眩暈でもしたのかと一瞬思ったが、鳴海の指先がぶるぶると震えているだけだった。
 セメダインA号の臭いが鼻を衝く、せっかく淹れてやった珈琲もすでに冷めきっていた。
「そんなに根詰めない方がいいですよ」
「あーっ」
 これでも声をかけるタイミングを見計らったつもりだが、どうやら鳴海の動きを全く読めなかったらしい。
 硝子越しに歪曲した船は、甲板辺りから建材が一本、妙に飛び出した形になっていた。
「困っちゃうよ矢代君〜」
「俺の所為だっていうんですか」
 壜を傾け、狭い入口からマッチ棒を摘まむ鳴海。
 指先を使ってさえも震えるその作業を、ピンセットで行うこと自体無謀に感じる。
 ようやく失敗を修正出来たのか、ふうっと大きな溜息を吐いて俺を見た。
「海外の接着剤じゃなくて良かったよ、あっという間にくっついちゃうもんな」
「普通の模型ならともかく、マッチ棒でボトルシップとか聞いた事無いです」
「いやでもライドウは見せてきたじゃない」
「あれは……」
 先日、ライドウが鳴海に見せたのは確かにボトルシップで、中の船はマッチ棒で組み上げられていた。
 鳴海はそれをパッと取り上げると真っ先に底部を確認したが、継ぎ目は無い。
 (壜を切断し完成した船を入れ、再び壜を接着して元の形に戻すという方法がある)
 本当に可能なのか、鳴海は疑問もあって自らチャレンジしているのだろう。
「まあ、ライドウ器用だもんな。マッチ棒なら“俺の右に出る者なし”と思っていたんだが、いや悔しいなァ」
「どういう自信ですか、っていうかあんな奴と比較しない方が良いですよ」
 だって俺は知っている、あいつが悪魔を使って壜の中で造船させていた事を……


 最初目にした時、俺はてっきり《壜詰め妖精》だとか、そういう悪趣味なインテリアを作っていると勘違いした。
 壜の中でニンマリ微笑むピクシーは、マッチ棒の隙間から俺を見つめてきて、思わずそこから視線を外す。
 この悪魔、今となっては苦手だ。ボルテクスに居たピクシーと大差無い外見、俺の傍をふわりひらりと舞いけらりと笑う小さな女性。
 いつの間にか笑顔に笑顔で返せなくなっていて、そんな自身が責められるべき人間のような気がして、嫌になる。
「カハクだと鱗粉が付くだろう」
 ああ、成程。と云いそうになって呑み込んだ、そんな問題じゃないだろう。というよりカハクの鱗粉ってのは、一般人に視えるんだろうか?
 的確に指示を出されたピクシーが、一本一本組んでいくマッチ棒。あんな仕事でご褒美が貰えるとは、いい御身分だ。
 俺なんか共闘というより手下みたいな扱いだし、空いた時間に雑用させられたり、憂さ晴らしの道具にされたり。そのくせMAGは渋られるわ──……


「矢代君」
「はい?」
「いや、なんか険しい顔してたからさ」
 冷めきった珈琲をすする鳴海こそが、眉間に深いシワを作った。
「なんでアイス珈琲と違って、ホットが冷めたのは微妙になるんだろなぁ」
 ソーサーにカップをカシリと置き去り、椅子の背に寄りかかってぐんと伸びをしている。その気侭な姿に一ミリもイラっとしないといえば嘘になるが、俺の不快の本はたった今思い出した出来事のせいだ。
 鳴海をおちょくる為に、わざわざズルしてまで用意したのか? 幼稚すぎだろ、いや知ってたけど。
 これで鳴海の能力が開花して本格的なボトルシップ職人になれば、探偵以上にのんびり過ごせるに違いない。むしろそっちの方が向いているのでは?
 発展性が無いとも限らないので、見せびらかし行為はまだ「しょうがないな」の一言で済む。
 それじゃあ、俺の此の苛々は……なんなんだ。あのピクシーが、たかがマッチ棒造船でたっぷり褒美を得ていた事に対する不服か?
「壜に閉じ込めたら可哀そうだよなあ? 小舟は河に、帆船は海に浮いてこそだ、そうに違いない」
 自己完結させる鳴海をよそに、俺はライドウに直訴する決心をしていた。


 ボトルシップで殴られる覚悟をしていたが、拍子抜けな程あっさりと承諾された。
 働きに対する正当な褒美が得られるならば、気に喰わないこいつの手伝いもまだ我慢出来る。
「ではすぐに出よう、支度し給え」
 捜査もしくは悪魔に喧嘩でも売りに行くのかと思い、袴の下に革パンを穿いた。自分の炎で衣装を焼くヘマは(最近でこそ)しないが、薄汚れた格好で帰路につきたくはない。
「鳴海所長のボトルシップは完成してたかい」
「船の事よく分からないけど、船体の下の方はなんとなく出来てた気がするな」
「へえ、思ったより粘る。探偵業より向いているのかもね」
「失礼な奴」
 でかい亀に乗せられ、そのまま潜水するのかと一瞬身構えたが、辿り着いた先は竜宮城じゃなかった。
 電話ボックスひとつ、ぽつんと立った小島。それにしたってこのボックスの造りもゴツいし、陸地自体が不自然な感じだ。人工島だろうか?
 ボックス内に入ったライドウが、靴先でコツコツと音を鳴らした。
「君も入るのだよ」
「は? あんたが勝手に電話済ませたらいいだけの話だろ」
「電話しにわざわざ来たと思っているのなら、君も探偵には不向きだね」
「別になりたくないし、普段からそんなつもりであれこれ見てない」
 警戒しつつライドウの傍に寄ると……俺が足を内側に納めた途端だ。すらりと黒い腕が伸び、バンと勢いよく扉を閉めやがった。その音に軽く驚くと、ライドウは鼻を鳴らして哂う。
「電話でなければ、何をすると思う?」
「狭い」
 これは……絶対おちょくられてるな、乗らない方がいい。
 何食わぬ顔して受け流せば、こいつは燃えないタイプだ。妙な事する為だけに、わざわざこんな処へ来るとも思えない。
「ねえ功刀君」
「……“何か”したいならさっさとしろよ、息苦しいんだ」
 こいつキス魔だからな、と頭の片隅に偏見が有った。そんな俺が悪いのか、深呼吸も無意味に終わる。
 ライドウは嫌がらせのように寄せていた顔をあっさり背け、電話のダイヤルをいじり始めた。
 俺は行き場を失った吸気をただの呼気にして、ライドウは黙々と白い指先でダイヤルリングを回す。493……駄目だ、その先は見失った。八桁の番号を入力していたのは確かだ。
 数秒の間が有ってから、突如ガコンと揺れた。表に出ようとする俺を制したライドウが、いやらしい顔をして口角を上げた。
「地下に降りている、此の箱は昇降機になっているのだよ」
「なんだよその、秘密結社への入口みたいな仕掛け」
「君にしては察しが良いな功刀君、そうさその通り、この先には僕の秘密の場所が在る」
 今更こいつの悪漢ぶりには驚かないが、開いた先の広さは圧巻ものだった。
 どれだけ掘り下げたのか、階段を降りるごとに不安が増す奥深さ。所々にスイッチが有り、一層また一層と降りる際にライドウが点けた。位置を把握している事からして、本当にこいつの遊び場らしい。
 暫く行くと、とうとう最深部らしき層に到達した。桟橋の様に突き出た足場は、高い足音を弾き出す。その音さえも遠くの暗闇に呑まれていくから、跳ね返ってこない。
『ぅおッ、ライドウ!』
「御苦労」
『今日の差し入れはナニかなぁぁぁ!?』
 物陰からひょっこり現れたイッポンダタラ、こいつは恐らくライドウの仲魔だ。以前も部屋の修繕だとか、露天風呂の施工をさせられていた。確かに仕事は速いが……こんな僻地にまで出向させられていたとは。
「物資提供ではないが、援助をしに来た」
『援助行為! エンコーですかァァァァ! お元気だな!?』
「人修羅を応援に就かせる、存分に使うといい」
『コキ使うかぁぁぁぁぁ!?』
 ツッコミどころしかないが、ひとまずライドウの説明を待った。
「という訳だ功刀君、君はしばらく彼の作業を手伝う事」
「……数日で終わるんだろうな?」
「フフ、頑張り次第かね」
 ピョイピョイと煩い移動をするイッポンダタラ。休憩していたのだろうか、持ち場に戻るようだ。その後を辿れば、巨大な影の輪郭が露わになってきた。まるで鳴海が組み上げている最中の、中途半端に形を成した船。表面は冷たい輝きを放ち、その反射はゆらゆらと鈍色に揺れる陽炎みたいだ。
「二手に別れて作業するとなれば、光源を少し増やすべきだな」
「なあこれ、船なのか。かなりでかい……個人の持ち物には見えない」
「此処は造船所だよ。道中に線路が見えるトンネルが有ったろう、あれは搬出用のものさ」
「なんであんたがこんな物造らせてるんだよ」
「君が知ってどうするの」
「働くんだ、そのくらい教えてくれたっていいだろ。こんな巨大な……まるで戦艦みたいな」
 製図台に置かれた図面を見下ろすライドウが、此方を見ずに哂った。
「そうさ戦艦だよ功刀君」
「はぁ?」
「此れが完成したら、僕は日本国の外へ繰り出そうと思っているのさ。何もない狭間を漂うならば問題無い、しかし強国と呼ばれる幾つかの国を横切るにはそれなりの武装が必要だろう?」
「旅行でもしたいのか、っていうかその間帝都の……ライドウの勤めはどうするんだよ」
「日本と関わりの有る国は避けたい、どうせなら未開の地に行きたいね。其処の文明を壊さず、僕はただ眺めるか、いっそ染まるかして。葛葉ライドウとしての己から出航する訳さ」
「家出用の船って事か」
「口を割れば君の頭が割れよう、他言無用だからね。特にゴウト童子には漏らさぬ事だ」
 そんな事、云われなくたって分かる。というか、誰に話した所で信じて貰えるんだろうか。
 此の施設自体は、以前から存在していたように思える。ライドウが捜査の一環で訪れて、今になって私的利用を始めたという所か。


 結局俺はあれから毎日、造船所に赴いては作業した。
 電話ボックスまでの送迎はライドウがしてくれるものの、其処から先は一人で淡々と降りる、タンタンと鉄の足場が鳴いては薄く振動する。気配を察したジャックランタンが、ふわふわ下から上がってきて合流する。
『ライドウも意味不明だホ、そんなにお外に行きたいのかホー?』
 足場を広く照らすランタン、お陰でいちいち照明のスイッチを押し進む手間は省ける。
『船なんか無くても、ライドウにはコウリュウが居るホ! オイラ実は、一度も乗った事無いんだホー……』
「あんな不安定な龍、管から仲魔出して乗るもんじゃないでしょう」
『人修羅はいつも出されてライドウと一緒に乗ってる、羨ましいホ』
「俺は管に入らないんです!」
 なんだそのタンデムみたいな云い方やめろ、しかも俺を悪魔扱いしやがって……
 苛々をぶつけるように、その日はがむしゃらに働いた。工程はイッポンダタラが分かり辛いテンションで教えてくれるので、それに従ってひたすら建材を運ぶのがメインだ。接合作業は完全にイッポンダタラの仕事なので、俺は何も考えずに作業が出来た。というよりも、殆ど頭が真っ白だった。
 あの口ぶりだと、ライドウはライドウじゃなくなる。葛葉やヤタガラスのしがらみを捨て、過去の自分を消したまま外界に出たいんだ。其処に俺を連れて行く筈がない、俺との契約は実質破棄されたようなものだ。
 船の完成を心待ちにしているとでもいわんばかりの、あの愉しそうな眼を見てしまった。笑顔で返せるわけがない、直視に堪えず視線を逸らした。相手の喜びを否定したくなる、そんな自身が責められるべき人間のような気がして、嫌になる。
 運命共同体なのだと、喧嘩の真っ最中なのだと、当然の様に思っていたから。此の状態さえありえないだろうと、胸が軋む。狂暴な気持ちが指先に滲み、持ち上げた建材をそのまま一本駄目にしてしまった。悲鳴みたいな音を立て、鉄骨が歪む。気色の悪い音と自分の心音が重なる、少し休んだ方が良い……


『定時に部下を帰すサイッッコォォォの上司ィイ!』
 イッポンダタラに促され、今日の作業を切り上げる。階段を上りつつ、またジャックランタンが与太話を始める。
『だいぶ進んだホー、このスピードならあと二〜三日ってところだホ』
「ガワしか作ってないですけど、機能するんですか」
『動力部は別の連中が造るんじゃないかホ?』
「いや、俺に訊かれても……」
『ま、中身無くても動くじゃないかホ、オイラそうだし』
 ジャックランタンが云う通り、上層から眺める船はかなりそれらしくなってきた。
 建材を更に駄目にしたと嘘を吐いて倍量要求し、それで外径を嵩増しさせてしまおうか……そんな考えが脳裏をよぎった。ボトルシップの船は、狭い口から出られずいつまでも出航しない。
 いや、そんなのすぐバレる。イッポンダタラの空っぽに見える頭には、一応図面が入っている様子だし。イッポンダタラがライドウに報告して、俺が此処の作業員から外されて終わりだ。


 昇降機で上がると、いつもの様にライドウが待っている。
 扉を開けると夕暮れ時で、こうしていちいち迎えに来て貰うのは悪い気分じゃない。
「順調かね」
「ジャックランタンの見立てだと、あと二〜三日だと」
「へえ、それでは僕も準備をしておかねば」
「……俺はその必要有るのか」
 思わず訊いてしまった、大タラスクに乗る直前に。
 ライドウは無言で振り返り、俺の首筋に指を添わせた。反射的に仰け反ると、クッとうなじを掴まれた。
「擬態、忘れてるよ君」
 角を握られ息が引きつる。まるで心臓に糸が繋がっていて、締め上げられているかの様だ。
 肯定も否定もしないこいつが怖い、嫌な予感しかしない。
「離せっ」
 ライドウの指を解く様に剥がし、亀の甲羅から足を退いた。
 脱兎の如く駆け出す俺に、ライドウが何か云い放つ。
 電話ボックスに駆け込み、即座に扉を閉める。番号は49399221、この数日で少しずつ覚えていた。
 先に降りてしまえばこっちのものだ、背中がヒリつく……おそらく銃撃されたのだろう。状態異常の弾では無いらしい、力仕事の為にガイアを呑んでいたから今更ヒヤリとした。
 下に到着する前に、ゲヘナと入れ替える。昇降機は片道十二秒程度、俺が降りたらまた上に昇って今度はライドウを載せるだろう。あいつが来る前に、どれだけ引き離せるかが勝負だ。
『アレッ、どうしたんだホ──』
 ジャックランタンが建材に寄りかかり、カンテラを磨いていた。その目の前を駆け抜け、暗がりに突っ込んだ。そもそも真の暗闇では無いので、近距離なら照明は要らない。何より自身が光っているじゃないか、馬鹿馬鹿しい。
 最深部まで十五秒かかった、この開きなら俺のしたい事は実行出来る。
『人修羅どうしたァ! ノー残業デイだぞこらァァァァ!?』
 イッポンダタラを無視して、俺はすうっと大きく息を吸った。吸気を熱気に換えて吐きつける、船体が赤く輝いた。
 でろりと溶解して、孔が出来る。其処に向かって更に炎を吹けば、空洞の内部で勝手に燃え盛る。
『しょ、消火班ンンンンン!』
 流石に単独で対処出来ないと察したか、イッポンダタラは早々に場を離れた。
 残された俺は、ここ数日間着々と積み上げた成果が融けていくのを、ただ眺めていた。歪曲して見えたボトルシップの船の様に、目の前の船も歪んでいた。
「やれ、凄い熱気だね。単身船を撃沈するとは、とんだじゃじゃ馬も居たものだ」
想像に反し、ライドウは安穏と歩いてきた。隣にはイッポンダタラがくっついて、主人以上に焦っている。
『動機は何だァァァ!? カツ丼カァァァァ!?』
 動機……さあ、何だろうな。少なくとも“造船作業に嫌気が差して”では無い。
 さっき、ライドウに切り離されたと思ったあの瞬間だ。衝動的に船を潰さなければならないと、そう確信した。そんな事を説明してどうする、というよりもライドウは解っているに違いない。俺が何に不安や疑念を抱いているか……それを察しつつ現場に配属させたんだ、こうなる事さえも想定内だったんだろ?
「消火はジャックランタンの友人共に頼んである、僕は確認が済んだので事務所へ戻るよ」
 この現状を前にして、あっさりと云い放つライドウ。着々と進んでいた計画が頓挫したんだぞ、少しは怒るなり落胆なりしろよ。それとも、まだ控えのドックが在るのか、其処に別の船でも?
「キレないのかよ、自分の船燃やされて」
「……ククッ」
 奴が喉で哂い始めたから、キレるまでに若干タイムラグが有っただけ、そう思った。
 しかしライドウは朱い炎に照らされつつ、本当に可笑しそうに腹を抱えていた。
「まさか、君は此れを本物の戦艦と思い込んでいたのか功刀君」
「本物も何も、そこの図面も有るし……って燃えてるな。ともかく、俺が見てきた限りでは船の形だった」
「形が同じだと全て本物だというのかい。では壜の中の船も本物という可能性があるね」
「何だよ、じゃあコレ偽物だっていうのか」
「実用性の有無で判定されるというのなら、此れは偽物という事になるかな」
 偽物ってなんだよそれ、こんな馬鹿でかい偽物有ってたまるか。
 そう唱えそうになって、咳で濁した。吸い込む空気も確実に濁ってきている。ライドウは外套の立襟に口元をうずめている、そろそろ生身の人間には危険な濃度かもしれない。
「おい……俺も帰っていいのか、此処に残らなくても?」
「君が居た所で、消火係の邪魔になるだけだ」
「じゃあ遠慮なく帰らせて貰うからな」
 此方が云い終わらぬうち、にライドウは階段へ向かっていた。すぐさま後を追うが、あろう事か奴は階段手前でアズミを召喚した。
『おひさライドウちゃん、って此処あっつ! サウナってねぇ、実はあんまし身体によくないんよ』
「階段が面倒だ、早く上りたい。シャツも肌にはり付いて、不快な事この上ないね」
『あらーてっきり冷却の用と思ったんに、ソッチなの? てかえっ、上着脱いでよライドウちゃん!』
「働き次第で」
『おばちゃんがんばっちゃおうかねェ!』
 アズミは此方を一瞬見たが、口元で「ごめんな!」とだけ呟き、ライドウを飛行で連れ発った。
 残された俺はポカンとそれを見上げる。連中は一層毎にジャンプする要領で、あっという間に最上層へ着いていた。
「くそっ」
 思わず吐き捨て、仕方が無いので階段を駆け上がる。
 道中ジャックフロストの群れとすれ違う、だらだらと汗を流しているのか融け始めているのか『ブラックな現場だホ』との呟きが耳に残った。


 地上に戻ると、空気がひときわ清涼に感じた。
 ライドウは大タラスクの上に外套を広げ、その上に寝転がって居た。俺はどこか恐る恐る近寄り、かといって了承も得ずに甲羅に乗る。
 潮風に頬を冷まさせているのか、ライドウは瞼を下したまま微動だしない。
 遠くで海鳥が鳴いた、水平線に太陽が攪拌されて海が朱くなる。炎から遠ざかったのに、また包まれた様な気分だ。
「亡命して諸国漫遊とは随分夢の有る話だが、仮に僕がそのような計画を実行するにあたって君の助力を得ると思う?」
 夕陽からライドウに視界を移す、すっと流れる鼻梁の影で眼が光る、瑠璃色の滲む黒目なのにどうしてか光って見えた。
「だって今もあんたと手を組んでるだろ、今更何に利用されたっておかしくないと思った」
「あのねえ、こうして君が台無しにする可能性を、僕が視野に入れないと思うのかね」
「ところであの船は何だったんだよ、あれは俺が台無しにしても良かったブツって事か?」
 自分で“台無しにした”と云う滑稽さが歯がゆい。
「それこそボトルシップさ。あれは模型だよ、模型」
「模型……?」
「造船所から出す予定も無ければ、動力など無い。実物大の模型といった所さ、僕の息抜き」
「い、息抜きにこんな馬鹿でかい施設を」
「どうせ軍部も持て余している。それに、不届き者があそこを見付けて屯するかもしれないだろう。ついでに管理してやっているのだよ」
 一番の不届き者はあんただろ、と喉まで上がった言葉は、タラスクが動き出したので引っ込んだ。
「さて君、ここ数日の報酬はチャラになる訳だが、理由は分かっているだろうね?」
 ゆったり寝そべったままだが、ライドウの声音に譲歩の情は見えない。
 さっきの言葉が喉から先に出ていたら……更なる仕打ちを食らっただろう、そう思えば足下の亀に感謝する他なかった。


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「す、凄すぎるぞ俺、見たかちょっと、ねえ、誰か、誰か〜」
 最後の一本を置き去り、ピンセットを狭い口から逃がす。ようやく呼吸を思い出し、壜と真逆を向いてぜえはあと忙しなく。
「誰かッ」
 ソファに腰掛ける矢代君に、直接呼びかけた。三度目の正直か、ようやくコッチを向く。この距離感で状況も把握していないとは、大丈夫か?
 どうやらここ暫くの日中は、ライドウに連れまわされていた様子だし……まあ、そりゃあ疲れてるだろうな。
「な、なんですか」
「見てくれよ、コレをさぁ」
 ボンドが乾かない事には動かせない、下手に揺らして大破なんて堪らんぜ。
 完成したマッチ棒ボトルシップを、俺はまるで宝石商の営業が如く掌で煽った。すると矢代君は間近で見ようともせず、座ったまま「完成したんですか凄いですね」と、物凄い棒読みで云った。
 もしかしたら、ライドウが大傑作を作っているのかもしれない。それを先に見てしまったからこそ、この反応の薄さではないか。
「ねえ、ライドウはこないだの他にも作ってるの?」
「えっ」
「マッチ棒のボトルシップ」
「あ、ああ……マッチ棒の」
 お疲れの矢代君に代わって、自ら珈琲を淹れる優しい俺。ついでに彼の分も淹れてやろう、カップはどれだっけ……いつもタヱちゃんが使ってるヤツでいいか。
 ドリップで立ち昇るほのかな熱気に、さっきまで強張っていた神経が解されるようだ。
 心なしか淹れ方まで繊細になった気がする、冷めないうちにせっせと運ぶ。
「マッチ棒のは、以前鳴海さんが見たの以外……俺も知らないです」
「へえ、そりゃそうか。いつ作ってるんだって感じだもんなぁ」
「あ、このカップはタヱさんのですよ」
「洗ってあるし間接キッスにゃならんでしょ」
「そういう問題じゃないです、まあ今回は淹れて頂いたのでこのまま飲みますけど」
 じゃあどういう問題なんだろうか。そんな問いはさて置き、俺も隣に腰掛けた。
 今はデスクに戻りたくない、自分こそがうっかりボトルを揺らしそうだ。珈琲後の一服の為、煙草だけ持ってくるかな……と思ったが、そこではたと気付く。
「マッチもう無いから、火を点ける道具が無い!」
「はあ、全部あの壜の中ですか」
「ライドウに貰うかなあ。あいつ、それこそボトルシップ以外にマッチ殆ど使わないだろ。新世界のやつを偶にごっそり分けて貰うんだよ」
「よく吸ってますけどね」
「そうなんだよ。白檀まじりにヤニがちらつくんだが、マッチ使わないっつって寄越すんだよなぁ」
「悪魔に点けさせてますから、あいつ」
「あっ、やっぱそうなの? いやぁ便利だな悪魔ってのは」
「煙いし、正直やめて欲しいですよこっちは」
 まるでサマナーと同じく視えているかの様な口ぶり……そして俺の目の前で喫煙批難ときた。これは相当疲れている、もしくは苛立っているな矢代君。
「なるほどなるほど。で、ちなみに矢代君、今日はライドウと一緒に出掛けないの?」
「今日は……俺が必要な用事は無いし、いいんです」
「最近出ずっぱりだったねぇ、何か厄介な仕事でも?」
「俺、ライドウの船を壊してしまったんです」
「船?」
「……ボトルシップみたいなモンですよ」
 やはりそう来た、ライドウはまだまだ秘蔵の逸品を残していたらしい。
 しかし壊してしまったとは物騒な。破壊した矢代君よりも、所有者であるライドウの腹の虫が怖いというか、アポリヲン的な何かが。
「許してもらえた?」
「つけこんでくる勢いですよ、報酬もパーだし」
「何でまた壊しちゃったの」
「それは……」
 云い淀む少年を追求する事もなく、俺は珈琲の残りをすすった。不注意か喧嘩か、それを第三者の俺が問い詰めた所でどうにもならない、終わった話なんだろう。
 正直、この子の背景も思考もよく分からない。ただそれはライドウが初めて訪れた頃、彼にも同様に感じた事だ。
 歳の差以前の壁が有る。軍属していた頃、自分の周囲にもよく視えていた壁だ。
 警戒と諦観の成すそれは、社会と己を断絶している。その壁を維持し過ぎると……自分自身がいつの間にやら分からなくなってくる。
「ま、絶交されなかったのなら良かったじゃない」
「絶交も何も、別に友人関係って程のものでも無いですし」
「はっはっは、じゃあ何だっての。結局どういう関係だって構いやしないのさ、付き合いが続いてる事がその証明……」
 言葉尻を濁し、耳を澄ます。階段の音だ……靴音からしてライドウではない、扉の前で室内履きを被せるだろう、その時硝子に映った影で判断出来るか。
 隣の矢代君が「来客予定あったんですか」と俺に問う、首を横に振って返した。


「失礼」
 一枚隔てた声音から、扉が開くより先に判った。ホクロ面の海軍将校だ。
 軍服は着ていない……初めて見る背広姿。今更正体を隠す必要も無いだろうに、私用か?
 もしくはヤバイ物を運んでいるか……
「定吉さんどうしたんだい、まぁ座りなよ」
「気遣い無用、ライドウくんに預ける物が有ったのだが……不在の様だな、階下に黒猫も居なかった」
「ははぁ、流石よく見てらっしゃる。どうする、帰りを待つ? とはいえ、正直あの子がいつ戻るか俺にも分からないですけどねぇ……とりあえずお掛けになってくださいよ、椅子でもソファでも」
 俺が指示しなくても、矢代君は既にお茶の用意をしに炊事場に向かっている。
 周囲に俺しか居ないと踏んでか、定吉はようやく息を吐いた。
「少し相談事が有る」
「へっ、俺に?」
「私はもしかすると重大な過ちを犯そうとしているのかもしれん」
「なになに、どういう事」
「少しばかり目を通していただきたい」
 革鞄から抜き出された封筒の、更に中から引き抜かれた書類。端がほころび始めている、何かの設計図に見えた。
「こりゃ何だい、正直見当もつかないけど」
「可変式揚陸潜水戦艦の核となる部分、その設計図だ」
「……っておいおい、超力計画の?」
「衛星タイイツも無い今、あの戦艦を再構築したとしても、まともに機能はせんだろう。しかしこれはオオマガツ初期段階の図面であり、外部エネルギーを必要としない仕組みだそうだ」
「何でこんなモノを……持ち出しちゃって平気な訳?」
「一般技術者からすれば荒唐無稽な造り、且つ魔術的要素を含む為に理解も出来ない。分野が違い過ぎる、然るべき機関に渡すべきであろうと既に決定が下っていた」
 なるほど、それがヤタガラスって事か。
 渡して研究しとけ、って風でもないし。保管はしておきたいけど軍で持っておくのは嫌とか、その辺だろうな。
 誰が持ち出すか分からんし、ダークサマナーとやらに渡ってもヤバイ、と。
「ん、いや待て定吉、お前さんが正に今している事が……」
「勘違いがあっては困るな、これは上部も承知している。ヤタガラスの関係者であれば良いとの事で、これまでの資料をライドウくんに渡してきた。確認として、あちらの機関からの受け取り報告を貰う事もしている」
「そ、そうか……そうだよなぁ、あいつヤタガラスからの依頼もちゃんと受けてるし、ダークサマナー……とかじゃないもんなぁ?」
 謎の沈黙が続いた、どうして空気が晴れない。俺の問いかけに、あの調子の良い別人モードで応えてくれよ、不安になるだろ。
 何だかコレ、ライドウがダークサマナーっぽい所有るなぁとか……互いに思ってる様な流れじゃないの。
「この動力部の図面で、渡すものは最後となる。鳴海殿、ライドウくんがこれまでの資料の“写し”を個人的に保有している可能性は、有ると思うかね」
「いやまぁ、そりゃあこういうの面白いでしょ。でもどうせ単独じゃ造りよう無いんだし、それくらい許され──」
 擁護した所で虚しいか、こういう機密の取り扱いに縁が有った身としては、何とも云い難い。
 しかし定吉もしくじったな、ライドウがちゃっかり目を通すどころか拝借する可能性だって予測出来た筈だ。それなのに機関の使者ではなく、ライドウに渡してしまっていた。完全に情が入っている、帝都を救った一青年に多少のお目こぼしとしてくれてやったのだろう。
 分からんでも無いがね。俺がこの男の立場だったとして、やらないとは断言出来ない。
 ライドウは……あいつは時折不穏な空気を醸し出すが、戦争を始める類の人間じゃない。それだけは分かる、そう思っている。
 だからこそ渡して、見せてしまいそうだ。少年倶楽部あたりに載っている、模型の設計図のノリで。
 子供みたいな顔するのかな、とか勝手に妄想しながら。
「悪用はしないと信じている、だからこれもそのまま彼に渡す」
「わざわざ俺に相談したのは……見張っておけって、そういう事?」
「書生を預かる探偵として、頼むよ鳴海殿」
「一応肝に銘じておくけど、責任にまで肩貸さないぞ」
「飛び火した場合は、一発殴ってくれて構わない」
 おいおい、それこそ今更だよ。しかも一発って……ケチだなぁ、俺にかました物量忘れてるのか?
 人の気も知らず、定吉は図面を封筒に戻し始めた。

「渡さないでください」

 突然の声にハッとした、隣の定吉からも動揺が見えた。いつの間に矢代君が居たのか、全く分からなかった。
 お盆には湯呑とカップが並んでいる、緑茶と珈琲の両方用意したのか、律儀。そんなどうでもいい所を確認して冷静になろうとしたが、この時点で欠いている。
 ひとまず深呼吸した、定吉は俺に視線を送ってきた。知っている範囲の説明で返す。
「ライドウの友人……いや、補佐をしている子」
「話を聴いていたのか? 何処から?」
 矢代君は定吉の質問には答えず、淡々と……それでいて強い語気で唱え始めた。
「あいつ、やっぱり動かすつもり満々だったんじゃないか。でも大丈夫、他は全部燃やしましたから、全部……大丈夫だ、何処にも行けない……はは、ざまあみろ」
 してやったり、という顔に見えた。お茶汲みの体をした少年は、何処か嬉々とした様子で続ける。
「それも燃やしましょう」
 声音の奥底から、背筋の冷えるような威圧を感じていた。まるで矢代君じゃないみたいだ、それともこれが壁の向こう側だったのか。
 定吉は無言で封筒を差し出した、手が震えている。
 声の出せない俺はといえば、さっき彼から“壊した”と聴いたボトルシップの話を何故か思い出していた──
 
 

-了-


* あとがき *

2018年、ようやく超力をクリアした為、その印象が残るうちにと書いた。
地下造船所がアバドン王に出てこない事を、なんとなく勿体なく感じたせいもある(実際もう用は無い場所なのだが)
後半を鳴海視点にしたが、未だに彼のキャラが掴めていない気がする(定吉にも言える事だが、二面見えるとしてそのどちらが本質、または理想なのかという事を考える)

結局ライドウが「本当に旅立つ為に造船していたのか」「渡された設計図を写し、それを利用していたのか」は分からない。
どう思います?



《セメダインA号》
大正12年(1923)に完成、耐水・耐熱性に難有りの為改良されたのがセメダインC(Bはは失敗したらしい)

《第四台場》
現在の天王洲アイル、シーフォート付近。人工島であり、大正14年(1925)に埋め立てされ陸続きとなる。

《イッポンダタラ、こいつは恐らくライドウの仲魔だ。以前も部屋の修繕だとか、露天風呂の施工をさせられていた。》
参照…長編徒花『栗の花の薫り』、SS『脈』

《『コキ使うかぁぁぁぁぁ!?』》
ゲーム中で実際こういう台詞があった筈(マッド口調悪魔全般か)

《ゲヘナと入れ替える。》
火力UPしそうなイメージだから。

《「あ、このカップはタヱさんのですよ」》
拍手御礼SS『フラストレーション・イルミネーション』にて、それっぽい描写をした事を思いだし。