なぜ過ぎ去らせるのだ。
過ぎ去つたのと、何もないのとは、全く同じだ。
何のために永遠を造るのだ。

今何やらが過ぎ去つた。それに何の意味がある。
元から無かつたのと同じぢやないか。
そして何かが有るやうに、どうどう廻りをしてゐる。

それよりか、己は「永遠な虚無」が好だ。



止まれ、お前はとても美しい《後編》




車窓に流れる景色は、未だ田園風景です。
先日の雨が萌えさせた芽達が、色鮮やかに戦いでいます。
「先輩、本当に良かったのですか?きっと功刀さん怒ってしまいますよ」
「僕に怒り以外の感情を寄せた事なぞ有ったかい?」
「そういうセオリーですか?もうっ……」
列車の中、向かいに座る先輩は普段と何ら変わり無い様子で。
浮ついているのは私だけでしょうか。
だって、仕方が無い話です。
「交代制とは云え、私に勤まるのか不安です」
「安心し給え、先日僕が神すら掃ったのだから、当分脅威は来ぬさ」
「またまたそういうセオリーですか!?」
「そういうものさ」
四人掛けの相席、先輩の近くに功刀さんの姿が無い事に違和感を感じます。
お見送りならば、功刀さんこそが来たい筈だったでしょうに…
「ハンブルグ線…でしたね、お船は」
「君も日本國を離れたいのかい、凪君」
「えっ、ど、どうしてですか?」
「生まれた地に行ってみたいと思うのか」
「私は……」
気にならない、と云えば嘘になりますが。
お師匠様に充分、楽しい日々とこれまでの私を育てて貰った記憶が有るのです。
「今更、私を捨てた親に逢っても…きっと、噛み付いてしまうと思うので」
「成る程」
それだけ答えたライドウ先輩は、脚組みをしている腿の上に再び視線を落としました。
白い指先に支えられた文庫本が、早いペースで頁の音を鳴らします。
この方は、移動中に必ずと云って良い程、何かを読んでいるのです。
いちいち内容を訊くのも申し訳無いので、今回も敢えて訊かず。
きっと私には難しい書籍なのだと思われます。
「…ライドウ先輩」
「もう一介のサマナーだが?」
「まだ先方から書籍が戻ってからでしょう、先輩はそれまで“ライドウ先輩”です」
「…フ、僕の仲魔は少々我が強いからね、強く云ってやらねば勝手気侭に暴れるよ」
先輩から受け取った管が、私のホルスターにしっかりと填まって、冷たく輝いています。
磨き抜かれたそれは、年期が入った管と思えない程に艶やかで。
「ヨシツネは前に出たがるが、MAGの調節を怠る。常に叱咤し給え」
「はい、私も気を配れる様に…チェックを欠かさぬ様にします」
「アルラウネの契約上、面倒とは思うがしっかり薔薇の剪定はしてやってくれ給え」
「綺麗に刃が入れられる様に、勉強します」
傍で揺れるカーテンのビロードの艶が、窓に照り返しています。
続かぬ先輩の言葉に、思わず私から問い掛けてしまったのです。

「人修羅を看る際のプロセスは?」

薄っすらと映り込む先輩の唇が、吊り上がるのが見えました。
私の声は、挑発的になってはいなかったかと、今更不安が込み上げて参ります。
「アレは言葉だけで、慇懃無礼だからね…すぐ調子に乗るだろう?」
「言葉の通りに、私には優しく接してくれます」
「自らの手を汚したがらず、その癖吠えては主人を糾弾する」
「人間に還りたい心が、きっとあの方を悩ませるのです」
「その目的の為に、利用されても君は構わぬのかな?十八代目ゲイリンよ」
「利用…」
このまま、ライドウ先輩がドイツにずっと滞在して。
帝都に私や他のサマナーが留まるとしたならば。
人修羅…功刀さんは、今後誰を頼りにするのでしょうか?
「君はアレの狡猾で情け無い姿を知らぬのさ…ボルテクス界の事は、殆ど知らぬだろう」
「…功刀さんの居た、未来の帝都の荒廃した世界が、それだという程度しか」
「悪魔を汚らわしく粗暴と罵る一方で、その悪魔を引き裂き消し炭にする、そういう男なのさ」
「悪魔しか居ない世界に、それまで人間だったヒトが突然堕とされたら…それは…!」
「僕はヤタガラスの里よりも、ボルテクス界の方が随分温いものだと感じたがね」
頁を捲る指が止まっている事に今気付いた私は、先輩の眼を見ました。
私を射抜く鋭い眼は、悪魔の脚をも止めさせる魔力を含んでいます。
そう、ずっと、初めて見た時から感じていました。
「……先輩…は、何故功刀さんを…拾い上げたのですか」
ライドウ先輩は、独りの眼をしている。
お師匠様に拾われる前の、私の眼をしている。
葛葉ライドウとして大成したのに、仲魔に出来無い悪魔は少ない筈なのに。
銀楼閣で、鳴海さんやタヱさんが、珈琲を啜って冗談を交し合っている団欒の中でも。
口元の笑みだけで、眼はずっと独りなのです。
「勿論、可能性を感じたからさ」
「強く育て上げて…ですか?サマナーとしてのステップアップの為?」
「僕には成就したい事がある。その為の、路のひとつとして考えていたのだがね…フフ…ぐずってばかりで駄目だったね」
人修羅は手駒、と、云い切るライドウ先輩。
でも、その先輩の眼と、同じ眼をしていたじゃないですか。
あの人は…
「功刀さんが…ライドウ先輩について行く事を決めたのは…っ」

「利害の一致、それだけです」

憶えのある声、私の好きな透き通った、どこか涼しい…悪く云えば冷たい声が背後から。
背凭れから身を乗り出して、後ろを見ました。
「功刀さん…ど、どうして」
普通の乗客の様に、私達を見下ろして通路に立っていました。
いつもの様に、藍染の袴と着物。僅かばかりのツートンカラー。
「随分目覚めが良いね、そういうマガタマを呑んでたかい?」
クスリと哂った先輩が、読んでいた本を閉じて視線を流してきます。
「運賃は?君には金も乗車券も渡していない筈だが」
「ゴウトさんに借りて、さっきの乗車場から乗った」
「ああ、成る程…猫の手を借りて目覚めたのかい、クク……童子も狡いお猫様だ」
この列車は、街中を通るものとは少し違うのです。アプト式でも無く、蒸気機関のそれで。
船に乗る為に、より遠くへと向かっております。
先輩の行く先を知るゴウト様しか、きっと誘導出来ません。
そして功刀さんは、私が扉の隙間から覗き見た時…先輩の仲魔の術で、熟睡していたのです。
外部からの干渉が無ければ、今日の宵までは目覚めない…静まり返った波間を漂う気配でしたのに。
「功刀さん、ゴウト様に云われて先輩を連れ戻しに来たのですか?」
立ち上がって、その御姿をしっかりと拝見しつつ問い掛けると。
「そうですね…ゴウトさんも、今回の件は本意では無いそうですから」
「でも、ライドウ先輩のお心は決まっている様子ですよ、功刀さん…止めに入るのは、無意味なプロセスです」
「凪さん、俺はね、その男が他者に云われて予定を変更する様な奴じゃない事は、もう知っているんです」
私に向けてくるお顔は、とても穏やかなのに。
袖から伸びる指先は…私の勘違いでしょうか。
擬態している筈の指先が、MAGを一瞬たなびかせたのです。
「降りろよライドウ」
「先刻と矛盾が生じているね君、云われて行動指針を揺らす奴では無いと知っているのだろう?」
「一発殴らせろ」
「何処へでも往けと君が叫んだではないか…フフ、それとも僕が帝都と葛葉を捨てると思わなかっただとか?」
「契約の解除だって完全合意じゃない、現に眠らせやがって…俺が納得いかないの解ってるんだろあんた」
「ヤタガラスの柵から解放され、向こうで悠悠自適に過ごせばそれも楽かもしれぬと思うは間違いかな?」
私の頭に、読んでいた本をポン、と押し付けてきた先輩。
流れのままに受け取ってしまい「あの…」と声を掛けても、その眼は功刀さんに既に向かっていて。
「ゴウトさんが、失うには惜しい、ってあんたの能力を」
「知らぬね、今回は僕に委ねられたのだ。業罪背負いし畜生の言葉なぞ、聴く耳持たぬ」
「そんな程度で就任してたのかよ」
「向こうには同じく能力を欲するパトロンが居るのだよ?ハイデルベルクの大學にも通って良いと記述されていてねえ…」
功刀さんの眼の前、高い位置から見下ろす先輩が嬉々として語ります。
するすると出てくる言葉に、迷いは感じられません。いつも通りと云えばそれまでですが。
「カラスの声を気にしつつ帝都と君の面倒を看るよりも、余程楽で充足感のある日々が送れるとは思わぬかい?」
「…復讐は、どうした」
「それよりもねえ、帰宅して復習する普通の学生で在りたいのさ。何を学ぼうかね、フフ…神学は勘弁かな、数学か薬学…天文も悪く無いねえ」
「話が違う!」
先輩の外套の襟を掴む功刀さんを傍に、私は本を片手におろおろと。
「公共の場で騒ぐでないよ」
「……じゃあ、表出ろ」
「云ったろう、降りぬとね」
「来やがれ、紺野」
さらりと他の名前を述べた功刀さんが、掴んだ襟を引っ張って往きます。
騒ぐなと云った手前、揉み合いを避けるべきと判断されたのでしょうか、先輩は哂うままに引かれて往きます。
車両の扉をがらりと開けて、消えるのをぽかんと見つめる私は、ハッとして本をポシェットに詰めました。
「ストップ!お二人とも、凪を置いて行かないで下さい!」
後を追って扉を開けると…外気に晒された連結部。
(えっ、機関室?)
先頭車両の小窓を覗き見ても、二人の姿は無いのです。
石炭をざくりと掻く車掌のシルエットだけで。
(確かにこっちに…どういう事でしょうか)
まるで異界に引きずり込まれた人間が、一瞬で消えてしまう様な雲隠れ。
「ライドウ先輩…功刀さん……何処ですか!返事して下さい!」
耳を澄ませても、列車の滑走音と蒸気の鼓動に、鼓膜がどうしても揺らされます。
埒が明かないと感じ、呼吸を正して生体の気配に意識を集中させます。
(上…?)
ステップの端に躍り出て、風に煽られる髪を押さえます。
柵にブーツのソールを引っ掛けて、車両の天井に飛び乗りました。
「先輩!功刀さん!」
向かい合い、既に刺々しい気配を発する二者。手前に先輩が居て、この車両の後尾に功刀さんが。
「凪君、下で待っていれば良いのに、すぐ終わるよ」
「終わる、って」
「どちらかが降りるまで、此処で遊ぼうかと思ってね」
たなびく外套がばたばたと音を立てて、それでも先輩自身は風にぶれる事も無く、すらりと構えています。
車両の上は一層風も強く、私はジャケットの腕を抱き締めよろよろと背後につきます。
「走っている此処から落ちたら、お身体が…只じゃ済まないです!」
「しかし僕は降りぬ、人修羅は人間の車掌を脅迫する度胸も無い」
顔は見えないのに、不敵な笑みがまるで見える様で。
「止められぬなら、蹴落としてしまえ…という事さ」
刀を構える先輩、対して武器も無く見据えている功刀さん。
下には人間の視線が有りますが、確かに此処なら周囲も野原が広がるばかりです。
(成るのですか?修羅の姿に…)
黒い外套の端から見え隠れする功刀さんの影が、ゆっくりと両の手を上げます。
その指先が着物の袷に潜り込み、もう片方の手指が細い帯を引き摺り出しました。
ばさばさと、鳥の羽ばたきの様な音と共に、藍色が飛んで往く。
それは慣性に取り残されて、道端の樹々に引っ掛かり垂れ下がります。
「く、功刀さん…」
眼が煌々と金色に輝く悪魔が、其処に居ました。
袴の下に着込んでいたらしい革のパンツは膝までしか丈が無く、普段より多い露出が斑紋の光を邪魔せずにMAGを滲ませています。
「久しいね、君の標的が僕に成るこの事態が」
何故そんなにも嬉しそうな声なのですか、先輩は。
「後々請求されては困るからね、車体に弾痕は残さぬべきかな?フフ…」
両脚に銃を携える武装ですが、その台詞から銃は使用しない様子です。
正眼に構えたと思えば、ひらり片手に刀を構え直す先輩。
「どうせ帰りの運賃は貰っていないのだろう?さっさと降りたら如何だい?」
「あんたこそ、普通に降車すれば怪我しないで済むのにな」
「君こそ、その姿で車掌でも脅してみたら如何だい?一発で列車は止まるだろうね」
「…人間を、どうこうしたくない」
「おや?僕も人間だった気がするのだがねぇ…?人修羅」
「あんたは別だ…葛葉…ライドウ!!」
踏み出す功刀さんの足先を見れば、先程まで履いていた物は無く。
裸足の爪先で数歩駆け、先輩の間合いギリギリまで接近して来ました。
そこで振り下ろすのか、突き出すのか、刀の軌道を読んでいる金眼。
と、先輩は攻撃に転じず、一歩退いたのです。
「凪君、渡した二本を寄越し給え」
それだけ云うと、刀を持たぬ手を私に向け伸ばしてきました。
慌てて腕のホルスターから引き抜いて、その白い指に差し出せば。
「きゃっ!」
轟、と一際強い疾風に煽られました。
視界は紫紺に包まれ、何かと思えば外套の裏地。
先輩が私を庇っているのです。
「先輩!!」
「流石に凪君には軟い焔か、贔屓だね」
クス、と哂い、MAGを張り巡らせ強化した外套の影の中、私の指から管を引き抜いて唱えます。
「義経公、薔薇の化身よ、来給え」
払われた外套、開けたパノラマに同時に飛び掛るヨシツネ。
『んぁ!?人修羅じゃねえか、っ』
二刀流の突きを、後ろに小刻みに跳躍して避ける功刀さん。
続いてしなる荊の鞭が、その着地の脚を狙います。
しゅるりと足首から巻きついて、ぐいぐいと此方に引き寄せるアルラウネ。
『そういえばライドウ、貴方外国に観光行ったんじゃなかったの?』
「邪魔が入ったのが見て解らぬかい」
『あぁ…ナルホド…“邪魔”ね…んふふっ』
妖艶に微笑みつつも、張る荊。
まだ動かせる片方の脚で踏ん縛る功刀さんへと、ヨシツネが鎧を鳴らして詰め寄ります。
『しっかり縛っとけよアルラウネ!』
叫んだヨシツネの刀が、功刀さんを袈裟に斬ると思い、思わず自分の喉の奥からヒッと悲鳴が吹き抜けていきます。
と、支えの片脚を地面から浮かせる功刀さん。
虚空に躍る身体が引かれるまま、張っていた荊をも一瞬弛ませます。
(蹴りに繋げるつもり?しかしあれでは浅過ぎます――)
宙を躍りつつ、くる、と血の滲む爪先で輪を描く人修羅としての姿。
赤く濡れた足首からの荊蔦が、ヨシツネの刀にぐるりと絡んだのです。
(蹴る為では無い、封じる為…!)
己を戒める荊で、敵の得物を封じる。
『ち、そう来んのかよ…っ!』
ギシ、と絡むままの刀の腕は下に落ちます。
功刀さんの重みとアルラウネの荊で、ヨシツネの片方の刀は不自由となり。
「ヨシツネ!灰になりたくなかったら退けっ」
『ちいッ!火遊びばっかしやがって!この“おぼこ”が!』
地を這う様にその足下へ跳び、がしりと掴んだ具足を一気に燃す悪魔としての姿に、私の脚が震えました。
「怖いなら下で本でも読んでいたら如何だい、十八代目」
MAGを二体に送り続ける先輩は、取り乱してもいないのです。
同時に悪魔を駆る業は、決して楽なものでは無いのに…恐ろしいサマナーです。
「ノー…プロブレム!平気です」
「そうかい」
少し焦げた外套が翻ると、指令する先輩。
「冷ましてやれ、アルラウネ」
『んふふっ、ブフ・ラティ』
燃えるヨシツネに、氷の吐息を吹きかけるアルラウネ。
しかし燃え盛りつつも報いたヨシツネの刀が、功刀さんの腿を貫いていました。
流れ落ちる血の赤がアルラウネの薔薇よりも色濃く、眼に酷く痛い。
『悪ぃ悪ぃアルラウネ』
謝罪しつつ、鎮火の煙を立たせるヨシツネがよろりと間合いを開きます。
荊に絡まれた刀を捨て、両手が空で退避する他無かったのです。
「手ぶらの帰還かい」
『へへ、脚に一本喰れてやったぜ旦那――っうおっ!?』
先輩にへらりと笑っていたと思えば次の瞬間、びく、と震えたヨシツネ。
黒い烏帽子が咄嗟に背後を振り返ります。その背を見て、今度は私がびくりとしてしまいました。
甲冑の背に刺さる血塗れの刀。まるで其処から生えているかの様に突き立つそれを見、先輩が失笑します。
「良かったではないか、一本帰ってきて」
『………痛っ…てえ〜ぇ!おい人修羅手前ェ!背中狙うたぁ卑怯だぞ!』
功刀さんは、自らの腿から引き抜いた刀を投げたのでした。
先刻より淡々と行われる動きに、迷いは殆ど…無い。
「引き抜いたら、出血が…!功刀さん!」
私は堪らず己の管を引き抜き、ハイピクシーを傍らに舞わせます。
『エェ、ちょっとどういう状況なのよ凪!』
「功刀さんを回復なさい!」
『ライドウと人修羅がドンパチしてんでしょ!?貴女どっちの味方なのよ!』
答えに躊躇う私に、先輩が鼻で笑います。
「そのハイピクシーが大事ならば、混戦の中突っ込ませる愚行は止し給えよ、十八代目?」
撃鉄の音。
「で、でもっ…功刀さんは先輩に留まって欲しくてっ…それなのに」
続いて、私の声を撥ね退けるかの様な銃声。
(えっ、銃は使わないと)
喋りながら、先輩が撃ったのです。
二発、三発と更に続く銃撃に、功刀さんは眉を顰めて姿勢を低くしたまま。
肩や腕に被弾しながらも、銃弾を見据えて脚を曲げたのです。
足首を結わえる荊が弾で飛び散り、自由になったその脚で宙返ると、最後の銃弾は回避する事に成功していました。
「おや、一発屋根に埋まってしまったではないか」
銃口をフ、と軽く吹いて哂う先輩に、ある種の納得を私は抱きました。
そう、決して銃を使わぬとは述べてなかった…
銃弾が全て、功刀さんに当たれば問題無かったのです。
そういうセオリーで発した台詞だったのです。
「ヨシツネ、その背の刀で戦うかい」
『ちっと勘弁してくれよ旦那、俺ぁもっとデカブツと戦りてぇのよ…あんなひょろっちい人修羅相手じゃあ』
「気乗りしないみたいだな」
『そら…だって…アイツだし……』
「覇気が無い奴に僕はMAGを遣りたく無い、戻り給え」
拗ねた顔で管に消えるヨシツネに、アルラウネが肩を揺らして笑っていました。
『駄目ねぇヨシツネ…“主人の敵”は、管に入る自分達の敵なのに。情に散々揺らされた生前を忘れたのかしら?』
す、と豊かな胸を震わせて、しゅるしゅると荊を伸ばすアルラウネ。
千切れた荊の先に、功刀さんの血が付着していて…
それを引き寄せた彼女を羨ましいと思って、己の浅ましさに思わず頬がぽうっとしてしまいました。
「ハイピクシー…その、アルラウネの荊を回復してあげて下さい」
『んも〜見てたら毒なんじゃないの凪ぃ』
溜息したハイピクシーがアルラウネの薔薇に腰掛け、翅を震わせメディラマを唱えます。
功刀さんの皮膚を喰い破った荊は、みるみる治癒して緑を生き生きとさせました。
消えた血痕に、どこか安堵する私。
『あらあら、ありがとね凪ちゃん』
「ノー・サンキュー……余計な真似をして、失礼しました」
『舐めてから治した方が良かったんじゃないのかしらぁ?体液の中にMAGは濃密に含まれているわ、蜜の様に』
「なっ、何を云って…!!」
『ホラぁ、貴女の仲魔が流れ弾に当たる前に、ちゃんと護っておやりなさいな、んちゅっ』
「も、もうっ…!」
女の私にまで投げキッスをしたその悪魔は、ふわりとライドウ先輩の傍に。
気付けば、先輩は功刀さんと既に噛み合う状態で。
刀の切っ先に身体を裂かれつつ、指先に纏う焔で先輩の学生服を焦がす功刀さん。
それ程筋肉がある訳でも無いのに鋭い腕は、悪魔の力がさせているのでしょうか。
「随分、がっついてくるではないか人修羅」
「MAGっ、くれる奴が、居ないからっ…さっさと、済ませたいんだよ、ッ!」
刀を捕らえ、アルラウネの動きを横眼に攫いつつも、鉤が如く歪ませた爪先で薙いでいます。
それを寸前で避ける先輩は、刀で功刀さんの動きを制しつつ、アルラウネに目配せをするのです。
荊の蠢きに気付き、一旦離れようとしたのでしょうか。
功刀さんがアイアンクロウの腕を振り上げつつも爪先を後ろに下げた、瞬間。
『逃がさないわよ!人修羅ちゃん』
「…っ……く」
伸び往く荊に、咄嗟に振り下ろされるアイアンクロウ。
(ああっ、全部切れて無い!)
数本引き千切られたものの、その飛散する緑の中から、生き残った一本が斑紋の首を締め上げます。
宙吊りになった功刀さんの胴目掛け、的殺の構えを取った先輩に、私の背筋が凍ります。
ライドウ先輩の、引き絞られた肩から先、鋭い一閃を繰り出そうと刀を流れ伝うMAG。
それを感じ取ったらしい功刀さんの表情が、一瞬歪むのが判りました。
「そう、逃がさぬよ…クク」
容赦無く突き出された刀の切っ先。思わず私もハイピクシーも顔を両手で覆ってしまい。
指の間から、恐ろしいシルエットを見つめる他無いのです――

「はあっ、はぁ」
「…っ……ククッ…デスカウンターか…」

吊り上がっていた唇が真一文字に結ばれたと思ったら、赤い雫を端に垂らして更に哂う先輩。
的殺の刀は、咄嗟に翳された功刀さんの左掌を貫通し、その喉仏ギリギリで切っ先が止まっていました。
(先輩が、ダメージを受けている…)
突き出された右の斑紋腕が、ライドウ先輩の胸元から腹部にかけて大きく引き裂いている事に、ようやく気付いた私。
滴る血の音が、滑走音の中に居るというのに聴こえて来る様な光景。
返り血の付着した唇をべろりと舐めずる先輩…扇情的なまでに赤い舌がイヤに目立つのです。
「マガタマはガイアかい?普段より一撃も重いね」
「教える義理なんて…無い」
「呪殺と破魔、どちらが良いか選ばせてあげようか」
「ぁ、あがぁあぁッ!」
掌の穴を拡げようと刀を捻る先輩、それを右の腕で必死に押さえ込む功刀さん。
ああ、もう、私は見ているのが…
「僕だけが救い上げられる可能性を、君は認めたくないのだろう?」
「うう゛〜っ、ぐううぅッ…やめ…ろぉッ…このイカレ野郎がぁ、っ」
刃が抉る肉の裂け目、そのぐじゅぐじゅと赤い泡立ちに私の肌が粟立ち、くらくらとしてきました。
「帝都守護、葛葉としての誇り、僕が君に持ちかけた取引…それ等を除外しても、今の君に燻る感情はとても後ろ暗いものだ。何かしらに正当性を設け、僕を引き止めようとする理由はただひとつ」
刀の鍔に赤いそれが溜まり、哂う先輩の指先にゆっくりと這っていく。
「僕が幸福を得る事が、恐ろしいのだ、そうだろう人修羅?」
功刀さんが、眉を顰めて身を捩りました。
刀を食い止めれば荊で首が絞まる、そんな状況だというのに、身体の痛みを無視する様な強い視線。

「他者の幸福さえ黙って見過ごせぬとは、君は立派な悪魔だねえ?」

その先輩の言葉で火が点いたのが、見て分かりました。
見開かれた金色に、嘆きの咆哮。
「俺は悪魔なんかじゃねえぇッ」
後方に振り子の様に下肢を反らせ、刃が喰い込むのすら厭わず蹴りを放つ功刀さん。
その衝撃は荊からビリビリと電流の様に伝い、アルラウネが小さく悲鳴して床に尻餅を着きます。
一瞬逆方向に外套が靡いた先輩、ですが持ちこたえたヒールが僅か床に後を残すだけ。
「ならば僕に君はやはり不要だね、功刀君」
「葛葉じゃないあんたに、俺も用は無いっ…」
「…落ち給え」
刀ごと大きく振り払った先輩、ブチブチと千切れた荊を少し首元に残したまま、掌ごと引き裂かれた功刀さんが横に飛ばされます。
風に舞う紙切れの様に、一瞬で。車両の上から消えて往きました。
「功刀さぁんっ!!」
立ったままでは己さえも落ちそうで、即座に這って車両の端から地表を覗き込んでみました。
(何処?まさか車輪に巻き込まれて…)
それなら、列車に衝撃が奔る筈。いくら人修羅の肉体といえども、ミンチに成っては再生不可でしょう。
そう思うとゾッとして、眼を凝らすのですが、功刀さんの姿は見えません。
「せ、先輩…!酷い、こんなの遊びじゃありません、クレイジーです!!」
首で振り返り、靡く髪を押さえつつ見上げます。
先輩は濡れた刀を構えたまま、へたり込んで痺れているアルラウネのむっちりとしたヒップを爪先で小突いて起こさせていました。
「ボルテクスでは毎回こうだったが」
「おかしいです!どうして功刀さんとは話し合いにならないのですか!先輩は聡明な筈でしょう…っ」
「相手の言葉のみでは互いに不満だからさ、凪君」
「不満…って、それは歩み寄りが大事で、それこそ交渉が御上手な先輩にはベリィイージーと思うのですが――」
「静かにし給え」
ぴしゃりと撥ねられる私の言葉、ですが感情的なものと違う様子です。
先輩の眼が、後方の列車をじっとり見据えているのです。
私も連なるようにその視線を読んで、流れる景色の色にぶれた風下を眺めます。
『わっ』
響く汽笛の音に、傍らのハイピクシーが小袖を耳元に当ててしかめっ面です。
もくりもくりと白い煙が更に排出され、カーブに差し掛かってそれが車両の真上を流れる形になります。
「けほっ、けほ」
まるで霧の中に居る様な感覚に陥って、私は姿勢を低くしたまま咽るばかりです。
眼にも滲みるので、ごしりと袖で目元を拭うのですが、当然改善される筈も無く。
「先輩、けほっ、よく平気ですね、っごほっ――」
腕を退け、視界が開けた瞬間。
(え…)
金色の双眸が此方を鋭く射抜くままに、数両向こうから駆けて来るのが見えたのです。
煙を引き裂くまま、あっという間に私達の車両まで到達する速度。
あんなに速く走る功刀さんを見た事が無くて。
「せ、先輩っ」
驚愕し脚が竦む私の傍からは至って冷静な声音。
「撒き給え、アルラウネ!」
ライドウ先輩は、その場から動かず仲魔に指令を出すのです。
宙に踊るアルラウネが微笑みながら、功刀さんに直接ではなく、その駆ける脚が踏み行く屋根を凍らせました。
パキパキと真っ白になる屋根、咄嗟に跳んだ功刀さん、しかし着地する先もまた白く。
そのまま滑らせ、その場に伏すか、滑落するのか。
「外道っ!」
罵倒を吐きつつ、接地するその爪先が氷上を滑り流れて跪きます。
が、その血塗れの手が瞬時に焔を纏い、白い屋根はジュウ、と音を立てて鳴きました。
溶けた氷に濡らした手を支点に、前方へと宙返る御姿。
先輩の麓まで一気に跳び込むまさしく悪魔の気配、一触即発の空気に立ち上がる私。
ばさりと黒い外套が覆い隠し、その陰で決着がついたのだろうと思いました。
「え、っ!?」
ところが、陰で接触は無かったらしく、風の様に先輩をかわして通過する功刀さん。
私達を越えたその先…牽引する機関室の上へと。
刀を鞘に納め追う先輩、ヒールがカツカツと蒸気ドームを踏み越えて行くのが見え、私も続きます。
くろがねにブーツで飛び乗り、煙突の傍を抜け――
「きゃあッ!」
『わぷっ、ちょっと凪ィ!?』
ぐらりぐらぐら足場が揺れて、ハイピクシーをむぎゅうと押し退ける様に倒れかけた私。
「ご、ごめんなさいっ…何…何でしょうこの…っ、揺れは」
揺れは一瞬では収まらずに、ギギーィ、と、酷い音を立てて更に激しくなるばかり。
列車の明らかな減速、草原の緑と空の蒼がしっかりと形を作っていく。
嫌な予感に額がひんやりとなる、恐らく私は冷や汗が出ているのです。
倒れない様に、這い蹲って先輩の見下ろす先を私も見ようと…
「ひっ」
其処には、がりがりと脚を削って、機関車の顔を押さえ込む悪魔の姿がありました。
斑紋に滾る光が、普段より激しく明滅し、脈打って。
「止めて下さい功刀さん!!脚が無くなってしまいます!!」
叫んでも届かないのでしょう、もしかしたら無視されているのかもしれません。
悲鳴じみた雄叫びと共に車体を抱く様にして、レールの枕木をバキバキと割り続ける肉の削れた脚で支え。
最早痛覚なぞ存在しないかの様な貴方。
降りないなら、停めてしまおうという一心なのでしょう。
私は先輩を見上げましたが、ただただ黙して功刀さんを見つめるその眼。
それを見て、引き止めさせようという考えは、フェードアウトしてゆきました。
金属の激しい摩擦音と、汽笛の音と、血の臭い。
その只中に居ながら、先輩の眼は真っ直ぐに人修羅という存在を見つめていて。
仲魔にも、敵にも、私や鳴海さん達にも向ける事の無い色を持った眼差しだったから。





「全く何をしているのやら」
冷たい声が、頭上から降りてくる。
そして、自分の呼吸が煩かった。
「はぁっ……はぁっ…」
気配が傍に降り立ったのを感じ、身構えるが脚は云う事を聞かない。
一瞬の暗転の後、青空が天井に広がる。咄嗟に上体を起こせば、削りに削られた自分の脚が見えた。
突き出た骨を見て視覚的なダメージを受け、視線を逸らした。
「アルラウネ、一寸の間、乗客を薔薇庭園へ御案内し給え」
『結構広いじゃない、それなりに養分が必要よ』
「構わぬ、僕のMAGで足りぬとは云わせない」
『んふふっ、まかせて…』
一瞬機関室の窓から人影が覗いた気がするが、深緑の荊でたちまち覆われた。
しゅるしゅると繭玉の様に機関車全体を包み込むと、その隙間に薔薇が咲き薫る。
「功刀さんっ!先輩っ!」
荊が足場を埋める寸前、上から飛び降りてきた凪。
俺を見て、ライドウを見て、最後に車両を眺めていた。
「これは…イバラのブラインドですか」
「雁字搦めに見えるが、MAGで少し弛むよ。十八代目、君は中に入り負傷者が居らぬか確認してくれるかな」
「功刀さんのお怪我は」
「僕が看る」
嘘臭い台詞を吐きながら、何かを胸元から取り出し筆記しているライドウ。
手帳の様なそこからビリ、と破り、凪に差し出す。
「先輩、これは何のナンバーで…」
「子供・老人・妊婦の居た席だ、優先して確認し給え」
「は、はいっ!」
「ハイピクシーが擬態出来るだろう?安堵感を与える印象の人間に擬態させ、看て回らせるのだ。傷のある者にはさり気無くディアをかけるのだよ、良いね」
云われると、凪のその眼は葛葉の眼になっていた。
ハイピクシーを、俺の面識の無い女性に変化させ、荊の隙間をゆっくり開いていく凪。
車両に入る直前、一瞬眼が合ったが、いたたまれずに俺から逸らした。
「さて人修羅…車両を目隠ししている間に済ませようか」
凪の目も消えたのだから、此処からまた毎度の如く躾が始まるのかと、自然に身体が強張った。
砕けた枕木を軽く俺に蹴り飛ばし、鼻で笑うライドウ。
「憎き僕を引き摺り下ろしたい一心で、君は多数の人間に迷惑を掛けたのだよ」
「……俺は」
「これならば、車掌を脅して安全に停車させた方がまだ無難だったろうにねえ…ククッ……もし重傷者でも居てみ給えよ」
胎の底が、熱い。
「まさしく悪魔ではないか、君」
強い力のマガタマを、俺の身体が拒絶し始める。
先刻までは同調していたそれが、ジクジクと俺の中で暴れ出す。
「ぅ、うぅーッ」
それまでは恩恵を受けていた脚が、途端に血を噴いた。
治癒が遅れている、しかしこのマガタマでは、苦しいばかりで。
普段眼の前でしないのに、耐え切れずにイヨマンテを取り出すと、えずいて吐き出したガイアと替えて呑む。
「はあ、ぁ…はぁっ、はぁ」
こんなにも、肌を晒して…
悪魔じみたマガタマ呑んで…
そして一瞬でも、複数の人間と引き換えに…俺は…
「……行くな、よ」
血反吐かと思ったが、どうして俺はこんな言葉を吐いている。
「行くなよ、ライドウ……居ろよ…帝都に…」
「先刻述べたろう、帝都守護の代わりなぞいくらでも居る」
「違う!!」
この否定は、あんたに云ったのか、俺自身に云ったのか。
「違わないね、功刀君。それに僕は別に、葛葉として生きたい訳では無い」
「今、帝都守護を満足に出来る奴はあんたしか居ないって、ゴウトさんが云ってたんだ…!」
「他の為に己を犠牲にしろと?フフ…では君も、他である僕の為に己の希望は捨て給え」
人間に戻る望みの為?
それだけなのか?
確かにこの男は強い、切れ者で、ルシファーの事も俺より知っている。
でも、その存在だって代わりが居ないと思わない。
じゃあ、何故俺はこんなにもなって、こいつを止めた?
「手ぇ差し伸べといて、途中放棄かよ…は、あんたって本当……」
立てない、あの時と同じ様に、きっと縋る眼をしているんだ。
「とにかく、行くな、行くなって云ってるだろッ――」
新たな痛みが奔った。
てっきり黒革の靴先で蹴られたと思ったが、そういう衝撃では無かった。
「駄々も大概にし給えよ」
片膝をついたライドウが、俺を睨んで頬を打ったのだ。
今まで蹴られたり、銃で嬲られたり、そんな事ばかりだったのが…突然の平手。
「本当に君は成ってない、我儘だね、親の顔が見てみたいよ」
かあっ、と頬が紅潮するのが判る。俺が母親を手にかけた瞬間、見ていたじゃないか、この男。
「知ってる癖に、っ」
「ああ、そうさ、君の本来の姿も、身内も、家も…総て知った上で君を使役していた」
“していた”
何がしていた、だ、無責任の大馬鹿野郎。
「やれやれ、処理が面倒だなこれは…少し出遅れるか」
呆然とする俺を放置して、ライドウが立ち上がる。
ひらりと外套の端が、俺の打たれた頬をくすぐって離れた。

その後は、よく憶えていない。
気付けば、銀楼閣に居た。
凪の押す車椅子で、屋上から遠くを眺めていた。
僅か見える地平線に列車の影を見て、あんたがいよいよ旅立ったのを知った。





『肝心な言葉はですね、夜様、云ったら御終いなのですよ』
銀髪をさらりと甲冑から掃い、騎士が僕に微笑む。
「言霊と成り得るからだろう?」
『まあ、それも有りますが』
「他に何かあるのか」
『永い生の中…ああ、人間はそれでも短かったですね。と、それはさておき、何が云いたいのかというとですね…』
書棚を整理する互いの手が止まる。
僕に向けられる眼差しが、悪戯っぽく光った。
『過去に云っていた己の言動と、酷く矛盾する可能性が有る。何かを発信する際には、あまり明確な輪郭の言葉で表さぬが吉でしょう』
「成る程、若い頃に云っていた事と、老いてから云う事に温度差が生じるという事か」
『然様に御座います、ま、それは仕方の無い事ですがね。歳を取れば価値観も変わりましょう』
「フン、せこいなお前」
『リン機応変と云って下さいまし、夜様』
「すこぶるうざったい」
入手順に並べた書物は、確かに一貫性が無い。
左では宗教を謳い、右ではオッカルトの崩壊として科学を謳う。
僕は己の眼で見たものを信じるが故、この様にひとまず総てを呑み込もうと手に取るのだ。

『ま、それに…相手に先に云わせたい言葉とか、あるじゃあないですか』

「何だそれ、誘導尋問しろという事か?リン」
『平たく云えばそうなりますねえ…しかし夜様こそ、いつもそうしているではないですか』
「僕が?」
『ええ、貴方様は実にお上手だ。特に情が滲む場面において、相手をまるで操り人形が如く誘導するではないですか』
「フフ、人聞きが悪いな」
『その点は心配に及びません、わたくしは悪魔ですからね』
「ほざけ」
『御自身の感情を出すのが、怖いのですか、夜様』
書棚から引き摺り出した本が、背表紙から解れ、ばらばらと床に散った。
馬鹿みたいに繰り返し読むから、老朽化が早いのは仕方が無い。
(いいや、それよりも)
主人にふざけた言葉を叩き付けたリンを叱咤しようと、隣を見る。


「十四代目」
リンでは無い、黒い装束。
西陽に炙られる己の庵でも無い。此処は三本松が根を張る屋敷の、宝物殿だ。
「如何なされた、十四代目」
「いや、少し思考していた」
「独逸帰りの疲れが有るのでは」
「フフ、それこそ杞憂だ」
記憶と逆の動きで、書物を棚に収めた。
三日三晩ひたすらに記し続けたというのに、たった数冊程度か。
読むのは一瞬というのに、やれやれ。
「しかし、よくこの量を記憶された事だ」
「一字一句とまではいかぬがね、術式の要点さえ記憶出来れば問題は無い」
独逸のサマナー連に渡っていたヤタガラスの書物を向こうで記憶し、帰ってきてから書の形にした。
何故“書物ごと持ち帰らなかったか”と問われれば、理由を説明するのは簡単だった。
「では、御苦労だった十四代目」
「これに免じ、あの鉄道の一件は流して下さらないのですか」
「さあ、それは松様に聞いてくれないと分からん」
「フフ、阿漕な商売をしていらっしゃる」
これで今回の役目は済んだのだ、さっさと里から退散したい。
廊下を渡る折、障子越しに響く笑い声。

 「独逸でもあの十四代目がひとつ喰わせたそうじゃないか」
 「はは、まさか全焼とは恐れ入った。親族という話は本当か、だとすればあ奴は親殺しの重罪人よの」
 「此処に属しているサマナーは皆罪人の様なものだが、あれ程狡猾にやってのけるのもなかなか居らん」
 「あの狐めに化かされてきっと自ら火を放ったのだろう、憐れなゲルマン人共よ」

さっさと通過すればと思うところだろう、だが其処は曲がり角に面した部屋なのだ。
黙して廊下を踏む僕が角を曲がり、陽を遮る方角に来ると、障子に黒い影が落ち込んだ。
途端、誰かを察したらしい。笑い声が鎮まる…
通り抜けるその前に、一枚隔てて高らかに述べてやる。

「狐が恐ろしいならば、眉に唾でも付けては如何に御座いますか」

MAGが殺気立つ気配、がららと開く障子、しかし僕は動かない。
甘んじてその、しわがれた脚に蹴られ、踏ん縛る事もせずに廊下から中庭に落ちてやる。
まだ少し遠い春、お池の水は冷たい。
眼を開けば、水面を裏より眺める程に沈んでいた。
泳ぐ朱を口付けて吸い、ざぱりと立ち上がる。膝より上、思ったより深かった。
たゆたう学帽を掬い上げ、滴る水滴も掃わず被る。
「十四代目…障子を隔てて聞くなとは云わん、しかし応えて良いと誰が赦した」
沈黙のまま、黒い纏物に身を包む御上を見た。
「返事をしろ」
部屋に座ったまま、開いた隙間から此方を眺め嗤うもう一人。
その両人の眼が注がれたと感じた瞬間、ニタリと口角が上がるのを堪えられない。
「申し訳…御座いません…ん、ぁ」
「ひっ!?」
「くふ…見事ならんちう哉ゃ…流石は、趣味の宜しい御上様方…クク」
嗚呼、喋り難い。そんな僕の舌先に踊る金魚を見て、御上の肩が跳ねる。
それを一瞬でも拝めて、既に哂いを止める事が出来なくなっていた僕。
「う、薄気味悪い奴め…其れを早く戻さぬか!」
「気分を害した、早々に視界から失せよ狐め」
そんな事を云いながら、躯を貪る時にはもっとよく見せろと叱咤する癖に。
思いながら、ふ、と水面に吐き出し、ぽちゃんと跳ねた朱色。
「これは失敬、ではお望みのままに退散致しまする」
「廊下を濡らすなよ!」
「フフ、承知致しました」
芝生に転がったままのトランクから、太鼓を取り出す。
ざわりと靡く草木、お池の朱色が恐怖に惑いぐるぐると徘徊し始める。
『狭いぞ十四代目』
舞い降り、しかし狭さから頭から首を庭先に突っ込む形となったコウリュウ。
眩い輝きに眼をやられたのか、瞼を痙攣させながら見上げる御上達が実に滑稽だ。
「流石はコウリュウ様、其処のらんちうよりも見事な鱗の金色哉や」
『…?しかし息苦しい、早く乗らぬか』
不思議そうな眼を向けられたが、特に説明するまでもない。
偉大なる金魚に跨り、何処か悔しげな顔の御上を見下ろす。
こんな場所で召喚しては、きっと後日これをネタにされ、また鞭でも振るわれるのだろう。
『少し濡れてはおらんか十四代目』
「烏の行水というヤツですよコウリュウ様」
『まだ人の身には寒い季節であろう、十四代目はやはり不可解ぞ…』
悪魔に呆れられるままに、その背で頬杖する。
龍の角にトランクの掴みを通し、暮れ往く山間を眺めていた。
独逸の旅はあっという間に終わり、こうして日本國の夕日を見ている事実。
ちら、と下界を見れば、まだ舗装されていない鉄道路線が見えた。
上から見るとそこそこの距離が破壊されており、施工には時間を要しそうだ。
『何を哂っておる十四代目』
「いえ、少し面白いものを見ていただけですよ」
煌々と輝くこの悪魔も、純粋な存在なので堅気の人間には見えぬ。
しかし、人修羅の姿は人間にも丸見えだ。中途半端な性質が、双方の者に認識される所以なのだ。
あの時…直走る列車の上、ボルテクスで常に見ていた姿を晒されて高揚した己に、思わず哂いそうになった。
(僕と君が…一番正直だった時期かもねえ)
リンの言葉を思い出す。

先に云わせたい言葉

違う、相手の出方を見ているだけだ。
相手の答えに踊らされるこそが、馬鹿げている。答え方を変えるだけで、所謂イエス・ノーは最初から決まっている。
『見えたぞ十四代目、次は広い所にしてくれ』
コウリュウの鳴き声に前を向けば、沈む陽光が浮き上がらせる帝都の光。
…嫌いでは無い。
「銀楼閣の屋上で」
『まだ路上に人が多いであろう』
「ガス灯の光に紛れましょう」
『そうか?また適当に応えてはおらんだろうな』
「適当は、好い塩梅と同義ですよ」
『笑わせないでくれい十四代目よ、笑った際に革鞄が吹き飛ぶぞ』
歩けばそれなりの広さだというのに。龍の体躯で降り立てば、やはり狭かった。
帽子のつばを掴み一礼すれば、暗い雲間を掻い潜っていくコウリュウ。
やや久しい景色を歩きつつ、扉を開けて下へと降りる。
(板…)
等間隔に、階段に細い木の板が渡されている。
その隙間を普通に足運びする。眼を凝らせば、板には車輪の跡がある。
跨いで抜け、事務所の扉をノックし、開いた。
『!?十四代目……』
尾の先までびりりと震わせたゴウト童子が、ソファ上の毛布に包まっている所をするりと降りて来た。
僕の足元まで来ると、翡翠の眼がじっと確認の為に見上げてくる。
「偽者では御座いませぬよ、童子」
『…早かったな…というより、よく帰ったな』
「ええ、色々ありましてね」
『里には』
「帰還し、まず里へ報告に立ち寄った為、此方に参るのが遅れました」
『居らぬ間、帝都に脅威が無かったから良かったものの…はぁ……ともかく、鳴海が帰ったら顔を見せてやれ』
「おや、鳴海所長を扱き下ろしている割には心配なさっていたのですか」
『違う!あの昼行灯に油でも注いでやれと云っているのだ』
僕が居てこそ、昼行灯ではなかったか、あの人は。
童子は、きっと毎日あの顔がうだうだと悩んでいるのでも見せ付けられ、嫌になったのだろう。
『そういえばお主、書物はどうなった…お主の身が此処に在るという事は、まだ向こうの国か』
「いやはや、それが残念な事にですね、僕は別段向こうにずうっと滞在しても良かったのですが」
ソファに脚を組んで着席する、ゴウトが僕に続き、隣に来た。
膝上を空けても乗りたがらない。
「僕を迎え入れた一族の屋敷が全焼してしまいましてね」
猫の眼が鋭くなる。
「勿論書物もすっかりと燃えてしまいましたので、僕はこうして戻ってきた訳です」
『放火か?それとも事故…』
「さあ?僕はシュヴァルツバルトを散歩していたので、その時には居合わせておらずですね」
『………そうか』
お前が殺したのだろう、と、訊けば良いのに。
それを問い質せば、僕が臍を曲げるとでも思っているのだろうか。
「今、此処に滞在しているのは?」
『まだゲイリンの十八代目だ、色々世話を焼いてくれておる、感謝しろ』
「そうですか、ま、彼女には美味しい日々だったのではないでしょうかね」
ストーブに火を点け、ぼんやりとした暖気を浴びる。
じっとり湿ったままの制服が、熱を持つ。
『…おい、アレの脚だが…』
「はい」
『治る気が無いと、ああも治癒は遅いのか』
「胎内を循環するMAGが組織を構成しますからね、感情で巡りも左右されましょう」
トランクを開き、整備道具と手拭いを膝上に広げた。
脚のホルスターからリボルバーを抜き、着水の具合を確認する。
『向こうに……何と説明された』
「何がです」
『何故、書物と引き換えに…お主だったのか、を、説明されなかったのか』
「僕が葛葉のライドウとして活躍している話を聞き、その上でのスカウトというやつでしょう?能力の有る者を一族に迎え入れ、相続争いですよ、結局は」
『…血縁の必要性は、無いと申しておったか』
ほら、遠回しだろう。
「ええ、特には。手続きさえ済ませれば、赤の他人の僕でも、あの一族の一員と成り得る事が可能だそうで」
『そうか……』
「ファウストの血を継いでいるだとか、眉唾な事も云ってましたねえ…フフ、化かされたのでしょうかねえ、僕」
『ヤタガラスに、命じられたのか?』
一歩踏み込み、僕の脚を前足でぐ、と押す黒猫。
僕は濡れた部品を磨き上げながら、その猫眼を学帽の影から見下ろした。
「書物を向こうに存在させておくな、とは云われましたね」
『……お主が訪問した先の一族は……昔、ヤタガラスと縁有って…今では、警戒し合う仲だったのだ』
「へえ、つまり僕は敵地にたった独り送られた訳ですか」
『…いや、そのだな、ライドウ』
決定的な何かを隠しているな、烏め。
このお目付け役も、情は捨てろと云う隣から、人道的な観念が無ければ勤まらぬとでも云いたげに稀にこうなる。
「御安心下さいゴウト童子。彼等が何者であったとしても、後悔も何も抱いておりませぬ故」
ストーブに“燃料”を追加しようか迷ったが、猫の眼が有るので止めておく。
トランクを閉め、リボルバーを戻して立ち上がれば、下の方から薄く響く扉の音。
じっと押し黙る、僕も童子も。
微かな会話が聴こえ来る、僕は耳を澄ませる。
板がぎしぎし、軋む音。事務所扉の近くを通過する際に、一際大きく響いた。

 「今晩は何にしましょう、功刀さん」
 「お仕事あるでしょう凪さん…食事くらい、自分でどうにかしますから」
 「まだ商店、ギリギリ閉まってないですよね?希望が無ければ勝手に考えてしまうプロセスで…えーと、今って何が旬なのでしょう」
 
通り過ぎて往く。
板の軋む音と、扉の音を聞き分ける。恐らく、僕の部屋だ。
トランクを持ち上げ、ゴウトに一瞥呉れて…多分、僕は哂っている。
『おい、十八代目には間違っても“感謝”以外するなよ』
「如何いった意味で御座いましょう、童子?」
『いいや…』
ストーブの傍に丸まった、もう返答の気は無いらしい。
出来るだけヒール音と気配を抑え、僕は事務所から出た。
暫し待てば…思った通り、スキップでもしそうな勢いで十八代目が部屋から出、降りようと数歩下って来た。
そうして、僕を見付け…その眼が、笑わなくなった。
「…せ、先輩」
「葛葉ライドウが十四代目、本日をもって再び帝都守護を着任致す」
刀を真一文字に、鞘ごと掌に携え、上階に向かって礼をした。
は、と我に返った十八代目ゲイリンが、帯刀した小太刀を同じ様に扱い、僕に礼をする。
「御勤め、お疲れ様です…先輩」
「君も御苦労だったね、凪君」
「いえ…っ、広い帝都を任されて、とても良い経験が積めました!」
「へえ、そんなに愉しかったかい?」
歩み寄れば、太陽の陽射しの様な彼女の眼が曇る。
僕をそのまなこに映すだけで、薄い色素の眼が暗くなる。
着衣が黒いからだとか、そういう問題では無い。
尊敬の色に隠れた何かを感じる。
「僕が帰って、そんなにがっかり…?ククッ」
この上背に、ヒールだ…別に、威圧したい訳では無いのだがね。
「が…がっかりだなんて、そんな訳ありません!」
ポーカーフェイスが成ってないね。
買い物籠を僕に押し付け、桜色の唇を、一瞬震わせるのが見えた。
「荷物は」
「…まだ、運び込んで無いです」
「そうかい、もう少し暗いからね、槻賀多までの電車も無くなる時間帯だ…これを使い給え」
ホルスターから引き抜いた一本を渡す。
「オボログルマだ、とは云え調整済みだからね、乗り心地は悪く無いよ」
「あ…」
「僕の云っている意味、解るね…十八代目?」
御覧?怖い顔はしていないだろう?
唇の端が上がるのが、自分でも嫌という程判る。
こうして、すぐにお帰り頂く理由は、説明しない。
して、たまるか。
「…あの、貸して下さった御本、とても面白かったです」
「そうかい」
「ファウスト氏と同じ言葉を、唱えたくなってしまいます…功刀さんと居ると」
「へえ、しかしそれではサマナーとしては危ういね」
僕に面と向かって云うとは、豪胆な娘め。
「……あの、功刀さんに、宜しくお伝え下さい」
深々と礼をして、受け取った管をホルスターに差し込む彼女を見て…
更に、此処に置けぬと、思った。
独逸で、燃え盛る屋敷と人を見ていた時よりも、今の方が胎内が熱い。
下る十八代目と逆に、上へと脚を運ぶ。
もう気配も隠さぬ、高圧的に踵を鳴らし、僕の部屋だからノックもしない。
振り返る顔、僕を捉えた瞬間、その眼が見開かれた。

「よ、夜!?――」
「何をのうのうと甘えている!!」

窓際で黄昏れる君の乗る、その車椅子を思い切り蹴り飛ばした。
がしゃんと盛大な音を立て、床に突っ伏した君。その脚に巻かれた包帯を、屈み込んで無理矢理剥ぐ。
「待ても出来ずに…代わりに動く脚なら誰のものであっても構わぬのかい…」
「……っ、う…」
「要らぬだろう?人間を補助をする椅子なぞ…君は、悪魔なのだから」
車椅子の車輪が、くるくると、異国の観覧車の様に廻り続けていた。
「だ…って、あんた……帰って、来るのか……もう、分からなくて…」
打ち付けた頬を掌で包み、僕を睨むその眼。
「待て…なんて…云わなかった…っ」
それを聞いて、じりじりと這い上がる心の何かが。
(言葉にしなければ、解らぬのかお前は)
列車を塞き止めた君の脚を、指先で撫で…未だ生え揃わぬ先端を弾いた。
痛みに声を引き攣らせる君を見下ろしながら、僕は立つ。
勢いのまま土足で部屋に入ってしまったが、それすら如何でも良い。
寧ろ、好都合だ。
「僕が戻らねば、あのまま十八代目の悪魔にでもなっていたのかい?」
寝台に腰掛け、脚を組み、その片方を君の鼻先に揺らす。
「ほら、脱がし給え、靴」
「どうして…んな事俺が!」
「その脚では立てぬだろう?あと指先だけ、されど指先だけ…踏み堪える事が出来ねば、人は立てぬ」
ぴくり、と、君の肩が震える。繊細な睫が一瞬伏せて、再度僕を睨み上げた。
「云ってたでは無いか、一発殴らせろ、と」
「……黙って殴られるあんたかよ」

「今、立つことが出来るなら、打たれてあげる」

唱えた瞬間、床に這い蹲ったまま、僕の革靴を脱がしにかかる人修羅。
我武者羅にぐいぐいと左右に動かし、外すとそれを背後に放る。
投げられた靴は車椅子に当たり、車輪の回転が止まった。
薄足袋の小鉤を開いて往く、一箇所が解れる程に酷く乱雑に。
その、男性にしては華奢な指先が掴み縋る。剥き出しにされた僕の爪先に舌を這わせて、咥え込んだ。
「ん……んぶっ…ふ…ぁ」
爪先から流し込むMAGでさえ、その久しい味に酔い痴れているのだろう。
こういう時、そこらの雑魚の様な貧相な味のMAGでなくて、良かったかもしれないと思う。
…生まれに…感謝すべきか?
いいや、馬鹿げている…違う…僕という個体が、生まれ持ったものであり。
出所など…関係無い。
親など。
「はぁ、ん、んぢゅっ、ふ、ぅ――ッ」
爪先から這い上がってくる、ぞくりとさせる、君の熱い様な、冷たい様な舌。
惑いつつ睨むその眼は、やはりお気に入りだ。羞恥に塗れ、視線を逸らす瞬間に青臭い色気を感じる。
指の間まで、貪欲に舐め取る。その動きに釣られて、MAGが垂れる。
僕の脚が唾液塗れになるにつれ、君の脚先がじくじくと形成されていく。
そう、君を形成しているのは、僕のMAGだ、ボルテクス以降、ずっと。
他の仲魔と比べ、不明瞭な契約を結んでいるだろう?
「美味しい…?」
「ん、はぁ…んぷ、っ…はーッ……はーッ」
「クク…五本…揃ってきたねえ」
その方が、都合が良いからだ。
知れぬ部分が多い程、どうにでも辻褄合わせが出来るからだ。
「っ、この…!」
僕の爪先から、銀の糸を引かせつつ罵る唇を開いた人修羅。
片脚が膝を着き、その視線が上がる。
立ち上がった君は前傾姿勢を振り被り、引き絞った腕を突き出してくる。
斑紋の手が間近に来ると、避ける気も何故か失せた。
(このまま、宣言した通り殴られてみるのも一興か)
すれば、また後で…君を躾る理由になる。
言葉は要らない、互いに思い当たる何かがあれば、それで済む。
それは、利害の一致。
君が必要とする僕、僕が必要とする君。
互いに都合好く捉え、邪魔なものを排除してきた。
温かな寝床なぞ、要らない。脚を引っ張るだけだ。確かなものより、虚ろう何かを利用して生きるのが、僕なのだ。

そう、僕には
「んぐ、っ」
要らない――
「ふ……は、ぁ、ん、んっ、ん」

人修羅の拳が逸れて、傍のシーツに埋まる。
噛み付く様な、接吻。顰められた眉が、あたかもさせられているかの様な表情で。
しかし、僕はこの間、一寸たりとも動いてはおらぬ。
たった今、脚を舐めたその舌先で求めるのか、と、胎に蹴りでも入れてやろうかと思った。
「あふ、っ」
「下手糞」
すっかり擬態を解除した君の角を掴み、喉を晒させる。
その白い喉笛をじっとり舐め上げて、耳元で囁いた。
「もう忘れたのか、こうするのだよ…!」
「んん――ッ」
噛み付き返す。狭い唇は相変わらずで、逃げ惑う舌も変わらなかった。
そういえば、蹴ってやろうと思っていた筈だ。
何故、首に、背に、手を回しているのだ…
まあ、良いだろう?だって、理由の説明は要らない。
言葉にする必要は、やはり無い。
潤う君の斑紋の光が、応えている。止める必要は無い、と。
このまま、繋ぎ直して、また元の日々が戻るだけだ。





ヤニの臭い、でもそこまで下品じゃない葉の匂い。
混じる様にして、香木の様な薫りがする。
次に、鼓膜を幽かに震わす音。
水音、雨樋を叩くそれがしとしと鳴る。
ああ、だからこんなにも香りが鮮明に漂うのか。
「う…」
自分の呻き声と共に眼を開く。大した光量も無い、陽はまだ昇っていないらしい。
薄暗い部屋の中、自分の指先を見れば、相変わらず黒い斑紋が伸びている。
駄目だ…いくら部屋の中とはいえ、いきなり他者が入り込んできたら、どう説明する。
「気分は如何だい」
「…最悪」
「君から誘ったではないか、随分だね」
「あんたが舐めろって、脚ぶら下げたんだろ」
腰が、引き攣る感覚がする…だるい…
久々だった所為か、少しだけ…あの行為が激しく感じた。
指先まで充ちる魔の力は、この男の使役下に再び入った事を意識させる。
「どうして帰ってきたんだよ、ドイツは飽きたのか?」
「…そうだね、飽いたよ」
煙草をぐしゃり、と揉み消すライドウ。あれをする位なら、俺に灰にさせて欲しい。
その切れ長な指先がヤニ臭いと、白檀が薄れて気分が悪くなる。
「ヤタガラスのサマナーを嫌う連中も多かったよ」
「…そうか」
「一部は取り込まんとし、一部は毛嫌いしていたね。中でも、つい最近無くなった家長がねぇ…随分と忌み嫌っていてね。子供をヤタガラスに奪われた、デビルサマナーは追い出せ!と、声高に叫んでいたそうだよ」
それを聞いた俺は、表情を変えずに居れただろうか。
云うべきなのだろうか、その家の事を…その子供の正体を。
「フフッ…ま、あそこに長居していても、派閥と相続の争いに呑まれるだけと悟った訳さ」
「だから帰ってきたのか?」
「…御不満かい?」
「凪さんの介護、もっと甘えとけば良かった」
「フン」
小馬鹿にした失笑を聞き流しつつ、俺は起こされた車椅子をぼうっと眺めていた。
言葉にすべきなのか?
しなければ、俺はまた…瀬戸際になって、自己嫌悪する己を見るハメになるのか?
「ねえ、功刀君、春は遠いね、少々肌寒くはないかい?」
その声に振り返れば、既にちゃっかり学生服の黒を纏うライドウが、哂って何かをチラつかせる。
ボロボロの、本みたいな何か。
「…何だ、それ」
「燃してくれ給えよ、暖を取るくらいの役には立つだろう」
灰皿に放ったそれは、年代物の書物に見える。
骨董にも見えるそれは、果たして重要な物ではないのだろうか。
「おい、これ…燃やして大丈夫なのか?」
「寝起きで火が点かぬかい?伴奏でも必要かな」
トランクからすらりと取り出す物を見て、更に唖然とした。
艶やかな色目の、ヴァイオリン。
「どうしてそんな物」
「独逸の土産だが?ヤコプ・シュタイナーのれっきとした逸品だよ」
「はぁ?」
「おっと、胴にその襤褸本を入れていた所為で、調律がおかしくなっているね」
キィ、と鳴らし始める…が、調整の音すら不快感は無い。
構える姿が様になる。性格さえ抜かせば、やはりこの男は美丈夫という類の存在なのだ。
「ねえ、早く燃してくれ給え」
ちら、と目配せしてから、何かを弾き始める。
(弾けるのかよ、嫌味な奴)
それが何か解らない俺は、あの日観たファウストを思い出す。
「ベルリオーズの《鬼火のメヌエット》さ」
弾む弦、掻き鳴らす弓が優雅に、それでいて力強く律動する。
あんな遠くの席から眺めていた時よりも、楽器の音は鮮烈に感じる。
遮らない声、深すぎない心地良いテノールが詠う。

 聞ゆるは戦か 歌か 
 天にある心地せし日の
 優しき戀の歎きの聲か
 あはれわれ等 何かを願ひ 何かを戀ふる

ああ、奥底の感情は言葉として具現しない。
ボルテクスから、そういえばそうだったじゃないか。
腕を翳し、ライドウの弾き語る声に耳を澄ませて、ゆらゆらと鬼火を踊らせる。
灰の皿の上、轟々と燃え朽ち往く書は、やがて紙切れになり、炭化した。
ゆっくりと弓を引き、肩からヴァイオリンを外すライドウがニタリと哂う。
「本当はどんな物かと、己の手で保管してやろうかと思い、引っこ抜いて来たのだがねぇ…フフ…やはり消すべきだと考えを改めたよ」
「盗んできたのかよ」
あの、例の術書かよ、やっぱり。
「おや、独逸の家は燃えてしまったのだから、所有権は消えている」
「ヤタガラスの持ち物じゃないのか」
「クク…家と共に燃えたと伝えたさ、しかし内容は滞在中に読み上げ…しっかとこの頭に有る、と説明した」
弓で学帽を軽くノックするライドウ、ドアはノックしなかった癖に。
「そして、替え玉はしっかりと置いてきたさ…少しばかり要点を挿げ替えた、成立せぬ術を記述した写本がね」
「は?バレないのか、そんな内容で」
「あんな細かい術、誰も実践せぬよ、今の御時世」
「嫌がらせかよ、呆れた…」
何かもうどうでも良くなって、シーツに包まった。
何だよ、俺が必死で止めなくても、結局は同じ顛末だったって事だろ。
「楽器の中までは調べなかったねえ、カラスも」
「本当あんたって…狡猾だ」
「そういう僕だからこそ、君も使役下に下ったのだろう?」
自信たっぷりに、妖艶に哂うライドウ。
不貞寝する俺の額に指が触れてきて、一瞬跳ね返そうと思って、止めた。
「デビルサマナーである事を批難されるのは、心地良くなかったね。僕はサマナーとしての誇りは持ち合わせているつもりだからね」
「…あっそ」
「どうせ、使役する悪魔も下賎な衆なのだろうと云われたよ」
「悪魔はそういうものだろ、何か違うのかよ」
前髪をそっと払う、俺の眼を覗き込む暗い闇色の眼。

「“僕の悪魔”は、共に《ファウストの劫罰》を観る程度の知性と品位は兼ね備えている、と答えたさ」

雨音だけが響いていた。
揺れる視界、別に銀楼閣は揺れていない。
「……クッ、何だよ、それ」
可笑しくて、俺が思わず肩を震わせ笑っていただけだった。
俺を見つめるままの顔も、不遜な笑みを浮かべていて。
「ねえ、君が燃した…この世から消したのだよ、あの書物を」
責任転嫁かよ、と思ったが、その続きを聞く為に黙っていた。
「だから、あれと引き換えに生った仔も、もう居らぬね」
「…」
「カラスに育てられた、只の捨て子が…この僕さ」
「……どうして、俺に燃させたんだ」
囁く様に、詠う様に、俺の鼓膜を震わせる。

「Verweile doch, du bist so schoen」

ほら、な。
俺に理解出来ない言葉でしか、あんたは感情を吐かないんだ、いつも。
「ほら、MAGも満ち充ちて満足だろう、もう寝給えよ、煩いから」
「な…っ、散々振り回しといて…!」
「お休み、僕のメフィスト・フェレス」
…何を思って、こいつがそう云ったのか、理由は訊かない。
問い質すだけ、馬鹿らしい。好きに解釈するのが、俺達だろう。
「絶対、最後に立っているのは俺だからな……」
今は、殺すとか、そういう言葉を吐く気になれなかった。
それは、押し迫る睡魔の所為にして、眼を瞑る。
悪魔だから、その欲求が激しい筈も無いのに…

「…おやすみ…夜」

寝惚けていたのか、間違えて吐き出した言葉が、跳ね返って己の心を抉る。
昨日までと違う、今宵は腹立たしいこの男が、居る、傍に。
俺は頬の火照りをシーツに押し付けて、睡眠に入る形を取る。

 馬鹿げている
 最後が来るのを恐れているだなんて
 信じたくない
 時が…止まってしまえば、その恐怖も緊張も無いのかと思えば
 いっそ…楽に…このまま…

「怖い夢を見たからとて、寝言に僕を呼ぶで無いよ。流石に出張帰りで一発交って一発弾って、疲れたからね」
煩い、この外道サマナー。
「では、おやすみ………矢代」
煩い…この…この…



また、異国に高飛びされない様に
そっと指を絡ませて、寝たふりをした。



止まれ、お前はとても美しい《後編》・了
* あとがき*

また無駄に長くなってしまいましたね。
 ・ファウストになぞらえて展開させる。
 ・引き止めたい一心で列車を止める人修羅。
 ・車椅子を蹴り飛ばすライドウ。
 ・殴る為に爪先からMAGを舐めしゃぶる人修羅。
これ等を書きたいと執筆を始めたのですが。
肝心な言葉を云わない、というのは、互いにとって都合が良いからです。云う事によって、己の目的と手段が逆転しかねないからです。
それにしても甘くなり過ぎた気がします、最近密着多いですね。


《結局ライドウは親と知っていたの?》
⇒ゴウトや御上の一部がああ云っているだけで、DNA鑑定しなければ確証は持てない。ファウストの末裔かも、定かでは無い。因みに、夜は最初から帰る気満々だった。

《ドイツの家が燃えたのは、ライドウが直接下したのか?そういう風に誰かを手引きしたのか?》
⇒これに関しては、ドイツのパートを書くべきか迷ったのですが、敢えて書きませんでした。ライドウにとって、結局親の情というものは理解し得無い展開になるので…そして、あまり鮮明にしてしまうと、執筆している管理人が後々辻褄合わせするのが大変だからです(おいおい)作中のタム・リンの言葉が耳に痛い。ライドウはヤタガラスに与する今まで通りの路を選んだ、結果としてはそれだけです。ミステリアスな所を残した方が、夜の影が引き締まる気がしないでもないからです。

《「Verweile doch, du bist so schoen」って何って云ってるの?》
⇒独語。タイトルの通り「止まれ、お前はとても美しい」です。ファウストの劇中で“「時よ止まれ」と唱える事が、ファウストが悪魔メフィスト・フェレスに魂を明け渡す詞(ことば)となる”という契約だったので。つまり、ライドウなりの人修羅に対する感情表現…
この瞬間を永遠にしたいと思う事こそが、彼にとっての真の堕落。

《何故人修羅は殴らないでキスしたの?》
⇒一刻も早く契約を交わしたかったから(繋ぎ止めてしまいたかったから)
これは、長編の徒花を書いた際に、実の所管理人にもダメージが有ったので…正直に云ってしまうと、それの修復の為に書きたかったのです。このSSでは、日常に戻ったという事です、いつも通り、傷の舐め合いという日々に。

《いきなりヴァイオリン?》
⇒ヤタガラスに荷物を確実にチェックされる筈なのに、どの様にして術書を持ち帰ったのか…を考えた結果、密輸じみたイメージが浮かび…どうせなら小洒落た容れ物に入れてカラスの眼を欺きたいなあ、という事で楽器にしました。《鬼火のメヌエット》で、少し場面を華やかにしたかった。何でもさらりとこなす嫌味な野郎を演出するのにも一役買いましたが。作品には食事か詠うシーンを入れたくなるのです。

《凪ちゃん可哀想じゃないですか?》
⇒思った以上に噛ませ犬になってしまって、申し訳無い。凪⇒人修羅が好きです(聞いてない)

《冒頭の文は?》
⇒森鴎外訳のファウスト(大正二年発刊)からです。デジタルライブラリーというサイトで、この時代の書物が読めます。全文がまるで詩の様で、言葉遣いも素敵なので興味のある御方は是非。