赤の虚飾
白い空にそびえる鉄骨のランドマークは、麓から見上げれば思ったよりも彩度が低くて。
『あまり赤くないのですね』
そのモノクロの景観に、率直な言葉が出てきた。
「世界がこんな状態になったせいで……」
『こんな状態?』
「ボルテクスだ……! あんた等にとっては、これが普通なのかもしれないけど」
『ああ……そうですね、すいません』
不機嫌を隠しもしない主人に、とりあえずは謝罪する。何が悪かったのか、実はいまいち理解出来ていないのだけれど。云われてみれば、この世界は全体的に薄ぼんやりとした色彩で。屋内の展示パネルや書物から、人間達にとっての本来のトウキョウが垣間見える……そのような具合。
この世界は《死んだトウキョウ》らしいが、生きている頃を私は見ていない。
「本当は、もう少し赤色だった」
『よく御覧になっていたのですか?』
「別に、俺はこういう場所には興味無い」
『高い所は、楽しくないですか?』
「……そんなに幼稚に見えるのか? つまらない事ばかり云ってるなら、もう帰る」
『すいません』
槍を背負い直して、マフラーで口元を更に覆う。自身の口が余計な事をこれ以上発して、引き返されては悲しい。
折角、アマラの路を使って引き返してくれたのだ。使役悪魔でしかない、私などの為に。
「何が楽しいんだ……こんな処」
ぼそりと呟きながら、先刻の戦闘で乱れたこめかみの御髪を直している主人。本当なら私が直してあげたい所だが、悪魔に触れられる事を真に嫌う貴方にとっては、恐らく失礼に値する行為。
付き合いの私より長いあのピクシーにさえ、文句するのだから。いつも機嫌を損ねさせてしまう私がすれば、それはもう致命的だと思う。
「しかも、何だ……あの箱。どうやって中に入ってたんだ、あの女悪魔」
続けて述べる侮蔑は、先刻のトラップに関してだろうか。トウキョウタワー鉄骨脚の近く、白い砂塵に塗れて例の箱が有ったのだが……残念な事に中にはサキュバスが潜んでおり、解放された瞬間に高笑いして彼女はドルミナーを唱えた。
しかし主人は精神無効化のマガタマを呑んでいた事で、その術を無意味に変えた。他の仲魔もけろりとしていたが、私はあの時ぐっすりと睡りに入ってしまい……随分と迷惑を掛けた事だろう。
頬に熱が生じて、覚醒したのは……主人が、そんな私を殴り起こしてくれたからだ。
『御怪我が無くて、本当に良かった』
精神的な干渉を嫌うからこその選出か。いつも同じイヨマンテというソレを呑んでいて……それなので、特定の敵に対した際、不都合が生じるのを幾度か見てきた。
忌々しげにマガタマを呑む瞬間、じっと見つめている私を睨み返して静かに威圧する姿。貴方はあの硬質な蟲が、悪魔以上に嫌いなのではないだろうか。
詳細は知らない、それでも何となく判る。あれが貴方の生命維持を司っていて同時に、嫌悪する力を与える源なのだろうと。
「あんたがそれを云えるのか? 足を引っ張られた……呑気に寝てたしな」
『ならば“目覚めずにいたので召喚から外した”と云えば、今回の私の願いも取り下げ出来たのでは』
「……わざわざ此処まで足運んだのに、肝心のあんたが寝てるとか、そんなふざけた話は無いだろ」
『いつもすいません、お気遣いに感謝します』
「誰が悪魔に……単に契約してるだけだろ。これは、もう少しあんたが使える奴になりそうだから、してやってるだけだ」
ふい、と横を向いて私の眼を見ない主人。まともに見てくれるのは、鋭く睨まれる瞬間が殆どだ。
先刻、サキュバスの豊満な肉体を殴る事に虫唾を感じた貴方は、私に彼女を殺させた。毎度その程度しか役に立てず、申し訳無く思う。
いつもいつも、どうしたら貴方を歓ばせる事が出来るのか。仲魔にさせて頂いてからずうっと私の課題だった……
シブヤで不思議な姿の貴方を初めて目にし、次にまみえた時は妖精だらけの鉄骨の森で。私が同一の悪魔だと気付いていないどころか、きっと憶えてもいなかったろう。
二度目に見た貴方は更に悪魔らしくなり、同族嫌悪を成長させていた。人間に戻りたいと切望するが故の孤独……葛藤……
この世界で、悪魔で居られぬ訳が無い。生き抜こうとすればする程、人修羅である主人は人間としての声を失う。進めば進む程、貴方の心が泣いているのを感じる。他には鈍感な私でも、それだけは魂に響く。
『貴方と巡ってきた場所を、一望したいのです』
が、それも……もうじき解決するかもしれない。
「展望台で召喚すれば良いだろ、ボルテクスが見渡したいなら」
『いえ、其処までの経路も一緒に歩いて、観て回りたいのです。どうかお願い致します』
「正直面倒だ、終えたらさっさと変身しろ」
『はい、心残りも御座いません』
タワーの正面扉は中途半端に開いており、空間に足を踏み入れたならブーツの底でざりりと砂が鳴く。
主人はつかつかと、愉しむ様子も無く真っ直ぐに向かって行く。その先は別の扉で、壁に操作パネルが有る様子から階移動の装置と判断出来た。所謂、エレベータというもの。
「くそっ、此処は電気通ってないのか」
パネルに指先を押し付け、吐き捨てる様に云う主人。押し当てた際に汚れたのか、ボトムの裾でその指を拭って振り返ってくる。
私はといえば、狭苦しい入口に掲げられた《東京タワー水族館》という展示施設が気になって仕方なく、その手前をうろうろしていた。
「……おい、何してるんだ。勝手に何処か行ったら置いてくぞ」
『水族館というのは、こんなに狭くても設けられるのですか?』
「……どうせ小さい魚ばっかだろ、ついでみたいな展示だし」
は、と溜息を吐きながらも此方へと来てくれる事に少し嬉しくなり、私は入口の脇に立った。薄暗い中、貴方の眼が金色に浮かび上がり、その肢体の斑紋縁が蛍光に輝きを増す。
人修羅の造形美は、美しいという利点反面、暗闇に乗じて行動が出来ない欠点でもある。
「ほら、水槽のひとつひとつが凄く小さ……」
周囲に視線を配していたその声が、ゆるゆる終息した。その様子に、私も思わず警戒して視線を辿る。金色の見つめる先を確認すれば、真っ暗闇にゆらゆらと泳ぐ光が。
発光する生き物が存在する事は、それとなく想像出来た。悪魔にもきらきら光る種類は多い。だから今見えている光も、魚とは限らないのだけれど。
『まだ生き残っている魚でしょうか?』
問い掛ければ、私の言葉など無視してあっという間に其処に駆け寄る貴方。それもその筈、この世界には人間・マネカタ・悪魔、このいずれかしか存在し得ないからだ。
発光する背に追従し、私も奥に有る水槽を覗き込もうとした……が。不思議な事に接近すれば、泳いでいた光はぬるりと隠れてしまうではないか。私はマフラーを少し下げ、口元を露わにしつつ水槽を確認した。奥の方に有ったせいか砂埃からも遠ざけられ、綺麗なままの硝子水槽。
『さっき光っていた魚は、何処に行ってしまったのでしょう?』
と……隣の人修羅に顔を向けようと首を捻る途中、私は静止した。
水槽の硝子面に映り込む光は、明らかに私の主人のものだった。こうして間近に見ればすぐ判る事だが、先刻の位置からでは……これは誤解しても仕方無い。この水槽に映り込んだ自身の光を、発光魚と思っても。
「……何だ、何ジロジロ見てやがる」
『いえ』
「馬鹿にしてるだろ、カン違いした……って」
高揚する金眼が私を上目遣いに睨むが、畏怖や怒りは発生しない。いつも、怒りのまま殴り殺されても構わないとすら感じている。
硝子水槽に、怒る貴方の光が輝きを増して反射し、二人で展示を観ている心地になる。
『魚の光よりも綺麗です』
世辞でも何でもなく答えれば、金色の眼は数回まばたいた。
続いて、みるみる頬の光を流動させる主人。マガツヒが昇ったのだろうか、薄らと頬が赤い様に見えるのは私の錯覚?
「本物見た事も無い癖に!」
マフラーを強く引かれて、強制的にその場から引き離される。こうして直接先導されるのは、使役される身としてとても嬉しい。
薄暗い空間を抜けて入口付近に戻ると、改めて周囲を見渡す主人。私も任せてばかりでは悪いので、貴方よりもう少し高い目線から路を探す。すると、外側に昇降用の足場らしきものが確認出来た。
鎖が横に渡されているが、跨げば容易く通行出来るだろう。
『ヤシロ様、あそこに階段が有ります』
「……階段? 足で昇れっていうのか?」
『鉄骨をよじ登るよりは、安全性が高いです。それに見た所、酷い迂回は無い様子』
「オベリスクよりはマシってか……ふん」
吐き捨てる様に云って、歩き出す主人。その手がマフラーを掴んだままで。私の首がきゅう、と絞められる。手元の抵抗に気付いた貴方が咄嗟に振り向き、一瞬慌てた表情で手を開く。
「いつも目の前にチラついて……っ、邪魔なんだよそれ!」
『大丈夫です、行きましょう』
「おい、俺は文句を云っただけだ。別にあんたが今窒息しても……内に戻して、屋上で再召喚すれば良いだけだから……」
そしてまた私を見なくなる。あのままずっと、掴んでいてくれても良かったのに。手綱の様に使われるのなら、マフラーの先を貴方の前に揺らしていたい、いつまでも。
無風の筈なのに、外の階段は薄く砂を被っている。見上げれば天に陸地が有るので、もしかすると上から僅か降ってきている可能性を感じた。
「眩しい」
ぼそりと零す主人が、私の前で立ち止まる。数段上から見える貴方の逆光は、カグツチの光のせいだろう。どうりで魂がざわついている筈。高い位置から目にするカグツチは、とてもキラキラしていた。
『私が前に立ちましょうか』
「影に入ろうたって無駄だ、ほぼ真上から照らしてる」
『御加減が優れませんか』
「苛々するんだよ」
『そうですか、いつもとお変わり無く見えたもので……』
私がそこまで云うと、昇り始めてから初めて振り返った主人。
「悪かったな、いつも苛々してて!」
その声音と表情から察するに、私はどうやらまた憤慨させてしまったらしい。
『すいません、でも私は貴方様に苛々した事は無いです』
「……何だよそれ、フォローか何かのつもりか」
『いえ……その』
また素っ頓狂な返答をしてしまったのだろうか、主人は無言のまま私を睨む。その眼に吸い込まれる様に、ただただ私も見つめ返した。
不思議な眼。灰の様な、それでいて琥珀の様な色彩。半分人間だから、その様な絶妙な色になるのだろうか……と、惚けて見ていた私の首がまた絞まる。
「背中の槍、寄越せ」
『はい、敵の気配でしょうか?』
「違う」
云われるままに背に携えていた槍を手渡すと、私のマフラーを片手に掴んだままの主人がカツカツと段を鳴らして下りてくる。
「疲れた」
そう発すると、私の背を手の甲で叩く。そして流れる様にマントを引き、脚を脇にすり寄せた。
「おぶえ」
甘えるでも無い淡々とした口調だが、私にはまるで飴の様だった。
甲冑とマントを挟んでいるからこそだろうが、それでもこれは許された接触。直々の命令であって、しかも主人からの希望。
『はい、踏み外さない様に気を付けて下さい』
少し屈んで待てば、想像以上に軽い圧が自身に掛かる。視界の端に銀色が時折ちらつくのは、私の槍を主人が代わりに手にしているからであり、それも歓びに一役買っていた。
「あまり揺らすなよ」
『はい』
下ろす一歩が先刻より重く、金属の段は二人分の圧に鳴く。カツカツ上がって往くと、それまでの白かった視界に、今まで探索してきた建造物や集落の色が見え始めた。
いつから自身が居たのか、何処で生まれたのか、それも認識していないのに……
『懐かしいですね』
そんな言葉を吐いた。きっとまた、主人の機嫌を損ねる類の発言だと知りながら。案の定、私の背で微かに呻く貴方。
「何がだ……悪魔の分際で」
『中央に近くなると、本当に一望出来ますね』
「面白くも何ともない」
『流石にオベリスクには負けますが』
「あそこであんたを召喚した憶えは無い」
『見るからに、判ります』
「何笑ってる」
何故、笑っているのが分かったのか、別に肩を揺らした憶えは無いのに。
ただ、私を召喚した場所をそれとなく記憶しているらしい貴方に、嬉しいやら可笑しいやらで笑みが零れてしまった。口元を隠しているのに、判ってくれた。例え今のが八つ当たりでも、構わなかった。
『あの病院が見えますよ、ほら』
私が目配せで示す先は、主人が生まれたというシンジュク衛生病院だった。
生まれた、というのは人間として世に出でた時では無く、このボルテクス界においての事だ。周辺の悪魔達が口にし始めた『人修羅』という単語を、私はシブヤで見た時にはまだ知らずに居て。悪魔にしては雰囲気が妙で、噂に聞く人間ほどには軟弱でも無さそうで。病院からフォルネウスの監視を掻い潜って脱出したのだと、後々耳にした……
勿論、主人の口からでは無い。主人が語る筈も無い、悪魔となってからの生など。
『しっかりと、人間の時の記憶は有るのですか?』
「何だ突然」
『このボルテクスで目覚めた時、自分が何者か分かっていたのか気になって』
てっきり無視か、はたまた背から飛び降りるかと思っていたが。背の主人は少しの沈黙を置いてから、返答してきた。
「……夢から醒めたと、最初思った」
『では、自身は何も変わらないと?』
「そうだ、俺は今だって……」
マフラーから少し逸れて、微かな吐息が私の髪を撫でた……気がする。
「人間のままのつもりだ」
肩から回された腕が、震えている。寒いのだろうか、それとも感情からの震えだろうか。
私にそれが癒せるのか、救えるのか。仲魔として役立つ事が今後可能なのか。
「だから、悪魔は嫌いだ……っ!」
私に掛かる震えは確かな力みに変わり、黒い斑紋が目の前を薙いでいった。その切っ先を見れば、私の槍でバイブ・カハを一突きしている。
「エストマしてなかったのか、気が利かない奴」
『す、すいません』
「敵がすぐ近くまで来ていたのに……いつまで呑気に会話を続けるのかと思った」
貴方との会話に横槍を入れられようが、途絶えさせる事など出来るだろうか。いや、槍を入れたのは主人当人だったか、いやいや、どうでも良いそんな事は。
「こんな高さにまで……そういえばマントラ本営の上の方にも居たなコイツ。高い所が好きなのか」
ヒクヒクとまだ痙攣を続ける魔鳥を、冷たい眼で更に突き刺す主人を感じた。背中に居るのに、まるで手に取る様に判る。今まで私が一方的に見つめてきた、主人の動向。
『マントラ本営と云えば、あそこも高いですね』
「あそこでも、あんたを召喚した憶えは無い」
『マガツヒが吸われ、あそこも閑散としたでしょう。流れ者のオニと、この間少し会話したのです』
「いつの間にだよ、俺はそんな自由行動させた憶えも無いぞ」
『回復の泉の付近で、いつも仲魔を解放されるでしょう。あの際に散歩をさせて頂きました』
貴方はいつも遠くで泉を浴びる、仲魔に一目だってその姿を見せようとしない。我々も浴びる際、ひそりと囁き合うのだ。衣の下の斑紋は、一体どうなっているのだろう、と。
『意外と数字に強いオニで、私は以前から気になっていた本営ビルの高さを訊きました』
「そんな事訊いて……何の意味が有る」
ぶん、と槍を振り下ろし、いよいよ動かなくなったバイブ・カハを振り落とした主人。一匹分の重みは消え、下方の砂塵に見えなくなって往く。置き土産の黒い羽根が数枚ふわふわと宙に舞い、それを卑しんだ主人が首をふるふると振る気配。
『マントラ本営ビルの屋上展望台は256.3mだそうです』
「……東京タワーは333mだろ、こっちの方が高い」
『いえ、それが此処の展望台は250mなのです』
「は? それならサンシャインの方に登れば良かったじゃないかよ、エレベータも起動してるし」
思わず建造物の過去名称を口にする主人は、項垂れたのかマフラーの項にもぞりと蠢きを感じた。
『それでも私は此方の……タワーの方に来たかったのです』
「知るか」
『マントラの方は、閑散としたとはいえ外野が多いでしょう。静かに観光したくて』
「悪魔が少ない方が良いのは、賛同してやらないでもない」
こんなに色々会話したのは、本当に久しぶりではないだろうか。仲魔にして貰った時以来だと思う。
連れ添う味方達が命乞いする中、私だけがそれをしなかった。命乞いの隙を見て喰いかかる者を、得意とする焔で焼き殺すその姿に……絶望すらも感じなかった。
絶える事……《死》という概念が私はよく理解出来ていなかった。乞うほどの執着も感じていなかったのだ。逃げるでも刃向かうでも無く、ただその焔に焼かれて灰になり、ボルテクスの砂になるのを待っていた。
すると貴方は……構えを解いたのだ、仲魔のピクシーの反論も聴かずに。
そのまま待たれても邪魔なだけだ、どうせ死ぬなら 俺の盾にでもなれ
仲魔になるか? だとか、そういう好誼の示しでも無かったが、私の琴線に確かに触れた。
初めて与えられた理由に、息を吹き込まれた心地だった。それだから、私は主人の哀しむ事を、嫌悪するものを、全て消してあげたい。
「案外早かったな」
展望台に到着すると、背中から降りようとする主人。人修羅である主人が本当に疲労を感じたのかは、定かでは無い。私にかけた情けなのだとしたら、それはまた悦ばしい。
『お待ち下さい、此処は150mの展望台です。屋上まで運ばせてくれませんか』
主人を制して提案すれば、外されようとしていた腕が止まった。
「屋上って、エレベーター無いと更に上は無理だろ、もう階段は無いぞ」
『組まれている骨を登ります、ですからヤシロ様は私の背に居て下さい』
「……落としたら承知しないからな」
『その時は私を足場にして下されば』
「云われなくてもそうする。それか飛行出来る奴を召喚して俺だけでも助かるから、あんたは安心して砕けてろ」
『ふふっ』
今度は思わず声に出てしまう。その私の笑いが癪だったのか、やはり軽く腰を蹴ってきた。
仲魔のピクシーが見ていたら、きっと割り込まれていた。主人と私だけで、と念を押しておいて良かった。あの妖精は妙に勘が鋭く、そして過保護だ。最初に主人の仲魔になったという自負がさせるのか、なかなかに口煩い。
主人もそれを煙たがってはいるものの、本当に嫌なら当に別れているだろう。彼女には弱いのだ、それが私には正直なところ疎ましい。
「その装備で、登り辛くないのか」
『心配無用です』
「だからな……あんたの心配じゃない、俺が落されないかと思って……」
骨から骨に跳び移ると、背の貴方が衝撃の度に固く私の肩を掴む。
白い空の中に、鉄骨のシルエットは綺麗に冴え渡っている。白い中に組まれる昏い紋様の美しさを、此処にも感じた。眩いカグツチが促す……早く天まで上り詰めよ、と。
「普段も、そのくらい、俊敏に、動け」
私の動きに揺さぶられる主人が、途切れ途切れに叱咤してくる。その言葉に内心納得しながら、私はひたすら鉄を舐める。更に上の展望台を越えて、タワーの切っ先……まるで槍の先端の様な鋭利な箇所まで。
『お待たせしました、此処までで大丈夫です』
「……本当に天辺だな、暇な奴」
四本に分かたれた避雷針の一本を掴んで、私は少し背を丸める。それを合図と受け取った主人は、ゆっくりと脚を下ろしていく。黒と青の貴方の履物が、キュ、と音を鳴らして僅かな骨に接地した。それを見届けてから、槍を受け取る。
「くそ、本当に眩しいな……この位置」
『今回は、有難う御座いました』
「気が済んだか? 済んだならさっさと下りるぞ……そうしたら……次は受け入れろよ」
ほんの少しだけ、貴方の声が静かに響いた。声音から棘が抜けていた。
やはりこの戯れは、情けだったのかもしれない。変化が恐ろしいという事を、その身を以て認知しているのではないか……この、人修羅という存在は。
『ヤシロ様』
「……いちいち名前で呼ぶな」
『貴方は変化した私を、これまでと同じ様に扱うのでしょうか』
「そんなの知るか、第一……変化後のあんたが、今の記憶を持ってるのか分からないだろ」
『そうです、その恐怖が、私の成長を止めているのです』
「これで未練も無くなったか? 無くなったならさっさと変化して、俺の役に立て」
『私は、私のままで貴方にお仕えしたい』
「話が違う、無駄足にさせるなよ……分かってるなセタンタ」
悪魔に対する貴方は、一貫して冷徹で……容赦が無くて……そう、だからこの返答だって予測していた事。
寧ろ、貴方らしくて私の心を安堵させる。
「俺は、あんたが此処の上から一望したら、それで未練も無くなって変身を受け入れるって云うから……」
『ヤシロ様は人間に戻る望みを成就すべく、この先も進むのでしょう』
「あんたにそれが知れてどうする、あんたが叶えてくれるなら話は別だけどな」
失笑……の中に、滲む愁い。
『手を汚す度、人間と敵対する度、貴方のマガツヒが溢れそうになって滲んでいる』
「黙れ」
『カグツチ塔を登って、その先に何が待って居るのですか? かつての知人は貴方を排除するつもりですよ』
「それでもあいつ等には共鳴出来ない、人間を棄ててまでコトワリ掲げるなんて……あんなふざけた奴等」
『でも貴方は泣きそうだ』
「さっきから何が云いたい」
『私が、今の私のまま貴方をお救い出来る手段を、最近ずっと模索していました』
本来、高い位置は寒いらしい。この世界では中心のカグツチに近いほど、じりじりと灼けつく様な熱さを感じる。その光に急きたてられるかの様にして、とめどなく溢れてくる。普段は外に出さなかった想いを、目の前の貴方に有無をいわさず突き立て続ける。
『私は変化したくない、貴方の哀しみで滲むマガツヒを感じたくない、それでも貴方は人修羅の己を激しく嫌悪している』
「誰が哀しいだと? 勝手に判断するな、悪魔になんか理解されてたまるか!」
『私も私に戸惑っているんです。何故こんなにも望みが多く、しかも方向が違えているのか。全てを同時に叶える事は難しいと感じました』
睨んでくるその眼を見つめ返すと、自然と睨み合う形になる。今の私には好都合で、此処まで綺麗に流れてくれるとは思ってもみなかった。
避雷針を私と同じ様に掴み、足場を確保している主人。掴む針の長さは、ほぼ貴方の背丈と同じ。幾度も落雷に耐え抜いてきた強固な金属は、私の槍にも等しい頑丈さだろう。
『私は、貴方がこれ以上進み、傷付く所を見るのが怖いのです』
じっと見据える私の眼に異質な気が雑じるのを感じ取ったのか、咄嗟に構える主人。しかし時既に遅く、私の眼光は獣のそれとなって貴方の動きを妨げた。
先手を打った私は槍を閃かせ、その細い胎に激しく刃を通す。
『お許しを!』
ぐらりとバランスを崩す貴方に痺れが奔るのが見え、私はそれを利用して御身を突き刺したまま振り被る。
「っがぁあぁッ、こ、のおッ」
位置を見定め、先刻まで貴方の掴んでいた避雷針にその身を通した。
「っひああぁあっ、ぁ」
甲高い咆哮を上げた貴方の体液が、私の頬を濡らす。槍を通した穴に挿したので、多くの流出は見られない。こんなにも、想像通りに綺麗にいくとは思わず、モズの早贄の様になった主人を改めて眺めた。
まだ痺れているのか、私の槍がもたらした効果に時折ビクビクと肢体をしならせるその姿。酷く痛々しくて、助けてあげたくなる。たった今、私が貴方をそうしたのだけれど。
『すいません、でも痛いのはこれきりです。貴方が神経攻撃を防げない事を一応考慮して、こうさせて頂きました』
「は、ぁっ……ぁ、セタン、タ」
『進むと、もっと痛い事ばかりでしょう? 肉体は治癒します、けれど貴方の精神は削れるばかりで……治らない。だから、もう眼を閉じて下さい』
「……は、ぁっ……はぁ」
『貴方の肉体が雑魚に食い荒されない様、私が責任をもってゾウシガヤ霊園に埋葬します。あそこは人間の墓場だったのでしょう? 尊厳は御守り致します。私は其処が暴かれない様に、墓守にでもなりましょう』
苦しげな呼吸の最中に恨み言でも吐き付けると思ったが、私の想像に反して、主人は云われるままに瞼を下ろす。
煌々とした空気なのに、酷く静かで。私は、主人の綺麗な頭が転がり落ちない様にマントを脱ぎ、避雷針と避雷針の間に張る。
『敬愛しております、人間の貴方も含めて』
足場を確認して構えを取ると、再びギロチンカットの為に息を吸った。
ああ、これで主人の声も聴けなくなる。寂しい気もするが、あの冷えるマガツヒよりは断然マシだ。
マシだと己に云い聞かせるのに、今更腕が震えた。呼吸が乱れる、首が絞めつけられる。私の勝手という名の覚悟を引き止めるかの如く、マフラーを掴まれてもいないのに引かれた気がしたのだ。いけない、中途半端な力では首が落せない。そのくらいしなくては、あのマガタマという蟲がその肉体を再生させてしまうのに。
柄を握り直し、再び天に振り被る。カグツチの光が切っ先を強く照らして、反射した光が貴方の頬を照らす。その瞼が瞬間見開き、下ろした私の攻撃を素手が受け止めた。
「麻痺程度で殺れると思ったのか」
呻る様に絞り出されたその声音は、続いて力を発する為の雄叫びに変わる。
私の槍を、掌が裂傷する事も厭わずに握り締め、突き上げる様にして天に振り翳す主人。
自身の身体が宙にぽおんと放られ、皮肉にも同じ様な形で避雷針に貫かれた事が判った。まるで他人事の様だが、私の身への痛みはその様なものでしかない。
「はぁ……っ……落とすより、最悪な事、してくれたな」
血だらけの掌に、あの蟲を吐き出す主人。私の視界にそれが入っているのを認識している筈だが、それどころでは無いのかもしれない。
マガタマを入れ替えた次の瞬間、その胎に突き刺さる避雷針をアイアンクロウで細かに分断していた。
「あんたが腰抜けで命拾いした」
足場にくたりと崩れた状態から体勢を立て直し、呟く主人。肉に残った断片をずるりと引き抜き、眉を顰める姿。その苦痛の表情から思わず私も眼を逸らした、あんな事をしておきながら。
「……で、何だ……あんたは俺を殺す為に、此処に連れ出したのか」
魔石を傷口にあてがい、仄かな光で癒しつつ私に問う貴方。問い質しながらも、しっかりと槍を奪う事を忘れない。 その動きが計算されたものというよりは、本能的なものだと私は感じている。貴方は人修羅であり、やはり人間からは少し遠い……
『貴方を……固定して、首を斬れる処を、探していて』
「それで此処の避雷針か? 随分な理由だな」
『話を……ヤシロ様と、お話する時間が、稼げるかと思って。だから……登る手間も、好都合でした』
あの、ヨヨギ公園の時と同じだ。命乞いをしない私、トドメを刺さない貴方。
私は変化を怖れはするが、命に未練は無く。貴方は悪魔を嫌うが、手を汚す事も同時に嫌う。
互いに何も云えず、動けず、察した空気が流れた。酷く懐かしかった。
「東京タワーに野外学習の日……風邪で寝込んで俺だけ欠席した。階段を皆で登ったんだと……翌日クラスメイトから聞いた」
ぽつりと零す貴方の声は、私に聴かせる風でも無い。まるで独り言の様に続けられる。
「後日一人で来たけど、曜日の関係で階段は封鎖されてた」
乱れた髪を、ぼんやりとした指つきで梳いて直している。その黒髪が血で艶めいて、芳醇なマガツヒの薫りを漂わせる。不謹慎にもうっとりしてくる私……
寝物語の様な主人の声が、この胎を貫通する針の事など忘れさせる。
『登れて……良かったですか?』
「別に、もうそんなので歓ぶ年齢じゃない。それに俺は自分の脚で登ってない……だろ」
私は、この判断を後悔しているのだろうか? 実のところ、それほど悔いてはいなかった。確かに失敗には終わったが、こうでもしなければこれほどの接触も無かっただろう。
私の独善に貴方が激昂し、酷く罵ってきたとしても、それさえも愛おしい。どうせ途絶えるこの意識なら、最期に強く貴方を感じたかった。
『私は、御一緒出来て、嬉しかった、です』
「……当然だけど、もうあんたを連れはしない。此処でお別れだ」
『承知しています、此処で朽ちるまで、貴方の無事を願っております』
「言動の不一致が酷いな」
『眺めが好くて、眠るには適しています』
「また眠るのか……戦闘中には勘弁してくれよ」
槍がカランと放られる音が、更に下層で輪唱していく。主人はその音の後に、訂正した。
「もうあんたと並んで戦う事も無かったな」
『ひとつ、訊いても?』
「……何だ」
『何故、召喚して応戦しなかったのですか』
一拍置いてから、抑揚のない声音で返事する主人。
「あんたに先制攻撃喰らったなんて、他の奴に覚られて堪るか。本当はピクシーでも召喚して、ジオ系でも喰らわせてやろうと思ったけど」
『そうですね……避雷針ですから……命中しない訳がありません』
拗ねた様な主人の横顔が視界に見え隠れして、思わず笑うと胎がぐすぐす鳴った。
いや……もう主人では無いのか、使役関係は終わったのだから。
『あの塔に行かれるのですか』
「もうあんたには関係無い」
『創世をされるのですか』
「答える義理も無い」
『私は、人修羅でも人間でも悪魔でもなく……貴方を好いておりました、貴方を……』
「セタンタ! 黙れ!」
仰向けに串刺しの為、貴方の顔が逆さに見える。怒っている……いや……この眉の形を逆さにすると、八の字だ。
「……もう、何も云うな……俺を見るな……見ないでくれ」
どうして哀しそうな顔なのだろう、今にも泣きそうだ。いっそ「悪魔め」と蔑んで、奮起の素材にしてくれたら良かったのに。
どうしよう、最期に見る表情が、いつもの貴方では無い。
慌てて軌道修正しようにも、私には気の利いた言葉ひとつ浮かばず。だからといってあの妖精を召喚して貰い、普段の調子に成って下さいと云える訳も無く。震えるかつての主人が何を歓んでくれるかを、垂れるマフラーの隙間で必死に考えていた。
貴方が憎む変化より前の、人間の頃のトウキョウの事……何か、私が知る知識に何か無いかと。
この傷口から脈打つ様にして、焦りがだくだくと滲み、針から鉄骨へと流れていく。その気配に私はあっと閃いて、横を向く主人に嬉々として伝える。
『私の事は見なくとも良いですから、ヤシロ様。下を、トウキョウタワーを見て下さい』
金色の眼が、ゆっくりと私の下方を見つめる。私は仰け反ったまま、マガツヒを更に溢れさせて唱える。
『懐かしい色になったのではないですか、どうでしょう……?』
歪む貴方の双眸、小さな唇が言葉だけを置き去りにしていく。
「……ああ、そういう色だった……気がする」
そう残したのに、どうして貴方は笑顔にならなかったのだろう? 力無い声色だったのだろう? 本来と違う色なら、憤怒したろうか、いつもの様に苛々したろうか。ならばいっそ、違う色なら良かったかもしれない。
結局、貴方を終わらせてあげる事も、歓ばせる事も、普段の状態に戻してあげる事も出来なかった。
タワーを無意味な色に染め上げながら、私は静かに独り眼を瞑る。
カグツチ塔からもよく見える様に、干乾びるまで赤に染め上げよう。貴方の記憶の中のタワーに少しでも近付ける様に、祈りながらマガツヒを流し続ける。
ただ、その色は虚飾であり、単に私の墓標を見て欲しかっただけなのかもしれない。
-了-