* あとがき* なんだか今回長いです
『緊縛の秋』がテーマ。折檻の為の緊縛でなく、緊縛そのものの美を意識したかった。悪魔を縛るサマナーという関係性も交えて。
里の話なのでライドウが少し憂鬱。ライドウは、過去の自殺願望が有るからこそ、楽な路を与えてやろうかと一瞬でも思った。これは殺意ではなく、ライドウなりの思い遣りだが、当人はそれを自覚していない。単なる憐れみだけだと思っている(しかし、それが外面的に救済の形で映るという予測も出来るので、人修羅にはあんな云い方で説明した)
結局ライドウは、タム・リンに縛られている、そんな気がする。
人修羅は、ライドウに縛られている自覚が有るが、憎しみと卑屈を滲ませてそれを云う。声高にアピールする事で、己を奮い立たせている。そうしないと、後半の膝上のシーンの様な状況で「ずっと膝上に居ても良いのではないか」と思ってしまいそうだから。
葛葉候補生の正午(ショウゴ)君は、何気にSS『血肉を纏いて舞い候(前)』に出てます。名前を出したのは初めてですが…
更に云うと、繋がってないですが徒花で出てきたヤタガラスの里医療班の作務衣の兄ちゃんの弟です。「里の子は、オレの弟しか居ねぇんだ…おい、お前がくたばったら、あいつにお役目が行くかも知れねぇ…」とか云ってた奴です(あまりに脇役なので、徒花読んだ方でもこれは…はたして憶えているか…?)
この候補生の少年は、夜と対照的な名前、それも明とは別の雰囲気の漢字にしたかったのです。夜明けは紙一重のイメージです。正午(真昼)は、夜と明の全く触れない時間帯のイメージです。快活な雰囲気の、背伸びしたがっている少年っぽい性格で。
ライドウは、凪や正午の様な、己の理想に向かって真っ直ぐに修練している人物には比較的甘い。
だから緊縛御上の今回のブレっぷりにキレて制裁したのです(実際鉄拳制裁したのは人修羅でしたが)
そういえば今回、ナチュラルに人修羅がサディスティックな気もしますが気のせいでしょう。
《ロンゴ・マ・タネ》
ライドウ達には嬉しいスイートポテトの神……いえ、本当。
『ニュージーランドのマオリ族の神話に登場する、ランギ・ヌイとパパ・ツ・ア・ヌクの間に生まれた六柱神の一人。サツマイモと耕作でとれる食糧を司る。』(「神魔精妖名辞典」様より)
《蛇縄麻》
仏教の三性説にある蛇縄麻(だじょうま)という喩え。ただの縄も、心が乱れた時に見れば蛇に見えたり、平常心なら縄に見え、更に落ち着いた時なら麻の寄せ集めに見える…という、己の精神状態から変質する物の捉え方の喩え。縄という存在も、縄という形態に執着する意識が“縄”とさせるのであり、本質は麻。執着する物に、人間は勝手に捉えてしまう。
唯識学派三性説で云う遍計所執性(迷い)から脱すれば、本質をすぐに捉える事が可能になる…そんな勝手なイメージですが…そんな人間ばかりではつまらないなあ、と思います。
《麝香揚羽(ジャコウアゲハ)》
アゲハチョウの一種。雄成虫は腹端から麝香のような匂いをさせる。幼虫時代に毒性の葉を食して毒を蓄積する。この蝶の蛹は“お菊虫”と呼ばれる。蛹の形が後ろ手に縄で縛られた女性の様だから。
緊縛の話を書こうというのは、この蝶を調べて思い…オキクムシもスムーズに出せ、此処のヤタガラスの里らしく変態的なエピソードにもなるので違和感無く。
《捕縄術》
敵を縄で捕縛・緊縛するための技術である。体系は、取り押さえた敵を素早く拘束する『早縄』、形式・儀式的に用いる『本縄』、緊縛による拷問を加えるための『拷問縄』、これら縄術で緊縛された状態から脱出する『縄抜け』『破縄術』に大別される(此処まで完全にwikiから)
江戸〜昭和初期?まで日本の警察でも教えていたらしいですが…緊縛画等が広まったのは明治以降で既に。使用する麻縄は表面に処理(なめし)を行わないと、使用感が悪いそうで。蜜蝋や馬油で処理します。馬油をバイコーンのにした理由は、バイコーン=不浄という事で…ヤタガラスが簡単に入手出来るのはこの辺の悪魔かと思い。
綺麗に縛れると、作品としての美を意識するだろうなあ、と共感します。作品を通り越し、ライドウの存在そのものを縛りたくなった瞬間、緊縛師としては失格な訳です…って、その前にヤタガラスの御上でしたね立場。