紅-ベニ-

 
視界がはっきりしてくる。
その視界の端を、黒い外套がはためく。
ああ、ライドウか?
今何をしているんだ?
金物の音が響く。
戦っているのか?
「いっ!!」
足元を痛みが奔る。
大したものでは無いが、警戒すらしていない身には
稲妻の如く脳に信号が来た。
「邪魔で踏んでしまったようだ、向こうで寝ていたまえ」
ブーツの感触。
普通に蹴り飛ばされて、身体が回転する。
それだけなら良かったが、思いもよらぬ振動。
俺は階段を思い切り転げ落ちていた。

「大丈夫か?」
「いや…ちょ…っと痛、い」
いや、大丈夫か?とか
張本人が言うのかその台詞は…
肋骨が軋む。
「あ…」
片脚が変な方向にかくりと項垂れた。
折れた様だ。
「それは僕の蹴りでは無いぞ」
自信に満ち溢れた表情で言ってのけるこの男は
本当に人間だったか?
「くっつくまで、少し待ってくれ」
腰を下ろし、脚を床に投げ出す。
こうして安静にしていれば治るのだから笑える。
「芝居の階段落ちみたいで、なかなか凄かった」
腕を組み頷くライドウ。
「おい、挑発だろそれ」
思わず突っ込んでしまったが、そういえば
何故俺は気を失っていたのだろうか?
「ライドウ、俺の仲魔は?」
「君が殴り始めたから、撤退させた」
「えっ?」
俺が殴った?
嫌な予感がする。
なんか、女性型悪魔と交戦していた気もする。
「まさか、魅了喰らってた?」
「それしかないだろう」
微妙に溜息混じりに答えたライドウを見て
(あっ、かなり迷惑かかったか…)
と感じた。
あまり疲れとかを出さない人間なのに
この明らかな態度。
「すまない」
「マガタマ替えたらどうだ?」
「考えとく、とりあえずターミナル着いてから」
「それまでにまた魅了されてみろ、階段落ちじゃ済まないぞ…」
珍しく、かなり珍しく疲労のオーラが出ている。
俺は不謹慎ながら面白いものが見れて
正直哂っていた。
いったい俺が魅了されている間に、何があったんだ?
「なあ、俺は他に何かしたか?」
いつもなら必要以上に話したくないのだが
俺から聞いていた。
「何か…?ああ、したね」
ごくり、と生唾を飲む音が自身からする。
「…僕の外套を捲って御覧よ」
そう言いつかつかと歩み寄ってきたライドウに
少し慄く。
未だにこの男が寄ってくると、凍りつく瞬間がある。
もはや反射に近い。
「じゃあ、失礼…」
俺は座ったままライドウの外套の端をつまむ。
捲くろうとした瞬間、嫌な臭いが嗅覚をつく。
よく知っている錆のような臭い。
「…ぅ」
「苛々しているのが少しでも理解いったかい?」
あの例のホルスターが茶のように濁っていた。
それは既に乾燥して、黒ずんでいた。
よく見れば、黒い学生服に紛れて
裂傷から白いものがチラついていた。
脂肪か。
「…どうして、治さないんだ?」
理解出来ない、悪魔の俺でも。
そもそも、どうして立っている事が可能なのか、謎だった。
至近距離で他人の傷を見るのは、気持ちの良いものではない。
俺はそのまま外套を放した。
「それ、アイアンクロウ?」
「そうだ、僕の真横で魅了された瞬間にね」
それは…いくらこの男でも避けきれぬはずだ。
それなのに、俺は不謹慎だった。
「階段程度じゃ足りないよな、本当に…申し訳無い」
今までこの男が俺にした仕打ちは別として…
これは俺が悪い。
するとライドウは急に俺の脚にまたがり、肩を押してきた。
俺はそのまま背を強かに打ちつけた。
「っつ…」
圧迫されている脚も痛いが、何よりライドウが恐い。
怒っているのか?このまま殴られるのか?
まあ、それならそれで構わない。
同性だから大丈夫とは思うが
性的暴行以外なら甘んじて受け入れるつもりで、俺は様子を窺う。
「君は悪魔のくせして、魅了されて…どういう体質?」
「…知らない」
「マガタマが無いと人間の僕より耐性が無い…」
「…仰る通りで」
心をなるべく空にして返答する。
あれこれ考えると、いつの間にか読まれていたりする。
最近ならすぐ気付くが、ちょっと前はこれで苦労させられた。
「呪いを君に、してあげようと思って」
跨ったままのライドウは、指を自身のわき腹にそわす。
「おい」
「ぐ…」
「おかしいんじゃないのか?やめろよ…!」
「最奥に近いところから、採取したいのでね」
見ているこっちが気が遠のきそうだ…!
指を傷口に呑ませ、引き抜いた。
先が鮮血に染まっている。
「悪魔が君に入り込まないように、呪いを施さなくては」
その指を、そのまま…
「ぅあっ」
思わず腕で弾くが、手首を掴まれた。
「もう片腕で殴るの?それともまたアイアンクロウ?」
その言葉に、俺は動きを止めてしまった。
「それで宜しい」
嬉しそうに微笑むライドウだが、俺はそれが
純粋な欲望が叶う際の悦びからくるモノだと認識している。
「古代の人は、紅をさす…」
詠うように口ずさみ、ライドウは血濡れの指を
俺の唇に滑らせる。
鼻腔をつく、血肉の薫り。
「悪魔に魅了されまいと…」
そのまま首元を伝い、耳元を撫でる。
「あらゆる穴に紅をさす…」
くすぐったいし、気持ち悪いし
何よりこれが何の呪いなのか、言っている内容の通りなら確かに俺の為には成るが。
(まさか呪い殺し?)
ひととおり終わったらしいライドウは、指を離す。
「僕の血だから、きっと強い」
ニタリと俺の上で哂うライドウを見て、背筋がぞっとする。
こんな事が出来る人間は、確かに血がおかしいかも知れない。
「お、終わったならもう退いてくれないか?」
俺はマウントをとられている時点で、気が気でなかった。
「でも思うのだよね、唇と耳に紅をさすなら…」
「…なら、なんだ?」
「下の穴にはささないのかな?」
…!!
口元の貼りついた笑みが、更に歪曲する。
ライドウの指が俺の一張羅にかけられる。
引き降ろさんと、力が込められ…
「やめ…!!」
「ふ、くくくく」
(と、止まった…?)
凍りつく俺を尻目に、ライドウは背を丸めて震えていた。
「あ、はははっ」
「…」
呆然とする俺。笑いまくるライドウ。
「ああ、可笑しい…」
「あ、あの…え?どういう…」
ライドウはわき腹が再出血するくらい笑えたのか、押さえつつ口を開いた。
「別に、しないよ…自身の欲求解放に直接至らない事は…それに君とは命のやり取りの方が高揚する」
なんだか危険な事を言っている気もするが、とりあえず俺は胸を撫で下ろす。
「しかし、僕の血だからね…」
そのまま、ライドウの恐いくらい整った顔が
俺の顔に降りてきた。
「…」
これは、なんという状況だ?
思考が停止する。
唇を離れ際にひと舐めされた。

「少しずつ、僕に戻してもらおうか…」

その後、赤い唇をした腑抜けた俺はしばらく動けずにいた。

紅-ベニ-・了
* あとがき*