街角から、三拍子のリズム。
ダンスホールでも無いというのに、ロマンチックに奏でる小楽隊。
道往く人々が足を止め、白い息を吐きながらも聴き惚れています。
私も、本当はもっと聴いていきたかったのですが、約束が有るので留まる事をしませんでした。
『ちょっと見た? 学生のカップル居たじゃん今』
「まあ呆れた、普通は奏者を見るものでしょうに」
目敏いハイピクシーは、周囲に目撃されないからと不躾にジロジロ眺めて首を捻っています。
『やっばいわね、もうすぐXマスでしょ? 当日もあの調子でしけこむんだきっと、やーらしい』
「下世話ですよ」
『貴女、どうせ今回のイベントも仕事でしょう? フツーは仲良しとプレゼント交換して、ケーキをお腹いっぱい食べるもんよ』
「皆さんがその祝日を安全に過ごせる様に努めるのが葛葉、そういうセオリーです」
『でぇ〜たぁ〜凪のクソ真面目!』
耳元のお節介ばかりが鼓膜に響き、ワルツはだんだんと小さくなってゆきます。
ちらっ、と背後を確認すると、確かに男女の学生が仲睦まじく並んでおりました。
セーラー服の華奢な肩に、そっと外套が掛けられた瞬間。
寒いといけないと思い、男子が施したのでしょう。
私は自らの肩を見下ろしました……
ハイピクシーが腰掛けても、身体をだらりと載せかけても、くたびれもしない強肩です。
「はあ」
『んん〜っ、ホラ溜息なんて吐いちゃって!  寂しいならそう云いなさいよ』
「いえ、一人でも構わないのですが……ただ、ゆっくり演奏を聴いていきたい気持ちが、ややフラッシュバックして」
『ああいう楽器の中に入り込んでさあ、内側から弦を摘まんだり……調律おかしくさせる悪戯すんの、割と面白いのよね〜』
キシシ、と可笑しそうに肩を震わせるハイピクシー。
それはそれは悪戯心が滲み出ており。
肩に何か羽織りをやろうという気には、とてもなれそうにありません。
肩が震える、という同じ動きひとつでも、随分と理由が違ったりするのですね。
「もうっ、そんな事したら駄目ですからね?」
『さっきの中だと、コントラバスの中が広々してそうね。弦引っ掻かれる前に退出しないと、めっちゃ轟音だけど』
「コントラバス? あの巨大バイオリンみたいな楽器ですか?」
『貴女って楽器も疎いのね』
帝都の路は、仲魔とお喋りがし易いです。
槻賀多村の動線は、風の様に流れがほぼ一定で。反して帝都は縦横無尽に入り乱れ、様々な人が行き交います。風上も風下も無い。喧噪の具合も、仲魔との応酬をほどほどに掻き消してくれます。
それにこの時期、Xマスという事で……街並みも華やかに彩られており、各々浮足立っている事でしょう。
「おぅ、嬢ちゃん」
「あっ、風間さん」
景色として流れるばかりの通行人の中、少し空気の違う方を見ました。
ある意味で同業者の、風間刑事です。
この方は少し粗雑ですが、間違いなく帝都を護っている一人と云えます。
ライドウ先輩とも、とても仲が良さそうで……ポリシーが似ているのでしょうか?
「何でぇ、お前さんもあそこに用事かい?」
「はい、ライドウ先輩と約束が有りまして」
「ははぁ……無駄足だったな、不在だぜ」
その台詞に、思わず立ち止まって向こう側の銀楼閣を眺めました。
窓に影が映っているとは限りませんが、思わず凝視します。
「でも、先輩は約束を破る様な方では」
「いやいや、先刻まで俺とダベってたんだがよ、何か唐突に空気と会話し始めたんだわ。そんで一通り喋り終えたら急用が出来たとかっつって、事務所飛び出して行っちまった」
「空気……もしかしたら、仲魔と会話していたのでは」
「かもしれねえが、芝居かもしれねえな? 俺とのお喋りに飽きたから、用事出来たフリでもして――」
「い、いくら先輩でもそんな事は」
「ははは、嬢ちゃん先刻から妙に肩を持つじゃねえのよ。さてはホの字か?」
違う違います違うのです、ニアミスです。
私は先輩を尊敬こそしても、男女の関係になりたいと思う事は有りません。
私が思わず気にしてしまうのは、いつも先輩の隣に居る、あの……
「同じデビルサマナー、葛葉として信頼しているからこその発言です。可笑しなプロセスでは無い筈!」
「ふへっ、悪かったなぁついつい」
「いつ頃戻る等、云われてましたか?」
「いんや、帰って良いとは云われたなぁ。不用心に鍵も渡してくれねぇから、そのまんま俺も出てきた」
聴き捨てならない発言に、思わずにじり寄って問い詰めます。
あの事務所が戸締りもせずにガラ空きな事は、これまでも幾度か有りました。
私にとって重要な事を確認したいのです。
「つまり、功刀さんも居らっしゃらないという事ですか!」
「功刀……ぁあ、あの家政夫の坊ちゃん?居なかったな」
当然、私情ですから。肩ではハイピクシーが呆れたのか、溜息を吐きました。
「先輩に同行して、銀楼閣を後にしたとかでしょうか?」
「ライドウちゃんはずっと一人だったぜ?はは、さては嬢ちゃん……」
「ち、ちちちち違います! No! Wrong!」
「先輩をあの小僧っ子に取られて、ヤキモチかい?」
「違う逆!」
「んぁ?」
いけません、お喋りが過ぎました。
私は会釈すると、逃げる様にして風間刑事から離れました。
あのままでは誘導尋問されかねませんから。
「おい嬢ちゃん!」
「私が事務所の留守を預かります!では急ぎますから、ソーリー!」
銀楼閣のやや重い扉を後ろ手に閉めると、音楽も喧噪も聞こえなくなりました。
階段下を覗きましたが、座布団の上にゴウト様は居りません。
どうやら本当に誰も居ない様子です。
窓から射しこむ陽に照らされた埃が、薄っすらと見えて。
それらが私の入室により舞わされた事だけが、時間の流れを意識させてくれました。
『あっは! ホントに誰も居ない。重要書類とか盗まれたりしないのかねえ?』
「盗られては不味い情報は、物の形にしていないそうですよ」
『ははあ、あのサマナーのやりそうな事ねー』
「それに、鳴海さんが情報整理などのプロセスを……その、どうやら、されないそうですから」
『そういや、此処で見る時いっつもマッチ棒で遊んでるよね、なんつーかもー』
「ふふ、マッチ棒金閣寺ですか? 器用ですよね……私もあの手先が欲しいです」
『凪、あのねえ……』
事務所の扉をそうっと開けると、穏やかな空気が停滞していました。
無人の事務所は、更に広く感じます。外の空気は冷えますが、陽の光が室内を暖めてくれたのでしょう。
先輩達がすぐに戻る事はなさそうですから、私はマットの上でカバーごと靴を脱ぎます。
外履きの上からカバーをして入るというのが、近年の店舗のスタイルです。
しかし事務所は生活空間も兼ねているので、長時間上がり込む際には足袋やソックスでそのままお邪魔します。
『うはっ、見て見て! 噂をすれば何とやら、よ』
「まあっ、綺麗に出来てますね」
『いつもの金閣寺じゃないよね、なんだろ、樹?』
鳴海さんのデスクに、そろりそろりと近付いてみると……
建造物とは少し違った滑らかさのあるオブジェが、広げた掌二枚分程の高さでそびえておりました。
「ツリーですね!」
『ははぁ、Xマスだから?しょっぽいの、モノホンくらい飾りなさいよっつう話だわ』
「先端の赤がモールの様に連なって、なかなか素敵ですよ」
『あのニンゲンに云ってやりなよ、調子乗って年末に向けて角松作り始めるでしょ』
ハイピクシーの予測に、思わず顔を見合わせてうくくく、と肩を揺らします。
いつもに輪をかけ「年末年始は休息日」と椅子に伸び、年越しには麻雀を開始する。
そんな鳴海さんの姿が……脳裏であっという間に展開しました。
『おっ、こっちにはソレっぽいの用意してあるじゃん!どれどれ』
「ちょっと待ちなさい、勝手に触ってはいけませんよ」
『おおっ! 見てみなさいよ凪! 貴女に用意されてたのって、まさかコレじゃないの!?』
半開きの四角い箱は、型崩れし難そうな黒い紙製化粧箱。
ソファ手前のテーブルにぽつりと放置されています。
隙間から中を覗き見ていると、ハイピクシーが痺れを切らして蓋を取っ払ってしまいました。
咎めつつも、気になっていた私はちゃっかり中身を確認します。
「……サイズ的に、靴……でしょうか?」
『あっ、これ絶対かぁわいい! 赤だ! 艶っぽい色、早く出して出して〜』
はしゃぐハイピクシーに反し、私は物の判断しか出来ませんでした。
最初、あまりよく見えなかったのです。
緩衝用でしょうか、ごわごわとした紙が赤を包んでいて……
しかし、そうっと周囲の白を掻き分けると……ハイピクシーの云っていた通り、真っ赤な一部が覗きました。
他人様の物なのに、前もって先輩から頂いていた情報が私の指をそそのかします。

 “少し早いが、プレゼントをあげよう凪君”
 “偶然にも真っ赤な色目をしている、Xマス気分でも盛り上げ給え”

既に触れているではないですか、ああ……もう私が触れた痕跡は残ったかもしれません。
指紋で特定出来ずとも、微量のMAGが表面に香るかもしれない。
「ライドウ先輩……咄嗟に出て行ったのですよね?箱の内容確認の最中に風間さんが訪問されて、そのまま放置されているのかもしれませんね?ね?」
『い、いや知らんケド』
「これは見なかった事にしておくのが、最良のプロセスかと! つまり、きちんと入れ直す為に、一旦取り出すべきかと!」
やってしまいました。
雪の中から宝物を掬い上げたかの様な、そんな気分です。
掲げた靴は、華奢過ぎないヒールが丈夫そうな、それでいてフロントストラップのリボンが愛らしい……
とてもとても、可愛らしい形をしています。
「す……素敵ですっ……!」
『し、しかも凪、これ結構でかいでしょ! 貴女デカ足だから、こんなチャンス滅多に無いわよ!』
ハイピクシーが何気に私のハートを足蹴にしていますが、興奮の所為で否定の言葉も出ません。
息を殺し、気配を読み……銀楼閣の出入口から音がしていないのを確認します。
大丈夫、これが万が一先輩からのプレゼントでなくとも……
ほんの一瞬、試しに足を入れるくらい、許される筈。





「全く、満足に御遣いも出来ぬとは」
嫌味を放てば、打ち返しもせず不貞腐れた眼をして明後日を見ている人修羅。
返ってくる球を、倍の力で再び打ち返すのが僕の趣味だというのに。
薄々勘付いているのか、反応は薄かった。
「君に頼んだのは、十八代目ゲイリンに渡す予定のモノだったのだが」
「はっ? それを早く云えよ」
「何だい、僕が使うモノと思い乱雑に扱ったと? そういう事かな功刀君」
業魔殿で人修羅が暴れ始めたと、イヌガミがキャンキャン鳴きついて来たのだ。
念の為同行させて良かった、人修羅の散歩は犬に任せるに限る。
「あんたが刑事と長話してるから、俺に余計な用事回ってくるんだろ。あんたから渡すモノなら、きっちりあんたが回収に行けよ」
「僕が悪魔と並行して活動するのを、知らないとは云わせないよ」
「あんたの勝手だろう。俺には俺の、居候としての仕事が有るんだよ」
「掃除洗濯炊事よりも何よりも、僕の命令を優先し給え」
具体的な指示に、一寸息を潜めた人修羅……迷いも無く、睨んで来る。
「俺は人として銀楼閣に居るんだ、そんなの不自然だろ」
「只の家事手伝いならば要らぬよ、鳴海所長の怠け癖が増すばかりだからね」
「只の使い魔なら欲しいってか?」
取り繕うかの如く、戦慄を旋律が埋めた。
街角の楽隊からだ、人数の関係だろうが厚みが無い。
奏でるは、恐らくフランツ・レハールの《金と銀》……毒にも薬にもならない、優雅なワルツ。
アコーディオンにコントラバスがメインならば、《ドナウ河の漣》の方が適しているではないか。
「月は霞む 春の夜の――」
「……おい」
「岸辺の桜 風に舞い――」
「何大声で歌ってんだよあんた、しかも曲と合って無い……おい!」
外套を人修羅に引かれ、この場から早急に引き離される僕。
「棹さすささ舟 砕くる月影
 吹く笛さそう 花の波――」
歌い続ける僕を、楽隊の奏者と通行人がじろじろ見つめてくる。
やがて咳払いをし、奏者の一人が演奏を切り上げる。
曲がり角に差し掛かり、見届ける事は出来なかったが……やがて始まった音は《ドナウ河の漣》であった。
「ああ……焦った」
「くくくっ」
「何笑ってんだよ、信じられない事するなあんた。演奏の妨害して愉しいか?」
「リクエストというやつだよ」
「はぁ?」
相変わらず睨まれてはいたが、僕の異常行動を指摘出来ので気分が晴れたか、殺気は消えていた。
ゴウト童子は慣れているので、最早突っ込む事すらせずに先を進んでいる。
銀楼閣の手前にて止まり、早く開けろと尾を振るかと思いきや……
「おや」
「うわ、空き巣か……?」
扉がぐらぐらと、半開きの状態で揺れていた。
激しい開閉に耐えきれなかったのか、蝶番が歪んでいる。
『これ程までに乱暴な侵入だ、悪魔でない限りは目撃者も居ろう。調査すればすぐに割れる』
「そうですね、しかしそろそろゲイリンの十八代目が来る頃と思うのですが」
『おい、中で待っていた可能性があるだろう。侵入者に襲われているかもしれぬぞ!?』
童子が云うなり、飛び込む人修羅。
袴の裾を割れた扉に引っ掻け、びりりと裂きつつ階段を駆けて往った。
そのほつれた藍色を引っ提げた扉を、僕は靴先で軽く蹴りつつ入口を通る。
蝶番の軋みに続き、完全に倒壊した音がバァンと背後から響いた。
『荒らされておるな……泥汚れは無いが、至る所に靴跡が有る』
「MAGの」
『ああ、ぼうっと浮かび上がる様に視える……ライドウ、お主また恨みでも買ったのか?』
「そんなのキリが無いでしょう、それよりも思い当たる事が御座いますので」
事務所を覗き込む。テーブルと椅子は横転し、ソファも大きな擦り傷が残っていた。
僕は靴を脱ぎ、薄足袋の爪先で痕跡を消さぬ様にして、板目を縫い歩く。
鳴海所長の机から、マッチが大量に零れ落ちている。
その傍で、荒れた現場を直して良いのかと……戸惑いの視線を投げてきた人修羅。
僕の代わりに、童子が「ひとまず、そのままで良い」と唱えた。
それでも落ち着かぬのか、僕に今度は詰め寄る。
「凪さん、来てたんじゃないのか……見たろ」
「其処に靴が置かれたままだね」
「じゃあなんで居ないんだ、もしかして連れて行かれた?」
テーブルの脇に、転げ落ちたままの化粧箱が有る。
爪先で引っ繰り返せば白い紙が舞い上がり、中は空だった。
「本当に足癖悪いな」
「では拳が良い?」
「どうして対象が俺になってるんだよ、ところでその箱何なんだ?あの刑事と話してる時に出してたよな……空?」
「フフ……十八代目、やはり靴に攫われたな」
呟いた僕を、妙な眼で捉える人修羅。
僕は爪先に引っ付いた護符達を、脚を振って払い落とした。





影絵のバレリーナが、くるくると草原を駆け廻っております。
日も暮れ始め、遠くの街の灯が、ぽつりぽつりと点り始めるのが見えました。
しかしバレリーナは街から遠ざかるばかり。
舞台など在る筈の無い、僻地の森へと……
『凪っ、起きてッ』
慣れた声にハッとしました、そう、そうですこれは私です。
絵本の様な情景、肉体の疲労。幾重にも成り、思わず意識を手放しそうになりました。
ハイピクシーが一定の距離で惑い続けるのが、流れる景色にチラつきます。
あまり近付くと、私の足が彼女を蹴ろうとするのです。
『ミスっちゃったああもう! 街から離れる前にライドウ捜しに行けば良かったぁ!』
後悔に喚くハイピクシーを見て、私の胸が締め付けられます。
目を離す事も不安だったのでしょう、しかし彼女だけで止められる暴走では無かった。
「はあっ、はあ、い、いいのですっ、一番のミスを犯したのは、私ですっ」
では、誰が私を踊らせ続けているのでしょう?
靴です。
潤みを帯びた、真っ赤な靴。
足を片方入れた瞬間、取り憑かれたかの様に私は……もう片方にも足を入れていたのです。
すると、ストラップであるリボンがするすると私の膝下まで登り、脚絆の上からがっちりと肉まで喰いこんできました。
それからは思い出すも無残です。
調度品を蹴り倒し、知りもしないステップを踏みながら階段を駆け下り、助走をつけて扉にジャンプキックをキめました。
唖然としている通行人をすり抜けつつ踊り、一応自由な手で管を掴もうとしましたが、どうにも上手く掴めません。
当然といえば当然です、ひたすら私は踊り続けているのですから。
そして召喚出来たとしても、今の私を止められるか非常に怪しいです。
魔力を帯びた靴は、殺傷力を伴う拍子で。召喚した端からノックダウンさせてしまう予感がします。
しかも私、蛮力属をここ暫く仲魔に従えておりません。
次の機会に、と後回しを続けた結果がコレです。
『ねえ凪っ、呪いのアイテムなのっ? 解呪の札とかで何とかなるかな!』
「し、しかしっ、すばしこいですっ」
『貴女の足が履いてるのよ!何とかこう、ぐぐっと制止出来ない!?』
「まるで生物の様なのですっ、私達がっ、そういう事を先程から云うと、この靴が――いィッ」
喋らせぬと云わんばかりに、跳ね上がる身体。
思い切り舌を噛みました。社交場でそんな動きはナンセンス、という位の大ジャンプです。
いっそ完全に脱力してしまえば、とも思いましたが。
しゃんとしろと叱咤の如く、足首に巻きついたストラップが電流をこの身に走らせます。
電撃とは違います、恐らくはMAGを刺激されているのです。
びくびくと四肢に糸を巡らされ、それをピンと手繰られたマリオネットの気分。
『ねえいつになったら止まるの! 何処まで行くの!』
「あっ、駄目ですっ」
『だって、怪我してる!』
一瞬接近し、私の身体にディアラマを放ったハイピクシー。
偉いです、まさしくヒットアンドアウェイ。
すぐさま離れてくれたお陰で、キックが彼女を撃墜する事はありませんでした。
ですが、折角の癒しの光はするすると下方へ落ちて往きます。
『げええーっ! 何ソレェ』
「き、吸魔……どうやらっ、骨身になるまでのダンスがセオリーらしい、ですねっ」
普段のブーツならばモノともしないのですが、荒れ野のホールは脹脛を傷付けます。
鬱蒼とした森に入ると、アルラウネでも横たわっていそうな野薔薇のエントランス。
鋭い棘を掻き分ける様にして、花弁を舞い散らしつつ奥へ奥へ。
赤い飛沫は、血なのか薔薇なのか。
『御機嫌は如何かしら、お嬢ちゃん』
と、朦朧とする私の目の前に、本当にアルラウネが居るではないですか。
靴も相手を認識をしたのか、くるくるりと同じ場でターンを始めました。
三半規管を酷使されながら、必死に芳香を辿って首をそらします。
「あ、貴女はっ、先輩のっ」
『んふっ、よく分かったわねぇ。ワタシは棘を伝って生える事が出来るから、こうしてライドウ達よりちょっぴり早く登場出来たワケ』
「せ、先輩達っ、来てくれるプロセスでっ!?」
『そうよぉ、すぐ来るわ。よく知らないけど、その脚を止めれば良いんでしょ?サマナーの手を煩わせないのが仲魔としての務めなの』
野薔薇の渦からひょっこりと上体を覗かせたアルラウネが、私に投げキッスをしました。
途端、足下からザザザ、と乾いた音。
『チクっとするけど、我慢してネ』
今はとにかく、食い込もうが構いません。靴下や脚絆で、普段から浮腫んでいるので見慣れております。
ああ、ようやくダンスも終わり……
『あら』
左右からの蔦を、ワンツースリー・ワンツースリーと避け。
『あららぁ』
前方からはバック・ターンで逃れ、包囲網はヒールスピンで弾いてしまいました。
『凄い、プロみたいねえ』
「感心してないでっ! ファイトォ! ファイトのセオリーですッ!」
蹴り上げる事も無く、地中から伸び迫る棘を躱し続ける靴。
ひらりひらり、終いには一帯をのびやかなジャンプで離脱。
「もう一押しをっ! アルラウネ!」
『既に遠隔操作してるんだから、無茶云っちゃヤーよ』
「ノーッ! そんなぁッ」
『ほら、センパ…じゃなかったライドウが来たわよ』
それを聞いた私は、激しい動きと裏腹に安堵をしました。
先輩が来れば全てが解決されると、甘ったれた心が頭に囁きかけます。
振り向くと同時に、ハイピクシーのはらはらした表情が視界の隅に映りました。
「乱れ髪のパートナーかな、靴しかドレスアップしておらぬ様だね」
「ああっ、先輩っ、この度は無礼をっ、おっ、おお許し下さいっ!」
「っ、フフ、謝罪しながらの刈り蹴りとは、面白い事、するね」
「後でまとめて、謝りますっ! 何とかっ、止まりたいセオリー!」
「稽古の時の数倍、良い動き、凪君もしや、靴の所為にして、本気を出しているのかい?」
「ま、さかっ、ミステイクですっ!」
「とか云って、思い切り蹴りを入れたいのでは?この、横っ面に、さぁ!フフフ」
躱すだけでは捕らえられると踏んだのか、明らかに靴は攻撃態勢です。
それをライドウ先輩が華麗に避けるので、まるで男女のワルツの様。
「さて、どうしたものか」
「先輩っ、荒くて結構! 仲魔の力自慢にて、この凪を羽交い絞めに!」
「違うよ、ソレはね、呪われているから、泳がせるつもりだったのさ」
「お、泳ぎ!? まさかっ、この後っ、寒中水泳のプロセスですかッ」
「人を惑わし己を装着させ、MAGの搾取の為、踊らせながらに神隠しする」
クッ、と顎を引く先輩。私の爪先が学帽をかすめ、ふっと揺らします。
ニタリと哂いながら、間合いから抜けて往きました。
それに吸い寄せられる様にして、この脚が一瞬フラつく……
私の疲弊ではなく、そこはかとない靴の意識を感じます。
MAGに集る蝶の様に探すのですが、触れられようものなら蜂の如し。
愛らしい形をしながら、なんて我儘な靴でしょう。
とにかく私は、これ以上の被害を出さぬ様にしなくては。
「神隠しの瞬間、拝ませておくれよ十八代目」
『はああっ!? まだ踊れって事ぉ?ふざけないでよクズノハライドウ!』
「関わった者数名が、未だ発見されておらぬのでね。しかし靴だけは帰る、不思議だろう?」
『だろう? じゃないっつーの!』
「大丈夫さ、葛葉の仕事に支障が出る様子ならば、寸前で止めてあげる」
『今スグ止めなさいよぉぉ』
ライドウ先輩の帽子の天面を、パスンと叩くハイピクシー。
頼みますから、無礼に無礼を重ねないで下さい。
「良いのですっ、勝手をした私が! けじめを、つけますっ」
ハイピクシーに叫んだこの身は、あらぬ方へと向いており。
様子を窺うかの如きステップは、それでも奥へと進み続けます。
「ねえ凪君、君にはそういう靴に見えたのかい」
間合いには決して入らぬ先輩の声、私が引っ掻き回す葉音を通り抜けて来ます。
私が返事をする前に、更に言葉を繋げていく先輩。
「呪われていると云うより、其れ自体が悪魔といっても過言では無い。君には愛らしいストラップシューズに見えた様子だが、その形は装着者の連想した姿でしか無い」
「あ、悪魔……」
「見る者が皆「いいや、違う形だ」と論じる、それは対面した者の赤い記憶を揺すり、触れた瞬間に情報を読み抜き擬態する為だ」
確かに、触れる直前から既に惹かれていた気がします。
ちらりと覗く赤に、期待と不安を寄せつつ緩衝材を取り除きました。
「対象者の一番好む赤色を纏い。形状をも変化させる……それは対象者が慣れ親しむか、はたまた探し求めし理想の靴の形」
「履いてもらう、為の、プロセスっ?」
「そう、擬態の目的は様々だろう? その靴は“捕食する為”に擬態する悪魔なのだよ。だから一旦誰かの足を咥え込むと、放すまでは形状を固定する」
「私はこのまま、MAGを吸い尽くされてしまうのですかっ」
「過去の目撃証言を纏めると、赤い靴で踊り狂った者は一様にして、この方角へと向かって消えたそうだ」
先輩の云わんとする事が、薄々分かりました。
この靴は、神隠しする場所が決まっているという事です。
もしかすると、自分の主人へ献上する人間を運んでいるのかも……
単独捜査をさせた仲魔が、意気揚々と獲物を捕らえて戻って来る様な、そんなシーンが浮かびます。
小枝や根付とは、だいぶ差が有りますが。
『ねえちょっと! 凪はああやって了解しちゃってるけど、当人のMAGが不足したら面倒でしょ!? 貴方が補助しなさいよ!』
隣を駆けるライドウ先輩と、花弁や葉に塗れた私の間を、ハイピクシーが割って叫びます。
もう悪魔の眼が輝いて見える程、暗い刻限になったのか。森が深さを増したのか。
踊る私の、吐く息が白いです。溶けきらぬ霜が、ズボンに湿って冷たいです。
「契約した悪魔でもあるまい、もう少し接近しなければ送り込むのは難しいね」
『蹴られても殴られてもタッチしなさいよ!』
「フフ……やだねえ、まるで僕が変質者の様ではないか」
『充分オカシイから! 今更だから!』
「ああ、しかしそうだな。面倒だから僕が履いてしまうのも手かな」
何やら今、ライドウ先輩がとんでもない事をさらりと述べていた気が……
嫌な予感がするのです、私に近付いてはなりません。
先輩が私の脚を躱していたあの時にも、この靴が……疼いていた感覚が有ったのです。
「ね、良いだろう凪君。そろそろ疲れてきた頃だろうし? 君の身体にタッチする趣味は無いが、バトンタッチなら構わぬよ」
「だ、駄目です先輩……この靴、次に先輩に近付いたらっ」
「その靴、僕に寄生したがっていただろう? 君には鮮明に声が聴こえた?」
「こ、言葉は分かりません、けどっ、リビドーは流れてきますっ」
「悪魔にリビドーときた、はは」
いけません先輩……今度こそは、この靴も貴方を蹴ろうとはしない筈です。
ライドウ先輩のMAGを軽く吸った赤い革が、舌の様にその脚に巻きつくであろう事が……予測されます。
この靴は、濃密なMAGを欲しているのです。
「おいライドウ! 何もしないなら退けよっ!」
と、私を本当に踊らせる声が森に響きます。
進行方向と反対を向けば、擬態を解いた功刀さんが……
「ああ、功刀さん!」
「凪さん、大丈夫ですか」
「近付いたら駄目ですッ!」
最近二キロ太った私の逞しい脚が、功刀さんの顎にクリーンヒットしました。
泣いても良いでしょうか? 本当はもっと近付いて欲しいし、チークダンスをしたかったのに。
「も、申し訳ありませんっ! こ、この靴がっ、この靴が何でも蹴るので!」
「……みたいですね、それ、悪魔でしょう。何か俺に話しかけてきてますから」
すぐに体勢を立て直し、手の甲で出血を拭う功刀さん。
ああっ……それは私の為に流された血なのですね? 申し訳なさと歓びで、私の胸は騒ぎます。
しかし冷静に考えれば、その鼻血は私が物理的に流させただけです。
「功刀君には鮮明に聴こえるのかい」
「言葉には表せないけど、なんとなく理解は出来る」
「へえ、流石は悪魔」
「だから、なんとなくのレベルって云ってるだろ、人を悪魔呼ばわりするな」
功刀さんは先輩をひと睨みすると次の瞬間、私の間合いギリギリまで詰めてきました。
薔薇の棘を受けながらも、私の傍から離れません。
私の爪先を見るその眼が、美しい金色に輝いておりました。
分かっています。私では無く、靴を見つめているのでしょう。
「……話はつきました」
「何の話ですかっ」
「そいつを俺の足に宿らせます。凪さんは解放された時、しっかり受け身を取って下さい」
「ま、待って下さい! そんな、功刀さんを巻き込む訳にはっ、これは私のミスが」
「ライドウ、あんたは最後までついて来い、分かってるだろうな!」
直後、私の視界が激しくぶれました。
糸の切れたマリオネットの気分です、ガクガクとした四肢が、なかなかいう事を聞いてくれません。
てっきり地面か棘の茂みに倒れ込むものと思ってましたが、黒い絨毯の上に私は突っ伏しています。
この香り、ライドウ先輩の外套です……恐らく、咄嗟に広げてくれたのでしょう。
そのお陰で、顔面に傷を作らずに済みました。
ヨロヨロと上体を起こす私にハイピクシーが飛び寄り、今度こそとディアラマをかけてくれます。
『凪ぃ〜! 良かったぁ……』
「……く、功刀さんと、先輩は……」
『人修羅なら、むっちゃ踊りながらアッチ行っちゃったよ』
本当に、あの靴は功刀さんに寄生したという事です。
取り残された私は、ふがいなさに打ちのめされます。
話がついたというのは、あの瞬間……靴と対話していたのですね、功刀さん。
「い、行かなくては……」
『傷は治っても、MAGが減っちゃってるでしょ! あの連中がまた来てくれるだろうし、待ってたら良いじゃない』
「でも、これで功刀さんに何か有ったら、私は……」
『……アッシー召喚する余力有んの?』
「自分の足で、走ります」
『だって貴女、裸足じゃ……あっ、それそれ、人修羅の履いてた靴じゃない?』
「何処ですか! どっち! 落ちてる? 引っ掛かってる!?」
『ほ、ホラ……そこの』
ハイピクシーの指差す先には、確かに先刻まで功刀さんが履いていた靴が転がっていました。
柔らかい黒色をした、ブーツです。袴にとても合っていて、運動にも適していそうな……
ほら、やはりそうです。色味だけでなく、革も柔らかく上質な……踵はほどほど。
『な、凪……今、結構素早かったね、ディアラマ効いたんだ?』
「気付いたら、既にこの手に」
『走るなら、ソレちょっとだけ拝借しちゃえば? 人修羅と身長殆ど同じだから、足デカい凪なら男性用ぴったりかもよ』
「本当ですね、ジャストフィットです」
『いや、もうちょっと躊躇したら!?』
ばっちり履き終えた私は、外套を掴み森を駆け抜けます。
自由の利く身体は、細枝を折り散らさずに隙間を往く事が出来ます。
しかし踊らされる功刀さんが、今度はあちこちを破壊する羽目になるのでは、と周囲を確認しつつ進めば……
『あれっ、森抜けた?』
「功刀さん!!」
『おわっ、崖じゃん』
緑を抜けた先は、突然の急勾配。見下ろす先には、更なる窪地……というより崖が見えます。
赤い靴のステップで、今まさに暗がりへと跳び込んで往こうとする功刀さん。
あっ、と息を呑んでしまいましたが、私が駆ける余裕も必要も無いのです。
功刀さんの傍には、アルラウネを従えたライドウ先輩が居るのですから。
きっと連携プレーで、引き留める筈……
しかし、私の予想を逸脱した動きを始める先輩。
夕刻の刺す様な西日が、切っ先を閃かせました。





ただ薙ぐ事は、棘で絡め取るよりも容易い。
抜刀し、躊躇いも無く横一文字に斬り払った。
袴の裾を鳥の羽ばたきの様に鳴らしていた人修羅が、ようやくその場に倒れ込んだ。
身体を置き去りに、赤い靴の足先だけが枯れ草を踏み分け舞踏する。
人修羅の斑と一体化したかの様な紐と、フラメンコ靴の様な主張をする踵。
『逃がしちゃっていいの?』
「靴の持ち主を確認せねば」
『ま、あいつすばしこいから。ワタシもそれが助かるわねぇ』
絶壁から飛び降りた靴は、幾つかの出っ張った岩場を蹴りつけ、深い場所へと降りて往く。
僕はアルラウネの蔦を命綱の様に腰に巻かせ、見失うまいと後に続く。
追いついては駄目だ、相手が完全に隠れてしまう。鬼ごっこの醍醐味は知っている。
それに、わざわざ人間をこうして引きずり込むという事は、余程の臆病者に違いない。
「止まれ」
アルラウネに号令をかけ、荒れた岩肌に背を添わす。
吐く息が白いので、じっと呼気を無くした。
僕の視線の先には、ゆっくりと開き始める大地の裂け目が広がっている。
其処から覗くは真赤な沼。陽光を遮る空間で、どろどろと厳かに発光する。
此処まで確認出来た、とりあえずは大丈夫だろう。
「ほら見給え……靴の主を」
『アレは何なの? なんだか口みたい』
「さあね、はっきり是とは断定出来ぬ。しかし人間の装身具を遣う辺り、元々は人間の可能性が有るな……異人と化したか」
足を滑らせ、滑落死した舞踏家だろうか。はたまた赤い靴の少女だろうか。
定かでは無いが、あのような姿となった今では最早知れない。
靴は人修羅の足首を抱えたまま、一際強いステップで裂け目に跳び込む。
途端に大地は閉じ、隆起を繰り返し咀嚼する。
そして、ぷっと隙間から吐き出される靴と骨。
骨は薄っすらと血の赤が滲み、靴はしっとりと艶めいて転がっている。
『ははあ、なるほどねぇ。でもあの靴、どうやってまた人間の手に渡るのよ? こんなトコ寄り付かないでしょ普通』
「この狭さだ、雨が一晩降れば流れる。こうして降りては来たが、此処は南方の川よりも高い位置に在る」
『雨が降ったら川に流されるって? でもその頃には汚くなっちゃってるでしょ、そんなの履く気しないわよワタシだったら』
「あの靴には実体が無いのだから、汚泥に汚れる事は無い。靴を入手した者の動向を辿ると、川の下流に縁の有る者が多い。早朝の散歩や、通勤通学、河原遊び……」
『は〜いはいはい分かったわ、むつかしい話はいいから、人修羅ちゃんの骨拾ってあげたら?』
「そうだね、既に狙いをつけている奴も居る事だし」
すっかり口を閉ざした谷間の主を素通りし、僕は切っ先でしっしと影を追い払う。
相手は巨大なヤモリの形をしており、背は鱗に覆われている。体躯はおよそ二丈……ダ竜だろうか。
それなら合点がいく。おそらく此処で割れ目の吐き出した骨を頂戴し、代わりに雨を降らすのだ。
ダ竜の吐き出す気は雲となり、雨を作るから。
『靴はどうするのよ、放置?』
「また誰かしらに勝手に履かれては困るのでね、其処の“本体”を祓うまでは僕が預かるかな」
『今やっつけちゃわないの』
「葛葉の力は払魔の力だが、祓うのみに過ぎぬよ。専門家を呼び、本来の形を炙り出す」
『あらぁ、イヤに優しいじゃないライドウったら』
「これで消息不明者の一人でも判明すれば、風間刑事から煙草の一本くらいはせびれるだろう?」
骨を外套の衣嚢に納め、靴を片手に崖を登った。
アルラウネに引き上げて貰う形で、上へ上へと舞い戻る。
予測通り、十八代目ゲイリンが人修羅を看ていた。
アルラウネの蔦がしなり、僕を枯野に降ろす。一斉に此方を見る眼は、何かしら云いたそうだ。
「先輩っ」
「……遅い」
しかし両者共、一言二言を発しただけに終わる。
人修羅の袴の裾は赤黒く滲み、一瞬その様な柄物にも錯覚出来る。
凪が仲魔に回復術を唱えさせたと思われるが、その程度では無駄だ。
切断された部位があれば、断面の癒着だけで足りる。
しかし今回、人修羅の足首から先は完全に失せたのだから。
「凪君、もう動くのは辛くないかい」
「は、はい! 御指示を頂けるのでしたら、即アクションのプロセスです!」
「では先ず、蹴散らかした街角に謝罪して廻り給え」
「ううっ……鮮明に憶えているので、思いやられます……」
「憑きもの、ハンチントン病、これらで説明しても尚追求された場合は風間刑事を呼ぶと良い。恐らく月の昇る頃までは、現場を往復する羽目になっているだろうから」
深呼吸した凪が、すっくと立ち上がる。その足に、見覚えのあるブーツが履かれていた。
そうだ、彼女の靴を持って来る事を失念していた。こうなる事が予測出来たというに、しくじった。
「事務所にそのまま置いてあるから、其処で履き替え給え。それと童子が待機している、お叱りはあの方から受けるが筋だろう。僕としては君がきっかけで解決に至ったので、それ程責める気にはならないね」
「……はいっ! では功刀さん、銀楼閣までお借りしますね……申し訳ありません」
少し屈んだ凪が、人修羅に断りつつ掌を差し出している。
女性にしては傷の多いその手から、そっと何かを摘まむ人修羅。
あの外装、確か非ピリン系散剤の鎮痛薬。
「これは?」
「お水が無いので苦いと思いますが、鎮痛効果が有るのです。功刀さんのお身体に効くか分かりませんが……市販されている鎮痛剤ですから、性質に悪影響を及ぼす事は無い筈です!」
「俺は大丈夫ですよ。もう再生も始まっているし、熱で少し痺れているだけです」
「私のせいなのです、どうか受け取って下さい」
承諾しなければ動きそうに無いので、指先に薬包を摘まんだまま静止している後頭部を叩いてやった。
振り返った隙に指先から其れを奪いビリリと破くと、罵倒に開いた口に突っ込んでやる。
咽ながらも嚥下に喉を蠢かす人修羅を脇目に、僕は十八代目ゲイリンへ問い質す。
「君、月経中?」
はっとして、返答に一瞬詰まる彼女。
その肩から、ハイピクシーが大股開きで腕を振るわせ跳ねた。
『ちょっと何その唐突なセクハラァ!』
「君には訊いておらぬよ、小さき淑女。ただ、女人が血を棄てる期間に発する気は、異性の回復能力を低下させるのでね」
『……人修羅の近くに居たら、凪のせいで治癒が遅れるってぇ?』
「さて如何だろうね? さほどの差も無いかもしれぬし、想像以上に遅れるかもしれぬ。記録を細かく取った事が無いからね」
と、僕の説明が終わらぬうちに、ハイピクシーの翅をすいと掴んだ十八代目。
「これ以上の御迷惑をかけぬうちに、現場に向かうプロセス」
「謝罪は早い方が難度が低いからね、こいつを貸そう。森は迂回すると良い、走行には問題の無い平地だ」
胸元の管を抜き、僕はオボログルマを召喚した。
自動的に開く扉を前に、戸惑い気味の十八代目。
僕を素通りして、人修羅を気にかけている。
「功刀君はもう少し診てから運ぶ、とりあえず君だけで向かい給え」
「な!? 俺も乗せろよ」
「自動操縦で町外れまで向かう、任意の場に行きたくば命じれば聞く。好きにドライブすると良いよ、ではね凪君」
「おい無視するなよライドウ、おいっ!」
窓に張り付きそうな勢いで、車窓越しに人修羅を見ている十八代目。
僕は言葉にせず、速度を上げろといわんばかりにオボログルマにMAGを送った。
『で、どうするのかしら? ワタシは人修羅ちゃんの治療に貢献出来ないわよ』
「そうだな、他の奴を召喚するとしよう」
『ね、そういえばライドウにはどういう靴に見えてるの?ソレ』
煩い薔薇を管に仕舞い、妙な詮索はしない犬を召喚した。
大した回復術を具えてはいないが、索敵さえ出来れば構わなかった。



「俺、車が良かったんだけど」
「あれは悪魔な訳だが、君のアイデンティティは傷つかぬのかい」
「あんたの背中よりはマシだな」
「久しいだろう? 感謝し給え」
「あのな、歩行不可にしたのあんただろ? 寧ろ謝罪しろよ」
密着の隙間、学生服と着物を貫通して伝わるMAG。
足首を持ち帰らなかったので、このくらいの施しはしてやっても良い。
両手が塞がる程度、襲撃されようが初動さえ間違わなければ軽く往なせる。
『ライドウ。人修羅ノ事、暴レタカラ、オ仕置キシタノカ?』
「それは業魔殿の話かい? その件での仕置きは、そういえば未だだったね」
イヌガミにそう答えると、背中から「する予定有るのかよ!」と文句が発された。
当然だろう。十八代目に与える為に用意した悪魔と、よりによって喧嘩をしたのだから。
彼女の仲魔となったその悪魔が、思い出話に君の事を語りでもしてみろ。
あれは「人修羅とやりあったんだ」など、自慢気に語る性質の悪魔だ。
感慨深そうに、それに聞き入る十八代目までもが脳裏に浮かぶ。僕にとってあまり芳しい事では無い。
人修羅の事を語る悪魔の血脈が、幾多の合体により彼女の仲魔へと流れ始める事を想像すると、気味が悪くなる。
いっそ女学生の喜びそうな物を雑貨屋で探せば良かった、戦いと無縁の煌びやかで華奢な装飾品などを見繕い……
一般の乙女の様にしていれば良いと、まるで叩きつけるかの様にくれてやるのだ。
「やれやれ、とんだクリスマスプレゼントにしてくれたよ、君は」
「は? 何の話だ。そもそもあんたが凪さんに無理させなけりゃ……」
「僕があのまま彼女を踊らせ続けると思ったのかい? 僕にとって面倒な結果になる事は目に見えている、ゲイリンの先代とも約束が有るしね」
「分かってる! あんたが履く気満々だったじゃないか、だから――……」
僕に負ぶわれる人修羅が、片手に掴む赤い靴にぎりぎりと爪を立てた。
「“切り離せる”俺が履くのが、都合良いだろ……だって、そうでもしなけりゃあんたがこの先動けなくなるのは、俺の身の破滅に繋がるし。凪さんも酷い自己嫌悪をしそうだから」
靴と話した直後の、人修羅の眼を覚えている。
決意を固めた時の色だ。
そうなった時の人修羅が、酷く頑固で堅牢な事を知っている。
散々喧嘩をしてきた僕が、知らぬ訳が無い。
抜刀する僕を見た時、その眼の色は変わらなかった。そうして、金色を見た僕の心は研ぎ澄まされる。
単独で踊り去る足先が、再び君に戻るか否かはさて置いて……
兎に角、この度は綺麗な断面にしてやろうと思ったのだ。
抉る痛みが一瞬で終わる様に、組織が美しく甦る様に。
「しかし功刀君。君がそれこそ躍り出て勝手に履いたのだから、この顛末に苦言を呈されてもね?」
「靴の行先を知りたいだとか、それだってあんたの勝手な好奇心だろ。暫く凪さん踊らせといてよく云えるな」
「情報から既に靴の正体は発覚していた、ヤタガラスが知りたいのはコレの仕組みと本体。警察が知りたいのは、被害者の場所と状態」
「風間刑事に捜査協力を依頼してたのか?」
「Xマスも近い事だ、娑婆の世界でダンスをしたい死刑囚は居ないかと訊ねていた所さ。どうせなら浮かれ気分で果てたいだろう?」
「はぁ……酷いクリスマスプレゼントだな。殆ど実験じゃないかよ、人身御供というか……呆れた」
「フフ、希望者が居れば、という話さ」
森の中を潜り抜ける、いよいよ暗くなった空気に月光が目立つ。
樹木の隙間から射すそれが、赤薔薇や柊の彩度を上げる。
旋風か獣でも通り過ぎた後の如く、蹴散らされた花弁や葉が道を作っており。
潜む妖精達が、その道を往く僕等をジロジロと遠巻きに眺めていた。
「今回、靴を事務所に放置する形となったのは、僕と風間さんの落ち度だね」
「そうだぞ、下手したら鳴海さんが興味示してた可能性だってある」
「しかし業魔殿へ呼ばれる羽目となったのは、君が暴れた所為だ」
「どうしても俺の所為にしたいんだな」
「そのままお返しするよ、いつもの君にね」
己の吐く息が白い、森を抜けると白い埃が大気にちらついていた。
この程度の雪ならば、帽子のつばが受け止めるので睫毛に積もる事は無い。
背中の人修羅も悪魔だ、薄着とて風邪をこじらせる事にはならない。
「……寒くないのか」
「感覚の鈍い君には判らぬかもしれぬが、大した気温では無い。それにオベリスクに比べたら、この先もずっと道は平らで死角も少ない」
「確認した俺が馬鹿だった、余裕あるならもっと速く歩けよ」
「君こそ、また寝ても構わないけれど?」
「あんたの背中で? 誰がだよ」
「どうやらオベリスクの記憶が薄い様だね、君は一戦交えたばかりの相手の背で、呑気にすやすやと――……」
「掘り返さなくていい」
学帽の天面を、掴んだ靴でばすりと叩かれる。
十八代目のハイピクシーと同じ行動をしている事を伝えたならば、君はますます憤慨するだろう。
「しかし、君にしては随分と妖艶な靴になったね」
視界の隅に入る赤色を見て、ふと訊ねる。
「……凪さんが履いてるの見たら、あんな可愛い靴なのに凄い動きが良かったから……ちょっと違和感が有った」
「己が履いた瞬間、彼女と同じ色形は全く浮かばなかったと? 他者が履き、鮮明に具現化した靴を一度見てしまえば、通常はそれが脳裏に強く残る筈だが」
「いや、だからな。 あんなに暴……踊る靴を見てたから、あんたが履きこなす姿を、頭のどこかで思い浮かべていた……のかも」
君が手にしている赤い靴、十八代目が履いていた時と形状が異なる。
それは、薄暗い店内にて揺らすグラスの中の、紅いワインの様な色。
階段を鳴らし響かせ、軟い大地を抉るかの様な、高慢なヒール。
「良い色艶だ、アマラ深界においては迷彩の役割を果たすだろうね……フフ」
「何だよそれ、嬉しくも何ともない」
装着時に伸びていた紐は人修羅の斑紋と一体化し、脚を赤く彩っていた。
袴の裾から覗く肌、黒縁を奔る燐光は赤く美しく。
瀕死の時、僕に縋る君を思い出していた。
踊り去る君の足首を、そのまま再び箱に詰めてしまいたい衝動に駆られた。
それをしなかったのは、靴の住処への好奇心と、蜥蜴の尻尾を天秤にかけた結果だ。
人修羅の足首は、また手に入る機会が有る。
とはいえ、此度は肉を異人にくれてやってしまったので、些か不満は残る。
僕だって食べてみたいというに、目の前であっさりと実行されたのが癪だ。
「あんたがコレを手にしたら、どういう形になるんだろうな」
「僕が崖下から戻って来た際、既に見たろう? 君が履いていた時の形にしか成らぬよ」
「他人のイメージに左右されるなんて、あんたにしては珍しい」
鼻で笑う人修羅に、寧ろ此方が失笑した。
追求しないのか、詰めの甘い奴め。
風間刑事と話し合う際、既に僕はこの靴を目の前にしている。
その時点では、他者のイメージなど介入し得ないだろう?
「出来るだけ人の少ない路、選べよ。野郎に背負って貰ってるの、見られたくない」
「そんなに嫌かい、特等席だよ? まあ……此処で君に大量のMAGを注げば、足先くらい生えるだろうし。マットレスには劣るが、外套を敷けば充分さ」
「嫌な予感しかしないから、銀楼閣までやっぱり背中で良い」
街の灯りが近付いてくると、背中の気配が変質した。
人修羅が擬態術を使い、只の人間の形になったのだろう。
しかし、その術は僕にとってあまり意味を成さない。
それこそイメージが先行する為、僕は擬態中の人修羅を見ようが、常に脳内で斑紋を重ねている。
赤い靴など、吐いて捨てる程この世に存在しており、種類も様々だ。
だが、君は違う。
とりあえず僕は、他の人修羅を目撃してはおらぬし、想像も特にしない。
「鎮痛薬は効いてきたかい?」
「……あまり判らない。それよりもあんたは、もう少しデリカシーを持った方が良いだろ。俺の時代ならセクハラで首が飛ぶぞ」
「君の足首は飛んだね」
「そういうのがデリカシー無いって云うんだ。それにっ、俺は凪さんを追い払う位なら、ちょっとくらい治癒が遅れたって…………おい、何哂ってんだよ」
肉どころか、骨まで断たせている愚かな君。
他の人修羅が存在したとして、果たして同じ事をするだろうか?
こんなにも無鉄砲で、危うい奴もなかなか居ないだろう。
「あんなの出任せだよ」
「はぁ!?」
「ああでも理由をつけなければ、十八代目は君の傍を離れそうになかったからね」
「ふ、ふざけんな。それじゃあ俺が怪我する度に妙に気遣わせるじゃないかよ!」
「咄嗟に君から離れたら月経中だって? それを君が恥じらってどうするのだい。やれやれ、いやらしいねえ」
「悪趣味野郎、やっぱりあんたが踊らされてりゃ良かったんだ、くそっ」
縋らなければ立てぬほど踊り疲れた君に、刃を振り下ろすのも僕であり。
再度ひた走る為、爪先まで生やさせるのも僕であり。
まるで、ボルテクスで君を追っていた頃の様だった。
とてつもない玩具を贈られた、子供の心地だった。
「僕が最初に連想した靴と、ほぼ同じだったよ」
侮蔑を垂れ流す人修羅の息遣いが、一瞬止まる。
僕の言葉を待っている様子の為、そのまま続けてやる。
「靴の化粧箱を開け、真っ直ぐに見たその時から。君が履いていた赤い靴と、殆ど同じ形をしていた」
「……は、それは……嫌だな、俺とあんたの嗜好が近いって?」
「足に融合する悪魔だと直感的に認識した時から、君に一番に履かせたかったのだよ。だから無理矢理履かせるならば、マガツヒや血の赤色に、君が眉を顰めそうな高飛車なヒールが良いと思ってね」
「曰く付きのブツだって知ってたくせに、俺を殺す気かよ」
「僕がパートナーだよ、功刀君。この季節の社交場において、ダンスが流行っている事を知らぬのかい? 二人一組にて踊るXマスだ」
「あんたがパートナーだから不安なんだ」
「しかし君は履いたね、そして誘った。ついて来いと――……」
「誰が誘ったって?」
「靴に主導権を譲らせぬ為に、僕を選んだのだ……フフ」
人修羅の靴を持つ手が震える、だがその腕が大きく動く事も無い。
しがみ付くのも、冷たい地面に落ちるのも嫌なのだろう。
「おいイヌガミ、ライドウを黙らせろよ」
『人修羅ハ、御主人様ジャナイ。ダカラ云ウ事キケナイ』
「お前がこいつの話し相手になってくれるだけでも良いんだ、いつもはじゃれつきまくっている癖に……」
『ダッテ、今ハ人修羅ガジャレツイテルカラ、其処ニハ入レナイゾ』
八つ当たり先の犬にまで煽られ、言葉を失ったのは僕の背中の荷物。
声音が消えるのと裏腹なまでに、密着する心音は加速してゆく。
「俺で黙らせろって事か、分かった。悪魔なんか頼った俺が馬鹿だった」
『ライドウニ乱暴シタラ、人修羅ヲ噛ミ殺スゾ』
「……その前に俺が噛み殺してやる」
悪魔相手の物騒な応酬、最早慣れたものなのだろう。
僕に発するそれよりも、ややハッタリの分量が少ない声色だった。
どうやら、こんな僕でも人間扱いはされているらしい。
「ライドウ」
「何だい、そのまま靴を放って僕の首でも絞めたら如何?」
「……あっちの空、何か居るぞ」
「上空? はて、サンタクロースのソリでは無いのかい」
誘いに乗らぬ僕に苛立っている君、感情の滲むMAGが雪に混じる。
「っ、サンタ信じてるのかよあんたはガキか! もっとマシな言い訳しやがれ」
「君がたった今、サンタが居ると述べたではないか」
「もうサンタとかどうでもいい、っ……俺の……俺の眼を見ろ」
ようやく欲求をくすぐる誘い文句が降ったので、軽く顎を上げ視線を背後に送る。
瞬間、冷たく薄い唇が歪な角度であてがわれ、僕の呼吸を奪った。
上等な牙すら持たぬ癖に、がりがりとこの唇を齧ってくる。
姿勢が祟り、結局僕の鎖骨を掻き抱く君は、外套の襟を崩してくれる始末。
中途半端に吸魔したせいで、無い爪先が疼くのだろう。もぞもぞと蠢かれ、背負う此方に負荷がかかる。
僕は少し前傾姿勢を取り、自らも首を捻って口付けを深くした。
舌先に、君の喘ぎが響く。掴まれた赤い靴が、ふるふると痙攣している……
『ライドウ黙ッタガ、人修羅モ黙ッテルゾ』
イヌガミの言葉に、いよいよ離れようとする人修羅。
だが、僕が今度は逃さない。先刻とは打って変わって戸惑い焦れる舌を、じっとりねめつける。
MAGを伝えれば、君の鼻から甘い声が抜ける。魔力はどの様な状態にあろうが、甘美に違いない。
だが、独りで歩けてしまうのはつまらぬ。程々に、微量の露を与えるのみにしなくては。
『ライドウ、何カ向コウカラ接近シテ来ル』
軽く瞼を上げた人修羅と、一瞬眼が合った。
イヌガミの続報を待ちながらも、噛み合い続ける。
警戒なのか羞恥なのか、間近に光る眼は横に視線を流し、既に僕を見ていない。
『オウンッ、何者カト思ッタラ、オボログルマジャナイカ』
嬉しそうに尾を振り、此処だといわんばかりに遠吠えまで始めるイヌガミ。
恐らくけじめをつけた十八代目が、一旦戻って来たかその辺りだろう。
治癒を遅らせる事よりも、僕が人修羅を運ぶ事の方が……彼女にとっては悩ましいのか。
「ん〜ッ! んんっっ!!」
頭を振り乱し、仰け反り逃げようとする人修羅。
僕を黙らせるのでは無かったのか?
重心を崩し共に倒れ込むと、どちらのものともつかぬ歯が互いの唇を傷付けた。
「痛ッ……ぁ……はぁ、はぁっ……ぁ、んたがしつこい、からっ……」
ふわりと擦り寄って来るイヌガミが、僕の口を舐めようとする。
それをシッと払い除ける人修羅が、袖の影で僕の血を舐めた。
「欲しいの? 欲しくないの? 正直に云わぬ悪い子には、黒いサンタが訪れるのだよ」
「ちょっとは面食らったろ……MAGも吸えたしもう用は無い、さっさと俺から降りろ」
「あれが不意打ちだって? 僕を笑わせたいの?」
間抜けの様に靴を両手にした君が、僕の下から這い出ようとする。
靴は靴としての自負が有るのか、人修羅の手が潜り込もうが無反応。
「草のベッドがお好みかい、丁度赤い靴も有る事だ。しかしその靴に入れられては、プレゼントが今度は運ばれてしまいそうだね」
「退け、退けって云ってるだろ……く、車が来る……凪さんが……!」
「どの容れ物でも良いのなら、此方にプレゼントをあげようか」
散々転げたせいか、人修羅の臀部を撫でると植物の滓がちくちくと指を刺す。
いっそ着衣を剥いでしまえば、滑らかな表皮が吸い付くというに。
皮ごと剥ごうが、君の形は変わらず再生した事を、僕は知っている。
だから迷いもせずに、君の足を斬り離したのだ。
「ひっッ! 何処触ってんだっ馬鹿じゃないのか糞野郎! だから退けって――」
「近頃は丁度良くなってきたろう君……それとも緩くなってきただけ?……クク」
「緩いのはあんたの頭だ!」
ソリの音でも、ベルの音でも非ず。
魔力を食いながら走る車の排気音が、悪魔の君には鮮明に聴こえている筈。
無い足で僕を蹴りつける君、それを見下ろしながら血の香りに酔い痴れる。

君の脱げない血濡れの靴は、赤い靴よりも性質が悪い。
異人に連れて往かれる事も無く、木こりが斧で足を断ってくれる事も無い。
話の最終章で手を止め、繰り返し読むかの様に流転する。
ボルテクスだろうが帝都だろうが、君の足は死の舞踏を止めない。

「銀楼閣に帰ろうか功刀君、足をプレゼントしてあげる」

オボログルマのライトが、舞台照明の如く降り注ぐ。
死の舞踏のパートナーを抱き、僕は立ち上がる。
靴の赤い光沢が、人修羅の手でオーナメントよろしく揺れていた。



-了-


* あとがき *

後書きは後日追加。
後日談も、何処かしらに掲載予定。