不規則な動き、見えない階段をスキップする様なリズムだ。
 抜け落ちた天使の羽根と見紛うそれは、目の前をかすめる距離まで舞い降りて来た。
 思ったよりも小さい。こんな規格の羽根を持つ天使とは、きっとピクシーよりも小さいだろうな。
 その白はやがて石畳に落ち、じんわりと染みを作った。
「寒いわけだ、こりゃ明日の朝にはチョット積もるかもな」
 道行く紳士が連れにつぶやき、コートの腕を撫で失笑していた。
 ああ、此れは雪で間違いなさそうだ。ひとつも寒いと判らない為、判断しかねていた。
 ジャケットのポケットをさぐり、懐中時計を確認。機構に狂いが無ければ、既に小一時間経過している。
 ぼくは場を離れ、銀楼閣へ足を向けた。


「どうぞ」
 探偵事務所を訪ねれば、所長はご丁寧に珈琲まで出してくれた。
 鳴海というのは人の名だから、恐らく彼がその鳴海なのだろう。
「有難う」
「……で、ライドウだっけ?」
 テーブルを挟んで座る事はせず、机の方へ向かった鳴海。
 ぼくの間近に落ち着く事を警戒しているか、恐らく抽斗に銃でもしのばせてあるのだろう。
「待ち合わせに遅れるなど、考え難いのです」
「確かに、おかしな話だ」
「彼から何か、聞いていないかと」
「……聞いてたとして、それを易々お宅に教えると思うかい」
 なんとも云えないところだ、黙って珈琲を一口すすった。舌がじんとする、物凄く熱いのかもしれない。
「あいつの交友関係に口出すつもりは毛頭無いが、しかし忘れちゃいないぜ。あんたが弾を唆したって、俺は思っているんだけどなァ?」
「ぼくを信用ならぬ男だと」
「信用出来る人間なんざ滅多に居ないが、あんたは振り切って真逆に行ってるよ」
 癖毛を指で軽く弄んだあと鳴海は暫く沈黙を続け、おもむろに机上の文具を漁り出した。
 紙を啼かせ摩耗してゆく黒鉛が、珈琲の薫りにわずか交ざる。
「二日前、此処に向かった筈だ」
 背後から、肩越しに一枚の紙きれを差し出された。簡易的な地図が描かれていた。
 築土町郊外より、もう少し遠くの位置だろうか。まず、始点からして町はずれだった。
「大きな屋敷だ、椿の生垣の」
「貴方も心配なのですか」
「あいつの用事で、いつも通り数日空けているんだと思ったよ。しかしお宅の言分が正しければ、其処がきな臭い」
「もうお訪ねになった?」
「ライドウの所属に俺は雇用される身なんでね。門前払いの可能性を今考えてたのさ、俺が行ってもどうかなって」
「それは部外者のぼくも門前払いでは?」
 此方の問いを待ち構えていた様に、鳴海は間髪入れず一角を指差した。
「あの猫、どう思う?」
 指されるは黒猫、あのライドウが連れ歩くお偉いさんだ。
 入室した時からずうっと其処に居た。微動だにせず、蓄音機と隣接する棚上に横たわっていた。
「猫ゆえに寝転んでいる、とか?」
「…………おっと失敬! そんな事云うとは思わなかったんでね、一瞬頭が真っ白になっちゃったよ。あれは贋物、剥製なのさ……良く出来てるだろ」
「ライドウの連れ歩いている、あの黒猫の死体という事?」
「いいや、体格の近い別の黒猫」
 なんだ残念、あの黒猫が居なければライドウも身軽だろうに。
「あいつが向かった屋敷に住んでいるのは剥製職人。えらく饒舌な男でね、ヤタガラスの者だがサマナーでは無いらしい。此処に来た時に其れ≠置いてった……全くゴウトちゃんも居るってのに、素晴らしい置き土産だ」
「その職人は機関命令で来たのですか? それとも個人的な依頼の為?」
 問えば鳴海は、内緒話でもしているかの様にひっそり呟いた──……金の無心に来たんだよ、と。


 あっという間に辿り着いた屋敷は、説明通り椿の生垣に囲まれていた。
 砂糖をまぶした菓子の様だ、雪化粧する花弁を見て思う。それとも逆で、こういう姿を模して菓子が作られるのか。
 門を探してぐるりと一周したが、見当たらない。呪いでも施して有るのかもしれないと、二周目は注意して歩いた。すると今度はあっさり見付かった、魔力の匂いはしない、どうやら見落としていただけらしい。人間一人がようやく通れる隙間を潜り、足下を確認すれば白い玉砂利が敷き詰めてある。踏みしめれば、雪を巻き込んできゅうきゅうと啼いた。これが来訪の合図となったか、扉を叩かずとも目の前で勝手に開いた。
「どちら様!?」
 慌てて飛び出したか、下駄の片方脱げている相手。丸眼鏡に鷲鼻、少しやつれた雰囲気の男性だ。ぼくをやぶ睨みしつつ、地の厚そうな羽織をしょい直している。
「アポも無しに失礼。素晴らしい剥製の製作者を訊ねたところ、此処に作家が住むと伺ったので」
「ああ見たの!? どれ見た!?」
「黒猫のものを」
「黒猫といったらアレだろうな、一体しか作っていない。あれは普段の倍は時間かけたからね!」
 鳴海の云う通り、剥製の話を出せば一気に警戒が解けた。それほど単純なものか些か疑問だったが、それほど単純らしい。
「私のコレクションに加えたく思いまして、因みに販売はされているのですか?」
「うーん……モノによるのだが……」
「可能であれば、幾つか拝見したい」
「ところでお客さん、どういった素性の方?」
 ぼくは鞄を開き、革製の名刺入れから一枚引き抜いて差し出した。ひょいと片手で受け取った男性は、名刺にピントを合わせてから呻る。
「ふーん……英国の方なら目は肥えてるだろうねェ」
「貴方の作品は、母国の物と比較しても引けを取らぬ完成度です」
「へえー……いやでも流石に、あちらさんほど奇妙奇天烈な剥製は置いてないんでねえ、残念ながら」
「と云いますのは」
「…………サイファさん、あんた動物以外≠フ剥製もイケるクチかい」
 動物以外というのは、何を指すのだろうか。範囲があまりに広大な為、彼等にとって身近な存在に絞る。
「ヒトの剥製≠ニいう事でしょうか」
「はっは、ズバリ来たねえ! でもちょいと違うんだなぁ。良いよ、お上がんなさい」
 ぼくは合格したのだろうか、招き入れる仕草で後退する男性。石造りの土間に脱いだ革靴を揃え、廊下に踏み出せばひんやりとした。今は冬なので、この刺激は恐らく冷気だ、ひんやりで違いない。
「室内履きの予備が無くてすまんねえ」
「お構いなく」
 先刻の玄関、とりあえずライドウの靴は無かったな。


 案内された客間は空間に余裕も有り、上等な雰囲気だ。アイアンのシャンデリアに、民族調の柄が賑やかな絨毯。飴色の艶が鈍く光る調度品の数々、角度によって濃淡が躍る別珍ソファ。家主が金の無心をしているとは、到底思えなかった。いや、この様な暮らしを維持する為に金が必要なのか、それとも別の所に浪費しているのか。
「人間の剥製は出来るっちゃ出来るんだけど、ただただ面倒で」
「確かに、あまり見ない」
「皮が薄いし、頑丈とは云い難い。皺ひとつで人相も年齢も違って見えるからねえ、成形が難しい。しかも劣化が早いから、手入れの頻度も凄い。やっぱり自前の毛皮まとった動物は頑丈って事ですわ、色々とねぇ」
「動物を中心に作っていらっしゃる?」
「先に確認しときたいんだけど、サイファさん、黒猫の剥製はアレでしょ、鳴海探偵事務所で御覧になったんでしょ」
「ええそうです」
「ヤタガラスっつう名前でピンと来ないかね」
 これは鎌をかけられているな、鈍いぼくでも判るくらいの直球だ。さあどうしようか、一切無縁と説明すれば却って警戒するかもしれない。この職人は恐らく理解者≠欲しているから。
「あの機関ですか、私の顧客ですよ。鳴海探偵事務所はついで≠ノ寄ったまでです、近くを通るのなら品物を直接渡そうと思いまして」
「はーあ、そりゃ話が早い。っていうと何、扱っているモノは……」
「主に武器です、銃器」
 もちろん完全に出任せ。あの組織が外部から取り寄せる物というと、その辺りが妥当だろう。
「なるほど、連中が何相手に鉛弾ぶっ放してるかは知ってんのかね?」
「特に気にした事もありませんが、動物以外≠サして主に人間以外≠ニは伺っております」
「……じゃあそういうモノ≠フ存在は知っていると、思って良いんだね?」
 あともう一押しといった所か。
「職人さん、話しぶりからするに貴方、ヤタガラスの一員ですか」
「この流れで隠す事でもないよなぁ、そうだよ」
「剥製のお仕事は、役割なのでしょうか、それとも趣味?」
「うーん、どっちも」
 これは読めた気がする、沢山ライドウと会話した甲斐が有った。彼は探偵見習いという仮の姿を見事こなすだけあって、観察や読心の術を面白可笑しく話す事が多いのだ。ぼく自身の心というよりも、今此処にライドウが居たら、どの様に推察するかを考えた。
「私がパトロンになりましょう、ヤタガラスには内密で」
 向いのソファで軽く項垂れていた男性は、ぼくの提案にびくっと双肩を強張らせ、若干仰け反り気味に喚いた。
「えっ、えーっ!?」
「悪くないでしょう、ひとまず幾つか作品を……貴方の研究成果を見せて頂ければ」
「はっ、はいはいはい、本当に内緒にしてくれる!?」
「ええ」
 本当も嘘も無い、そもそもぼくはルイ・サイファという人間≠ナすらない。それでも金銭を渡す場面が来れば、渡すだけだ。別にこの剥製職人を貶めようだなどとは、ひとつも思っていないからね。
「ああ、じゃあもっぺん靴履いて! 置いてある部屋が離れなもんだから……」
 云われるままに玄関へ戻り、革靴に爪先を差し入れる。ぼくの隣で慌てて下駄を履く男性、またもや片方脱げ落ちていた。
「どうぞ落ち着いて、逃げないので」
「いやすまんね、まさかこんな……棚ぼたっつうかねえ」
「タナバタ?」
「タナボタだよ、棚からぼた餅! 七夕は夏!」
「ああタナバタはそちらですね、オリヒメとヒコボシがどうのこうのという」
「日本の事、詳しいんだか詳しく無いんだか……あぁそうだ、今更ですけど儂はテンノカワっていうんでね名前。そーれが漢字で天野川(アマノガワ)って書くもんだからさ、七月の頭にはよく揶揄われたもんでねぇ」
「テンノカワ様ですか」
「んーな、様なんて大仰な」
 外は相変わらず雪が舞っている、前を往く彼の頭がもう白んでいると思ったが、よく見れば白髪雑じりなだけだった。後ろにわしゃりと持ってきた髪を、うなじで雑に括っただけのスタイル。横着というよりも、それが最適なのだろう、己の見栄えを気にする必要のない生き方をしているのだ。
「随分広い屋敷だ、純和風の家屋に西洋アンチークが映えていた。ちなみに、ご家族は」
「ずうっと独りだよ、こっちに移ったのは五年くらい前だけど」
 その転居が、機関命令なのか否か、訊ねようとして止めた。必要以上にヤタガラス絡みの話題は出さない方が良い、ぼくはあくまでも外部関係者として、此処に居るのだから。
「明かりを点けるから、ちょいと待ってよ」
 離れと説明された其処は、蔵を改装した建物の様だった。奥でスイッチ音がすると、途端屋内が顕わになる。とはいえ暗闇でも十分視えるぼくは、何が陳列されているのか既に把握していた。机ほどの高さの台や、壁の造り棚には、等間隔で剥製が並んでいる。それも黒ばかり、黒い毛並みや皮膚の元生物≠オか居ない、まるで影絵のパレエドの様だ。
「これは素晴らしい、貴方個人の感性がこの色を選ばせるのですか?」
「まぁこれには事情があってね、黒しか必要とされんのよ」
「しかし見たところ、動物と云われるものしか居ない」
「そ! 本番はこの奥だからねェ」
 テンノカワがざあっと掴み開く暗幕の先では、人間にとっての異形≠ェ所狭しと立ち並んでいた。それ等はぼくにとって馴染み深い、寧ろ飽きの来るような面々なので、どれが欲しいかと問われれば真っ先に動物の剥製を選んでいたであろう。
「これは悪魔ですか?」
「なーんだ、やっぱり知ってるじゃあないの」
「動物とも人間ともつかぬ生物とあれば、俗にいう幻獣でしょう。しかしヤタガラスの貴方が関わるとすれば、悪魔と称される類かと」
「英国じゃキメラが盛んでしょ、アレコレ動物くっつけたゲテモノ剥製がさ。ああいうのじゃなくて、コレ本物だからね! この連中は黒い必要も無い、儂の勝手気侭に作った剥製」
「悪魔達は普段姿を隠しているそうで、私も視えないのですが……如何にして、この形に」
「んな事、あんたさんに話して解かるのかい。サイファさん実はデビルサマナーで、技術盗みに来たんじゃあないでしょうな!?」
「ご安心を。私は手先が不器用ですから、理屈が解かったところで真似できません」
 デビルサマナーどころか彼等を統率する立場に在るのだが、内心笑いつつもはぐらかした。
「MAG分かるかい、マグネタイト。あれで悪魔はコッチの次元に顕在してるワケだから、それを固着させんのさ。そうしたら其の姿形のまま、まるで動物みたくいじれるんだよ。まぁ、中身元々カラッポの奴も居るし? 霊体なんぞは魚拓みたいに転写しか出来ないけど、はは!」
 テンノカワは笑いながら、すぐ近くのオシチの髪をさらさらと指に遊ばせた。
「これなんかは殆ど鳥類だから羽の処理とか手慣れたもんだった」
「その悪魔も、随分と穏やかな顔をしている、己の死にも気付かずこと切れた様だ。悪魔の捕獲は貴方が直々に?」
「無茶な話で! 儂はあんまし視えないんですよ、先に向こうから見せてくれりゃあ別だけど。MAGが不活になった悪魔……まあつまり死んだ奴は残り火の様に姿形を顕わにするもんでね、投影の為のMAGが完全に抜けるとようやく跡形もなくなるの。だからなくなっちゃう前に、カラダを持ってきて貰う」
「成程、可能な限り綺麗な死体≠望むという訳ですね」
「そーりゃあね! 狙撃の得意なサマナーが居たら是非教えて欲しいモンだ、今のところ賛嘆に値するのは十四代目くらいしか──」
 こちらから問い質さずとも出たじゃないか、十四代目の話。途端、歯切れの悪くなったテンノカワは話を変えようとしているのか、視線が彷徨っている。周囲の剥製たちは、誰も応えてくれやしない。
「葛葉ライドウの事ですか」
「……そう、知ってる? あの小綺麗だけどおっかねぇ子、そういえば探偵事務所に行った事あるんだっけ?」
「此方側に精通していれば、名前くらいは知っているでしょう」
「たまーにね、くれたんだよ、悪魔の死体をさ。彼は一発で仕留めるからね、急所の有る悪魔なら本当に一発。弾痕が少ないだけ綺麗に仕上がるから、有難いもんだ」
「今もその様なやり取りを?」
「や、最近はちょっと……ね」
 もうつつくのは危ないかな。この男、迂闊では有るが警戒心が皆無というわけでもあるまい。ライドウが自らの意思で関わっていたとすれば、それは何処か後ろめたい内容である気がした。少なくとも、ヤタガラスという機関には貢献しない類の。
「テンノカワ様、この度は色々と有難う御座いました。私は悪魔を直接持ち寄る事は出来ませんが、資金面での援助、そして剥製そのの購入は可能です」
「ホント!? いやもう是非お願いしたい所だよ、なにせ薬品から何から、とんでもなく金かかるの! 場所はまあ、管理する代わりに借りてるからタダなんだけど」
「それでは簡単に見積もりましょう。申し訳ないが、あの客間に少しばかり座らせて貰えませんか?」
「えぇえぇ、どうぞどうぞ」
 破顔したテンノカワは、重そうな暗幕をざあっと元に戻す。すっかり閉ざされてしまったが……静止する悪魔達の奥には、階段が見えていた。此の建物は二階まで有りそうな高さをしていたから、間違いないだろう。何より怪しいのは、その階段を塞ぐようにしてイチモクレンが眠っていた事だ。そう、剥製ではなく本物の悪魔。
 パチンという音と共に照明は落とされ、黒い動物たちが闇に同化した。ぼくはテンノカワに急かされつつも、蔵を出る直前に目の合った剥製にふっと息を吹きかけた。己の尾を噛まされていたウロボロスの如し黒蛇が、パチンと目を見開く。潤む深紅の眼に微笑みかけたぼくは、単純な命令を下す。

二階を見てこい

「あのぉ……お客様、お水だけというのはちょっと」
 女給に困惑されたので、メニュー最上に記載されている珈琲を注文した。思えばいつも、ライドウがぼくの分まで飲み食いしていたから、水だけで済むと思い込んでいたな。
 あれから見積もりを済ませ(予想に反し、本格的に話し込んでしまった)本日はお暇すると退散し、近場の喫茶店にするりと入り込んだ。ぼく以外の客は、殆どが上着を脱いでいる。雪につられてストーブを用意した店内は、恐らく少し暑いのだろう。
「おかえり」
 暗がりに紛れる黒蛇が、ぼくの靴先を頭で小突いていた。くい、と爪先を上げてやれば、するすると脚を登って来る。裾を掻い潜りジャケット内を泳ぎ、袖先から顔を覗かせた途端、お次は手袋の中へ。しゅるしゅる、しゅる。とうとう尻尾まで呑まれ、完全に見えなくなった。
「お待たせ致しましたぁ、オリヂナルブレンドです」
「ありがとう」
「お客様、暑くないですかぁ?」
「冷え性なもので」
「日本語お上手ですのねぇ」
 女給の置いていった珈琲を前に、ぼくは右手の手袋を外す。人差し指の根本を、黒い指輪がぐるりと巻いていた。蛇が尾を咥えたデザインのそれは、眼に赤い石が填められている。その鈍い光と目を合わせ、遣いの見て来た光景を眺める──


つまらん餓鬼め
 映像より先に、音を拾っている。聞き覚えの無い男性の声と、衣擦れと、湿った音だ。
これでは御上連中も満足しないだろう、何、俺相手に悦ばせる利点が無いか?
 薄靄が晴れゆくと、蠢くシルエットが次第に鮮明になった。窓から差すは夕暮れの陽か、逆光になってやはり見え辛い。二名ほど居るのか、一人がもう一人の脚を抱えている。何が行われているのか、なんとなく察しがついた。
適当に啼けばいいものを。こっちの機嫌を取れば、少しは楽になれるのに
 制する側が片腕を振り上げ、恐らく殴ったのだろう。もう一人が軽く床を蹴った、微かに呻きが聴こえた気もする。
本当つまらんな
 呟いた男がおもむろに立ち上がる。やがて照明が灯されたのか、辺りがもう一段顕わになる。男はスーツ姿でのそりとしゃがみ、その隙間からちらちらと、犯される者が垣間見えた。両手首をひとつに括られ、柱の下部に固定されている。伸びる生足は痣まみれで、ぐちゃぐちゃにされたプリーツが複雑な影を織りなしていた。そう、あれは確かセーラー服というものだ、築土町でよく擦れ違う女学生達の。
ふぅっ……ははっ……おい、汚すなよ、お嬢様の形見って云ったろう
 腰を押し付けている、位置的に頭の辺りか。多分しゃぶらせる、というやつだ。
卒業したのに、鞄に詰めてた、どういう事だろうな、はぁ、はっ……こう使う為に、残しておいたんじゃないぞ、生前の品は、たまに活かせるものだからな……あ、あぁ、でもこう使ってやれば良かったかもな、あの女にも……ふっ……おい、どう思う? あいつをどっかにやったの、唆したの、お前だろ? おい、何とか云え
 問う口調の割に、一際強く腰を押し付けている。体躯を硬直させる男と裏腹に、伸びた脚は狂おしげに指先を戦慄かす。
ううぅッ……!
 圧しながら勝手に喘ぐ男が、ようやく腰を退いた。予想通り、犯されているのはライドウだった。女物の制服を着せられていようが、足先だけで判別出来た。ぼくも幾度となく抱いてきたからね。その形や、耐え忍ぶ動きの癖で、案外判るものだ。しかし彼の口許には、見慣れぬ金属が填められており、それが何の為のモノか分からない。
ちょーっと待った! ソレ勝手に使わんで下さいよ
 ああ、これは既に聞き慣れた声、テンノカワだ。だだだっと一階から駆け上がってきたのか、それらしい音に合点がいった。
ソレってどれだ
十四代目のクチのソレ! 動物とか悪魔の口内いじる時に使ってるからねぇ、人間用と違います
填まったぞ
そういう問題じゃないって。あとねえ、ちょいと殴り過ぎじゃない!?
食い千切られては堪らん、俺の安全の為よ。それにゆくゆくは俺の人形にするのだから、お前が口出す所じゃない。それとも何だ、隙あらば死体くすねて剥製にでもするつもりか、このカラスめが
ハカマタさんだって、元カラスでしょ!
 確かに、得物を取り合うカラスの群れを思わせる喧騒だ。
おい、さっき下に誰か連れて来てたろう
ああそうそう、良い具合にパトロンが現れたんで、お金は今度ね
……剥製は、悪魔のヤツ見せたのか? 見て解かる輩が来てたって事か?
ヤタガラスの人間じゃないから、心配無用! ホラ、名刺貰ったし
ふん、商売人か。まあ勘付かれても俺は逃げれば済むだけだ、機関の一員であるお前と違ってな
 着衣を正した男は、映像の外へと抜けた。彼はどうやら場を離れたらしく、残されたテンノカワが身体全体で溜息を吐いた。
わあわあ、滅茶苦茶だな……あの、大丈夫? 十四代目?
 伸びた脚を跨ぎ、ライドウの口許に指を伸ばすテンノカワ。あの器具を外すのかと思えば、ぴたりと止まった。
っと待った……勝手に取ったら正直怖いなぁ、儂が殴られると思わんです!?
 ライドウは首を縦にも横にも降らず、睨む事もせず、じっとしていた。乱れた黒髪の隙間、どこか虚ろな眼が光る。
屍鬼にしたいなら、どうしたってこんな傷付けるんだか…………あっ、今のうちに決めときます? どれに入るか
 暫しの間の後、テンノカワが自らの膝をバシンと叩いた。
あーそうだ! 開口器外さなきゃ云えないですね!? いやしかし殺されるのも時間の問題って感じでしょう、決めといた方が良いと思いますけどね。魂だけでも移しておけば、ハカマタに復讐する機会が来ると思うし? 万が一確認取れず逝かれた場合もご安心下さい、黒猫以外って事は承知してますから
 ぺらぺらと喋り続けたテンノカワ、口が止まればきょろきょろと辺りを見回しすいませんね、此処寒いでしょ、何か掛けて差し上げたいところなんだけど、資材置場でロクなもん無くてねぇ……いや申し訳ない!≠ニ早口に述べ、視界の端にそそくさと逃げて行った。
 連なる様に画角も移ろい、テンノカワが蔵の出入口を閉める寸前に隙間を突破した。後の道程は知っての通り、ぼくの指先に巻き付いて了。


「あのぉ……お客様、起きてます?」
 女給の声はしっかり聴こえている。ぼくがテーブルに置く指先を眺めるまま、うっかり睡り入る様に見えたのだろう。
「ええ、少し考え事を」
「あらっ、お邪魔してしまって御免なさい。でも珈琲が冷めてしまうし、飲んでから考えても良いのに」
「それもそうですね、親切にありがとう」
 にこやかとされる顔を作れば、女給の頬がぱっと華やいだ。人の萌える様は、植物よりも早く判る。
 さて、本日三杯目の珈琲(見積もりの際も出された)を飲み干したぼくは、会計をライドウの真似して支払うと、すっかり夜中の街路に出た。
 椿の生垣が囲む屋敷に辿り着くと、先程通ったあの隙間を無視して、もう少しだけ歩く。蔵の屋根が見える位置まで来たので、とりあえず周囲を確認した。人影はほぼ無し。遠くに二名ほど居るが、ヒトの目では認識出来ない距離と明度なので、気にする事も無い。
 ジャケットを脱ぎ、鞄を持つ腕に畳み掛けた。シャツとベストを押し上げ、一対だけ羽根を出す。軽く飛翔するだけだ、これで十分。
 白い地面を、革靴の先で蹴った。視界高度はみるみる上がり、雲間の月光が眼を眩ませたものの、難無く屋根に着地した。雪が積もり始め、まるで始めから白い瓦の様だ。しかし滑り落とせる質量に達していないのか、圧迫すればざりざりきゅうきゅうと薄くなった。
 ぼくは羽根をしまい、シャツの裾もしまい、ジャケットに腕を通す。屋根の端から身を乗り出し、下方の窓を確認する。重量感の有る扉は外に開かれたままで、格子の内側には擦り硝子が見えた。それらはさほど頑丈には見えず、金属製らしき格子も劣化が激しく、ところどころ腐食していた。
 届く距離という事も相俟って、ぼくは試しに鞄を思い切り叩き付けた。思うより勢い付いたか、手を離れ吸い込まれてゆく鞄。結構な破壊音になったが、まあ気にしない。ふっと飛び降り、窓扉の端にぶら下がり、よいしょと内部に侵入した。突如転がり込んだぼくを、当然囚われの彼は凝視して来た。
「見つけた」
 床板に転がったまま、そう唱えた。本当はもう少し前に見つけていたのに、まるでたった今という風に。
 ライドウは何か云いたかったらしいが、あの器具が発声を許さないのか、呻きに終わる。ぼくは硝子片と粉雪を掃い、彼に歩み寄った。手袋を外し、金属に触れる……どこをどう弄れば外れるのか、よく分からない。と、ライドウが一際高く呻いた、どうやらネジを逆に回し、更に口をこじ開けていた様で、横目にジロリと睨まれた。
「ごめんねライドウ」
 正しい向きに回せば、弛んだ金属はほろりと脱げた。ライドウは二三呼吸を繰り返すと、小さな声で呟いた。
「ルイ……何故、君が此処に来た」
「ライドウが待ち合わせに来なかったから」
「誰に訊いた」
「探偵事務所の所長さん」
「君は発破か囮に使われたんだぞ!」
 やや語気を荒げた途端、咽たライドウ。声量を抑えているだけと思ったが、枯れてあまり出ない様子だ。散々喉を突かれていたのだから、当然といえば当然。
「でも遅くなれば、君は殺されていたかもしれない、そうだろう?」
「君には関係の無い事だ」
「有るさ、遊ぶ約束をしていた」
 何かがこびりついた前髪を、指で梳いてやる。横に流して耳にかければ、睫毛の下で眼が泳いでいた。ライドウがぼくを直視しない、それは返答に迷いが生じている時だ。
「その黒い指輪、いつから填めていた?」
 おや、こんな状況にあっても目敏い。ついさっき増えた装飾品に、もう気付いている。流石はカラスの審美眼。
「額を引っ掻いてしまったかな」
「いや……手袋の下は存外派手な奴だと思ってね。ところでこの縄、どうにかしてくれない?」
 腕に力を入れ、頭上で括られた縄を啼かせるライドウ。麻縄という類だ、刃物でどうにでもなる。本当は何も考えず、ぶちりと千切ってやれそうだが……あまりに手品まがいの事を続けていると、ぼくのミステリアスが褪せそうだからね。
「少し待ってて」
 鞄を薄く開き、手袋の指を差し入れる。すぐ近くから、適度な品を寄せる=c………これはこれは、本当に近い。一階の壁に並ぶ刃物、中で一番小さなサイズだ。感触を得た瞬間に、ぐっと握り込む。ずるりと空間から抜き取ったソレを、鞄から出した。
「フフ、泥棒道具が一式詰まってるのかい、その鞄」
「秘密」
 ライドウに哂われつつ、小型ナイフを彼の頭上に運んだ……が、ここで遊び心が疼いてしまった。
「事情は知らないが、その制服も似合っているね」
 ぼくの発言を聞いたであろう瞬間、ライドウが強張ったのが判る。
「普段の装備は取られた。この蔵に有るとは思えない、屋敷の方に仕舞われている筈だ」
「ねえライドウ、これ、誰に着せられたの?」
「云ったろう、君には関係──」
 縄も切らず唇を吸い、衰弱している呼吸を奪った。ぎゅうぎゅうと縄が啼き、床上でもがく脚音が響く。お返しというのも烏滸がましいが、しっかりMAGは注いであげた。それで気力を回復したのか、それとも興奮したのか、彼の眦がやや血色を取り戻している。
「ルイ……状況、分かっているのか」
「縄を解いたら君、すぐ武器調達なり悪魔勧誘なりして、此処から離れるだろう」
「僕を助けに来たのなら、さっさと縄を解き給え」
「はいはい」
 高慢な物云いに普段の彼を感じながら、ぼくはようやくナイフを縄に中てた。まずは柱に括ってある縄、さりさりと削ぐ様な角度で動かせば、ぶつっと最後に音を上げ切れた。腕を前方に持ってきたライドウは、肩をゆっくり馴染ませる様に上下させる。
 しかし手首を一括りにしている縄は、まだ切れていない。ぼくは手枷部分をぐいと掴み、ライドウを半ば無理矢理立たせた。唐突な仕打ちによろめいたライドウだが、柱を背に踏みとどまった。
「お次は何だい」
「随分汚れているね」
「知ってるさ、この程度ならば慣れっこだ」
「慣れるものなの?」
「…………」
「痣になってる」
 首も絞められたのだろう、指の影が残っている。
「ほら、此処も」
 スカートを捲り上げると、ライドウの片脚が半歩前に出た。反射的に蹴り上げようとして、抑え込んだな。それに気を好くしたぼくは、堂々と触り始めた。痣のひとつひとつを、革手袋の指で圧迫する。
「こんなに殴られて、どういう関係?」
「フ……フフッ、君がやたらと気にするのは、少し面白い……が、残念ながら今宵の僕は余裕が無くてね」
「下、穿いて無いの」
「云っておくが、僕の趣味じゃないからね…………おい、もういいだろう」
 身を捩るライドウ、増して急く様子に、改めて脚を見下ろす。先程は無かった白い線が、すっと流れ伝う様を見た。
「誰の?」
「誰だって良いだろう」
「動くたびにこれでは参ってしまうよ、綺麗にしてあげる」
 彼の双肩を掴み、ぐるりと反転させる。咄嗟に目前の柱に手をついたライドウ、ぼくはその足下に跪き……白濁の進行を舐めた。
「ルイ」
「綺麗にしてあげるって、さっき云った」
「必要無い……やめ……給え」
 丹念に丹念に、どこかの誰かの体液を舐め取る。プリーツをぐしゃぐしゃに捲り上げ、顕わになった生白い脚を這い上がってゆく。臀部をぐいとこじ開けてやれば、もう一筋だらりと零れた。
「……っぁ……は……あっ、ぁ」
 蜜吸う虫が如く、ヒダを伸ばして、舌を挿し込む。プリーツのヒダが陰影を変えた、フロントを押し上げている……ライドウのアレが。その反応を見たぼくは謎の満足感を得て、ようやく舐めるのを止めた。下穿きも無しに異性装を乱し、柱に縋るその姿。大体の人間は、きっと劣情を覚えるのだろう。しばらく人間社会に居ると、俗世の求むる淫靡なものが分かってくる。
「ライドウも出したい?」
 背面から抱き締めてあげた、布越しの臀部に、ぼくの下肢をなすりつける様にして。しかし腕の中の彼は震えつつ、首を横に振った。
「こんなものは、すぐ治まる……此れ以上、虚脱するのは、御免だ」
「ねえ、君を捕らえた人間に見せ付けてあげようよ」
「莫迦を云え、二名うち片方は危険人物だ。ヤタガラスに追放……」
 ライドウの言葉が止まった。身体の向きは変えず、やや後方に投じられた彼の視線。ぼくも辿って首を捻れば、階段を上る音がしていた。
「なんだ十四代目、イイ声出せるみたいだな」
 蛇越しに見た男……ハカマタに間違いない。顔と声が一致する、そして黒いスーツ姿。強面というよりは、控え目と評されそうな面立ちで、櫛を通して固められた髪からは几帳面な匂いがする。すべて錯覚であったとしても、印象とはそういうものだろう。
「俺の時はひとつも喘がなかった癖に……ところで誰だそいつ、もう咥え込んだのか?」
 無言のままのライドウは、いつの間にか手首の位置を下げている。相手から背で隠すまま、ぼくは片手のナイフで縄の手枷をさりさりと削り……ぶつりと切断した。その瞬間、ナイフの刃を指ではっしと掴んだライドウが、徐に身を翻し投擲する。
「おぉっと!」
 ハカマタの前で、イチモクレンがナイフを受けていた。仲魔が自主的に庇ったのかと思いきや、召し寄せで盾にしたらしい。
『ボクは死にましぇえええええん!!!!』
 大粒の涙を流し、ゆらゆらボトリと伏せた悪魔、目玉中央が弱点なのか、暫く起き上がれそうにない。触手をワナワナ震わせては、ビタンと床に落としている。それを他人事の様に眺めたハカマタが、失笑気味に唱えた。
「危険人物はお前だ、十四代目」
「ククッ……あんたのお陰ですっかり萎えたよ、有難う」
 強気な口調こそしてはいるが、ライドウに戦う余力が有るのだろうか。はたして与えたMAGで足りる相手なのか、ぼくにはいまいち判断出来ない。
「ルイ、君は下がってい給え」
「ライドウこそ、今回は本当に丸腰だよ」
「君は戦闘訓練を受けていないだろう。それに此れはヤタガラスの揉め事だ、部外者を巻き込んでは僕の落ち度になるのでね」
「帝都守護者を陥れる輩こそ、機関には不要、違う?」
「揉め事を呼び込む守護者なぞ要らぬそうだ」
 ああ、これは駄目だな、聞く耳持たない。弱ってはいるものの、ライドウの殺気は鋭さを増すばかり。どちらかの頭を読めば関係も知れようが、今は特に興味ないかな。知らぬまま応酬を見ていた方が、新鮮な時も有る。
「痣で済ませてやりたかったが、まあ……欠損してようが人形には出来るな? 生きてようが死んでようが、お前は元々無反応な奴だ」
「此の制服を汚そうとも、あんたを始末すれば帳消しされると思うがね」
「ははあ……やっぱりお前だろう、あの女を」
「最初に殺したのは其方だろうが!」
 武器も無しに間合いを詰めるライドウ、一方ハカマタは懐から銃を取り出した。そのまま撃たれるのではと思ったが、ライドウは即座に柱の陰に身を寄せる。ぼくも脚を引っ張っては不味いので、同じく近場の柱を防護壁にした。別に何発撃たれようと死にはしないのだが、ぼくが撃たれればライドウを動揺させかねないからね。
 しかし、柱も多くないこの空間。あそこから如何に接近し、攻撃するつもりなのか。ある程度撃たせて、リロードの隙を狙うにしても分が悪い。と、ぼくが思考する間に、ライドウは別所へと転がり込んでいた。壁に伝い置かれる資材棚、それと向かい合わせにもうひとつ並べられた薬品棚の隙間だ。隠れる場合は柱より向かないだろう、何故あの位置に逃げ込んだ。
 するとライドウはおもむろに、棚から二本の瓶を攫う。一本を右端へと放れば、ハカマタは棚から躍り出たそれを反射的に射撃した。すかさずライドウは左側から身を乗り出し、残りの一本を投げつける。目前に迫るソレを、やはり反射で撃ってしまうハカマタ。割れた瓶の中身を浴び、絶叫し始めた。もがきながら銃のシリンダーに手をかけたところに、ライドウの蹴りが決まる。弾かれた銃はぽぉんと遠くに飛んでゆき、床上をしばらく滑走し止まった。
「ホルマリン、30%台だろう。頭に浴びたところで死ぬ事は無い」
 イチモクレンに刺さっていたナイフを抜き取りつつ、淡々と述べるライドウ。激痛と共に視界も奪われたであろうハカマタは、床をのたうち回っている。
「動くな」
 ハカマタの首にナイフをあてがい、そのまま跨ったライドウ。何処か蠱惑的な表情をして、スーツに手を滑り込ませている。
「冷静になってから、召喚されても困るのでね……特に、屍鬼へと縛る禁術を持つ悪魔、そいつの居る管は確実に回収する」
 数本の管を引き抜いた後、制服の胸ポケットに挿し入れたライドウ。続けてスラックスのポケットを探ると、ひらりと一枚引き抜いた。
「…………ルイ、君《貿易商》だったの?」
 ああ、何かと思えば、あれはぼくがテンノカワに渡した名刺だ。
「今回はそういう事になっている」
「今回は、ねえ……」
「ライドウ」
 ぼくが呼ぶとほぼ同時、ナイフを一閃するライドウ。迫る触手を一本往なし、また一本、更にもう二本……触手の主は倒れていたイチモクレンだ、焦点が未だ合わないのか、時折なにも無い所を目掛けて、触手を叩き付けている。
「余所見していいのか、紺野!」
 ハカマタが下から押し返している、其方へ一瞬気を向けたライドウの首に触手が巻き付いた。絞めたままグイと引き上げるイチモクレン、ライドウの爪先が床から離れる。
「ひっ、ぐ……っあ゛ぁあぁあッ!!」
 すぐさま触手を断つであろうという予想に反し、吊られたライドウが悲鳴した。早朝の花の様に手指がぱっと開かれ、カラリとナイフが落ちる。
「俺のイチモクレンは風より電気が好きでな、弱点も削ってある一級品だ」
『でんきタイプどぅぇすっっ!』
 一歩一歩、足元を確かめる様に歩み寄るハカマタ、彼が視界不良にある事は確実だが……これはライドウを助けに入った方が良いのだろうか?
「俺の管、返して貰うぞ」
 ハカマタはライドウの胴に触れ、その指先を這い上がらせてゆく。と、胸ポケットの管に触れた途端、弾かれた様に一歩後退した。ああそうか、帯電している訳か。
「クソッ」
 察しの悪い己のせいだというのに、ハカマタは舌打ちしてライドウを幾度か足蹴にした。大きく揺さぶられたのはイチモクレンも同じで、触手をぶるぶる強張らせ、眼球をぎょろぎょろさせて、耐え忍ぶ。
「はあ……はぁっ、ふっ、へへっ……おいイチモクレン、首はやめろ、手首で吊るせ」
『手首も首だがあッ!?』
「クビにされたくなきゃ黙ってさっさとやれ、そのままじゃコイツが窒息死する」
 傷だらけの触手を器用にくねらせ、絡まぬ様にライドウを吊り直す悪魔。ぐったりとしたライドウは抵抗の素振りすら見せない。
 ハカマタは今度こそ管を抜き取ると、懐に収めた。続いてしゃがむと手探りで落ちたナイフを拾い上げ、ライドウのスカート裾を片手でわしりと掴んだ。
「あの外人の目の前で犯してやろうか、ええどうだ……」
 ビーッと裂かれたプリーツスカートに、大きなスリットが出来た。隙間の暗がりに、痣で赤黒いライドウの脚がゆらゆら揺れる。
「外人ってぼく?」
「お前しか居らんだろ、呑気な野郎め」
 唐突に挙がったので確認すれば、当然だという調子で返された。
「まあいい、この餓鬼は昔から嬲られ慣れている、お知り合いに見られた所で恥も何も無いだろうな…………ところで外人、この葛葉ライドウを助けにでも来たのか?」
「そういう事になるかと」
「気が変わった、どちらかで良い。お前が代わりに身体を寄越すなら、十四代目は生かしておこう」
 これは面白い事になった。此の身体をどうこう出来るものならしてみろ、と笑い出しそうな心地を堪えたせいか、頬が引き攣る。
 さてぼくが気になるのはライドウだ、彼の意見が知りたい。ハカマタが約束を守る男≠ニは、ひとつも思えないが、果たして。
「…………彼は……死体売買をしている」
 擦れた声のライドウ、何を云い出すのかと思えば……ぼくに負けじと劣らぬでまかせ≠セ。
「何だと、詳しく教えろ」
「異国の……特に英国の献体を多く扱う……《Fortune of War》が如き酒場に顔も利く、殺すには惜しい人材だろう……ふ、フフ……」
「そうなのか、おい外人」
 ライドウがたった今、ぼくをそういう設定≠ノしたのだから、従う他無い。
「名刺記載はしておりませんが、彼の云う通りです」
「それなら話は早い、お前はそのままで居ろ、俺が雇う…………余所の国の死体を寄越せ」
「ライドウは解放してくれないのですか」
「俺はな、こいつに暴かれたんだよ、里の墓発きしてる事をな……はっ、ハハッ、あばき合いの仲だ。お陰で俺はヤタガラスから追い出され、ダークサマナーの扱い。まあそれ以外にもな、余計な詮索をし過ぎた……俺のお気に入りを攫ったのもきっとこいつだ、ああ胸糞悪ぃ餓鬼」
「つまり解放するつもりは無いと」
「気に喰わん事ばかりしやがる、しかも厄介だ、物云わぬ人形になった方が良い。そうそう、ちゃあんと歯は抜いておかないとだ」
 何が可笑しいのか分からないが、口角を上げるハカマタは肩も揺らしていた。
 吊るされたままのライドウは、ぼくの素性を語るだけ語り以降、沈黙を続けている。意図してか、もはや喋る気力も無いのか。同じ状況でもコンディションが良ければ違ったろうが、ぼくが辿り着いた時点でかなり衰弱していた、これは仕方の無い事だ。
「すいません、実は他にも取り扱っている物がありまして」
 ぼくは鞄を持ったまま、堂々と彼等に接近する。イチモクレンは胴をぐるぅりと捻り、ぼくを見た。大きな目玉に映り込む、ぼくの……赤と翠の眼。ゆったりと微笑みかければ、触手ごと硬直した。これで暫くは竦んでいるだろう、少なくともぼくに関わりたくはあるまい。
「待った、それ以上寄るな……何のつもりだ?」
 足音の距離に危機感を覚えたか、ハカマタはぼくの方向へとナイフを突き出し、やぶ睨みをしてくる。この距離でもよく見えないのか、それは好都合。
「お薦めの品物をちょうど持ち歩いていたので、少しでも機嫌を好くして頂ければ」
「御機嫌取りか、涙ぐましい事よ。でもな、コイツを生かしておくつもりは無い」
 鞄からずるりと抜いた銃……ショットガンの様だ、一目では威力も射程も分からない。とりあえずサイトを最小値に絞り、ボルトを起こす、カートリッジは装填済みだ(そうであろう重量のモノを選んだ)確認後にボルトを戻し、前方に構える。
「何の音だ!? 何構えてるんだ! おいイチモクレン、この男を封じ──」
 狭い空間が音をより反響させる、少し耳に痛い気がした。ハカマタ自体も派手な音を立て、床に吹っ飛んだ。ぼくはいくらか歩み寄り、標的のボディを見下ろす。黒いスーツが点々と色濃く染まり、布地の痣の様だ。
「こんな大穴開けては剥製にも出来ないだろう、ね」
 傍らに同意を求めたが、ライドウはぼくを凝視したまま無言だ。ハカマタの返り血がぱたぱたと彼の爪先から滴り、雨音を錯覚させる。
「ところで此の銃、なんだろう」
「村田銃の類だ。バレルバンド二ヵ所、恐らく十八年式」
「ああ思い出した、コイルスプリングじゃないから信頼度が低いとか云ってたね、ライドウ」
 銃は再び鞄に放り、ぼくはライドウの手首を両手で掴む。軽く触れば触手は慌てた様にほどけ、イチモクレンはゆらゆらと離れてゆく。
「何者かに吊られていた様子だけど、大丈夫? 痛く無い?」
「この期に及んで視えぬフリか」
 抱き留めてあげたのに、腕の中でもたつくばかり。ぼくを押し退けようとするライドウ、とにかく触れるのを躊躇う。
「血は簡単に落ちぬ、もう放せ」
「服なんてクリーニング屋に出せば良いし、それでも落ちなければ買い直せば良い」
「此処まで血痕だらけの服を出してみろ……疑われる」
「何に? 誰に?」
「君は殺人をしたんだぞルイ!」
「常日頃そういう物事に揉まれる君が、何故それほど取り乱すの?」
 青白い頬の血を、手袋の指で拭ってあげた。薄く残る朱色は汚れなのか、高揚の血色なのか、判別出来ない。
「僕が殺すのと、君が殺すのでは訳が違う」
「自分の手で殺したかった?」
「其処の男がくたばった事態は、胸の空く思いだ。しかし、君の手でやる必要はひとつも無いだろう」
「今、この場にライドウの味方はぼくしか居なかった。其処の男を野放しにしても、君にとっての危険だと思った。だから始末した、これは駄目な事なのかね?」
 またぼくを直視しない、いや、出来ないライドウ。何が戸惑わせているの、何を許せないの、認めたくないの。
「……僕がやった事にしておくが良い」
「ぼくはどちらでも構わないけど」
「君は機関から要注意人物と認識されている、必要以上に名前を出したくない」
 徐にぼくから離れたライドウ。血だまりに横たわるハカマタの手からナイフを回収し、スーツを探りカートリッジと管を抜き取る。遠くで縮こまるイチモクレンを管へと回収し、床上に放られたままのハカマタの銃も回収し……そこまでを淡々とこなすと、棒立ちになった。
「少し休んでは?」
 ぼくに返事する事なく、カートリッジを装填するライドウ。その場から発砲をした、ハカマタの死体に三発。まだ屋敷に用事が残っているから、全弾撃たなかったのかな。
「君の装備が見付かるまで貸してあげる、寒いだろう?」
 ジャケットを肩に掛けてやった。アウターまで揃えた返り血のセットアップで、より一層ライドウの単独犯行に見えた。


 ライドウは装備を探すより先に、テンノカワを問い詰めた。彼はすぐさま、装備一式が仕舞われる倉庫へと案内をしてくれて、随分あっさりと取り戻せた。まあ、この状態のライドウを見れば、一般人は委縮するだろう。
 さて、道中の会話からぼくが把握できた事をまとめる。
 テンノカワはハカマタから薬品などを購入していたそうだ。資金不足は独自に行う研究のせいであり、膨大な量の薬品も一個人で仕入れる事は本来不可能だった。蛇の道に精通するハカマタと何かの折に意気投合し利害関係にあったが、ハカマタが十四代目の死体≠欲し始めた事が今回の発端である。テンノカワからすれば、ハカマタに協力しない事には薬品の流通も途切れる上、機関に露呈するよう細工されるかもしれない。ライドウ個人への怨恨が無かったとしても、引き返せなかったのだろう。
 しかし何故、普段は注意深いライドウが囚われてしまったのか、ぼくは其処が一番気になる。
「この後、ヤタガラスの調査員が来る事になろう。離れ二階の死体処理は、彼等に任せれば宜しい」
「……十四代目の見通しでは、どうなると思います? 儂の処分」
「さあ? 確か東北の剥製師は弟子を抱えているので、その辺りから一名引っ張って来るのでは」
「やっぱり、お払い箱!?」
「ダークサマナーと通じていた件を問わぬ代わりに、悪魔剥製の秘術を伝承せよ……くらいは云うでしょうね」
「えーぇ……資金援助してくれなかったのに?」
「そんなものですよ、此の組織は」
 ぼくが近くに居る安心感なのか、テンノカワを見縊っているのか、その両方かもしれないが。ライドウは客間で堂々と全裸になり、普段の装備を身に着けていった。全身真黒の彼は馴染み深く目に優しいが、衰弱した身にそれらは重くないのだろうか?
「あっ、そうだゴウト童子! あの方はね、仮死状態にして納戸に寝かせてあるんだけど、其方も案内しなきゃ」
「それよりもテンノカワさん、ひとつお忘れでないですか」
「それよりもなの!?」
「タム・リンの剥製」
 ライドウの口からは、今回初めて出た名称だった、しかも悪魔の名。テンノカワは丸眼鏡越しに視線を泳がせた。
「あーと、それは……」
「やはり僕を誘き寄せるが為の虚偽ですか」
「いやそのね」
「結構、話半分ではあるが気になり参った、僕とて所詮その程度ですから」
「違うの、ホントの本当に作ったの! 襲名試験の時でしょ、儂そん時ソッチに出張してて、手掛けたの!」
「では何故濁す」
「それは…………実物が、もう無いんで」
「何故!」
 どこか鬼気迫るライドウに、後ずさるテンノカワ。恐らく無意識だろうが刀の柄に指が伸びているよ、ライドウ。
「欠損が激しくてさ、ガワが足りなくて、MAGが固着しなかったんだよ、その……腹部損傷が特に酷くて、だから消えちゃったの」
 ライドウの眼が、テンノカワでは無く虚空を睨み始める。
「十四代目……ああいや、あの頃は紺野君か。君は得物が銃でも刀でも、いつも無傷と見紛う死体をくれるね、それは知ってるよ、素晴らしい技量だって知ってる。でもね、タム・リン師範の死体だけは駄目だったんだよね…………その、もしかして躊躇った?」
 一寸の間の後、踵を返すライドウ。テンノカワは「えっ」と云ったきり、おろおろとぼくに視線を投げてくる。
「此処でお待ちなさい」
 別に逃げてくれても構わないが。それでも一番適しているであろう言葉を置き去り、ぼくはライドウを追った。
 廊下の途中、雨戸がぽっかり開いているのですぐ分かった。其処から身を乗り出せば、白い庭に黒い姿が有る。
「ライドウ」
 白い砂利の上に降りれば、靴下がじんわり湿る。彼も靴は客間に残してあるから、きっと靴下か足袋だろうに。
「どうしたの、ライドウ」
 雪と砂利を鳴らしつつ、背後から近付いた。跪くライドウの足下は、生け垣の椿より赤く染まっている。
「駄目だよそんな事しては、ぼくが何の為に来たか知っているだろう」
 隣に寄り添い、小型ナイフを握る指を一本一本剥がしてあげる。血で滑って、時間がかかった。着衣の裂傷箇所からして、腹部を裂いている。深く一突きして薙げば、致命傷だろうに……これもまたためらい傷≠ノ該当するのか。
「約束は延期、後日遊ぼうね」
 ぼくは赤く塗れそぼるナイフを遠くに放り投げ、人形の様なライドウの頬にキスをした。


 あの日、屋敷を出た直後、ヤタガラスの面々がちょうど姿を現した。どうやら探偵事務所の鳴海が伝達していたらしい。ライドウの云った通り、ぼくは囮か発破の様に使われたのだ。これでひとつ恩を売れたのならば、面白い。
 テンノカワの身柄は里に引き渡され、ハカマタの死体も処理されたそうで、屋敷はすっかり空っぽ。しかし剥製達は未だ蔵の中、ひっそりと佇んでいる。あの黒い剥製達は……葛葉一門の器≠ネのだと、ひしめきあう装束達の会話を遠くから拾い、察した。
 テンノカワは、自分の作った剥製に入って欲しかったのかなと、ぼくは勝手な推測をする。第二の躰に選ばれたる其れは、傑作の証明となるだろう。それとも人間は処理が面倒≠ニぼやきつつも、ライドウの剥製を作ってみたかったのではないか。彼とハカマタとは死体を欲する同胞≠ナはあるのだが、決定的に違う所がある。造形技術に重きを置くか、異質な支配に重きを置くか……その差だ。しかし剥製作製も屍鬼作製も、等しく死を許さぬ″s為に思える。器だけを生かされ続けるのだ。我を無視されまだ存在するもの≠ニして扱われるのだ。
 きっとライドウは……拒絶するだろう、どちらの人形と成る事も。そして、魂を移し畜生の躰を得る事も。
 
 
「すっかり銀世界だなぁ、おー寒い寒い」
 人の呟きが、白い吐息と流れゆく。道行く紳士のコートは分厚くなり、マフラーも追加された。
 ぼくは銀楼閣の入口まで来たものの、ライドウ以外に用事は無いのでそのまま通過する。人の少ない通路に入り、通行人が途切れた辺りで軽く飛んだ。ジャケットを肩に羽織りつつ、屋上より銀楼閣に侵入し……階段を下りた先、部屋の扉をノックした。しかし、なかなか反応は無い。
「ライドウ」
 一声掛ければあっという間に開いた、解錠の呪文の如し。
「……今、上から来なかったかい」
「気のせいではないの」
「土足」
「あ、ごめんね」
 そうだった、一階から入れば玄関口に靴カバー、もしくはスリッパの用意が有るのだが。
「どうやって屋上から?」
「廊下は冷える、君の部屋に入れて」
「気温にいちいち言及する奴だったかね、君」
 訝し気な眼をしながらも、招き入れてくれたライドウ。内開きの扉を押しつつ、革靴は廊下に残した。
「ところで何用」
「ライドウなかなか顔見せないから、此方から遊びに来た」
「まだ二日しか経っておらぬよ」
「寝てた?」
「……ああ」
 ライドウが本調子でない事など、すぐ判る。あの日よりは幾らかマシだが、血色も悪ければ覇気も無い。木綿浴衣にニットショールだけの軽装が、少し幼くも見える。髪も横に流しておらず、前髪がはらはらと頬を擦っていた。
「良い部屋だけど、ストーブのひとつも無くて平気なの」
「普段はそこまで長居しない」
「自室なのに?」
「フフ……一時の宿だよ。所詮居候さ、肩書も書生で通っている」
「傷は治った?」
「それなりに」
「見せてよ」
 ベッドに腰掛けるライドウは要求に応じず、黙って此方を見上げるばかり。ぼくは床に鞄をどさりと落とし、革手袋は外してハンドルに引っ掛けた。跪き、浴衣の裾を割る。脚の痣はだいぶ薄まっており、彼が常人よりは幾らか頑丈な事を思い出す。
「誰が許した」
 顎下に爪先を入れられ、喉元をさらすぼく。するりと離れた爪先は眉間辺りで彷徨い、やがてハンチング帽を脱がされた。ライドウの足癖の悪さは知っていたつもりだが、普段より緩慢な動作のせいで一瞬判らなかった。膝を曲げ、足首のスナップを利かせるライドウ。枕元に放られた帽子が、雪よりは大きな音を立てる。
「駄目だな、足がつりそうだ」
 吐き捨てる彼を無視して、柔らかい帯を解いた。浴衣を開いて腹部を確認すれば、もうすっかり痕跡は霞み、掻き傷ほどになっていた。結構な怪我と判断した機関が、すぐに縫合と回復術を施した結果だろう。
「これなら残らない、良かったね」
「君、僕の背中を知らぬとは云わせないよ」
「痕が増え続けるよりマシというもの」
「其のジャケットこそ、よく綺麗になったね」
「全く同じ規格の、別物」
「……ふ、僕も制服の替え、あと三着ほど有るのだよね……普通の学生生活であれば、それほど要らぬだろうよ」
 ジャケットを脱ぎ、シャツの腕でライドウを抱いた。先日よりは体温が高い、鼓動が鮮明に伝わってくる。浴衣の中に掌を滑り込ませ、背のまだらを撫でれば、微かな溜息がぼくの髪を撫で返す。
「嫌じゃないのかと」
「何が」
「凌辱を受けたばかりだろう君。このまま続けて宜しいのかと、ぼくは御伺いを立てている」
「別に、あの程度」
「慣れっこ?」
 先手を取れば、間近から一瞬睨まれた。
「あんなもの……凌辱のうちに入らぬ……下らぬ男の、独り善がりなだけだ……」
 痣を舌で辿り、密かに呻く喉を眺め、指輪の硬質さで胸を摺りあげた。縛らずとも大人しい君、抵抗も見せない辺り、まだまだ弱っているのだなと感じる。普段の君であれば、ぼくの着衣こそを剥ぎ取り跨り、自ら貪るというのに。


 擦り硝子なのか、レースカーテンなのか、結露による結晶なのか、判らない。冷気を遮断する気の無い窓は、雪で曇らせた日差しを注ぐ。
「そういえば、お見舞い品が有るのだった」
「…………見舞い?」
「しっかり着直したら良い、風邪をひくよ」
「ククッ、脱がせておいて、よくもまあ……」
 掻き乱したシーツの上からぼんやりと、窓を眺めるライドウ。ゆるゆると起き上がり、下穿きから浴衣、帯にショールと元の形に戻ってゆく。一方ぼくは、くつろげた箇所は既に閉じており、鞄の方を開いていた。
「……あの銃、どう見てもその鞄に入らぬサイズだったが、どういう事」
「手品」
 流しながら、取り出した品物をベッドシーツに並べる。半分以上出した頃に、ライドウが呆れて失笑した。
「此れが見舞い品かい、大変趣味が宜しい」
「何でも吸うだろう、ライドウ」
 ずらずらと連なる煙草はすべて違う銘柄で、こうして見ると賑やかだ。
「どれか吸う? 点けてあげる」
 端から端まで視線をくばり、往復する事も無くライドウはひとつ掴み上げた。あれはアイリスという、紙箱ではなくブリキ缶の煙草だ。ライドウが持ち歩く所は、見た事が無い。
「良いよ、貸して」
 彼の手から缶を攫い、中から取り出し、唇で挟み咥え、ふうっと焔の呼吸をすれば……ジリジリと先端が光る。途端、口先からするりと抜かれてゆくアイリス一輪。
「どうも」
 礼を云い終えると同時に、煙を吸い込んだライドウ。ぼくは彼の隣に腰掛け、ベッドに一名分負荷を追加した。煙も雪も、殆ど音は無い。白く不安定で、やがて消えてしまう。この世界は、そんなものばかりだ。MAGでうつろう、悪魔の様な。
「……ルイ」
「なにか」
「今から愚痴を吐いても良いかね」
「君の自由に決まっているじゃない、どうぞ」
「…………今回は、最悪だった。童子に散々叱咤されたが、反論の余地も無い。機関の人間相手だろうが警戒必須と、解かりながらに誘き出された己が……」
 そこで止め、ひとつ吸ったライドウ。直後吐き出した煙が、先刻より重く見える。
「丸二日間嬲られ、他者の遺留品も駄目にし、サマナーのくせに仲魔も出せず、挙句、部外者である君の手を汚してしまった」
「だからぼくは気にしてないと」
「僕が気になるという事が! お前……分からないのか! 僕の落ち度に決まっているだろう!」
「命拾いしたのに、嬉しくなさそうだね」
 返事は無く、黙々と煙草をふかしていた彼。
「焼けてしまうよ、指」
 告げればようやく立ち上がり、机上の灰皿にそれを放ったライドウ。机に手を着き、ぼくに背を向けたまま。
「指どころか、全身焼けてしまえば良い」
「焼死は過酷だろう」
「僕は死体だ!……火葬が相応しい」
 そうか、生の実感が無いのか、君は。ぼくから見れば明らかに、生きた人間そのものなのに。
「では丁度良い。ぼくは死体売買人だから、相性抜群という事になる」
 誰かの出任せを種に笑い飛ばしたぼくを、どこか恐る恐る振り向いたライドウ。様々な異形≠ニされる悪魔には平然と向かって往くのに、何故ぼくを恐ろしいもののように見つめるのか。
「だからといって君を売らないから、安心しなさい」
 後ろからライドウの肩を抱き、鋭角なもみあげ越しに覗き込んだ。彼の薄昏い眼に映り込んだ赤と翠の光≠ノ気付いて、ふっと首を振る。ああいけない、いつから出ていた? いつもは確か、シルバーグレイの眼にしてた筈……そう、これこれ、すぐ戻さないとね。
「ほら、次の予定を決めよう。君の日程はどうせすぐ埋まるのだから、先にぼくとの予定を差し込んでおかないと……」
 調子に乗り過ぎたか、ライドウがまたもやぼくを引き剥がす。しかし、それとなく帯から下を気にする彼の仕草に、ぼくは何か勘付いて足下を見た。浴衣の隙間から覗く脚に、一筋伝い落ちている。ああ、そうだ、先日のアレが気になって、どれだけ出せばそうなる≠フか、ついさっき試してみたのだ。
「誰の」
 同じ様に問い詰める、ライドウは無言で余所を向く。
「ねえ、誰の? そのままでは下穿きが気持ち悪いだろう」
 ライドウには恥が無いなどと、あの男は述べていたが……ぼくは知っているよ。君の抑え込んだ情欲だとか、押し殺す喘ぎだとか……そう、君自身の、夜の殺意や愛欲。自覚しているとは、あまり思えないけど。ぼくも、堕とされてから色々考える様になった程度だけど。
「……ッ、クク……君、自分のを舐め啜る気?」
 ようやく口を開いたライドウ、高慢に煽って来た、そうこなくては。
「おかしいかな? ではひとまず、滲出を止めてあげる」
 ベッドで再びガワを剥いで、穴を塞いだ。塞いだつもりがまた注いで、引き抜けば溢れ、固着されないMAGの様。
 半端な屍鬼も、物云わぬ剥製も、君には似合わない。
「ルイ……ッ、あ……はぁ、はぁッ……ぁ」
「そう、ぼくのだよ夜。注がれてるのも、刺さってるのも。色形味匂い、MAGも全て……ね、判るかい?」

 こんなにも穴だらけなのに生き続ける君は、やはり面白い。


-了-


* あとがき *
 長い、とても長くなってしまいました。この話の前提として『黒白の詩』を執筆したのですが、そうやって分割してもこれ。冒頭だけは『黒白の詩』より先に書き出してあったので、着手から掲載までそこそこかかっております。
 「悪魔の剥製」というものがあるとしたら、どの様な位置付けと作製手順なのだろうか、という妄想(疑問)から今作に展開しました。別でイメージの浮かんでいた待ち合わせに訪れないライドウを、ルイが迎えに行く≠ニいう出だしと組み合わせた為、今作の狂言回しはルイです。随分と人間社会に慣れている堕天使ですが、本作は結構トンデモな事ばかりしており、鞄が四次元ポケット化しつつあります。今回非常に不利で衰弱した状態のライドウに対しては、割と優しい態度です。(ラストが怪しい)
 しかし、またもや吊るしてしまった……フェチという訳では無いのですが、いたぶるシーンはどうも吊るしがち。電気ショックは初めて書いた気がしますけど、なかなか面白いですね。
 それにしても夜、希死念慮が有ると同時に僕は死体だ!≠ニ叫ぶ辺り、なんだかんだ云いつつも生死の狭間に居るのでしょう。希死念慮は実のところ生きている実感がさせるであろうし、死体の感覚は動かぬ心がさせる。ずっとそういう所に留まっているので、強い生と強い死に惹かれがち。ルイは今回も助けてくれたけど、やはり位置付けとしては《死》でしょう。ルイの興味関心享楽は、夜の寿命を縮めかねないし、更に沈めてくる(彼が人でなくなろうとも、別の存在にして遊ぶ事は可能なので)逆に、人修羅矢代は《生》の匂いが強く、夜を引き摺り上げる。うまく作用すれば良いが、求むる欲望が勝り過ぎれば『徒花』シリーズ結末の様になる。
(2019/12/4 親彦)

〜過去作読了の方に向けた小ネタ話〜
▽SS『黒白の詩』に出て来た屍鬼の主であるサマナーが、ハカマタ。今作でライドウが着せられてる制服(桜爛女学院)は、彼女の物。夜は彼女の頭を読んだ際殺される瞬間を追体験≠オているので、ハカマタに対し憎悪が強い。この様な現象こそが「精度の高い読心術」のネックである。他人事というフィルターが外され、理性のハードルが下がる。
▽「手袋の下は存外派手」と夜に指摘されたルイ。これは公式のルイ・サイファーもよく着けている≪五芒星の指輪≫に追加して、黒蛇の指輪も着けていたので、ライドウは「派手」に感じた。SS『汚点』三部作でも、先述した五芒星の指輪は登場させている。というより、その指輪が発端でルイと決別に向かうんでして……そんな事で?まあそんなものでしょう。
▽ルイから「ライドウこそ、今回は本当に丸腰だよ」と云われるライドウ。これはSS『caprice』で丸腰と自称しながら、ひとつだけ管を携帯していたライドウへの軽い嫌味。
▽「タム・リンの剥製」これに関してはSS『生死滲出』を読了済みであれば、彼等の関係性が分かる。今作でライドウが語った「愚痴」の中に、タム・リンの剥製に関する部分は無い、これは意図的にそうした。恐らく夜は、触れたくも無いのだと思われる。感覚的には二度殺した≠ノ等しいから。



▼虚実皮肉
芸術は事実と虚構との微妙な境界に成立するものであること。「皮膜」は皮膚と粘膜、転じて区別できないほどの微妙なちがいの意。江戸時代の近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の唱えた芸術論。
(引用:https://www.kanjipedia.jp/kotoba/0001438200)

本来は虚実皮膜(きょじつひまく)と書く。「皮膜」は「ヒニク」とも読む。タイトルは「皮膜」を音のまま「皮肉」に置き替えた。
器と魂の両方が揃ってようやく生者≠ニなるイメージだが、揃っていても死人の様な者は居るし、欠けている非生者≠ナあっても存在するもの≠ニして扱われる場合もある(偶像崇拝がこれにあたる)心臓の可動具合で白黒つけてはいるものの、それもわざわざ設けた基準のひとつでしかない。そういううつろいを念頭に置いて、今回執筆した。すべては作者の、ただの空想です。以下も参照。

絵空事といって、その様子を描くのにも、あるいは木に彫るのにも、本当の形を真似する中に、また大雑把なところもあるのが、結局人が愛する根源となるのだ。(芸の)趣向もこのように、本物を真似ている中に、また大雑把なところがあるのが、結局芸になって、人々の心の満足になる。(浄瑠璃の)台詞なども、この心構えで見るのがよいことが多い。
(難波土産より引用:http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/naniwamiyage.html)

▼十八年式村田銃(11mm口径)
正式名称「明治十八年 大日本帝國村田銃」 何気にウィンチェスター社が開発協力している、ボルトアクション式国産銃。銃身と銃床を固定するバレルバンドが二本、短縮された騎兵銃タイプは三本。生産技術の事情により、コイルスプリングではなく松葉バネが使用されており、後者では安定性に欠ける。

▼テンノカワ
劇中では「天野川」という字面にしたが、真名的には「貂革」をイメージした。貂(テン)というのはイタチの仲間で、狐や狸以上に変化を得意とするという伝承もある。キテンの毛皮は非常に価値が高く、猟師仲間と殺し合いに発展しかねない為狩猟は一人で行くべし≠ニ諺も残されている。

▼ハカマタ
漢字を出さなかったが「墓又」が正しい。まさしく墓発きをやっていた事から連想。もしかすると忌み名として機関に改めて付けられ、当人も気にせずそれで通しているのかもしれない。しかしこの苗字、実在の情報が殆ど無い。このようなキャラにしてしまい申し訳ない(全国の功刀や紺野にも同じ事を云わねば)