「集(あず)」
「真(さ)」
「藍(い)」
真の藍色の集いを、集真藍(あずさい)と云ふ
 


虚色の集真藍



山間の梅雨時は極端だ。夜霧がいつの間にか朝霧へと移ろい、照らされ出すと途端に蒸す。
正午でも外套を羽織る姿に、湯治場の人間は訝しそうに僕を見たのだった。
「なんというか、随分とこれ…業物ですね」
祓って貰ったばかりのひとふりを受け取り、神職を見た。
前の時とは違う人物に、くすりと哂って返す。
「祓うのに苦労されましたか」
「いや、そういう事は無いのですが、貴方の様なお若い方が所有するには、少しばかり違和感が有りまして」
中年の神職は、其処でやや口角を上げた。
恐らく、僕を書生の一角としか捉えていない。
「その幣はもう燃した方が良いですよ」
「えっ?」
「きっとコレに中てられて、穢れている」
それだけ云い残し、拝殿の廊下へと戻る。
神社の周囲を取り囲む紫陽花が、寒々しい。
少し冷たくなってきた風、陽が傾き始めていた。
「葛葉君、久しいですな」
曲がり角、白髪混じりの男性が笑顔で現れる。
「よく僕だと」
「黒い恰好の美丈夫の噂を聞いてな、裏手の家から覗きに来てみたら大当たりですわい」
「息子さんですか」
「そうそう、うちのせがれですわ。粗相は無かったかな?」
「刀に威圧されていましたね」
「んだらあいつにゃ管のお祓いなんか、まだ無理ですな」
あっはは、と笑い、背を反らせた初老の人。
こないだまで、御祓いを執り行っていた神職。
「何にでも、経験というものは必要で御座います。しかし、金銭を納めるにあたっては、それなりの成果が欲しいところ」
「承知してますわ、その刀が濁っていたら、明日また持って来て貰えませんかな?」
「明日、僕がこの辺に居るかも分からぬのに?」
「だって葛葉君、毎回旅館泊まるでしょう?あそこの女将さんがそら毎回の愉しみにしてて…あっはっはぁ〜ッ!」
笑い上戸の宮司。素面でも赤ら顔だが、これでも腕は確かなのだ。
刀の濁りだけを祓い、本来の力を残す。とても望ましい祓い方をしてくれる。
デビルサマナーにとって、呪力は不可欠。全てを清められてしまっては、其処に残るは只の刃物に過ぎない。
「葛葉君の物を祓うと、御幣がすぐ駄目になる。特にアレ、閉じ込め過ぎて拗ねたんか知らないけど、黒ずんだ管とか」
「幣はどうせ川に流すでしょう?」
「川遊びの季節にゃちょいと早い、風邪ひいてまいますわ」
「表舞台から退いて、更にお顔が赤くなられている御様子。少し足から冷やしては如何かと」
「葛葉君はぁ!君もこんな恰好して、熱中症にならんようになされ」
ばしりと背中を叩かれ、揶揄われたというのに更に爆笑していた宮司。
打つと大音響で跳ね返ってくる、気力の無い際には己の鼓膜がダメージを負う。
と、別れ際にだけ、少し貌を暗くして呟いていた宮司。
「身内に不幸がありましてな、二人のせがれの内の片方に継いでもらう事になりまして」
「不幸ですか」
「…“神道を見失った、死に場所探す”って書置きがあって…捜さないでくれ、だと。はは…どうしたもんですかなこりゃ」
見た憶えがある、この宮司の息子は二人。以前、彼等の話し合いの場に、出くわした事が有った。
しかし片方は洋物のスーツ姿、商社勤めの風だった。
「兄貴ん想いを継ぐっつって、下んのが会社も辞めて此処の神職に成ってくれたんですわ。ま、確かに上のせがれは死んだも同然…」
「それはそれは…随分と兄弟想いだ」
「でしょうでしょう、折角土木の会社も立ち上げたってのに、里帰りまでして……だからと云っちゃ何ですが、経験値になってくれんかと思ってね、葛葉君」
「お涙とお情けは別物でしょうに、フフ」
その“兄”という方が、此処を継ぐ予定だったという事か。
世の中は不条理である、調和は無い。
そう、真の中性というものは存在しない。



客室は、上等の処をいつも借りる。
縁側付きの離れ、此処の庭にも深い緑に連なる紫陽花が咲き誇っていた。
先刻祓って貰った刀を、座るまま静かに抜く。
手首を捻り、角度を変えては刀身を眺める。庭の藍色すら映り込まない。
「やはり濁ったままだね」
「あんたなぁ……何処でも抜刀するなよ」
背後からの声に、振り返らず哂った。
「禰宜の実験台にされてしまったよ」
「ネギ?何云ってるかよく分からない」
「御幣の焦げ具合にも気付けていなかった、あれでは相当経験を積まねば駄目だろうね」
「ゴヘイ?」
藤細工の座椅子が軋む音、後ろから立ち上がる気配。
「風呂入ってくる……どうして内風呂無いんだよ、全く…」
「では僕も行こうかな」
「来なくていい」
「此処の露天は初めてだろう?悪魔も賞賛する美肌の湯さ。アルカリ性単純温泉、上の岩肌より流れ落つる滝は、打たせ湯にもなる。其処を塞き止め脇に流せば、湯船の底面も細工・清掃出来る。合理的な形状だ」
「悪魔に湯質の違いなんか分かってたまるかよ」
「では君にもサッパリだろうねえ」
浴衣と帯、手拭いを腕に掛けた君が僕を見下ろし睨む。
刀をカチリと鞘に戻し、縁側に蹲るゴウトの前に置いた。
『荷物番とは、我も軽く見られたものよ』
「粗相は庭の外れでお願いしますね童子、紫陽花の色を変えぬように」
『誰がだ!さっさと身も心も清めてこい!』
腕を引っ込め、怒る黒猫の猫パンチを避ける。
湯浴み道具一式を腕に携え、入口である襖を開けた。
廊下で、壁に凭れて腕組みする人修羅の影。
「待たせておいて、ゴウトさんで遊んでるなよ」
「別に“待て”の命令はしてなかったけど?」
「…ふ、風呂の場所知らないんだよ俺は」
前開き貝釦の、薄いシャツ。短め丈の、麻のズボン。避暑地でそんな姿の人修羅を見ると、僕よりも書生に見える。
アカショウビンの声が遠くに聴こえ、夕暮れ刻の風が軒先の紫陽花を揺らす。
外の飛石に沿って歩けば、それが本館だけでなく、ありとあらゆる箇所に吊るしてある事が把握出来た。
「この集落、紫陽花ばっかだな。どうして軒先にも吊るしてあるんだこれ…」
「魔除けだよ。七夕の時期に紫陽花を切り、家屋の軒下に吊るす。始める日は六の倍数が宜しい」
少し眼を泳がせた人修羅が、歩みは止めずに零した。
「俺、そうしてある家に入れるのか…?」
その声があまりにも不安気だった割に、表情は憤慨と云わんばかりだったので。
僕は、あの宮司の様に背をしならせ、くつくつと哂ってしまった。
「此処の一帯に、一応入れるだろう?そういう事さ」
「やっぱ迷信じゃないかよ、そういうの売っていいのか神社って」
「迷信からの安堵も立派な売り物さ、功刀君」
湯の薫りの方へと歩く君。場所が分からずとも、この辺まで来れば匂いがする。
仇討ちの湯とも知らずに…と、この後の展開を想像したら、また哂えてしまった。





耳が熱い、でもこれは温泉のせいじゃない。
確かに、湯のやわらかさだとか瑞々しい薫りだとか、悪くは無かった。
が、問題は其処じゃない。
「あんた、知ってて黙ってたなライドウ!」
部屋に帰ると、まず開口一番に怒鳴った。
ライドウは相変わらずニヤニヤしていて、謝罪の気は皆無らしい。
縁側で尻尾を揺らすゴウトが、俺に向くため首を捻った。
『仇討ちの湯に行ったのか?潔癖なお主が?他にも種類は在ったというに』
「ライドウが“此処”って示したから…!」
涼しい筈の浴衣なのに、まだ冷めてない。
先刻の事を鮮明に思い出す…

湯に浸かり、水面を眺める。確かにライドウの云った通り、其処の面は綺麗に模様が成っていた。
数種類の石が切り出されて、色味と質感の違いが柄の様に見せているのだ。
溜息して、そろそろ星でも見えてこないかと上を見上げた。
と、妙な灯りに気付く。其処には女性露天の為の、脱衣所の窓が在ったのだった。
それから大急ぎで湯をあがり、帯もぐしゃぐしゃのまま浴衣を纏って、部屋に帰還してきた。

「女性が一方的に男性風呂を覗ける仕組み…それがある風呂を“仇討ちの湯”と呼ぶのさ」
「本っ当に悪趣味だな!」
「おや、全国に点在しているが?僕なぞ毎回の様に此処の女将に覗かれているからね」
「どうして止めなかった上に、あんたも平気で入浴してたんだよ」
「君が気付く瞬間を目撃する為に決まっているではないか」
卑しい眼を細めて、俺を哂うライドウ。
卓袱台をひっくり返したい衝動に駆られ、それでも堪えて立ち上がる。
そうだ、お茶でも呑もう。確か従業員がお茶請けも一緒に置いていった筈…
卓上を見ると、急須、湯呑み……と、皿の上には串一本、他には何も無い。
「此方の五平は問題無いな」
「…あーっ」
少しくぐもった声に、眼を向ければ…ライドウが五平餅に齧りついていた。
明らかに俺の分だ。しかし奴の手にはもう串という残骸しか残っていない。
「あんたなあ…!二本あったんだぞ!?」
「煩いねえ、弱肉強食だろう」
唇の内側に付着したタレをぺろりと赤い舌が撫ぞり、その唇が三日月に吊り上がる。
ライドウの反省の色が皆無で、俺の怒りに油が注がれた。
立ったまま、座椅子にくったりと揺らぐライドウを見下ろし怒鳴る。
「確かに俺は食事の必要無い、けどな、都会でおいそれと食えるもんじゃないんだぞそれ!俺に機会が少ない食い物だ!」
「ああはいはい鎮まり給へ」
「何串振ってんだよ!お祓いか!?そんな棒キレで俺を消せると思うなよ腐れサマナー、先に浄化されるのどう考えてもはあんただ」
「棒キレ?これこそが御幣に似ているからの五平餅ではないか君」
「ゴヘイゴヘイ、意味解らない」
「ああ、確かに語弊を招くかもねえ」
「ゴヘイ招けよ!食堂の売店にも売ってた筈だ、俺の分を買ってきやがれっ!」
既にライドウの云っている言葉の解釈を放棄して、何気に要求までしてしまった。
この男より食い意地は無いと思っていたが…物珍しい御菓子に少し期待しつつ、一風呂浴びたのだ、これはない。
普段詰られるよりも、妙に腹が立った。
『しかしライドウよ、宿周りは調べておくが良いだろう、少し散歩に出る気は無いか』
縁側からのゴウトの声に、串を噛んだまま上下にくらくらさせていたライドウが眼を流す。
「ふむ、そうですね、ではゴウト童子は庭より表に回って下さいませ。畜生の足先では畳を汚してしまう故」
『云われんでも分かっておるわ、その串をさっさと捨てて管を持て』
浴衣帯に緩慢な動作で管を挿すと、ライドウは串を咥えたまま縁側に這いずり寄った。
黒猫と同じ目線にうつ伏せると、くいくいと串を上下させる。
『遊ぶな!』
「おや残念、ねこじゃらしの代用品になるかと思いましたが」
今度は尻尾を振り上げたゴウトだったが、スッと首を捻って避けたライドウは、学帽を改めて被り直す。
「では正面入口にて」
『道草するなよ』
憤慨しつつもゴウトは庭に降り、暗闇に消えていく。
管と小太刀だけのライドウは、立ち尽くす俺の傍を通り過ぎる際に囁いてきた。
「其処の荷物と刀、君が見張っておいてくれ給え」
「…部屋の荷物番は当然だ、あんたの荷物でなければ、もっと清々しく見張れたのにな」
「盗られた物を使い、君に仕置きしてあげる」
「さっさと買って戻れよ」
「誰も買ってきてあげるとは云ってないよ、ではね、功刀君」
浴衣に学帽とか、無茶苦茶だと思ったが、滑稽に見えない。
立ち振る舞いと貌が良ければ許されるのか、この、自身の一般的といえる美的感覚にも苛々する。
襖が閉ざされたのを見送ると、先刻呑み損ねた事を思い出して急須を見下ろした。
本のひとつでも持って来るべきだった…銀楼閣なら、清掃でもして暇が潰せるというのに。
座椅子に再び腰を下ろそうと、屈んで膝に手を置いた。
すると、ざらりと襖が啼いた。
ライドウが何か忘れ物でもしたのかと一瞬考えて、そんな奴では無いと瞬時に取り消す。
横目に見ると、開いたままの襖の隙間、人影があった。
「……あの」
声をかけるが、無反応だ。
というより、明らかに様子もおかしかった。辛うじて和装と判断出来るが、着衣はぐっしょりと濡れそぼり、滴っている。
それと、紫陽花だ。
「部屋、間違えてるんじゃないですか。其処に居られると…部屋、って云うか畳、濡れるんですけど…」
聴こえているのかさえ怪しい。
この突然の来訪者、着衣の襟首からわさりと、赤みの強い紫陽花をいくつか生やしていた。
それが魔除けなのか、ファッションなのか、俺には見当もつかない。
「あのっ、だから…!」
微動だしない来訪者に対して、いよいよ面と向かう事を決意する。
目の前まで来ると、俺より背は少し上の、相貌からして中年の男性。
随分とぶくぶくしている、緩んだ体格。脹らんだ腹に着物が張り付いていた。
「まあっ、床が」
廊下の方から女性の声が聴こえる、此処の従業員だろうか。
気配が近くなり、この部屋の前で止まった。
原因と思われる人物を発見して、立ち止まったのだと俺は思ったが。
「あらあらどうしたんですか、葛葉さんのお連れ様でしたよね…何か零したりしました?」
「この人が――…」
廊下と部屋の間に居る、この濡れ鼠…というより濡れ豚の責任です、と声を出したかった。
でも、従業員の様子がおかしい。いや、従業員がおかしいという訳ではなさそうだ。
「今拭く物お持ちしますから、待ってて下さいまし」
一言も、俺の前に居る人物に関して、発さなかった。
(見えていない…?悪魔か、こいつ。でも見目は人間…覇気も無い…)
しばらくして、雑巾と手拭いを手にした従業員が戻って来る。
あのずぶ濡れの来訪者は、緩慢な動きで襖の脇に避けた。
「申し訳御座いません……実は最近、何故かしら、廊下が濡れたりしてるんですよね……」
「雨漏りでもなくて?」
「上は湿ってないんですよ、廊下とか、いつの間にやら……って、こんな話お客様にするもんじゃなかったですね、女将に怒られちゃいます」
手渡される際、コソコソと喋られて「それでは失礼致します」と襖をするする閉められる。
畳に落ちた水滴を見て、そもそもの原因を見上げた。
のそのそと、彼の裸足の跡は湿っていく。
「やめて下さい、此処は廊下じゃないんです。俺が部屋濡らしたって疑われる」
そのまま縁側に押し出してやろうか考えたが、その必要も無さそうだった。
勝手に縁側に向かうトロトロした仕草に、少し安堵する――
「それは…」
が、撤回。
「駄目ですっ」
縁側に置いたままの刀に、ずんぐりとした身体を前傾姿勢にしつつ手を伸ばす来訪者。
今はゴウトも居ないのだった。あれが奪われては、俺が責任を取らされる。
「勝手に侵入して勝手に盗ったり…!本当に貴方、痛い目見たくなかったらすぐ消えるべきですよ」
刀の柄を持たれている、俺は鞘の端っこを反対側から引っ張っている。
このまま下緒が千切れたら、抜刀されてしまう…
手繰り寄せる様にして、ぶにょりとした指が、柄からどんどん此方の掴む方へと上ってくる。
「だから…っ…」
踏ん縛ると、縁側の床材が軋んだ。
相手の方からも、ぱたぱたと滴りが増す。どこか湯の薫りがした。
その薫りに一瞬思考を奪われた隙、湿った手が俺の指に掛かる。
ぞわりと背筋が震えて、堪らず眼の奥が熱くなった。
「放せって云ってるだろ!!」
至近距離から吼え猛り、きっとこいつは悪魔なのだろうと推測するままに焔を吐いた。
まともに喰らわせたつもりだったのだが、焔が霧散してすぐに相手の顔が見えてくる。
焼け爛れて脱力する相手を蹴飛ばし、庭に放り出す予定が狂った。
刀を通じてMAGの動きを感じる…こいつの周囲に、揺れる波が視える。
「水の壁だよ」
割り込んできた声に、刀を掴む力が増す。自然と俺のMAGが活性化する。
「見てないで…手伝えよ…」
「それにしてもびしょ濡れではないか、水死でもしたのかな?」
暢気に五平餅を食べながら、ライドウが刀の綱引きを観戦している。
「随分と、その刀に興味がある様だ」
「盗られたくなかったら、あんたもコイツ退けろ…!」
「君が焔以外の攻撃で退ければ?もぐもぐ」
「刀から手ぇ外せない!他の魔法は調節出来ない!つまり安穏としたあんたが横槍入れるのが最良だろうがっ」
「確かに、この部屋は僕も気に入ってるしね、君に壊されては飼い主の品性が疑われる」
喰い終えた五平餅の串を、指先でくるりと弄んだ後、相手の手首にずくりと突き立てたライドウ。
腱が切れた一瞬を突いて刀を懐に引き寄せた俺は、尻餅を着いた。
「見回ってたんじゃないのかよライドウ、簡単に侵入されたぞ」
「入れ違いかな?フフ…少し怪談の季節には早いと思うが」
「…幽霊にしちゃ、力あるぞコイツ…」
ライドウから視線を来訪者に戻した。既にアルラウネの茨がそのぶよぶよした四肢を拘束している。
仕事も食事も早いのだ、このデビルサマナーは。
『ヤダ、何だかぶよんぶよんしてて、感触が気色悪いわ』
「お前の薔薇とこいつの紫陽花、どちらが綺麗かな?」
『何云ってるのよライドウ、ワタシの花達に決まっているでしょう?』
「最近薔薇は飽いたかもねぇ」
『もう、意地悪。散らしちゃおうかしら、この紫陽花』
キュ、と更に締め上げる茨に、ニタリと哂いかけるライドウ。
「殺すでないよアルラウネ、まだ観察中だ」
『ワタシの豊満な身体も是非どうぞ』
「それこそ三日目には飽いた」
縁側の床に引きずり倒された来訪者を、しゃがみこんで覘き込んでいる。
割れた浴衣の裾から、その白い肌がちらちら見えて、風呂で全裸だった時よりもいけない感じがする。
「君こそ、下着が見えてるよ功刀君」
最近の俺は、読心の術なら打ち消せる、つまり視線でも読まれたという事だろうか。
体勢を立て直す事より、ライドウの姿に気を削がれていた…という事だろうか、忌々しい。
「刀を死守したんだ、礼くらい云ったらどうだ」
「今日は黒?随分攻撃的な色だね」
「!……あんたの褌なんていつも黒じゃないかよ」
裾を直し慌てて立ち上がると、刀をライドウに放った。
それを片手で掴み取ったライドウは、倒れている来訪者の、肉で埋まりそうな眼の上に掲げる。
呻く水浸しのそいつ、悪魔の啼き声にしては哀愁めいていた。
『悪霊の類か』
「…デプスでしょうか、会話能力は皆無に等しい…デプスは生前の記憶が混濁し、忘却している例が殆どです」
『この辺りの者か?紫陽花なぞ巻き付けおってからに』
ゴウトが紫陽花に歩み寄り、その花に鼻を近付ける。
険しい眼をしたが、それは嫌悪というより疑惑のそれだ。
『臭くないな、むしろ泉水の薫りの様な』
気味悪い、ぶよぶよした肉塊を見下ろしている俺。
不可解そうにしているのが伝わったのか、しゃがんだまま刀を泳がせていたライドウが述べる。
「悪霊デプス、深淵を意味する悪魔。水死した者の末路。この膨張は水死体のそれ。銀氷の壁ではなく水の壁を張る」
「どう違うんだよ」
「《銀氷の壁》は焔を防げないが、《水の壁》は焔を防ぐ術…混同し易い、注意し給え」
頭上に泳ぐ刀に手を伸ばそうとして、アルラウネの茨にそれを阻まれているデプスとやら。
どうしてそんなに、あの刀が気になるのか。
「…湯の薫り」
「温泉でも通り道にあったんじゃないのか」
ライドウの呟きに適当に相槌し、俺は濡れた畳を雑巾で叩くように湿気取りしていた。
宿泊施設でも結局掃除してるのかよ。この後の料理の献立しか、楽しみが無い。
旅館の料理は地産地消、作り手としては気になってしまう。
「随分と……赤い紫陽花だね」
くつくつと哂うライドウに、はっとして怒鳴った。
「そういえばあんた、結局五平餅喰っちまってたじゃないかよ!」





冷え込んでいるのか、朝露に濡れた紫陽花の色も寒々しい。
その、蒼色ばかりの花の波を見ながら、外套を羽織った。
「…まだ、凄く早くないか…朝…?」
「畳を濡らしたお詫びと称し、仇討ちの湯の清掃を請けた」
「……はぁ…俺達の責任じゃないだろ……どうしてそういう妙な所は責任感強いんだよあんた…」
「悪魔の癖に寝惚け眼かい功刀君、しゃんとし給え」
「い゛ッ」
人修羅の臀部を蹴り、廊下に促す。
静かな、まだ蒼い時間帯の渡り廊下は良い雰囲気だ。
灯篭が点々と、幽かに揺らめく。狐火みたいだ。
「清掃って…やり方ちゃんと訊いたのか?」
「脱衣所の方はショボーに任せる」
「結局仲魔任せかよ」
「棚の隅にでも指を滑らせ「埃がまだ拭えていない、使えぬ奴」とでも云ってみて御覧、凄く張り切るからね」
「そんなに向上心高かったか?あの悪魔」
「違うよ、僕に詰られると“テンション”が上がるのさ」
「俺はあの悪魔と違うからな」
先刻蹴られた臀部をさすりつつ、睨んできた人修羅。
ただ、僕としてはそうして睨んでくる相手を詰る方が、それこそテンションが上がるのだが。



仇討ちの湯に到着するなり、湯を塞き止める。
ぴちゃりぴちゃりと滴る薫りに、人修羅が眉を顰めた。記憶に新しい薫りだったからだろう。
「さて、お宝捜しでもするとしようか」
パールヴァティを召喚し、濡れた石の上にひらりと舞い降りさせる。
『干上がってますわよライドウ様』
「良いのだよ、発掘作業するのだから」
『美人の湯…私も浸かりたかったですわ…ほろろ』
泣き真似のパールヴァティに、MAGを送りつつ現場検証を促す。
「浸からずとも充分だろう?」
『まぁ賛美の言葉、でも普段と同じ力しか発揮しませんわよ。殿方の言葉ほど信用ならないものはありませんわ』
「おや?思った通りに述べただけさ、悪魔には美人が多い、ねえ功刀君?」
俺に振るな、と云わんばかりの表情の人修羅。
彼が無言でそっぽを向くと、パールヴァティが指に携えた睡蓮をくるりくるりと弄んで笑う。
その桃色の髪に舞う白きヴェールがぶわりと靡いた瞬間、地表を電流が奔った。
すると、湿った湯船の床に立つ人修羅の足元が、きらりと光った。
『まあ人修羅のちょうど足元に』
「はっ?」
見下ろす素振りの彼に命ずる。
「其処、砕いて」
「はぁ?砕くって…清掃じゃないのかよ」
「清めるという意味では、外れてはおらぬ。ほらさっさとし給えよ、周囲に人間の気配は無い」
「…イッポンダタラにやらせろよ」
「“直し”はダタラにさせる、穿り返すくらい単純な作業なら、君にも出来るだろう?」
カチン、と人修羅の目付きが音を立てる。
ほら云ったろう、詰られると火が点く。モー・ショボーとは違った意味合いだが。
斑紋を巡らせた人修羅が、立っていた底面に拳を叩きつけた。
びきりとひとつ亀裂が奔り、石の層が浮き足立つ。
それを指先でがしゃがしゃと掻き分けると、妙に色の違う地表が覗く。
「なんだ、コレ…」
これは大当たりというものだ。
傍のパールヴァティに哂いかけると、当然といった眼を流してきた。
『それにしても、人修羅のカンが宜しい事』
「そうだね、現場検証は要らなかったかもな」
管にパールヴァティを戻し、止まっていた人修羅の手を蹴る。
「掘り起こして御覧」
「っ……結構…デカイんだけど、何だこれは…」
ザラザラとした質感は、まだ朽ちていない。
麻に包まれた“何か”の一部を完全に露わにさせると、いよいよ人修羅の口元が引き攣り始めた。
既に眼を背け始めている、予感はあるのだろう。
「ほら、呼応してる、肉体と…」
呻き声に顔を上げる人修羅、脱衣所出入り口から一直線によたよたと接近してくるデプス。
「またアイツ…!」
「昨晩逃がしてやったろう?どうやらこの辺が拠点で間違いなかった様子だね」
デプスが執着していた例の刀だが、魔力を札で鎮めておいた。
刀の波動を感じ取れなくなったデプスは、またこの旅館の庭をぐるぐると徘徊していた訳だ。
『ちょっとお〜!折角床掃除したのにビショビショじゃないのよーっ!』
デプスの着物衿をぐいぐい、後ろから引っ張り怒り狂うモー・ショボーもお目見えしたが。
赤い紫陽花の数束をずるりと引き抜く形に終わり、砂利道に転がった。
「其処の掃除も宜しく頼むよ」
指差して哂ってやれば、臀部をさすりつつも早速人修羅にアピールしているショボー。
このマセガキめ。
しかし一方の人修羅は、迫り来るデプスに嫌悪感を露骨に示しつつ、その場から退いていた。
僕の仲魔の状態なぞ、どうだって良いのだ。
「まさか、埋まってた“ソレ”…」
「ねえ、知っている功刀君、紫陽花の色が何に左右されるのかを」
掘り起こされた麻袋のほつれに、跪いて指を伸ばすデプス。
滴る水滴は、此処の薫りと同調していた。
「…知らない」
「アルカリ性質の土壌にて育つ紫陽花は、赤い色に咲く」
此処一帯の紫陽花は、蒼い。
この水死体、もといデプスの身体を土壌として萌え盛る紫陽花達は、赤い色をしている。
そして滴らせている水は、湯の薫り。
「この旅館でアルカリ性単純温泉として湧き出ているのは、この仇討ちの湯だけなのだよ」
「……溺れ死んだ…なら、こんな風に埋まってないよな」
「フフ、そうだね……さて、誰が埋めたのだろうね?」
完全に掘り起こした麻袋の遺体を、ひとまずは庭の紫陽花の茂みに寝かせた。
己の生前の肉体に、縋るように追従してくるデプス。理解しているかはさておき、語りかける。
「少しだけ待っておいで、お前の仇を連れてきてやろう」





ライドウがあの哂いを浮かべる時は、とっておきの事を思いついている。
それが俺にとっては、大抵愉しくない事なのだが。

あの後イッポンダタラに修繕させて、掘り返す前の形に戻された露天風呂。
朝も早いのに、神社に赴いて神職を呼び出すライドウ。
まだ微妙に年若い男性が出てきて、ライドウを見て妙な顔をしていた。
その神職に向かって、ライドウはたった一言。
「行方不明だったお兄様が呼んでおりましたよ」
その一言だけで、一瞬で青ざめていた、紫陽花みたく。
「仇討ちの湯で兄弟水入らず、一風呂浴びようと仰っておりましたよ?」
哂うライドウの外套を揺らして、すぐ横を駆けて行った。
振り返り、その背中を黙って見つめるライドウの眼。驚きも何も無い。
「ほら、大慌てだったろうあの禰宜」
「黒ってか」
「着込む装束は白色だったがね」
「そうだな、あんたの方が服も腹も真っ黒だ」
クク、と哂うと、学帽のつばを軽く指先で掴む。
「どうだい?女性に擬態して仇討ちの湯でも覗くかい?」
「なんで」
「赤い紫陽花咲かせた悪霊に、神職が溺れさせられる瞬間が見れるよ?」
「あんた、帝都の人間を悪魔から助けるのが仕事じゃなかったか」
「おや?不特定多数に不安を与える悪霊を鎮める確実な方法は、この世に残る未練の要因を消してやる事だろう?」
「滅茶苦茶だな…」
このデビルサマナーは、それらしく云うから嫌になる。
一より十を救う事になる、それがデビルサマナー葛葉ライドウの道理なのだ、と哂って云う。
ライドウという仕事を嗤う割には、こういう時だけ利用する。
「あの旅館の改修施工を行なったのは、先刻駆けて往った禰宜の男性だよ。元々は土木建築の会社に居た」
「施工を行なった際に埋めたってか…でもどうして殺したんだ…金目当て?家業の神職の方が儲かるのか?」
「さあね、建築関係の上層ならば金には困窮しない。しかし長い目で見れば、確実に息が続くのは神職ではあるかな」
「結局動機は何なんだよ」
「殺害動機は“兄に成り代わり継ぐ為”さ、その理由まではねえ?本人に訊く他無いだろう。案外他者からすればどうでも良い内容だったりするものさ」
「あんた、あの神職の事気に入らなかったのか」
石畳を歩くライドウの背中に、ぼそりと零した。
小さく振り返る横顔は、今度は少しだけ意外そうだった。
「何故そう思った?」
「…少しでも、その弟とかいうさっきの…神職の事が気に入ってれば、多分あのデプスの方を悪魔として消していた」
「へえ」
ライドウの中で、人間と悪魔の命の重みは、恐らく吊り合っている。
其処が、俺とライドウの決定的な違いなんだ。
「…あの禰宜は、己が目的の為に身内をも手にかけた…それは強い行動の類。だが、その割には刀一振りの曇りを祓う事さえままならぬ…一時の衝動で殺してしまったクチだろう。精神たる志が弱い」
「殺しに志も何もあるかよ」
「あるさ……」
腰からするりと抜いた刀、その鞘に貼った護符をびりりと裂いて、朝の風に流したライドウ。
神社の中だというのに、それを反射的に焼いてしまった俺。
炭化した黒い風が、そのまま脇道の青い紫陽花に降った。
「この刀、あの禰宜が祓った際のMAGがこびり付いていた。だからデプスは匂いに惹かれて部屋を訪れたという訳だ、その記憶だけが鮮明だったのだろう」
「自分を殺した奴のMAGって、悪魔になっても憶えてるのか」
「悪魔になった事が無いので、確証は持てぬけど?」
「嫌味な野郎」
「それにしても朝から動いて疲れてしまった、あの仇討ちの湯は、本物の仇討ちの湯になってしまったし。帝都に戻ってから浴び直さねば」
軽くのびをするライドウ、その仕草には微塵も“人を見殺しにした”という呵責の気配は無い。
神社の鳥居の傍、ゴウトが「早くしろ」という眼で睨んできている。
「きっと今日は水死体騒ぎで賑やかだろうから、この刀の御祓いは別の機会としよう」
デプスに神職を引き合わせたのは誰だよ。
この集落を徘徊していようが、あの悪霊の姿では神社に入れない。
こうして俺達が手引きさえしなければ、此処の神主の息子は両方とも消えなかった。
(こいつのせいだ)
この男の出張というか、小旅行に付き合うとロクな事が無い。
そういう性質なのか、厄介事に巻き込まれ易い。というより、ライドウがそれを目敏く見つけるのだ。

「今度はあの身体に、蒼い紫陽花が咲くと良いね」

哂って云うライドウが、外套を靡かせて鳥居をくぐる。
皮肉なのか、心からの言葉なのか、判らなかった。
いつも哂っているから、どれが本当の笑顔なのか、判らなかった。
「今度来た時に、あの露天風呂の茂みを見ればいいんじゃないのか…」
蒼だけなら、大人しく浄化されたという事になる。
茂みに浅く埋められたあの肉体に、現世の紫陽花が宿るのは恐らくあっという間だ。
永遠にアルカリの湯に溺れる事無く、土に還る筈…
と、そこでライドウがとんでもない事を云い出した。
「今度訪れた際、デプスが増えていたらどうする?」
「なっ、あんたそう成らない様に考えて仕組んだんじゃないのかよ!?」
「どうだろうねえ?フフ…遺体を掘り返した君も共犯者さ功刀君」
「さっきと云ってる事が矛盾するだろ…!」
「これこそ“兄弟水入らず”だろう?あの禰宜の緩い精神力では、此処の仕事は務まらぬ。そして身内殺しの子を持てば、親も宮司は続けられぬだろうからね。この神社の息は永らえたろう?」
「神様に媚売ってんじゃねえよ」
「違うよ功刀君。僕はね、役目も全う出来ないくせに着飾るだけで、場所を奪う…そういう奴が気に喰わない、それだけだ」
殺した筈の兄に殺された弟も悪霊に成っていたら、それこそ洒落にならない。
掘り返した際、あの麻袋を触った感覚がまだ指先に残っている気がして、ズボンの裾で擦る。
おぞましい、見殺しの片棒を担がされてしまったのか、俺は。
「気になるのなら、また次回も連れてきてあげようか?」
「次回っていつだよ」
「そう遠くない、まだ君は悪魔のままだろうさ、安心し給え」
今回も、そういえば何故連れて来られたのか…
いいや、詳しく訊く気にもなれなかったが。
そもそも、今度また来たとして、またデプスを見つけてしまったら…どうすればいい?
消すのか?それでは兄を殺した神職と大差無いじゃないか。
一瞬でも、ライドウが“憐れな死者に仇討ちをさせてやった”のだと、正当化した俺が憎い。
そして、自分の汚点を消したいと思った、この身が汚らわしかった。
「次回も蒼い紫陽花だけである事を、せいぜい祈るが良いさ」
こめかみ辺り、髪を梳く様にさくりと何かを挿される。
軽い感触、色褪せた藍色、乾燥しきった花の薫り。
魔除けの紫陽花を髪に飾られた俺は、その効力のせいか、挿してきたデビルサマナーのせいなのか。
それはそれは、ひどい頭痛がしたのだった。

『お主、何故人修羅を不安がらせるのだ?』
「おや童子、何故その様な事を訊かれるのです」
『どうせ弟の死体は人間達に発見され、謎の溺死という事でしっかりと弔われる…この時点でまず、デプスとなる可能性は低い』
「だって童子、それを教えては人修羅が次に来る可能性も減るでしょうに」
『……ライドウ、お主今回は何の為にアレを連れて来たのだ?』
「勿論、旅先の暇潰し、僕の玩具に御座います」
『………本当に、お主が綺麗なのは見目だけだ』

頭痛のせいか、何か聴こえた気がしたが、もう気のせいで良い。
ライドウと出向く先は、とても血生臭いが、とても鮮明な景色が多い。
平然と人修羅の俺を連れ歩く、あの堂々とした黒い影を追って、あっという間に時間が過ぎる。
人間の頃よりも、ボルテクスの頃よりも。
「こんなの…男に飾るなよ……」
耳を掠める紫陽花を撫で、燃そうかと思い、留まる。
そう、髪まで燃えそうだから止めた、それだけだ。



虚色の集真藍・了
* あとがき*

いつも以上にだらだらしている展開。 小旅行なので、これでいいかという(投げやり)旅先の一場面という感じです…
紫陽花の色素変化は、ミステリネタで使い古されていそうですが、季節的に書きたかったのです。
紫陽花・アルカリ温泉・水死体・御幣をテーマに。
会話が多い割には、比較的砕けた空気。
ライドウはあくまでも情を否定し「気に喰わなかったから」と云う。
人修羅は頑なに巻き込まれた主張をし「ライドウは面白がっているだけ」と思い込もうとする。

タイトルの虚色は虚飾とかけて。
あずさいなのに赤が混じっているイメージで。
紫陽花の花言葉「移り気」「高慢」「あなたは美しいが冷淡だ」「無情」「浮気」「自慢家」「変節」

《禰宜(ねぎ)》
宮司を補佐する者の職称。
人修羅は最初聞いた時、絶対「葱(ネギ)」だと思っている。

《御幣(ごへい)》
神道の祭祀で用いられる幣帛の一種、お祓いの時に振る、白い紙のついたアレ。
人修羅は「五平餅」のゴヘイと混同して、途中混乱している。