笑気の沙汰 -ミアズマ-
「酒臭い、さっさと出たい」
がやがやと賑わう店内は、人修羅にとって不快な空間らしい。窓枠の硝子の向こう、広がる田園風景に羊が点々と白い斑点を作っていた。
「功刀君、酒場は情報収集の場だろう? 帝都でも魔界でも見知った事だろうに」
「日本語じゃなきゃ、俺には無縁だ」
「君の世まで、日本國は外国語教育を怠り過ぎたね」
個人差はある様子だが、未来の帝都でしばらく滞在した際に思った。人修羅は僕より先の時代の人間の割に、英国語すらまともに話せないのだ。
せせら哂って、麦酒を呷った。此処のソレは苦味も薄く色が茶色く、実に英国の北部らしい。
「俺は日本にしか用事が無いと思ってたから――」
「教養は広く持った方が、何にせよ良いと思うがね」
「世界がボルテクスになったら、英語も何も関係なくなったじゃないか」
「君、こんな時は東京受胎に感謝するのかい? そういえばジャイヴトークもままならなかったっけ?」
「誰も良かったとは云ってないだろ! あんな傍迷惑な……」
申し訳程度にポテトをつまむ人修羅は、文句しながらもそもそと食む。顰めた眉はそのままだ、恐らく粉っぽいのだろう。
人修羅の舌は、味覚が鈍い事が判明している。人間の食事は適切な燃料となり得ないのだ。本来料理好きの彼にとって、とても恨めしい肉体の変化であったろうに。
「君も飲めば? 麦酒」
「……俺は、未成年だし……酒臭いの嫌いなんだ……普通の水頼んでくれよ」
「止めておき給え」
「どうして」
「ヘドロを飲みたいのかい」
不快感からの表情は、疑惑のそれになる。人修羅は怪訝な顔のまま、僕の手にしていたグラスを渋々と掴んだ。
くるりと回して、反対側の飲み口から啜っている。そんなに僕との間接接吻が嫌だったのかと、鼻で笑ってしまった。
「潔癖め」
「野郎とやって、誰が嬉しいんだよ」
「ヒトの体液にMAGが含まれているのを、知らぬとは云わせないが?」
「あんたの唾液強請る程、まだ渇いちゃいない」
「あ、そう」
グラスに残っていたのはほんの僅かだったが、人修羅はそれを飲み干す事すら苦痛そうだった。テーブルの上、既に食す物が無いので立ち上がる。
勘定は前払いなので、そのまま扉を開けて表に出る。ベルの音が二回、背後の人修羅が鳴らした後に、扉の閉まる音が響いた。
「は、不味かった。喉が寧ろヒリつく……飲まなきゃ良かった」
「そんなに水が飲みたかった?」
追従してくる人修羅に、目配せする。擬態した姿はどう見ても人間そのものだが、亜細亜の人種が此処に居る事が異常なのだ。
酒場の視線を思い起こす。滞在しているだけでも、既に身の危険は有る。
「……此処の水源が原因なのか?」
「此処はまだマシな方さ、倫敦のテムズ川なんか酷いものだよ?、見に行くかい? 路上に糞尿が飛散している芳しい都さ」
説明しながら、可笑しくてまた哂ってしまった。まるでその現場に行ったかの如き表情をしてみせるのだ、ポーカーフェイスの出来ない奴め。
「だったら《ミアズマ》は、テムズ川周辺に在るんじゃないのか? こんな田舎じゃなくて」
「しかしベルゼブブは『この町で捜せ』と云ったね」
「……何処見たって、汚いじゃないかよ」
僕等が第四カルパに赴いたのは、蠅の王に助言を貰う為だった。と云うより、あの階層の呪いを頼りにして向かったのだ。
呪いの空気は瘴気、すなわち《ミアズマ》である。人修羅のマガタマであるミアズマが反応するであろう、最も身近な場と僕等は推測した。
だが、既にあの階の呪いは解けている。ベルゼブブに、あの瘴気を再び呼び戻して貰おうという算段だった。するとベルゼブブは『とっておきの舞台を用意してやろう、其処に瘴気の根源は在る』と、一際高く嗤い、話を持ち掛けてきた。
それは『飛ばした先で、棄て場所を捜してこい』という、実に悪魔らしい戯れだった。
「くそ……あの蠅、俺で遊んでやがる……絶対そうだ」
隣で鬱々と文句を垂れ流している人修羅は、道行く羊の群れの臭いにまた眉を顰めていた。
この風土、行き交う人間の会話、看板表示……五感に訴えかけてくる全てを集約すると、恐らく英国北部に位置するランカシャーの辺りだ。
コレラの流行は幾度かあった筈……確か一八三一年から大きな流行は四回程度。だが、この地域では酷い発生は無かった記憶だ。
(此処で捜せ、という時点で裏が有るな)
ベルゼブブは、人修羅を試すという名目で、何かしら吹っ掛ける事が有る。瘴気とされる水源にミアズマを棄てて終わり、という訳にはいかぬだろう。
「遊ばれている? 良いじゃないか、現にタダで英国観光が出来ている」
「コレラ大発生中のイギリスなんか、誰が嬉しいかよ」
「ヒトの病気で死ぬ身体でも無いだろう? さて……ベルゼブブの云う《ミアズマ》は、一体何を指し示しているのやら、ねえ功刀君?」
蠅の王に渡された路銀から見て、此処に滞在出来るのはあと数日程度。それまでに真の《ミアズマ》を捜し出し、ミアズマを棄てるのが目的だ。
勿論、第四カルパに帰還する術は人修羅が心得ている。ベルゼブブに羽音混じりに囁かれ、嫌そうに伝授していたのを確認済みだ。
彼が《ある言葉》を唱えれば、元の次元に帰還が出来る。
ミアズマ廃棄という目的を達成すれば、その方法を取らずともベルゼブブが引き戻してくれるそうだが……
「君の潔癖症が悲鳴を上げるねえ? フフ」
「さっさと棄てて帰る、それだけだ」
意地でも帰還の呪文を唱えたくないらしい。意気込みつつも、獣の臭いにうっと呻いて口を覆う人修羅を見て、僕も早過ぎる助言は無しにしようと思った。
ベルゼブブの云う《ミアズマ》の正体も気にはなったが、人修羅が嫌悪する《帰還の言葉》も同じくらいに興味が有ったからだ。
-----------◇-----------
何処の国も、余所者には冷たいのだろう。
言葉が解らない俺は、ライドウから又聞きする他手段は無かったが、空気だけでも案外判る。
ひそひそと、俺達を見て周囲の人間は何かを話している。コレラに脅かされている不安な心は、人を猜疑心の塊にしている筈だ。
しかも言葉が通じないので、俺にとっては出来るだけ関わらないのが吉なのだ。
(だからって、ライドウにばかり調査させてるのも問題だな)
納得いかないが、こんな場所ではライドウの黒い外套姿の方がマトモに見える。
ベルゼブブに急に飛ばされたものだから、俺なんか来た当初は上半身を晒したままだったのだ。国によっては重罪となるであろう恰好に、異国の肌寒さを感じて瞬間鳥肌が立った……気がした。人修羅の肌なんて、実のところ鈍いものだ。
肌を晒すのはボルテクスの頃から嫌だった。それでも、戦えばあっという間に着衣は襤褸切れになってしまう。それなので、普段からアマラ深界へはかなりの軽装で臨んでいたというのに。
(ライドウの外套みたく、香でも焚き染めてあれば気にならないのかもしれない)
この町で適当に購入した麻素材のシャツの中、斑紋が浮かび上がっていないか覗き込む。続いて袖を鼻先まで持ってきて、軽く鼻を利かせた。
獣の臭いが染みついている気がする、早く風呂に入りたい。ボルテクスの頃だって、回復の泉に立ち寄る度に身を清めていた……此処は人の視線が有るから、却って動き難い。
(そもそも、シャワーを借りたところでその水さえも汚染されてるんじゃないか)
水道水の飲める国に育った身としては、本当に不自由だ。時代が古いから、ペットボトルのミネラルウォーターなんて物は当然売っていない。飲食と身体の浄化、これが制限される事が本当に苦痛だった。半人半魔の身体にそれが絶対必要かと云えば、そうでは無い。
しかし俺には重要だった。人間の頃の感覚を忘れる訳にはいかない。人としての尊厳を損なう生き方は、真の悪魔への一歩なのだから。
悶々としつつ、窓辺から外を眺める。イギリスの雲は分厚い、そして暗い色をしている。遠くの空の色が灰色なのは、汚染された空気の所為なのか……それともただの雨雲なのか。
そういえば、ボルテクス界は空気も水も……あれは澄んでいたのかよく判らなかった。廃墟と化した建造物群の欠損は、腐敗によるそれとは違っていた。
本来の用途は、人間の生活の為にそびえているそれ等。人間が消えてから、酷くひっそりとしていた。地表を奔る川や、何年も佇んでいた大樹の様に。
(腐らせるのは、人間だけなのか……)
淀んだ川を眺める。この部屋は二階だから、遠くまでよくよく見渡せた。眼を細めて、意識を集中させる。擬態を解除せずとも、五感を研ぎ澄ませる事はそれなりに可能だ。
住民と思われる人影が、畔で水を汲んでいる。自宅である程度、煮沸や濾過をするのかもしれないが……とても使う気にはなれない水だ。
そのまま焦点を滑らせ、川を下っていく。軽く見ただけでも、美しい水源を好む妖精や悪魔の類は見当たらなかった。
「……ああもう、臭いなっ」
霊的な存在を尊重する俺でも無いが、その存在が視えない事に確信を抱く。下水道の配備が無かった所為だろう?汚染の原因も、箇所も把握出来ている。間違いな筈は無い、この町に範囲を絞ったとしても、水源が瘴気の起点と化している事は明らかだ。
町中がまんべんなく汚染されていて、胎内のミアズマも麻痺しているだけだ、きっとそうに違いない。呼応する場所の断定なんか不可能だ。
鍵を持っているのはライドウだが、待って居られず窓辺から離れる。軋んだ音を立てる扉を開け、施錠もせずに部屋を出た。
-----------◇-----------
『ねえお兄さん何処から来たのぉ?』
『ちょっと止めときなよ、ガンコナーかもよ。ニンゲンでカッコ良いのってあんまり居ないじゃない、魔力でガワだけ作ってるんだわきっと』
『それならアタシ達にはジジイの恰好で視えてるでしょ? 正真正銘このニンゲンはこういう姿してんのよ!』
やいのやいのと、好き勝手を垂れながら傍を飛んで付いてくるシルフ数体。立ち止まって話をする程でも無いので、景色と流しつつ返してやる。
「東洋の人間が好みとは、悪趣味と云われないのかい」
『この辺のニンゲン、不味い空気と水と食い物のせいでMAGも不味いのよ』
『お兄さんカタギのニンゲンじゃないでしょ? 遠くから来たみたいだし、ねえねえ吸わせてよぉ』
「契約した悪魔にしか吸わせない主義でね」
『え〜っ、ケチ〜! 観光案内だってしたげるのにぃ』
「観光では無く、調査に来ているだけさ」
『ナニナニ? 噂話なら任せてよお、井戸端会議してる主婦の肩にしょっちゅう停まってるのよアタシ』
コレラ以外でよく聞く症状で、主婦層の肩こりが多い理由が判明した。休憩所にされてしまう程、話し込む奥方達も文句は云えぬ。
「不要さ、聞き込みで事足りる」
『でもでもお、本当のコト、話さないでしょニンゲンって』
「そういう者程、眼や心は雄弁に語るものだ」
『あー悪魔に心読ませてるでしょ? ずっるーい』
「そうでもないさ。対象者の心は案外遠くに飛んでいて、どうでも良い事ばかりが流れ込んでくる。読心は宝探しにも等しい」
『ふーん』
返事が上の空になってきた、恐らく此方の講釈に飽きたのだろう。妖精にはよく見られる傾向だ。
「ほら、宿にまで入ってくるでないよ。さっさと汚い川に帰り給え」
『ほらやっぱ意地悪、おまけにケチ』
「仲魔に大飯喰らいが居るのでね、おいそれと馬の骨に呉れてやる訳にもいかぬのさ」
『う……馬ですってェ』
頬を膨らませた一体が、細い腕を振りかぶる。一歩身を引いてやれば、学帽のつば先に軽く掠めていった。
粗悪なMAGしか吸えていない証だろう、翳った色目の翅が動きを鈍らせている。
『ケルピーに蹴られて死んじゃえっ』
「コレラで臥せているのでは? 彼等の住処は汚染源の真っただ中だろう?」
『意地悪っ』
宿の入口で空気と話し込んでは、井戸端会議より性質が悪い。視えぬ者には、狂気の沙汰だ。まだ云い足りぬ雰囲気のシルフ達の声を、扉で遮断した。冷たいアイアンの取っ手から手を放すと、管の胸ホルダーの内側を探る。
外から確認したが、借りている部屋の窓灯りが消えていた……人修羅が就寝の為に消したのだろうか。
いや、今宵は満月でも無い。悶々と唸りつつ睡眠で紛らわせる日でもなかろうに。
煙草を取り出そうと伸ばした指だったが、そのままするすると下して腰まで持って行くと、リボルバーを握りしめた。
数回扉をノックしてみる、すると少しの間の後に「ライドウ……?」と、小さく聴こえてきた。
声のみで判る事実は、部屋の中に何かしら存在が在るというそれだけだ。その声に聞き覚えがあるからといって、当人とは限らない。
いつでも構えて発砲が出来る様にしつつ、扉を少し開き、靴先を隙間に差し込んだ。
「ただいま、大人しく留守番していたかい?」
「……誰が暴れて待ってるかよ」
「臭い気持ち悪いと、いつ発狂するかと思ってね」
視線で室内を洗う、他の気配は無い。寝台の上、ぐったりとした人修羅が僕に眼を寄越す。窓から差し込む薄い月明かりの反射か、眼が光っている。
キルトに包まる事も避け、湿気たマットレスに横たえた四肢を軽く折り曲げている。その気怠げな仕草に失笑して、僕は向かいの椅子に腰掛け見下ろす。
「僕とて、不味いMAGで胎を満たす日々に満足出来る程の悪食では無いのでね」
「……ビールなら、水で汚染されてないんだろ……マシじゃないかよ、人間の食い物で気分が紛れるなら……あんたは……」
「しかし、悪魔使役や戦いにMAGは不可欠だ。見通しの立っていないこの場において、君を毎晩満腹にさせてやる程のMAGを与えるメリットは、僕には無いね」
組み直した脚の向こう側で、人修羅の眼がまた光った。今度は反射ではなく発光だろう、感情の昂ぶりだ。
「じゃあ、身動き取れるあんたが今日もしっかり調査してきてくれたってのか」
「雑魚の不味いMAGに文句して、狩りすらしない木偶の坊とは違うのさ」
「自分から喧嘩売って、殺傷するのって悪魔的だろ……」
「悪魔の命なぞ、露程も思っていない癖にね」
「で、何か分かったのかよ。妖精の粉、肩に付いてるぞ……油売ってたんじゃないだろうな」
嫌う割には目敏い……いや、嫌うからこそ視界に引っ掛かるのだろうか。ちらりと己の肩に目配せすれば、確かに月光に照らされて薄く光る翅の粉が有った。
ふ、と吐息で掃えば、きらきらと埃の様に舞い散った。
「この一帯に範囲が絞られているなら、却って話は早い。流行の初期段階でコレラを発症した人間を割り出した、さすれば真の発生源を突き止められるかと思ってねえ」
「……で、誰が第一人者だったんだよ」
「君ねえ……コレラは基本的に、人から人へ感染するモノでは無いのだよ? それにね、コレラの発生源とは誰も云っていない」
「じゃあ、何の発生源だよ」
「君が棄てたがっている《ミアズマ》に決まって――」
何処か、違和感を感じる。人修羅の気配というのか、態度というのか。先刻シルフ達に話した通り、物云わぬ眼が何かを語っていた。
少しつついてみるか、と思い胸元を探る。
「外で吸えよ」
煙草でも取り出すのだと勘違いしている人修羅を尻目に、ホルダーから管を抜き取った。
僕の指先に踊るシルエットが銀色をしている事に、ようやく気付いて上体を起こす彼。先端の環がMAGに輝き、脚組みする僕の膝上にしな垂れる悪魔が姿を現す。
『あら、ライドウったら、密室に二人きりかと思ったのに』
「すまないが、戯れの時間さえ惜しい。用件のみで頼むよ」
『前戯も無し? せっかちさんねぇ、ンフフ……』
突然の召喚に、怪訝そうに眉を顰める人修羅。寝台の上から、僕と、僕の首に蔦を絡ませて甘えるアルラウネを交互に睨んでいた。
薔薇の生臭い芳醇な薫りが、この町全土に広がる湿った臭いと混ざり合って、独特なものと化す。
「どうも人修羅のやる気が無くてねえ」
『まあっ、テンションが低いの? アタシが盛り上てあげるべきなのかしら?』
「逃がす先の無い熱を持て余して、草臥れている様子だ。いっそ冷やしてやっておくれ」
ニタリと哂う僕の貌、近くに鏡も無いのに自覚出来る。圧が消え、宙に踊るアルラウネが薔薇を散らしてはしゃぎだせば、ぎょっとした人修羅が咄嗟に炎を腕に纏わせて打ち消す吹雪。
遠回しに命じたブフ・ラティは、パキパキと花弁を床板に落すだけに終わった。
「突然何の真似だ、ライドウ」
寝台をギシつかせ体勢を立て直すと、少し焦がしたシャツの袖を軽く捲りつつ憤慨していた。擬態を解除した黒い指先を、確かめる様に順に握りこんでいる。
間に合わなかったのだろう、手の甲に凍傷で赤く裂けた箇所が見られる。その人修羅の姿に僕は確信し、椅子からようやく降りた。
少し剥がれてきている薄い床板を踏ん縛り、一歩で寝台に詰め寄る。
「何処に棄てた」
「いっ……」
先刻、炎を放ったばかりの指先を戒める。既に鎮火はしていたが、魔力の燻りが此方の指をちりりと刺す。
「棄てたって、何をだ」
「ミアズマ」
「どうしてあんたに判るんだよ」
「呼応させるべく、該当するマガタマを呑んで調査しているのが常だろう。しかし今の君には氷結の魔法が届いた」
黙り込む、つまり肯定か。唇を真一文字に結ぶ人修羅の眼は、獲物を殺す時の様な真っ直ぐさが見られない。普段と同じく彷徨っている、恐らく言い訳を思考しているのだろう。
「ミアズマを今、此処に備えていればブフ系なぞ恐るるに足らない筈だが?」
圧し掛かり、その腹部に膝でぐりりと示してやる。ミアズマのマガタマは、氷結無効の恩恵を齎す。人修羅の身体に染みついている、十八番である炎の術を鈍らせる類のマガタマ。
「さて、何を呑んでいるかまでは知らぬが……それよりも今は、君がミアズマを何処に放り投げたのかを訊きたいねえ?」
「何処も何も……この一帯の何処でだって、ミアズマは胎の中でわんわん煩かったし。瘴気なんて町全体を流れてるじゃないかよ、何処に棄てたって同じだ」
「わざわざベルゼブブが謎かけしてきたのだよ? それを君の適当で済ませて、解決すると思っているのかい」
間近で睨み合う、背後からじりじり視線を感じる。と、甘ったるい薫りが一気に強まった。アルラウネが、僕等の周りに薔薇を氾濫させたのだ。
『ね、アタシは背景だから、ライドウ。気にしないで頂戴』
「要らぬ演出だ」
『安物のベッドの方が、よく啼くから燃えるのよ? 知ってた?』
「ならばアルラウネ、安物の刀の方が、よく啼く事も知っているかい?」
『どういうコトかしら、何が啼くの?』
「切れ味が悪いから、酷く痛いのだよ」
鞘からするりと抜く刀身は、濁りが無い。当然だ、出先でだって手入れは怠らない。
「だから僕が上物を持つのは、相手に対する情けなのさ――」
人修羅に跨ったまま、振り翳し構える。人修羅の見開いた金眼を、刀身が反射して煌めいた。
「……この様に!」
刃の動きに、びくん、と大きく下で跳ねる。その振動に軸がぶれぬ様、一所に力を集中させた。
壁ごと穿つ感触、続いて飛散するMAG、それも臭い。
「っ、は……! げっ、げええぇっ!」
「ね? 断末魔も無かったろう?」
MAGの発光が、手元を薄く照らし出す。人修羅の背後の壁、僕の刀で縫いとめられたケルピーが、ヒクヒクと未だ痙攣を続けていた。
その馬の口から、ぶくぶくと泡の様に垂れ落ちているのは、血の様なヘドロだ。それがぼたぼたと、シーツの上に押し倒されたままの人修羅の顔を濡らしていた。
『んまァ、的殺お見事。アタシ全く気付かなかったわ』
「賑やかしだけなら要らぬと云った」
アルラウネがからからと笑って、数枚の花弁が舞った。
「おい! 降りろライ……っ……げえっ! はぁ、はぁ、畜生ッ!」
「僕の股座で騒がないでくれ給え。其処なるケルピーだって黙って死んだろう、少しは冷静さを身に着けるべきだね君は」
「ぅええっ……ん、だよこれぇっ……くっさ……」
「ケルピーは水の精だ、つまり此処のケルピーと云う事は……推して知るべし」
顔面蒼白の人修羅の頬の上、更に追い打つ様にして汚泥がぼとぼと降り注いだ。
壁に刺されたままのケルピーは、まるで壁から生えているかの様で、そういうオブジェにも見える。
壁を貫通して部屋に侵入したのだろう。悪魔なんてものは、其処ら中に存在しているので、珍しくも無いが……敵意を纏って接近してくる奴は、それこそ気配がすぐ分かる。
却って安穏と対応出来てしまう、悪魔召喚師の性か。
「どう、して此処にっ……こんな悪魔が、っ」
「君が間違えたからだろう、ほら……御覧」
泥塗れの唇を戦慄かせて憤る人修羅に、視線で指し示す。と同時に、握っていた柄を捻ってケルピーの喉を蠢かせた。
血泥の中から何かがビチビチと跳ね、水草混じりの体毛を滑り落ちて行く。
「どうせ川の適当な場所にでも棄てたのだろう? 君のミアズマは御立腹の様だよ功刀君」
唖然として、ケルピーの口から這いずり出てきたソレを見上げている人修羅。
「こ、こいつ……」
「違う場所に棄てれば、どの様な手段を使ってでも戻って来るのだし? 依り代にされたこのケルピーは、寧ろ憐れだねえ」
ぽかんとした唇目掛けて、腐臭を漂わせたままのマガタマが飛び降りた。
更に飛び跳ねる下の身体を、ギシギシ煩い寝台に押さえ付けながら耳を澄ませる。下階からの話声、人の気配……恐らく、余所者が部屋で怪しい行動をしていると騒ぎ始めたのだ。
「やはり安物は駄目だね、煩いから目をつけられてしまった」
既にミアズマを胎に入れ、それまで中に居た唾液塗れのマガタマを吐き出している人修羅。
「良いかい功刀君、よく聴き給え。僕は少し調査を続けたいから、一旦君を放置する」
ぐったりしたまま、髪の毛まで泥塗れの相貌。やがてぼんやりと斑紋が消えた。部屋に接近する気配を察して、擬態したのだろう。
それくらい判断出来なければ困る、人間のフリをして生きるのなら。
「君が悪魔憑き……あるいは悪魔という流れに運ぶ。つまり、被害者は僕」
アルラウネを管に戻しつつ、刀の先を見た。MAGと遮断され、暫しの間具現化しているケルピーは一般人にも視えるだろう。
「同行者が実は悪魔で、その使い魔のケルピーをこうしてなんとか退治した……と、こんな所で良いかな?」
「……それで、何が調査の役に立つんだよ」
「この町の中にね、人のフリした悪魔が要る筈なのさ」
「悪魔……」
「そう、恐らくベルゼブブが一匹混入させたであろう蠅がね。そもそもこの町は、歴史上ではこれ程コレラは蔓延していない土地なのだよ。確かに川の汚水を使う地区の者は罹り易いが、反対側の地区まで流行しているのはおかしい。本来あの地区は、丘の方から支給される清い水を使って難を逃れた筈なのだよ」
「操作してる、のか……」
「この土地の悪魔達は皆、我関せず。つまり、異邦人である僕等の様な“本来無い存在”が、瘴気そのものを齎している可能性が高い」
部屋をノックする激しい音に、説明を止めた。屈みこみ、顔を近付けひそひそ話に切り替える。
「だから僕は、怪しい人物を総当たりするよ。既に目星はついているのだけどね」
「どうして俺が悪魔として捕まる必要あるんだよ」
「人間のフリした悪魔を釣るのだから、同族を餌にするのが早いかと思って。ね? 人間モドキの人修羅君」
「いい加減退きやがれ人間の屑が!」
頬に汚泥雑じりの唾を吐き付けられたのと、部屋の扉が押し開かれるのは、同時の事だった。
-----------◇-----------
『ねえねえ、あの子死んじゃうんじゃなーい』
『トモダチなんでしょ、助けなくてイイの?』
またあのシルフ達が、僕を挟み撃ちする様にして追従してくる。
「そのまま両肩に腰掛けないでくれ給え、肩凝りは銃の照準がぶれ易くなる、好ましくない」
『悪魔は焼き殺されちゃうよお、テキトーな裁判にかけられて、生きたまま炙り焼きよお』
『でもでもぉ、人間の形した悪魔なんて珍しいでしょ? だから医者連中が欲しがってるんでしょー』
「右から左から喧しいね、彼の置かれている立場は承知しているさ」
乾いた野辺を歩きつつ、ひそりと返事した。進行方向を見据えながら、空気と会話する事には最早慣れている。
「それにね、友人では無いよ」
少し前には、魔女裁判にて処刑を頻繁に行っていた地域だ。そういう事柄に敏感な事も理解した上で、人修羅を人間達の中に放った。
魔術と科学、境目の世紀である。相反する者は確実に存在するのだ。瘴気、即ち悪い水と空気……
それ等を神罰と考える人間が居る一方で、何かを媒介に感染するモノだと判断した学者達も居る。ただし、医学はまだ育っていない時代なのだ。
『昨日はね、悪魔だろって拷問されてたよ、鞭でビシビシーって』
『今日はね、悪い血を出しましょうねーって、ざくざく斬られて血がどくどく出てたよ』
「フフ、悪魔と決めつけ処刑したがるは、コレラが蔓延するこの近年……ひとつ大きな名声が欲しい権力者だろうね。そして医師連中は、あの身体に知的好奇心という執刀をしたがる、と」
コレラに罹って病院へ行く者は、実は多く無い。貧困層、それも水で割った安酒を嗜む人種に多く見られた病気だった為だ。つまり、コレラというものは罹っているだけで不道徳なイメージを齎しているのだ。
そして、中途半端に魔術思想の融合した施術に切り刻まれる為、病院自体敬遠されていた。
『何で病気治す為って云って、血ぃ搾り取るの?』
「汚染された不浄な血を出せば、治るという理論の下行われる《瀉血》というものさ。静脈を切るのだよ」
『ダイタン!』
「英雄的治療法という奴さ、人間頑丈とは云い難いのに、よくやるねえ」
『ねえお兄さんって本当にサマナー? 随分と、魔法を否定してくれてるじゃん』
「そうかい? 両者在ってこそ、成り立っているし生まれているのだろう? 人間と悪魔にも云えるよ」
『だよネー! って事でMAGちょっと分けてよお』
「おや残念、目的地に到着してしまったね」
きぃきぃと喚くシルフ達を無視して、その建物に入る。廊下から、既に血腥い臭いが充満していた。
僕はこうして野放しにされているものの、重要参考人には違い無い。悪魔を単独で殺せる人間は、同じ程度畏怖され、狩られる存在……所謂《魔女》と成り得るのだ。
「お疲れ様です」
ロビーのベンチに座って、がっくりと項垂れる白衣の男性に挨拶をした。
顔を上げた彼は、黒髪で親しみのある顔立ち……日本人だ。この国で医学を学ぶ為、留学している最中だという。
しかし今回の役目は、悪魔と称される少年の通訳という……何とも云えぬ内容であった、と。
憔悴しきった様子から察するに、人修羅が拷問されている際もついでに通訳を任されているのだろう。
「オペなら血なんて平気なのですが、どうも無闇に痛めつけるのは……此方の心臓にも悪いです」
「貴方が鞭を振るう訳では無いでしょう?」
「君達は何者なんですか? 私の様に留学……にも見えないし。あの悪魔の少年とはいつからの付き合いだったんです?」
「僕を叩いても埃は出ませんよ」
「そう、そうなんです……いっそ埃が出てしまえば、あの時間は幕を閉じるのです。だから私はあの子に“悪魔だと云ってしまいなさい”と、口を酸っぱくして説得しているのですが……」
それを聞いて、心が弾んだ。それは貴方、無理というものですよ、と。自分だけがこの場で知る人修羅の性質に、少し浮足立った。
「処刑されて、楽になってしまえ、と?」
「……残酷な話ですが。しかし審問官側は“悪魔である”という事実が欲しいだけなので、その供述さえ有れば……一旦身柄を引き受けて、助けてあげられるかもしれない。私の先生は、そういう慈悲の心を以て、訴えかけているのです」
助ける? モルモットの間違いだろうが、と云いたかったが、止めた。この男性の口調に、違和感は無い。恐らく自責の念は有るのだ。
「つまりは、審問側も医師側も、彼が“悪魔である”と一言発して欲しいのですね?」
「はい、そうです。其処だけは一致しています……兎に角、私はあの場に居て通訳したくない……それが正直な心です。私の先生も、本来はあんなにメスを入れない……コレラ患者に等しく優しい、慕われる存在です」
「……僕は少し面会して参りますよ。悪魔とはいえ、過去の連れですからねえ」
「あっ、血で床が滑りますよ、出入口のマットで靴裏を拭いて。それと先生が器具の片付けで居られる筈なので、そろそろ帰ってきて下さいと伝えてくれませんか」
血も何も、糞が道端に放られている国だろう。失笑しつつ、人修羅が拘置されている部屋へと靴を鳴らした。
(そろそろ助言してやるべきかな)
実は、この数日で裏も取ってある。元凶者は、知った上で《瘴気》を与えていた。コレラが蔓延り続けた方が、その人物にとって利益と成り得る……だからこそ、密やかに害をまき散らしていたのだ。
(羽音も立てず、毒を運ぶ蠅ほど厄介なものは居ないね)
ざりざりと、云われた通りにマットで靴裏を削いだ。血やら泥やら、汚れきっていてマット本来の色目も判らなくなっていた。
さて、人修羅に軽く問題を出してみるべきだろうか?
地主として、水を配当する命を出す審問官か。
コレラに罹った民を看てきた、先刻の青年が仰ぐ医者か。
どちらが黒だと思う?
-----------◇-----------
扉の音に、反射的に身構えた。咄嗟に吐こうとした炎を、息と一緒に呑み込んだ。
「……また君は、せっかちだね」
俺の前に崩れている人影を見下ろし、うっそり哂うライドウ。平然と後ろ手に扉を閉めている姿に、何故か妙に安堵した。
カーテンも閉め切っているのに、血泥を吸い込んだ床がどんよりと鈍い艶を湛えている。
「間違いじゃ、ない筈だ……こいつが、俺をハメようとした犯人だ、人間じゃない」
呟いて、両手を繋ぐ縄をぶちりと引き千切った。既に殺傷してしまったのだ、逃亡なんて目じゃない。
繋がれたまま、虚を突いて思い切り頭突きしたのだ。身動きの確保より先に、動かせるパーツでの攻撃を選んだ点は、確かにせっかちだったかもしれない。
「何故この医者がそうだと、確信したんだい」
「俺にしつこく、言葉を吐かせようとしたから」
「それは審問官も同じだったろうに」
手首に残る縄を、互い違いに両の指で掴む。睨む様に其処に熱を運べば、MAGが発火させる。
「俺を始末したいならすれば良い、だから言葉だけは絶対云わない……俺はそう宣言したんだ。双方に」
「へえ、つまり君亡き後に“あの少年は悪魔だった”と、世間に伝えようが……君としてはそれは構わぬと訴えた?」
「そうだ……審問してる奴等は、これでもう用事が済んだろ? 大義名分が欲しいだけに見えたからな……張本人の俺が良しと云ったんだし、これで呪いとかも恐れず処刑出来る筈だった」
「君は他人の悪意には酷く敏感だね。利発というよりは卑屈として露呈しているが」
いちいち煩いライドウに、慣らしついでに軽く拳を叩き込む。外套からするりと抜かれた掌で、ぱしりと受け止められた。
「で? 結局そこで寝ている医者は、君の宣言に何と返したの」
「……体面として、言葉が必要なだけだろ、医者は」
「そうだね。切り刻む事とて、この医者は救う為と称して行っていた。そして君は宣言において、身を投げ出している。悪魔だと唱える必要は、今更無いね」
「執拗に、迫ってきた……俺の腕から、血を搾り取りながら」
耳元で、幾度も幾度も。通訳者は遠くなのに、囁いてくる異国の言葉は、吐息混じりに耳を掠めていた。
「俺に“あの言葉”を云わせるメリットが、もうこの医者には特に無かった筈なんだ、なのに強要してきた」
「だから、この医者がそうだと思った?」
掴まれていた拳が、さらりと放される。俺の手首に引っ掛かっていた灰が、床にはらはらと落ちていく。その灰は、脳天の割れた医者の白髪を少し染めた。
「君は流石に悪魔の頭蓋だね、鈍器の代わりになるよ。しかし、まるで柘榴の割れ目だ」
「……この能天気野郎」
「脳天は曇っている様子だよ、御覧」
ライドウが、革靴の先端で柘榴の割れ目を擽った。すると、途端にわあっと何かが湧き立つ。その黒い群れは、まるで毒霧の様だ。
「良かったねえ功刀君、大当たりだよ。これがベルゼブブに喰われた人間……いや、既に半妖かな? この医者は患者達に治療どころか、コレラの源となる水を与えていた。それでも表向きは、人体実験じみた治療もせず、コレラ患者を嗤う事も無かった……それが評判を上げたのだね」
「う…っ……最悪…ブンブン五月蠅い、気持ち悪い、汚い」
「欲望の凝り固まったヒトの脳味噌は、さぞかし美味だろうさ。いつからベルゼブブに蝕まれていたのかは、何とも判断し難い所だけど」
腐りかけの果実の甘ったるい匂いに、蠅が群がる様なものだろうか。医者の割れ目から生じたのは、無数の蠅だった。
死蠅の葬列を思い出し、咄嗟に口からミアズマを吐き出す。
「えっと、何だっけか……おい……あんたなら憶えてるだろ」
「アナテマ」
「ああ、そう、それ……」
「そもそも、この瘴気からは呪殺めいた気配を感じない訳だが」
「どうせ呑むなら、だ」
呪殺無効のそれを掌に導き出し、咽そうになりつつ呑み込んだ。
「マガタマの所有者は君だろう? その程度も暗記出来ない? これは君の脳天も割って確認すべきだね」
「悪魔もマガタマも、興味が無い」
「君の生命維持の結晶なのに?」
「……さっさと全部棄てて、人間になる」
吐き出したミアズマは、黒くうねる瘴気に包まれる様にして、俺の指先から旅立って行った。その羽音の中で、薄らと輝く冷たい光が……やがて消える。
ミアズマに消えた
禍魂を見届けると、いつの間にか真っ赤な空間に居た。第四カルパだ、ベルゼブブが喚び戻してくれたのだろう。
ただ、今はこの場を早く出たかった。先刻割った果実の色に、そっくりだったから。
『いや、愉快愉快! 酒も美味いぞ人修羅殿!』
ティフェレトの酒場で、人の形に擬態したベルゼブブが大笑いしていた。普段の蠅の姿では、追い返されてしまうからだ。
いくら魔界とはいえ、気分の衛生を気にする悪魔も存在するという事だろう。
それに、位の違いが畏怖させるのかもしれない …とも考えたが、そういえば此処は例の堕天使もちょくちょく来ているではないか、と思い出して一瞬で却下した。
『よく云わなかったな? さっさと吐けば楽になれたものを、なあ! 潔癖がよく我慢しおったわ! なあ!』
「………はあ」
『ただ一言“自分は悪魔です”と、唱えれば済んだものを』
「……ミアズマ棄てるまで、帰る気は無かったからです」
人修羅の背中を、太い腕でばしばしと叩くご機嫌な蠅の王。それとは対照的な人修羅が、目許を引き攣らせている。
唇だけでも穏やかにしようと努めているのかもしれないが、妙な歪曲が却って無理を感じさせる。
媚びへつらうなど、彼は絶対しないのだが……それでもまだ、身動きを取るにはベルゼブブの力が必要だと感じているのだろう。
ベルゼブブは、人修羅が頑張っている姿がお気に入りなのだ。それは勿論、明るい意味合いを含んでいるとは云い難いが。
そう「頑張る」もとい「足掻く」だ。
『其処のデビルサマナーも、今回は奢ってやるからもっと飲め!』
「既に頂いておりますよ、蠅の王」
『いつ許可した?』
「無礼講と思っていたのですが」
『人間ふぜいが! しかし実に気分が良い! はは、もっと高いのを飲め!』
「既に一番高いものを頂いております」
グラスを片手に返事すると、僕の座る椅子の下から声がした。
『ボルテクスの酒場でもそうだったが……お主は少しくらい虞を知ったらどうだ? 酒が悪魔を友好にさせるだけとは云わせぬぞ、十四代目』
アマラ深界のターミナルに置き去りにした所為か、この黒猫もご機嫌斜めの様子だ。
そのやわこい尾を、靴先で軽く蹴って黙らせる。あれからすぐに手入れしたので、旅行の臭いは引き摺っていない筈である。
蝋燭の光が、黒革の甲を舐める。そうそう、このくらい酒場はゆったりしているが吉。あの町の酒場は、良く云えば牧歌的で、悪く云えば猥雑だった。
『それにしても人修羅殿、意地ばかり張らず、偶にはこのサマナーの云う事も聞いてみたらどうか?』
「え、っ……どうして俺が」
『確かに、強き信念は悪くないが……人の世で平穏に過ごす事は無理に等しい。面白そうだから今回は乗ってやったがな、いつまでも遊んで居られると思うなよ、人修羅殿』
僕とベルゼブブの間の席で、それを黙して聞く人修羅。口を付けてもいないグラスを、静かに強く握り締めた。
そう、人修羅が僕の使役下に居る事は、本来異常なのだ。この事態が許されているのは、僕が申し出たから。
人修羅を、真の悪魔に相応しい様に、強かにしてみせよう……と、堕天使に交渉したからだ。
「云われなくても、早くケリをつけますよ」
彼の手元のグラスの中、琥珀色の水面に金色が反射している。続いて僕の足下のゴウト童子も、フーッと息を荒げた。
人修羅の脚、露出部分の斑紋が明滅でもしたのだろうか。昂ぶっているのか、飲んでもいない素面の癖に。
『何に対しての決着だ?』
「……悪魔すら視えていない平凡な人間に、いちいち手を出しませんよね」
『そうだな、それこそ……人に《悪魔》と称されるべき境地に達してもおらぬ様子なら、憑け入る隙も意味も無いわ』
「だから俺は、貴方達と無縁になる為の……下準備の時間を頂いているんです」
『はは! 実に良い余興よ』
暗に「人間に戻りたい」と云っている人修羅。それを笑い飛ばし、ずんぐりとした青い掌をカウンターに叩きつけるベルゼブブ。
相手が悪魔で、君は救われているのではないか? 人修羅よ。興味に負ける悪魔だからこそ、この様な行動が許されているのだ。
『しかしな、ミアズマを棄てる為に瘴気を起こせと云われた時は驚かされた』
「身近な瘴気なんて、第四カルパのあそこしか記憶に無かったからです」
『それこそ正気か!? と思ったぞ! ははは!』
しっとりとした酒場の空気が、更に冷え込んだ。一瞬の静寂、しかしすぐに元通りになる、翳った話し声……グラスの音。
隣の人修羅の反応が気になって、僕は突っ込みたい心を抑えて様子を窺ってみた。
『どうした、指が震えているぞ人修羅殿、空気で酔われたか』
「……それ、云いたかっただけですか」
『意外とカンが良いではないか!』
「だからあんな、回りくどい事させて、俺の力を誘発させたんですか」
『お前さんは人間界に居れば居る程、とんでもない事をしでかすからな! 云ってしまえば、最初からマガタマが気に入りそうな瘴気くらい、その場で出せぷごっ』
酒の入っていた瓶を床に放り、微かに肩を上下させる人修羅。この店で一番の高級酒が、一帯を濡らしていた。
脳天を殴られたベルゼブブは怒る事もなく、ずれた額の巻物を直し、また豪快に笑っていた。
その笑いが更に人修羅の怒りを煽っている事を、恐らく理解して嗤っているのだ。
『……似た者同士』
鞴の様な笑い声の中、亀裂の奔った転がる酒瓶を見つめながら黒猫が呟いた。
-了-