渋谷交差点-赤-



「あの、落としましたよ」

 はっとして立ち止まり、踵を返した。
 大人しそうなサラリーマン風の男性が、俺に差し出したのは素焼きの鈴。この混雑だ、落としたところで音は掻き消えたのだろう。
「すいません、助かりました」
「いえいえ、踏まれなくて良かったですね――」
 と、その男性が俺の顔をじっと見下ろしてきた。少し頬がこけているが、案外背は高い。
 知人だったか? と俺は記憶を探るが、思い当たらない。
 激動の最近が、人間の頃の記憶に蓋をしてしまっている気がする。そうだ、忘れている訳じゃないんだ……
「違うの着てませんでした? こう、MONO消しゴムみたいなライダース」
「……えっ?」
「あっ、いや何を云ってるんでしょうかね私は、はは……」
「誰かと勘違いしているんじゃないでしょうか」
「ですね」
 鈴を受け取り、頭を軽く下げた。
 それにしても危なかった。この《後生の土鈴》が無いと、マネカタを現世に召喚出来ない。
 あのサカハギの野郎だけは許せなかった。真っ赤に剥け上がった俺に跨って高笑いしている声だけは、鼓膜にずっと貼り付いている。
「綺麗な音がしますね、それ」
「……そうですね」
「若いのに、渋くて上品な物をお持ちだ。そういうのは年をとっても飽きが来ないですよ」
 アマラ深界で入手したこの鈴の用途を知り、俺はほくそ笑んだというのに。召喚したサカハギを、どうしてやろうかと……
 真意を知ったら、この人の好さそうな男性は俺を軽蔑するだろうか。
 一瞬胸が軋んだが、その痛みを意識して消した。この東京に住む人間達は、俺の本当の姿なんて知る由も無いのだから。
 俺がカグツチを壊して創世……もとい、転生させた東京だという事に、一体誰が気付くというのだろうか?
 アマラを介して宇宙を渡り、往けるだけ足を延ばしたが、俺から剥がされた皮は見つからない。
 葛葉ライドウの云うには、本の装丁にされたとか何とか。
 民俗学者の手に渡ったり、ヤタガラスとかいう胡散臭い機関に流れたりと、数冊出来たそれはバラバラに散ったらしい。
「多くの手を経由した方が、念も強まり魔導書としての価値も上がるからねえ」とか、哂って抜かしやがったあのデビルサマナー。
 正体不明で信用は出来なかったが、何も情報が無いよりはマシだ。
 剥がされた皮なんざ老廃物の様な物だが、まさか本にされるとは思わなかったから。そんな悪趣味な物、放置出来るか。
 俺が悪魔である証を、何よりたらしめるその本達。絶対見付けたら燃してやる……
「お父さん、赤だよ赤っ」
 背中を叩かれるサラリーマンは、軽く会釈をした。娘だろうか、俺と同世代にも見える。
 いや……俺にもう年齢なんてものは、無いのだが。
「有難う御座いました」
「いやいや、困ったときはお互い様ってやつですよ、それでは」
 明滅する信号機の赤に追い立てられ、交差点を離れた。109の巨大広告の麓を過ぎ、細々とした並木の緑を通過する。空の色は青から橙に変質し、そろそろ赤紫に染まり始める時間帯。カグツチではなく、太陽のもたらす空気だ。
 それでも俺に視えるのは、人混みに雑じる有象無象と、異界への入口。
 深呼吸して抑え込む、満月が近いと少し気が昂ぶってしまうから。この、昔とは違う色々を自覚してしまうから、転生した東京は辛い。
 人間に、はたして戻れたりするのだろうか……皮を剥がれても、再生したのは同じく紋様の有る皮だったじゃないか。
 いっそ、身体の隅から隅まで、余す事無くすべて剥がれたなら、この外見だけでも捨て去れるだろうか?
 サカハギにそれをやらせるか? いや、それで駄目だったら、痛いだけの大損じゃないか……そんなの最低だ。
 そもそも、そんな考えが脳裏を過ぎる時点で、俺はもう……

『まさに《人の皮を被った化け物》と云えましょう』

 この喧噪に掻き消されても良い筈だが、司会者のその言葉だけがいやに鮮明に聴こえた。
 ニュース画面のテレビが、電気屋のショウウインドウを占拠している。
 そのガラスに映り込んだパーカ姿の自分を見て、さっきの言葉の意味が解かった。
 そういえば、東京受胎したあの日……違う服を着ていたな、と思い出す。懐かしい記憶が呼び覚まされて、内心しんどい。

 ……本を焼くのは、とりあえず保留にしよう。
 日記帳にしてやる、恐らく中は真っ白だから。
 悪魔皮の装丁本に綴るのは、人間の頃の思い出。忘れぬ様に記録して、人間に戻れたその時に燃やそう。
 悪魔の皮を被った中身は、人間の俺なのだと……そう思い続けたいから。

 夕闇に狭間を見つけ、其処を目指し雑踏に呑まれる。
 悪魔の蔓延る裏側に、溜息ながらに帰還した。

 -了-