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Demonio!
(※スペイン旅行譚、未完)
白い壁がぐにゃりと迫ってくる。
かと思えば突き放した様に、抉れていたり。
「どうだい?明治十五年着工とは思えぬ作りだろう?」
傍で黒いコートの男が哂った。俺の少し後ろを歩きつつ見上げてきて。
それに押される形で、仕方なくブーツを段に乗せて上がる。
ぐるりと渦巻く螺旋階段は、妙に丸みを帯びて、蝸牛の殻の様だった。
「気味悪い」
「歪曲したモノというのは、造形困難なのだよ功刀君?」
「ハッキリしなくて、苛々する建物だ」
「おや、鑑賞し甲斐の無い…フフ」
上りきると、鐘の麓。どうやら上らされていたのは鐘楼だった様だ。
「双曲放物線、双曲線面、螺旋面、すべてここから生まれたのさ」
晴れが似合わないのか、この男と海外に来ると確実に晴天は拝めない。
語る声音が吹き抜ける、少し空間が開けた。
小窓の様な外壁の穴、その額縁に彩られるバルセロナ。
現代の建物が並ぶ中、古い建造物が点在しているのに、妙な統一感。
「ほら、云ったろう?この教会は早過ぎたのだ、とね」
かつての十四代目葛葉ライドウが、くつくつと哂う。
確かに、当時から云ってたっけ…
“認められて施工がまともに進むのは、どうせ遠い未来だろう”
とか何とか。
入る際に貰った小さなパンフレットをちらりと見た。
「大聖堂…“カテドラル”だろ…あんまり気分良くない」
「違うね、この県でカテドラルと云えば、サンタ・エウラリアの方だ」
「どっちも天使ばっかだろ」
「クク、君もいよいよ天使の白い羽根が目障りになってきたかい?」
「天使も悪魔も嫌いだ」
パンフレットを広げようとすれば、背後から伸びた指先にぴしゃりと制された。
「要らぬよ、前回から施工はそう進んでおらぬ、僕の説明で事足りるだろう?」
「俺はあんたの口に一々説明されたいと思わないんでな」
「へえ、ではその文面が君に読めるのかい?」
云われ、視線を手元に落とせば…確かに、日本語では無い訳で。
「うっさいな、写真見ようとしただけだ」
「その写真の実物にこうして上っているのに?」
「煩いつってんだろ」
ニタリと哂う十四代目を睨んで、今度は風情もへったくれも無い昇降機に乗る。
他にも観光客が数名、アジアの人間は俺達だけだった。
ツアーガイドが何かを喋っているが、俺には呪文の様に右から左だ。
「あんた、何度目なんだよ此処」
ぼそりと問い質してみれば、奴は黒い襟を指先で立てる。
「三回目かな」
「一回目は」
「昭和の始めだったかな…?」
圧が変わる、どうやら下階に着いた様子。
真っ先には降りない男を後目に、俺はブーツの爪先を踏み出した。
ちらちらと視線が刺さる、国外では針のムシロだ。
囁かれる声に、疎まし気に視線を一瞬投げれば…
「キモノ、ゲイシャガール、だと」
嘲笑に近い声で、俺の横に並んだ。明らかな身長差で。
「良いではないか、あれは賞賛だったよ?」
「良くない」
「袴はどちらの性別でも通用する」
「そんな問題じゃねえよ!」
ああ、どうして俺は逆らえないんだ。
もっと普通の格好で歩きたいのに。ワークパンツにブルゾンとか。
それだってのに…
揺れる小袖は花に隠れた蜥蜴の柄。捌く袴は薄い織りが入っている。
なんでこんな柄にしたのか聞けば、この男。
“観光予定のグエル公園の噴水が蜥蜴だから”とか抜かしやがったのだ。
白地に臙脂色の蜥蜴が、葉陰で潜めく袖…里でだってこんなの着ないぞ。
「悪く無いだろう?」
回廊を歩く際に、改めて聞いてくるので、投げやりに返す。
「海外で着物は嫌なんだよ」
「袴の織りはね、アール・ヌーボーの蔓草柄だよ」
「知らない」
「ガウディに肖った取り合わせだろう?」
「俺で遊ぶな!」
愉しそうなクスリと哂う声が癪に障って、俺は少し駆け出した。
まだ施工途中の天井が一部、ステンドグラスの光を遮っている。
一瞬その彩りに見とれてしまい、目測を誤った。
「ぅわ、っ」
少しヒールのある編み上げのアンクルブーツ。袴には確かにピッタリだ。
が、俺はこんな物、履き慣れてない。
観光客のど真ん中、地べたに突っ伏しそうになる直前。
「Ya me lo imaginaba…」
袴帯を後ろからぐい、と引かれ、抱かかえられる。
よく分からない言葉で哂う、黒いコート。
大正二十年から、殆ど変わらない相貌。
垢抜けた、それでいて冷たい…先を往く造形美。
「は、なせっ」
「そんなに慌てると、また転んでしまうよ?」
「こんな物用意するあんたの責任だ…!」
周囲に笑われながら、聖堂をもつれつつ出る。
睨んだと同時に見上げた先、生きているかと見紛う彫刻の外壁。
「“生誕のファサード”だ」
長い睫を数回またたかせ、傍で男が哂う。
見れば確かに、それらしい造形だった。宗教画の様なその姿。
「気味悪い」
それを背にして、俺は広場に逃げ出した。
この巨大な教会は、どこか怖ろしかったから。
「何故?綺麗だろう、まるで生きているかの如きディティールで」
「それが怖いんだよ」
「生きたままの人間や動物から石膏を取ったからね」
「もはや狂気だろそれ…何だか骨みたいな色してて、ゾっとする」
吐き捨て、テラコッタタイルの地面を踏み締める。
路行く人々は、巨大な影を作るこの教会の上に…
本当に、そういう存在が居る事を、解っているのか?
上と、下で、永きに争うその中間で…
俺達が足掻いてるのを、知っているのか?
「塔は全部で十八…十二使徒、福音記者、聖母マリア、イエス・キリスト」
「…そんなに在ったか?」
「まだ十は出来てないね」
「なんだよそれ、いつになったら完成すんだよ此処」
「僕も大昔は…まさか生きている内に、この段階まで拝めるとは思わなかったよ」
その台詞にはっとして、振り返れば。
斜にかかった黒髪の下、朧月の様に金色が一瞬光った。
俺と揃いの、眼。
「完成まで拝めそうで何より」
「…嬉しい事かよ」
半分に悪魔を受け入れる魂を、呪わないのか、あんたは。
産み落とす度、再び邂逅した妙な喜びと…
幾度繰るのか、人間から離れ往く業罪の深さに怯えているのに、俺は。
「折角だから、天の塔の行く末を見守ろうかと思ってね」
唇を吊り上げて哂う男。
こいつこそが、俺のサマナーという支配者であり…
伴侶であり子であり、その子の父という、とてもえげつない存在なのだ。
「ねえ?功刀君も今度また来るかい?」
「別に、俺は此処が目的じゃないし…あんな骨みたいな教会…嫌だ」
「骨、っクク、それはそれは…確かに、有機的歪曲線だ…純白でも無いな」
黒い襟の影で、歪ませた唇。愉しげに哂うその姿は開放的。
葛葉を、ヤタガラスごと自ら再構築して、半世紀に近いのか。
それは気分も良いだろうな。
「さ、君が駄々捏ねてまで観たがっていたショウを観に往こうか」
ぼんやり考えていれば、そんな云い方をされて頭に血が昇った。
「捏ねてねぇよ、クソ野郎…」
汚い暴言を吐いても、冷たい笑みのまま。
「此処の言葉ではVete a la mierda, cabro'n.」
「誰も聞いてない」
「cabro'n は“寝取られた駄目亭主”という意味だ」
着物の衣文抜きをぐい、と掴まれ、胸元が締まる。
普段より苦しい其処に、そういえば、今女体だった事を思い出した。
「君は僕を駄目亭主と呼ぶのかい?」
「おぃ、放せ、っ」
「スペイン男に寝取られてみる?」
「誰が…!」
高笑いで、俺の拳は軽く避けられる。
つんのめった俺は、また抱きかかえられて、舌打ちした。
「夜でも無いのに、躓き過ぎだろう?」
その揶揄が俺の脳を揺さぶる。
「…夜じゃ、ねぇかよ…」
呟いて、衿の乱れに指を通す。
もう着物の扱いにも慣れてしまった。
ようやく、悪魔に成る以前の…本来生きた時代に巡ってきたというのに…
今となっては、古い物の方が馴染み深いという、妙な感覚。
「フフ…確かに、夜だよ」
哂った夜に、もう一度舌打ちしてやった。
「凄い、凄い凄い…!」
一瞬のぐらつきに、途端マシンはコースアウトする。
わっ、と上がる周囲の喧騒の中、排気音が一際高くこだました。
背後から追い上げていた数台が、一気に差を広げた。
「あの赤いの、追い越しそうだが」
「いいや抜けない」
「何故判る?」
「先頭のコース取りが最高だから」
「素人の君に判るのかい?」
「うっ!さい!な!静かに観させろ!!」
怒鳴って、すぐにサーキットに視線を戻せば、戦況はまた変わっていた。
「ほら!あんたが要らない事ほざいてる内にっ!」
文句しながら先頭のマシンを眼で追った。
ラストスパートは、マシントラブルが無い事を祈るだけだ。
「好きだね君も…フリープラクティスだろう?」
「いきなり本番なんて味気無い」
「性急?まあ、確かにね」
「跨ってるならウォームアップの仕方も気になるんだよ」
「デジタルカメラさえ上手く扱えぬのに?」
先刻、夢中で夜から奪い取ったデジカメ。
いつだったか、蒼鳥さんが置いていった物だ。
いや、正確には…この男がすげ替えたのだが、セコハンカメラと。
「己の指を撮っている様では、とても現代人とは云えぬな」
「好きな物の知識さえ有れば良いだろ、放っとけ」
横の夜は、こういう時にかなり目線の高さが羨ましい。
男性にあるまじき高さのヒールブーツが、更にその高さを助長させている。
葛葉ライドウの十四代目を真面目にやっていた頃は、もっと優しい高さだった筈。
(少し位興奮したって良いじゃねえかよ)
折角のカタルーニャサーキットだ。GPが観れるなら、観るに決まってる。
「衛星回線繋いであるだろう?里からも観れる」
「生が良いに決まってるだろ、震動とか音とかが直でクるんだから」
「へぇ、生が」
「そうそう、生が…」
と、はっと傍を見れば、肩を少し震わせて、組んだ片腕の先。
上がった口角を指先の隙間から見せる夜。
その眼があまりに邪悪に哂っていて、頬が熱くなった。
「何、云わせてやがる…っ」
「Ni puta.」
「はぁ!?」
「A ver..... pues, no se'.」
「こういう時ばっかり…日本語で詰れよ手前!」
いよいよ沸騰してけしかければ、外された指先から、またまたニタリと唇が覗く。
「二輪はご無沙汰だろう?最近では僕の上に跨る方が――」
「下衆野郎!!!!」
俺の叫びを掻き消す歓声。
どうやら大事な瞬間を見逃した様で、更に地団駄を踏む。
「僕が用事有るのは、明日の本番だからねえ」
「…くっそ、もう明日は別行動だ…」
「現地語どころか英語すら話せないのに?」
「…こ、此処でだけ」
くやしいが、本当に俺は国外では無知そのものであって。
怖ろしく知識の深いこいつに頼るしか無いのが実状だ。
ヤタガラスの里を離れる際には…必ず必要なんだ。
(外は、悪魔も天使も入り乱れてる…)
外がどうなっているのか、仲介を通して見てきた半世紀。
この男がライドウ…で無くなった瞬間から。
いつしか名前で呼んでいた…普通に。
いいや、それでも声に出すのは癪だが。
「最近出資してるチームから連絡が入ってね」
「は?何時の間に…あんた、まだ金貸しみたいな事してたのかよ」
「金貸し?フフ、確かに…まだあの時のメルコムを使ってはいるな」
血の色をした葡萄酒、するりと赤い舌が舐め取った。
グラスで歪曲する視線が、俺をじとりと見つめ上げる。
「あの時の、って…」
「買ったろう?君の初夜」
さらりと云う夜に、思わず肉を切っていたナイフが滑った。
皿を引っ掻いて、不快な音が部屋に響く。
「黒板を絶妙な角度で掻いたチョークの音だ」
教師じみた発言で、やはり哂うままグラスを煽っている奴。
俺よりも味わえる、その舌が羨ましい。
「俺の知らない所で、相変わらず金遣い荒いんだな」
「君を困窮させた憶えは無いがね」
「この部屋だって、一体一泊幾らだよ…俺はもっと質素で良い」
今宵の宿と知って、腰を抜かしそうになった。
里の庵なんかは、風情がありつつも控えめだったのに。
スイートルームって奴だろうか。
「君の初夜より安いと云ったら?」
底意地の悪い声音。
「もうその話はいい!飯が不味くなる」
「君の舌でも鮮明に感じる程に?」
思わずガタリと立ち上がる、つられて椅子が床に倒れた。
「あの頃の話は止めろ!」
見上げてくる視線は、馬鹿にするでもなく、同情するでもなく。
ただ、俺を見ている。
「俺は…別に、今の…今の立場を、完全に受け入れてる訳じゃ…」
置かれたグラス、揺れた赤い水面が、上の照明を反射した。
そのグラスの脚から指を放し、皿に置いたナイフを手にした夜。
指先にそれを遊ばせ、ピタリと、投げの構えになる。
「別に、構わぬが…ね!」
「っ」
弧を描いたその切っ先が、俺に向けられるかと竦んだが。
風切り音、耳のすぐ傍を通過して往く。直後、何かに刺さる音がした。
「フン…矢張り、持ってきたね、君」
「な、に」
「さては、サーキットで興奮し過ぎて…怠ったろう?人のフリ」
あ、と振り返れば…豪奢な装飾の柱時計…その盤面に、煌くナイフ。
じり、とその先端が、ビイビイと啼く小さい悪魔を磔にしていた。
「君にくっついて来て、適当な媒体に潜んでいた様子だ」
「小鬼…悪魔」
「グレムリン、機械の中なら居心地が良いのだろうよ」
呆気に取られ、その打ち据えられたままの悪魔を見た。
完全に実体化している。
「いつ気付いたんだあんた」
「時計、狂い始めたろう?奴は機械が好きだからねえ」
「狂ってた?……チッ、そのグレムリンで盤面が見えない」
「君が此処に入り、時計の傍を通過した瞬間だ、針が躍り始めたよ」
巾で綺麗に唇を拭っても、葡萄酒の赤をそっくり移し込んだ様な唇。
それが、俺を責め始める。
「外に居る時くらいは、しっかり擬態し給え」
「いつもは出来てる…」
「大勢の中、それも興奮状態で簡単に漲らせるその程度で?」
斑紋が出た訳じゃない、魔力を滲ませただけだろ?
「もういいだろ、あんなにごった返した人混みの中なら簡単にバレや――」
ばん、と大きな音がした。夜が腕を振りかぶって…
一瞬ちゃぶ台返しでもする要領で、テーブルをひっくり返したかと思ったが…
真っ白なクロスを、食器だけ残して引き抜いたのか。芸人かお前は?
ひらりと眼に痛い純白をなびかせたまま、それが俺の視界を覆った。
それこそ頭が真っ白になって、呼吸が乱れてしまう。
「ひぎ、っ!」
床かと身構えれば、一応柔らかい感触。
寝台に叩きつけられたか、白い波を掻き分ける。
が…もがけばもがく程、その海に呑みこまれる。
「君は何年経とうが愚図だね」
「っ、お、い…悪ふざけすんな、っ、苦し」
「もし人間達の中で、悪魔になって御覧…?僕が何の為に、此処まで確立させてきたか…」
白で見えない表情。
哂っているのか、不安が過ぎる。
「あんなにも過ごし易い牢獄を用意してやっているだろう?」
「無理矢理娶ったくせに!俺を、俺を勝手な都合で女にしたくせに…!」
滲み出る、あの日の恐怖。
力任せに引き裂けば、白い裂け目から見下ろしてくる双眸。
黒水晶の深い闇が…
「ほら、また擬態、解けてるよ」
云われれば、確かに項が痛い。角がマットを押し返していた。
「興奮してるのかい?」
「退け、降りやがれ」
「今回は来たいという君の意見を尊重してやったのだが…」
「の割に、俺を着せ替え人形にしてるのはあんただろ、っ」
「袴?フフ、歩き難いだろう?」
取り払われた白いクロスで、気付けば両の腕は雁字搦めに絡め取られている。
袴帯の先が、しゅるしゅると啼いた。
腰への締め付けが緩くなると、もう思考回路はソッチに飛ぶ。
「いきなり本番なんて性急?」
「ばっ、てめ」
「フリーが必要かい?クク」
日中の会話を匂わせるその揶揄が、頬を熱くさせた。
腰周りの緩んだ帯が、シーツに散って、俺の脚はもがく。
「困るのだよね…忘れてもらっては」
「何の話だ」
「君の主人は誰だったかね?」
嗤う声と見下すその眼に、脳内まで沸騰する。
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