は銀座に新しく
しみじみとふる、さくさくと



外待雨で柘榴の水溜り




濁った雲が幾重にもたなびき、ビルヂングの隙間で微かに散る火花が見えた。
獣が呻る様な遠雷に、傍の人修羅が空を見上げる。
「おい早く用事済ませろよ、絶対ひと雨来るぞ」
「屋上に洗濯物でも干したままかい?」
「あのなあ…俺達、傘持ってないだろ」
「雷に打たれなければ、さほど問題でも無い」
溜息した彼は、もう何も云わずに遠くの雲を見つめている。
悪魔から雷撃を幾度か放たれた経験が有るだろうに、遠くの其れを気にし過ぎだ。
遠くばかり見ていれば、足元をすくわれるだろうに。
「成熟した積乱雲は派手に火花を散らすが、僕等の上にある雲は既に減衰期へと移行している」
「降らないって事か?」
「雷は降らぬが、雨は降るかもねえ」
「じゃあさっさと帰るぞ…まだ電車にも乗らなきゃいけないだろ」
「コウリュウで雲の上を通ればどうだい?一枚隔てた上は清々しい夏空だよ、功刀君」
「遠慮しておく」
夏空の青が広がるとはいえ、あまりに肌寒い事は知っていたか。
突っ撥ねた人修羅は石畳に視線を落とし、黒猫に一言二言発する。
銀楼閣に早く帰還すべきだと、賛同を求めているのだろう。
「少し待ち給え」
百貨店にふらりと立ち寄れば、湿気よりもジトリとした横目で僕を見る人修羅。
取り寄せた品を受け取るだけなので、ほんの一瞬とは思うが。
「暇なら童子と遊んで待って居たら如何だい」
「手ぶらで遊べって云うのか」
「銀ブラなら出来るだろう」
「待ってろって、たった今云ったじゃないか。俺が少し何処か行くと、やれ迷子だのボイコットだの文句垂れる癖に」
「すぐ其処にカフェ・パウリスターノが在る」
ゴウト童子が、湿気に縮れた髭を爪で伸ばしつつ僕を睨んだ。
人修羅にカフェで時間を潰させても、畜生一匹があぶれる。
当然解っている、その上での発言だ。
「だったら金くれよ、あんたの用事で浪費したく無い」
「童子に借り給え」
『おい、何故我が!しかも我は店内に立ち入らせて貰える訳なかろう!』
引っ掻き回す問答もそろそろ飽いたので、僕は彼等に背を向け百貨店に入る。
後方から「『ライドウ!』」と多重声音が聴こえたが、それは僕の本来の名では無い、振り向く義務は無いだろう。



西洋と東洋の嗜好が織り交ざった階の中、依頼してあった装飾品を受け取る。
彫金されたそれは、僕の掌で以前よりも鈍く輝く。
「如何でしょうか葛葉様」
「問題無いですよ、有難う御座います」
「いやはや、実はですね…抱えの職人の中で一番の偏屈者でしたから、こうすんなり請けてくれるとは私共も思わず…」
別珍でドレスアップされたカウンターの上、ルーペや台帳を脇に退けつつ営業が語り始めた。
恐らく此方が職人を指定した際にも、内心引き攣った笑みを浮かべていたに違い無い。
「僕が購入したのは此れであり、其の人の情報提供までは要求しておりませんよ」
「あっ、はい申し訳御座いません!」
軽く頭を下げた営業の薄い脳天が、照明でテラテラと光る。
愚痴を云いたくなる程度には苦労しているのか、大きな店舗ならば仕方の無い話。
「では失礼」
「どうぞ御贔屓に…!」
あっさりと金を落とす謎の書生と思われているだろうか、色々と想像してみれば愉しい。
階段付近に待機させたイヌガミと眼が合い、尻尾を振って飛び寄る首を撫でた。
『ライドウ、何カ指ニ付イテルゾ』
「如何だい?似合うだろう」
『ピッタリダ』
「鋳金から彫金まで通して作らせたのだから、馴染まぬ筈が無い」
右手の中指に光らせた金属は銀。肌に吸い付く裏面には、呪いが彫ってある。
仕上げに銀氷属から頂戴したアクアマリンを施して貰い、効力を上げた。
『デモ、ソレデ撫デラレルトゴリゴリスル』
「良い刺激だろう?それにお前にとっては嫌な波動は出ていない筈だが?」
『キャウゥン』
首から頭を擦る様に往復させて撫でると、胴体をうねうねと空に泳がせるイヌガミ。
気紛れな褒美は終いにして、階段を降りる事に専念する。
『大キナ施設ダナ、デモ悪魔ハ殆ド居ナイ』
「舞冶屋百貨店、土足入場可能なデパートメントストア」
事業拡大の為に、大量に囲った職人すら嗜められぬとは。
選り好みする玄人が消えゆく世の中になりそうだ。
『人間ハ多イガ、美味シイモノガ少ナイ』
「お前の舌が肥えたんじゃあないのかい?僕の関わるものばかり吸っているからだな」
『クゥーン、新品ノ匂イバカリ』
悪魔の好む“いわくつき”の道具が見られないのだ。
そのモノの歴史が浅い程、宿る魔的なエネルギイは薄くなる。
「大きな箱を埋める為には、品数が必要だろう?この先、真に良質な物が減少するだろうさ。悪魔諸君も、骨董屋巡りにて魔具を探す時代が来るかもね」
踊り場で井戸端会議をする御婦人方が、会話の息継ぎの度に僕を見た。
“独り言を吐くおかしい書生”の話題に移行したろうか。
『ライドウニ付イテ行ケバ、餓エル事ハ無イ』
「しかし僕も只で呉れてやる義理は無い、歩合制だ」
『指輪ゴリゴリシテモ、MAG無シデモ良イ。撫デ撫デハ欲シイ』
「おや、先刻のは前払いさ。ほら、しっかり警戒を張り巡らせ給え」
額の紋をぴしゃりと指先で弾き、イヌガミを嗾けた。
百貨店の湿気た絨毯に、ヒールの音が吸い込まれる道中。
開かれた門の傍、ふて腐れ顔の彼と、爪と爪を砥ぎ合わせる黒猫が居ると思ったが…
「…フフ、どうした事かな。僕が浦島太郎なのか、それとも隠し子でも居たのかい?」
「ありえないって解ってるなら、そういう冗談は抜かすな」
人修羅が風呂敷を背中に回し、腕に抱くのは赤子。
横目に見れば、休憩用のベンチに座る女性が一人。淡色の麻着物で、黒髪を項で束ねてある。
「…赤ん坊抱いてるのに、なんか今にも倒れそうだったから」
ぼそぼそと呟く人修羅、赤子に起きられるのが怖いのか。
一度泣き始めれば、業火の如し赤子のぐずりよ。
「それにしても御夫人、先刻まで行水でもしていたのですか?水も滴るなんとやら」
訊ねつつ確認する。女性の脳天から草履の爪先まで、しとどに濡れそぼっていた。
婦人が息を吐きながらゆっくり立ち上がれば、ベンチの下は水溜り。
「いいえすいません、ちょっと、雨に降られて…恥ずかしながら、空腹も相俟って」
「具合が悪いようでしたら、近くの個人病院まで案内致しますよ」
「はぁ…いえいえ、もう大丈夫です。こうして休憩しまして…少しばかり御馳走にもなれたので」
その言葉に、人修羅の背中をわしりと揉んだ。
赤子のせいで反撃出来ぬ人修羅は、背後の僕を視線だけで刺す。
「成程。質量保存の法則なぞ、やはり俗説だったという事か」
「何だよ…」
「君、三河屋の大學芋…其方の御婦人に分け与えたね?」
風呂敷を数回指先で揉めば、圧倒的に質量の減った紙袋の軋みが伝わってくる。
ついでの様に、人修羅のにやけた気配も。
「散々引っ張り回して、挙句に待たせてたんだ…人助けに消費したなら良いだろ?あんたの腹に入れるより、空腹でぶっ倒れそうな人の腹に入れた方が帝都への貢献だろ」
「帝都守護をする者が空腹で倒れる方が、損失が大きいと思うが…ねぇ?」
「あんたは数日我慢出来る様に鍛えてるんだろ?それに数日分食い溜めしてるのかって量、普段食ってるだろ」
してやったり、とでも思っているのか。
たかが食べ物ひとつで僕が憤怒すれば、人修羅にとっては面白いのだろう。
「如何でしたか?美味しかったでしょう」
人修羅の腕の中でひっそり眠る赤子、それを見つめる婦人に話しかける。
「えっ、あ、ああはい空腹なんでもうそれはそれは」
「パサつかせずに二度揚げされ、均等に切られた芋ですから均等に熱が通っている…蜜も職人の選んだ砂糖でじっくり練られた蜜でしてね、まだ熱いうちに絡めてしまい、さっと冷ますと良い艶が出る。其処に炒られてぽってりとした黒胡麻が振ってありましてね…」
「ぃ、いいえちょっと、そこまでよく分からなかったですけど、美味しかったです、多分」
濡れた着物の袷を掴み、はたはたとさせる婦人。
少しだけ垣間見えた胸元は、病的に白い。
「おいあんた、芋に未練あるのか知らないけど、その人を話に付き合わせるなよ。あげたのは俺なんだし」
横から割り込んでくる人修羅の腕から、赤子を掬い上げる。
落としては不味いと踏んだか、あれよあれよという間に僕へと譲渡してしまう人修羅。
「おい、赤ん坊泣くぞ、あんたの邪気で」
「君の抱き方はおぼつかなくてね、米袋しか抱いた事が無いんじゃあないのかい」
哂ってやれば、睨み返してくる…が、その眼が次第に落ち着き始めた。
僕が赤子を抱ける事が、恐らく想定外だったのだろう。
『里の候補生のお守りくらいは経験済みだ、子供好きかはさて置いてだな』
ゴウト童子が人修羅に一言述べ、続いて僕を見上げてきた。
何か云わんとしているが、この瞬間発する事は無かった。
「はぁ…その赤ん坊が言葉解るなら、色々忠告してやりたい」
ぼやく人修羅は、何も気付いていないのだろう。
未だに“人間の発する言葉を理解する生き物は、人間しか居らぬ”という固定観念なのだ。
「その濡れた身で赤子を抱いてはいけませんね、家まで此方で抱きましょう」
婦人に微笑みかければ、少しの間の後に頭を下げられた。
その隣で、何処か釈然としない表情の人修羅が、背中の風呂敷を手に持ち直していた。



「あんたが赤ん坊抱っこ出来るとは思わなかった」
背後からぼそぼそと、恨み節の様に呟く人修羅。
空は暗雲が立ち込め、泣きそうで泣かぬぐずつき具合。
往く石畳は湿っているが、それでもつい先刻まで雨に撫でられていたという気配は無い。
「君も随分とお人好しだね、赤の他人に食べ物を分け与え、お守りまでするとは」
「…目の前で転倒されたら、取り返しがつかないだろ」
「樹の腕から落ちた柘榴の掃除は大変だからね」
「おい」
人修羅の視線が、僕と並んだ婦人とを、交互に見た…と思われる。
振り向かずとも、背に眼が無くとも、彼の行動の大体は掌握している。
僕の冗談に、隣の婦人が気を悪くしないかと冷や汗を浮かべているのだ。
そんな繊細な代謝など、持ち合わせておらぬ癖に。
「しかし御婦人、貴女ももう少し警戒すべきなのですよ?」
「えっ…」
人修羅の視線が、更に喰い込む心地だ。まさか当人に飛び火するとは思わなかったのだろう。
「人間全てが善人とは限らぬ…例えば後ろの奴に赤子を渡した際、そのまま攫われてしまっては如何するつもりだったのです?」
「それは…」
「己の子と偽って育てられたならまだしも、魔の化生だったりするやもしれませんよ?」
「化生」
「そう、悪魔とか」
一瞬足元から後方を確認すれば、ゴウト童子が尾で人修羅の下駄をぴしゃりと叩いていた。
気を治めろという“嗜め”だろう。
だが、燻る火種に燃料を投下し、様子を観察する事がつまらぬ筈も無く。
「功刀君、君もだよ」
「は!?な、何がだよ…」
いい加減他の話題に移るか、目的地に到着してくれるかを焦れているのか。
人修羅の語調にはやや怒気が混じり、僕のMAGが少し後ろ髪を引かれている。
「他人の赤子を容易く預かるものでは無いねえ…」
「ふん…一人っ子なんだ、経験も無いのに上手い訳無いだろ。危なっかしくて悪かったな」
「君は赤子を抱かせる妖怪の事を知らぬのかい?雪女やウブメの類」
「赤ん坊抱いたら不味いのかよ」
「徐々に赤子は重量を増し、抱いていた者がその圧に殺される」
隣の婦人も、背後の人修羅も、沈黙した。
遠雷の呻り声だけが幽かに轟くので、仕方なく僕から切り出す。
「ま、御二方とも、何処から見ても只の人間だから危ぶむ事も無かったかな?」
苦笑する婦人と、溜息する人修羅。
ただし、どちらも眼が笑っていない。
『おいライドウ、戯言はその位にしろ。そろそろ白黒はっきりさせ――』
珍しく御目付役らしい忠告なぞしたからだろうか、童子の台詞を遮るかの様にしてぽつり、ぽつりと。
次第に色を濃くして、強くなる雨脚。白煉瓦通りから、人が掃けてゆく。
「だから云っただろ!傘も無いのに、って」
「おや困ったねえ。僕の外套でも敷かせれば、塗れ衣でもカフェのソファーに座れるかな?」
婦人を見つつ発すれば、下方でゴウト童子がブルルと水気を払った。
『我は雨どいの下で雨宿りでもしていろという事か、フン』
「申し訳御座いませぬ童子。赤子でも瀬戸際でしょうに、畜生を入店させる事を銀座のカフェーは許さぬでしょう」
『哂って云うな』
視線の泳ぐ婦人は、おろおろするばかりだ。
僕の腕の中を見て、伝い落ちる様に手先を見つめてくる。
「さて如何致しましょうか御婦人、濡れつつ帰路を往くか…それともカフェで雨宿りか」
「ええ、ええ…と」
「急ぎ決めねば、お子さんが濡れてしまいますよ」
右の手で赤子の額を拭おうとすれば「あっ」と叫んで着物袖を伸ばしてきた。
見つめ返せば、ばつが悪そうに俯いて。
「その指輪、が…」
僕の右手の中指、やはり其処を見ていたのか。
横から覗きこむ人修羅が、気付いたらしく喚いた。
「金属かぶれ起こしたら不味いだろ、ってか何であんたそんなチャラいアクセつけてんだよ」
「以前の君のピアスには負けるね、しかも三つも」
「っ、るせえな!あれは不可抗力で…」
「とりあえずカフェに行きましょうか、家が築土より遠いなら一晩間借りさせる事も可能ですよ」
婦人に訊ねれば、戸惑いつつ頷く頭。
「しかし書生さん、わたしはマッ――…え、円、お金を、所有しておりません」
「良いのですよ“情けは人の為ならず”ですから」
僕の言葉に偽りは無い、これは完全なる善意とは程遠い。
いよいよ露を滴らせ始める前髪を掻き上げ、人修羅が両手を伸ばす。
「おい無視するなライドウ!それにあんたの靴ヒールそこそこ有るだろ、雨だし滑るかもしれない」
「失敬な、上等の物だよ?グリップの力は、今君の履いている下駄よりまともさ」
カフェまで歩みを進めつつ、雨脚よりも強い人修羅の語気。
路上をひた走る自動車が、溜まってきた水を跳ね上げつつ横を通過している。
三台目とすれ違う際、人修羅は婦人の逆側に位置を移した、
「今以上濡れたら、なかなか赤ちゃん抱けないでしょう」
これはこれは。ゲイリンの十八代目が体験すれば、融けきって雨に流れてしまいそうな紳士ぶりではないか。
人修羅はああ呟いているが、はたして如何なのやら。
善意は事実有るのだろう…しかしそれは、相手が人間…しかも子持ちの女性だからである。
一方、一瞬の間の後に会釈する婦人。其処には取り繕いを感じない、これは僕の直感だが。
「君が袴をぐちゃぐちゃに濡らしたら、下肢を丸出しでソファに座って貰おうかな」
「馬鹿云え、そんな事になるくらいだったら、ゴウトさんと一緒に外で待つ」
「それにしても、滑らずに済んで良かったねえ?」
「は?何がだ…」
「君のフェミニストじみた軟派行為が」
「は!?ナンパ!?」
「いけないねえ…人妻は禁忌だよ君。解ってる?池袋の鬼の方じゃあ無いよ?タブーの方だからね」
指摘され、それが的中なのかも定かでは無いというのに、慌てふためく人修羅。
云われると意識してしまう性質は、さぞかし疲れる事であろう。
「あんたの方がナンパ野郎だろ、大体なあ――」
人修羅の言葉が、取り入れる情報の中での優先順を落として薄く聴こえる。
代わりに躍り出たのは、視界端の流動的な影。
(外灯にぶつかるだろうか、いや、目測ではすり抜ける)
赤子を抱いていようが、人修羅を蹴り飛ばす事は可能だ。
(待て、動かずとも良い)

「危ないっ!」
「ぅわッ!?」

そもそも、人修羅は人間では非ず。車に轢かれようが、翌日には傷も癒えているだろう。
力を籠めて踏み縛った脚を、僕はゆるゆると通常の立ち方に戻した。
「あはは、車の方が滑ったでは無いか、功刀君」
婦人が咄嗟に突き飛ばしたお陰で、突っ込んできた車の餌食にならず済んだ人修羅。
車は建造物の外壁に軽く接吻して、なんとか停車した模様。
窓を開き、しきりに謝罪している運転手を見つつ…唖然としている人修羅。
僕は哂って歩み寄り、その脛を軽く蹴った。
「御婦人に感謝し給え」
「…あ、ぁあ……」
まだ心此処に在らず、といった間の抜けた顔をしている。
悪魔の奇襲には食い縛ってやり返す癖に、交通事故にはショックを受けるのか。
「あの、有難う御座います、助かりました……にしても、大丈夫でしたか。突き飛ばしたら今度は自分が危ないですよ」
「はい…はい、解ってます…でも…」
感謝と説教を並べる人修羅の台詞に、また哂いそうになった。
こういった所が不器用で無遠慮なので、恐らく色恋とは遠かったのだろう。
「でも、良くして頂いたので…恩人に死なれる事の方が辛い」
婦人の口調は、やはりおどおどしてはいたものの、意思は明瞭だった。
どう反応して良いか分からず、相槌しただけの人修羅も口数は減った。
程なくして見えてくるカフェーバウリスターノ。雨で空気が薄暗くなった為、窓硝子から溢れる光が眩しい。
「さて、功刀君。君はこの子を抱いて、先に入っていてくれ給え」
理由を欲する視線に、刺されるままに続けた。
「僕は外套を脱ぎ、裏返してから御夫人に渡すから」
「…ああ、濡れてない面を外にするのか」
「そうさ、店の調度品を濡らしては不味いだろう?」
人修羅に抱き渡す際、赤子の頬を見た。
桃の産毛に雨を弾いているかと思ったが、青白い肌に水滴は無かった。
「テーブル席だな?」
僕を一瞥しつつ訊いてくる人修羅に、そうしておくれと返しつつ扉を開けてやる。
ベルの音に赤子が起きないか、ヒヤリとした横顔が見えて…奥に消えた。
珈琲サイフォンや、食器の音が厳かに聴こえる隙間を、しっかり閉める。
「さて御婦人、少しばかり良いですか」
「…はい、はい解ってます…の事が何者かも、貴方には知れているのでしょう」
「まだ僕は何も云っておりませんよ?」
「いんや、良いのです……どうせこの後、わたしは融けちまいますから…」
力無く笑い、濡れた髪をぐしぐしと掻いた白い指。
濡れて重そうな着物を纏っているのに、肌は水を弾いていない。
「何故銀座に?」
「隅田の川を下ってきて…暫くは此処一帯に居ったのですが…まぁまぁ、一気に変わりましたね此処も」
「そうですね、車も突っ込んでくる程に増えましたから」
僕の返答に、黒猫の尾がピシリと革靴の甲を叩いた。
「そうそう簡単に住処を変える事は出来ねども…わたしは人間を、やたらめったら喰うなんて…出来ない…」
「しかし今回は空腹に負けた?」
「そうです…したらば、さっきん子が…凄く美味そうな匂いさせてたもんですから…様子を見てたら、あっちさんから寄ってきて…」
「芋も呉れて、子供も自ら抱いた、と」
「そうです、あれよあれよと思うがままで…芋の味は、よく分からんかったですけど」
言葉尻に失笑する婦人は、まだ人間の姿を保っている。
外気と室内の温度差か、背後の窓は細工を施したかの様に曇った。
「もうね、一人、一人で良いんですよ。良質なMAGの人間を一人でも喰らえば、かなりの間喰わなくても良いんですよ。しっかし…まあ、それが出来んかった訳です」
「善意に絆された?」
「…今までも数回喰ってきて何を云うか、と思わないで下さいねぇ……しかし喰らう前にあまり関わったら、駄目ですねえ」
「そうで御座いますよ御婦人。無人島に家畜しか居らず、しかし「動物が憐れだ」と云って餓死するに等しいではありませぬか」
「人間は確かに餌に成る…けど、人間の信仰やら営みが無いと、化物も住み難くなるじゃあないですか…」
「僕も、悪魔が根絶しては無職同然ですからね。穏便に狡猾に生き永らえて頂ければ、これ幸い」
「ん、ふふっ…おかしい人……やっぱり噂通り、書生姿のデビルサマナーは変人で」
雨に煙る銀座、いよいよ車も人通りも無い白煉瓦通り。
「あのまんま…目の前で死なれたら、なんとなく嫌だったのです…」
着物も髪も、雨に酷く濡れ始める婦人。
しとしとどろどろと、崩れる表皮が着物ごと流れ落ちてゆく。
「あの赤子は如何致しましょう」
「一心同体みたいなモンですから…どうぞ、好きになすって下さい」
「人間はね、唐突に子持ちには成らないのですよ。しかも男だけでは生し得ない」
「この雨に流して下さいな」
それだけ云いきって、ばしゃりと体躯が消えた。
着物と髪の残骸だけ、藻の様にゆらゆらと、赤い水溜りをゆらめいている。
もしかすると、本当に藻なのかもしれない。
『今回ばかりは、人修羅の人間としての見栄が役立ったな。それにしても…牛鬼だったか。磯女共と一目では見分けがつかんな』
「悪魔だったと知れたなら、彼はどの様な顔をするでしょうかねえ……フフ」
『おい、云うなよ?面倒事はいい加減避ける癖をつけぬか…全く』
大人しく雨どいの有る窓に寄り沿ったゴウト童子は、首を振って僕を煽った。
早く人修羅の所に行け、という事らしい。
「そうですね、赤子とはいえども悪魔…この世のモノとは思えぬぐずりをされては堪りませぬ」
『そう思うなら、普段から人修羅の事もあまり喚かせるでな――フギャッ』
雨で重量を増した学帽を、その黒い頭にばふりと被せた。
外套を脱ぎつつ、ベルを警戒に鳴らし入店する。
白いマリンルックの制服給仕達を掻い潜り、子連れの卓まで一直線に向かう。
「お待たせ功刀君」
「……あの人はどうした?」
「さあ?」
小さく首を傾げてみれば、前髪の滴が一滴落ちた。
「さあ、って…何だよ、この子はどうすりゃいいんだよ」
「さあね、元々捨てたかったんじゃあないのかい?適当な者に預け…そのまま立ち去る。昔からある話さ」
外套の濡れた紫紺ごと、覆い包む様に畳む。
人修羅の向かいのソファに着席し、それを隣に置いた。
「あんた帽子は」
「童子に預けてあるよ、良い雨傘になるだろう?」
「何が雨傘だよ…裏側に管が一本入ってるだろ、猫の頭じゃすっぽり入ってゴリゴリする筈だ」
呆れ顔の人修羅が、視線を僕から脇に移す。
給仕が運んできた珈琲は、三つ。
「へえ、御婦人の分まで?気が利くではないか。銀楼閣でもそうあって欲しいねえ」
「何処か行っちまったんだろ、あんたが払ってくれよ」
「君が勝手に気を利かせたのだろう?それは不当な請求だから応じられない」
「…自分の分は自分で払えよ」
「背伸びして珈琲を飲まずとも、紅茶でも頼めば良いのに」
「煩い」
片腕で赤子を肩に寄せ抱くまま、顔を背けてカップにくちづける人修羅。
その目許が美味しそうに綻ぶ…という事は、やはり無かった。
僕も湯気が薫りを含む内に、カップの持ち手を掴む。
陶器のそれに、指輪がカチリと接触の音を零す。
「この子、ライドウの隠し子かと思った」
指輪のアクアマリンがランプの灯りを跳ね返し、人修羅の眼が此方をやぶ睨みする。
啜った珈琲を嚥下してから、慌てずに返答する僕。
「何故そこに行きつくのか教えてくれ給え」
「あんた、百貨店の宝飾店に行ったんだろ…その指輪、実はペアリングとかで」
「それで?」
「百貨店の中とかで、本当は待ち合わせしていたんじゃないのか…?だからライドウは俺達を入口で待たせたんだ。もう片方のリングを渡そうと思っていたけど、彼女は待ち合わせ場所に来なかった…」
「ふうん?続け給え」
「ほら合点がいくだろ?あの女性は、父親であるあんたにいよいよ愛想尽かしていて。今回は待ち合わせ場所からワザと外れて、あんたの同行者だった俺の眼の前で演技して…それで旨い事“通りすがりの母子”のフリして赤ん坊渡したんだ」
珈琲の苦味に反比例するかと云いたくなる程甘い、お菓子な推理だった。
興味も無さげな仏頂面で僕と婦人を眺めていた割には、色恋沙汰のキネマ顔負けの妄想を並べ立てている。
「そうすりゃあんたも、関係露呈をされるか赤ん坊を黙って引き取るかの二択しかなくなる。どうせさっきも、店先で示談…っていうか交渉してたんだろ?」
「功刀君、空想の話はそれくらいにしたら如何だい?此処には創作者が息抜きによく来るんだ、話のネタにされてしまうよ」
「空想じゃないなら、まず否定してみせろよ」
先刻、珈琲と共に運ばれて来たミルクポットに手を伸ばし…ソーサーに置かれたカップへと、掴んだそれを傾ける。
「フフ、だって僕は女性の中に出さないし?」
云いながら、人修羅の珈琲の水面にミルクを注ぐ。
焦がし色の中に比重の違う白い液体がクネクネうねりつつ泳ぎ、やがて滲み始めた。
「おい……あんたこそ台詞選べよ、ここ、店の中だぞ」
云うなり、珈琲を全て啜った人修羅。頬の熱を珈琲で火照った所為にしたいのだろう。
「飲み易くなったかい?」
「あんたが勝手にしたんだ。感謝を求めるなよ、それこそ不当な請求だ」
「おや、もしかするとこのミルクはその赤ん坊の為のものだったかな?思わずお子様に使ってしまったね」
「……まだ飲めないだろ…こんな小さいと哺乳瓶とか母乳でもなけりゃ…」
ふっ、と腕の中を確認する人修羅が声を潜める。
怪訝な表情は、珈琲の苦味がさせている訳でも無さそうだ。
「寝てる…だけだよな?怖いくらい静かだから…」
「頬でも抓ってみたら?」
「するか馬鹿、というか本当にこの子、どうするんだよ」
ヤタガラスに引き渡せば、良い実験材料だろう。
かといって一般都民に里子へ出せば、いずれ捨てられる可能性が高い。
悪魔なのだから、このまま人間の形を保つとも限られぬ。
「ドクターヴィクトル辺りに任せようかね」
「生体改造されるんじゃないのか」
「ひとまず、だよ。都合の良い事に、あそこには悪魔が大勢居るからね。誰かしらが面倒を看るだろうさ」
「この子が喰われたらどうするんだよ」
「そうだねえ…罰として、その悪魔を簀巻きにして、隅田川に沈めようか」
僕の笑みに、うんざりしている人修羅。顔も見たくないといった風に、窓の外を眺めている。
じっとりとした結露が、窓の靄を洗い流していた。
薄暗い通りが垣間見えたが、皆当然の様に傘を差していて。
時折傘無しの人影も見え、少ししてからベルの音。
雨に濡れた上着を、今頃脱いでいるのだろう。
「雨…雨…雨 雨は銀座に新しく、しみじみとふる、さくさくと、かたい林檎の香のごとく、舗石の上、雪の上」
脳裏を過った瞬間に、話し声と同じトーンで紡ぎだす。大正二年刊行の《東京景物詩》に載っていた詩。
「黒の山高帽、猟虎の毛皮、わかい紳士は濡れてゆく。蝙蝠傘の小さい老婦も濡れてゆく。…黒の喪服と羽帽子。好いた娘の蛇目傘」
「誰のだよ」
「北原白秋。そうそう、悪魔の簀巻きだがね、川の連中の良い餌になってくれるよ。最近腹を空かせている様子だからね」
「悪魔の簀巻きなんて喰うのか?」
「蓼食う虫も好き好き、だよ功刀君」
こんな言葉を作りながら、人間も塩焼きに蓼酢など振る癖に。
「本当、さっきの人も趣味が悪いよな…」
「まだ云うの?君もなかなかの俗物だね。残念だがこの指輪はひとつだけ、僕の為の特注品さ。アクアマリンが良き水を味方にし、水難から装備者を護る」
「は、街中で溺れる訳ないだろ」
人修羅は失笑し、腕の中の赤子の頬を指の背で撫でている。
この指輪の手で同じ事をすれば、あの頬は火傷の様に爛れる筈。
一部の悪魔を弾く石と、呪いの彫刻の相乗効果だ。
「磯女の様な悪魔がやたらと銀座付近に出没するので、警戒せよとカラスからのお達しが有ったのでね」
「いそおんな…?もしかして、そいつ見つけ出して始末するまでは今日は帰れないのか?」
嫌な予感すらしないのか、要らぬ妄想力を働かせる癖に。
悪魔の知識があまりに浅い彼に、僕は毎度苛々する。と同時に、弄る要素が増えてほくそ笑む。
「いいや、今日はもう良いかな。お荷物も居るしねえ」
「可哀想な事云うなよ」
「何を云っているのだい、君も含めだよ」
カチン、と音がした様な錯覚。
人修羅の琴線というよりは、撃鉄を起こしてしまったらしい。
勿論、僕はそのつもりで呟いたので想定内だが。
「面倒事を嫌う割に、構っていただろう君。僕より案外女好きだよ…ねえ?」
僕が外套を腕に掛ければ、人修羅も風呂敷の結びを確認してから腕の赤子を抱き直す。
残された一杯は、僕が喉に流し込んだ。やみなで等と違い、通り過ぎる瞬間のみ熱い。
「目の前で倒れられたらバツが悪いんだよ」
「クク…慈善行為の積み重ねで人間に戻れる訳でもないだろうに。それに、もし悪魔の親子だったとしたら?」
「それなら、俺の知ったこっちゃない」
「差別だね」
「悪魔なんて、無関係な人間にちょっかいかけてばかりじゃないかよ。どうして助ける必要が有るんだ」
「野山で狩猟をする感覚に近い輩も多いのさ、悪意の塊という訳でも無いだろうよ。同族殺しなら人間の方が多いと思うがね」
人間を同列に並べた事が、君の憤慨を生む事も承知の上。
だってそうだろう、先刻の女性が悪魔の形をしていれば、君は見過ごしたという事になる。
形に囚われなければ、扱いは統一されるというのに。
「悪魔使って悪魔始末する癖に、どっちの肩持つんだよあんた」
会計台の手前で、各々に懐を探りつつ、互いの腹を探る。
「どちらの肩も持たぬよ、独り身が軽くて楽だからね。子供なぞ作ろうとも思わない」
「知ってる、そもそも全然似てないしな、この子とあんた」
「赤子の顔なぞすぐ変容するよ」
「あんたみたいにニヤけて無い、この子はそういう面相してる」
「母親似の可能性を考えないのかい?先刻の君の陳腐なシナリオが真実ならば、有り得るだろう?」
「だから、もっとハッキリ否定しろよ!苛々する…!」
自身の摂食した分の代金を、同時に会計皿に置く。
ついでに珈琲豆を買おうか一瞬考えたが、この天候なので止めた。
事務所の湿気た豆で淹れた珈琲での、憂鬱な午後を予感する。
ただし、そのメランコリイが嫌かと云えば、存外悪く無い。
「そうさ、大學芋も無かったよねえ…」
「いきなり掘り返すなよ、根に持ち過ぎだろライド――っ、ぅわ!?」
ベルを鳴らしつつ扉を開いた人修羅が、僕から前方に視線を戻した瞬間悲鳴した。
何かを避ける様にして路上へと出る彼の、袴の隙間から赤い汚泥が見え隠れ。
「コレ…っ、ゴウトさんに今度は車が突っ込んだのか!?これじゃ再生も出来ないだろ…み、見るも無残な――…」
『たわけ!我は此処に居るわ!』
突然の赤に視界を奪われた人修羅は、扉の右側に居る童子の存在に気付かなかったらしい。
轢死したと思われた黒猫は、毛を逆立てて嘶く。
その頭から僕の学帽を拾い上げれば、耳がピンと立っていた。
「ああゴウトさん、お待たせしました。すいません、そうですよね…ここまでミンチだとローラー車でもないと難しいですよね」
『全く、お主は普段も大概だが、擬態中はあまりにも注意力散漫だぞ?車に突っ込まれたのはお主の方だろう!』
「だって車は通常襲ってきませんし。…じゃあこの赤いヘドロみたいのは、結局何なんでしょうか…気持ち悪い」
『ヘドロ…ヘドロと我を見間違うたのか、はぁ…』
尾をはたりと石畳に寝かせ、深い溜息のゴウト童子。
一度天空にて散った御方だ、その際はこれ異常に微塵だったのだろうな…と想像して、僕も肩が揺れた。
「ねえいいことを思いついた、舐めてみ給えよ功刀君」
「無茶云うなよ、絶対嫌だからな……絶対」
赤子を抱いて、しかも此処が街中である状況に、人修羅は安堵している事だろう。
荷物も人目も無く異界であれば、僕は面白がってその顔を其処へと押し付けたかもしれない。
僕の思いつく「いいこと」の志向なぞ、君には知れているだろうから。
「柘榴の味がするかもね」
「…まあ、確かに潰れた柘榴みたい…だな。でもそんな、良い風味には見えない」
「柘榴は人肉の味なのだよ、功刀君」
「また俺をハメるつもりだろ」
水溜りに波紋を作る雨粒達。僅かな雲間から差す陽は、既に茜色だ。
歩き出す僕に、数歩遅れつつ追従を始める気配がした。恐らく、一度振り返りあの赤を一瞥した事だろう。
人修羅は堪らず視線を逸らしたか、気付かぬ振りか…本当に気付いていないか。
あの残骸の中に、赤い蜜を纏わりつかせた大學芋がころころと在った事を何と思うのか。
「…同じ味って事は、舐めても人の肉か柘榴なのか、判別出来ない」
「牛鬼はね、人間に“恩返し”をしてしまうと、この世を去らねばならない怪でね」
「唐突だな……店で話してた磯女ってのと関係あるのか?」
「この世を去る最期の姿はね…身体がみるみるうちに融け解れ、真っ赤な血を流し絶える」
ほら、再び背後を見た。あの残骸が気になるのだろう?引き返す事はさせないけれど。
舐めたところで、何の味かは分からないだろう。だってあれは人肉でも柘榴でも無い。
「さっきの女性、本当に何処かに行ったのか?」
「さあ?」
ニタリと哂って隣を見れば、雨から甲斐甲斐しく赤子を護る姿が在った。
その小袖の震えは、一体何の寒気からきているのか?と、問い質したい。
「怪談の季節だからって…また俺をハメるつもりだろ」
労わった事実も、殺した事実も否定したい癖に。
かといって“婦人”が僕の女だったとしても、苛立つ癖に。
だから、夏の夕暮れの風物詩にしてやったのに。
「ほら、雨天決行さ功刀君。とりあえず今日は雨が降ろうが矢が降ろうが、その赤子をドクターヴィクトルに送り届ける」
「雨の中で銀ブラとか…雨天決行ってロクな事無いな、運動会でも祭でも何でも」
不安気な顔を崩し、失笑した君。
喰いついてきたので、此処でまた足を掬ってやる。
「銀ブラとは、銀座をぶらりとする事では無いよ功刀君。“銀座のカフェ・パウリスターノでブラジル珈琲を飲む”事を云うのだよ」
「…また俺をハメようとしてるだろ?いい加減疲れた」
僕の薀蓄は全て眉唾に聴こえるのか、随分良い耳に育ったものだ。
湿気で更に撥ねている髪の下、その白い耳を抓ってやりたくなったが…それは止めにして、言葉を弄ってやる事に決めた。
「ククッ、そんなに疲れたなら、お望み通りハメてたっぷり注いであげようか?」
ほら、抓らずとも赤く染まった。遠隔操作も可能とは、哂わせてくれる。
「っ…え、遠慮する!どうしてあんたはそういう下種な事ばかり――…」
「単なるMAGの話だろう?」
あの赤い柘榴も、雨が流してくれるだろう。
そうして、雨が流しきれぬ君の淀みを、僕が浚って泥遊び。
じめじめとした人修羅の憂鬱は、僕の餌。
その浅ましい水溜りに、飛沫を上げて波紋を作りたくなる。

「波斯の絨氈、洋書の金字は時雨の霊
 Henri De Regnier が曇り玉
 息ふきかけてひえびえと
 雨は接吻のしのびあし」

嗚呼、白い目で見られる、この心地好さ。
雨の帝都で、またひとつのオッカルト。傘も要らぬ化生が、僕の手となり足となる。
濡れた外套の圧すら、空気との一体感を高める。銃が使えずとも、露払いは刀で充分。
愉しく詠う程に、隣の君の溜息は深く雨垂れ、呆れ眼は矢の如し。
降り注ぐ雨の中でも矢の中でも、雷さえステップで躱し、最後の独りとなるまで踊って居てやるのだ。

『クゥーン……歩合制ジャ無カッタノカ?ライドウ』
耳元でボソリと呟いたイヌガミを、指輪の手でゴリゴリと撫でて黙らせた。


外待雨で柘榴の水溜り・了
* あとがき*

冒頭の詩は北原白秋著:銀座の雨(大正2年) 青空文庫で読めます。
また雨がテーマで…こればっかですねすいません。
夏なので怪談チックにしたつもりが、毎回悪魔と対峙しているので特に違いも無かったですね。
悪魔と知らずに手助けをしたら〜というのが、書きたかった内容です。 久々に人修羅とライドウの会話が多くて、なかなか楽しかったです。戦闘シーンが無いですが、許してやって下さい。

ライドウは、人修羅に後悔させたくて哂って見守るだけで。
人修羅は、フェミニスト行為に見せつつ自己満足と牽制(婦人に対して)をしている。

外待雨(ほまちあめ)は「局地的な、限られた人だけを潤す雨。」の事です。
ゲーム中のカフェーパウリスターノというのは、パウリスタ銀座本店だと思って書いております。
柘榴の味に関しては、鬼子母神関連で…しかも後付俗説だそうで、本当に人肉の味という訳では無いです。人肉が美味しいとは思えないのですが(独断と偏見)

【追記】銀ブラに関して諸説ありと思われたが「銀座でブラジルコーヒーを飲む」は2000年代の商業誌がまことしやかに流し始めた説らしく、それが伝聞されたようですね。 2014年「三省堂国語辞典」(第七版)に『デマである』と明記され始めたそうです。 この話を書いたのは2013年なのですが、内容はそのままにしておきます。 (2018/11/12)