。今のお前がしている様な暇潰しを、我もせぬ訳では無い』
「何に生まれ、どの様な世界であっても、死ぬは損という事に御座います」
 ぱさりと冊子を閉じて、元の位置に寸分違わず置き直した。
「組織に心血注いだ末に、猫の皮衣を着せられても。生きているだけ得が有るのでしょう、ねえ?」
 翡翠の眼が僕を睨むが、臆する事は無い。僕も関与しているから、これは嫌味では無く皮肉なのだ。
 いつか己も罪をあてがわれ、動物の中へと魂を移されるのではないか、という可能性。葛葉四天王である限り、付き纏う不安であった。
 この書生の黒い学生服から、同じく黒い小動物の皮に衣替えするだけ、といえばそれまでだが。
 猫になろうが、サマナーや悪魔と意思の疎通は可能……しかし、圧倒的に行動は制限され、ヤタガラスの監視下に生きる他無い。その時が来る前に、更に力を得なくては。悪魔への造詣を深め、呪いを弾く……若しくは呑み込む様な何かを見付けなければ。
『気が済んだのなら、さっさと行くぞ』
 結局黒猫は、肯定も否定も吐かず終いだ。トタトタと鉄筋階段を駆け下り、地面にて僕を見上げ待つ。
 その小さな姿を捉えつつ、僕も追って階段を下りる。こういう動作は猫の方が素早く、柔軟である。
 一寸の間、下りながら夢想する。
 例えば今、ツチグモの様な巨大な悪魔を召喚して童子の下へと着地させたなら、黒猫の肉体はひとたまりも無いだろう。
 時折、無性に破壊したくなる。あの肉体を引き裂いた瞬間、童子の魂がどの様に流れ往くのか。気になって仕方が無い。原理が解かれば、同じ轍を踏む事を避けられるかもしれない。かつて童子が散った際、近くに居られなかった事を悔いた。
『何をジロジロと見ておる、我の項に妖精でも居るか?』
「いえ、何も」
 居たのなら、掃うべきである。妖精は悪戯好きだ、何をするか分からない。しかし今の気分のまま手を伸ばすと、猫の首根っこをわしりと掴んでしまいそうだった。
 ギリギリと絞める様に掴めば、指の腹全体に感じるであろう……恐らく、そのトクトクと脈打つ血潮さえ、猫とは異なる魂がさせているのだ。
「破りたくなるのです」
 僕の呟きの矛先が判らないのだろう、童子は訝しんで傍に佇む。此方から歩み出せば、倍以上の歩数でついてくる。
『何をだ、主語が抜けておる』
 貴方様の身体をです、そう答えようかと思ったが、留まった。もう少し遠回しに述べてみる、関連性の有る話題を選ぶ事が勘所か。
「昆虫の翅だとか、獣の皮を使用した物を」
『普段より刀で斬り削いでいるではないか、似た様な連中を』
「それは戦いの相手として対峙するからでしょう。それ以外の出逢いをした際に、疼く心を抑え込むのが一苦労なのですよ」
『それ以外……革製品などか?』
「耐久性の関係で、その辺りに使用される皮はたかが知れております。もう少し特殊な……例えば《下手装本》などが」
『ああ、そういえば云っておったな……槻賀多村に居ったヤナギタという男が』
 巧く誘導が出来、僕は大変満足な心地に浸る。ねこじゃらしなぞ不要である。
「ヤナギタ氏も蒐集しているとの事ですが、解りますよ。内容に因んだ本の表装は、とても魅力的です」
 件の男が命名したそうだ。《げてそうほん》という名は。
 如何なる物かというと、単刀直入に云えば《妙な素材で装丁された本》の事である。妙な素材の一例を挙げれば、番傘(和紙に非ず、あくまでも番傘として活きた素材のみ)だとか。
 そうそう、猫の皮革を背表紙に使用した本も有った。加工出来る素材ならば、本当に何でも良いのだ。
『しかし何故に破りたいのだお前は? 全く、力量で葛葉を継いだは良いが、泥は塗るなよ』
 ひとつ、角を曲がった際に追及された。周囲に警戒しつつ、足元へ返事する。
「物珍しい生き物の皮なんかだった日には、特にですね。面識の無い素材が本として手許に訪れたならば、当然引き裂いた際の感触も未体験ですから」
『珍しい、……な。悪魔共も様々だと思うぞ? お前にとって、最早珍獣では無いのやもしれぬが』
「ゴウト童子、僕はデビルサマナーであり、革職人でも装丁師でも御座いませぬ。悪魔の皮を採取したとて、ずうっと形を維持する方法も存じませぬ」
『ふむ、それもそうか。悪魔によっては、そのMAGごと散り散りになるからな。死してなお現世に器が残る悪魔は、それなりの力量が有るとみて違い無い』
「それか、悪魔の肉体を物質として固着させる術が有るか、どちらかでしょう」
 向こうに見える高台の最上階に気配を感じ、其処から死角になると思わしき角へ身を潜めた。カグツチの引き延ばす物陰が、僕の着衣の黒と馴染み一体化する。
「見張りですね、麓から二通路先までは見下ろせる筈」
『図体のでかい悪魔らしいな……くそ、この低い視点ではよく判らぬ』
「トロール、連れは無し、一定の場所を往復中、現在のカグツチは五割程度の輝き」
『奴の視界を横切るつもりならば、何とかせんとな』
 カグツチも眩しい空を仰ぎつつ、管を指先で叩いた。傍らに召喚されたモコイが僕を見上げ、その指の無い手で脛をつついてきた。
『やぁどうもサマナーくん、行ってみたいね』
「イスタンブール」
『最近召喚されるの、いっつも真昼間だね。チミも夜行性だと思ってたのに』
「この世界に居る限りは、イスタンブールも満月も拝めぬよ」
『しょっぺえスね。やっぱボク、ボルテクス引退してもいい?』
「僕の仲魔からはすぐにでも引退可能だが、元の世界へのお帰りは自己負担だ」
『ペロッ、これは涙。やっぱしょっぱいね、とってもテイスティ』
 僕は片腕にモコイを担ぎ、上腕から肩にかけて跨らせた。その丸く白々とした双眸と一瞬眼が合ったが、すぐに離した。
 訓練された仲魔達は、云わずとも僕の視線を追う。サマナーの命令を待ち望んでいるのだ。
「あそこの悪魔を高台から落とし給え」
『はぁーよく分かってるねチミ。そうそう、あそこまではちょっぴり高さが足りなかったんだよね、ブーメラン』
「トロールは反射の良い悪魔では無いが、後ろから狙う様に」
『ん〜ボクそういうプレッシャー与えられると、ノーコンになっちゃうカナ』
「ノーコンティニューの方で宜しく」
『流石は帝都のモダンボーイ、和製英語だね』
 ぐい、と腕を引き絞ったモコイが上体を捻る。緑の手元を離れたブーメランが、自我を持ったかの如く風に乗る。
 それは高台の端まで来ていたトロールの、見事後頭部に直撃した。瞬間、傍のモコイが『よっしゃ』と口走る。失速はせず此方に還ってくる辺り、あの武器にはモコイの魔力が働いているのだろう。
 転落していく悪魔を確認しつつ、僕は首を反らす。 ブーメランの風切り音が鼓膜を震わせ、軌道が帽子のつばを掠めた。
『ヒュルル〜ドスッて、ヤバイ音がしたね、トロールはデッド?』
「暫くは元の位置に戻れぬだろう」
『その隙にダッシュ? 走るのはちょっと避けたいね、もうダイエット成功したから必要ナッシン』
「御苦労、管でイスタンブールの夢でも見ておいで」
『どうせフェアリー・テールっスね』
 ブーメランの切っ先でポリポリと頭を掻きながら、管に吸いこまれていくモコイ。
 僕は先を急ぎつつ、先刻触れたあの緑の表皮を思い出していた。絹の様で、それでいて妙に湿度を湛えている。かと思えば水を弾き、敵からの攻撃に裂けても体液が弾ける事も無い。
 摩訶不思議な質感、魔力を秘めし悪魔の皮肉。
 書物の装丁に用いれば、恐らくそれ自体が力を持つのだ。形作られ呪いを塗り込められた式が、自ずと飛び立つ様に。
 事実、西洋の魔導書には人皮が用いられた物も在るそうだ。モコイの鮮やかな緑色は、きっと書棚に並べても映えるだろう。その隣に並べるとすると、オニの真赤な膚目が良さそうだ。
『おいライドウ、見えているか? ピクシー共が……』
 夢の本棚を想像していた僕の神経を、黒猫がざらりと撫でた。忠告される以前より、見えてはいた。身体は無意識のうちに警戒をしている、気配には敏感だと自負が有った。
「これはまた一斉移動ですね、何者かが堂々と入口より侵入した、とか?」
 夕暮れ時の鳥の群れの様に、翅をカグツチの光に煌めかせる妖精達が空に居た。向かう方角からして、恐らく現場出入口。侵入者の顔を確認しにか、それとも悪戯しに向かったのか。
『何者かとは何者ぞ。お前に予測はついておるのか』
「この現場の中央に膨大なマガツヒが眠っている、と噂には聴いております。欲するは……創世を目指す者か、または妨害する者でしょう」
『遠回しだな。そんな連中は人間か、蛮勇なるマネカタ二体しか該当せんわ』
「それと、どっちつかずの半端者」
『……人修羅とハッキリ云えばどうだ』
 方々に散っていた妖精が固まった為、僕は悠々と足を進める。
 ぽつりぽつりと点在するは、色褪せた資材と思念体のみ。その中の一人と対話を試みる……作業着姿の思念体だ。
 サカハギのせいで妖精達は正常では無い、との事であった。正常も何も、本来生真面目とは云い難い連中だと僕は哂ってしまったが。
 しかし、あのマネカタにも悪魔の心を狂わせる術が有ったという事実が、どこか憎らしい。土くれである事に憤怒し、悪魔に虐げられるを好しとせず、同族の皮を纏って生きる者。
 あの皮は勲章のつもりだろうか……信条を訊いてみたいと思っていた。
「人修羅も、サカハギとは対立するのでしょうね」
『今の所、誰の理念にも賛同している様子は無いからな』
「嗚呼、勿体無い。あの禍々しい斑紋も、このまま単なるこけ脅しと為るので御座いましょう」
『……まあ、そうだな。アレの態度からするに、当人も望まぬ姿という事は判っておる。あの姿が、雑魚を寄せ付けぬ一方で敵を増やしてもいるのならば、皮肉なものよ』
 無差別に殺傷するサカハギの事を、マネカタ達も人修羅も嫌悪していたが、僕は部分的に評価していた。
 集団の倫理で云えば問題有りなのだろうが、逃げも隠れもせずにやり通す其処に、確かな熱を感じる。
 どれだけ殺し、剥ぎ、その皮で身を包もうとも、顔の半分は見せている。
「マタイの福音書、七章十五節を御存知ですか?」
 最早諭すのが億劫だ、と云わんばかりの黒猫。僕の問い掛けに少しだけ首を傾げ、髭が揺れていた。
『云ってくれ、聴けば内容は憶えがあるやもしれぬ』
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である」
『あのマネカタが纏っているのが、羊の皮だと云いたいのか? いくら弱いモノの皮とはいえ、同族殺しの凶暴者と認識されよう』
「つまりあの皮衣は防衛の為では無い、彼にとって勲章……もしくは、意識を高揚させる呪いの類ではないだろうか。という事が云いたいのです」
 それよりも、と僕は続ける。目の前に一際高い柵が現れ、立ち止まった折だ。
「偽預言者、という言葉が気になりませんか?」
『……サカハギは予言などしておらん、あれの喚く「近い未来」とは、全て絵空事だろう』
「フフ、サカハギの方では御座いませぬよ童子、預言するマネカタは別に居たでしょう?」
 どうやら侵入可能、扉がしっかりと有る。中央という事で、一番高い足場が組まれている様子だ。そして立ち昇る力も、この内側より感ずる。サカハギが居座っているとすれば、この中である確率が高い。
『フトミミの方が怪しいか?』
「マネカタ以外の排除に抵抗は無い様子に見えましたけどね……僕には。それこそ皮を剥いでみたら良い、どちらがどちらなのか、区別がつかないかもしれませんよ」
 着衣は、皮肉は、己の抑圧部分を昇華させる一因となるのだ。畏れ……信仰……欲する姿を真に得る為の、仮初。
『おい待てライドウ、中に入って何とする。ひとまず潜み、人修羅が来るを待つべきでは無いのか?』
 見上げてくる黒猫をよそに、僕は扉に手を掛けた。 扉自体に呪いも感じず、裏側に気配も無い、施錠も無い。
 開く前に、ひとつ空を見上げる。白い背景の中、いくつかのクレーンと高台が、切り絵の如く逆光を帯びている。鮮明な明暗は、ひとつの紋様の様で大変美しい。あの半人半魔を思い出す、最早人では無くなった肌の装丁を。
 特に、頬からこめかみにかけての流動的な黒が、一戦交えた際にも印象深く僕の目に留まった。
「そうそう童子。人修羅が呑み替える、あの蟲の様な物ですが……混戦中は入れ替えませんね、彼」
『何だ藪から棒に、この後遭遇するのはサカハギであろう? 人修羅の状態を気にして如何する』
 あの蟲で彼の生態は変質する、まさに不可視の着衣。吐き出し呑み込み、その度に人修羅は属性を行き来している。
「人前で呑気に着替えるほど無防備な事は、流石の彼も控えますか」
『姿だけ見れば、常に半裸だがな』
 そんな事を云ってしまえば、獣の貴方は全裸ではないか。人修羅は半分しか人間では無いのだ、半分纏っていれば充分だろう。
「次にまみえた際には、服を着ろとでも進言致しましょうか?」
『云いたいのか? 挑発の時にしてくれ……云っておくが、我は云わぬぞ。お前の頭上で吠えるだけだ』
「それでは、自分が一肌脱ぐとしましょう、それかモー・ショボーにでも喋らせますかね」
『ハァ……風邪をひくなよ』
 外套の内側、親指の腹で鍔を押す。交渉決裂の際には、まずこの外套から翻す。
 妖精達を召し戻されては、多勢に無勢。僕も召喚をする必要に迫られるのであろう。
「褌くらいは残しておきますから、御安心を」
 僕は悪魔では無い、人間だから弱っていれば風邪もひく。
 では、悪魔が如し連中と渡り合うのは、如何すれば良い?
 答えは単純だ。寒ければ厚いマントを羽織り、雨の中では合羽、日照りには風通しの良い涼やかな長袖。
 その様に、適した衣に身を包めば良いだけの事。
 すなわち、僕が魔力を秘めた衣を求むるは、何もおかしい事では無いのだ。

 -了-