▼2013.11.24 に頒布した「文庫版帳」の書き下ろし。
▼本編の後日譚、スピンオフ作品。ライ修羅ですがヨシツネも多め。
▼人修羅は回想シーンでは女性体、行為シーンでは男性体。がっつりヤってるのでR18。
照魔鏡と云へるは
もろもろの怪しき物の形をうつすよしなれば
その影のうつれるにやとおもひしに動出るままに
此かがみの妖怪なりと
夢の中におもひぬ…
「成程、大三元(ダイサンゲン)かい」
牌をざらりと緑の別珍に倒した白娘子(ハクジョウシ)、その真白な指が無地の牌に重なり、寒々しい。ライドウに付き合わされ早云十年……俺もルールが解ってきたので、大三元が成立した図柄だとそれを認識出来た。白(ハク)・発(ハツ)・中(チュン)が刻子(コーツ)(三枚)揃えば良いのだ、確か。
「白娘子(パイニャンニャン)だから、白で役を作ったのかい?」
『えぇ〜其処までは狙ってないですのよ、わたくし』
「御髪から爪先まで真白だろう? 産毛すら判らぬよ。全ての体毛がそうなのかい」
『まぁ〜見たいんですの? お恥ずかしい……この宵は処理してなくてよ、わたくし』
「普段はパイパンニャンニャンだった訳?」
『ん〜……もうサマナー様ったら……』
麻雀卓ごと引っ繰り返したい気持ちを抑えつつ、俺は席を立った。点棒を手にした白娘子と、いつもの哂いを浮かべたライドウが俺を見上げた。
最早この男をライドウと呼ぶべきか微妙だったが、この呼称が一番俺を冷静にさせてくれる気がして。
『あぁ〜……男の方でもシモ系、駄目だったりしますものねえ。ごめんなさいまし』
「功刀君、抜けるのならば部屋番のパールヴァティを連れて来てくれ給え」
どうして俺が……悪魔と肩並べて麻雀なんてしなけりゃならない。銀楼閣に居た時にも、偶に埋め合わせとして半強制加入させられたが……良い記憶などひとつも無い。
「外の空気吸ってくる」
「部屋に戻って窓でも開けたら?」
「あんたの煙と天井の無い所に行きたいんだ、構わないでくれ」
「今は妊娠してないだろう? この紫煙で肺を痛める僕と君では無いと思うが?」
そういう単語を出さないで欲しい、白娘子が少し怪訝な表情をしているのが見てとれた。俺の形も気も明らかに雄の性質なのに、この男が妊娠だなんて単語を出すから。この悪魔は、きっと混乱しているのだ。
「では功刀君も抜ける事だし、脱衣有りにしようか」
『や〜ん、一気に剥かれちゃいそうですの』
呆れた、本当に呆れた。そう発するか否か迷って、そのまま呻りに止めた。
向かいに座る義経が、ライドウと俺を交互にチラチラ観察している。どちらの肩を持つか迷っているのか? 使役される身なら、そのくらい承知しているだろう。
「パールヴァティは呼んでこないからな!」
俺はそれだけ云い残し、遊戯場を後にする。個室なので、悠々と悪魔と興じているのだ。一般人の視点では、俺とライドウの二者しか見えない。義経はライドウの仲魔だが、白娘子の方は此処を拠点とする悪魔だ。
しかし本当に、何が悲しくて旅行先で麻雀なのだろう。観光らしい事を全くしていない訳では無いが、それなら宵まで旅行らしく過ごしたい。ベッドメイク済みのふわりとした羽毛に身体を沈め、後片付けも気にせず部屋でごろりとしていたい。
所々に見られる施工……寄せ木細工の様に整然と張られた床板は、このホテルの歴史を感じさせた。板が剥がれる事も無く、長年の摩耗でいっそ艶やかな程だ。
エレベーターを経由してから飴色のシャンデリア下を潜り抜け、豪奢なロビーを通過する。ホテルから出ようとした頃、隣にぬっと影が寄って来た。
「銭も持たず街歩きたぁ、危ないぜ」
「そういうあんたは持ってるのか」
「旦那からちょっくら預かったかんな、お前さんも喰いたいモン有ったら云えよ」
「パシリかよ」
鼻で笑えば、義経が唇を尖らせつつ髪を束ね始めた。慌てて擬態したのか、どことなく着衣も乱れている。
俺がシングルタイプのライダースで、義経が薄手のダウンで。何処から見ても観光客だ。こいつがどこかソワソワしているのは擬態の所為か?
しかし……この悪魔も随分と慣れたものだと、ふと思った。住処の里で、悪魔達が皆擬態しているのは誰の差し金か……俺は知っている。俺が、形だけでも納得して居たい事を、あの男は解っている。付き従う悪魔達も……異論無く人間に姿を変えて……なんて滑稽なんだろうか。
偶に、本当に錯覚している。あの里は普通の集落で……上里には歳を取らない人間達が住む、ただそれだけだと。
「てっきり俺を心配して、追いかけて来たのかと思った」
「い……っ……や、いやいや! だってな、あの場で動かなかったら多分、俺様クビだぜ?」
ライドウと、その伴侶である俺を天秤にかけさせると少し笑えた。他の仲魔はハッキリした態度だが、義経はこれで案外気弱だから、少し虐めたくなる。
同じだけライドウの仲魔にはおちょくられて来たんだ、これくらい許される筈だ。
「あんたも負けが込んでたし、抜ける良いキッカケになっただろ」
「だな、へへっ……人修羅様に感謝してますぜ」
「それに、護衛なら手前で来いって話だ……」
ライドウへの侮蔑を吐き捨てた俺に、ヘラヘラ聞いていた悪魔が一層笑った。
ダウンジャケットのポケットに手を突っ込み、小銭を弄んでいるらしい。シャリシャリと、くぐもった音がする。
「まぁアレよ、旦那は旦那で疲れてるんだろ、日中は散策してたしなぁ。その為に俺達仲魔が居るんだからよ、せいぜい有効活用してくれって」
「疲れてるなら部屋で寝ろよ、旅先でどうして麻雀してるんだよ」
「んな事、昔っからっしょ」
「あの白娘子、前も参加してたろ」
「おっ、同じ白娘子ってよく気付いたじゃねえの」
勘ではあったが……そう思わせたにも理由が有る。あの白娘子、牌を捨てる時にライドウを見つめる癖が有った。その視線が俺の視界に交差して、云十年前も俺は気分が悪かった。それだけは鮮明に記憶していた。
「でも向こうさんは、お前さんの事よく分かってねえよなァ」
「知られて堪るか」
「だってよ、こないだ此処に来た時はお前さんアッチだったろ?」
「いちいちどっちだったかなんて、もう憶えてない」
「へいへい失礼」
しっとりした西洋が上塗りされる区域……その外灘(バンド)から徐々に離れる。
すると、俺が元々抱いていたイメージ通りの中国が見えてくる。見境無しに煌びやかな屋台、怪しい露天商。道幅も狭まり、一気に空間が圧迫され始める。息苦しいが、近場の屋台通りは確かこの辺……
「散歩にしちゃあ橋の上みたいな狭っ苦しいトコ歩くじゃねえのよ」
「だって、屋台飯頼まれたんだろあんた」
「おおっ、まさかの気遣い? いやー気が利く奥方は違うぜ!」
「今は男だ、どこ見てんだよ……」
「小さいからちぃと見辛くてな、すまねェ」
隣をジロリと睨み上げたが、紅色の灯りが眩しくてすぐに視線を戻した。義経が擬態していなければ、あのひょろりと伸びた烏帽子(えぼし)が遮ってくれたろうに。
「さっさと買って、ホテルに帰るからな」
「おうよ、俺様も人混みん中での擬態は緊張すっから、さくっと済ませるか」
「それで緊張してるのか?」
「してるぜ……本来擬態なんざ縁が無かったからよ。まあ、俺は元々が人間のカタチしてるから楽だけどな」
乍浦路(ジャープールー)と記された標識を見て、以前も訪れた事がある通りだと認識した。レストランや屋台が立ち並び、香辛料や油のニオイが鼻を衝く。吊るされる鶏がオンモラキに見えて、食欲を削ぐ。海外の屋台は腹を壊す覚悟が無ければ利用してはいけないと、そういう心配もこの身体になってからは無意味な事となった。よほど強い毒でも無い限り、表面化すらしないのだから。それこそ野槌(ノヅチ)の毒の息くらいの……
「何が良いかね?」
「俺に訊くな」
「旦那の好みは奥方に訊くのが一番じゃあねえのかい?」
「あいつも、もう悪魔みたいなもんだ、何食ったって平気だろ」
「ちょっと待てって、俺様は好みを訊いてるんだぜ? 矢代サマ」
ジュウジュウと、あおられる鍋の放つ熱気や音……中国語独特の、ややハイトーンな会話…暖色で構成された賑やかしいネオン看板……全てにくらくらする。
それでも、前に歩いた時よりもそこそこ綺麗に整えられたのではないか。以前は見られなかった、大型のレストランも点在している。異国ならではの夕闇は、建設中のビル影達が塞いでいた。どうやら、今後はひっそりとしていく一方な区域らしい。
「おい、アレはどうだい? 蟹、上海蟹ってヤツじゃねえのかい」
「麻雀やりながら蟹とか……バキバキやるの面倒だろ、却下だ」
「お、其処の貝蒸しなんて、ちゅるっといけそうじゃねえの」
「それ本当に貝か? エスカルゴに見えるし……多分気のせいじゃないぞ」
「んじゃソッチの、それそれ……粽(ちまき)、流石にこりゃあ外れ無しだろ。種類有るみてえだが……んーいけねえ、言葉ぁ読めねえな」
「中国の粽って甘かったりするぞ、しかも葉で包まれてるから中身が把握出来ない」
「……旦那が喰うんだから、お前さんは別に良いんだろ?」
改めて問われれば、思いの外しっかりと選定しようとしていた自身に納得がいかなくなる。そうだ、ライドウが摘まむだけの物……俺が必死になる必要は無いんだ。
「串物はどうだ…確か一本一元(げん)程度で、ブツも判り易い」
「おうよ、さっき通り過ぎたな、それでいくか!」
踵を返す義経、どうやら位置は記憶しているらしい。話が早くて助かった、俺はさっさとこの喧噪から抜けたいのだから。
「要辣的(辛くする)?」
指差しで数本注文した義経に、店主の親父が訊ねている。何を訊ねているのかは、俺にも解らない。何年経とうが、異国の言葉を覚える気にはなれなかった。
「なんつってるんだろうなァ?」
「適当に首振っておけばいいだろ」
「お前さんは本当に極端だよな」
「どういう意味だ」
すると義経、今度は親父に向き直ってこくこくと頷くばかり。
俺の質問は聴こえないフリだろうか。
「打包(テイクアウト)?」
「おうおういいぜいいぜ、よくわかんねぇけど――って、ぉわ」
後ろに束ねられ、馬の尻尾の様に揺れていた髪を掴んで引っ張った。上向きになった面をぐぐ、と戻しつつ、背後の俺を振り返る義経。
紙にくるりと包まれ、更に袋詰めされた購入物を受け取りつつ、笑っていた。
「まあ待ってくれい矢代サマ、今一本やるから」
「違う、要らない」
顎をくいと促せば、「さっさと屋台の前から消えるぞ」という意思表示は汲まれたらしく、すんなり俺に追従してくる。
「すげえなあ、これだけ買って旦那に渡された半分も使って無いぜ」
「物価が日本とは違うから」
義経が弄ぶポケットの中、確かにまだシャラシャラと音が響いている。通りの外れまで来ていたので、僅かな音でも容易く拾えた。
「なあ……残りの銭でさ、何か買ったらどうよ」
悪戯を思いついたかの様な声音に、俺は溜息をしてみせた。おつかいをきっちりこなせない仲魔なんて……俺にとっては本当、しょうのない存在だ。
「串物はそんなに高いのか、って問い質されるぞ」
「帰りに歩き食いしたって云えばどうよ」
「俺はそんな行儀の悪い事しない」
「散歩しに出たんだろ? もうちっとぶらついてこうぜ」
本当に……主人の云う事すら守れない……しょうのない……
いや……何か、デジャヴがする。黒い馬の尾が目の前に揺れて、俺に催眠でもかけてくるかの様。喧噪とかけ離れた湿っぽい通路には、商品なのか店のオブジェなのか判断がつかない物が点々と置かれている。灯篭の灯に羽虫が集り、その影が向かいの店先にゆらゆら踊る。先刻の屋台通りとはまた違った、独特の臭気を感じる。
「俺の為とか云うなら引き返すぞ、食い物買ったのにフラフラしてられるか」
「其処の旗袍(チーパオ)はどうだい?」
串物の袋を片手に抱いたまま、硝子の向こうのチャイナドレスを見てニヤけている義経。硝子は曇り硝子かと思ったが、店内から零れる光の加減で気付く。単に埃に濡れているだけだ、骨董品を扱う店だからといって横着し過ぎである。
「藍染たぁ趣が違うけど、その旗袍の薄〜い瓶覗(かめのぞき)色も悪かないなァ」
「人の話聞いてたのか? 今買ったって俺は着れないだろ……それにな、女の時だって着る気は無いからな」
「あーそうだなぁ、女ん時もちぃとばかし……上と下が足りねえから、やっぱお前さんは着物が良いかもな、うん」
一人納得している義経の脛を軽く蹴り、俺は歩いて来た路へと向き直る。細い横道が途中に幾つも見え隠れしたが、時間短縮のつもりで入り込むとロクな事にならない気がして、来た路を愚直なまでに、一心不乱に戻る。
往路と復路では、見えている物は同じ筈なのに……別の空間の様にすら感じる。異国では尚更だ。
「悪かったって、足りてねえとか云ったけど問題無えから」
たたっ、と真横に来て、追い抜くか抜かないかという歩調で俺を覗き込んでくる。
串物の、脂っぽいニオイが微かに漂った。義経本来のMAGを覆い隠す様に、まず嗅覚に飛び込んでくるそれが不快だ。
「お前さんはよ、あんだっけ……あの、ボルテクス? あん時から可愛いもんだぜ? ガタイも小さ……控えめだしよ、貌もおぼこ……じゃねえ、うんんと……なんだぁ? 清純派だっけ?」
「もうみなまで云わなくていい、俺があんたをぶん殴る前に止めてくれ」
「あー例えが悪かったわ、すまねえ! 助平動画の娘っ子達ぁ、清純派とか謳ってる奴の方がとんでもねえ助平だもんなぁ……」
狙いを外すどころか、更に掘り下げてきた。性的欲求を解消する必要も無いくせに、エロ動画なんか観やがって。人間の真似事をし過ぎなんだ、ライドウの仲魔達は……
「じゃあ、あんたは俺が助平なんかじゃない、って認識をしてるのか?」
むぐ、と唇を噤む義経。甲冑よりも軽い筈なのに、ダウンの腕をぐいぐいと回して大きく息を吐いている。
「知らねえぜ……んなモンよお」
「だろうな、気になるならライドウにでも訊いたらどうだ」
「はぁあ無茶云うなっての! 旦那に……よ、夜の生活を訊けって!?」
「……夜との生活だろ」
いっそ自暴自棄なまでに此方から突き返せば、義経の方が黙る。この悪魔、昔からどうも詰めが甘いらしく、しかも判官贔屓しているのか俺に甘い。同属の様に感じているのだろうか、残念ながら俺は蛮力のつもりは無い。そして弱いポジションに居るつもりも、無い。義経に判官贔屓されるだなんて、笑い話にもなりゃしない。
「しかし人修羅……じゃねえや、矢代サマよ、ここ十年くらいで随分と丸くなったもんだよなあ」
「体格の変動は無い筈だけどな……あんた等だって老けないだろ」
「じゃねえって、性格だよ性格」
「はあ……」
「だってよ、お前さん……前に此処来た時もカッカして飛び出してったじゃねえか。あん時も俺が追っ―……護衛させられたけどよ」
ああ、嫌な予感がする。デジャヴというより、俺が忘れているだけなのだろう。頭の中は人間のままだから、どうもこの長い蜜月から抜け切れないのだ。
すっかり空は闇に包まれ、薄暗かった通りが今度は逆に明るく感じる。細さは帝都の路地に似ていたが、此方はそこらじゅうがキナ臭い。
「追いついた俺様に何云ったか、憶えてるかい」
「いや……」
「監視してるつって怒鳴り散らしたじゃねえかよ。ははぁ、やっぱ忘れてるんかい」
ああ……そうだ、どのくらい前かは憶えていないが、確かに怒鳴った気がする。
異国で勝手も分からないし、しかも女性の形をしている時期で。それはそれは、酷く気が立っていた――
◇◇◇
狭い路地、築土町と違ってやたらと表に物が置いてあるもんだから、駆け抜ける際に気になってしょうがねえ。
ま、蹴飛ばしたとしても今は擬態もしていないから、物が勝手に跳ねっ返っただけに視えるだろうが。
『おいっ、人修羅ぁ!』
新しい角を曲がった瞬間に、血の臭いがした。少しヒヤリとしたが、人修羅のじゃねえ…これは、獣臭い。周囲に警戒しつつ、黄昏時の陰りに沈む路地を進んだ。
「はぁ……っ……はぁ…」
『……おい、怪我は無いのかよ、それ全部コイツの血か?』
肩で息をする後ろ姿が有った。俺は抜刀したまま隣まで寄り、覗き込む。
人修羅のそれは袴の様にも見えたが、もう少しゆったりした衣装で。この国の着物っぽいが、存外悪かねえ。旦那が買い与えて、着せたのか……管に居る間の事なんざ、俺は知る由も無い。しかしこれから身籠るなら、和服よりかは最適に見える。これなら胎を妙に締め付けないだろう。
『あー……コイツぁ攫猿(カクエン)だな、猿だし化けるのも上手なこっちゃ』
「くそっ……渡し船、使おうとしたら……船頭に擬態してて、いきなり襲ってきて……っ、こいつ」
俺が散々脳内で褒めた衣装を、また返り血に濁した人修羅。顔の半分潰れた猿を足蹴にし、残りの半分まで完全に潰しやがった。藍に染みた血は、赤よりも重苦しい模様を残す。憎々しげに穿つ脚をようやく止めた人修羅が、俺を見上げた。
「何見てるんだよ……!」
『何って……いや、お前さんがよ、こういう輩に唾付けられない様にだろうがよォ』
最早、襤褸(ぼろ)雑巾の様な攫猿を、今度は俺が爪先で路の端に寄せた。具足が汚れたが、人修羅の脚が汚れるよりは見ていて不快じゃねえ。
それに、俺だけピンピンしてて人修羅がボロボロで…帰還でもしてみろ。旦那はいつもと同じ貌をしつつも……キッツイ嫌味のひとつでも飛ばしてくるに違いねえ。
『おい聴けって、お前危なかったんだぞ? いいか、攫猿てのはなぁ……嫁さんにする為に娘っ子攫って、孕まそうとヤりまくっちまう、怖〜い悪魔なんだぜ?』
「ライドウだって、俺に似た様な事したじゃねえかよ!」
『ちょっ……おい、流石に猿と旦那を同列に云うのは……いやいや……』
その怒号に、俺はもう何と答えりゃ良いのやら……お茶を濁す様に呻りつつ、刀を片方だけ鞘に納めた。一応気遣ってる素振りだけでもと思って、胸と尻を避けて汚れを掃ってやる。胸は、横から見てようやく判る程度の膨らみ。時期によっては胎の方が膨らんでいるこの半人半魔。
「俺がこの形だってのに、何も気にせず旅行しやがって……しかも上海に着いたら着いたでナンパしまくってやがるし」
一瞬軽く、胎の上を撫で掃ってみた。払い除けられなかったという事は、今は中に何も居ないのか。こんな細い胎に幾度も宿らせているとか、化物かよ……とも思う。そして直後に、人間の女も同じ様なモンだったなあ、と呻るしかなくなる。
『ナンパっつっても……形は老若男女バラバラ、獣から草木果てには気体の悪魔まで……あんなんナンパじゃねえよ。ライドウの旦那のは……ほら、スカウトだっけ? そういう意味合いのじゃあねえのかい』
「だったらさっさと管に入れるなり、持ち場に帰らせるなりしろよ……」
ははあ成程、きっと旦那が麻雀しながら酒を酌み交わしている事が気に喰わないのか。あれも一応交渉手段、博打も酒も強い旦那の武器なんだ。相手にしてる悪魔共は色んな種類が居たが……多分、女悪魔ばっかり目に留まっちまうんだろう。
確かに、旅先でこんなに人修羅を放置しておくなんて……らしくもねえ。今期の旦那は、余程忙しいと見た。我ながら下世話な推測をする、人修羅を女性体のまま連れ発ったという事…は…宿泊先で苗だけは拵えようとしてるのかもしれねえ。
苗? 何かって、そりゃあ―……
『……おら、とにかく帰るぜ。雑魚相手なら余裕とか思ってるのかもしんねえが、集団で来られたら流石のお前さんも一苦労だろ』
「俺はそもそも、人間に戻る為に……くそっ、どうしてこうなってる」
腑に落ちない、といった恨めし気な視線で俺を詰り上げてくる。なんだ、そういう周期か? いつも以上に神経質な人修羅は、俺にとっての一苦労だ。
『それによ、早く帰った方が、俺様もお前さんも叱られないと思うぜ』
「……あんたも監視してんだろ!?俺が……逃げ出さない様に……!」
『妙な事云うんじゃあねえよ、逃げるって……何だよそりゃ』
その裾への返り血が泥汚れに見えりゃ良いが……それと、MAGを嗅ぎ付けて色々寄って来るかもしれないのも面倒だ。一瞬見ただけじゃあ野郎か否かと首を捻るが、よくよく見りゃあ垢抜けない娘っ子だなんて……危険が多い。悪魔よか人間に注意すべきか? それとな、俺の胸元を先刻からちくちくと、甲冑を無視して突き刺さってくるんだ……人修羅のガン飛ばしが。
『そりゃ命令聞かなかったらクビだぜ? でもよ……監視っつうのは釈然としねえわ』
「じゃあ何だよ、心配して追って来た―……とか云いたいのか!?」
『えェ!?……いや、そのだな』
ああそうさそうだよ、お前さんは危なっかしいし、逃げるつもりじゃなかろうが広くて猥雑な上海で迷子になる事、違い無し。
ボルテクスで旦那と渡り合ってきたとはいえ、毎回ギリギリだったじゃねえか。しかもありゃ旦那が手加減して、やっとだろ。見てたこっちが内心ヒヤヒヤしたもんだ。
『ほ、ほれ、とにかく機嫌直せや……帰りがてら何か買ってやっから』
「ガキ扱いするな、しかも屋台飯食わすつもりか。虫とか入ってそうで嫌だ」
『んー……お前さん、とっくに胎にマガタマ飼ってるだろが』
「最低」
背を軽く突いて帰路へと促しつつ、途中で見た商店の出窓を思い浮かべた。いや商店という表現は合ってないか、骨董屋か。くすんだ硝子越しに、旗袍から装飾品から調度品まで色々見えた。この俺がどうしてわざわざ此処で挙げたのか、改めて考えれば不思議だ。
ちらっ、と横を見た。人修羅の旋毛が、撥ねた癖っ毛に見え隠れしている。男だろうが女だろうが、この視点から見れば同じだ。こいつは女になったからといって、髪を伸ばして頬紅さす訳でもねえし。旦那の扱いも、男性時と殆ど同じに見える。
「そもそもあんた、金持ってないだろ。ライドウからちょろまかすなんて、無理に決まってるからな……」
『そりゃあアレよ、その辺の雑魚からちぃーとばかし貸して貰うんだよ』
「カツアゲとか、いくら悪魔相手でも趣味が悪い、低俗だ」
『いやお前悪魔に低俗って……はぁ、本当にそれでよくもまあ生き延びたもんだぜ』
例の店の目の前に到達したので、半ば強引に人修羅を引っ張って入店した。出窓に飾られた旗袍の藍が、視界の端に色を残留させる。
「こういう店、ゴミに見えて法外な値段だったりするから……足とか引っ掻けない様にしないと怖いんだよ」
『万が一やっちまったら、そっと戻しときゃ多分バレねえぜ。半分壊れてるブツばっかみてぇだしよォ』
「あんたは見えてないけど、俺は丸見えなんだよ」
人間には俺の姿が見えていない、傍からは一名での入店に見えるだろう。人修羅は既に擬態していて、あの紋様は無い。
もっと奥に行けば店主も居るのかもしれないが、まだ金を入手していないので冷やかし程度に留めておくのが吉か。
壁には動いていない時計がわんさか有って、天井からは中身の無い鳥篭が吊るされていて……兎に角密度が高いのなんの。
「……ガラクタ集めるの好きな人、割と多いんだな。ボルテクスにも居たのを思い出す」
『磁器細工のだとか……この瑪瑙に彫刻してあるヤツもよ、お国の情緒溢れてて良いんじゃねえのかい』
「どうして俺が着飾らなきゃいけないんだ、しかも髪、長くも無いのに簪なんて……買っても無意味だ」
『旦那はよ、十四代目の時っから女遊びはしてたけど、実のトコありゃ女に興味無えぜ? いや野郎にも無えと思うが』
「どうしてそんな話に飛ぶんだよ、八艘飛びとか云ったらぶちのめしてやるからな」
『……い、いやいやお前さんの方が倍くらい飛んだろ今。って違ぇよそうじゃなくってよお』
ちぐはぐな高さで連なる棚、やや乱雑に並べられた簪の中から一本掬って、吊り灯りに翳して見た。端に付いている石の反射で、人修羅の頬に虹色の影が落ちる。ゆっくり捻って目許から頬を真っ直ぐに、その光の影が撫でる様に調整する。
うん、やっぱあの紋様が有った方が、俺はしっくりくる。
「眩しい……何遊んでるんだガキじゃあるまいし……止めろ」
『だからよ、その“他人に興味の無え”旦那が娶ったってのは、一大事なんだぜ? はすっぱなお前さんにも、ちゃんとおべべだって買ってくれるじゃねえのよ、しっかも綺麗なヤツ』
「結婚は……利害の一致で……あんたも知ってるだろ、俺は殆ど無理矢理……」
独りごちている変人、と思われまいか不安なんだろう。ひそひそと囁くように返事する人修羅。それか、認めたくない心がさせているのか。
うつむき加減の人修羅の目線を追えば、龍や牡丹の豪奢な布地……が、敷物代わりにされていて。その切れ端の上に、無造作に置かれた鏡が有った。
『おう、鏡くらい持ってたって悪かねえっしょ』
「要らない、女々しい」
『女が鏡眺めて、髪直したり紅さしたりする仕草はアレよ、相当クラっとくるぜぇ?』
「馬鹿云え、俺に誘惑しろっていうのか」
『そこまで云っちゃねえよ、普段そんなお前さんがやったら可愛気有りそうで……旦那も優しくなるかもしれんぜ、って話』
「おいおい……失笑されるのがオチだろ」
鼻で笑った人修羅が、それでも鏡を手に取った。それにどことなく安堵した俺をよそに、裏の細工面からじいっと眺め始める。
螺鈿と金銀で装飾された、豪奢な唐草紋様が特徴的だ。控えめな色味の石もはめ込まれていて、こりゃあ何回カツアゲする必要が有るだろうかなあ……なんて考える俺。
こんなだから「即物的な悪魔」と、隣の人修羅に罵られるのだろう。本来は俺だって人間だった筈なのに、旦那と俺とはやっぱり違う。人間の頃の確かな記憶が、俺という個には存在しない。完全な悪魔か否か……それが決定的な差なんだ。
「まあ、擬態がしっかり出来てるかの確認道具にはなるか……そんなの指先でも可能だけ、ど―……っ、ぐゥ」
手鏡と云うには一回り大きい其れが、ぐわんと音を立てて敷物の上を転がった。床には落ちずに済んだ様で、けたたましい音には続かなかった。
『おい、どうした……!?』
己の額を片手で鷲掴む人修羅が、俺の装具に縋ってよろめく。その周囲の視線すら気にしない行為に、俺までビビり始める。指の隙間から覗く眼は、怯えきっていた。
「鏡……その鏡に、俺が映らなかった」
『お前が? んな馬鹿な』
「違う! 試しに一瞬だけ擬態を解いたんだよ! そしたら映る俺はそのまま変わらなくて、あの気持ち悪いのが肌に無くて! お……俺、俺人間に戻っちまったのか!?」
『落ち着けって! 指先で確認出来るだろ』
「それが出てないんだ! 俺、今戻ってるのに……っ、これ、擬態してないんだぞ!?」
しがみ付いてくる指先は、ギリギリと鬱血しそうなくらいに震えていた。
そして黒い紋様が無い、悪魔の証と忌み嫌っていた、人修羅のあの……
「今更人間に戻ったってどうすりゃいいんだよ!?」
『人修羅―……』
「あ、あいつに置いてかれる……しかもあいつの身体、これじゃ産めるかどうかも分からないし、や、ばい……やばい……」
完全に正気を失っている事は判った、俺がどうやって宥めようったって無駄な程に錯乱している。唐突に人間に戻るなんて、にわかには信じ難い。それに鏡を覗き込んだ直後、人修羅は明らかにフラついていた。
『……こいつか?』
片腕で人修羅が暴れない様に抑えつつ、転がったままの鏡面をむんずと掴んで上げさせた。睨みつける俺が、薄ぼんやりと映っている。
ああ……多分こいつだ。純粋な悪魔の俺が、映る筈がねえんだから。
『っしゃ、待ってな人修羅』
本当に其れが原因かすら判明してねえが、そんな事云ってられねえ。
俺は掴んだままの鏡を、そのまま高く掲げ―……
◇◇◇
ああ思い出した、そうだ、この路地の奇妙な店で……変な鏡を覗き見た瞬間。映り込んだ鏡の中の俺が……哂った気がした。この斑紋も無い、人間の姿で。
「結局、鏡割ったらお前さんも普通に悪魔に戻れたし、ありゃ何だったんだろうなァ」
義経が咄嗟に叩きつけた鏡から、割れ物独特の嫌な音が発せられた瞬間に……ようやく正気を取り戻した俺。結局、破壊した鏡は伏せたままにして、逃げる様に店を飛び出したのだ。義経に袖を引っ張られつつ、よたよたとホテルに戻ったのだったか。
「しかしあん時のお前さんさァ……」
「掘り返すな」
「ひひっ、今はどうよ? 人間に戻りたいか?」
あんな取り乱し方をするなんて、本当に最悪だった。旅の恥はなんとやら〜とか云うが……こうして同じ処を通過しては、記憶を封印しておく方が困難だろう。
「なあ、ちょっくらあの店行ってみねえか?」
「商品壊して逃げたんだぞ、のうのうと顔出せるかよ」
「だって仕方ねえよ、ありゃ絶対呪いの逸品だったに違いねえ! 並べておく方がそんなの、性質が悪ィ」
ぐいぐいと、またもや袖を引かれて半ば強引に入店させられた。出窓のチャイナドレスを横目にして、はっとする。あの頃と同じチャイナドレスだ、単に日焼けして色が劣化しているだけだったのか。店内は殆ど同じ空気で、雑然としたままだ。細かい所は記憶していないが、物が増えた気もする。
「平気だっての、云十年経ってるんだぜ? それに割れた商品なんか、あの後すぐに処分されて――おわっ」
へらへらと笑いつつ、例の位置まで進んだ義経の足が止まった。ダウンジャケットの傍から顔を覗かせれば、確かに声も上げたくなる光景が。
びきりびきりと亀裂の奔った鏡が、展示用の脚に支えられ……照明の光を乱反射させつつ鎮座していたのだ。
「割れても飾るんかい、凄ェ商売根性だな」
「……売れないんじゃないのか、いわく付きとか。そもそも割れてる鏡って、不吉じゃないか」
真正面から見ない様にしつつ、幾重にも映り込む俺達をチラチラと覗いた。半分は人間のままの俺は、普段も鏡に問題無く映る。それが擬態していようがいまいが。
「あんたって、本来どの程度映るんだ」
「俺様ぁ……影が映り込む程度かね、鏡にもよるたぁ思うけど。悪魔にもよるぜ? 気張りゃあ何にだって映せるだろ」
訊ねた通り、鏡の中の義経はおぼろげで。背後の数十段にも及ぶ抽斗棚が透けて見える。当然、腕に抱えた串物の袋も宙に浮かんでいる。
「もういいだろ、鏡のその後も拝めたんだし……さっさと帰るぞ」
店の奥の方を気にしたが、やはり店主は見当たらない。常に裏に引っ込んでいるのだろうか?あまりに不用心だろう。この非日常的な雰囲気が更に不気味で、長居したくない理由のひとつだ。
「おい、ヨシツ――……」
視線を鏡に戻したつもりは無かったのに、思わず引き込まれた。
分離した鏡面世界の中、俺の隣に黒い影が哂っていたのだ。反射的に身構えれば二の腕を掴まれ、耳元に唇が寄って来た。
「其処らじゅう油臭いのだから、油を売る必要は無いと思うのだが?」
「……どうしてあんたが居るんだよ」
「全部脱がせてしまったから、麻雀も飽いてしまってね」
軽く振り払えば、フフンと哂って外套の中に腕を戻すライドウ。視線で義経を捜せば、店の出入口で肩を竦める素振りを俺にして見せてきた。
「すぐ嗅ぎ付けるんだな、居場所」
「躾の良い犬が居るのでねえ」
天井から吊るされる灯りを縫う様にして、犬神(イヌガミ)がゆらゆら飛び泳いでいる。あいつは索敵の調教を一身に受けた、ライドウお気に入りの仲魔だ。壁にタペストリーが如く張り付けられた犬毛皮を見て、クゥーンクゥーンと啼いている。ビビってるのか?
「さて、この鏡が以前云っていた物かい?」
「俺は話した憶えが無いぞ」
「同行する悪魔から、逐一報告は受けている」
そのライドウの返答に、思わず義経を睨んでしまったが……仕方の無い話だった。主従関係……仲魔とは本来そういうものであって、俺とこの男も……互いの決め事を作り、主従を結んだんだ。最初は、デビルサマナーと悪魔として。
「悪魔を人に変える鏡なぞ、耳にした事が無いねえ」
「マガタマだって……吐き出していなかったからな俺、あの時」
「君が錯覚の呪いをかけられた可能性が高いね」
「錯覚……? 鏡にか?」
鏡を白い指先で撫ぞるライドウ、縁の紋様を辿る爪先がいやらしい。
「魔者は己が形を如何様にも出来るだろう? 本質は難しくとも、表面だけならば」
お前が一番良く解っているだろう、とでも云いたげなその眼にカァッとさせられる。そんな俺の気も知らず、ライドウは鏡を愛撫し続け……暫くしてから、すい、と持ち上げた。
まさか義経と同じ動きをするんじゃないかと、一瞬ビクついた俺だが……けたたましい破損音は響かない。
「面白いね、これ買おうか」
あまりにあっけらかんと云い放つライドウを、俺は引き留める事も出来ないままぼうっと見送る。奥で店主を呼び、何やら談笑している……そういう術には長けた男と知ってはいるが、何にでも適応出来るそれが少し恨めしい。
「……おい、おーい矢代サマよ」
「何だよ……っと! 急に押し付けるなよ!」
俺に串物の袋を任せた途端に、擬態を解除する義経。ばさりと黒髪が舞い、ダウンは一気に重苦しい甲冑に変貌する。
『俺が誘ったって、頼むからバラすなよ』
「……あんただってチクったんじゃないか」
『頼むぜマジ。俺、あんたが鏡でイカレた時に何を喚いたかまでは、旦那に伝えちゃいねえぜ? ……おっといけねえ』
そそくさと退散する義経。振り返れば、鏡を手にしたライドウが優しさの無い微笑みを浮かべている。
「さ、部屋に帰還しようか功刀君」
「……また余計な物買いやがって」
「その台詞、ゴウト童子にも昔はよく云われたよ」
「俺は御目付役じゃない」
「そうだね、揺り籠から墓場まで兼ねている」
互いに「伴侶」だとすんなり云わない辺りが……今も一応続いている理由のひとつか。
「店主は白髪頭の老人でね、あの鏡が割れた頃にも店主をやっていたそうだ」
俺の抱える袋から串を一本引きずり出して、歩きながら喰うライドウ。
「行儀が悪い」
「割れるまでも、やはり色々有った鏡らしくてね。しかし細工が上等な為、買い手は絶えない」
「じゃあ何で店にずっと残ってるんだよ」
「自分が映らない、と……皆手放していくそうだよ」
ほらみろ、やっぱりそうじゃないか。原理は謎だが、自分とは違う者が映り込むんだ。……いや、それならどうして俺はあの時、本当に身体が人間に成っていた? 鏡の外にまで影響するのは、どういう事だ。
「だから云ったろう功刀君、錯覚から君は恐らく、人間の姿に身体を留めてしまっていた……」
「鏡がさせた事だってのか?どういう鏡なんだよ…」
二本目をもぐもぐ摘まみながら、ライドウが角を曲がる。知らない路だが、この男に倣えば……辿り着ける事は決まっている。腹立たしいが、これは昔から信頼している。
「照魔鏡(しょうまきょう)を知っているかい」
「ショウマキョウ? ……いや」
「フフ、君が知る筈も無いか。照魔境とはね……魔物の正体を映し出す鏡の事さ」
「……だったら、どうして俺の身体にまで影響するんだよ」
「君が姿を映すまでは、単に正体を映し込むだけだったかもしれぬ。しかしこういった魔具は、悪魔の力に触れて更に力を宿す物が多い」
「何だよそれ、俺が姿映した所為だって云いたいのか」
和平飯店(ホテル)に到着し、南楼のロビーを通過する。颯爽と外套を靡かせるライドウは、その時点で既に串を全部平らげていた。
「今宵、もう少し詳しく説明してあげるよ……クク」
部屋に入り、出入口の番をパールヴァティから義経に交代させたライドウ。
扉が閉まる直前、その隙間から義経がぼそりと俺に零した。
『お前が清純派でも俺、泣かねェから……安心しな』
意味不明だったので、相槌も打たずにバタリと閉め、施錠した。
メゾネットタイプで、このベッドは二階に有るから……大丈夫だ、義経までには聴こえていない、多分。
「照魔鏡だったものが、君の不安を投影して……魔を映すだけでなく、抱え込む様になったと推察するよ」
「俺……の、不安……だと」
数時間前には、鏡の紋様を辿っていた指が……今、俺の身体の紋を辿っている。
「っ、う……ぅ……」
「そう、不安。鏡に映る真の姿は、人間だったのだろう? 其れを見た君は、取り乱した……そう義経からは聴いたけど?」
差別しないライドウの爪先が、暗闇に光る縁を引っ掻く。鏡にした時の様に、余すこと無く、背面から縁取りまで。
「俺は、そもそもっ……人間に、戻る為に」
「フフ……とりあえず、此れを見ては如何だい」
俺から身体を離し、ベッドサイドのキャビネット上に例の鏡を設置したライドウ。
垂直に立てられた鏡は、シーツにしがみ付く俺の光を反射している。
「は……鏡使ってヤりたいなら、もっと安っぽいホテルの方が良かったんじゃないのか……この悪趣味野郎」
「店主が云ってたよ、其れが割れてから“妙な人影が中に宿っている”とね」
眼を逸らそうと思っていた矢先に、まず鏡の中の俺が動いた。俺は動いていないのに、そんな俺を無視するかの様にして、鏡のソイツはこてんと寝転がり始めたのだ。
「な、何だよそれ、その鏡……」
「照魔鏡と云へるは もろもろの怪しき物の形をうつすよしなれば その影のうつれるにやとおもひしに 動出るままに 此かがみの妖怪なりと 夢の中におもひぬ……」
起き上がった俺を、何やら詠いつつ背後から支配するライドウ。鏡の中の奴は普通に映るだけなのに、映る俺は違う動き。
「魔を映し出すは照魔鏡、魔を宿すのが雲外鏡(うんがいきょう)……違いが分かるかい? 功刀君」
「知らねえよ、その鏡、仕舞え……っ」
「君の揺らぐ不安と姿、魔的な力に魅入られたのは……其方の鏡の方だったようだねえ……君の不安を嗅ぎ取って、蠢いている」
項の根本に舌が這い、溝に沿って舐め上げられる。奥歯を噛み締め、せり上がって来る喘ぎを殺したが……鏡の中の俺を見て、思わず口が開いた。
「あ、あぁっ!?」
まるで求めるかの様にして、鏡の俺は背後の男に後ろ手を回していた。勿論、俺自身はそんな事していない。
「く……そ、馬鹿にしやがって、っ」
腕を伸ばしたが、鏡面に触れる直前で背後に強く引かれた。脚を絡め取られ、ぐわりと大きく開かされる。抗ってギリギリと閉じる俺に反して、鏡の俺は自ら更に開く。
局部をあられもなく曝け出すソイツにを見て、脳天に血が集まる。
「数十年ぶりに君が映せて、随分と歓んでいる様子だね……ほら、ちゃんと見て……おやりよ」
「ぃ……やだ、っ……ぅ、んぁ」
角をしゃぶられつつ、背後から抱えられる様にして下を握られる。そうだ、今は男……どうしてヤる必要が有るんだ。
ライドウを睨んでやろうと、しっかり瞼を上げれば、否応無しに飛び込んでくる鏡の世界。首を捻らせ口付けを求めつつ……ライドウの指に指を重ね、自らを扱く鏡の俺。割れる複数の面、全てに映る無遠慮なフィクション。
「ち、がぅ……こんな、ぁ、ライドウゥッ!」
「ククッ……久々に嫌がっているね、でも鏡の君は如何かな……」
「あんなの、俺じゃねえ、ライ―……」
噛み付くつもりで振り返れば、逆に噛み付かれた。呼吸を奪われるままに、下肢を弄んでいた指が狭間に下りてくる……その感触に震えた。ちゅくちゅくと、湿った音が鼓膜を嬲る。これは……鏡の所為に出来ない、逃れる術が無い、最悪だ……
酸素を求めてぐずり始めた俺の舌を、キツめに噛んでから解放するライドウ。
「っ……ぁ、はあっ……ぁ、あぐ―ッ」
はあっ、と一気に空気を貪った瞬間、油断した俺に一気に指を挿れやがった。
「そういえばねえ、串が足りなかったよ、功刀君」
「ぁ……あ……ん、何……の」
「義経にも云っておいてくれ給えよ。僕が大飯食らいだと、まさか知らない訳無いよねえ?」
「あ、と……何本……」
「何本くらいだと思う?」
結構な量が有った筈……まだ足りなかったのか? というより、こんな時に何を云い出すのだこの男は。きっと寸差だ……あとちょっとが足りなくて、突っかかってくるんだ。
「……三本……くらいか」
「成程、もう三本かい」
「ぃッ、あッ!!」
襞が悲鳴する、ぎゅうぎゅうとライドウの指を、追加された三本分、無理矢理呑まされて。
「ぁ……っ……てめ、畜生ッ……」
「君も大層な大飯食らいだねえ……フ、フフッ……アハ……ほら、この孔でも手首までいけるのではないかい?」
「ふぁ……は、ぁっ……そ、それしたらっ、本気で燃やすぞあんた、っ」
腰を振って自らライドウの手首まで呑もうとしている、そんな鏡の俺は無視した。
「1929年建造のホテルを、君……燃したら、それは少々頂けないね……」
四本が踊る様に、俺の中を擽る。背中をシーツに叩きつけられ、臀部を持ち上げられた。赤ん坊のおしめでも替えるかの様な連想をさせる、この体勢は四つん這いよりも恥ずかしいかもしれない。
「僕等の訪れた各所が……朽ち潰える事は、少しばかり残念なのさ―……」
「ぁう、あぁッ、ひっ、う、うー……ッ!」
指を方々に広げられ、作られた僅かな隙間につうと垂らされる唾液。MAGを豊潤に含むそれが、酷く冷たくて背がしなる。なのに、中にじわりと浸透すれば…融けた蝋の様に熱く感じて。ぐちぐちと懐柔される其処が、気を許してヒクつき始めているのが……自覚出来る。本当は引き裂いてやりたいが、シーツを握るに止めてやる……
「以前の此処での宵は、君が女体だった訳だが、ねえ……フフ、随分と甘えてきたから、妙だと思ったものさ」
「憶えて、ない……っ」
鏡の中では、とっくに繋がっている……浅ましい二体。
「戻るのが怖かったのかい? 只のヒトに」
「ちが……あ、ぅうーっ! ぁあっ、ひ」
遅れて俺も突っ込まれ、下肢をビクビクとのた打ち回らせる。指よりも熱を、鼓動を感じる肉が、俺の壁を引っ掻く。向かい合っての行為、俺はライドウと眼を合わせたくないから横を向くのだが、その先に鏡が居る。
鏡の中の半人半魔は、斑紋の脚を伸ばして…自らを穿つ男の腰に、回し引き寄せている。ああ、本当にふざけてやがる、俺はしない、そんな事……そんな事。
「ねえ、如何だったのだい、真実は、君の本心は」
「っ、う、ぅ…っ…ぁっ」
「唱えたならその鏡、除けてあげる」
ああ、俺は。幾度あんたを産み直しても、しっかりあんたに生ってくれるのか、その度に不安で。俺にその役割が果たせなくなった時は、お払い箱なのかもしれないと、いつもいつも。
「ほら早く、し給え……!」
鏡の中の俺が、ライドウの首に腕を回し、抱き締めた。
「俺が……産めなくても野郎の身体でも、このままヤれよっ!!」
当り散らすかの様に俺が叫べば、口角を狐みたいに上げたライドウが手を伸ばす。
「君もこんな物に姿を乗っ取られるで無いよ、愚図!!」
掴み上げた鏡を、容赦なく俺の脳天に打ち付けてきた。当然額は切れ、俺は痛みに身体を強張らせる。同時に、ライドウを激しく締め付けた。
「何が照魔鏡だ! 雲外鏡だ! 不安を逆手に取られるなぞ愚かしいだろうが! 君は僕が唯一契った悪魔なのだよ!?」
根本まで一息に埋められ、俺は喘ぐ事も出来ずに引き攣った。
いよいよ面が砕けた鏡を捨て、俺の両脚を掴むライドウ……真正面から覗き込まれ、俺もただ睨み返すしか無い。
「なれば人間に戻ったからといって、君を捨て置くと思うのか……君は、僕の事をサマナーとしか認識しておらぬのかい……」
「……っ、あ、はぁっ、あ、ち、がう、違うっ」
不安を律動させるかの様にして、言葉と欲がせめぎ合って攻め立ててくる。何十年かけて心得た箇所を、的確にライドウが愛撫してくる。
砕けた鏡の破片が、枕元に一片転がっていた。其処に映り込むライドウは、俺の頬まで伝う血を、赤い舌で舐めていた。それが愛おしげに、とても甘露そうに見えるのは、鏡の魔力か……いや、その鏡は俺を投影していたのだろう? ライドウは無関係……
「違う、あんたは、あんたで……ライドウ、だけど、それでも……っ」
「僕もこの先、ずっと《人修羅》とだけ呼んでやろうか」
俺は激しく首を左右に振り、ライドウの眼光がぶれて見えた。それとも俺が泣いているからそう見えるのか、もう判らない。
「俺は夜と結婚したんだ! だからあんたも俺の名を呼べ!」
髪を振り乱して、互いに身体をぶつけあった。シーツに飛散した鏡の破片に血を流しながら、それを啜り合った。異国の空気に中てられたのか、旅先の恥と掻き捨てるつもりなのか、俺はおかしくなっていたに違いない。でも……イイんだ、本当に。
「ねえ、今度は一緒にいこうか、矢代……っ」
それは、上海の屋台通りの事だろうか、あの奇妙な路地の事なのだろうか、判らない。どこか他人事の様な事を思いながら、俺は果てた。ほぼ同時に、身体を折り曲げられる様にして突き込まれ……奥で出された。
「っう、ぁ……はっ……はっ……はぁッ、けほっ」
自分のアレが顔の上で放たれるので、当然それを被る。あまりに情けない状態だ。
「は……君……本当に待てが出来ないねぇ……少し、早かったろう」
「る、せえ……っ、は、はぁっ……くそ……実際、猿並みじゃねえかよ……」
「何か云った?」
「……悪い、馬並みだったな……」
結合し愛撫され名前を呼ばれたなら、もう行き着く先は決まっているのだから。考えるだけ無駄だった。
「今度は……普通の鏡を買ってあげる」
体液が頬で冷めていく感覚……その後味の悪さに視線を逸らす俺なんか、お構い無しのライドウ。れろりと舐める舌のくすぐったさに身を捩りつつ……傍の破片を再び見た。
血だらけの裸身を繋ぐまま、求め合うのは……悪魔と云われても無理も無かった。
だからこそ、それを見つめ続ければ……不安は薄らぐ、そんな予感に見舞われる。
忌むべき悪魔ではあるが、同時に……今は一番近しい。
「……割れてないの、買えよな」
返事すら掠れ声で笑えた。もう夜明けまで喋りたくないと、俺は突っ伏した。
砕けた鏡が、未だ効力を持っているのか、それとも破壊で力を失くしたのか……定かでは無い。それでも破片の中の俺達は、どこか幸福に見える。
これも錯覚なら……もう錯覚のままで良かった。
-了-
* あとがき*
書き下ろしに関してですが、此方は「人間に戻ってしまったと錯覚し、狼狽する人修羅」がテーマでした。その為、姿のまやかしを見破るアイテム・悪魔が欲しいな……と思い立ち、照魔鏡を登場させた次第です。
ライドウが詠っていた一文は、鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』より引用しました。『絵本三国妖婦伝』からすると中国のアイテムな雰囲気でしたので、自分の嗜好も相俟って舞台は上海に。
タイトルの《魔境ショウ》は、照魔鏡(ショウマキョウ)のアナグラムです。魔境は上海が「魔都」と呼ばれた頃のイメージから。話のタイトルを考えるのが、一番好きかもしれません。
(本書後記より一部抜粋)