天空車(ヴィマナ)のルウ -ヴィマーナ-


『皆様、本日は××便を御利用下さいまして――』

 眼前のパネルから、映像と音声が流れだした。椅子の裏側、全てに設置されているらしい。それを面白そうに指差しながら、隣の妻がはしゃぎ声を上げた。
「まあまあ、わざわざ全部の席に?嬉しいですわね」
「……別にひとつあれば十分だろう」
「いちいち細やか過ぎるのが、日本は面白いじゃないですの。八百万も神が居るだけありますわ」
「……いや、余所の事が云えるのか」
「何か仰いました?」
「いいや何も!」
 小さな画面は旅行の宣伝をしているのか、諸国を映し出している。その中に懐かしい風景も有ったが、それを見た妻は「褒め過ぎ」と可笑しそうに笑っていた。
 それはそうだろう、この映像は旅行させる為の作戦なのだ。つまらぬ国に渡りたがる人間は少ない。勿論、我々の地元をつまらぬ等とは云わせぬが。
 それにしたって、最近の妻は我儘である。わざわざ人間の乗り物に乗って散歩に臨むとは……
(しかも狭い)
 よりによってのエコノミー……どういったつもりで下位の物に乗ったのだろうか、この国の庶民感を味わう為か?
「ねえ貴方、機内食はまだかしら」
「どうだろうな、まだ少し早いのではないか? 飛び立ったばかりだぞ」
「ねえこの国の《カリー》って御存知? スパイスを調合せずとも、ルウという物を水に溶かして作れるんですのよ」
「ああ……前に寄った店にも置いてあったあれか、茶色で、ブロックに分かれているのだろう?」
「あら? 違うコーナーに有った板のチョコレエトとそっくりですわね」
「しかし、昨晩宿泊した部屋でお前も見たろう。テレビという媒体が映し出す映像は、鍋の《カレー》にチョコレエトを入れていたぞ?」
 コクを出す、とか何とか。私にはさっぱり解らぬ界隈だ。
「あらそういえば。チョコレエトもカリールウも、同じ様な物なのかしらね? 両方入れると味が向上するという事?」
 くすくすと愉し気に話す彼女だが、私は先刻から出来るだけカリーと云わずカレーと称していた。
 カリーという言葉を連呼していると、何処か背筋が凍るのだ。
「まぁ、噂をすれば貴方」
 配膳された食事は、カレーだった。周囲の人間が、湯気立つカレーに安堵の溜息を発している。どうやらコレは、彼等にとってマシな部類の機内食らしい。
「頂きますわね……あらあら、本当。随分とトロトロしているのね」
「………こう、良くも悪くもクセが無いのだな」
 軟い簡易食器を噛み、堪らずに呟いた。これは驚きだ、全くエネルギーにならぬ予感である。
 人間の空真似で、舌から風味を感じ取ろうと集中するが……薫り高いとも褒められない。
「これにチョコレエトを入れたら、美味しくなるのか?」
「どうかしら、誰か機内にチョコレエトを持ち込んでいる人間は居ないのかしら」
「おい、他人に強請るなよ、頼むから」
「まさか貴方、そんな事しませんわ」
 ぱくぱくと食べている妻。それをちらちらと、横から覗き見る……
「あら、あげませんわよ」
「いや、足りている……って、お前、それ牛肉だろう!」
「あらあら」
「ナンディーが泣くぞ……」
 食事に夢中で、彼女の擬態が解けているのではと、気になって此方は食事どころでは無い。
 互いに適当な人間を転写した姿で、何処から見ても日本国の人間の姿だ。
「御馳走様、ウマー! ですわ」
「だから、それは流行らないと何度云えば解るのだ……」
「流行る必要はありませんのよ、私が云う事に意味があるんですもの」
 確信犯なのか、堪らん。ウマーがお前の別名だとは誰も気付かんだろう。お前がパールヴァティだと認識している人間は、この空間に居ない。
 溜息しながら空の容器を目の前にしていれば、甲斐甲斐しくそれ等を重ねて片付ける妻。
「人間の不便は愉しいですわ」
「お前、私が溜息する度に笑っているな?」
「くす、お気付きでしたの? こういうのも、数歩で世界を巡るより色々見れて愉しいですわよ?」
 そっと手に手を重ねる仕草に、やはり穏やかな心を呼び覚まされる。
「不知火、綺麗でしたわね〜」
「……まあ、あの程度の現象ならば私にも……」
「何か仰いました?」
「いいや何も!」
 旅先で見たそれを、この国では不知火と云うそうだ。だが私は、実のところしっかり観賞しなかった。
 興味云々ではない、あまりにまじまじと眺めていると、また両目を背後より塞がれそうで恐ろしいのだ。
 妻の「だ〜れだ?」ほど恐ろしいものは無い。平常時なら問題にもならぬが、しかし彼女は時と場所を選ばない。咄嗟に第三の眼が開かぬとは、云い切れない。確かに妻を愛してはいるが、体現の必要性が常にあった。やや疲労する。
「いつもこの双眸で、お前を見ているからな」
「まあ、どうしたのいきなり」
 しょうのない方うふふ、ではないだろうが。しかしその嬉しげな声に、まんざらでもなくなる。
 と、重なるその手指をはたと見つめる。適当な人間の姿を借りたとはいえ、そこそこの容姿の者を選んだのだろう。綺麗な手の形をしていた。
 長い黒髪に、パンジャドレスの様な土色の衣類。地味ではあったが、シルエットだけなら焼身自殺前の妻の姿に似ていた。
「この土地では、確か夏という時期だったな。少し黒くなっている……お前の擬態対象も、陽に焼けたのかもしれんな」
 述べつつ、軽く指を揉んでやる。互いに本来の姿で無い事が残念だが……心地さえ浸れたのなら、この場はそれで良い。
「黒い?」
「ああ、人間の肌は太陽に弱くて敵わぬ」
「嫌い?」
「は?」
 何故か声音が低い、それは借りた人間の声帯の影響か?
「……そうですわね、もっと白色の人間を選定すべきでしたわね、貴方の傍に居るに相応しい」
 いいや……違う。これは明らかに……機嫌を損ねた。黒肌発言は厳禁だった。これで以前失敗しているだろうと、自分を叱咤するがもう遅い。
「本来のお前の姿では無いだろう、咎めているつもりは毛ほども無いぞ」
「だからさっきも、しつこくカレーカレーって云い直して」
「気付いていたのか、それなら自らカリーと何故連呼した?」
「そんなに貴方、カーリーの名が恐ろしいんですの? それもそうですわよね、過ぎた事とはいえ私の一部。思い出したくもないのでしょう、あんなガングロ」
「誰もそんな事云っていないだろう」
「わざわざ云い直すって事は、相当意識してるんですわ」
 それは……と、切り返せずに口籠る。妻の猛追は留まる事を知らず、その纏う気にすら険しさが滲み始める。重なっていた手は、ぱちりと弾かれた。
「もういいですわ、実家に帰らせて頂きます」
 戦闘開始の声だった。


-----------◇-----------


 空気が張りつめたと思った瞬間、周囲の呼吸が一斉に止まった。都市の停電にも似たその感覚に、一体何が起こったのか分からず……暫く静止していた。
「帰るじゃないだろう……! 早く周りを元に戻すんだ」
「いいえ絶対帰ります、ヒマラヤに飛びます」
「飛ぶってお前、すぐ私も追いつくぞ?」
「私の熱が冷めるまで、顔を見せないで下さい。来たならば、私の身内が黙っていません事よ」
 同じ列に座っていた夫婦と思わしき二名だけが、ぎゃあぎゃあと喧嘩を続けていた。
 視線だけで、改めて周囲を確認する。乗客達は皆、がっくりと項垂れているが……死んでいる訳でも無い様子だ。窓の外を見れば、ぼやけた空の色をしている。しかし雲の流れだとかを感じない、停滞しているその景色。
「あの山脈なら私の家もあるだろう? 実家に帰らずともそこで少し頭を冷やしたら良いではないか」
「頭を冷やせですって、やっぱり私の事をどうしようもない奴と思っているのね」
「だから――」
「東京へは、貴方一人で帰って下さいな」
 光を纏ったと思えば、ゆらゆらと姿が溶け出す婦人。敢えて構えず、じっと息を殺して様子を窺う。
『待て、パールヴァティ!』
 叫んだ男性が、咄嗟に腕を伸ばす。それも四本も。しかしそのどれもが、光る相手を捕らえられずに空を切った。
『誰が待つかボケェ! 来たら本気で戦争だから覚悟しな!!』
 流石に出入口を開けられた時には身体がビクついたが、空間に固定されているらしいこの機内は、気圧に左右されずにしんとしていた。
 罵声を返しつつ、空に飛びだした伴侶。それを見送り茫然とする背中は、一応見覚えのある悪魔だった。
「……あの」
 着席したまま、小さく口を開けば、ぐるりと此方を振り返る大きな体躯。四本の腕の所為か、その周囲は陰る。
『眠っていないとは、人間、貴様何者だ?』
「あれ、パールヴァティじゃなくてカーリーでしたよね」
『みなまで云うな』
 しゅるりと首の蛇を垂らし、左右に振る姿。青肌にすらりとした筋肉、簡素な腰布。シヴァという悪魔だ。
 俺は従えた事が無かったので詳しくは知らないが、ライドウが使役しているのを数回見た記憶がある。
「この飛行機どうしてくれるんですか、俺は東京に帰りたかったんですけど」
『すまないが、暫し借りるぞ』
「は? 借りるってどういう事ですか」
『妻は立腹している、すぐに向かえばまだ手薄だろうが……彼女自体が厄介だからな。応急処置だが、この乗り物をヴィマナへと作り変える』
「ヴィマ……ナ?」
 勝手に話を進め始めたシヴァは、あろう事か眠る乗客の手荷物をごそごそと調べ始めた。
「なに火事場泥棒してるんだ!」
 それを見て思わず立ち上がり、手元を確かめるべく接近した。
 ポシェットや、上着のポケットなど、ありとあらゆる箇所を探る青い指先。腕が四本あるので、作業は早いらしい。
『ヴィマナに作り変える為の材料を探している』
「ヴィマナって、何の事です」
『此処の人間の言葉で云えば、戦闘機というのが一番近いか』
「戦闘機って……まさか乗客乗せたまま突っ込む気ですかあんた」
『案ずるな、ヴィマナの装甲は堅い』
「いや、そうじゃなくって」
『ヴィマナとは、我々神が操る天空車の事だ。自在に空を飛び、攻撃の要でもあった空の戦車よ』
 乗客の携帯電話や音楽プレーヤーを毟り取る姿は、どう見ても窃盗者なのだが。
「作り変えるって云いながら、どうして携帯とかくすねてるんです……」
『な、なんだその眼は。そもそも何故貴様には術が効いておらぬ。パールヴァティの睡りの術は、睡蓮の水にたゆたうが如し心地というのに』
「俺は……」
 既に一般人と云い張る事も馬鹿馬鹿しいので、パーカの両袖から伸びる指先を軽く握り締めて気を巡らせた。
 は、と息を吐くと同時に、一瞬毛が逆立つ感覚。擬態の解除が済むと、後ろのフードを押し退けるツノがこそばゆかった。
『ほう、悪魔か』
「半分だけですけど」
『半分? どれ、名の知れた奴なのか?』
 じゃらじゃら携帯電話を腰に括り付け、真面目な顔で席を巡回するシヴァが相当シュールだったが……とりあえずぼそりと返事した。
「……人修羅」
『修羅! 貴様まさかアスラか!?』
「いや、あんたに恨まれる様な覚えは全く無いですけど俺」
『まあこの際アスラだろうが何だろうが構わぬ、機内の金属を掻き集めてくれ』
「人の話聞いてます?」
『半分程度はな』
「半分だけ人間とは云いましたけど、話は全部聞いてくれませんかね」
 闊歩しながら、シヴァは宣言通りにありとあらゆる金属を一所に集めていた。
 安いとは云い難い携帯ゲーム機まで有って、すやすやと知らずに眠っている子供が憐れである。
『ふむ、人間達の所有物ではこの程度か』
 金属フレームの眼鏡を、芸人みたいに四つ重ねて装着したシヴァが、腕いっぱいの金属を降ろす。
 その小さな山を見下ろし、俺はただ茫然と見ていた。「止めろ」と云って阻止する事も憚られる気がして、とりあえず訊ねるばかりだ。
『特に携帯電話という物が効率が良いな、インジウム・ネオジウム・サマジウム・ベリリウム・ガリウム・タンタル・チタン・リチウム、一挙に手に入る』
「レアメタルとか、そういう系統の金属が欲しいんですか」
『そうだ、ヴィマナは十六種類の金属を要する、混ぜて近い物に出来れば良いのだが……』
 難しい顔をして、眼鏡を全ての手で一個一個外すシヴァ。もう何がしたいのか意味不明で、傍から見ると漫才だ。
『アスラ、貴様も持っているだろう、携帯電話とやらを』
「嫌ですよ」
『この飛行機は、ヴィマナとして利用した後、元の姿にして此処に返す。つまり協力した方が貴様にとっても良いという事だ』
 確かに、この高さから飛び降りるのは御免だった。窓の外を見る限り、空間も歪んでいる。
 強大な力を持った神でもなければ、狙った処に出るのは難しいだろう。半分人間の俺には、その狙いを定める事は不可能に近い。
「サンシャインの天辺から飛び降りるのも、正直肝が冷えましたからね……」
『そうか、では寄越せ』
「でもそれは嫌です」
『全く、アスラ共は掌を返すのが早い。折角操縦の際には、補助のアシュヴィン(操縦者)に任命してやろうと思っていたのに』
「だから俺はアスラじゃないし、何かやらせろとか一言も云ってないですから」
『交渉決裂だな、そこで大人しくしているが良い』
「悪魔と交渉とか滅多にしないんですけど、ここまで酷いのは初めてだ。今日はまだ新月の筈でしたよね?」
 売り言葉に買い言葉をしつつも、シヴァの近くの椅子に凭れた。とりあえず見守るしか出来ない。
 シヴァは電子機器を一つ目の手で砕くと、二つ目と三つ目の手でわしわしと解し、四つ目の手でレアメタルだけを吸い寄せていた。
 それを眺めつつ、解体業者はシヴァを大勢使役したらどうなんだろうと妄想したが、少し無茶があったと気付いて我に返る。
「そもそも、俺が携帯をひとつ其処に投げ込んだとして、足しになるんです? 一個分くらい大差無いんじゃないですか」
『ふむ、そもそもこの様子では足らんな』
「えっ、そんなに必要なんですか」
『ある程度は私の術で水増し出来るが、それでもこれの十倍以上は必要だな』
「そんなの乗客の私物掻き集めた時点で判るだろ! あんたふざけてんのか」
『しかも金属の浄化にはカンジャラ油、トウゴマ油、クンジャラ油、カランジャ油、プラーナ・クシャラ酸、ヴィランチ酸、他諸々が必要なのだが、どうやらこの機内には見当たらんな』
 そんなマニアックな物が常備してある訳も無いだろ、と呆れてしまった。乗客の私物は砕かれ損である。
『素体は有るのに、惜しいな。ヴィマナは必要な物質が、とても多く要るのだ』
「インドってカレーもそうですけど、スパイス調合とか複雑ですからね。レシピ通りにやろうとしたら、まず材料なんて日本の一般家庭じゃ揃いませんよ、無理です無理」
『カレールウの様な……ヴィマナのもとが在れば良いのだが』
 何を云い出すのだこの悪魔は、と鼻で笑おうとして……少し引っ掛かった。
 そうだ、そういえばこの神と金属を前にしてから、ほんのりと胎が熱い。
(ヴィマナ……ヴィマーナ……?)
 そうだ、何も意識していなかったが、もしかすると棄てられるかもしれない。シラヌイを棄てた後、適当に呑んだマガタマは確かヴィマーナだ。
 胡坐をかいていたシヴァの前に仁王立ちして、間髪入れずに喉を蠢かせる。
「うっ、ぐぅ……ァ」
 ずるりと吐き出したヴィマーナを指先にぶら下げ、口を袖で拭った。
「はぁっ……これ、使えますか」
『何だこれは、少しカレー臭いな』
「煩いな、使えるかどうか訊いてるんですよ俺は」
 ビチビチ跳ねるヴィマーナを、自ら手にする事が躊躇われたのか、首の蛇に取らせているシヴァ。よく分からない所でヘタレだ。しかし、眼の前に運んだ瞬間、その眼が見開かれた。
『これは……一体何なのだ』
「俺はそれ、全然必要じゃないので、あげますよ。レアメタルっぽくないですか?」
『凄いぞ、この魔力は……それこそヴィマナのすべてを含有している。この形では発露していないだろうが、私が昇華させる事は十分可能だ!』
 喜びに立ち上がった瞬間、思い切り天井を頭突きで砕いたシヴァ。
『これで妻の腹踊りから逃れられる……有難う、弱そうなアスラよ』
「……はあ、どうも」
 当人は全く気にしていない様子だが、こんな状態で本当に機体を元に戻せるのか……不安ばかりが残る。
 替えのマガタマを椅子の影で呑みながら、金属を術でさらさらと混ぜ始めたシヴァを見た。ヴィマーナの気に中てられたのか、妙に張り切っている。
『さて、あとは操舵の英気を養う為、食事と身支度をせねば』
「そんな事まで決まってるんですか」
『そうだ、特に今は新月、ヴィマナの飛行に悪影響を齎す。食物から気を分けてもらう必要が、多大にある。ラッラ・カーリカの食事規則は先刻食べた不味い機内食で打破されているからな……此処は生き物の気を取り入れるつもりで、肉を補給するしかない』
「食物ったって……機内食くらいし置いてない筈ですよ」
『新鮮な魚は無いのか? もう牛肉は勘弁して欲しい、あれは泣きそうになる』
「そんなの有る訳――」
 あしらったつもりが、思い出して声が止まった。そうだ、搭乗前に購入したのだ、土産の鮮魚を。
 ドライアイスと一緒に専用鞄に入れられて、貨物室に有る。
『ほう、有るのだな?』
「……どうしてそこまで、俺が悪魔なんかに」
『まあまあ怒るな。私がカイラス山に寄った際、貴様を称える踊りを考え披露しよう』
「凄く迷惑です」
『で、何処に魚は有るのだ?』
 渋々説明すると、空いたままのハッチから外に出たシヴァ。機体にへばりついて移動すると、貨物室の辺りをカツカツと武器で叩く。
 謎の力ですんなり開いているのを見て、何となく不機嫌になる俺。
(殆ど魔法で何とかなるんじゃないか)
 貨物室に入っていったシヴァは、何処か不安にさせる。あまりに反応が無いというか、静かなのだ。
 出入口から暫く見下ろしていると突然、魚がバラバラとハッチから零れ始めた。
 俺は咄嗟に止める術もなく、空を飛ぶ魚達をぽかんと見つめていた。
『いや〜すまんすまん、結構な数ぶちまけてしまった様だ』
 二匹だけ鱚を掴んで、二本の腕で這い登ってきたシヴァ。あれだけ盛大に零しておいて、食すのはたったそれだけなのか?
「ぶちまけたって、何をどうしたらあんな事になるんですか」
『ひとつの袋が下から破れてな、どうやら腕のチャクラムが裂いてしまっていた様だ』
「………いや、もういいですけど」
『ところで焼き魚が良いのだが、どうも肉肉しいと駄目でな』
「さっさとカイラス山とやらに帰れ……っ!」
 その腕ごと焼き払えば、やや黒焦げの魚をむしゃむしゃと頬張り始めたシヴァ。
『背に腹はかえられん。この二匹に感謝し、頂こう』
 その割には夫婦喧嘩が発端で、感謝の対象は真っ黒なのだが。
 戦った訳では無いのに、何故か疲れがどっと押し寄せてきた俺は自分の席に戻って腰掛けた。
 すると、腰を下ろした直後に高笑いが響く。
『よし、今からこの機体に先程の金属を融合させるぞ! 高熱も必要だ、手伝えアスラよ!』
 人が腰を下ろした瞬間にこれとは……狙ってやっているのだろうか?苛々しながらも、あの恐妻家を放置する方が怖い気もして立ち上がる。
 と、そこである事に気付いて、俺は少しだけやる気になった。
「いいですよ……狭っ苦しい中であんたの気に嬲られて、正直身体が疼いていたんです」
 軽く袖を捲って、両手に炎を宿す。眼の奥が熱い……最近思い切り炎をぶつけるシーンが無くて、少し鬱憤が溜まっていたのかもしれない。
 マグマ・アクシスの構えを見たシヴァは、四本の腕を扇の様に広げた。
『そうだ人修羅よ、貴様の得意の炎をぶつけてこい!』
「はぁ……奥さん居ないと悪乗りするんですねあんた」
 翳されたシヴァの武器の先端を読み、同じく炎を振り翳す。倣って動けば、自然と炎舞になる。
 渦巻く熱はシヴァに誘導され、他を燃す事も無く金属を取り巻いて往く。
 思えば、何かを創造するべく炎を放つのは、初めてだった気がした。


-----------◇-----------


「素敵なヴィマナでしたわ、一体どうやってあそこまで立派に作り変えたんですの?」
「ヴィマナのルウが在ったのだ」
「あらあら、どういう事ですの?」
 擬態しようとも柔らかい声音に、此方もついつい頭を撫でてしまう。
「お前も容赦無かったな、まさかガネーシャまで味方につけていたとは……行動が早い」
「また貴方が、門番しているあの子の首を斬るかと思って、うふふ」
「……同じ轍を踏ます作戦だったのか」
「何か仰いました?」
「いいや何も!」
 結局あれから戦いは激化し、操舵席で揺さぶられ続けた人修羅は酔って嘔吐していた。本当に修羅なのか?
 しかし、乗客のシートベルトをしっかり確認しておいて正解だった。相当激しいヴィマナの動きだ、椅子に固定帯が無ければ、恐らく肉片だらけの機内となっていただろう。
「うふっ、旅行の続きが出来て嬉しいですわ」
「機内もしっかり元に戻っているだろう?」
 ヒマラヤ上空で戦いを終え、機嫌の直った妻を連れ戻し、再びのフライトである。
 彼女が術を解いた瞬間、乗客達が一斉に目を覚ます。まるで早朝に開く睡蓮の花達の様に。
「でも“持ち物が無くなっている”って、皆大騒ぎですわ」
「私達は元から携帯など持っていない、気にする事も無いだろう?」
「そうですわね、電話など不要、以心伝心ですわ」
 まさか即興のヴィマナに乗って来るとは予測していなかったのだろう、妻の布陣には此方のゴリ押しで勝利した。
 放った光弾が近くのヴァナラ達に流れてしまった気もするが、まあ気にする程でもないだろう。
 カーリーとなった妻を放置しておく方が、世界への被害は甚大なのだから。
「そうだパールヴァティ、お前に土産がある」
「あらっ、なあに?」
 そっと取り出すのは、板状の包み。それを掴む指が青くない違和感に、そわそわしつつも差し出す私。やはり人間への擬態は慣れない。
「まあ……チョコレエトですわ」
「そうだ、もう一度《カリー》を頼んで、それを入れてみると良い……疑問が解けるかもしれんぞ」
「……貴方ったら」
「牛肉が入っていても、怒らないから。お前の好きになさい。ナンディーには黙っておいてやる」
 眠る乗客から金属を押収している時に、こっそりとくすねたのだ。妻の無邪気に笑う顔がまた見たくて、つい出来心で。
 チョコレエトを受け取り、朗らかな表情の妻……の向こう隣に座る少年が、私を一瞬見て目許を引き攣らせていた。その頬に黒い斑紋は無い、同じく擬態しているのだ。
「少年よ、お前もチョコレエト入りのカリーが気になるなら、二口くらい分けてやらんでも無いぞ」
「いえ、要りませんから」
「こうして同族が並んだのも何かの縁、遠慮せず喰え」
「だから要らないって云ってるでしょう! それに同族なんかじゃ……」
「お前の主人にも、宜しく伝えておいてくれ」
 ツンと背けていた顔が、はっとして此方を向いた。
 そう、あの炎舞を見て思い出したのだ。この悪魔は、葛葉の十四代目が使役していた半人半魔だと。
「……あんなの主人じゃないです」
 眉を顰めて呟く人修羅に、妻がくすくすと微笑み肩を叩く。
「そんな事云って、さては拗ねて主人の気を引くタイプですわね」
「はあっ?」
 素っ頓狂な声を上げる人修羅、妻にぼそぼそ吼えているが、全く効いていない。
 彼女は炎に強いのだから、お前の覇気では無駄だろう。
「もう、そんな怒った声出して。夫を助けてくれたのだから、同族のよしみを感じたのでしょう?」
「ライドウとの契約もそうですが、俺は利害が一致したからであって……今回はヴィマーナとカイラースを棄てる為に」
 その会話を聞いて、あっと声を発した私。一斉に此方を向く、妻と人修羅。
 ごそりと懐を探ると……やはり有った。
「はは、すまん、棄て忘れた」
 人修羅に渡されていたカイラースというマガタマを取り出し、笑ってぶらぶら指先に弄ぶ。
 そうだ、カイラス山に降り立った際に棄ててきてくれと頼まれたのを、すっかり忘れていた。
「因みに、当分山には戻らんぞ。この後まだまだ旅行する予定でな……サマナーからお呼びがかからぬ間はのらりくらり、だ」
「最っ低……悪魔と交渉なんて、したところで結局これだし」
「まあまあ怒るな。そんなに不服ならば、到着先の空港で寝そべってやるから、私の腹の上で踊るが良い」
「そんな趣味無いです!」
 私の指先からカイラースを奪うと、罵詈雑言を吐き連ねる人修羅であったが……
 いきり立つ彼に、笑顔で「案外病み付きになるんですのよ」と云った妻の言葉に、私は凍りついていた。


 -了-