いんしん【殷賑】
[名・形動]活気があってにぎやかなこと。また、そのさま。


大殷賑




既に事切れようとしているのか、牛の人面が喘ぐ様に口をぱくぱくとさせる。
「いくら得物が大きくとも――」
クダンを斬り伏せた我の背後から、聞こえてくる。
此方が振り返るのと入れ替わりで、黒外套が颯爽と靡いて過ぎた。
其れは我の外套に非ず。戦地に漂う死臭に、ふっと混じる香の薫り。
「とどめを刺せなければ、ねえ?」
そのクダンのぱくぱくとした暗闇に、刀の切っ先を押し込んだ男。
その、己と瓜二つの顔が、ニィと口角を更に上げた。
呻きながら血を泡立たせるクダンは、痛々しい事この上無い。
「《ライドウ》もう良いだろう、捨て置けば」
「しかし、こいつはディアラハンを唱えようとしていたのだよ、《雷堂》?」
そう返され、改めてクダンの真赤な口元を眺め見た。
裂傷の激しい唇は、既に詞すら紡げる気配は無いが…彼が云うのならそうだったのだろう。
「そ、そうか……それは我が悪かった」
「詰めが甘いのだよ、君」
ライドウのめり込ませる刀には、退魔の効力が強く付与されているのか。
抉り込んでいく刀身に巻き付いたクダンの舌が、じゅうじゅうと焼け爛れていた。
それが思ったよりも長い舌で、二重の驚きが有って。
(ライドウは特に驚くそぶりも無い…あの形を知っていたのだろうか)
自身もサマナー、それも帝都守護を任される身だ。
悪魔への造詣を深めんと、日々修行と勉学は欠かさぬ。
だが、悪魔の口の中まで自主的に調査した事は…流石に無かった。
「その舌、玉鋼を融かしはせぬか。音が先刻からじゅうじゅうと……」
「この程度でナマクラになる刀は提げた記憶が無い、平気さ」
云うなりライドウは、すっと切っ先を引き抜き、今度はそれを牛の胴体に突き刺していた。
浮き出た肋骨に押し付ける様に、グリグリと。焦げ付いた刃を内腑で洗っているのか……
ずるると引き抜かれた刀身は、今度は赤い脂で濁っていた。
「もう次の狩場に行くかい?」
「此れは狩りでは無い、修練だ」
「フフ…修練ね。MAGを匂わせ徘徊するは、無用な戦いを生むだけと思うが?」
意地悪く哂うライドウの横顔は、アカラナの暗闇に端麗に浮かび上がっている。
同じ貌の癖に何を、と思われるかもしれないが、ライドウの方が明らかに雰囲気が上なのだ。
彼の世界と我の世界は、数か月程度の開きがあるそうで。しかしそれを念頭に置いたとしても、違った。
数か月後の我に、あの余裕に充ちた立ち振る舞いが出来るとは、到底思えなかった。
それに、彼には傷も無い。
「……だがしかし、貴殿も満更でも無いのだろう?自己鍛錬が好きなのだとお見受けしたが…如何か」
「努力や根性を論ずる気は無いね」
「一朝一夕に出来るとは思えぬ。技量や…その、悪魔と対峙する際の態度が」
「修練修練と謳うより、此れは遊戯なのだと思う方が愉しく無いかい?」
歩きつつ召喚したライドウは、アルラウネのブフで刀をゆるく凍らせた。
続いて引き換えに現れたイヌガミの首を撫で、ファイアブレスを吐かせる。
それでじっくり刀身を炙れば、先刻纏った霜は溶けてゆく。
汚れと一緒くたにして、血の脂を落としているらしい。
悪魔の酸を物ともしないのだ、あの程度の温度差に怯む刀身では無い、そういう事だろう。
「いち早くモノにする為に研究し打ち込む、それだけだよ」
「そら見ろ、貴殿とて最初には積み重ねだと云っているではないか」
「“努力しない為の効率化”を図るだけさ」
「努力は無駄では無かろう?その分、確と身に具わる」
「君が此処でしつこく刀と仲魔を揮っているその頃、僕は椅子に寛ぎ読書でもして知識を広げておくとしよう」
羽根の如く小手先に扱い、するりと納刀するライドウ。
我の大太刀と違い、実際に重量は軽いのだろうが…それにしても曲芸の様な滑らかさだ。
料理人の包丁捌きを思わせる…安心感の有る凶器の扱いよ。
「貴殿の刀は、あまり長さが無いのだな」
「今、斬り合おうか?」
「おい…唐突に何事だ」
「互いに“せいの”で抜刀し、斬り合ってみようか?という誘いだよ、葛葉雷堂」
「この距離で…か?」
冗談は止せ、と云いたかった筈が。まず確認をしてしまった。
ニタリと哂っているライドウの…その笑みの中に、意地悪さを確認したかったのだ。
「君が抜刀を終えた辺りで、僕は既に斬りつけている」
「そう…だな。この得物は至近距離を得意とはせぬ」
「短く軽い方が利点が多い、華奢な人体相手ならば胸か胎……角度が良ければ首でもいけるかな」
哂いながら外套の襟元を、その白い掌が掻っ切る動作。
それが可笑しくはあっても、微笑ましくは見えぬのは…この男だからだろうか。
「刀でどうにもならぬ頑固な相手は、仲魔にでも任せれば良いのだよ、雷堂」
「仲魔がすべて潰えようとも、我が最期の瞬間まで立ち回る必要が有るのだ。だから、重い一撃を与えられる得物が欲しい」
「莫迦だね」
「何を……」
「人間の身体なんて、脆いものさ」
アカラナの不安定な足場を抜け、階段の様な回廊を駆け下りる。
真っ暗な闇ばかりが、先に広がっている。かと思えば、木洩れ陽の様に溢るる光源が突如現れたり。
(底無しだろうか、落ちれば如何なる?)
次代や次元を潜る空洞…この硝子の如し段を踏み外せば、違う世界に放り出されるのだろうか。
其処では、名も立場も通じず…葛葉雷堂という個は意味を成さぬのだろうか。
「っぐ!?」
と、我の肩に突然の衝撃。横からのまさかのそれに、受け身もままならず。
片脚にてたたらを踏もうと思ったが、手応えが無い。
(落ちる…!)
真暗な闇をひとつふたつ蹴れば、ぴたりと虚空に静止するこの身。
我の四肢を、吊るす様な形で支えるは棘の鋭い茨蔦。
この必要以上に淫猥な気配、ライドウの仲魔のアルラウネだ。
「な…何をするのだ貴殿はっ!」
彼へ向き直りたくとも、この状態では難しい。
疾風属を召喚せねば、と。管に指を伸ばそうとしたが、腕も蔦に絡まれ何ともままならぬ。
『ねぇライドウ、このキズモノはどうするの?』
「当人に訊いてくれ給え、仰せのままにしてやれば良い」
『あらん、宙吊りのまま苛めないの?何か白状するまでくすぐったりとかぁ…答えない場合は落とすとかぁ』
「次元に波紋を作れば、僕等の帰路にも影響が有るかもしれないだろう?無闇な一石は投じぬ事さ」
『まっ、突き飛ばしたの貴方じゃない、やぁねぇ…ンフフ』
軽く哂う両者の声音に、唖然としながらも怒りが込み上げてきた。
戒めのアルラウネに目配せし、一言「其方に降ろしてくれ」と唱えた我。
彼の仲魔は妖艶に喉で笑い、するすると我を引き寄せて…
「っぶ!?」
足先が接地するだろうと我が身構えた瞬間、噎せ返る程の薔薇の芳香が、鼻腔を支配した。
何とアルラウネは、そのまま抱擁してきたのだ。
紫の谷間にしっくり沿う己が鼻梁の所為で、首も振れずに窒息しそうで。
毒々しいまでの薔薇の香と、放漫なまでに豊満な肉塊に、我も飽満となり呼吸困難に陥る。
「そろそろ逃がしてやり給えよ」
『だってぇ、ライドウと同じ形してるのにウブだから、おかしくって』
「同じ形の筆だとて、使い勝手は個体差が有るだろうさ」
『やだぁ、まだワタシが筆おろしが趣味だなんて云ってないわよ』
ようやく解放されたが、まだ地に足が着かぬ感覚。
この眩暈は、拘束で緊張した身体の所為か、それとも…我を無視して交わされる破廉恥な応酬の所為か。
「貴殿、どの様な理由があって、我を突き落したのだ」
悠々と我を見るライドウに、出来る限り冷静に問い詰める。
「だって、落ちたそうに奈落を見ていたから」
「は……そ、そんなのは貴殿の勝手な推測であろう!」
「へえ、僕の勘違いならば失礼したね」
管に戻されるアルラウネが、去り際に身体をくねらせ我に微笑んだ。
いちいち揺れる胸が堪らなくて、帽子のつばを思い切り下げる。
露出への抵抗の無い悪魔が多い世だ、認識していても耐性の有る我では無い。
「そういえば雷堂、君の仲魔には女体が見えぬが」
「…アルケニーを携えてはいるが、普段喚ぶ事は無い」
「常用するは筋骨隆々とした天使ばかり、もしやそういう趣味なのかい」
「そういう……とは?」
「さては君、筆としては解されたものの、一筆も書いていない未使用品だな」
不可解に関して我は首を傾げ、階段を数段下りてからようやく察した。
この男、我が童貞だと云いたいのか。
「そうだ、手解きは習ったが交わりは未だ無い」
「清い身体で良い事だ」
「…そ、それは嫌味だろうライドウよ?」
「さてどうだろうね」
少しばかり付き合って解ってきたが、この男は正直者だ。
媚よりも喧嘩を売る性質、まるで我とは逆。
(いいや我とて、別に媚を売っている訳では)
嘘だって吐いた憶えは無い。それなのに、何故この様に…真逆に感じるのだ。
「交わる程、色々傾くものさ。巧くあしらえぬなら、何者とも繋がらぬ方が良い」
「傾き…とは」
「性質…属性……そういった系統が、偏る事」
つい先刻、我を突き落したというのに、何事も無かったかの様に颯爽と歩くライドウ。
憤慨しそうになる…が、そのあまりに平然とした姿を見て、妙な安堵を得てしまう。
最初から、ひょいと掬い上げるつもりだったのだろう、と。
そうでなければ、アルラウネが我をあそこまで素早く拘束出来ぬ筈。
只の悪戯なのだ、恐らく。寿命が縮みそうな程、性質の悪いものではあったが。
「必ず別たれているだろう?陰と陽、女と男、魔界と天界、悪魔と……人間」
「確かに、思考ばかりでなく身体を繋げるともなれば、影響は有るやもしれんな」
「他者に染められ易い者は、自慰で我慢しておくのが無難さ」
「また極端だな」
「君の様な奴は、交わった瞬間からMAGばかりでなく情まで移しそうだからね」
「それは貴殿、いちサマナー…葛葉の十四代目としての精神が我に足りぬと、暗に申してはおらぬか」
無言のまま、口角が三日月の様に上がる彼。此方に向けられる、その視線の色香よ。
同じ形をしている筈だが、鏡と写真の様な違和感を感じる。何かが違う…
もしかするとこの十四代目は、既に経験豊富なのかもしれぬ。
その相手が女性なのか、男性なのか…そんな要らぬ妄想まで一瞬飛んでしまい、咳払いして雑念を追い払う。
一方、不敵な笑みを浮かべたままのライドウ。
回廊の隅から黄色い声を飛ばす女性悪魔に、ばちりと長い睫毛で合図なぞして弄び……
その軽薄な姿に、ついつい我は要らぬ忠告を唱えた。
「仲魔へと誘うつもりも無いのだろう?あの様に気を拾ってしまうのは相手が憐れだ」
「へえ、ならば君は無視するのかい?それこそ憐れというものだろう?」
「い、いや…その……あの様な声は、貰った事も無いので…だな」
嗚呼、止めてくれ、次から此処で修練するのが辛いではないか。
隣の“ライドウ”と人違いされる事が予測され、同じ姿を恨んだ。
「成程、房事どころかデェトの経験すら無いのかい」
「先刻より貴殿、色事ばかり申しよるな。まるで学校の、浮かれた男児の様だ」
我はそれこそ嫌味のつもりだったのだ、しかしライドウは今の何処に気を好くしたのやら……
外套を肩より払い、ほんの少しだけMAGを躍らせていた。殺気混じりの高揚でも無く、使役の為の供給でも無く。
一瞬だけであったが、警戒が解けていた。
「だって僕は学生だもの」
「その前に葛葉であろう」
「君は任務に託けて、ほぼ通学しては無いと見た」
「で…では貴殿はどうなのだ?」
「多忙で不登校気味だが、試験の順位は落とした事が無いね」
意外だった、いや、成績に関してではない。この十四代目、あの様な慣れあいの場を嫌うと思っていたのだが。
「それにね、何が葛葉だ。サマナー業を辞めた後の事を考えてはおらぬのかい?学校へは通うべきさ」
「勉学はヤタガラスが授けてくれる、それに貴殿…今、何と申した」
「神学は教わっているのかい?ラテン語はどの程度使える?神の類を悪魔と称して学んでいる?」
話を逸らされたか?
しかし矢継ぎ早の問いを躱しきれず、まるでぐさぐさと身体に穴が開いた様な心地になる。
「Ut vales?(お元気?)」
ライドウの流暢な発音は、奏でられる楽器の如し。
我は学びはせども、其処まで要求された事は無い。
あちらのヤタガラスの教育が熱心なのか、それとも勝手に上達しているのか?
嗚呼、駄目だ……応酬に乗ってはならぬ。
「解からぬ?」
「……」
「Dixitque Deus, ut exsisteret lux, et exstitit lux.(神光あれと言給ひければ、光ありき)」
「Non enim misit Deus filium suum in mundum, ut mundum damnet, sed ut servetur per eum mundus!(神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためでなく、御子によって、世が救われるためである!)」
「なんだ、云えるじゃあないか」
「…習った事だけはな」
「ではつまらぬ会話しか出来ないね、やめだ」
飽きられた?呆れられた?
今の返しが不味かったのか、それとも単なるライドウの気紛れなのか。
傍に業斗も居らぬので、意見を求める事も出来ずに脳内はどんよりと曇った。
(また我は素っ頓狂な事を云ったのだろうか…いつも鳴海所長に笑われている、間抜けな反応ばかりだと)
業斗童子の姿が無い場において、我は萎縮するばかりだ。
葛葉の十四代目とは肩書だけであり、実物はこの通り…ただの青い男。
“こうして遇う機会も少ないだろう”と、二人きりにされてしまった事を悔いた。
我の業斗は、やや眉間に皺を寄せていたが…向こうの黒猫は「やれ早く行け」と急かしてさえいた。
ぴしゃりと尾に靴先を叩かれたライドウは、憤慨するでも不安がるでもなく…
我を見やるなり「では往こうか、雷堂」と、軽やかに発したのだ。
「また考え事かい」
脳内に甦っていた声が、今度は鼓膜を叩く。
「悪魔を警戒はしている、按ずるな」
「己の保身だけ考えていれば良いよ、僕は自分で何とかなるからね」
「そうか……」
「まさか、再びあの男根に負けるとは思わないが…あれから少しは鍛えたのかい?クク」
「そ、そう、それだっ!我は此処にその為に参ったのだ!」
ラヂヲ塔での散々な記憶に、此処に在りもしない青臭さが鼻腔を衝く。
誘導弾の如く迫りくる白濁に重くなった外套を脱ぎ捨て、いざ召喚すれば焔を使う仲魔が疲弊しており…
ふらりと現れたライドウに、刀の切っ先で指されケタケタと嘲弄されたのだった。
「次こそは…討つ、紅蓮属を従えてな」
「二回戦の申込は済んでいるのかい?今は何処の界隈をうろついているのか、僕は知らぬけど」
「怪しき巨根が我の住む帝都でも目撃されている…いよいよ負けられぬ」
「僕が君の方にお邪魔して《ニセ雷堂》に成ってあげようか?」
「止めてくれ、それは紛らわしい…」
「先日と違い、偽者である僕が魔王を倒すけどね」
また挑発。悪魔相手なら解かるが、人間に此処まで真正面から挑発される事は多く無い。
サマナーを毛嫌いする者や、我を忌む鳴海所長とも違う。
どこか好戦的な眼、我と同じ形のまなこ。
「しかし雷堂、それならば必勝祈願の御守りとして、これを預けよう」
「御守り?」
胸元よりするりと抜かれた管は、薄暗闇にありながらも少ない光源を反射して輝く。
返り血のひとつも浴びていない其れが、我の眼前に陣取った。
「中身は何だ」
「デカラビア」
くるりくるりと回転する、海星の様な姿を連想した。
戦いの相手にした事は有ったが、じっくりと観察したのは悪魔の図鑑でのみ。
「……従えた覚えは無いな…いや、それより貴殿。デカラビアは疾風の属…それで優位に立てるのか?」
「生唾以外にブフダインも喰らわせてきたろう?このデカラビアは“氷結吸収”するデカラビアだからね」
「ほう、焔に関しては我が火炎弾でも撃ち込めば良い……そういう事になるか?」
「君は銃撃が不得手だったっけ、しかし流石に当たるだろう?マラ…じゃあなかった、マトが大きいのだから」
明らかに態とであろう。にしゃりと哂ったライドウが、更に差し出してきたその管。
此処で受け取るは恥か?
いや、しかし好意として捉えれば、此れは受け取らぬが冷血…
「仲魔、どうせ普段からヤタガラスに貰い受けているのだろう?今更だよ」
「何故それを……」
「そんなの見ていれば判るさ、余所の子を預った親みたいな態度だもの、君」
その指摘に、我は勝手に傷付いた。
ヤタガラスに与する以前…己を育ててくれたのは、血の繋がらぬ人達で。
彼等は親しく厳しく、それこそ温かな脈を感じる接し方をしてくれたというのに。
肝心の我が、いつもどこかに隙間風を作っていた事を思い出した。
本当の子では無いのだから、と……それこそ、借り猫の様な態度で。
そうしてそのまま、変わる事も出来ずに離れる事と相成った。
あれからは、もう会っていない。
「ほら、受けとり給えよ。使う使わないは君の自由さ」
「我はこれ以上、貴殿に借りを作りたくは――」
自身で交渉し、長らく連れ添うならば好い主従関係であろう。
しかし、此のライドウが云った通り、我の仲魔はヤタガラスから与えられた者ばかりだ。
機関に調教された彼等は粗相もせぬ、我の命に背く事なぞ皆無だ。
そんな彼等、仲魔達を……我はやはり、どこか遠い存在だと感じている。
最初から用意された主従関係。人とは違う形。利用の為だけに召喚する我。
(結局、何処から借りるも同じ、か)
欠けや錆も見当たらぬ、美しい管。其処へ爪先でほんの一寸だけ触れ、ライドウの眼を確認した。
余裕めいた笑み、細まる眼、瞼に浮かぶ長い睫毛……
此方を窺う其れは、急かす色をしていない。つまり我の動きに確信を得たという事か。
「……では、貴殿の仲魔を見せて貰うとしよう」
「フフ、どうぞ。云っておくが、対マーラ用として預けるのだからね」
「承知している」
管を納める場所に空きが無かった為、一時的に胴乱へと忍ばせた。
歩けば中でカタカタと、固定されずに遊ぶ音がする。
「次は調伏出来ると良いねえ?」
さらりと述べ、憂うでもなく哂っているライドウ。
突き落したと思ったら、次にはこれだ。全く読めない……我の対人経験が浅いだけなのかもしれぬが。
しかし、こうして何かを渡される事は珍しく、ヤタガラス以外と関わっている実感を得られた事が嬉しい。
此のライドウもヤタガラスの一羽で、葛葉だという事は知っている。
知ってはいるが、少し違う。良くも悪くも“ヤタガラスらしくない”のだ。
「ライドウ……感謝、する」
云い終えた後、また後悔をする我。
もう少し柔らかく感謝の言葉を発するべきだったかもしれぬ、と。
そう、例えば「有難う」だろうか?
いや……友人でもあるまい、と嘲弄されて終わりそうだ。
今こうして共に居るのは、偶然出くわしただけ…平行世界の自身であるという繋がりだけ。
やはり無難に、葛葉雷堂として接するべきであろう。



『その管は何だ、雷堂』
晴れ渡る空、ラヂヲ塔の鉄骨の影がくっきりと分断する青を仰いだ。
人掃けはヤタガラスの黒装束が済ませ、まるで貸切の様な屋内。
本当に誰も見ておらぬならば、金属特有の鳴動を愉しみつつ階段を駆け上がりたかった。
高い所は好きだ。帝都が一望出来ると、これだけの土地を護っているという自信が己の中に充ちる気がして。
すべて投げ出したくなった時は、高い所から山の緑とビルヂングの影を眺める。
ただし……屋内に限るが。
突き落されそうな場所は、御免こうむる。
「此の管はな、氷結を吸うデカラビアが封じてあるそうだ」
『はあ、吸収は良いが火はどうする? 昨日までのお前は単体しか召喚出来んと思ったがな、今日は違うのか?』
誰より拝借したのか、を問われない。
きっと、機関が普段通り持たせた管と思っているのだろう。
「今日も同じだ」
『だろうな。俺も過剰な期待はしていない、安心しろ』
「至近距離より魔王に火炎弾を撃ち込む、続けて優勢となりし仲魔と共に追撃する」
『そうしておけ、間違っても遠距離から銃撃するなよ?俺は火達磨になりたくない』
「精進する、すまぬ業斗」
『俺に謝罪されてもしょうのない事……お前の評価に響くだけだ。情けないと思うなら、頭を下げるより鍛錬しろ』
狙撃の腕がからっきしな我に、突き放す様でいて詰る、そんな師の言葉が撃ち込まれる。
慣れてはいけないのだが、予測していたお陰で辛くは無かった。
そうだ、出来る限り前向きに捉えよ。さすれば光明さし、迷いの路は一つに定められよう……
『さて、この様子だと舞台は同じみたいだな』
「我の事を記憶しているだろうか」
『は!ああも無様に敗走すれば印象強いだろうな』
「勝利で刻む、此度こそは雪辱を――」
其処まで発した我の学帽に、ぼとりと鈍い音が響く。
嫌な予感と並行し、既に臭いが立ち込めていた。MAGと青臭さの雑じる混沌とした、饐えた臭い。
脱いだ帽子の天面を見て、一瞬呼吸を止めた。
もったりと微かに泡立つ白濁が、堂々と黒を汚している。
『……で、雪辱が何だと?』
「せ、雪辱を果たす! 我は…我は恥を雪ぐのだ業斗っ」
雪の白と違い、幾分濁ってはいるが。
ひとつ振り払い、滴りそうな白を学帽から粗方落とした。
どうせ戦いの際に汚れてしまうのだ、完全に落とすのは帰還してからが都合良い。
管を確認してから、改めて階段を駆け上がる。
錆色の鉄骨の隙間から、どろりと白い溶岩が垂れ落ちていた。
二段飛ばしで上がるにつれ強まる、そのあからさまな気配に背筋がぞわぞわする。
『久しいのぅサマナァ〜!』
展望階に辿り着けば、案の定。いきり勃つ緑色の……雄が。
唐突に発射されても躱せる様に、外套の中で管を探った。
「魔王マーラよ、何故に再び人里を荒らすのだ」
『靴底をも〜う一度味わいたくてのう、インターバルを経て再勃起ぢゃ』
「靴…底?」
不可解な答えに、ふと足下を見た。
自らの足を包むのは、至って普通の革靴。学生や、商社勤めの男性が履くそれだ。
と、此処で合点がいった。同じ革靴でも、やや違った物を履く…そんな十四代目を知っている。
其れは艶めいており、先端がやや尖った…持ち主の性格を投影した様な革靴だ。
平行世界の我だというに、僅かばかり目線がずれると思いきや…向こうは踵に高さが有った。
あの時、彼は打ち倒した魔王の頭を踏み躙って、更に虐めていた……
「恐らく勘違いしているぞ魔王よ、我は此の世界の葛葉雷堂なり」
『ほげぇ?ぢゃああのライドウは何処の世界に居るのだ?』
「アカラナを抜けた先…其れ以上は口で説明する事能わず」
『ほ、ではお主、ワシのビンビンの突きに即・昇天したひよっこの方か!』
もう…もう挑発に心を乱しはせぬ。
どの様に卑猥な外見でも、猥雑な言葉を吐きかけられようとも、流すのだ…雷堂よ。
『おい雷堂、さっさと片付けろ。青臭くて敵わん』
業斗の叱咤に、決意を新たにする。
「承知した」
外套の内、彷徨う事無くひとつの管を選び出す指先。
とっておきの預かりものを、此処で使ってみたかったのだ。
いちサマナーとして、同じ葛葉として、ライドウの仲魔には興味が有った。
そして、他者の悪魔を扱ってみたいという、普段は吐露する事も無い願望がそうさせた。
しっかりと命令を聞くのだろうか、我のMAGは口に合うだろうか、どれ程鍛えられているのだろうか――……
「召喚、デカラビア!」
間合いを詰められぬ内にと、己の傍らに管を向けた。
星型の悪魔が回転でもしながら我を見て、普段の主人との違和感に首でも傾げるかと思っていた……が。
「……デカ…ラビア?」
首を傾いだのは我であり、召喚した悪魔と眼を合わせようとも合わさらぬ。
何せ随分と図体が大きい。四方を見渡せるであろうぱっちりした巨眼は、影も形も見当たらぬ。
『おい雷堂!本当に此れを渡されたのか !?』
「い、いや、ライドウからはデカラビアとしか」
『“ライドウ”?其れはアレか、平行世界の不良の事か!』
業斗の問い質しに否定する事も出来ず、一歩後ずさった。
明らかに違う、此れは……デカラビアでは非ず。
象の様に分厚そうな皮膚、それも何処かだらしのない皺の寄り方をして青黒く。
ぱっくりと開く割れ目からベロ?が伸び、我の眼前で遊ぶかの如くうねった。
『いつものサマナーと違うのか?んん?』
巨体の上に顔は有ったが、目の前の縦に開いた口の方が気になって仕方が無い。
形容し難い…しかし醜悪にも感じる造形。
なかなか言葉にならぬが、何かを無意識に連想しているのか……己が背はぞわりと反った。
見知らぬ悪魔だった。
『まあ良い、MAGさえ寄越せば何だってしてやるわ。で、何をヤればい〜い?』
「……はっ、そ、そうだ」
管を仕舞いつつ、抜いた銃の口をマーラに向ける。既に中には火炎弾が装填済みだ。
「其処の魔王マーラに戦いを挑んでくれ、ひとまずは足止め出来れば良い」
『っホホ!どうも武者震いがすると思えば、まさか此処まで至近距離だったな・ん・て・なぁ…ホホ』
弾む巨体は歓喜にパクパクと口を開き、我は寒気に唇をぎゅっと引き結んだ。
『お、おおぉ!此処で巡り逢うとは……精が出るぞぃ!もう出てるがの』
対するマーラも、妙に反り上がって興奮している。
向かい合った両者の気配が、警戒とは違う色をしていた。
此れは…もしや会話を始めるだろうか?
因縁や血縁関係の場合、彼等はお喋りに興じる事が有る。
其処から好転するのか、悪影響を及ぼすかは…我の知る処では無いが。
『しっかり見ていろ雷堂!気を抜けばMAGが不足する事態に陥るぞ』
「業斗……」
『アレはアリオク、銀氷属の悪魔だ。マーラが外法の属において魔王と称されるならば、ヤツも同格』
確かに、先刻からやや息苦しい。この湿った空間の所為ではない、身体の芯からどっと搾られる様な倦怠感……
身の丈に合っていないという事だろうか?契約者を違えるとそうなるのだろうか?
いずれにせよ、このままMAGを消耗されては堪らない。
『チッ、この際だ、存分に使ってやれ。ただし短期決戦でな、お前が先に草臥れては元も子もない』
「……此方に渡す管を間違えただけでは?それに銀氷属なれば、氷結で参る事も無いだろう」
『他のサマナーの悪魔、しかもあの男のだぞ?お前はライドウにはめられたのだ、このたわけ!』
黒猫の圧に縮こまりつつ、銃の撃鉄を弄った。
事実確認は後日行えば良い、兎にも角にも、我は今回こそ勝たねばならないのだ。
『突撃じゃホレホレ!おっ広げて待っておけぃ!』
魔王たちへと、少し間合いを詰め……
『あのサマナーではなく、ハメられるのは我の方とな!?そうは問屋が卸さないぞぉおホホぉッ!』
しっかと肩を、肘を固定し……
『下ろされておるぅっ!歯がぁあ痛い痛いぃ!しかし中折れだけは御免じゃぞおぉっ!』
狙いを定めて……
『ぉほおおっ激しい突きがぁ!止めねば食い千切るぞマーラぁあ!』
……視線を外し…
『いいやまだまだ中で第二ラウンドじゃあ!』
間合いを開き……
『中で漏れてるふぅうッ!!たたり生唾があぁっホホぉ!』
肩肘を脱力させた。
『何を離れている雷堂!さっさと狙え!』
「無理だ業斗、無理…」
どう見ても、男女の結合部だ。いや、実際に拝んだ事は無いのだが……
『悪魔と悪魔だ!お前はボルトとナットに興奮するのか!?しないだろう!奴等は悪魔でしか無い!』
「こ、腰が……腰が砕けそうに寒い、こう、ヒュンとするのだ業斗」
もう無茶苦茶だ、目の前の阿鼻叫喚と生臭さに、更に後ずさる。
アリオクは手にした剣を使いもせずに、マーラと相撲を始めたのだ。
一方マーラも、まるで最初から段取りが決まっていたかの様な突進をかましてきた。
アリオクの肉襞を無理矢理貫く、しかしその口に並ぶ鋭利な歯がブチブチと肉棒に傷を作り…マーラを悶えさせる。
ごぶぶっ、と肉と肉が擦れながら密着する、地響きに近い音。
ラヂヲ塔の構造がさせるのか、パァンパァンと打ち合う音がこだまして、我の鼓膜を幾度も責めてくる。
身震いを抑えつつ帽子を掴み、深々と被り込んだ。少しでも、視界を狭めたかった。
「マーラが痛すぎる、あれでは死んでしまう……不能になってしまうぞ…あの様な…歯がガリガリと…ぉお」
『どちらの味方だお前は!』
もう傍の鉄骨から飛び込み、硝子を突き破ってコウリュウに飛び乗り去りたい。
足場の安定しない高処は不得手だったが、今階段を駆け下りると、慌てて白濁を踏みつけ滑落しそうだった。
『埒が明かん、管に戻せ』
「あ、ああ分かった……代わりの仲魔に援護させようぞ」
空いた片手で胸元を探り、先刻掲げた管を再び掴む。
喚び戻す際は、見えぬ手綱を引く様に集中しなくてはならない。
じくじく吸われ続けるMAGの糸を見付け、其れを意識しながら叫ぶ。
「戻れアリオクよ!」
『生殺しとは酷いわぁっ!マーラがまだまだヤる気なのをっ、今受け入れずに何とするのだ小童ぁっ』
「……えっ、いやそのだな」
『咥え込んでおいてやろうというのに察しの悪い!ホホォ〜同じ十四代目の癖に、さては貴様童貞だな!?』
「どう……」
初めて仲魔に帰還命令を拒否され、更に追い打ちの愚弄。
唖然としてしまい、銃と管を掴んだまま我は返事も出来なかった。
『よそ見しとる場合かアリオク!ホレっココが、ここがええのんかぁ〜ッ!?』
『ホ、ホォオ…ま、まだイくワケにはァ〜!』
頼むから早く逝ってくれ、と内心願う。
我の力量が足りぬのだろうか、せめて単体ならば平常心を保てたものを……
再度目測をつければ、ぬぢゅっぬぢゅっと割れ目から白濁が溢れ跳ね返っている。
マーラの声がくぐもっている、先刻から頭を突っ込んでいる時間の方が長い。
そうか、確かにアリオクは足止めをしてくれている。水溜りになっているのは、たたり生唾だろう。
この機に乗じて…本当は見捨てたいが、銃口を向けた。
『下手に幹を狙うな、面積の広い根本を狙え……あの触手の蠢く車の上だ』
「……承知している」
というのは、実は真っ赤な嘘である。
返事をせぬ方が業斗は怪しむ。出来る限り狙っているかの様な返答を、咄嗟にした我。
あの状態なれば、どちらに被弾しようが同じだろうと思う事にした。
マーラに当たろうが、アリオクも火傷くらいはするだろう。
つまり、アリオクに当たろうがマーラも燃える。
(大丈夫…アリオクはすぐに回復させよう)
こういう時、狙撃の腕が素人並で助かったと思ってしまう。
アリオクに弾がめり込もうが、腕前の所為に出来る……
『おい、アリオクが痙攣し始めたぞ。マーラを放されては面倒だ、早く燃してやれ雷堂』
「ああ……少し、黙っていてくれ業斗よ」
口を挟まないでくれ……我は今、相当集中して現実逃避しているのだから。
そうなのだ、後は此の光景を脳内で挿げ替えるのみ。
男根と女陰に非ず……向こうに在るは、平家の舟ぞ……
瞼を下ろし、祈願を唱える。
「“南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神……願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ”」
此処で与一は眼を見開き、扇を睨んだのだろう。
しかし我は開かず、引き金をガチリと引いたのだった。



「話が違うぞ、貴殿」
アカラナ回廊にて開口一番、挨拶も無しに問い質してしまった。
いやしかし、黙っていられようか。当のライドウは、平然としている。
「良かったではないか、あのアリオクは利口だったろう?」
燃えるマーラをずりゅずりゅと僅か抜いたアリオクが、飾り物と化していた剣を揮い活路が開けた。
そう……結果的には勝利したのだ。
しかも、眼を瞑ったにも関わらず火炎弾は命中した。これならば、いっそ普段からそうするべきかもしれぬ。
たたり生唾を出し尽くしたマーラは、その姿以外に脅威も無く。
外套の襟に口元を埋めつつ、我がとどめを刺した。
臭気だけは呪いの様に、塔内にこびりついてなかなか離れなかった。
「して、話とは何だい」
「管の中だ、デカラビアでは無かったではないか!」
「だが、マーラとは良い勝負を繰り広げたろう?凹凸なのだから噛み合ぬ筈が無い」
「あの様な……煩悩塗れの合戦を我に見せつける為に、嘘を申したのか?」
この男は正直者だと思っていたのに、裏切られた心地だ。
「それで、マーラはどうしたのだい」
「封魔した、これ以上のさばられては困るのでな」
「しっかり火炎弾は当てる事が出来たのかい?雷堂」
「……問題は無かった」
「へえ、ではまた見せて貰おうかな、魔王マーラを。君の与えた傷が残っているやもしれぬ、男根に弾痕が……フフ」
己が感情的になりはしないだろうかと思い、業斗は階層入口にて待たせてある。
我が騒ぎ出すと、あの方はぴしゃりと圧を投げ叱咤してくるから。
それは恐らく、厳しさと優しさなのだろう…それと、十四代目への戒め。
だが今だけは、この男の隣で好きに探らせて欲しかった。
「我の力量では、アリオクに振り回されるだけと先見し……寄越したのか、管を」
「元々アレは好き勝手動く奴さ、僕もそうさせているしね」
「必勝祈願でも何でも無かったという事か?召喚し、あまりの悪魔に慌てた…と、そういう土産話が欲しかったのか?」
「ようやく吠える気になった?だが、僕は嘘なんて吐いておらぬよ」
「勘違いをしているのか?貴殿に返した管を確認してみよ、中はアリオクで間違い無い」
ぼんやりと暗闇に仄光る巨大な砂時計、傍を通るライドウが歪曲して映り込む。
その映り込んだ横顔に、一閃し傷を付けてみたくなる一瞬。
無論、妄想でしかない。ヤタガラスから、砂時計に触れてはならぬと云いつけられている。
しかも浅ましいではないか、当人に傷が付けられぬからと、鏡か写真にでも当たるかの如く……我は。
「でかいラビアだったろう?」
「……は?」
「ラテン語が解かると云ったではないか君“氷結吸収のでかいlabia”って、何処が間違っている?」
ラビア……参考文献を脳内で遡る……異国の言葉を覚えるには、まずは図鑑から。
人間の身体の、天辺から爪先まで記された図の中、さらりと流した部位が浮かぶ。

 [labium]女体の陰唇
 左右対称の複数で[labia(ラビア)]

まさか。
いやいやまさか、その様なとんちの為に?まさか。
ライドウは笑いを堪えてか、外套をくつくつと揺らしている。
悪魔の急襲なら対処出来るというに、我はこういう時にどうして良いか判らぬ。
笑うべきなのか?憤慨すべきなのか?
脳裏に過ぎ行くは、我を見る眼達。
“ジョークも分からないなんて、憐れな奴だよお前は”……と、失笑する鳴海所長。
“虚仮にされたのだぞ!突っ立ってないで威厳を見せろ!”……と、叱咤する業斗。
ライドウは、どうなのだ?どちら側に近い?そもそも何を期待して此れを仕掛けた!?
ニタリと見つめてくる眼に、心臓を射貫かれそうな心地だ。
嗚呼、此処で女性ならば「見つめられ胸の高鳴りに負けた」と云いつつ失神の真似事が出来たものを。
雰囲気は差異あれど、同じ顔なのだ。向かい合って今更、感情的な言い訳は出来ぬ。
「もしかして、僕のおふざけが判らぬ?」
「いや、みなまで云うな、アリオクを寄越した意味も理解した」
「で、君はどうだったの?疑念は止んだ?呆れも笑いも怒りもせぬとは、是如何に?」
「それは……」
「葛葉に相応しい回答が欲しいのでは無い。君はどうだったのだいって、僕は先刻から訊いている」
それが分からないのだ、己でも。
立ち位置に相応しい、最善の答えをいつも探している。
相手によって、場によって、望まれるであろう動きをいつも導き出しては、玉砕している。
(ライドウは、我がどの様に答えれば納得する?満足する?)
いや、それはたった今聴いたではないか。
この男は我の感想を聞きたがっている、我の嗜好を問うている。
「まさか、この問いの意も解しておらぬと……そういう事かい?」
無言にて立ち尽くす我へと向く眼が、何とも云い色を湛えた。
所長が揺らす、憐みや嘲りの色と。
業斗の見せる、厳かな怒りの色と。
いつまでも母と呼べない我を見下ろす、養父母の戸惑いの色。
これ等すべてが入り混じったかの様な、そんな色……
嗚呼……葛葉ライドウの心が、見えぬ。
我の事を、葛葉の十四代目として捉えぬ眼が、恐ろしい。
「我は、我は――葛葉雷堂だ。個人的な返事は持ち合わせぬ」
そう、我は葛葉雷堂でしかない。此の路を選んだのだ、今更“個”を出してどうするというのだ。
嘆かれるだろう、哀しいだけだろう、後悔が先に見えるではないか。
「産まれた時から雷堂な筈も無い、田畑に育つものは土壌の色が出る。葛葉というものは実を覆い隠し茂る、それこそ葉に過ぎぬ」
「貴殿は何が狙いだ?十四代目でもなくば、我なぞ取るに足らぬ人間……知ったところで、得も無し」
「僕はねえ…其方のヤタガラスの教育方針が気になるだけさ。どちらの畑の方が腐ってるのかと思ってねえ…フフ」
何か目論んでいるのだろうか。
殺した筈の個を、墓石より引き摺り出されるが如し息苦しさ。
足を停めさせようとしている?好敵手だから?平行世界の影だから?気に喰わぬから?
判らぬ、解らぬ……ライドウの真意も、本当の己の感情も!



気付けば、四肢を雁字搦めに蔦が絡み取っていた。
既視感にまばたきを数回、夢か現かを鮮明にさせる。
ライドウに突き落とされたのだったか?いや、確か先刻まで言葉を交わし……
(嗚呼…そうだ、我は踵を返して逃げたのだった)
恐ろしい問いを投げてくる、その癖に瓜二つの彼が恐ろしく。
疾風属の準備もせずに足場から飛び立った、鳥でも無いというに。
「こないだの落下がお気に召したのかい?しかし、命綱の用意くらいは己でし給えよ」
頭上からライドウの声がすると、するすると視界が流れる。
引き上げられた先はアルラウネの豊かな胸で、我は再び呼吸困難の洗礼を喰らう。
此の肢体の股座…狭間にも、ぱくぱくと息衝く口があるのかと、一瞬想像してしまった。
しかも、細かい牙の様な歯の様なそれが、びっしりと並んだ割れ目で。
「しかし参ったね、現実逃避が回答で宜しいかな?葛葉雷堂」
哂いながらに唱えたライドウは、アルラウネを召し寄せる。
『放っておけば良かったじゃない、ああいうのって演技よ?多分心のビョーキ、きっと心配して欲しいのよお』
「平行世界の分身が死ぬのは、些かね。縁起を担いだのは僕さ」
『本当、駄洒落好きねえ。綺麗なお顔で何云ってるのかしら、んもぅライドウったら』
最早何が云い返せようか、しかも今回は救助して貰ったのだ。
恐らく互いに咄嗟の判断ではあったが、こうも質が違うと泣きそうになる。
「好きも嫌いも無いとは、確かにヤタガラスの傀儡には最適だろう」
また、何事も無かったかの様に歩み出すライドウ。
アカラナの硬質な床は、靴音が何処にも跳ね返らず闇に消えゆく。
「大切と思う人達は、居る…! 業斗にも感謝している。我は帝都を護りたい、此の魂に役割を呉れた機関に尽くしたい」
隣を追い、それだけは伝えた。
傷の無い横顔は此方を向く事も無く、一瞬だけ視線を寄越した。
「染められ易い奴、確かに葛葉という依り代で居た方が生き易いかもね」
「……所詮親の顔も知らぬ、真の己など…知る由も無い」
「親は無くとも育つものだ、そのまま死ぬまで帝都守護という自慰でもしてい給え」
ライドウの冷たい声音…だが、何処となくそれは苛立ちを含んでいる様にも感じた。
彼にとっては、帝都守護が自慰だと云うのだろうか。
「偽善でも……それでも構わぬ。此れが葛葉の天命と思えば、行き過ぎた歓びも苦しさも耐え凌げる」
「フン、マーラとアリオクの殷賑でも肴にして、千擦りするが良いよ」
嗚呼、この男は正直者だ。
理解出来ぬ事は多い、しかし強かに感じる。
歯に衣着せぬ、その物言いが。それでも詠うかの如し、その言葉の遊びが……我には無いものだから。
好きも嫌いも好奇心も、葛葉に具われば足枷となる。その様な個を、未だ抱き続けているから。
だからこそ、恐ろしくもあり眩しくもあり……友人には、なれそうもない。
それとも、我にも焦がれるものが出来たなら、この男と対等に立てるのだろうか?
用意された家や舞台に帰りたいのではなく、新たに……己が焦がれる存在が。

「あの様な肴は勘弁してくれ、あれは好きになれぬ」
「おや、流石に白黒つけたね、勃起しなかったから判断出来た? しかしねえ…人間の女体も局部はグロテスク、ほぼアリオクの様なものさ」
「……それはまことか?」
「指導用の図解でしか見ておらぬだろう?良かったねえ、童貞にありがちな幻想は破壊されておいた方が幸せだよ?フフ……」
「は……歯が、生えているのか? 大陰唇の内側に!?」

そこで一拍置かれ、ライドウが高らかに大笑いを始めたので、我はまた明後日を眺めて溜息する他無くなった。
だが暫くは女性悪魔を見ても、下の歯を妄想してしまいそうで……
此方の方でも、まだまだ対等に勃てそうには無かった。


大殷賑・了
* あとがき*

タイトルは大陰唇とかけてます(出オチ)
デカラビアネタと、マーラ凸とアリオク凹の為に書きました。 それと、ライドウと雷堂が邂逅から間もない頃を書いてみたかった。
ライドウは、雷堂の傀儡っぷりを哂ってやりたい様な、ある種恨めしい様な。
雷堂は、ライドウの自己主張ある生き方を羨む様な、更に傷付きそうで畏れる様な。

一応《徒花》以前のイメージですが、特に気にせず書きました。
人修羅が絡まなければ両者、いつかは偶に会う戦友くらいにはなれたかも。

結局雷堂は(徒花での話ですが)歯の無い口淫をして貰えて良かったね。
大好きな対象が出来て、良かったね。
……良かったのだろうか。