「お待たせライドウ」
「何がお待たせだ、白々しい奴」
「最初君だと気付かなかったのだよ、いつもと恰好が違うからね」
 本日は銀座の片隅、栗須坂ガード下で待ち合わせだった。
 頭から爪先まで、かっちり漆黒の彼が佇むものと思って居たので、外装より先に気配で判断した。腕組みし煙草を噴かす青年は、間違いなくライドウの気をしている。あの冷たく刺す様で、甘い薫りの魔力と生体エネルギー。
 ぼくは引き寄せられる体で、歩調を変えずそのまま接近し、声を掛けたのがたった今。
「恰好が違うからだとさ、それは小一時間待たせた云い訳には苦しいね」
「そんなに待たせたかい」
「時計くらい持ち歩いたら如何」
「今日の装備はやけに軽いね、ライドウ」
「フン、僕の話を聞いてるのかね」
 何やら薄暗い店の固まる路地に入り込み、その一角でライドウは煙草を処分した。ブリキバケツの灰皿は、木製ベンチの傍にぽつりと置かれており、元々存在を知らねば容易に見過ごすであろう、ひっそりとしたものだ。
「この店に入るの?」
 問えば、残数確認した煙草の箱を、するりとポケットに突っ込むライドウがニタリと哂った。
「そうだルイ、君は弾けないの? ヴァイオリンとか」
「触れた事も無いな」
「トランクケースに楽器でも詰めて、持ち歩いてそうな風貌の癖に」
「偏見だな、君こそ外套の下に帯刀している風には思えないよ。此処の学生の子供は、ガッコウ鞄という物を提げるのだろう?」
「今は外套を着ていないし、帯刀もしていない」
「そう、それの理由が訊きたいのだよライドウ」
「先ず、今日はライドウと呼んでくれるな」
 何やら会話がぐらつく、行ったり来たりをしている様に感じる、音の跳ね返りに違和感有り。
 いつもすんなりきっぱりと答えを吐くライドウが、どこか渋っている、そんな気がした。
「夜と呼べば良いの? でも普段だって、五割程度はそちらで呼んでいるだろう」
「良いかねルイ、今日僕は、葛葉ライドウでは無い」
「辞めたの? おめでとう」
「おい誰が辞めたと云った。休暇だよ休暇、今日は葛葉ライドウの十四代目から離れたいのさ」
「それは構わないけど、護身の為の装備と違ったのかい、あれ等は」
「一般人はね、軍属サマナーが如き恰好をして歩いておらぬ。この程度が、普通の恰好」
 黒帯の撒かれた、彩度の低いカンカン帽。立襟ではなく、開襟シャツにループタイ。サスペンダーが背で交差し、いつものホルスターとは違う趣の陰影を落としている。
 やや薄手、グレーのスラックスから覗くチェーンは、恐らく懐中時計。いくら待ちぼうけを喰らったのか、あれで定期的に確認していたのだろうか。そんな姿を思い浮かべると、よく分からないが可笑しかった。
「確かに、よく見る服装だ」
 しかし、君が着こなせば、とても上等に見える。同時に、やや無防備にも見えた。
「ま、何か遭ったらその時はルイが身を挺して、僕を護ってくれ給え」
「どうしてそうなるの、ぼくも丸腰だが」
「……どうだかね」
 謎の疑心をぼくに吐きつけたライドウが、一足先に店舗に入る。続いてお邪魔すると、木製品らしき匂いが肉体を通じてぼくに入って来た。触った方が早いかと思い、ひとつ手に取ってみる。
「落とすでないよ」
「そんなに簡単に壊れるの?」
「楽器など、二度と全く同じ物は作れないだろう」
「ほう、そうなのか」
 全く同じものを創る方が容易いと、どうやら無意識に抱いていた様だ。手にした先から、この楽器の元の姿が浮かんでくる……表に触れればスプルース、他の場所はメイプル……此処はボックスウッド、傍の弦は羊の内側。
「ルイ、べたべた触るな」
「ごめんね。分かったから、もう充分」
 持っていた楽器を、すんなり明け渡したぼく。散々触れた挙句の執着無さに、釈然としない眼を見せたライドウ。受け取ったソレを頸に当て、奏者らしき構えを取る。かと思えば別の楽器を手にし、同じ様に扱う……衣服でいう試着だろうか。
「その楽器がヴァイオリン?」
「ククッ、よもやそんなレベルとは、先程のは愚問だったね」
「弾く為に買いに来たのか」
「すぐには決めぬよ。しかし鈴木製ヴァイオリンなら容易に入手出来ると思っていたのに、品薄になるとはね」
「演奏家に転職するの?」
「まだ弾いた事も無いのに、出来る訳ないだろう」
「未経験なのに様になるとは、流石だね夜」
 褒めたつもりだったのに、反射的に放るかの如く商品を戻すライドウ。沢山飾られたヴァイオリンの気配、まるで森の中。張り詰めた弦を最初に鳴らしたのは、楽器でなくライドウの方だった。
「辞める事になれば、手に職くらい必要だろう」
「それで楽器?」
「別に他の分野だって構わないさ。ただしヴァイオリンならそう場所を取らぬから、銀楼閣でも自習出来る」
「君、最近レコード買ってたよね、確か諏訪根自子だ、ヴァイオリン奏者だったのかい彼女」
「そういう事はいちいち記憶しているのだね」
 時期の近い情報は引き出し易い、新世界で自ら喋っていたではないか。記憶してやらない方が嬉しいのだろうか、しかしするしない以前の話で、ぼくは向かい合って放たれた情報は吸い込んでしまうのだ、人間が空気を吸う様に。


「だから、良い講師でも紹介してくれないかと思ってね、とりあえず君に訊いたのさルイ」
 結局、何も買わずに出た、冷やかしというやつだ。
 店の外は、建材と排気の匂いが漂っている。入店前には感じなかったのに、こういう現象を何というのか。
「ぼくが弾けたなら、夜はぼくに師事したというのかい」
「手取り足取り、みっちり教えて頂きたかったね」
「その調子では、別の授業に流れそうだ」
「何か云った?」
 聴こえているから、そう反響するのだろう。
「しかし、悪魔に居そうなものだけど? 楽器全般を得意とする存在が」
「ああ、キンナリー辺りかね、しかし連中の扱う楽器はヴァイオリンと類が違う、まあ弦楽器といえば同じだが……」
 唐突に言葉を飲み込むライドウ。ぼくの靴の側面を、軽く爪先で小突いて来た。感触が同じ、つまり靴は普段の物という事か。
「悪魔の話をさせるでないよ」
「夜が展開させた」
「最初に引っ張り出したのは其方だよ」
 これはこれは、狂った調律。いつも意気揚々と、雨音みたいにはしゃいで悪魔を語るというのに。今日は本当に遮断したいらしい。そうとなれば少し面白い、今後数刻、この応酬が繰り返される事になろう。


 案の定、百貨店の移動展覧会に行けばこれはあの悪魔に似ている≠ネどと、つい癖が出ていた。純粋に愉しめたのだろうか、しまいには悪魔と繋げない様に尽力する、君の忍耐勝負になっていた気がする。
 道中、往来を遮断するかの様に寝そべるラミアを、明らかに跨いでいた君。彼女は行き交う人々に踏まれる事で快を得ている様子だったから、普段の君でも踏んでやらなかったかもしれないが、それなら跨いでやる際、失笑のひとつでもしたであろう。今日はどっちつかずの中途半端、逆に意識し過ぎか、無表情で跨いでいた。視えぬフリ、というのも、ぼくの傍では難易度が上がるらしい。
 普段であれば新世界に行くところを、一般客の多い喫茶店を選んで入る。相変わらず決めるのが早い君は、給仕係に注文した直後、誰に宛てるでも無くつぶやいた。
「疲れたよ」
 労りが欲しい訳でもあるまい、とはいえ今日は付き合ってやるつもりで来たのだから、お喋りさせてやろう。
「もしヴァイオリンが上達した場合、演奏したい曲など有るの?」
「チゴイネルワイゼン」
「どの様な曲?」
 ぼくの問いが無茶だったか、暫く黙りこくるライドウ。おもむろに立ち上がり、カウンター近くの蓄音機に向かい、また別の給仕係に断りを入れ始める。小銭入れを出すと、相手に幾らか渡し……席に戻る頃には、取り替えられたレコード盤に針が落とされた。
「これがチゴイネルワイゼン」
「わざわざリクエストしてくれたのかい、有難う」
「……僕が聴きたかった、それだけさ」
 こうして流して貰ったものの、楽曲の感想など浮かばなかった。
 やがて届いたシベリヤにかぶりつくライドウ、珈琲のアイスがカラリと鳴った。チゴイネルワイゼンの音か、氷の音か、偶に判らなくなる。何はともあれ、一番大きく響く音は、目の前の人間に違いない。ぼくに聴かせようと、狙って声を投げてくるのだから。風鳴りの様に、その息づかいも聴こえるのだから。
「ああ、なるほど、これは曲の中に曲が無いかい?」
 ぼくの突然の言葉に、訝しむライドウ。
「説明が足りぬ」
「この空間も曲で、この世界も曲だ、宇宙は無数にあり、それ等もすべて曲だ。その中においても極小といえるこの空間でさえ、あの小さな板にやき付けられた人間の作った世界≠展開しているだから、箱庭の中の箱庭の様だ」
「多過ぎる」
 山場を越えたチゴイネルワイゼンもやがて終わったのか、別のレコードが置き替えられる。シベリヤをあっという間に平らげたライドウは、珈琲に喉を鳴らし、氷を噛み砕く。口が空になった途端、また喋り始めた。
「これはパガニーニのヴァイオリン協奏曲第2番、第3楽章」
「これも弾きたい?」
「弾けるものは何でも弾きたいさ。ああ、しかしパガニーニならcaprice(カプリス)、24奇想曲の5番が良いな」
「激しい曲?」
「……まあ、忙しい曲ではあるが。さては君、勝手なイメージで云ってるな」
「nocturnus≠ンたいな名の曲系統が有ったよね」
「ああ……夜想曲、nocturne(ノクターン)かい」
「厳かな展開の曲が多いだろう、確か。夜は自分の世界が激しいのだから、演る曲くらいは安らかなものを選べば?」
「旋律にそのまま眠り、二度と起きぬのは御免だからね」
 少し機嫌を悪くしたな、思った通り。
 もう食べる気も無いのか、席を立つライドウ。水しか飲まなかったぼくは、折角なので蓄音機のレコードを(お金をちゃんと渡し)リクエストしてから、一足遅く退店した。


 もう夕暮れ空。あっという間……なのだろう、ライドウにとっては。
 一瞬一瞬を大事に思えない此方としては、それこそ幾度も回されるレコード盤の世界を見ているのであり、針も自由に落とせる、それだけだ。
「ねえ夜、ああいった曲を演奏する面々を召喚すれば?」
 隣の青年の影を踏まない様、注意しつつ並び歩く。
「召喚って君ねえ、サマナーは降霊術専門では無いのだよ」
「人間の巨匠に混じって、悪魔も居たかもしれないよ」
「パガニーニの技術は悪魔に魂を売った対価≠セの云われていたね、そういえば。しかし、それこそ戯言さ、人間技では無いだと? 笑わせる、人間が人間を見縊ってどうする、パガニーニの努力と才を悪魔の手柄にするでないよ、全く」
 何処か苛立ちの滲む声音で、ひとしきり語ったライドウ。暫しの沈黙、そして肩を揺らし始め……やがて声を上げて笑い出す。
「もう止めだ、悪魔と縁を切るのは無理だ」
「夜にしては根を上げるのが早い」
「サマナーに限らず、人間である限り悪魔の話題は避けられぬよ。むしろ視えぬ人間達こそが、彼等の形を創っている様なものだからね。常に隣り合わせの存在であり、其れを避けんと意識する程、僕はサマナーとしての影を濃くするのだろうよ」
「ではもうライドウと呼んで大丈夫なのかい」
 問うた瞬間、また蹴られた。いつもと違い、揺れるのは外套でなくループタイ。
「葛葉ライドウでも、サマナーでも無い僕とは……付き合えないのか」
「まだ夜って呼んでいて欲しいの?」
「何故いちいち確認する?」
 確認すれば早いからだろう、君の望む最適解への近道なのに、それこそ何故いつもはじくのだか。
 でも、いつもどうやってはじくのか、弾くのか、音が聴きたい……そんな気はする。
「丸腰で新世界に行くのは嫌だね、今日は解散かな」
 帰路への分岐点で、独り言の様に零すライドウ。
 丸腰、というのが実は怪しい。ぼくの思うに、確実に一本だけ管を所持している。そして、ぼくに明かしたくも無いのだろう。だからこそ、知りたい、暴いてやりたい。
「もう少し付き合ってよ、夜」
「明後日、半日はかかる討伐依頼が入っているのだよ、コウリュウで降りるには狭いので暫く徒歩」
「帰って寝たい?」
「察したのなら此処でお別れ、それで良いだろう」
「ぼくと寝たら良いじゃない、違うかね」
 一瞬強張ったライドウ。その手を容赦なく掴み、返事も待たずに歩き出す。どうした、止めないのか、このままではあの風俗施設に着いてしまうよ、この道程で分かる筈だ、ぼくが君をどうするのかくらい。
「おい、今日は……しないぞ、ルイ」
「気に入ったヴァイオリン、買ってあげるから」
「幼子じゃあるまい、あれくらい自分で買える」
「今日は君、ただの紺野夜なのだろう、その君を抱きたいと云っているの」
 沈黙……再生が止まってしまった。
 あれよあれよという間に、お約束の蕎麦屋に辿り着く。今日はぼくが代金を払って、ライドウを引っ張って行く。
 普段といでたちの違う彼に気付かぬ従業員、ぼくが別人を連れ込んだと思ったのだろう、怪訝な表情が語っていた。すれ違う際、ようやくライドウだと認識した様子で、更に困惑していた。それも仕方ない、ぼくが引っ張られ二階に上がっていくのが恒例だったから。


「だから、しないと云った」
「嫌なの?」
「今日でなければ甘受したさ」
 頑ななライドウは、部屋に入るなり布団を蹴散らした。これまでは、ぼくを其処へ目掛け落としてきたのに。そして自らも脱ぎつつ、ぼくを脱がし、申し訳程度の武器を携えながらまぐわっていたのだ。
「具合が悪い?」
「都合と、虫の居所は悪いね」
「怖い?」
「抜かせ、誰がお前を──」
 硬直する身を抱き締め、叫ぶ唇を吸った。音が吸い込まれる、心臓の音がぼくに入って来る、何拍子だろう、とりあえずノクターンには程遠い、そんな曲。
 背中に交差するサスペンダーと、シャツの隙間に指を差す。グローブ越しにも分かる、肉と骨のリズムが。表面の傷をざりざりと撫ぞってやれば、針飛びの様に喘いだ。それさえも飲みこんで、ぼくの中で君を再生させる。
 唇を離せば、何処か放心状態のライドウ。音を全部吸い取ってしまった様な気がして、呼んでみる。
「夜」
 は、と目覚めたばかりの様に、君は焦点を定める。咄嗟にぼくを突き飛ばし数歩後ずさるが、蹴られ丸まった布団につまずいて体勢を崩した。
 ほぼ同時だ、ぼくは圧し掛かった、普段の君には見せぬ俊敏さで。その両の手首を掴み、その腰に跨り、その眼を見下ろす姿勢で。
 君から落ちたカンカン帽が、ころころ、パタンと遠くに逃げた。
「もしかして、本当に丸腰なのかな」
 優しく声を掛けたつもりが、却って好くなかったらしい。掴んだ手首の脈が教えてくれる、不協和音、ライドウの……夜の中の不安が流れ込んで来る、焦り、それと僅かながら……情欲が。
「……それなら、何だというのだ」
「やっぱり怖いんだね」
「気乗りせぬだけだ、もう好きにし給え」
「いいの?」
「いちいち確認するな!」
 お許しも出たので、一旦両手は解放してあげた。しかし間髪は入れず、ライドウのループタイの紐の先端を掴むと、金具を思い切り上げた。当然絞まる首。紐輪に隙間を作らんと、指で掻き毟る君。その隆起する喉を舐め上げれば、苦しそうに啼いた。ノイズ雑じりの音も聴きたくて、より一層絞め上げる、搾り出された悲鳴を吸う。息継ぎを与え、また絞めて吸う。その繰り返しを、ぼくの気の済むまでやった。やがてするすると金具を下げれば、ライドウの白い頸に、くっきり赤い痕が残っている。
「っ……は、ぁ……っぐ、げほッ、っげえぇッ」
「怖い?」
 これまで一度たりともしなかった、君への暴力行為。丸腰で、しかも今日だけとはいえライドウを脱ぎ捨てた君に対して、それを揮うぼくは、ヒトの倫理では悪漢なのだろう。
 ぼくがライドウに興味を持つのは間違い無く、まだ聴いた事の無い彼の音を聴きたい、その程度の理由でやった。君へのリクエストに過ぎない、ああそうだ、対価を払わねばいけない。
「あげるよ、MAG(マグネタイト)」
「…………一般人は、MAGなぞ要求しない」
「ぼくが君を弾きたいから、あげるのだけど」
「君は楽器の扱いが雑だ」
 まさか、慎重過ぎるくらい力加減しているのに。
「そんな簡単に壊れないだろう、カラスの連中には滅茶苦茶に弾かせるのに」
「好きでさせている訳無い、僕を揶揄っているのかルイ」
「本気だとすれば、どうなの……夜?」
「……何の意図で」
 明らかに乱れている君の心音、何も今に限った話ではない。今日、隣り合ってからずっとだ。どうやら君は《葛葉ライドウ》という衣を脱げば、身も心も弱くなるらしい。薄々自覚も有るのだろう、だから拒んだのだ。しかし本音は云えないのだろうな、その音色は君自身を蝕むと分かっているから。
「今日はね、君に裸になってもらおうかと思って」
「いつも服は脱ぐ」
「全部じゃないだろう、それにぼくの方が結構剥かれている事が多い」
「これが君の紺野夜に対する本来の扱い≠ニいう事かい」
 どう答えようか、深い理由など無いのに。さっさと管の在処が知りたい≠ニ云ってしまおうか。
 考えながらも、手は動かした。首のループタイを、絞首刑の罪人を救うが如く外してやり。サスペンダーを肩からゆるゆると滑らせ、シャツの釦を上から順に外していく。
 ぼくは未だに帽子も、グローブも着けたまま。一方的にライドウを露出させていく事に、少しだけ愉しさを感じていた。さあ、何処から武器が出て来るだろう?
 今日は薄い木綿の白足袋を靴下代わりに履いている、つまりソックスガーターに挟んである事は無い。下穿きに隠してあるだろうか、剥いだ衣類の内側にポケットなど有ったかもしれない。いや、まだ身に着けているスラックスか……
「そうだ、残りは君が自分で取り払ってよ、夜」
「先刻の返答は」
 ああ、随分と気にしている。強引なぼくが、君を犯す連中と重なって見えたのかもね。覗こうとすれば容易い、特に今日の君は隙だらけだし。
「素の君が可愛いからだよ、夜」
 プツン、と張り詰めた弦が切れた音。ライドウは上体を起こし、此方の胸板を強く掌打した。
 ぼくは軽くよろけてやり、後ろ手を畳に着く。何の感情も湧かなかった、攻撃された事は状況をみればおかしくも無い。そう、先刻聴いた曲の様に……旋律に意識を向けるだけ。そもそも人間は、感情を湧かした状態で《本当の音》が聴けているのか?
 いいや無粋だった……本物の音を知覚しただけでは、今のぼくの様に何も出てこない、それだけだ。つまり、新鮮な感覚を得たいのならば感情を以てして£ョくのだ。
「ねえ、ぼくに無理矢理剥がされたいの?」
「一体……どうしたんだルイ、お前らしく無い」
「ぼくらしさとは? ぼくも普段の君の様に、何か別の者を演じていると?」
「確かに、僕とした事がらしさ≠ネどと妙な事を云ってしまった。しかし聞き捨てならない、僕は別人を演じてなどはいない。さ、脚を退けてくれ給え、服を着直す──」
 やっと気付いたらしい、己のスラックスから管が抜かれていた事に。
 己の脚を探るライドウの挙動が可笑しくて、少し心が疼いてしまった、なるほどこうして意図せず感情が発生する。
「ただの遊戯だよ夜、返して欲しければ全部脱いで」
 スラックスの裾は加工されており、管一本分の挿せるポケットが付いていた。君の目の前に、奪ったそれをひらひらと、指揮棒が如く翳す。すぐさま飛び掛かって来るかと思いきや、ライドウは更に身を強張らせ、眉間の影を濃くした。
「其れを……下手に弄れば殺す、これは冗談ではないからな」
「君の仕事道具まで雑に扱う事はしないよ」
 そう穏やかに返せば、理由が出来たせいか何の未練も無くスラックスから脚を抜くライドウ。折角のストリップショウだが、ぼくは下穿きの解かれる音を聴きながら管を眺めていた。手入れされてはいるのだろう、しかし少しばかり古ぼけている……そして、肝心の中身がない。つまりこれは武器とは云えない、只の容器。
「ねえ、これにはどんな悪魔が入っているの?」
「教える義理は無い」
 撥ねつける様に返事するライドウ、本当にこれが大事らしい。少し興味が湧いた、理由が知りたい。
「冷たいな、まあ君はいつもそうだった。行為の最中も、MAGに夢中」
「当然だろう、僕に利が無ければ自ら求めなどせぬよ」
「ぼくと付き合っているのでなくて、それはMAGと付き合っているのでは?」
「会えば必ず舐めていると? フン、そこまで干乾びちゃいないさ、悪魔と違って自然と回復もする。ルイ、お前のは……そう、酒の様なものだ、飲ませてくれると云うのなら飲むだけ」
 ぼくはおもむろに立ち上がり、手にした管の先端で、ライドウの鎖骨の窪みを辿る。まだ奪い返して来ない……慎重だ。下手に動けば握り潰されるとでも思っているのかな、無論可能だが。
「そう、ならば今日はあげない、MAG」
 管を引っ込めて、ジャケットの胸ポケットにそっと挿した。その瞬間の、君の嫌そうな眼といったら。ぼくはそれを無視して、ジャケットだけ脱ぎハンガーに掛け、壁に飾った。一輪の無機質な花の様に、管は窓からの陽で光る。もう茜色も終わり、蒼色になる刻限か。
「一般人はMAGを欲しがらないと、君が自ら云った。今日はライドウではなく、紺野夜なのだろう?」
「勝手にすれば良い、腰もそっちが振り給え」
「では遠慮なく」
 ライドウの脚を片腕でさらい横に抱き上げ、すぐ転がした。布団を敷き直す事もせず、畳の上に四つ這いにさせ。
「手、使わないで外して」
 片手ずつ眼前に翳せば、グローブの革を噛むライドウ。ずりずりと食い下がり、脱げた得物は脇に放る。それは獣の如き仕草だというのに、平然とやってのける。
「有難う」
 いつもは君がさらりと掬う油を、今日はぼくが指にひと掬いして、ひたすらひたすら塗り込めた。君はいつも軽く馴染ませればよしとするが、最早これが目的といわんばかりに愛撫してやる。いつもと違い声を殺すものだから、粘着質な音がやたら目立つ。そういえば、楽器店にも油が売っていたね……
「夜、もう良い?」
「真面目に答えるだけ無駄だろうからね、好きにし給え」
 声だけでなく、感情も殺しているのか。ぼくに対しては初めてともいえる姿勢が、少し面白い。
「君も勃ってるね、ほら」
 分かり易い煽りと共に、前をさすってやる。其処以外の反応は無い、事実を否定も出来ず黙るのみか。
「入るよ?」
 わざわざ教えてから、普段と同程度に屹立させた肉で抉り込む。ぼくにとって、肉を介した直接の快感は無い、それでもこの行為が嫌いではない。ライドウの内臓から流れ来るのは、摩擦以上の感情だ。冷たい火傷とでも喩えるべきか、鋭い刺激が有る。MAGをやれば和らぐのだが、それを今日は敢えてしない。
 驚きも無いだろうと、これまで覗く事も無かった。今日は君の中身≠フ声を、気紛れに聴きたくなっただけ──……


 白く霞がかった視界が、徐々に鮮明になってきた。頬がひりつく、叩かれたらしい。
 腕は背で固く縛られている、首にも縄が掛かっていた。
 どうやら、胡坐をかいた男の一物に貫かれたまま気を失っていたらしい。
今回は小水じゃないぞ、見ろ
 けたたましい嗤いが幾重にも耳を詰る。男達の視線は、自分の股座に集結している。
 見慣れた白濁が散っていた、散々注がれてきた臭いそれ。
 だが、何やら様子がおかしい。
何を呆けた顔しとる、お前が吐き出したのだぞ
そんなに気持ち好かったか、ははは
 あまりの事実に声も出なかった。それを詰まらぬと感じたか、男の一人に縄を引かれ、首がみるみる絞まる。
 僅かな酸素を求め喘げば、其処を思い切り吸われ続けた。
淫乱狐め!

 帰路の途中、畦道に盛大に嘔吐し、続いて真夜中のせせらぎに突っ伏した。
 浅い場所だ、煽られた水面が月光を反射する。
 魚影の生体エネルギイが、蜘蛛の子を散らす様にして見えなくなった。
 奪われゆく体温が僅かな安らぎを与えてくれる、このまま朝まで浮いていれば誰が第一発見者となるだろうか。
 狐が死んだと喜ばれるか、そこまで想像すれば、つい先刻の記憶が甦った。
 どれだけ弄られようが、中に出されようが、もう慣れたと思っていた。
 今宵、その自負が崩れたのだ。
 只の生理現象なのだと、そんな事は知っている、随分と幼い頃に書物で知った。
 あの豚共と同じものを、吐き出しているのだ、吐き出してしまったのだ、あんな行為の中で。
 水の中で、雄を扱いた。いつまで経ってもぬるぬるしている、自分から滲んでいるのか、まさか。
 この穢れは己の内より出でるのか?

えっ、射精してみせろ、という事ですか?
 リンに大笑いされた、しかし大真面目に説明してはくれた。
 悪魔はMAGにより顕在する身、よってそれらしい行為もブツも、人の身を写す悪魔のみがそう形作ると。
 もしくは、人間からはそう視えるだけなのだと。
ですから私に出来ぬ事も有りません、ま、今の話で既に解決したでしょうから、お見せするまでも無いかと
 茶化すでもなく問うた事を悔いた、恐らく何かを察された。
 人間でなければ、犯されようとあんな恥を吐き散らさずに済んだというのに。
 ああそうか、連中とて腐ってもサマナー、此方もMAGに充てられているのかもしれない。
 そういう形の反応も、有るだろう。
 葛葉を襲名すれば、更にMAGを敏感に流す身と成る。
 そう……僕が《葛葉ライドウ》であれば、他者の情欲に塗れる機会も多かろう。
 だが、それを利用する事も出来るのだ……
 
  良いのだろ、好いのだろ、お前の躰は歓喜する事を覚えた

 うまく流せ、意識するな、鼓膜を詰る煩い嗤い声も、いつかは蝉の嘆きに、そして椋鳥の囀りに、やがて風鳴りとなり、止む。今暫く耐えれば良い、ライドウで在る間は──……

  そり勃つ証、其れがお前の肉欲って事さ、一方で涼しい顔してるのだから恐ろしい奴よ
  男だろう、出るのは当然、おんなじイキモノだからな俺達……あぁ孔兄弟の間違いか、はっはは
  まぁだそんな眼をするんか紺、じゃ何だこの垂らしてんのは

  ねえ、フーってあのオッサン達にされるの好きなの?∞いったーい、だって写真だと哂ってたんだもの、いつもみたいに∞ねえ、そんなに鍛えたらもうチャイナドレス着れなくなっちゃうよ∞いったーい、だって似合ってたじゃない
 
  けしからんな連中、お前をいくら美しく縛ろうと、縄が邪魔だと切ってしまう、何も理解してない∞形崩さず飾るだけで良いというに、お前からわざわざ精を出す必要など無いというに、お前は周囲を煽る作品……そう、MAGの宿った無機物! 鑑賞者を狂わせるから! 仕方の無い事象なのだよこれは!

  そういえば紺野君、リン師匠は君が御上に受けている無体を知っているんですか∞助けてって云わないんです? 師匠は君の願いなら聞くと思うけどなあ、管にも入らず一緒に居るんでしょいつも。それとも、御上衆にされている方が好都合なんですか?
  
  どうせお前が呪ったんだろ、おれのこのイボイボの頬! 薬塗ってようやっと抑えられる体液! 舐めろよ、舐めろ狐、自業自得だろがよぉ∞ふっひ……どうよ、蟇蛙にケツ掘られてる気分は、コッチにもイボ出来たのは好都合だったなぁ、あんがとよ、御礼に中にタップリと──……… … ……

  …  ……
  
   …

 ノイズも増えてきた事だし、巻き戻すのを止めた。残りも似た様なものだろう。ライドウが自ら話す情報に、嘘偽りは恐らく無い。ただし、ぼくに話していたのはそこそこ聴ける音≠セけを集めた接続曲だったようだが。
「ね、気持ち好い?」
 さっき聴こえたのと同じ台詞を、耳元で囁いてみた。歯を食い縛るライドウ、伴いぼくの肉も締め上げられた。
「夜って、ぼくに出させてばかりだったね。君が出す所って、見た記憶が無いな」
 ぼくは自分のタイを解くと、ライドウを後ろ手に縛る、さっき見た通りに。
 片腕を伸ばし、放っておいたループタイを掴み寄せ、再びライドウの首に掛ける。
「悪趣味」
「夜に悪趣味と云われる日が来るとは思わなかったよ」
「ぅうあ、ッ!」
 断りも無くずるりと抜けば、畳にくずおれ軽く痙攣している君。休む間も与えず、胡坐の姿勢を取ったぼくはおねだり≠オた。
「此処に座って?」
 縛られたままの腕が使えないので、君は芋虫が如く上体を起こし、やがてふらふらと立ち上がった。振り返りぼくを見下ろすその眼は、哂っていない。
「向かい合ってが良いな」
 先手を打てば、一瞬目元を引き攣らせたライドウが距離を詰めて来る。片脚でぼくの膝を跨ぎ、ゆっくりと腰を低くしていく。ぼくの先端が触れ、ぬぶりと君を割り開く。
「……っ……は」
 いよいよバランスを崩したライドウ、自重で深々と打たれる杭は、君をちょうど充たす程度のサイズにしてあるのだが、如何かな。確かめる様に覗き込めば、視線を逸らされた。
「君はライドウではなく、今は只の一般人という事だから、いつもと違う反応をしても驚かないよ」
「煩い」
 つれない反応に対し、紐で締め上げる。少しでも酸素を取り入れておこうとする君の口を、丹念に吸った。身を捩り、凄い絞めつけてくる君。ぼくは紐を緩めず、むしろ紐の先端を掴んだその指で、ライドウの雄を扱いた、ぐちぐちと音がする。
 くつろげただけのボトムが少し窮屈だが、此方は脱がないと決めている。
「っぷ、はァッ」
 とうとう頭を捻って、ぼくの口から逃れていったライドウ。少し紐を緩めてあげると、いくらか咽て唾液を垂らした。
「もう一度訊くね、怖い?」
 ぐちぐちにちにち、上下に擦る手は止めないまま問う。
「は、はぁッ、あ、っ、ぁ……ル、イ」
「怖い?」
「こ……ン、コンコンコンッ!」
 突如毛色の違う音を発したライドウに、ぼくは愛撫の手を止めた。甲高く何処か狂った音色に聴こえた、絞め過ぎたせいでは無い筈。
「は……はぁっ……フッ、フフッ……は、ぁ、はぁ……いつも、こうして……鳴いてるのさ」
「ほう、どういった時に」
「里で犯される僕は、狐だから」
「今は紺野夜じゃないの?」
「こんな事するのは葛葉ライドウの十四代目だけだ!」
「駄目、今の君は紺野夜、狐でもライドウでも無い、いいね夜」
 腕の戒めを解いてやり、ぼくをずるんと引き抜いた。まだ腕が痺れているだろうに、咄嗟に受け身を取る君。流石だ、しかし弱々しく見える、裸身は理由にならない。
「背中の傷に触れたら可哀想だからね」
 ぼくは丸まった敷布団を、畳縁の向きも気にせず広げた。警戒しつつも中途半端に火照ったライドウを、抱き寄せ耳元に囁く。
「本当の君だって激しい≠フが好きなんだろう、ライドウの所為にせずとも良いのに」
「それこそ勝手なイメージで云っている」
「ぼくは素直な音が聴きたいのだよ」
 ライドウの膝裏に腕を差し入れ、肩を支えつつ仰向けに横たえる。もう蹴る事も忘れたか、血も見えぬのに傷だらけの君。
「違う、僕はこんな、あ」
 ぼくに一物をしゃぶられる君が、背の布地に爪を立て、何か喚いている。それはやがて切ない旋律となり、みるみるこの口を満たした。当然の様にMAGが含まれており、舌の上で炭酸の様にぱちぱち弾ぜる。ひとまず嚥下してみれば、ぼくの中の闇に消え、何も聴こえなくなった。
「いつもは夜がしてくれるからね、お返し」
 感謝の気持ちなど何処にも無かった、買うつもりも無いのに楽器を鳴らす、あの行為に等しい。
「うっ……グぇ」
 下から吐いたと思えば、お次は上から、忙しい男だ。僅かだが吐き戻したライドウの、その汚れた唇を舐め上げる。シベリヤの味がしたのかは、判らない。
「何を恐れるの夜、欲望無くしては人足り得ない、原罪あっての現在だろう、おっと君の洒落好きが伝染ってしまった」
 ライドウの汗ばむ額、艶めく黒髪に指を潜らせる。切れ長な眼、黒々とした睫毛、……どの角度から眺めても、美しいと思わせる造形美を持っている。武器とも弱点ともいえる其れは、君の特徴。持って生まれた、君の人間≠フ要素。例え里の外で育とうが、何かしら遭ったろう。その場合、君はいったい何の所為にしたのだろうか?
「いいかい、この行為に利害関係は無い、君がライドウだからでも無い、理由が有るとすれば……」
 人間の感覚に、言葉に置き替えてみる。
「そうだね夜、ぼくが君を好いているからだよ。君を抱く人間達の誰よりも」
 適切な表現なのか、判定する者は誰も居ない。ぼく等の関係を深く知る第三者が、存在しないから。
「フ、フフッ、同じ台詞を吐く奴は、ごまんと居たよ……」
「望まぬ相手からもたらされる刺激は《ライドウ》に押し付けてきたのだろう? さて此れ≠ワでライドウに預けてしまって良いの?」
「此れとは」
「君の望む相手からの快楽」
 一瞬ぼくの眼を凝視し、ややあって震え始めたライドウ。喉を傷めたか、掠れた高笑いが部屋に響く。
「僕がお前とセックスしたがっていたと、そう云いたいのかい」
「違うの?」
「利害関係に無ければ、この様な真似はせぬ」
「此れを悦んだとして、誰も君を淫猥とは責めないし。ねえ夜、躰と精神が乖離し続けると、いつか千切れてしまうぞ」
「……いっそ千切れて分裂したら良い」
「止めておきなよ、ぼくを取り合い喧嘩を始めるから」
「己惚れも程々にし給え」
「そう? だってぼくの事好きなんだろう、夜」
 予想通り、返事は無い。睨んでいるつもりだろうが君の眼には怯えが滲み、総身は硬直するばかり。
 強く張り過ぎた弦は、逆に脆くなるのに。武器だろうが、楽器だろうが。
「続きをしてあげる」
 再び繋ぐ、君の脚はぼくの双肩に乗せて、折れそうになるくらい突き立てて。
 布団を掻くその手にこの指を絡めて、掌を合わせて、鳴らない拍手を何度でも。
 君はといえば、嘔吐いているのか喘いでいるのか判らない、混じり合った音をぼくに聴かせてくる。
「ライドウである君は、相手を喰らわんとする獰猛な獣の様なのに。どうだい今の君は、果たしてどちらが本物なの?」
「……ぁ……はぁっ……偽物を、作った覚えは、ない」
「本当は、性行為など大嫌いなのだろう?」
「勝手、されるのは、何だろうと、あ、ぁッ……不愉快、だろうがっ」
「此れは十割十分、ぼくだけの勝手?」
 また停止、針を浮かせば音も途絶える。聡い君は気付いているだろう、達しそうな直前でぼくが止めている事。こういった責め苦は慣れたものだろうが、ぼく相手ではもどかしいだろうね。
「あの管、御守りか何か?」
 針を浮かす。
「実用性の無いものを肌身離さず持ち歩くとは、君にも偶像崇拝の心が有ったのだね」
 暫く鳴かせて、また浮かす。
「ぼくも、君をなぶる烏達と同じかな」
「いや……お前、は」
 トン、トンと、君という盤面で跳ね続けるぼく、摩擦で生まれる曲は愉快だ。
「……不快でないのに、吐き気がする」
「それは困ったね、心地好くなるまで、これから慣らしていこうか?」
「これから……次が有るというのか?」
「手取り足取り教えてあげる」
「嫌だね」
「恋人同士、情愛の伴う行為は清いものだよ」
「侵略行為でしか無いだろうが! 何が清いだとふざけるな、相手の肉を抉り細胞を破壊し、愛を語るとは滑稽だ! 麻痺させる為に快楽物質は流れ出す、繁殖の為だ、実に効率的に設計されたものだよヒトは! 神というのは姑息で無責任で正常に錯覚≠ェ出来ぬ者をヒトと見做さぬ! 良いか、お前がいくら行為理由に愛を持ち出そうと、そんな感情こそが──」
 叫ぶライドウの憎悪を呑み込む様に、唇を合わせた、舌は挿れずに角度を変えて、何度も啄ばむ様に。今云われた通りに、下肢からも思い切り抉り込み、静かに破壊し続ける。ぼくの着衣を貫通してくる君の心音が喧しい、鼓動に合わせ締め付けてくる、なんて激しい曲……それでも君は、まだ勝手なイメージと云うのだろうね。
「……ィ」
 うっとり聴き入っていると、微かに何かが混ざり始めた。ぼくの名を喘ぐ、ライドウの声だった。そっと唇を離し、真上から眺める。君の云うところの錯覚状態≠轤オく、その肢体は生理現象を完全発揮していた。白肌の端々に血色が滲む、やはり狐には見えない。
 布団まで濡らしているのは、散々焦らされた君の躰の不満であり、その坩堝にぼくの肉を突っ込み、響く水音で更に君の耳を苛める。
「もっと欲しい? いかせて欲しい?」
 ぴたり針を浮かせ、もう幾度目か分からない問い掛けをする。無言の抵抗により、また繰り返し……かと思えば、ぼくの予測は此処に来て裏切られた。
 無言には違い無かったが、君はとうとう泣き始めたのだ。忘我で自覚も無いのか、真っ直ぐにぼくを見上げ、眼に浮かべた涙を複雑なリズムで零す。何も聴こえない、落涙に音は無いのだと知った。
「夜」
 ぼくは唱え、いつの間にか君を掻き抱いていた。
 悦ばせようだとか、傷付けようだとか、そんな目的は何も無く、ただただ腰を打ち付けた。とにかく君の断末魔を、フィナーレを、疑似的にでも聴いてみたくなった、それだけ。


「お待たせライドウ」
「何がお待たせだ白々しい。以前よりマシだが、しかし三十分は遅れている」
「でも時計は買ったよ、ほら」
 ジャケットの裾を掴んで揺らせば、ポケットから零れるチェーンを一瞥したライドウが「持っていた所で確認実行せねば意味無い」と忌々しそうに吐き出した。
「ところで先日の依頼はどうだったの、長距離移動は疲れた?」
「君のせいで疲れが抜けきらず、普段の数倍きつかった気がするよ」
「大変申し訳なかった、あの日はMAG抜きだったからね」
 最近、暫く会っていなかった。恐らく避けられていたのだろう。今日は君の気が向いたか、もしくは先日の自分≠切り離す事に腐心した結果、ぼくを赦したか。
「MAGならば、例の依頼で悪魔から沢山吸ってやった」
「それはそれは、八つ当たりというやつだ」
「討伐依頼を完遂すれば、おのずとそういう形になる」
 頭の天辺から爪先まで漆黒、今日の君はいつも通りの葛葉ライドウ。煙草を指で構え、煙の輪を吐き出し、其れを自ら吹き消して哂う。
「先日は実際、疲れ果てたよ。君が詫びてくれるというのなら、是非そうして頂きたいものだね」
「今度銀座に行った時は、ヴァイオリン買ってあげるから」
「フン、結局物か……まあそれが堅実だ。あの店で一番高いのを指定するので、覚悟し給え」
「問題無い、どうぞ御自由に」
「仕入れ予定すら無い、ヤコプ・シュタイナーのやつが欲しいのだけどね本当は。まあ有り物で勘弁してやるよ」
 とてもお喋りな君、今日の調律は問題無いのだろう、心音もリズムは一定。外套の下は武器だらけ、身も心も武装済の《葛葉ライドウ》に、ちゃんと成っている。
「そうだ、君に聴かされたのがきっかけでね、時計のついでにチゴイネルワイゼンのレコードも買った」
「……ルイが?」
「蓄音機も一緒に」
 人間の作った曲など……己の中で幾度も、精確に音を再生する事は可能だ。しかし君と聴いたあのままで、肉体を介し聴いてみたくなったのだ。喫茶店でリクエストしたのも、あの曲の流れる空間を維持したかっただけ。君に似合っているとの、直感が有った。
 そう、あれからというもの、チゴイネルワイゼンを聴くと《夜》の声を思い出す。烈火の如く舞い踊り、反面もどかしく息を殺し、咽ぶ様なあの世界。ヴァイオリンの上達した君は、どんな風に弾くのかな、あの曲を。共鳴し過ぎて、逆に弾かなくなるかもね。
「ところでルイ、あれ等の使い方は分かるのかい」
「見よう見真似でやれば再生すると思っていた。結果、針とレコードはそれぞれ買い替える羽目になった、以上」
 期待を裏切らなかったか、腹を抱えて大笑いするライドウ。
「そら見た事か、不器用の物知らず、本当に何でもすぐ壊すのだから」
「夜は壊してやらなかったけどね」
 立ち止まるライドウ、一歩二歩先に進んだぼくも足を止めた。
 振り返ると同時に、拳か蹴りか、もしかすると刀か銃……とりあえず何かしら吹っ掛けられそうだね。
 劇伴はチゴイネルワイゼン第三楽章「Allegro molto vivace」でどうぞ。

-了-


* あとがき *
 ルイライ……最近どうやらブームらしい。ライドウを休む≠ニいうテーマから、いつの間にか音楽的なテーマに移行していた。珍しく嫌がっているライドウ、というより此処まで極端に受け身に書いたのは初めてかもしれない。
 ライドウは《ライドウ》と《紺野夜》を切り離す事で、ダメージを軽減させている。性的興奮と生理現象と、理屈では分別出来ているのに、実際には虐待で混濁してしまったまま。《夜》の方で性的な施しを受け、もし興奮したらどうしよう、という恐怖が有った。《ライドウ》に押し付けて逃れる、という手段がなくなるからだ。この日うっかり本当の自分で居る≠ニ他言してしまったばかりに、非常に打たれ弱くなってしまった。
 愛が有れば清い行為≠ニ、ルイはうそぶくが、夜は猛然と反発する。劇中で彼の説明したそのまま。愛という不安定な理由で、躰を侵蝕する、それを綺麗ごとで済ませられない。不快ではないが吐き気がする≠ニいうのは「ルイの事は好きだが、性行為を正当化したくない」といった自己矛盾による反応。今回鮮明にしたが、夜はかなりの潔癖だ。ライドウでない自分が、純粋な情愛で性行為に及んだり、子供を作るなど永遠に無いと思って居たに違いない。しかし人修羅に対しては、案外《ライドウ》と《夜》を使い分けている、ルイに対する耽溺ぶりとはまた違い、矢印が双方向だからか。もしくはルイと決別する事で自己コントロールが多少上達したのか。
 夜の意識の中をルイはあっさり覘いていたが、あの辺は過去作からちょいちょいネタを引っ張ってきているので、分かる人はほくそ笑んで下さい。空っぽの管とか。
(2019/7/18 親彦)



▼カプリス:caprice
「奇想曲」「狂想曲」を指すが、フランス語では「気紛れ」「駄々をこねる」の意。まさにその両方で今回の様な目に遭うライドウ≠思い、題した。

▼チゴイネルワイゼン:Zigeunerweisen
「ツィゴイネルワイゼン」と表記される事が多い。1878年、サラサーテ作曲。もはや様々なメディアで使い古された、超有名曲。最後にルイの思い描いた「第三楽章」は、一番忙しない部分。喫茶店で夜が黙ってリクエストしに行くシーンがお気に入り。あれは率直迅速に知って貰い、共有したかった彼の気持ちの顕れ。

▼鈴木ヴァイオリン&ヤコプ・シュタイナー
ヴァイオリンのモデル名称。鈴木は日本製、シュタイナーはドイツ製。後者は短編「止まれ、お前はとても美しい《後編》」に出てくる。その頃には普通に弾けるようになっている夜。今回の話から月日が経過したのか、それとも芸達者なだけか…

▼キンナリー:男性体はキンナラ(緊陀羅)
歌楽神。kim「何か」+nara「人」を合成して出来た名称(メガテンではキンナリーで出てきているので、女性体の方を言わせた)『華厳経探玄記』第二によれば非常に人間に似て、顔は美しいが、頭に角が1本あるとされている。〔幻想動物の事典 http://www.toroia.info/〕

▼ループタイ
開襟シャツに合わせるのが流行っていた。夜は着道楽の気が有るものの、殆ど制服+外套で済ませている。責務はほぼ戦いであり、合間の小遣い稼ぎも荒事が多い為。何より学生の証ともいえる制服も、それはそれで気に入っているから。

▼シベリヤ
カステラに羊羹(餡子)を挟んだお菓子、明治〜大正期に多く見られた。カフェの軽食が大好きな夜と違い、ルイはいつも水か炭酸水で済ませる。