初めてといえばそうですね、こんな噺は如何でしょう。
 人は死ねば肉が腐りますから、埋めて土に解かすか、さっさと焼いてしまうに限ります。ただし例外、形をそのまま残す場合もありましてね。例えば屍蝋、乱歩の〈白昼夢〉にも出て来るでしょう、実際には偶然出来上がってしまう事もあるのですよ。そして屍鬼、あれは物の怪の類と認識されておりますが、意図して成せる虚しき人形なのですよ。
 と在る人里に、墓を発く悪魔召喚師が居りました。彼は土葬から間もない、自然に食われておらぬ死体を欲していたのです。其れを如何するかというと、表面的に蘇生させ弄ぶのです。蘇生した彼等はヴェータラや死人憑きとは少々具合が違いましてね、禍津属に近いでしょう。それというのも魂が剥がれ切らぬ死体を使う為、生前特有の自我を僅か残しているのです。発かれるは無縁仏が殆どでした、里にはそういった墓がごろごろと在りましたので。
 さて件の悪魔召喚師ですが、彼の傍らには常に美しい女性が付き従って居りました。どこか湿った黒髪をひとつに束ね、右の肩から胸元へ垂らして。唐桟縞の着物は奥深い紫紺。幾重にも巻かれた半幅帯は随分適当な始末、しかし両面色違いの黒と白が、乱雑な結び目により却って活き活きと見えたものです。
 さて御察しの通り彼女は屍鬼であり、しかも其の死人狂いの召喚師にわざわざ殺された≠ニは、もっぱらの噂。彼女が喋る姿を見た者は居らず、かといって問い質す好奇心は誰も彼もが殺しておりました。死人狂いは非常に悪辣で、関われば最後という空気がそうさせていたのでしょう。
 ところが隙を狙い、彼女に近付く者も居りました。彼女は常に添う訳でなく、ほんの時折、独りで居る事も有ったのです。それは決まって薄曇り、路から外れた湿地、彼方此方にアヤメの花咲く処。其処で何をするでもなく、ただぽつんと佇んでいるのを、幾度も目にして居りました。ひとつ声を掛けようが、彼女は肩を揺らす事さえ無く。真横に立とうが、視線を寄越す事も無く。その濁った眼の先は、ゆらゆらと紫の波間を遊泳しておりました。
 それでも懲りず、見かける度に挨拶をしました。植物に語り掛ける庭師が如く、はなから返事など期待しなければ良いのですから。そうしてとうとう、彼女から口を開いたのです。それは挨拶の返事ではありませんでしたが、真っ直ぐに少年へと向かって来たのです。ええ、少年というのは近付いた者≠指します。彼は好奇心のままに彼女を口説き続けました、植物が突然変異した様な興奮でも覚えていたのでしょう、時間が許す限り、独り言の雨を降らせました。そして、彼女の主人である悪魔召喚師の気配を察すれば、別れの挨拶をして去るのです。そんな調子ですから数日、または週間越しの逢瀬となる訳ですが、それは余計に瑞々しく相手を彩ります。枯れた花が甦るかの様に、彼女は明らかに人間であった事≠思い出し始めていました。しかし何かを伝えようとも、その紫の唇から紡がれるのはふにゃふにゃとした音ばかり、まるで赤子の喃語。それもその筈、彼女には歯が有りませんでした。ぼそぼそと小さく啼く口許からは判らず、接吻をかわした時に其れが判明しました。以前と違い、近付いても離れないのを好い事に、少年から唇を吸ったのです。
 屍鬼の彼女は若々しい容貌ではありますが、死んだ時には大人の身体だったのでしょう。一方の少年は、未だ十を過ぎた程度の齢。彼から舌を挿し込むには、少しばかり背伸びが必要でありました。屍鬼の舌や、上顎、裸の歯茎、それらを吸えばじっとりと味がします。腐乱寸前の果実の様な、麹の様な、一癖も二癖もある味わいで。どこか不自然な甘みの中に、苦さを含んでいるのです。まるでサッカリンの様に味蕾を刺激しました、あの安っぽい、一瞬の火花の如し人工甘味。里にて配布される駄菓子の五割は、其れをよく含んでおりました。
 そんな甘さを哂いつつも戯れは日毎増し、花の枯れ落ちる冬になろうとも彼女は現れました。屍鬼の代謝も無い肉体は、完全に時を止められた静物であり生物とはかけ離れた仕組みであります。相変わらず歯の無い口が、喉と舌の紡ぐ音をはらはらと零します。少年はその日、彼女の頭≠読むつもりでした。悪魔召喚師の卵ですから、そういった術に秀でる属を心得ており、一体のみ連れ出していたのです。合図すれば、裏の雑木林に潜ませておいたオキクムシが、ずるずると這い出て参ります。里で捕縄術を教える御上の屋敷から、こっそり拝借した悪魔です。屍鬼に負けないくらいオキクムシも青褪めた肌をしておりますが、ひとつ背を撫ぞれば愉悦の吐息を漏らしました。後ろに結わえられた両腕を掴み、其の耳元で読心セヨ≠ニ命じます。MAGと引き換えに屍鬼の中身が、一気になだれ込んできます。

 ──低い視点……幼い頃だろうか、アヤメの咲く庭が見える、家族との花見、海老茶色の制服、教師への淡い恋慕、学友と喫茶で談笑、女学院の卒業式、お見合い、花嫁修業、またお見合い、教師の写真、大荷物を抱え電車、無人の駅舎、悪魔に引き摺られ、暗がりにて人影に覆い被さられ……──暗転、よく分からない、アヤメの花、息が詰まる、頬を殴られ、革鞄が弾かれ開き、パーラーの真っ赤な苺のロール、喫茶の弾けるソーダ水、怒張するそれがヒダを割り、黒いカラスが私の死肉を、嗚呼先生、私お見合いなどはしたくないのです£mらぬ男に花を散らされたくなんか、花、凄い桜吹雪、ねえお母さんお弁当はどんなおかずなの、味がしない、色もしない、これはなんなの、死肉なの、私の肉なの、私まだ身体そのままなの、死んで居ない、この通りよ、ねえどういう事、死んだから大丈夫よね、中に出されてしまったの私、実らないよね、中に人間出来ないよね、ねえ大丈夫と云って、生きてないよね私、アヤメの花、息が詰まる、あの花枯れた様で生きているの、冬のあいだ地中でずっと、生きているの、この中にもずっと、そんなのいけない、許せない、早く殺して、死ななきゃ、殺して、君、殺して、死ななきゃ、死ななきゃ実ってしまうの、君、ねえ君、先生、先生と同じ名前なの、自己紹介してくれたでしょう、入学したその日に僕が担任ですって、君、里で葛葉になる為の修行してるって、君、偶然でもいいから、どうにかして、どうにでもして、どうして先生来てくれなかったの、嗚呼、アヤメの花、息が詰まる、味がしない、違う……僕は貴女ではない、その教師でもない、此処はヤタガラスの住処、僕は──

 少年はオキクムシを軽く叩き、読心を止めました。此れ以上覗いては、己ごと殺してしまいそうでした。人間を深く覗くのは初めてでしたから、流石に血の気が引いたのです。その日は別れを告げ、そうして暫く逢いませんでした。彼女が犯される瞬間も、殺される瞬間も、鮮明に灼きついて離れないのです。それもそうでしょう、彼女の視点そのものですから、読み手のつもりで同調し過ぎると心が死ぬのです。ただし、噂の真相ははっきりとしました、あの女性を屍鬼へと貶めたのは、墓発きの悪魔召喚師に違いありませんでした。
 樹々の燃えたつ紅葉が過ぎ、白い絽をかけたように雪が漂白し、やがてアヤメの咲く時期が巡って参りました。少年がいつもの場所に向かってみれば、ちょうど彼女が居りました。ちょうども何も、少年は知っておりました、彼女の主が終日不在である事を。悪魔召喚師の派遣された現場は紅蓮属が多く、彼女を連れて行く事は無いと踏んでいたのです。少年は其れはアヤメ科だけれどカキツバタ、貴女の家に咲いてたものがアヤメ≠ニ声を掛けてから、屍鬼の冷たい手を引きました。そうして彼女を、本当のアヤメが咲く一帯へと連れて往きました。里周辺で括っても、かなり辺鄙な森の中に在ります。あの悪魔召喚師の知らぬ土地でしょうから、当然彼女にとっても未知の花畑という事です。カキツバタとは趣の異なる紫が、五月雨の名残できらきらと輝いていている其れを、如何なる光景と受け止めたか定かではありませんが、彼女はじいっと花絨毯を眺め続け、手はぎゅうっと少年を握り返しておりました。彼女の血の通わぬ指が、掌を這いくすぐってくる。どこか甘美な痺れが脳天から爪先まで満遍なく駆け巡り、少年は一瞬手を引っ込め思わず彼女を睨みました。が、屍鬼の乾いた眼はどこへやら、そばのアヤメの様に潤み輝いていたのです、たった今まで泣いていたかの様に。
 まじまじと見てしまったが最後、少年は彼女の唇に噛みつきながら、湿った黒髪に己の指を挿し梳いておりました。寒々とした甘さが喉を灼き、薄く漏れる喘ぎは耳鳴りの様で。死体といえども若き肢体、其処へ跨り見下ろせば、恍惚というが相応しい疼きを感じました。しかし同時に吐気を催します、なにせ相手はこうして殺された女人なのですから。着物を開き胸を揉めば、内部で何かもろもろと崩れる感触が。しかし彼女は痛そうな顔ひとつせず、次第に積極性を以て四肢を絡ませてきます。たった一年近く離れていただけというに、ひたりと身を寄せ合えば、少年の背丈が上となっておりました。今、読心すれば何が聴けるか、大体察しはつきます。興味本位の快楽と引換えとあれば、誰かの代役を務めるのも悪くは無い。少年はただただ、そう考えながら屍鬼を抱きました。彼女の眼の奥に、恐怖が無い事だけを確かめながら、ぬかるみに腰を埋めてゆくと、想像以上に中は冷たく、それが何処か可笑しくて虚しくて、揺さぶりながら笑いました。彼女の胸下を指先で愛撫してみれば、表皮が果物の薄皮よろしく捲れてしまうのです、帯の締め上げで劣化していたのでしょう。主の悪魔召喚師であれば修復出来たのかもしれませんが、元々治す予定もありません。綻びは綻びのまま、その破れにくちづけ舐めて、上気もせぬ仄白い躰を味わいました。崩れながらも抱き締めて来る彼女、其の表情が色めくのを初めて見ました。歯の無い唇が弧を描きぽっかりと開いている、声も無く微笑む死体の美しさといったら。そう、少年は彼女の心を読み、生きていた頃の景色を眺め、ようやく相手を死人と認識出来たのです。悪魔に読心させてから一時距離を置いたのは引き摺り込まれぬ為、そう、己も死んでしまうかもしれぬと警戒したのです。生死両面併せ持つ存在に憐憫を感じていたのでしょう、同時に安らぎや憧れを。
 行為を終えた少年はアヤメを一輪だけ手折り、衿をあわせた屍鬼の胸元に捧げました。両手の指先で花を確かめる彼女は、どこか静謐な宗教画の様です。自らは着物を正すと屍鬼を抱き上げ、少し歩いたところに在る渓流へと其れを運びます。ごつごつとした岩波の狭間に屍鬼を寝かせた少年は、一旦姿を眩ませ、戻る頃には紅蓮属を従えておりました。悪魔の程度は二の次で、焔が出せればそれで良かったのです。しかし気の利くウコバクは、岩を幾つか崩した簡易的な炉を用意してくれました。少年は報酬であるMAGをはづむと悪魔に約束し、件の彼女を炉の中に腰掛けさせます。まるまる二人は流石に入れぬ空間で、彼女も些か窮屈そうです。少年は胴の半ばまでしか侵入出来ない為、四つ這いのまま別れの挨拶を交わしました。されるがままの屍鬼はじいっと少年を見つめるばかりでしたが、その唇がひとつ言葉を紡いだが最後、ゆっくりと瞼を下ろしました。
 ウコバクの火は轟轟と盛り、眺めているだけでも肌が熱される心地です。岩の隙間から零れる煙は不思議と香木の様な甘い薫りで、最後に吸った味を思い起こさせます。すっかり焼けた屍鬼は、しっかり人間と同じ残骸に成りました。当然、主である悪魔召喚師は愛玩対象を捜しましたが、少年はずうっと秘密にしたまま。やがて墓発き以外の悪行が露見した召喚師は、里を追放されたのでした。



「斯くして少年の初めて≠ヘ、骨と化したので御座います」
 今の話は、本当にあった事なのか、それともこいつの作り話か?
「鳴海さんの番ですよ」
「ああはいはい……はい、っと」
 どうしてこんな流れになったんだ、初体験がいつとか誰とか、そんな下らない話題。
 まあ、麻雀やってる最中に、真面目な話なんざする筈もないが。
「ツモ、一万二千」
 流れる様に上がったライドウを見ても、何も思わなかった。既に点数計算が開始されていても、俺が気になるのは先刻の話だ。
「あのさあ」
「無い袖は振れないとでも?」
「そうじゃなくて、いや金は無いんだけどさ」
「フフ、この場は煙草で勘弁してあげましょう」
「おおライドウ様の慈悲に感謝します」
 雀卓の上に滑らせる、四角は四角でも煙草の箱を。俺からはピース、風間刑事からは八千代だ。
「おい鳴海サンよぉ、開封済みじゃ割に合わんだろうが」
「まだ二本くらいしか吸ってないって、確か」
「ケッ、何とか云ってやれやライドウちゃん」
 薄っすら哂うライドウは、ピースの箱から一本取り出すと其れを咥え、卓に片肘ついたまま俺を見詰めた。
 上下にひょこひょこと、まるで手招きの様に揺れる煙草に急かされる。俺は「はいはい只今ぁ!」と机に向かい、小さな金閣寺から差し支えない一本を引き抜き、近くに詰んであるマッチの空箱に擦った。そうしてライドウの脇から颯爽と火を差し出し、着火させて頂いた。
「有難う御座います、鳴海所長」
 礼とは裏腹な紫煙を吹きかけられ、咽る俺を風間刑事はゲラゲラ笑っていた。
「丁度切らしておりましたので、お金より都合が良いくらいですよ」
 と、懐から何かを取り出すライドウ。卓上にトン、と置かれたそれは妙に快活な音を弾ませた。
 笑いを引っ込めた風間刑事。俺と同じく、そのブツに嫌な汗を滲ませているに違いない。
「正確には煙草が入っていない≠セけなのですがね」
「んん、ああ、そうなのか、へえ……」
 その見せ付けるかの様な調子に乗ってたまるかと、俺は元の席に着いて牌を片付け始めた。
 おかしい、凄く気になるのに、訊いてはいけない気がする。
「では僕はこの辺で」
 たった今出したばかりの《アイリス》のブリキ缶箱を、再び懐にしまうライドウ。戦利品の紙箱ふたつを一掴みにし、外套の内ポケットに放り込んでいる。向こうのソファで寝ていた筈のゴウトは、いつの間にかすぐ其処に居て、ニャウニャウとライドウをせっついては尾を立てる。
「先に僕の用事ですよ」
 俺でも風間刑事でもなく、今のは恐らく黒猫に投げた言葉だ。こいつの独り言というのは、大体人間以外に向く。
 そう、人間以外……
「まだお二人で続けます? 何なら一体お貸ししましょうか、多い方が愉しいでしょう?」
「ああ〜やだやだ、俺ぁ雀牌がヒュンヒュン宙を滑ってんのぁ気味悪くて、もう懲り懲りだかんな」
「手元だけ見ていれば宜しい」
「おいおい自分んトコだけ見てたら、敗けるだろうがよ」
「成程、いつも手元だけ見ていたという事で」
 風間刑事がこらッ≠ニ片手を振り上げる。さっと躱して哂うライドウは、黒猫と共に事務所から出て行った。
 一気に静まり返る部屋、ポケットを探ったが何も無い。そうだ、たった今くれてやったじゃないか、ピースを箱ごと。
「おい鳴海サンよ」
「えっ何、さっきのライドウの話どう思うとか、そういう?」
「それしかねえだろ……おい備蓄は無いんか、煙草」
「善良な帝都民から巻き上げちゃイケナイでしょーが。というよりね、そもそも無いんだなぁ、ハハッ」
 煙で一服する事は出来ないので、代わりに珈琲を淹れてやる。
「あの煙草缶、アイリスだったな」
 まだ熱いだろうに、ごくごくと一息で飲み干した風間刑事が、カップをサイドテーブルに置いて呟いた。
「ねえ風間さんはアイリスの缶にデザインされてる花、あれアヤメだと思う? カキツバタだと思う? それとも他のアヤメ科の花?」
「知らん、そもそも何度か模様替えしてるだろああいうのは。どれでも良い様にアイリスって名称にしてるんじゃねえか?」
「おっ、風間さんにしては柔軟な発想してるねえ!」
 またまたこらッ≠ニ、口だけで吼える風間刑事。ぐちぐち云い出すものかと思いきや、鼻頭を何度か親指で掻いて溜息に繋げた。
「数日前、訊かれたんだよ、あいつに」
「ライドウに? 何をさ」
「桜爛女学院卒業して間も無く、行方不明になった娘は居ないか≠チてな」
「……へぇ」
「こちらとしちゃ納得いかねえが、あいつの調査能力に頼れるモンなら頼りたいさ、それで捜し人が見つかってくれるなら一番よ。だから職場帰って調べたんでぇ、そんで該当者が居た。どうもその女学生さん、在学中の担任にホの字だったみたいでな、つうかデキてたっつう噂も有ってよ。聴取した記録も残ってたわ……その、紺野っつう男性教師を」
「それはその、ライドウに伝えた?」
「伝えちまったんだよなァ」
 何故か懺悔の如く白状する風間刑事に、俺も釣られて動揺した。もはや何から何までそのままじゃないか。つまり小噺の中の少年とは、恐らく……
「こちとら視える$l間じゃねぇけど鼻は利くぜ。あの缶の中はやばい、アレを出された瞬間に、さっき聴いてた話の中の映像が浮かんだんだよ……何云ってんだか手前でも意味不明だが」
「いいや解かるよ風間さん、具体的に云うと《屍鬼の頭の中》だろう? 話聴いてた時はあのくだりだけ何処かぼんやりしてて、それこそライドウもあっさり説明していた気がするんだが、なんでだか今見えた≠だよ、俺も」
「……俺はよ、念の為に、件の行方不明者の家に訪問したんだぜお変わり無いか、何かソッチで進展は有ったか≠チて。結局娘さんは見つかっちゃいねえんだが、それより今、気付いちまった。あの家の庭に、咲いてたんだよ!」
 みなまで云わずとも理解した、恐らく同じ光景を俺も見た。裕福な家なんだろう、立派な庭園にわざわざ植えたであろうアヤメが、紫の帯を作っていた。連なって様々な色彩が、感情が、思い出が、たった十数年分だけともいえるそれ等が、走馬灯の様に。
「しかしライドウは何故今になって調べてるのかね」
「ようやく手が空いたとかじゃねえの? ここ最近化け物騒ぎが続いてたろう、アポリヲンとかよ……いや警察部だって忙しかったからな?」
「はいはい疑っちゃいないよ、いつも御苦労様です」
「ケッ、白々しい……それじゃあ俺もお暇すっかね。此処での用事はとっくに済んでたんだよなあ、油売っちまったい」
「そういや風間さんの初体験っていつなのさ」
「んなモン機密事項に決まってるだろが」
「えぇ、この話題最初に振ったのアンタだろう。俺もライドウも話したのに、そりゃないよ」
 珈琲の礼だけ云うと、さっさと帰った刑事。
 独り残された俺は、ソファで横になるとゆっくり瞼を下ろした、なにやらどっと疲れた。
 
 ……あのアイリス缶の中身は、きっと骨だ。置かれた際にからりと涼し気に鳴っていた、華奢な娘の笑い声みたく。
 聴くだけで胸焼けを起こす、酷く甘くて苦い、確かにサッカリンみたいな初体験だった。
 なんとも凄い相手だし酷い別れだが、屍鬼は最期にありがとう≠ニ云った気がする。
 ああ、これは俺の勝手な妄想ね、それじゃあおやすみ。

-了-


* あとがき *
 黒白であやめ≠ニ読みます、アヤメのウタ。 後日書く予定の「屍鬼をつくる悪魔召喚師」というモブの為、今作執筆。モブとの因縁に多く割いては話が長くなるので、単品として分割。ただし予定するそれはルイライ要素が入るので、そちらのシリーズとして掲載します。
 自分の書くライドウは、襲名前から既に色々経験済みなイメージですが。今回のこれが果たして恋慕か否か、特に決めてもいないし当人にも分かってなさそうです。最初は肉体関係を持たせる予定は無かったのですが、語らせ始めた辺りでこれは手を出した(出された)記憶だな≠ニ感じたので、その様に運びました。男に手を出される話は散々書いてきましたが、女性と関係する話は珍しい気がします。もっと煽情的にしたかったのですが、自我がほぼ表面化しない女性(屍鬼)が相手だとそうにも行かず…少し年上を相手に書きたかったので、そこだけ大事にしました。
(2019/11/13 親彦)

〜過去作読了の方に向けた小ネタ話〜
▽オキクムシはSS『蛇縄麻』に登場した、緊縛師に飼育されている悪魔。
▽風間刑事には他作品でも「八千代」を吸わせているのですが、どの短編作品に出ていたか覚えているでしょうか?ヒントは子供の前で吸うな≠ニ制するシーン。
▽夜の密かな夢は「教師に成る事」な訳だが(長編《徒花》で判明、《帳》で真似事をしている辺りからも窺える)この話に出て来た女学生の想い人≠ェ「教員」であり、自らと姓が同じ「紺野」だった事から、何かしら影響は有るかもしれない?と空想しつつ書いた。
▽歯の無い口≠ノ関しても、今回途中で気付いたのですが……夜は既に《徒花》で抜歯させた相手の口を吸う℃魔しているので、彼に関してはこういう嗜癖を持たせがちな様子。



▼黒白(あやめ)
いつ頃からこのルビがふられていたのか…
始末にゆかぬ浮雲めが艶(やさ)しき月の面影を思い懸けなく閉籠て黒白(あやめ)も分かぬ烏夜玉(うばたま)の
 『浮雲』二葉亭四迷、明治20年
黒白(あやめ)も分わかぬ真の闇夜を縦(ほしいまま)に蹂躪る。
 『沼夫人』泉鏡花、明治41年

▼アイリス
煙草:20本入りブリキ製の平缶、明治45年2月3日〜大正9年3月31日廃止。つまり作中のものは骨董品、おあつらえ向きな容器と思い入手したのか。しかし20本入りとか、懐に入るのか?
植物:アヤメ科アヤメ属の植物を指す、ギリシア神話のイーリスが由来。

▼唐桟縞
細い木綿糸で独特の細かい縦縞を織り出した布。唐桟縞(とうざんじま)、桟留縞(さんとめじま)などとも呼ばれる。サントメ(桟留)は西インドの東岸にあるセント・トーマス島で、原産地がインドのサントメ地方だったので江戸時代には「サントメ縞」と呼ばれていたが、それに「舶来物」を意味する「唐」が付いて「唐サントメ」と呼ばれるようになり、濁音便化して「とうざん」になったともいわれている。日本には安土桃山時代(16世紀末)にオランダ船によってもたらされた
(引用:https://teorimono.exblog.jp/8453928/)

▼サッカリン(o-スルホベンズイミド)
人工甘味料、砂糖の500倍ほど甘いとされる。高濃度だとむしろ金属的な苦みを発する。大正の頃には既に毒性アリ≠ニ囁かれ忌避され始めていたが、戦後のしばらくは復活(1973年・昭和48年に完全使用禁止)非常に安価な為、一時期の駄菓子によく使用されていた。 明治大正頃に流行った暗喩で甘い人≠フ事をサッカリンと称した。因みに防虫効果の有るナフタリンは虫の好かない奴≠フ意。