禍魂の糸口 -序章-


 久々の転輪鼓は、乗り物酔いにも似た吐き気を催した。それでなくとも、この深界は階層移動に落下し続けたりと、かなり苦痛だ。三半規管を苛めたいのか問いたい構造をしている。
(落下? 本当にこれは落ちているのか?)
 真赤なホール内を落ち、障害物を殴り散らしつつ、ふと考える。第一、第二、と深層へと降りて行くのだから、落下だろうと単純に考えていたが……アマラの事だ、上下左右もへったくれも無いのかもしれない。
「ぶっ」
 飛沫が頬と胸元を濡らした、考え事をしていた所為で、見事障害物にヒットしたのだ。そのままバランスを崩し、俺は尻から着地した。本来なら、水泳の飛び込みの様なフォームからの受け身が理想なのだが。
「……っ」
 臀部を酷く打ち付けた。もはや身体の一部かの様なボトムは、擦り切れてもいない。そういえば、今まで気付けば綻びが直っていたりして。
 新宿衛生病院で目覚めた時の、一張羅だ。あの堕天使が何か仕掛けた物なのかも、と今更思った。
「あがッ」
 もう此処での考え事は止めよう、と後悔しつつ背中を振り返る。後から来たライドウが、俺の上に着地していた。息を切らす事も無く、いつもの様に哂って。
「邪魔だねえ、肉が薄くて緩衝材にもなりやしない」
「さっさと降り――」
「おまけに君、途中でぶつかったろう? 汚れが此方にまで付着したよ、どうしてくれるんだい功刀君」
 ぐりぐりと、腰辺りに擦られる布地の感触。きっと外套の汚れを俺の肌で拭っているのだ、この外道サマナーめ。
「俺の上に降りたあんたが悪い……!」
 ぐ、と膝を曲げて、勢い良く背を反らす。靴先でライドウの下肢をホールドしたつもりだったが、足首を片方掴まれた。
 でも、まだ大人しくする訳にはいかない。掴まれた方の足を、思い切り伸ばしてやる。
 黒い影が俺の背で蠢いた。暴れる俺の足を御する為に、何か武器を用いる筈だ。
(刀か、銃か)
 項の突起がピリピリと緊張した。次の瞬間、後ろに眼は無い筈なのに、俺は脳天の上に両手を掲げた。続いて掌と掌の間に、金属の熱い感触。一瞬の摩擦で、本来は冷たい刀身が燃える様に感じた。
「おや器用、人修羅は複眼持ちだったかな?」
「……蠅と、一緒にするな」
「おやおや、この階層で許される発言とは思えぬけれど?」
「さっさと退け、折るぞ、っ」
 後頭部に腕を回し上げた体勢は、楽とは云い難い。白刃取りが、そもそも苦痛だ。気を抜けば頭蓋に埋まり込むであろう刃を感じて、緊張が解けない。フフン、と鼻を鳴らしたライドウ。ようやく背から降りたらしく、圧が一瞬でほぼ消え、しゅるりと外套の端が肌を撫でていった。
 立ち上がったライドウが、握った刀を上へと引っ張る。少しばかり掌の上を開いてやれば、ひゅっ、と小気味良い音がした。間髪入れずに、鞘に納まっていく刃の音。とても静かな納刀は、ライドウの技量を示す。俺も最近解り始めた事だった。
「人の頭、真っ二つにする気か」
「観測結果から予測されるに、君は頭蓋に刃が食い込んだ程度では死なぬ。脳の再生に時間を要するとすれば、著しい能力低下の為、危機的状況に陥るであろう事には違いないが」
 続いて、此方も立ち上がる。背中の緊張が解けた瞬間、打った臀部が思い出したように痛み出した。普通の人間なら、筋肉に損傷をきたす衝撃だったのだろう。
 緩衝材にもならないとか云いつつ、俺の上で着地した無傷のサマナーを思わず睨んだ。
「ちょっと腹立てて、すぐ折檻? 最悪だな」
「寸止めにしてやったろう?」
「……そうだな。あんた本気なら、俺が手を緩めた瞬間に、ずっぷし、だもんな多分」
「君の頭蓋では刃も砥げぬからさ」
 酷い理由だ、自身を庇護するつもりも無いらしいこの男。どうしてこんな奴と手を組んでしまったのだろうか……いや、とても共闘とは云えない、この主従関係。
 管に容れられている悪魔達の方が、まだライドウの気紛れに付き合わされる機会が少ないだろう。
(俺は管に入らないらしいし、そもそも入るとしても絶対それだけは嫌だ)
 苛々しつつ、脈動する丸い扉をずるりと開いた。がらんどうとした空間は、闊歩する悪魔の影も控えめだ。呪いも消えた今、第四カルパは実に無味無臭な階層となっていた。それでも、あのおぞましい呪いの空気は、今も記憶に焼き付いている。
「武者震い?」
「……色々思い出して、胸がムカムカしてきた」
「そんなに斑紋を明滅させては悪目立ちするよ? 無駄な喧嘩を避けたいのなら、もう少し落ち着いてみ給えよ」
「あんたも俺にちょっかい掛けるの止めろ、そこら辺の悪魔でも殺したらどうだ」
 ムズムズする。
「僕はデビルサマナーであって、デビルハンターでは無いからねえ?」
「売られた喧嘩、嬉々として買うくせに」
 先刻から、額に何か垂れてくる。
「眼が赤いよ、もう真の悪魔になった?」
「さっきのが眼に……入った、くそ……」
 俺の頭にぶつかって飛散した障害物が、しとどに髪を濡らしていた。其処から額を伝って睫毛を通り越し、眼球に被膜を張ったのだ。異物感からの痛みはあるが、毒性は無いらしい。まだマシか…
 隣のライドウが、失笑している。それをぴしゃりと糾弾したくもなったが、この霞がかかった視界では真っ黒い影がほんの少しだけ有り難かった。
「あのワープホールは血管の様だと思わないかい? 漂う障害物は赤血球でねえ」
「誰の血管だよ」
「アマラ宇宙の中の、此処はひとつの世界だろう? 世界のバイパスのひとつが先刻の様な物ではないのかな?」
 ワープホールを漂うアレ等が何なのか正体も不明だったが、こうして緩い液状になって身体を汚してくれる事は明らかになっている。拳を叩き込めば、その腕だけで被害が済むものを…迂闊だった。
「しかし喜び給え功刀君、血液の赤は45%を占める赤血球の見せる色彩……つまり血が赤いうちは、君も人間に近いという事さ」
「あんたの血の色が赤い事実がおかしい」
 黒い影を頼りにしつつ、空間が引きずり込んでくる《12mの永遠》に足を踏み入れた。感じるカグツチの強さは、八分の二というところだ。
 創世合戦からあぶれた俺は、あれからカグツチがどうなったのか詳しく知らない。気付けば元の東京にいたのだ。転輪鼓で繋がる先は、アマラかアカラナ回廊くらいなので確認しようも無い。
 つまり、以前と同じくこの空間を統べるのがカグツチなのかも、本当は怪しい。もしかしたら、カグツチと勘違いしている別の力なのかもしれない。
「あと少しだね、一服しても良いかな?」
「確認しつつ銜えてんじゃねえよ、不良」
 壁に寄りかかり、細身の煙草をひらひらと銜えたまま上下させているライドウ。そして俺に切れ長な眼を向けてきた、いつもの合図だ。
 俺は軽くファイアブレスを吐き付け、すぐに傍を離れる。肺を患う肉体では無いと思うが、副流煙は煙たいので御免だ。
 紫煙を燻らせるライドウは、喫煙に没頭している様にも一瞬見えるが、あれでいて常に警戒をしている。
 マントラ本営前でも、第三カルパでも、いつもニヤけた面して現れては俺に喧嘩を吹っ掛け。いざ戦えば悪魔を手足の様に扱って、涼しげに戦っていて……
「今のは火力が少々過ぎていたね、半ばまで焦げたよ君」
 依頼? 遊びに来ているんだろ、この男。俺と状況が違う、俺は悪魔にされたんだ、酷く理不尽な理由で此処に居るんだ。
「全部燃やしてやろうか」
「弁償してくれ給えよ、一本につき千円」
「二箱は買えるじゃないかよ、ぼったくり野郎」
「持ってないのかい?またロキの倉庫に強盗でもしに行く?」
「……其処も見ていやがったのかよ、ストーカー」
 煙に釣られたのか、よたよたとトウテツがライドウの近くにすり寄っていた。悪意が無いにせよ、悪魔は気紛れだ……俺があんな風に寄られたら多分蹴り飛ばしてしまう。
 ライドウは自信の塊の様な奴で、悪魔の接近に姿勢すら崩さない。生業と付け焼刃の違いか。
「霞でも食べるかい?」
 少し屈み、フーッと煙をトウテツの顔面に吹き掛けたライドウ。トウテツは顔をゴシゴシと忙しなく擦って、千鳥足で遠くに消えた。
「やっぱり意地が悪いなあんた」
「何でも食すという割には駄目だったねえ。屍解仙には程遠い」
 哂って壁から背を離し、学帽のつばを掴んで深く被り直すライドウ。片手に携えた煙草を、管の様にすらりと運ぶ。
「少しばかり残っているが、しけもくは趣味では無いのでね」
 革靴の音を吸収する床、それでも俺に近寄って来るのが判る。MAGの馨りが肌に感じられる、少しばかり煙たいが。
「……不良」
「君ならば、あのトウテツを蹴り飛ばしでもしたのだろう? 意地悪だね」
 手の甲に、じりじりと焼け付く熱と臭いが滲む。此方の肌に押し付けて、煙草の火を消しているのだ。 俺は其処を空いた掌で覆って、根性焼きごと灰にした。吸い殻をポイ棄てするのは、俺も趣味じゃない。
「さて、丁度良く静天も来た事だ、行こうか功刀君」
「おい、ちょっと待てよ俺はまだ視界が――」
 ライドウに追従しようとまばたきしたが、意外とクリアだ。眼の霞は晴れていた。思えば、ライドウが先刻、俺に煙草を押し付けた瞬間からだった気がする。治癒能力を促進させるべく、奴のMAGが与えられていたのかもしれない。手の甲の熱で、感覚的には相殺されていたが。
(霞を食べたのは誰だよ)
 礼は述べなかった。使役悪魔の管理は、デビルサマナーの義務だから。


 -了-