夜の蜃気楼 -シラヌイ-
「不知火なら、見た事があるよ」
あまりにあっさりと述べられ、すぐに言葉が出なかった。デビルサマナーという職業柄、超常現象を目にする機会なんてザラだったか。
「……待て、あんたさっき“不知火は九州の海で見られる”って云ってたじゃないか」
「そうだよ。《八代海》別名《不知火海》で、夏の時期にね」
「あんた、帝都の守護してるんだろ? どうしてそんな方に用事が有るんだよ」
「僕が嘘吐きだって?」
「この辺で見れる訳無いだろ」
失笑しつつ晴海の教会から出て、星の見えない空を仰ぐ。水音は聴こえるが、人口の光を反射する水面しか見えなかった。
魔界と通じているこの教会は、殆どの時間来客が無いので休憩には丁度良い。
「どうして九州の海なんだ」
「浅瀬続きの海だからさ」
「不知火って、結局は何なんだ」
「龍神の灯火と呼ばれ、昔は恐れられていたね」
「あんたの云う昔って、どの程度の昔?」
「僕の時代には、既に大気光象と判明していたよ。蜃気楼の一種でね……まあ、それまでは妖怪の様な扱いをされていた訳だ」
指に携えた煙草を唇に銜え、ふうっと白い煙を隙間から吐く。この男は、口先が非常に巧みなのだ。
『我々の居た頃よりも、やはり空気が濁っておるわ』
足下で呟くゴウトに、俺もライドウも相槌しなかった。ライドウは恐らく、ゴウトに今興味が無く。俺はこの時代を貶された気がして、なんとなく黙ってしまった。
直後、ふわふわと円い環が闇夜に漂い始めた。埠頭の暗闇にそれは目立って、つらつらと螺旋階段の様に立ち昇る。再び銜え、肺に毒を流し込むライドウ。煙草の先が一定間隔で、呼吸の様に明滅する。火の朱は水面の光よりも強く、目を引いた。
『おいライドウ、遊んでないでさっさと行くぞ』
「芸達者と云って下さいませ童子。この様な遊びは、童心を持つ悪魔に随分と好評でしてね」
『人修羅、早くこやつの煙草を灰にせぬか』
返事になっていないだろ、この黒猫。とは思いつつも、このライドウにいちいち付き合っていたら精神疲労するだけだと、同情の心も含めて見下ろした。
「ゴウトさん、灰にするのは構いませんけど……行くって、何処に?」
『人修羅よ、我とライドウは暫し急用にて帝都に帰還する』
「聞いてない」
『だな、消えてないぞ』
「き・い・て・ない、です」
ライドウの煙草を下から掬い上げる様に掻っ攫うと、指先で握り潰した。指先が焼ける前に、俺の炎で灰にする。
零れ落ちた灰にけケフケフと咽るゴウトの代わりに、ライドウが口を開いた。
「すまないねえ功刀君、常に帝都を放置出来る訳でもないのだよ」
全然……すまなそうじゃない顔しやがって。
「別に付き合ってくれとは云ってない……けど」
「けど?」
些か不安なのだ。俺だけで状況判断が出来ない場面が出てくる事を、恐れている。それに、不知火の海に棄てたマガタマが、もし間違っていて……戻ってきたらどうする? 俺では他に棄てる場所が、見当もつかない。
「……いや、やっぱり俺だけで十分だ」
「そうだねえ……あちらの海なら色々釣れるし? 今のシステムなら新鮮なまま運べるだろう?」
「おいおい、あんたの為に土産買うなんてまっぴら御免だ。そこら辺のスーパーの刺身でも食ってろ」
「仕方ないねえ、帝都の晴海で我慢しようかな」
何が我慢だ、どうせ高い店でも入るのだろう。
(俺が何かを気遣ってやる必要なんて無いんだ、持ってるくせにせびりやがって)
この男の大正帝都での活躍を、全て把握している訳では無いが……とりあえず、聞けば聞く程にストレスを感じる。自分で云うのなら世話も無いが、周囲の人間がライドウを褒めるのだ。銀楼閣の、鳴海や……記者の朝倉さん、他諸々。
葛葉ライドウは、仕事だけなら完璧な男なのだ。悪魔への扱いをまともに見た事の無い人間からすれば、勉強は出来る優等生なのだろう。
『では人修羅、我々はもう行くぞ。また此処で落ち合おう、おおよそ丸二日はかかる予定だ』
「はあ……どうぞ御勝手に」
『飛行機の運賃は足りるか? 何なら貸してやらんでもないが』
「猫に借りる程、落ちぶれちゃいません」
猫の手を借りて即座に人間に戻れるのなら、土下座だってしてやるのだが。
「ではね、功刀君。迷子になったらナキサワメにでも道を訊ねるのだよ」
「誰が異界使って移動するかよ」
ニヤニヤと哂うライドウの黒い影を、最後まで見送らず踵を返した。
(俺は何処かの誰かと違って、悪魔の中より人間の中に居た方が気楽なんだ)
と、息巻いて数歩歩いてすぐ停止した。もう時間が遅い、公共機関での移動が難しくなってくる時間帯だ。慌てて乗って間違えるよりは、無人の教会で朝まで仮眠を頂く方が良さそうだと判断する。
ライドウが、つい先刻くぐったであろう扉に手を掛ける。あいつは此処から魔界を経由して大正時代へ跳ぶ。勿論、決まった道しか通れないのだが。
万が一、時代を好きに跳べたとしてもそこまでのメリットは無いらしい。見えない力によって、軸が修正される事が常だとか。タイムスリップ物は全く興味が無いので、考える所にすら辿り着かない。
(……何だ、開かないぞ)
教会の扉が普段よりも重い。湿気の軋みだとか、気圧の関係と頭が勝手に決めつけて、更に力を籠める。
途端、扉が一瞬で開く。転げる様にして、赤い絨毯の上に手を着いた。閉めてもいないのに、背後から重い音がする。
無意識の内に、身体は警戒をしていた。薄手のパーカなのに、暑い……まるでサウナの様な空気に、喉が灼け付きそうな心地だ。
天窓を見上げる、外からの光は変わり無い。それでも妙な空間の歪みを、肌に感じる。異界に呑まれた時のそれに酷似しているので、良い予感はしない。
急いで入口に駆け、扉を開いた。水音は同じ様にさざめいていたが、空気が澄んでいる。水面に揺れる光は、本当に僅かな建造物の灯だけで。頭上には散りばめたかの如く、星が輝いていた。
もしかしなくても、現代……所謂、俺の居た東京では無い。
(ライドウの奴が飛んだ後、まだ揺らいでたのか)
アマラ経絡でしょっちゅう、道が消えたり繋がったりしていた事を思い出した。恐らく俺は、不安定なタイミングで扉を開いてしまったのだ。
呪文もターミナルもアカラナ回廊も使わずに飛んでしまったので、これが本当に過去なのかすら怪しい。
真っ暗な小路、猫達の光る眼がうろうろと行き交うだけで、訊ねれそうな人影も無い。今更猫の手を借りたくなったが……あの黒猫の言葉が鮮明に甦り、救済して欲しいという思いはやはり掻き消した。
(教会の内部が落ち着くまで、どれくらい必要なんだ?)
沈殿しかけた所に、身を突っ込んで撹拌させてしまったのだ。本来よりも更に時間が必要かもしれない。
試しに扉を開いてみたが、やはりじんわりと、亜熱帯の様な空気をしている。すぐの帰還は諦めて、俺は屋外のベンチに腰掛けた。
此処はライドウの居る帝都か? 『急用が出来た』と、ゴウトは云っていた。つまり、あの男が所属しているヤタガラスの命かもしれない。
(あいつと合流すべきか)
もし時代が違うようなら、此処に戻れば良い。そのくらいの時間潰しをしていれば、教会の空間も固着されているだろう。
腰を上げ、軽く屈伸する。ミャアミャアと蠢く猫の海を掻き分けつつ、明滅する街燈の光から光へ、点々と辿りつつ町を抜け、俺は山へ向かい始めた。
星明りしか無い森は、本当に鬱蒼としている。大正20年度のヤタガラスの里へは、ライドウに連れられて数回赴いた事が有った。場所なんてそう変わるものでもないだろう。この時代がいつであろうと、さほど問題にはならない。
ライドウは、俺が里と接触する事を快く思っていない。あの男は、里が嫌いなのだ。そして、その事に関してだけは俺も同じく。
真正面から侵入すると面倒なので、裏手の山から見下ろしつつ窺う。人修羅の体力だからこそ、休憩も無しに走り続ける事が出来る。山を越える事だって、道無き道を進めるのだから容易い。単純に標高が高ければ苦労はするが、この程度の山ならあっという間だ。
(ライドウが里に居るとすれば、一番大きな館か……もしくはあいつの庵に光が灯っている筈)
出来るだけ小奇麗な樹を選んで、その腕に腰掛けて見据える。呼吸を神経の集中に注げば注ぐ程、冴えてくる。
里周り一帯の野良悪魔は、ヤタガラスに管理されている。今、集中力を削いでくる数さえも、周囲に居なかった。
(あいつの庵……存在している。それでも、あそこから出てくるのが、俺の知るライドウとは限らない)
どこか背筋が冷たくなった。その場合は、俺がこの世界で完全なる異邦人という事になる。
(でも……もしその《俺の知らないライドウ》が親切でマトモなら、乗り換えても良いんじゃないか)
あんな傍若無人で乱暴なサマナー、本当なら願い下げなのだ。同じ能力を持つ他の葛葉ライドウが存在するなら、そちらに協力を要請したい。
見下ろす遠くの庵に、灯は無い。ライドウらしい人影も無い。段々と苛々してきてしまった。わざわざ此処に来てやる義理が有ったのか? 合流したって、また「君の不注意」とか云って蹴ってくるだけだろう。これは失敗だったかもしれない。
やはり教会に戻ろうかと、俺は擬態を解いた。身体の先端まで、水が迸る様に光が流れる。
炎を放つ程度なら解除せずとも出来るのだが、一気に山を駆け下りるなら、悪魔の姿が都合良かった。
「……っ、邪魔」
間近でふわふわと虫が舞う。指先だけならまだしも、頬の光にも反応して寄って来るので埒が明かない。手で掃っても、その手も光っているので吸い寄せてしまう。
ボルテクスには居なかった生物達が暗闇の中、人修羅としての発光に反応する事が最近の悩みだ。
少し八つ当たりな気もするが……指先に集まった虫達がどうしても離れない為、眼を光らせる。
蛍光灯に燈蛾が焼かれる音とは違う、それでも最期の鳴き声が聞こえた様な錯覚を覚える。野生の虫を殺すのは、あまり良い気分がしない。
「おい」
虫の声……な訳無い。突如聴こえる人間の声に、瞬時に斑紋の燐光を消した。同時に指先の炎も鎮火したが、焼ける臭いは微かに残留している。
じっと息を殺し、音だけに気を配する。遠くに、動物とも違う蠢きを感じる。此方に接近してくるのが判った、一般人とは毛色の違うMAGの馨りを感じる。
「本当に光ったぞ、さっき」
『本当ですかあ? 狐火というヤツではないのです? ウィスプとか』
「ウィスプはこの山に居らんに、ほら、あの辺りで光ってたぞ。巽の方角だ」
『真っ暗ですねえ、あの方角だと……遠くの水平線が、木々の隙間から覗いている可能性がありますよ』
子供……少年の声と、もう一人男性の声。だが、このもう一人というのが怪しい。声音が耳に落ちてくる感じからするに、混じり気の一切無い悪魔だと思われる。悪魔の声というものは、肉声の様に聴こえない瞬間が幾度か感じられるのだ。
しかし、悪魔と行動を共にしている少年だって、冷静に見れば怪しい存在である。
「海? 見えるのか、この山から」
『ええ、見えますとも。さては、悪魔にばかり気を取られておいででしょう?』
「うるさいな、それが僕の本分だし。それにな、あの遠くに見える海は、帝都の範囲に入っているのか?」
『帝都から見える景色なれば、其処も帝都の一部でしょう』
ざり、と木の葉の音が衣擦れの様に響いた。二者共、何処かに腰掛けたらしい。
『里から出しもせず修行漬け、挙句に向かった先の平和を護れというのは、カラスの勝手に聴こえますがねえ』
「そういう処と知っているだろお前、何年居るんだ」
『ですねえ、早く十四代目を襲名し、私を帝都の遊郭に連れて行って下さいよお〜』
「うっるさいな、麓のリャナンシーと安酒でも飲んでろ」
『やめてくださいよお、マント伸びちゃいますう〜』
マント……そういう姿をした悪魔は幾つか居た筈だが、これだけでは断定出来ない。
それでも解った。今、近くに居る少年は……里で襲名の為に修練している人間なのだという事。
やがて、ほんのりと煙たい空気が漂い始める。そんなに近距離では無いが、やたらと視覚聴覚を研ぎ澄ませている所為だろう。
「どうやってお前、いつも煙の環を吐いてるんだ」
『そりゃあ、言葉通り「わっ」って口を開くんですよ。すればぷっかりとその通りの環が吐けますよ』
「嘘吐け」
『嘘なんかじゃありませんよお、ほら、わっ』
沈黙……少年の顔も知らないが、呆れた表情が脳裏に浮かびあがってくる。
だが、俺の思考を遮断する声が、直後響いた。
「わっ」
改めて聴けば、まだ変声期前の声だ。そんな歳から煙草に手を出しているとは、傍の悪魔も止めないのか……いや、悪魔だからそんな倫理観は無いのか。
「出来なかったじゃないか、このおたんこなす」
『悪魔はこの様に、流暢な嘘を吐くのですよ。この先もどうかお気をつけて』
「真面目な顔でほざくな。でもどうして……さっきお前がやった時は……唱えたら環になってたし……」
『ほらこの通り……コツさえ掴めば容易い、それこそ悪魔を召喚するよりも、ね?』
「満月みたいに綺麗な円だ」
『褒めて下さるなんて、このままでは一雨来そうですね』
それは勘弁してくれ。着替えなんて持っていない、雨宿り出来そうな場所なんて、里の中しか無いだろう。
「……本当だな、今まで風音と思っていたのは、海の呻りだったのか」
『今宵は新月ですからねえ、悪魔も静かでしょう。今は確か文月の晦日……月隠(つごも)りという言葉が相応しい宵ですねえ。もしかすると、先程の遠くの光は、不知火だったのでは?』
「不知火? それは……紅蓮の属? 外道か?」
『はは、名前で判断したでしょう? いいえ違いますよ、不知火は蜃気楼の一種です』
「蜃気楼? 今は真夜中だろう」
『そうです、不知火は夜の蜃気楼です。この時期は海水が温かい、そこに干潮で水位が下降する、放射冷却が発生しますね? その干潟で漁を行っている船の灯が、つらつらと横に拡がって見えるという事です』
「悪魔が科学を語るな」
『知的好奇心の塊ですよお? 悪魔とはそういうモノに御座います。それにね、この地方の海にも、浅瀬は存在するのですよ』
「蜃気楼は、巨大な蛤の吐く煙が見せている幻惑とも習ったに」
『ああ、蛤も良いですねえ、安酒を美味しくしてくれる肴です!』
「お前、主人の話ちゃんと聞いてる?」
『勿論ですとも、では雨が来ぬ内に帰還しましょうかね。お風邪を召されては困ります故』
「この長さだともう無理だな……ほらっ、吸い殻」
『はいはい、アギ』
「さっさと襲名して、シケモクせんでも揉み消せるくらい、煙草が買える様になりたいわ」
『今だって私がこっそり行商から買い与えてるでしょうに、労って下さいよお』
「吸わなきゃやってられんからだに、この莫迦」
デジャヴを感じるやり取りに、何処かむずむずしてしょうがない。
離れていく気配に、少し息を吐いてみた。思ったよりも、苦しい待機では無かった事に驚きだ。
『どうされました?』
少年の足音が止まっている。気のせいではない、視線を感じる。ただ、ひたすらそっと。音を立てない様に、茂みの無い方を向く。
虚空で並べ揃えた指先に、ほんの僅かに点す炎。
「おいタムリンっ、不知火! ほら!」
高慢な態度は一瞬形を潜る。少年の声が、一番少年らしく聴こえた。
瑞々しいMAGは、そうして遠のいて往った。
「まさか本当に買ってくるとはねえ」
銀楼閣の屋上、七厘の上で口を閉ざす貝達を見下ろして、ライドウがせせら哂う。
胸元が外套の隙間から垣間見える、恐らく精鋭揃いの管だ。ヤタガラスの急用に、この男はいつも万全で向かう。
「少し戻るの遅れたから……詫びだ」
「何処で迷子になっていたのやら」
「迷子じゃない」
「それ、迷子になった悪魔の常套句だよ?」
夕暮れ時、小腹が空いてくるこの時間帯に、磯っぽい煙を撒き散らす贅沢。
一仕事終えてきたライドウは、少しだけ殺気が落ち着いているので仕事前よりは接し易い。
『これは八代海の幸なのか?』
「そうですよ、こっちで焼いてるのは……俺の時代だと、近所迷惑になるからです」
顔を近付けて、一定の範囲から途端に熱を感知したのか、ぶるっと仰け反るゴウト童子。
『世知辛いな、未来の帝都は。空気も不味いし、良い事が無いわ』
「人の育った世界に文句云うの止めてくれませんか、ゴウトさんは御飯抜きにしますよ」
この黒猫にそこまでの意地悪をした事は、流石に無い。それでも一応鳴き止んだという事は、腹が減っているのだろう。
ぷっくりとした胎に、じわじわと良質の脂を浮かばせ始めた鱚。その隣で蛤がいよいよ口を開き始めた。ぱかんぱかんと薄く開いては、海の馨りを吐き出す。
「ところで、シラヌイはしっかり棄てれたのかい? その鱚の腸に潜んでいないだろうね」
「冗談にしたって性質が悪いぞそれ。不知火祭の日に不知火海に棄てたんだ、大丈夫だろ」
箸で鱚を裏返しながらさらりと流したが、実はぎりぎりだった。実際道草を食った所為で、祭の終わる直前に、海に辿り着いたのだ。
漂流先から現代に戻って、更に九州に飛んだ……あれはタイトスケジュールだった。
しかも、帰りの旅客機でも色々巻き込まれて……どうやら空間の歪みに嫌われる数日間だったらしい。
まさか山中にバラバラと鮮魚を落としてしまう展開になるとは、夢にも思わず。一体あの山は……何時の時代の九州地方だ?
(本当はもっと買ったんだけどな、魚)
結果オーライなので、ライドウには特に説明しないでおく。実は他のマガタマも、ひとつ棄てる事に成功したとは……何となく、教えたくなかった。
「おいライドウ、鳴海さん呼ばなくて良いのか」
「取り分が減るだろう? 昼行燈はそれこそ、蛤の吐いた煙でも食べていれば十分さ」
酷い事を云う、と思ったが。それならどうして俺も失笑しているんだ?
蛤の垂らした磯臭い汁が、下方の炭を激しく啼かせた。同時に、もくもくと沸上がる煙。屈んで火の番をしていた俺を燻す。
この身体になってから、MAGしか本能は求めないのに、美味の予感が喉の奥からする。吸い込む煙にMAGは含有されてないのに。
「げふっ、けふ」
「君の火で焼けば、一瞬で中まで加熱されるだろうにね、フフ」
煙の風上で、悠々としているライドウに文句のひとつでも云ってやろうと立ち上がる。
が、菜箸を持ったまま、少し思案する。
「何? 功刀君、脳まで燻されてしまった?」
「わっ」
自分でも驚きだ、見事な環がふっと吐き出せた。吸い込んでいた蛤の煙がどうやって俺の中に留まっていたのかは、謎だったが。
「……ねえ、それどうやったのだい、君」
眼が笑っていないライドウが珍しくて、俺は少し調子に乗りたい気分だ。
懐かしさを感じる瑞々しいMAGの馨りが、眼の前からする。
「機密事項」
そう、昔あんたが見た光も、不知火に違い無い。
あの夜の蜃気楼だけは、嘘の煙にしたくなかった。
-了-