燃え盛る大気が鼓膜を揺らしているのでもなく、周囲のどよめきによる不協和音だとようやく分かった。
 視界が少し開けた、瞼が重い……というよりはやぶ睨みのまま癒着しかけていたらしい。
 そうだ、俺は龍の形をした悪魔とやりあって。
「うぐっ!」
 脳天を衝撃が奔る、覚えのある感触。どう考えても靴先だ、という事は俺は地面に転がっているのか。
 背中に意識を回すと、優しさも無いザラついた摩擦があった。
「功刀君、分かっているのかい、君は僕に恥をかかせたのだよ」
 ああ、やはりライドウの声だ。まあ俺の頭を蹴る奴なんざ、その一人くらいしか思い当たらないけれど。
 何故自分が戦っていたのかを思い出そうとする、反発する様に全身の皮膚がヒリついた。
「十四代目、先に治療してやった方が宜しいかと」
 今のは誰だ、聞き慣れない声だ。
「痛いうちに反省して貰わねば、覚えないのですよこいつは」
「朦朧としている、今伝えても理解出来ないのでは?」
「フン、随分と温情を以て接するな。御安心を、こいつ治癒だけは早いので」
 誰と会話しているんだライドウ……
 まだよく目が見えない、ゆっくり上体を起こしてみたが咽てしまった。
 自分の肌にそっと触れてみる、喉から胎へそろそろと指先を沿わせていく……ああ、爛れている。
 既に乾燥した表皮はほろほろと落ちて、しっとりとした新たな面が再生を始めていた。
「ヴリトラ」
 声に出た、呼気さえまだ熱い気がする。
 そうだ、龍はヴリトラと呼ばれ召喚されていた。俺はそいつの焔に煽られて焔で返し。
 相手が先に息切れしたので、勝ったと思った。そうしたらあいつ、炎を吸収する個体だったんだ。
 それなのにあんな、鍔迫り合いみたいな事しやがって。
 あんな対応されたら勘違いするだろ、此方をおちょくるにせよ、せいぜい反射がいいところだ。
 吸収出来るくせに……
「畜生っ!」
 自分でも想像以上に声が出た。周囲が即座に警戒したのか、空気が張り詰めた。
 吠えたは良いものの、そうだ俺は負けたんだ、惨めなだけだ。
 確か此処はヤタガラスの里で、サマナー同士の腕試しか何か、そんな事に巻き込まれただけだった筈。
「おい、ライドウ」
 不機嫌の塊に声を掛けたが、無反応。
 ぼやけた視界のまま地に片手を突き、ゆっくり立ち上がる。
 と、背後から俺の双肩が支えられた。ライドウな筈が無い、誰だ。
「十四代目ならもう往かれましたよ」
「……はぁ!?」
 驚愕に目を見開くと、一気に視界が鮮明になる。
 傍には見知らぬ顔があった。このサマナー、あのヴリトラを使役していた里の人間だ。
「それと、暫く私のヴリトラと交換してくれと云われ、貴方を数日預かる事になったのですが……大丈夫?」
 眩暈がしてよろめいた俺は、再び支えられた。


「一応名乗っておいた方が良いんでしょうかね、白灰と云うんですよ」
「シラバイ?」
「白に灰色の灰で、白灰」
 語るサマナーの、頭巾から覗く髪を見た。俺の視線に気付いたのか、白灰は薄く笑った。
「髪がね、生まれつきこんなで……まあ、それで白灰と云うのです」
「名前って、里に命名されるんですか」
「人によります。此処で生まれたらそうなりますし、外から来ても改名したり、ありますからね」
「……白灰さんは此処の生まれなんですか」
「そう教えられては居るんですけど、正直なんともです」
 連れて行かれたのはこの人の住処か、それなりにしっかりした建造物で。
 ライドウが日頃過ごしていたという小屋よりは立派で、老舗旅館の離れみたいだった。
「じゃ、まず先に流しましょうかね、もう皮膚は再生してます?」
 井戸の傍で訊かれた、きっと水を汲み上げるのだろう。
 歩み寄り「自分でやります」と述べれば、場所を替わられた。
「でも冷たいから、汲んで暫くタライにでも放置した方が良い」
「大丈夫ですよ、真冬じゃないですし」
 この身体だ、一瞬ヒヤっとくるものの、低温になる事は無い。
 それでも嬉しい体感かといえばそんな事は無いので、勝手に温めようと思う。
 引き上げた桶から、脇に用意されたタライに水を移す。その水面に容赦なく手を突っ込み、体内のMAGを指先へ流動させる。
 一瞬だけ背後の白灰が強張ったが、すぐ察した様で穏やかに声を掛けてきた。
「常温まで放置するより早いなあ、成程」
「この里の中なら、驚く人も居ないでしょう」
「確かに、その調子なら風呂も沸かせそうだ」
「構いませんよ」
「いやいや冗談」
 はは、と笑った白灰は、家屋の縁側から上がっていった。
 と思いきやすぐに戻ってくる。その手には着衣と思われる布が携わっていた。
「甚平だから、季節外れで少し寒いかも」
「いえ……なんだかすいません」
 革パン一丁の俺は、タライのぬるま湯をそのまま浴びた。
 本当ならしっかり洗いたいし、それこそ風呂に入りたい気分だ。
 しかし此処はある意味敵地みたいな処だし、他人の家、贅沢は云えない。
 それにしても、このサマナーはかなり温厚そうだ。これまで見てきた連中がイカレ野郎ばかりだったせいで、相対的に見えるだけかもしれないが。
 イカレ野郎には、当然ライドウも含まれている。
 人を物々交換みたいに扱いやがって、こんなの絶対当て付けだろう。
「本当に、只の人みたい」
 縁側に腰を下ろし、涼んでいた白灰が零した。
 きっと俺を指しての事だろう。嬉しい様な、情けない様な、複雑な気分になる。
「負けましたしね」
「いや戦いの事は別としてね。悪魔がする擬態っていうのは形だけだったりするんだけど、貴方のは素振りが人間ですから違和感が無い」
「それはまあ……元々は人間ですから」
「へえ、そうだったんですか」
 関心が有るのか無いのか、イマイチ掴みどころの無い人だ。
 ライドウが俺を平気で預けたのも、このサマナーの気質を知っているからこそ、なんじゃないか。
 そう思いたかった。
「お邪魔します」
 受け取った手拭いで身体を拭き、白灰に倣って縁側から上がる。
 靴下と革パンは改めて洗って干すとして、この甚平の下に穿く下着はどうしよう。
「ああ、そうか褌も替えが欲しいか」
 何かを察したのか、ごそごそと奥の箪笥を漁る白灰。そうだ、その通りだ感謝する。
 でもそれ以前の問題がある、非常に云いづらいが、受け取ってから下半身ミイラになりたくない。
「すいません、俺……褌が巻けないんで」
「へえ、そうなんですか」
「……」
 説明したは良いが、じゃあどうしろというのだ。今更自分に突っ込みを入れる。
 巻いて下さい、なんて云えないし、まず俺の精神が耐えられない。
「そのまま穿いたら良いじゃないですか、甚平」
「えぇ……」
「そう露骨に嫌そうな顔せんでも。大丈夫、外に出歩かなければ良いだけです」
 適当に巻いて解けるよりましか、そう自分に思い込ませつつ甚平をそのまま穿いた。
 凄まじくスースーする、違う種類の寒気が背筋を上ってきた。
 これは何が何でも、自分の着衣を洗って明日早朝から干さなくては。
「しかし紺野君も……何考えとるんかね」
 籐の椅子にゆったり背を預けた白灰が、天井に向かって呟いた。
 唐突に出た名前に、俺は少し心臓が跳ねた。そうだ、あの男は襲名前にはそう呼ばれてたんだ、何もおかしい事は無い。
「あの、俺はライドウが迎えに来るまで此処で何をしていれば」
「まあゆっくりしといて下さい」
「ゆっくりって……」
「ああ、お腹空きました?」
「其処はお構いなく、俺食べなくても平気なので」
「悪魔と同じでMAGあれば足りる?」
「まあそんなところです」
 悪魔と同じ、わざわざ云われると認めたくない気持ちが沸々としてくる。
 だがこれも必要以上に世話にならない為だ、自分に云い聞かせる。
「何も娯楽が無くて御免なさいね」
「いえ……ただ、白灰さんは普段此処でどうやって暇を潰すんですか」
「掃除洗濯くらいかな、あとは寝てる、ああでもたまに本を読みますね、十四代目に借りるんですよ」
「ライドウとは仲が良いんですか?」
 訊いてどうする。
「良い? うーんどうかねえ、仲間意識は有る方と思いますけど、良し悪しまであまり考えないからなあ」
「あいつの本って悪趣味なのばかりじゃないですか?」
「色々有りますよ、最近借りた中でも珍しかったのは悪魔の春画ですね」
「春画ってあの春画ですか」
「春画は春画しか無いでしょ、女性性を持つ悪魔ばかり描き連ねられた書物です。もの好きなサマナーが描いた一品でして……どこに積んだっけな」
「いいです! 見ませんから!」
 またもやごそごそと漁りだしたので、俺は立ち上がって制止した。
 白灰は「いいの?」といった表情のまま籐の椅子に戻り、再び天井を仰ぎ見ている。
 頭巾が無いので、先刻よりもはっきりと顔が確認出来た。やや童顔だが、中年に入ったくらいか、俺達よりは年上な感じがする。
 そういえばヴリトラを召喚していた時はどうだったか……記憶に無い、顔を隠すというのは確かに都合が良い。
 ライドウは正反対で、わざと相手に顔を、眼を見せている。あれは一種の脅迫で、ガン飛ばしに近い。
「悪いね、私はすぐ疲れてしまうからさ、十四代目のように稽古をつけてあげる事は出来ないよ」
 黙して畳に座る俺に、つま先で座布団を寄せながら云う白灰。
「とんでもない、稽古らしい稽古はつけてもらってないです」
「ではどうやって彼と息を合わせるの?」
「それは……」
 また黙ってしまった、そもそも普段から息は合っていない気がする。
「十四代目の仲魔は、よく訓練されている。そんなに高位の悪魔を使っていないのにね、でもそれが凄い事なんだよ」
「……貴方のヴリトラ相手に、他のライドウの仲魔だったら勝てたと思います?」
「勝てたと思いますよ」
 単刀直入に云われ、今更がっくり来た。ライドウに云われるよりも数倍堪える、純粋な客観視の棘が刺さって抜けない。
「まあまあ、気落ちしなくていい、得手不得手は有るもの。貴方が熱くなり易く判断が鈍るのであれば、其処に良い差し水をするのがサマナーの役目、そういうものだと思いますけどね」
「白灰さんは仲魔に暴言も暴力もしなそうだし、大分マトモに見えます」
「はは、十四代目にやられてるの?」
「まあ酷いもんですよ」
「貴方の事を仲魔と思っていないのかもな」
 またもや単刀直入、先刻の棘が更に深く抉って来る。
 いや、別にライドウの仲魔でありたい訳じゃないんだ。
「ちょっと待って、誤解しないよう。仲魔じゃないっていうのはつまり、付き合い方の事ですよ。貴方、管に入れないんですって?」
「入らないみたいです、入る気も無いですけど」
「だから常に出しっ放し、傍に居る。それじゃ仕事仲間というよりは、友人の様になってしまいがちだ」
「友人だとしても、親しき中にも礼儀ありでしょう」
「里で育つと基本野蛮だから」
 そんな身も蓋も無い事を笑いながら云う辺り、やはりこの人もどこかずれている気がしてきた。
「人修羅君、私はね、葛葉ライドウ十四代目に成ってやろうという気がさほど無かった。話したように此処は野蛮な世界だ、候補生によっては生き残る事すら難しい。実は私を指導してくれた師匠は悪魔で、それが現十四代目も同じ」
「兄弟弟子になるって事ですか」
「そう。でも事実上は、という程度ですね。紺野君と一緒に稽古した事は無いし、師匠も彼付きに配属が変わってからとんと顔を合わせなくなり、結局そんなに長い付き合いじゃ無かったなあ」
「悪魔に色々教わるって、どんな気分です」
「人間とそう変わらんですよ、それこそ今の貴方みたいなもの。人と同じ形をして、人とは違う異能を持つ。ま……我々の師匠は、ちょいと人間臭かったですけどね」
 外から虫の声がし始めた、気付けば屋内は真っ暗で、外からの月明りが畳の目を照らしていた。
「お布団有るよ、そこの大きい籠の中。眠たければ自分で好きな所に敷いてください」
「白灰さんは寝ないんですか」
「椅子で寝るのが好きなんで」
「身体痛くしますよ」
「それが、お布団だと永眠しそうで怖いんですね」
 よく分からない理屈だが、招かれている俺が強制する事でもない。
 とりあえず云われた通り布団を敷く、寝そべれば白灰の椅子が見える角度に。
「人修羅君」
「はい」
「十四代目が来たら、すぐに帰って良いですからね。此処は酷くつまらないでしょう」
「……実際、余所のお宅は緊張しますけど」
「この家だけじゃない、この里全体がね、貴方にとってつまらない存在だと思いますよ」
「白灰さん、此処の事好きじゃないんですか?」
「好きも嫌いも無いんですよ、外に出るまで知る由もないから。でも十四代目……紺野君は小さい時から、ぼろくそに云ってたなあ、ってたまに思い出します」
「ぼろくそって」
「そうするしかない餓鬼連中を集めて競わせる自体趣味が悪いとか、育成機関の割に食事が質素とか、一部指導者の贔屓が激しく公平性に欠けるとか、うん……まあ、その通りかな」
 はは、とまた笑う白灰。この人の笑いに不穏は無いが、何か欠落している気がした。
 愛想とも違う、なんだろうか。
「白灰さんのヴリトラ、扱き使われてると思います?」
 なんとなしに訊いてみた。するとやはり薄く笑ったまま、ゆっくり椅子を軋ませる。
「ありゃ貴方への当て付けでしょ、私のヴリトラを利用しようとか一切考えていないんじゃないですかね、悪いようにはされないと信じてますよ」
 思わず鼻で笑ってしまった、なんだ周囲もそう思っていたのか。
 あいつ自分から恥かいてるって事になるな、ざまあみろ。
 それなのに、どうして微妙に俺まで恥ずかしくなってきたんだ。
 寝落ちの振りでそのまま黙り、宵を明かした。
 
 
 いつもと違う匂いがする、干した草の匂いみたいな。
 はっと瞼を上げる、天井を見て此処が何処なのか思い出した。
 そういえば雨戸も閉めず寝たのか、特に指示されなかったので此方から確認もしなかった。
 まだかなり早い、遠くに見える山の影が暗く濃い。木々から立ち昇る霧が、龍の様に空を旋回し始めている。
 (悔しい……)
 はっきりとした負けは久々だ。自分でも引き摺っているのか、夢の中でヴリトラをボコしていた。
 頭の後ろに位置取って、頸に脚を回し、髯でも角でも引っ張って絞め上げてやる。
「眼が光ってますよ」
 椅子からの声に視線を送る、白灰だ。本当に椅子で寝たのか、昨日の姿勢のままだった。
「人修羅君、あの召し物以外には持って来たのです?」
「いえ、それがその……着物袴は有りますけど、ライドウの庵に置いたままで」
「じゃあ取りに行きたく無い訳だ」
「あいつ居たら何云われるか分からないし、こっちから顔見せたく無いですよ正直」
「私の羽織は頭巾が付いているから、それを貸しますよ。分厚くて丈も長いから、あの革のズボンだけでも寒くない筈」
「外に出る時はお借りします」
「頭巾しといた方が良いよ、昨日の事で野次ってくる輩は絶対居ますのでね」
 もしかしたら、この人はこの人で、生まれ持った白髪が目立ったのかもしれない。
 ただしこれは俺の憶測だし、根掘り葉掘り聞く事でもないと思ったので、そのまま流す。
「私はこれから外に行きますけど、人修羅君どうしますかね」
 予備と思わしき羽織を俺に渡した後、自らは昨日も着ていた羽織を纏う白灰。
 どちらもこの里っぽい、薄暗い色調の羽織だ。遠め目には黒、それこそ烏の様な。
「お手伝い出来る事があればします」
「此処に残っても暇だろうとは思いますよ、でもまあまあ歩きますよ、眠くない?」
「睡眠は必ずしも必要ではないので」
「それは心強い、じゃあ朝の散歩に行きますか」
 戸締りもせずに、一見丸腰の白灰が縁側から降りた。
 そうだ、こっち側に靴を残してあったんだっけ……と、彼に続いてもそもそ靴を履く。
「それ変わった靴ですね、何という名前で?」
「ああ……これは俺の持ち物で、スニーカーっていうんです」
「ゴム底地下足袋みたいな?」
「はあ、多分」
 考えてみれば、雑過ぎるコーディネートだ。今回はどうも嫌な予感がして、革パンスニーカーの臨戦態勢で来た。
 それだって上に袴や着物は着ていたし、帰りもそのつもりだった。
 常に上半身裸で居る趣味はない、ボルテクスの頃は半分どうでもよくなっていた、余裕もなかった、それだけだ。
「あの……どうして白灰さんと決闘みたいな展開になったんですか? 俺あの前後の記憶がおぼろげで」
 畦道を歩きながら、隣のサマナーに訊ねる。
 見つめ返してくる彼の背丈は俺と同じくらいで、少し対等な感覚に陥る。
 俺よりせいぜい5p高い程度のライドウでさえ、視線位置に威圧を感じるのだ。しかもあの男、ブーツの踵が少し高めだし。
「殆ど憶えていない?」
「“功刀君、分かっているのかい、君は僕に恥をかかせたのだよ”って云われた事は憶えてます」
「ほぼ一字一句憶えているじゃない」
 彼は笑って霧の中、その白髪が揺れていた。
 白灰の指摘に、まるで俺がライドウの言葉だけを記憶していると勘違いされやしまいか、ヒヤヒヤした。
「遡って説明するとね、十四代目に喧嘩吹っ掛けた奴との間に、私が仲裁で入ったんですよ」
「えっ、つまりとばっちり喰らったって事ですか?」
「ちょっと違うかな、決闘の流れになったのは私の提案。だって喧嘩を吹っ掛けた奴、あのままじゃ再起不能にされかねなかったから。かといって喧嘩も出来ずに熱のやり場のない十四代目も可哀想ですし」
「そんなの……吹っ掛けた奴に相手させりゃ良いんだ」
「まずいですよ、だってああいう輩はとても弱いから、死んじゃったら後腐れするでしょ」
 ははは、と笑いつつなかなか酷い事を述べている。
 この人も結構恨みを買いやすいんじゃないだろうか、だってあまりに正直過ぎる。
「私も十四代目と召喚合戦するのは久々で、まあ都合が良いと感じた訳ですよ」
「悪魔使って戦うの好きなんですか?」
「好き……と訊かれると、なんとも。もはや生業みたいなものだから、腕試しの欲求は有るのかもですね、日頃の成果みたいな?」
「そんな軽いノリで……」
「サマナーなんてこんなもんです」


 まあまあ歩くとは聞いていたが、本当に歩いた。軽い登山と云っても過言ではないだろう。
 獣道より多少ましな足場を行くと、鬱蒼とした山林の中ひっそり現れる鳥居。
 名もなき神社より小さい規模で、神使にあたる動物の像も無い。
 白灰はようやく境内で立ち止まると、顎を撫でつつ語りだした。
「修験界はご存知?」
「ああ、志乃田とか、確か槻賀多方面の神社にも在るやつですよね?」
「此処にも在るんですよ、ただしヤタガラスが大きい所しか面倒みないと決めたので、半ば放置状態の場所です」
「確か修行の為に降りるんですよね? そういうつもりで来たんですか」
「修行というかね、私此処の修験界の保安担当なんですよ」
「そんなの決まってるんですか、意外」
「一応ね、数日に一度は見回りしなきゃならないのですが、まあ私は暇人なので毎日来てます」
 白灰の手招きする方へ向かうと、表面の朽ちた屋根の下で手水舎がぽっかり口を開けていた。
 他の所と同じく昇降装置になっているが些か狭く感じる。
「お金が回って来ないので、ちょっと修繕が行き渡ってないんです、ようするにボロって事です」
 白灰の言葉に卑下は無く本当にボロかった。古びた日本家屋といった程度の老朽具合だが、他の修験界が結構豪奢なせいか此処が一層ボロく感じる。
 歩けば床板もギシギシと鳴くし、道中の燈篭も一部点いていない。
「機関から放置されてるって、利用者が少ないんですか?」
「私らが子供の頃は、まだ結構使ってたんですけどねえ。ちょっと薄気味悪いって、徐々に来る人は減っちゃいましたよ」
「気味悪いも何も、悪魔が居る所って大抵そうじゃないですか、異界とか」
「今はそうでもないけど、昔は候補生いびりが酷くてね。下級の者を此処に置き去りにして、本来徘徊していない野良の悪魔を放り込んだりとか、まあ平気で有ったんですよ。修験界は実力以上の層には降りられない仕組みなんですけどね、上級の輩が昇降機に自分の生体情報を読ませて最下層に行って、後輩を無理矢理連れて行くんです」
「それは死人が出なかったんですか」
「そりゃあ当然出ましたよ」
 はは、と笑って昇降機に乗る白灰。一層ずつ下に降りては、ぐるりと巡回していく。
「胸糞悪い」
「あれ、それこそ十四代目なんか散々しごかれた方ですよ。しかし彼はまず強かったので、少し経った頃には此処の最下層くらい何でもなかったと思うけれど」
 白灰は各所を指差し「ひい、ふう、みい、よ」と確認をしている。
 てっきり用心棒の様に扱われるかと思いきや、此処の悪魔達は大人しい。
 暗がりにひっそりと蠢き、じっと白灰を眺めている奴も居れば、軽く挨拶する奴なんかも居て。
 ある意味、陰鬱なイメージは払拭される。置き去られたサマナーが弱くても、これなら生き延びる事が出来そうな環境だ。
 だからこそ野良の悪魔を放ったという事か、それは此処に住む悪魔にとって迷惑極まりない事だったに違いない。
「うん、いつもと同じ燈篭が切れてるし、同じ柱の塗装が剥がれてる、問題なし」
「問題じゃないですかそれ」
「はは、予算がこっちに回ればすぐ直すんですけどねえ。まあ機能していなくとも、この辺りは問題無いんですよ、本当」
「じゃあ何が壊れてたら不味いんですか」
「壁と床の構造自体が崩れると、少し好くないですよ。三×三マスを敷き詰めた三次魔法陣を結界のひとつとしていますんでね、その術のおかげで半分異界みたいなものなんですよ」
「……ペラペラ喋って大丈夫ですかそれ、悪魔が故意に崩すとか」
「崩してもすぐには出られない、結界は何重にもしてあります。それに結構な歪みが生じるので、毎日竜脈なり確認している里の者が気付くでしょう……そろそろ最下層、ね、早いもんでしょ。此処まず階層自体少ないですからねえ」
「白灰さんは……」
「はい?」
「里を出て、もっと自由な生き方を模索したいとか、そういう事は考えないんですか」
 脈絡も無い問いに、自分でも驚いた。
 何を思って訊いてしまったんだ、俺には関係無いじゃないか、このサマナーも、この里の事も。
「私には十分というか、外はちょっと疲れちゃうんですよね」
「里の方が息苦しくないですか?」
「どうかなあ、似た様なもんじゃないですかね、何処も狭い世界の集合体ですよ。ただし、違う世界と接したいのであれば、留まる必要性は感じないですね」
「ライドウが里だけじゃなく、ヤタガラスまで潰そうとしていたら、どう思います?」
 流石に立ち止まるかと思ったが、白灰は歩みも止めず昇降機にさっさと乗り、俺を待っている。
 彼のすぐ傍に立ち、俺は答えを待った。
「好きにしたら良いんじゃないです?」
「でも、ライドウにそうされたら“此処でいいや”って云ってる貴方の住処も無くなってしまうじゃないですか」
「私には、十四代目の思考は読めないですね。でも今の話を聞いても、何故だか彼らしいとしか思わないし、止めようとも思いません」
「白灰さんはどちらかといえば、あいつに賛同してる、って事ですか?」
「さてそれもどうですかね、現体制に問題が有るとは思うけれど、変えようとまでする意思や気力が私には無いです。きっとこの無気力が私という人間のつまらなさなのでしょう。良くも悪くも現状維持が基本なので、師匠も発展性の有る紺野君に付けられた。稽古をつけてやって楽しい相手は、私でなく紺野君だったのだと思いますよ」
 どうしてこんな事を訊いているんだ。
 なんかこの人だったら、ライドウの味方をしてくれる気がした。
(味方?)
 まるで今、誰も味方が居ないかの様に考えていた、ごく自然に。
「人修羅君は十四代目がヤタガラスを潰せと命じれば、応えるんです?」
「えっ」
「きっと貴方には何も関係無い面々でしょう、この私だってそう。そんな人間達をサマナーの命令ひとつで殺戮出来る?」
「それは……」
 想像した事は有る、いや何度だって妄想した。
 自らの目的の為にライドウが、倫理的にいかれた命令をしてきたらどうなるかと。
「許されない事だとは思います」
 はぐらかした俺を、白灰は薄く笑って見逃した。
「ひい、ふう、みい、よ、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とう……うん、問題無さそうです、帰りましょうか」


 昇降機がギイギイと昇りゆく最中、あと一層という所で隣の白灰が囁いた。
「何か煩くないですか」
「えっ、この装置の音が?」
「いや……ちょっと失礼」
「いっ!?」
 白灰は突然、俺の胴を抱く様にして、そのまま押し出してきた。
 第一層の床に尻餅をつく。痛いと云う事すらどこか憚られ、声を殺したまま面を上げる。
 俺の視線は白灰でなく、その向こうに飛んだ。先刻まで居た昇降機に、わらわらと何かが蠢いている。
「あいつら……一体何処から?」
「上です、降ってきてますよこれは」
 色とりどりの……なんて言葉では生温い、ヘドロのような色で照る連中だ。
 昇降機の外柱にベタベタと張り付いては、焦がす様な臭いを発し始めた。
「スライム、ブロブ、ブラックウーズ……合体事故の残骸といったところでしょう」
「呑気ですね、あれ何とかしないと帰れなくなりません!?」
「ああ、瘴毒撃に注意してください、ブラックウーズが主な腐食発生源です。その羽織は多少防御になると思うので、着たままでいいですよ」
「突破するんですか」
「最初はこけら落としみたいになりますかね、結構捌いてからじゃないと危険だし、しばらく麓で応戦しましょうか」
 淡々と決める白灰はライドウとも違った冷静さで、多椀の仲魔を召喚して早速向かわせている。
「アタバクです。呪殺を掃うので、ブロブのムドも平気でしょう」
「あいつら、火炎通りますよね?」
「はは、大丈夫ですよ」
「貴方の仲魔の邪魔にならないように動きますけど、何かあれば声掛けてください」
 面倒見て貰っている以上、協力しない訳にもいかず。
 かといって直接触れるのは嫌なので、アタバクが次から次へと落とす連中を、俺は焼却するだけだ。
 実際、柱にへばりつく奴等は固まっているので、集団で熱を持てば装置が危ないだろう。
 それにしてもこの悪魔共、呻くだけで何も云わないし、目的が不明瞭で不穏だ。
『白灰殿、なかなかキリが有りませんな!』
 アタバクが得物の柄頭を一旦床に着け、やや大きく発声した。
 当の白灰は遠くから戻ってきた風で、少し息を切らせている。
「この層に効いてる呪術は元から備わったものだけで、あの有象無象を大量発生させている要因は見当たりませんでした……はあ、いつまで湧くのやら」
 少し具合が悪そうだ、直接戦っている訳でも無いのに、どうしたのだろうか。
 アタバクも俺も、相手のレベルが低いので傷は殆ど負っていない。
 それでもやはりだるさというか、持久戦ならではの疲弊は見えてきた。
「放り込んでいる、というよりも……何処かと繋げているのかなあ」
 背後で呟く白灰を振り返る、先刻以上に顔が青白い。
 足先まで来ていたブロブを蹴飛ばし、駆け寄ってみた。
「大丈夫ですか」
「いや、すいませんね……私、体力がなくて。こんな長期戦は久々なんてもんじゃないですよ、困ったなあ」
 そうだ、動かずとも召喚中は消費してるじゃないか、サマナーというものは。
 今更気付いて、ちらりと彼の仲魔を見た。まあまあ高位の悪魔らしく、それなりの力の発散を感じる。
「あのアタバク仕舞ってもいいですよ、俺一人で暫くやれます」
「ああ……」
「白灰さん、MAGあまり多くない方ですか」
「そう、そうなんですよ……だから火力の高い仲魔についてもらって、すぐに終わるようにしてたんです。こんな状況にならない為にも、見知った場所しか出歩かない様にしてて、その割には見事閉じ込められちゃいましたね。置き去りの話とか……自分で説明していたのに、はは」
「何処かと繋げているって、さっき云ってませんでしたか」
「はい、例えば異界と繋げてあるとすれば、本当にキリが無いかもしれませんからねえ、ちょっと考えさせて欲しい──」
「俺が直接行きますよ、確認しに」
 白灰がどこか疲れた声で笑った。止める風でも無いし、呆れて笑っている訳でもなさそうだ。
 うーん、と軽く唸った後に、懐から管を抜いた。
「アタバクに号令して、一瞬大きく道を作って貰いましょうか。人修羅君の体躯なら、もしかしたら出られるかもしれないし」
「抜けられるのであれば応援呼びます、遮るものが有れば壊すかどうにかしてきます」
「頼もしいねえ、まあ無理はせず」
「そんな言葉、ライドウに掛けられた事無いですよ」
「はは、結局は貴方の自己判断に任せている、だから昨日は敗けちゃったんですよ」
 忘れかけていた傷に塩を塗り込められた感じで、幸先が悪い。
「アタバク、突進で上を開いた後に壁を張りなさい」
『承知!』
 間髪入れずの指令とアタバクの反応に、慌てて昇降機へと戻る。
 どろどろにミキサーされた腐肉が、頭巾を掻い潜り額を濡らす。
 血肉の臭いの方が酷かった気もするが、こういった連中の化学物質が灼ける様な臭いも嫌いだ。
「肩借ります」
 アタバクに一応の許可を得てから、その強肩を踏み台に駆け上がった。
『返せよ小童』
 昇降機の箱(足場)の上に這い乗り、上を見上げた。
 蛮力の壁が、柱の内側に沿って筒状に伸びている。これなら降ってくる悪魔を軽減しつつ、吊り紐を伝って上に行けそうだ。
「壁は十二秒です」
 白灰の声が聴こえたが、既に俺は出口付近まで来ていた
 手水舎が出口であり、地上の陽が見えてくる筈なのに、おかしい、暗い。
(壁が有る!?)
 アタバクの蛮力の壁じゃない、別の何かが蓋する様に張られている。
 試しに片手で殴ってみたが、見事な手応えの無さ。触れてもおらず、割れない油膜のようで気色が悪い。
 それならどうかと焔を吹きつける、すると氷が軋むような音がした。もう一押しと吹き込めば、暗い天に光の筋が入った。
 だが、思ったよりも頑丈だ、亀裂がなかなか拡がらない。
 もう十二秒経つかもしれない、じりじりと圧迫を感じる……薄くなる周囲の壁、ガラスの曇りが晴れるかの様に、泥の悪魔達と目が合った。
「うぅッ、グ……」
 とうとう潰えたか、それこそヘドロの中に投げ込まれた様な状態、息苦しさより熱さが上回る。
 頭巾の隙間から顔にぶちゃりと貼り付いて来たブロブが、呪詛を吐く。それを一瞬吸い込んだが、咽返す様に焔と吐き捨てた。
 僅か口に残った悪魔の残滓を、横にプッと吹き付ける。
「邪魔だ!」
 頭から下にびっしり纏わり付き、じゅうじゅうと肉を焦がしてくる。
 目一杯伸ばした腕先に意識を集中して、この吐き気と景色を遮断する。
 紐が燃えようが、俺が灼けようが構うものか……あの蓋さえ壊してしまえば。
 指先だけ出ていれば何とかなる……
『あと一度だぞ小童』
 聞こえがクリアだ、身体の重みも減った。視線を下ろすと、アタバクが全ての腕を閃かせていた。
 槍から剣から金剛杵から、得物を総動員させて、俺に貼り付いていた残りの悪魔を殺ぎ落とした。
『いいか、儂はそろそろ消える、あと十秒程度しかやれぬでな』
 云い終えるとぐっと構え、八本の腕が左右対称に組まれた。
 壁が再び張られていく、悠長にしていられない、すぐに上に向き直った。
 足元でMAGが飛散し、サマナーの所に還って往く。アタバクを戻した白灰の声が、遠いのに鮮明に聴こえ始めた。
 
 ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの──
 
 マグマアクシスが天を割り、薄暗い陽射しが降り注いだ。
 紐が焼き切れる前に這い昇り、此処が手水舎だと認識出来る場に躍り出た。
 穴だらけになった羽織を脱ぎ捨て、周囲を見渡す。
 まだ気配が有る、たった今まで呪術を執り行っていた匂いが残っている、逃がしてたまるか。
「動くな、動けば此処から撃つ」
 銃は無いが、神経を研げば魔弾モドキは撃てるだろう。
 出任せが効いたのか、気配は離れるのを止めた。
 そろそろと近付く……何も驚きは無い、木陰に隠れて居たのは里の人間らしき男だった。
「さっきまで、何してたか教えて貰えますか」
 間合いを詰め、じっと睨んだ。やや腰が引けていた相手も、この沈黙に落ち着きを取り戻したか睨み返してきた。
「いんや、俺こそ隠れ身で此処を張ってたんだぞ」
「どういう意味です」
「白灰と一緒に閉じ込められてたんだろ?」
 黒い着物に黒い帯、黒い襟巻に口元を埋めた男。どこか見覚えがある様な……
「知っているなら助けてくれても良かったんじゃないですか、俺はともかく白灰さんは同胞でしょう」
「おいあんた、十四代目の八つ当たりに巻き込まれて、今お預け喰らってる真っ最中だよな」
「な……にを」
「あいつ、自分が敗けた腹いせにあんた等を閉じ込めたんだよ、手水舎にシキミの壁張ってさ。見たんだ、あんたが出てきて真っ先に逃げたのは十四代目の方よ」
「そんな……」
「目撃してんのバレたら口封じされちまうから、俺はこうしてコソコソせざるを得なかったワケ」
「そんな訳ないだろ!」
 気付けば男が吹っ飛んでいた。どうやら思い切り殴ってしまったみたいで、右の拳がヒリついている。
 危ない……殺したら色々面倒だし、非常に不快だ。こんな事で人間殺傷の履歴を残したくない。
 仰向けにぐったり伸びている男の顔を覗き込む、やや白目を剥いて足先が痙攣していた。暫く起き上がれないだろうと推測して、俺は手水舎に戻る。
 真偽はともかく、今は白灰を引き上げる方が先だ。暗がりを覗き込み、名前を呼ぶ。
「はーい、無事ですよ無事」
 下方からの安穏とした声が些か呑気に感じ、何故か俺が溜息を吐いた。
 目の前の吊り紐は少し焼けていたが、人間一人分なら十分支えられる太さを残している。
「お疲れでしょうけど、この紐で昇って来て下さい」
 云いつつ紐を揺らそうとした、何故か指先が宙を泳いだ。シュルシュルと蛇の様な動きで、紐は落ちていった。
 鼓動が跳ね上がる、前傾姿勢のままゆっくり背後を見やる……刀で一閃したのだろう、そういった構えのサマナーが立っていた。
「随分と汚い恰好だね、功刀君」
「……ライドウ、あんた何を」
「暫く口を噤んでい給え」
 吊り紐を切り落としたと思えば、俺の脇から手水舎の暗闇に身を乗り出している。
「ひい、ふう、みい、よ……聴こえているかね白灰」
 ライドウの声音から、感情は読めない。こいつの愉しそうな声は、嬉々としているのか憤怒なのか憐憫なのか分からない。
「十まで数えたらまた閉じてしまうよ、いつ、むう、なな……」
「また、って、あんたが塞いだのかよ!」
「やあ、ここの……」
 俺の声なんか完璧に無視して、数え続けるライドウ。
 いよいよ十の手前に来たが、そのまま黙って外套の隙間に指を差し入れる。
 するりと抜いた管を、まるでポイ捨てみたいに闇に放った。
「お返しするよ、上がってくる程度の余力は有るだろう?」
 ライドウの言葉に、何を投げたか察しはついた。これは白灰が居なければ話が進展しないだろう。
 どこか落ち着かない空気に割って入る様に、ヴリトラがぐわりと飛び出して来た。
 その龍に掴まっていた白灰が、一歩退いた俺の傍によろめき降りる。
 頭巾は乱れ、艶の無い白髪が顕わになっている。跪き、表情も見えない。
「白灰さん、大丈夫ですか」
 あまりの疲弊っぷりに、流石に肩を貸す。ヴリトラは既に管に戻ったのか、姿が無い。
 こんな事をしてはライドウが嫌味のひとつでも云うか、はたまた蹴りが飛んでくるかと思ったが、何も無い。
「今夜迎えにあがる。約束通り、それのMAGは補充して返しておくれよ、では」
 それだけ云い残し、鬱蒼とした道を颯爽と歩いて往く。
 霧の向こうで黒猫と合流し、振り返りもしない。どうやら本当に、そのまま帰還する様子だ。
 暫し呆然としていたが、乾いた笑いに意識を呼び戻される。
「は、はは……いや、いいんですよ人修羅君、まさかこうなるとはなあ」
「俺にはさっぱり事情が分からないんですが」
「帰りがてら、話しますよ。大体聴こえてました、耳は良いのでね」
「あの、あっちで伸びてる男は」
「放っておきなさい、シキミの壁で塞いだのは多分そいつ。憶えてません? 昨日、十四代目に喧嘩吹っ掛けたというのは、その彼ですよ。都合良く濡れ衣を着せてしまうつもりだったんでしょう、十四代目に」
 そうなのか……それを聞いて、色んな意味で安堵している俺が居る。
 吊り紐を切ったのは間違いなくライドウだが、直後脱出の手段は与えていたじゃないか。
 流石に、本当に見殺しになんか……しないよな。
 
 
「私がね、十四代目を閉じ込めた事があるんですよ、もう少し幼い頃」
 白灰の台詞は、耳に入ると泥の様に、俺の感覚を鈍らせた。
 相槌の度、口にまだブロブの滓が残っている様な苦みを感じる。
「正確に云えば、閉じ込められた紺野君の見張りをやらされたんです。彼は強いから平気な顔して上がってくるんだけど、第一層でああして、シキミの壁で塞いどくんよね、壁といってもちょっと脆いの、なんせ中途半端な腕の者が集まって練り上げたものですから。でも異界と繋げる術は、まだ使えなかったなあ」
 白灰の歩みが遅い、焦れた俺はとうとう懐に潜り込むと、背に担いだ。
 さして嫌がる素振りもなく、白灰は俺の耳元で内緒話の様に続ける。
「私はまあ、今と大して変わりなかった。無気力で、周囲に倣って適当にそういう事をしていた。でもまあ、いざ閉じ込められてる紺野君を見下ろしたら、色々思いましたよ……それでね、“十数えるまでに壁壊して出られんかったら、師匠を返して貰うかんね”って、投げかけたんです」
 ぞわっとした。白灰はこれまでと同じく、乾いた笑いを含ませて語る。
「そうしたら彼、躍起になってね。初めてそんな姿を見たものだから、驚いた。シキミの壁越しにだって分かるくらいの必死さで、そんな彼は……それは……ああ、言葉にゃ出来んかな。とても後ろ暗い気持ちですがね、私の心臓が速くなったの、あれが初めてでしたよ」
「……どういう気持ちだったんです、貴方は」
「はは、そこ詳しく訊きたいの? 雑な言葉を選びますけど、快感って奴だと思いますよ、近い感情としては」
「結局どうなったんです」
「シキミの壁って、決まった属性でなけりゃ壊れないんです。さっきの壁が火炎弱点だったのは、ありゃ運が良かったとしか云えない。さておきね、昔のソレがどうなったかというと……十以内に壊せなかったんですよ、彼」
「師匠は返して貰ったんですか」
「まさか、そんなの私の勝手、寝言に等しい。里の御上が配属を決めますからね。冷静に考えれば分かるのに、あの時の紺野君はどうも熱くなってしまったみたいで、きっとそれだけ師匠が気に入ってたんでしょ」
 そろそろ白灰の住処だ、このまま上がる事は出来ない、あまりに悪魔で汚れている。
 ちら、と自らを見下ろす、ああ……擬態すらしていなかった。手足に黒い紋様が伸びている、我ながら気持ち悪い。
「息切らして、半殺しにして捕獲した悪魔に術使わせて、ようやっと壁壊して這い出てきた紺野君はね、体中血塗れのまま、綺麗な眼に涙が滲んで」
 そこまで聴いたらもう駄目だった。白灰を縁側に叩きつける様に投げて、俺は庭先に吐いた。
 泥を吐いているのか、血を吐いているのか分からない。もしかしたら、只の胃液なのかも。
「はぁ……はは、いや……それ見たら、流石に可哀想になっちゃいましてね、そんで私、気が狂った様にずうっと数え続けたんですよ、十まで。ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ……目の前に居るのに、居ないみたいでねえ、いや、彼がもうあの時から、私の前に立ってくれていないのかね……ここの、とお、ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とぉ……ひぃ、ふぁ、み、よお、つぃぁ、ま、なね、や、かへな、たヴぉ──」
「うるさいっ!」
「あの時の紺野君も、そう云いましたよ」
「もう……話さなくていいです」
「待って人修羅君、貴方にMAGをあげなければ、さっき十四代目も云っていたでしょ」
「要りません」
「でも約束ですから、ね?」
 吐き捨てた血反吐を、傍の井戸で汲み上げた水で散らした。続けて、自分の脳天に浴びせる。
 そんな禊で落ちきる筈の無い粘液が、痣の様に肌に残った。
 縁側に横たわる白灰を見下ろし、今さっき被った水の様に冷たい声を浴びせる。
「分かりました、補充させてもらいます」
「どうぞ、お好きなだけ」
 許可が下りる前に、身体が動いていた。
 間接的といわず、肌から吸い上げた。白灰の胴を抱き竦め、背骨が軋んだって止めやしない。
 疲弊していた事を知っている、だからこそ吸い上げてやる、骨の髄まで。まだ、奥底に残っている筈だ。
 呻く白灰の、その色素の薄い眼に涙が滲むのを見て、脳天に血が上った。
 白髪を鷲掴み顔を引き寄せ、口に噛みつき、唾液に血が混ざるまで激しく吸った。
 無理矢理開かせた気道から、薄く薄く水で溶いたようなMAGがじわりと立ち昇ってきた、と思った瞬間。
 側頭部に衝撃が奔り、俺はそのまま畳の上に吹っ飛んだ。
 耳鳴りがする頭を振って、蹴り飛ばしてきた張本人をやぶ睨みする。
「それ以上吸うと彼、木乃伊になってしまうけど良いのかい? ククッ……ま、僕は構わぬけど」
 転がっている白灰の襟首を掴むと、ずかずかと土足で屋内に上がるライドウ。
 白灰を籐の椅子に座らせ、腕組みのままじっと見降ろしている。
「……ひぃ、ふぁ、み……よお、つぃぁ、ま、なね、や、かへな……たヴぉ…」
 もはや呪文か睦言の様に、カウントをずっと呟いている白灰。
 ライドウは口角を上げ、何かを彼に吐き捨てるよう呟いた。
「ラ・アザゼル」
 それこそ俺は言語も分からず、理解する事も出来ずに、間に何が交わされたのか知る事も出来ずに。
 それがまるで負け続けの精神を逆撫でされた様で、吸ったばかりのMAGが全身から溢れそうだ。
「さて行こうかね功刀君、外にゴウト童子を待たせてある」
「あんたどうして、どうして俺をこの人に貸したんだ!」
 立ち上がり、俺も土足で歩み寄る。
 ライドウは逆刃で抜刀し、俺の眼前で切っ先を留めた。
「汚れる、近付かないでもらおうか」
「んだとてめえ! じゃあもう二、三発、井戸水被れば良いのか!?」
「此処だよ、汚い」
 角度を変えて刃を水平にされたそれが、俺の唇の隙間に挿し込まれた。
 咄嗟に歯で刃を噛み締め、食い止める。
「く……っひ」
「浅ましいね、彼のMAG保有量が生来少ない事を聞いていなかった?」
「ぅ、ぐッ」
 刃を押し込まれる。唇の端がスウっと裂かれ、血が顎を伝うのが分かった。
 このまま刀を噛み砕こうが、問答無用で折れた切っ先を突っ込まれそうだ。
「あのねぇ功刀君……口から吸えと教えた覚えは無いんだがね!」
「うヴぅあぁッ!」
 激痛に堪らず手が出た。指と掌をまだらに切り裂かれながら、切っ先を押し返す。
 一歩二歩、後退しつつ口元を押さえた。だらだらと血が溢れて、指の隙間から黒い紋様を伝う。
 塞ぐ手からも出血しているだけあって、畳がみるみる赤く染まる。
 荒げた息を整えようとして、自分の血で咽た。胎を抱え背中を丸め、咳き込む痛みを身体が勝手に軽減しようとする。
「平気で他のサマナーの口を吸うなぞ、汚らわしいよ君」
「はっ、ぁ、あぶっ」
 声の近さに身構えたが遅く、呼吸を奪われた。
 今さっき裂いた傷口を確かめるかの様に、ライドウの舌が口腔を撫でて回る。
 柔い肉で抉られる度に、俺の手足が跳ねて震える。身体を押し返そうにも、脚を掛けられ重心が崩された。
 倒れまいと縋れば、一層きつく吸われる。
 熱に浮かされた様な意識の中、ライドウの喉が嚥下に蠢くのが見えた。
(夜が俺の血を飲んでいる……)
 飲み下す音さえ聴こえる様で、耳が熱い。斬られた筈の傷口が今度は疼いて、何故か刺激を欲する。
 制御の為に掛けられたライドウの脚に、もっと此方の脚を食い込ませた。
 舌でライドウの、整然と並ぶ歯列をなぞる。接触の違和感は恐らく刀傷だ。俺の舌は今、蛇みたくなっているらしい。
 ああ……やっぱりこのMAGだ、ほんの少しで身体が歓喜する。紋様の縁が眩く輝くのが自身でも判る。
 この男は、ライドウは判っているのだろうか。俺はあんたのMAGで満ち充ちているんだぞ、こんなに、なあ。
 昂った下肢を擦りつける様に、血と悪魔の残滓に塗れたボトムをギュウギュウ鳴らした。
 もつれ合う内に、背中を畳に打ち付けた。項の突起をぶつけて痛い気がしたが、そんなの一瞬だ。
「随分と……羞恥心が失せているじゃないか、フフ」
 唇をやっと解放し腰に跨るライドウが、いつもの高圧的な眼で俺を見下す。
 が、その仄暗い眼がすっと背後に流れていく。俺も釣られる様に後追いする。
 椅子に座った白灰が、あの薄い笑みを浮かべて俺達を眺めていた。蝋人形の様に生気は無いが、眼だけが爛々として。
「お前の言葉で這い上がって来た訳ではない。僕はずっと、お前に姿を見せているつもりは無い」
 淡々と相手に零すライドウから、熱が逃げていくのが分かった。
 ああこれは、完全に水を差しやがったな白灰。
 何処かいたたまれずに、ライドウの下から這い出る。逃げる様にして庭先に降り、勝手に井戸水を汲み上げた。
 自ら求めた恥が、今更背筋を凍らせる。不穏な心地でライドウを睨めば、奴は赤い唇を舐めずって余裕の哂いを浮かべていた。
 
 
『お主等……一体他人の住処で何をしでかした?』
 敷地外に待機していたゴウトは、ひとつも傷を負っていないが血塗れのライドウを訝しんだ。
 俺がボロボロな事には言及してこない。あの神社で一悶着有ったのだと、勝手な憶測をしているのだろう。
『しかし人修羅、その姿で電車に乗るつもりか?』
 まさか、と云うつもりが、呻き声になった。そうだ、舌が思い切り裂けていたんだ、まだ治癒しないのか。
「僕の昔居た庵に、荷物を置いて御座いますよ童子」
『着替えが有るのなら大丈夫か……それにしても白灰の処で大人しくしていたのかこやつ?』
「借りてきた猫の様でしたよ、ねえ功刀君?」
 返事出来ない事分かってるだろあんた。
『そういえば、宵に迎えに行くと云ってなかったかライドウ』
「大人しいのも時間の問題と思いましてね、いやはや猫は本性を現すのが実に早い」
『それは我に喧嘩を売っているのか?』
 俺にも喧嘩を売っていると思うが。
 しかし俺の中で不服な気持ちと、それと相反する期待が同居していた。
(早く返して欲しかったって云えよ……あのサマナーを木乃伊にして欲しかったって云えよ……)
 隣を歩くデビルサマナーと、目が合う。
「彼の快感は、過去の一件で限定されてしまった。だから春画など貸してあげたのに、やはり駄目だったようだね」
 唐突なライドウの語りに、ゴウトは入って来ない。きっと俺に話しかけていると思って、スルーしている。
 曇り空の背景に、学帽と外套の黒が鮮明だ。たった一日空けただけなのに、懐かしさを覚えている馬鹿な俺。
 思えば、暫く優しくしてくれたサマナーは空気にそのまま解けそうな、どこか空虚な色、気配をしていた。
 ボルテクスで見てきたマネカタを、どこか彷彿とさせる様な。
 それなのにこんな競争社会に生まれたら、確かに流されるだけかもしれない。
 一言くらい礼を云えば良かった、俺は実際お世話になったのだし。
「矢代」
 喉の奥がヒリついた、傷口が開きそうになる。
 傾いた感情を、強制的に直されるような感覚に眩暈がした。
「面白い舌になっていたねえ、今夜それで僕を愉しませてよ」
 まだ血の臭いのする吐息が、俺の耳をくすぐった。
 何を抜かすかと殴ってやりたい所だ、本来は、それなのに。
「ああ、それともこの後、直ぐが良い?」
 当たり前だろ何云ってるんだ、さっきの差し水から数分経ってるんだから、また沸き立ってるに決まってるだろ。
 おかしい、熱のやり場に困るって、こういう事か。
 そうなんだ、俺がどれだけ吸い上げようが哂って立って居られるサマナーでないと、あんたじゃないと俺は……
「そうだね、十数える間に返事してご覧、そうしたら考えてあげる」
 思わず「ああぅ!?」と呻いた。
 だから返事出来ない事分かってるだろ、この鬼畜野郎。
「ハイ、ファ、ミ、ヨ、ツィア、マー、ナーネ、ヤ、カヘナ、タヴォ」
 嬉々として、高らかに読み上げるライドウ。
 数詞の筈が、最早呪文にしか聴こえないそれを、俺は悶々とやり過ごすしかなかった。


-了-


* あとがき *
拍手メッセージにてお薦め頂いた楽曲より連想。
ヒイフウミイヨ…と、和風な歌詞と曲調だったが、数詞より起草し敢えてヘブライ関連に寄せた。
「他サマナーに貸し出される人修羅」というシチュエーションは以前から書いてみたくあったが、それと同時に「ライドウの登場が少ない割に、彼の存在感を出してみたい」という、間接的な干渉を意識した。すると案の定、ライドウの修練した里(このサイトにおける、ヤタガラス機関に侵蝕された葛葉の里)が舞台となり、彼の幼少期にクローズアップしてしまうのであった。
後半人修羅がやたらと積極的、というか最近この傾向が強い、謎。珍しくキスシーンを長々と書いた。


《三×三マスを敷き詰めた三次魔法陣》
ふぁんぶっくに記載されている情報、修験界を意図的に半異界化させているらしい。

《竜脈》
地脈と同義。

《蛮力の壁》
本当にゲーム内でも効果12秒、結界なら15秒。

《シキミの壁》
ふぁんぶっく内小説によると、人の情念から形を成すらしい?

《ラ・アザゼル》

アザセルとは大贖罪日に民の罪を負わせた犠牲のヤギを突き落とした崖のこと。 上品な言い回しの「畜生め」という意味。「レク・ラ,アザゼル」とも言う。 (引用元;http://www.bekkoame.ne.jp/~adontoru/subfiles/slander.html)
しかしアザゼルというのが、崖だったり悪魔だったり概念だったり、宗教家の間でも結構解釈が違う様子。
他にもスラングは色々有ったが、この言葉を選んだのは「アザゼル」という名称が入っていたから。エノク書におけるアザゼルの扱いが「見張り役」であり、作中の白灰と被る 為。それにしてもアザゼルなる名称(単語)くらい「聴いた事がある」と思わないのか矢代は。

《ハイ、ファ、ミ、ヨ、ツィア、マー、ナーネ、ヤ、カヘナ、タヴォ》
日本語の数詞「ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな、やあ、ここの、とう」を訛らせるとヘブライ語の音になる説より。
天の岩屋神話にて天児屋命の祝詞が「ひいふうみいよ…」と始まるが、それをヘブライ語の音と捉え訳すと「誰がその美しいかた(女神)を出すのでしょう。彼女の出ていただくために、いかなる言葉をかけたらいいのでしょう」となる。

タイトル画像にも使用したヘブライ語ver(右から左に向かって読む)だが、発音から単語ごとに並び替えてヘブライ語に訳したものなので、はっきりいって適当。アテにしないで欲しい。
本作中の白灰がうつろに唱え続けるのは、物質的には出てきたライドウが未だに自分の前に現れて居ない感覚に陥っている為。ライドウもそのつもりであった。 “もはや呪文か睦言の様に”というのは、あながち間違いでもなかった事になる。

《“俺の舌は今、蛇みたくなっているらしい。”》
スプリットタン。別の話も含めると、孔という孔に刀を突っ込まれて、大変な男だ。

《師匠》
このサイトではタム・リンの事。ライドウ少年期の話はSS『生死滲出』を読まれたし(所謂モブレとか平気で有るので注意)