海が見たいな≠ニ、まるで恋人に強請る人間の様に述べた。
 ライドウはぼくの要望であれば、大体哂ってきいてくれるが。この時一瞬、謎の間が空いた。
「構わないが、君に景勝地を廻る感性が有るとは思わなかったね」
「先日貸してくれた本に、海の情景が……」
「中央公論の読物? あれに描かれた海は遠いよ、鵠沼の辺りと推測されるが……まさか其処に連れて往けと云うのかい?」
「そこでなくとも」

 そうしてすっかり、今は彼の車の中。
 車といっても、これは機械とも違う。物体に霊魂の宿った、日本國らしい悪魔だ。
 僕が乗りこむ際、勝手に扉が閉まろうとするものだから、ライドウが少し憤慨していた。車に向かって「乗客を選ぶな」だの「僕の知人だ、何を恐れている」だの宥めており、その光景を道行く人々が、肩を揺らし窺っていた。しかし実際の自動車というモノも存外アテにならない様で、故障する無機物に語り掛ける人間は多いのだと、これは後程知った
「君の愛車は御機嫌斜めかね」
「人見知りなだけだろう」
「車に人見知りねえ……有るのかい、そういう事」
「さあ? まだまだ整備が必要という事かもね」
「何処で入手したの、此の車は」
「……人から譲り受けた」
 意外な返事だ、他人の悪魔を引き受けるなど、君の性格上似合わない。
 続きを訊いてみたかったが、ぼくのすぐ傍で窓がゆっくりと開き始め、空気が言葉を遮った。
 確かに少し薫る、これが海のにおいなのだろうか。近い所にこれまで訪れた事は有った筈なのに、全く意識に留まらなかったらしい。何処の抽斗にも入っていない、この湿気が滑りを悪くしたのか。
「これが海」
「あの本に載っていた情景とは、趣が違うと思うけどね」
「ライドウは海によく訪れるのかい」
「こういった海岸には来ないね、水路遊びに亀に乗る程度さ」
 やがて停車し、ライドウが席の固定帯を緩める。帯は呼吸の様に、トクトクとライドウからMAGを吸い上げている。成程、ああして燃料を注いでいるらしい、長距離運転は危険という訳だ。
 勝手に触ってはいけないかと思いじっとしていると、先に降りたライドウが外から扉を開けてくれた。何やら城で他者にされる世話の様に恭しく感じ、それが可笑しくて喉が鳴る。
「何か」
「いいや、エスコート有難う」
「助手席に他人を乗せたのは初めてさ」
「それは光栄だ、あの黒猫君は?」
「僕の運転が怖いのだと、助手席どころか後部座席に丸まっている事が殆どだね」
 曇り空も相俟って、水平線の碧が増して見える。波音と風音が競り合い、耳を撫でてゆく。黒々とそびえる松の木達が、針の葉を厳かに揺らしていた。
「誰も泳いでいない」
「当然さ、今を何月だと思って居るのだい。こんな日に海水浴なぞ、真冬に乾布摩擦を悦んで行う類の案山子しか居らぬよ」
「ひょっとしてそれは、脳が無いという意味?」
「おや、ルイにしては察しが良い」
「辛辣だな」
 当然、責めるつもりはひとつも無い。まるで相槌が如く返すぼくに、ライドウはただ口角を上げるのみ。
 車から少しばかり歩き、白茶けた石垣に腰掛け、二人して海を見つめていた。
「ああ、それと他にも居たね」
「何が?」
「冷たい海に入りたがる人間……入水自殺したい奴」
 それだけ云うとライドウは、懐からするりと一本取り出した。管ではなく、煙草だ。続けて新世界のマッチを取り出すが、潮風になぶられ火は掻き消されるばかり。二三回、着火を試みていたが諦めたのか、頭を摩耗したマッチはぽきりと折られ、箱に仕舞われた。その小さな棺桶をホルスター裏に収めた辺りで、声をかける。
「まるで知っているかの様な口ぶりだ」
「時折打ち揚げられる死体の幾つかは、そういう事情だろう。波間を漂う怪異とて、死に切れなかった元人間の可能性が有る」
「この広い海原を調査せよと命じられたら、君はそうするの」
「御免だね、船の行き交う表面だけならまだしも、水面下に人間が容易く介入すべきではない。水上だろうと海堡まわりは寄りたくないな、万一の際にはまとめて沈められそうだ」
「帝都守護を担うデビルサマナーを、国の軍人が撃つと?」
「連中にとって、其れくらい訳無いさ」
 素の煙草を咥えたまま、くつくつと哂うライドウ。膝から下をぶらぶら宙に遊ばせ、時折靴底を石垣にぱたぱたと打ち付けて居た。手持ち無沙汰の様に見えて、刀の位置は具合好く添えてあるし、背後は車(仲魔)に任せてある。しかし張り詰めた気を纏うでもなく、其の臨戦態勢が彼にとっての自然体なのだと見て取れた。
「満足して頂けたかい」
 ライドウが一言発した頃には、太陽が海に溶け落ちていた。入れ替わりには一足早く、月が姿を覗かせている。
「うん、有難う」
「どうせこの後、用事など無いだろう。少し付き合ってくれ給え」
 此方が了承もしていないのに、ライドウはさっさと助手席の扉を開け、乗れと顎で示した。
 ご指摘通り、ぼくに用事などは無かったが、彼の強制気味な態度が気になる。
「ライドウ、空腹なの?」
「……ああ、そういえば何も食べて来なかったな、君が空いたのなら何処かで調達するが」
「ぼくは空いてない」
「用事が終わり次第、考えれば良い」
 この悪魔は自走しているのかしていないのか、ライドウの握るハンドルがどこまで制御しているのか、傍から見れば判断しづらい。肝心の運転手は片手操作で、懐から再びマッチ箱を取り出している。
「点けてよ」
 云いながら、ぽいと此方の膝上に箱を投げ寄越した。その咥えたままの煙草に点火しろ、という事だろう。
 先程の折れたマッチは除外して、一本取り出す。箱をスライドさせて閉め、側面のザラついた部分で擦り上げる。一瞬何かが薫ったが、火花らしきものが散るばかり。風も無いのに、一向に点きやしないのだ。
「…………クックッ……この下手糞」
 失笑しつつライドウが手を伸ばして、ぼくの手元からマッチ箱をさらっていった。
「こんなに難しいとは思わなかった」
「不器用」
 散々云われては此方としても廃るものが有る、別に火が点けられない℃魔ヘ無いのだから。
「分かった、では其方を貸して」
 ライドウから煙草を奪い、同じ様に咥えた。彼のMAGが舌から滲んで、それを味わいながらふっと息を吹き込む。瞬く間に先端が焼け、紫煙を垂らし始めた。
「今、何を使った」
「手品だよ。はい、どうぞ」
「種明かしも無しかい」
 不満気に呟く口元に煙草を差し出せば、素直に開く唇。
 窓を開け、白くたなびく帯を逃がし、薄く哂ったライドウが一言「湿気て不味い」と述べた。

 辿り着いたのは、これもまた海の見える場所。先程とは違い海面までの距離が有り、やや切り立った崖の様な地形をしている。雑木林の近くに停められ、再び扉はライドウに開閉して貰った。
 先導されるままに往けば、林の中にひっそりと家屋が在った。我が物顔で侵入するライドウの後に続く。老朽化は見られるが、造りはなかなか頑丈そうな木造建築だ。外観からして相当小さいが、上がってみれば存外狭くもない。物が殆ど無いからだ、人間の生活に必要であろう物資が。
「どちら様の家」
「今は誰も住んでおらぬよ、此処で一晩明かす。君は好きにしてくれ給え、管理はされているので畳も綺麗なものさ」
「好きにと云っても、暇を潰してくれる道具のひとつも無いだろう」
「虫の声でも子守歌に、お先に休憩なさいませ」
「ライドウ」
 外套も脱がない彼は案の定、再び靴を履き外出する様子。装備はそのままだ、何に遭っても良い為か、それとも逢いに向かう為か。
「淋しいかい? ご安心を、車は置いていってあげる」
「ぼく単身で乗せてくれるのかね、あの仔は」
「誰が勝手に乗り回して良いと云った。車を置いていくのは、僕が此処に戻る証、そう……担保とでも思ってくれ給え」
 ぼくはハンチング帽を脱ぎ、畳に仰向けて寝転がり、喉を反らす。逆さに見えるライドウは、何処か覇気が無い。そういえば、海に来る前からそうだった気もする。
「置き去りにされるなんて思う訳無い、君の事は信用している」
「ならば結構、大人しく留守番を頼むよ」
「ああライドウ、ちょっと待ちなさい」
 仰向けのまま手招きすれば、半ば渋々ライドウが引き返す。靴は脱がず、玄関土間から畳までめいっぱい乗り上げ「何?」とぼくを見下ろしてきた。
「忘れもの」
 腕を伸ばし、外套の襟をかすめて彼の項に触れる。くっと引き寄せれば察したのか、既に唇は薄く開き、此方の舌をすんなり受け入れた。
 逆さで勝手が違う為、時折互いの歯がかちりかちりと鳴り合い、それがまるで初心同士の様で、妙に可笑しい。こんな事の何が可笑しいのか、不思議と笑えてしまう自分が可笑しい。此れが人間の感度なのだとすれば、短い寿命の理由も分かる。
 ぼくの髪に指を絡ませ、畳を軽く掻いていたライドウ。唇を先に離したのは、彼の方だった。
「で、この忘れ物はどれだけ受け取れば良いの?」
「君の気が済むまで」
「残りは褥で受け取るよ」
 軽い報復か、髪をひと掴み分、ぐいと強く引っ張られた。
 上体を起こせば、既にライドウの姿は無い。
 
(人の名残が在る……)
 畳を撫でる、柱を数える、隙間風に耳を澄ます。天井の染みを辿れば、かつて此処に暮らした人間がよくよく睨んだ場所が浮かぶ。
 場所から推測すれば、此処ら一帯はヤタガラスの息が直接≠ゥかる範囲。
 里帰りだろうか、ならばぼくを連れて来るとは思えないが。徒歩ともなれば、そこそこの時間が必要だろう、人間の脚では。
 開かれた窓から月光が入り込み、畳にくっきりと明暗を作っている。あまりにじっくり眺めては、一瞬で夜が明けてしまいそうだ。気を抜けば、何もかも早回しになる、人間の姿で、人間の速度に合わせなければ。そういう呼吸を、心音を作らねば。フリをするというのは、そういう事だ。
「誰かね」
 ライドウとは別の気配がして、簡潔に訊ねた。ご丁寧に、しっかりと玄関口に留まりつつ、其れは返事をした。
「誰じゃあないにあんた、勝手に人ん家でくつろいで……」
 人型をしているが、たった今まで泳いでいたのかと思わせるほど、ずぶ濡れだ。ぽたぽたと落ちる雫が、土間を色濃くしていく。ぐっしょりと纏う黒装束は、いかにも超國家機関の関係者という風情。
「無人と聞いていたので、これは失敬」
「ああそうそう、外のあいつ。あれどうした、あんたが連れてきた?」
「車の事なら、現在のオーナーはライドウだが」
「ライドウ!?」
 悲鳴の様に唱えると、黒装束は自らの身を抱き締める様にして、震え始めた。
「来てるのか、あぁ、ライドウ来てるのか……」
「行き違いではないのかね、彼は先程出て行ったよ」
「よし、追うであんたも支度し」
 何故そうなるのか解からないが、とりあえずハンチング帽を被り直す。ぼくもライドウに負けず劣らず好奇心が強いので、仕方あるまい。
 外に出れば、黒装束は車の扉をすんなりと開け、堂々と運転席に乗り込んでいた。此方も続こうと助手席の取手を引いたが、やはり抵抗された。
「オボログルマ!」
 黒装束が内部で一声上げた途端、扉がふっと軽くなる。ぼくはようやく堂々と乗り込み、シートに腰を下ろした。
「貴方の云う事も聞く様だ」
「そもそもコイツは俺のモンだに」
「ほう、ライドウは譲り受けたと云っていたが」
「ああそうそう、くれてやったさ」
 事情説明も無しに発進した。固定帯はやはり運転手を締め上げているが、彼の幽鬼の様な素体に果たしてどれだけMAGが供わっているものか……
 すぐさま燃料不足に陥ると思っていたが、しかし意外にスムーズだ。舗装路では無いため結構揺れるが、その程度の問題。
「ライドウに何の用事が」
「や……自分でもよく分からんな……あぁ、久々に乗ったやぁコレ、ちょっと直されてるの感動したもん、元は馬鹿ボロくってさ」
 どこか夢うつつに喋る黒装束、己の状態が理解出来ていないのか。MAGは滲み出ている、つまり死人というよりは悪魔に近い状態か。
「昔、ライドウを乗せて走った?」
「おっ、察しが良いなぁあんた、鈍そうなのに」
「よく云われる」
「ふぅーん……まあ堅気じゃないのは判るに、安心し」
 声音はほぼ肉声、人間男性に聞こえる。黒い頭巾を被っており、顔は翳って判らない、もしかしたら、もう無いのかもしれない。ハンドルを握る指も、本数が欠けている。肉がやや削げていたり、骨が見えていたり。しとどに濡れた黒装束が、人としての形を維持している様に思えた。
「ライドウとは仲が良かった?」
「はぁ? 仲良しぃ? んっふふ、ふふっ、ふはっ」
「それは否定?」
「説明が面倒、云いたくないんじゃあなくてな……あんたもサマナーで外法属連れてりゃね、俺の頭見てくれって云って、そいで済むんだに?」
 お許しが出たので、ぼくは黒装束の脳と躰を喰らうイメージを浮かべた。当人の発言通り内部≠ヘ分かり易く間仕切りしてある。様々な色形、織柄の幕も、解れや絡まりは無い。あっさりと他者を介入させる風通しの良さは、先程の家屋を彷彿とさせた。



 あの頃はちょうど葛葉候補から漏れて、腐ってた時期だなあ。
 それでもまあまあ能力を認められていた俺は、里直属のサマナーとしてのんびりやってた。一人住まいには十分な家も貰って(元々はあの辺にも集落が在って、その残骸らしい)たった独りで悠々自適。
 その辺を見張っていろ≠ニいうお役目を頂戴しており、つまりは厄介払い。そりゃあ確かに、俺は口を出し過ぎるきらいが有って、その自覚も有った。カラスの古老どもはコッチを「煩い青二才」としか思ってなかったんだろうな。けったくそ悪い爺は、俺の事を《谷》でなく《ダニ》とか呼んでて、ありゃ絶対この語尾を茶化してたんだろうな。そもそも谷(ハザマ)であって谷(タニ)じゃないし。

 そうそう、最初に紺野と逢ったのは見張り≠フ真っ最中。前以って「脱走した候補生が居るから捜せ」などと里から云われており、それから二三日経過してたもんで「こりゃあ悪魔に喰われたかな」と思ったんだよね。よく有る話だ、ここいらの悪魔は里の事も、デビルサマナーの卵を育てている事も当然知っている。気の良い奴はむしろ保護してくれるんだが、悪戯な奴はちょっかいかけるだけで、性質の悪い奴はここぞとばかりに食い散らかす。まぁ悪いも何も、悪魔なんだから非常識もへったくれも無い。
 誰も何も見当たらないし、その日も帰路についた。帝都で拾ったオボログルマはおんぼろで、舗装されてない野原を無理矢理走らせるもんだから、タイヤの摩耗も激しい。MAGで誤魔化し使っちゃいるが、燃料以上に要求されるとはぐらかしていた。
「どうせ車体レストアしても、この辺走っちゃ御終いだに。余所へ移ったら考えとくで」
 ぶいぶいと不満気なオボログルマを宥めて、管に仕舞った。ぼうぼうに生えた雑草を掻き分けて、家の戸を開け……ようとして、ちょっと引っ掛かったんだよな。まだ修練の日々から間も無いから、俺の勘も冴えてたんだと思う。
 一呼吸置いて、さっきとは別の管をちょいちょい撫でつつ、一気に戸を滑らせた。途端、開いた隙間からひゅうっと何かが飛び出て来た。其れはぐるりと俺の足首に巻き付く、縄だ。その先を見る、何者かが先端をたくし上げ、まさに今引かんとしていた。
「はっは! 綱引きかい!」
 アッチに引かれちゃ俺の姿勢を崩される、先に引っ張ってやれ。
 幸いな事に縄は張り合いもせず、力負けした相手が畳をずられ、框の段差に頭をぶつけながら土間に転がり落ちて来た。まだ子供の体格だ、何となく察した。
「里から逃げたんは、お前だろ」
 後ろに待機させていたヨモツイクサが、俺の前に出る。槍を反転させ真下におろし、縄をさくっと断ち斬った。
「召喚損だわ、御苦労さん」
 ヨモツイクサの肩を叩き、管に戻した。転がったままの子供の衿を掴み、面を拝んでやる。肌は薄汚れ、唇を切ったのか血が滲んでいた。髪も伸ばし放題といったところで、まともに目元が見えやしない。
「おい……おい、起きてる?」
 その長い前髪を指で払った時、一瞬心臓が竦んだ。起きてるどころか、俺の眼を真っ直ぐ睨んでたんだよ。それも凄く冷たい眼、感情は見えなかったけど。
「もう遅いし、俺が苛めたと思われちゃ堪らんから、ちょっくら綺麗にして明日返すに」
 蜻蛉も消え始めた季節だが、庭先で容赦なく井戸水をぶっかけた。温めた水で拭ってやっても良かったんだが、そんな事いちいちやってられないくらい、泥臭かったんだよ。しっかり拭いて、布団に突っ込んでおけば風邪ひかんだろう、と思ってそうした。そいつは案外大人しく従い、布団に転がった途端眠りに落ちた。相当疲れてたんだろうな、歳の頃は七かそれくらいか?
 横に俺も寝転がって、今度こそじいっと面を眺めた。濯がれた肌は白くて、目鼻立ちも上品で、こう云っちゃなんだがお人形さんみたいだった。激しく動けば、すぐバラバラになりそうな。
「縄の先に石付けて捕縛せんで、その石で相手の頭潰す方が確実だに。それをしんかったつう事は、お前はまだ本気で逃げようと思えんかったって事。殺す気無けりゃ目狙いな。すぐディアかけりゃあ失明するなんて滅多に無いし、ともかくサマナー相手に躊躇するもんじゃないに」
 寝てる子供に云い聞かせる俺も、思えば臆病だったな。
 翌朝、干しておいた着物もすっかり乾いてたから、それを放ればそいつは勝手に身支度していた。子供を里まで歩かせるのもどうかと思って、俺は定位置に散策用のオボログルマを召喚しておいた。
「お前を里まで護送しなきゃかんで、大人しく乗りなね」
 玄関先から外に招き寄せれば、そいつが初めて声をあげた。
「これ何」
 ヨモツイクサには驚かなかったのにな……つまり、こいつは割と真面目に勉強してる候補生だ。
「アレだよ、オボログルマ」
「形、違う」
「こっちが最新型なんだって、都会じゃ悪魔も変容だの派生だのしてくモンなの。どうせ里の教本は古いままだら、今は何年かっつう話、悪魔にも時代遅れって笑われるに」
 さあ乗った乗った、と助手席によじ登らせる。安全の為に固定帯は装着させたが、オボログルマには「そいつから吸うなよ」と忠告しておいた。
「それよりお前、喋れたんかい」
 車を走らせつつ、隣に訊いた。そいつはオボログルマの内装をひとしきり確認した後はずっと、車窓から景色を見つめていた。
「てっきり声出んのかと思った。まあそんなんは交渉不利だから、候補にもならんか……」
「コン」
「はぁ?」
「コンノ」
「名前?」
 返事は無い、とにかく喋りたくないのだろう。形はともあれ、世話になった餞別として、それだけは教えてくれたって様子だ。別に俺も、根掘り葉掘り訊こうと思わなかった。候補生に肩入れしてどうする、経験上何も良い事なんか無い。

 それから暫くどころか、数年会わなかった。里の従者の云う事には、あいつが問題児の紺野であり、狐憑きだとか、孤児だとか、どうでも良い情報ばかり浴びせられた。
 とはいえ、俺はひっそりと紺野が気になっていた。脱走する気概は有るし(俺も数回やった)何より悪魔への関心が窺えたから、こいつは伸びると思ったんだよな。
 里の中に入ると色々面倒だから、ほんの時折、外から遠巻きに眺める。候補生どもの馴れ合いを、修練を。
 一見俺の頃と大差無いが、年齢の開きがあまり無いのか、戒める年長者が見当たらない。本来それをするのは機関の大人だろうが、此処の連中は偏屈サマナーばかりで《学校》の教師とは別物だ。
 子供の集団において異分子が叩かれるのは自然な流れで、推測通り紺野が標的になっていた。直接加害するのはごく一部だが、助けてくれる奴も見えないし、客観視すればあれは孤独って部類。
「俺のオボログルマを賭けても良い! 紺野は絶対強くなるに」
 懇意にしてる従者やら、話の分かる御上相手に、俺はもう推しに推した。候補生は能力が一定に達すれば、悪魔の所持が認められる。俺は其処へ《悪魔の師範》を挙げた、紺野にはそういうレヴェルの悪魔をつけるべきだと。
それじゃあ、師範の中でも浮いてるリンをつけてみようか
 俺が昔世話になった御上が、通るかは五分五分だと云いながら了解した。何故だか俺は自分の事みたいに嬉しくて、その日を待ち遠しく思った。確かにタム・リン師範は朗らかだが気紛れで、そういった役目を断りそうな感じだから、もう俺はそわそわして、ひたすら待ち続けた。
 案は破棄されたかと、もうすっかり諦めていたあくる日……紺野の隣に、タム・リン師範を確認した。それは修練中でもなく、彼岸花の畦道を共に往く姿。
 そりゃもう嬉しくてね、俺は帰路でオボログルマを飛ばしまくった。あの指導者がつけば、紺野は腐らずにおれるだろうと確信し。興奮しつつアクセルを踏みしめた、勢いからコイツを担保にかけた不安は失せていた。

 安心しきった俺は、里を覘かなくなった。相変わらず野辺を見回りして、悪魔と井戸端会議して、たまに駅から里までの従者送迎をしてやったり、そんな日々だった。
 家でやってる暇潰しだけは累積して、ここ数年で棚だけは増えた。主に悪魔の《同種姿違い》を研究していて、これは各地を廻る従者からの情報だけが頼りだ。本当ならこの身で全国を辿りたいが、そんな資本は無い。俺は孤児ではないものの天涯孤独、それだから機関になんとなく留まっている。
「車つうか船旅も良いなぁ」
 夕暮れ時、崖から眺める海原が好きだった。全国どころか世界を廻ってみたい、そんな想いを馳せながらぼうっと妄想する至福の時間。
「海鳴りがする」
 天候悪化を予感させるので、さっさと家に帰った。更にぼうぼうと伸びた雑草を掻き分け、戸に手をかける……が、何か妙に引っ掛かった。俺も二十歳ちょい、勘はまだまだ残っている。
 管を撫で、いつかと同じ悪魔を召喚し、それから戸を開けた。顔面めがけ飛んできた物体を、脇からヨモツイクサが槍で弾いた。真っ二つに転がったのは柘榴の実、それが人の欠片にも見えるもんだから、一瞬防御に失敗したかと焦った。
「フッ…………クククッ」
 畳の上で腹を抱え、可笑しそうに笑い転げている少年……誰かなんて、すぐ判った。
「また抜け出したんけ、お前」
「お久し振り、お兄さん」
「俺は谷(ハザマ)っていうの、前に云い忘れたけど」
「谷(タニ)じゃなくて?」
「そりゃ里でも間違えて憶えてる連中ばっかだで」
 柘榴を跨いで、ヨモツイクサは管に仕舞って、俺も部屋に上がった。紺野は我が物顔で、俺の資料を読み漁っていたらしい。別に不快でも無かったし、むしろ歓迎してる自分を隠したかった。
「谷さん」
「そ、はざまだに、憶えとき」
「これ計算間違えてるよ」
「はっ!?」
 紺野が差し出したのは、俺が書き連ねた結果表だ。管属だの月齢だの、様々な条件ごとに分けて検証するから膨大な量で、云われなきゃ気付きもしなかったろうな。
「僕が手伝いましょうか」
「色々見たいだけだろ、別に手伝わんでも見て良いに」
 転がる柘榴を拾い、その断面を綺麗な指でいじくる紺野。どこかいじらしく、腹を空かせた小動物に見えた。
 そんな俺の解釈は遠からず、紺野は常に腹を空かせていた。あいつ、来る度にあまりに適当な木の実(柘榴だの柿だの桑だの)を摘まんでいるものだから、いよいよ気になって、炊いただけの飯でもと出してやったら一瞬で平らげた。
「ま、里の食事なんて食べ盛りにとっちゃ全然足らんしな」
 同意するでもなく、紺野はただ哂っていた。飯にありつけない理由は、後々知った。

「海が見たいな」
 ひとしきり計算を済ませた頃、同じ様に一区切りついた紺野が呟いた。その頃にはすっかり頼りきっていて、こいつ無しじゃ成果も発展も難しい状態だった。俺の才はどん詰まりまで来ていて、もはや紺野に残りを託しても構わないとさえ思い始めていた。
「見た事無いっけ?」
「里東の山あいから少しだけ見える、その程度なら」
「車で少し走ると良い処有るに、ちょっくら行くか」
 俺の好きな場所に車で連れて行くとは、なんとも風情や夢の有る行動じゃあないか。これが二人して同じものを目指してりゃ清々しいけど、俺は葛葉も研究も駄目な落ちこぼれで、片や葛葉有力候補で悪魔研究の才も有るときたもんだ。天は二物をうんとやら、嫉妬しない訳無いさ。
「いつまでフロントこのままなん、ボロボロのベコベコ」
「文句云うなよ、走れりゃい〜の」
「僕ならすぐ直すに」
「お前、最近訛ってきたろ」
「谷さんと居る時だけだら」
「そうかぁ?」
「フフ、こんな訛り定着したら帝都で浮いてしまう」
「もう帝都守護に就いたつもりか、けなるい頭してんなぁ」
 可愛くねえ奴め、と思いつつ、物凄く構ってしまうんだなこれが。
 海風に煽がれ夕陽に照らされる横顔の、まあ美しい事。今は狭い里で面倒を引き寄せるが、もっと広い所に行けば良い武器になるし、悪魔にもきっと受けが好い。
 隣に並んでみる、もうじき俺の背を抜きそうだ。俺も背丈は低くない筈だが、こいつは背格好も優れているらしい。思えば車内でも、足下が少し窮屈そうに見えた。最初に逢った頃は、座面によじ登っていたのに。
「リン師範は元気?」
「僕の見てない隙に、ナンパしに行ってる」
「そういう元気を訊いてねえ。さて、そろそろ戻るか……お前帰らんとバレるぞ」
「僕、今日は外出許可貰ってるに」
「俺と関わって良いとは許されとらんだろ」
 波音が遠くなる……暫く車を走らせ、家を通過したら里の近くまで乗せていくつもりだった。
「ねえ」
 家の近く、雑木林に差し掛かった頃、紺野がおもむろに語り掛けてきた。
「すっぽかして良いと思う?」
「何をよ」
「今宵、連中に来いと云われてて」
「あぁ……そういう?」
 家の前で、一旦停めた。返事に困ったからだ、良いかどうかなんて、俺やこいつの決める事じゃないから。
「俺は何もしてやれんに」
 それだけはハッキリ告げた。紺野もそれは予測済み……というか、だからこそ俺には訊いてみたんだろうな。答えを求めているんじゃなくて、さっきのは意思表明なだけだ。助けてほしけりゃリン師範に真っ先に伝えるだろうし、それをしているとも思えない。そんな話有れば、俺の耳にはすぐ入って来る。
「こっぴどく仕置きされるかもしれんけど、さぼる場所なら提供してやるでさ」
 俺に匿ってもらった、なんて云い振らす奴じゃない事は分かっている。再び家に上げてやって、俺からは何も訊かないでおくつもりだった。
「谷さん」
 棚を整理して蹲ってたところ、背中に圧し掛かられた。候補生時代、こっそり飼ってた野良猫みたいな仕草で。
「あの崖から飛び降りたくなった事は無いの」
「……そりゃあ、海水浴に興味は有るに? でもあの高さじゃ戻って来るの難しいし、下手すりゃ海面着く前に岩肌にぶち当たって死ぬで」
「綺麗な景色見てると、死にたくならないの」
「物騒な事云うなよ」
 なんて危なげな奴、そんな事はとうに知っていたけど。
 そんな奴にくっつかれてる俺は今、危険な状態にある気もしていたけど。
「さっさと終わらせるコツは有るに、巧く舐めるんだよ」
「谷さんもされてたの?」
「俺は……」
 軽蔑されるかなと、一瞬だけ考えた。でも云ってしまえば、その方がありつける°Cがした。
「自分からしゃぶったし、ちょっとでも贔屓されたらと思って」
 背中の紺野は具体的な反応をしなかったが、暫く無言だった。
「今よか好色爺ィが少なかったんだよなあ。もう笑けるくらい、ぜんっぜん効果無かったに。俺もそういう趣味じゃあないし、そういう色目は辞めた」
 本当に、どんな事をしてでも葛葉に成りたかったんだ、あの頃は。俺だって容姿にはちょっと自信が有ったさ、でも紺野ほどじゃない、どれもこれもこいつ程は持っていなかった。
「やってやる?」
 首を傾け、背後に視線を送る。紺野と間近に見つめ合った、眼はあの頃のままで、やっぱりどこか冷たい。肩に掛けられていた腕をやんわり掴んで、背中から畳に落とす。仰向けの紺野の衿のあわせを、両手で掴んだ。
「どうする、俺の研究成果を知りたかないのけ?」
 我ながら酷く下らない経験値、しかし嘘を云ったつもりも無い。行為時間の短縮は、相手を直ぐに終わらせる事、これに尽きる。
「……教えてよ」
 選択肢を与えていたのは俺の筈なのに、紺野の一言に得難い解放感を味わった気がする。着物をむいて、下穿きをはいで、なめて、しごいて、くわえて、なめて……
 こいつが若いせいか、俺の技量が衰えていなかったせいか分からないが、決着は早くついた。最後まで声を殺していた紺野は疲弊を滲ませ、ぼんやりと天井を眺めていた。
 俺は大して疲れも無かったが、腹を擦りそうな程に勃ちあがったブツが痛かった。こっちの決着は勝手に済ませるつもりだったが、場を離れようとした矢先、袖を掴まれた。
「忘れないうちに、おさらいしないと……ねえ?」
 魔的とも云える笑みだった、普段の紺野ともまた少し違う。俺と適当に語らい、飯を平らげ、畳に転がる無邪気さが無い、消え失せていた。この姿をカラスの古老に見せているのだろうか、演技か素かも判らない。
 どっちつかずの俺は膝立ちのまま、下肢にかかる着物を開かれていた。紺野が俺のブツを咥えた瞬間、既に感極まりそうなところを何とか踏み止まった。だって、そこで達したら確認にもならんだろう、それだけは申し訳なくて、大きく息を吐いて耐えた。

 その後も時折訪れては、これまでと変わらず接してきた紺野。あれ以来、性的な接触や会話のひとつも無かった。それを惜しいとも思わなかったし、その方が良いだろうと自身も安堵していた。
 一方、悪魔に関する検証結果は纏まりつつあった。紺野が葛葉の、それもライドウになれば帝都進出となり、更に造詣が深まるだろう。そう、俺のかつての夢の体現だ、こいつは。残りはすべて託そう、俺の夢のすべてを。
「あのオボログルマ、帝都で拾っただら?」
「話したっけ? まだ里で内勤とか御使いやってた頃にさ、何度か行ったワケ」
 たった数年前だというのに、何やら懐かしい。支給される黒い装束、あれが重いのなんの。どうやら上級なほど軽く、防御性能も高いらしいけど、今となっては確認する術も無い。
「僕も欲しい、どうやって交渉した?」
「あいつ実はガス欠して、身動き取れんで居たんだに。そこにMAGくれてやったら、一発でOK貰った」
「なんだい其れ、全く参考にならない」
 こいつは馬鹿にした様に哂うけど、微塵も嫌な気持ちにならない。こんなところが、本当に心地好いもんだ。
「安心しなよ。お前が見事襲名したら、あれ記念にやるで」
「良いの?」
「ああ、でも直すのは自分でやるだで? お前のセンス分からんしな」
 本当は嬉しいんだろ。いつもの哂いに加えて、目元の血色が少し良く見えた。
 が、次に発された言葉が、俺の何かを抉った。
「谷さん、知ってるかい? 葛葉ライドウを襲名した場合、弓月の君の制服を事前に与えられるんだに。其れ貰ったら着て、見せに来るよ。そのままオボログルマの管をさ、学ランの胸ポケットに挿してもらおうかな、入学記念とか云ってねえ……フフ」
 さも、当たり前の様に、こいつは。
 
     それから暫く、俺は家を空けていた。
 次に紺野と顔を合わせたのは……里の屋敷の一室、板の間にぽつんと敷かれた褥の上。
 両手を縛られた紺野は、俺の姿を確認したその一瞬だけ無表情になった。が、すぐに眼を瞑り、口角を上げて、可笑しそうにくつくつと哂い始めた。
「初めて見る顔だろう、紺。お前より十くらい上の者だ、まだ若造だが、最近なかなかの成果を出しおってな。我々と同じだけの権限を行使する立場に就いた……此処に居るという事は、そう、お前にも興味が有るという事だ。今後も席に顔出しする事があろう、愛想好くしてやれよ?」
 相も変わらず、偉そうな御上め。余計な事を散々喋った後に、紺野の頭上に跨ったそいつ。俺の指導が役立ったかは知らないが、あっという間に追い立てられて、ぜえはあと息を荒げる羽目になっていた。
 喉を鳴らし嚥下する紺野は、塗れた唇を舌で舐めずりながら俺を見た、いや睨んでいた。口元は哂っているが、眼は据わっている。
「おいダニ、悲鳴のひとつでも上げさせてみろ」
 頭上から退いた御上が、俺に号令した。俺も為政者の一員と成った訳ではあるが、当然の如く年功序列だ。蔑称で呼ばれようと反論もせず、紺野に覆い被さった。
「久し振り」
 耳元で囁く、当然返事は無い。ひっくり返してうつ伏せにさせ、尻の間を指で探った。俺が入室するまで執拗に弄られていたのか、指はするりと呑み込まれる。
「詰ってくれても構わんに」
 挑発しても、また無言。すると横で眺めていた御上の一人が歩み寄り、紺野の頬を蹴った。
「そやつは候補生であるお前を後援する立場に在るぞ、媚を売っておくべきではないかね」
 さほど強く蹴られてはいなかったが、無痛な筈も無いだろうに。紺野は血の混じった唾液を布団に吐き付け、一呼吸してから背後の俺を振り向いた。自ら股を開きつつ、哂って唱えた。
「御寵愛賜り、光栄に御座いまする。女人が好くば声高く、獣が好ければ狐が如く鳴きませう。構わぬとすれば、どうぞお好きに」
 眩暈のする様な台詞だ、血反吐の方が幾分かマシとも云える。けれども俺のブツは天井に向かってそびえ勃ち、早くしてくれと垂涎するばかり。それを合間に擦りつけながら、紺野のうなじを舐め上げた。お前が息を吐くのが分かる、その呼吸のひとつひとつが、俺の心を壊していく。
 頭が入り切った頃、深呼吸された。きっと慣れない質量なんだろう、少なくともこの空間に居る他の連中は、勃
ち上がってもせいぜい俺の六割程度。紺野の一物だってまあ立派なものだが、完全に張り切った俺の方が上だった。
 傷付ける意図は無いので、ゆっくりゆっくり埋めた。全部入る前に一旦引き返し、改めて埋める、この繰り返し。
 悲鳴を上げて欲しい、なんて思わない。いつもみたいに、軽口叩いて、呼んでくれりゃ良かったのに。
「なあ、お前……夜って云うの?」
 下の名を出した瞬間、中がぎゅうっと締まった。
「どうして教えてくれなかったん」
 この立場に就いてから、帳面でようやく知った、お前の名前。
「……っ、は……はぁッ……はっ」
「夜」
「あぁ、ぁッ、ひ……」
 快か不快か、紺野は酷く反応する。他の連中に真似て欲しくないから、耳元でひっそり囁く。
 扱かれる俺はだらだらと垂れ流し、それが一層潤滑にさせて音を響かせた。次第に肌のぶつかる音も混じって、それをどこか他人事の様に聴いていた。
 ああ、なんだこれは、堪らない。美しく聡明なお前が、脱落者の俺に組み伏されている。俺の夢の結晶を、がりがりと噛み砕き、喉を傷付けつつ潤すこの感触!
 どくりどくりと、一番奥で吐精した。それでも衝動は治まらず、再びもたげた分身で穿ち続け、周りの御上が失笑するほど、犯し続けた。

 あれからは散々、機会が有れば行為に参加した。俺の肉体の若さにかこつけて、他の連中はああしろ、こうしろ≠ニ命じて来た。云われるがままの状況で、体位で、もはや実験動物同士の交尾だ。紺野は、日中出くわしても、軽く会釈をするだけになった。いっそ殴りかかってきてくれたら、とも思った。それくらいしても、まさか候補を降ろされる事は無いだろうし。
 そう、俺が機関上層に提出した研究結果ってのは、ほぼ紺野の功績。それを無断利用し得た権威で、あいつを抱いているって訳。立場だけは上がったが、ヒトとしては凄まじい堕落だ。自覚は有った、いや有ると分かっているから、選んだ。中途半端な位置に耐えられなかった、夢に向かうあいつを直視出来なかった。だからもう、とことん堕ちてやろうと思ったんだ。
 でも、此の立場だからこそ、役立ったと思える瞬間もあった。いよいよ継承者を選出するという、その協議に参加出来たのだ。昔からの予測通り、最良候補という事で紺野が挙げられた。他の候補者と比較しても、すべての面において頭ひとつ飛び抜けていた。が、これもまた予測通り……反対する奴等が喚いた、血統を大事にする保守的な連中だ。少数ではあるものの、ああいった人間達は機関の資本増減を左右する。頭が痛い……こういうのが嫌で里から離れたんだっけ、そういえば。
「紺野は大変得難い人材であります、今後暫くは現れぬ逸材と断言出来ましょう。百穴の件を憶えておいでか、彼は既に高等悪魔との契約を成し得ている、力量としては十分でしょう」
「おい待て、その件といえば大勢死んだろう、この場に子を失った者も居るぞ」
「紺野が殺したと? 紺野を殺しにかかった者が贄に捧げられたのでしょう、理不尽が何処に?」
「奴の云う事を鵜呑みにするのか! 瓦解させんとする狐が、いつぞやから成り代わった可能性は!?」
 続く応酬にヒヤヒヤしたが、俺の尊敬する御上の一言で場が少し鎮まった。
「これまで育てた意義を捨て去るのなら、生まれを重んじれば良い。でなければ何の為に孤児を拾ったというのか、高い魔力、そしてMAGの質に価値を見出したからだろうに。特に、彼に慰めて貰っている℃メは今一度、真剣に考える事。一個人の欲望で、此の選定を左右せぬ様、以上」
 流石は先生だ、これが鶴の一声というヤツだ。久々に感銘を受け、俺は涙ぐんだ。そして別の意味でも泣いていた、きっと俺にも釘を刺したのだ、この人は。

 そうして紺野が選ばれた。
 試験の終わりにタム・リン師範を差し向け、其れを始末出来なければ認められないのだという。当然、俺も含めて反対する者は居た。これまでも似た様な事をやってきたのだとか、襲名との交換条件だとか、もはや云いがかりに近い怒号を鎮める為だけに、あの悪魔師範は犠牲となるのか。当の悪魔はどうなのかと思いきや、すんなり了承したらしい。それも不可解だった、あんなに紺野を可愛がっていたのに、何故……
 俺の困惑を余所に、いつの間にか襲名の儀は終わっていた。昨日がその日だったと、今朝気付いた。俺は何をしていたのかというと、家の整理をしていた。資料や荷物は全部里に移して、この家屋は放置、もしくは壊してしまおうと思ったからだ。こうして中に居るだけで、愉しかった日々を反芻してしまい、足下がぐらつく。
「谷さん」
 幻聴かと思い、玄関を振り返った。今度は俺を幻惑しようとする、悪戯な悪魔の仕業かと思った。
「……どうしてこんな処に来るよ」
「制服を見せに来ると、約束したので」
 紺野が立っていた、偽物じゃない。黒い学帽に外套を羽織り、きっとあの中は学生服だ。最初から弓月の君の学生であったかの様に、其処に佇んでいた。とても似合っている、まさに晴れ姿だ。
「一緒に……海を見に行ってくれないか」
 畳に跪いて、俺は哀願した。紺野は表に出て、俺が車を出すのを待っていた。
 黒装束の隙間から、管を引っ張り出す。すっかりMAG残量が減っていたオボログルマ、俺は固定帯から、溢れんばかりに燃料を注いでやった。帰り道の事など、何も考えていなかった。
「どう、訛りは抜けそうかに」
「帝都で恥をかきたくはありませんので」
「それでみがましいつもりだら、全然可愛くねえの」
 ああ……こういう所が、昔から可愛かったんだなあ。
 夕間暮れの空と、水平線が見え始めた。いつも停めていた位置に車をつけて、でも扉は開けなかった。
「綺麗な景色見ると、死にたくなるんだっけ?」
「…………何か」
「俺と死んでくれ」
「僕の襲名に御助勢頂いたと伺っておりますが」
「俺、初めてだに、この風景見て死にたい≠チて感じたの」
 仲魔を召喚するか、銃で俺を射殺でもすりゃ、この状態は脱する事が出来るだろう。外套下の装備くらい、此の鈍った目でも確認済みだ。だからこそ訊いたのに、紺野はひとつも動きやしない。
「おい良いの、このまま踏むに、アクセル」
「したいなら、どうぞ」
「俺なんかと心中したいのかよ、これ冗談に聴こえるのけ?」
 軽く踏む、前進する、やや強く踏む、傾斜を這い上がる。
 心拍数が上がる、視点が上がる、車体が強く軋む、風音が増す、つんざくブレーキ音、自分の煩い呼吸。
「……ぁっ、はあっ、はあぁ」
 前輪が空回りしている、やがて地に戻った。自重でゆっくりと後退し、草地まで来ると車体も停まった。
 隣をおそるおそる窺った、紺野は顔色ひとつ変えずに、硝子越しの風景を見つめていた。あの日と変わらぬ、綺麗な横顔で。
「お前はっ、俺の夢なんだっ……俺の……大事な……」
 白々しい言葉しか出ない。この車を二人の棺桶にしたかった、そんな妄想に取り憑かれていたのに、いざとなったらこの様だ。
「俺が欲しかったっ、その葛葉の名前は俺が、俺がと、ずっと願ってきたのに、だのにお前!」
 ハンドル中央を叩いたら警笛が鳴った、そんな機能が有るとは知らずびびった。外の海鳥達が一斉に飛び立ち、暗い雲間に消えていった、羨ましい。
「俺も飛びたい」
 固定帯を解いて、扉を開けた。紺野も同じく帯を解いたが、俺の「助手席ロック」との号令に従ったオボログルマが、ほんの少しだけ足止めをしてくれた。
 断崖の先に立ち、心地好い風を一身に受ける。黒い装束がバタバタ靡いて、カラスみたいだ。向こうから駆けてくる紺野の外套も同じで、少し可笑しかった。
「そら、車のキー」
 ぽぉんと放った、夕陽を反射して煌めくオボログルマの管。
 其れを素通りして、俺の手を掴もうとしてきたあいつ。
「頑張れよ、夜」
 躱して呟き、最後にその面を拝みながら、背中から飛ぶ。
「十四代目葛葉ライドウ、万歳!」
 波音に負けじと叫んだ、橙の空気が俺を包んだ、身を切る冷たさが俺を──



「……そういや俺、なんで此処に居て運転してんだか」
 一部始終どころか、殆ど観たといっても過言ではないだろう。大体把握したので、ぼくはやんわりと示唆する。
「貴方は恐らく、一度お亡くなりになられたのではないかね」
「ライドウは、多分あっちの崖っぷちに居るんだに、凄い景色が綺麗な処」
「待ち合わせの約束などは?」
「しとらんけ?」
 理屈では無いのだろう、ぼくもなんとなくそう思ったからだ、ライドウがその場所に居るのだろうと。
 闇夜をひた走る無人車≠ニは、なかなか面白い体験が出来て個人的にはもう満足だ。
「ほらっ、居った!」
 フロントガラス越しの風景は、記憶で見た地形だ。時間帯は違えども、月光が辺りを照らしているので大体判る。そして人影が振り向いたのも視えた、ライドウだ。常人には見えないだろうが、お隣さんとぼくは常人に非ず。
「停まり給え!」
 ライドウの号令に、車体がぴたりと止まった。遠隔操作、それもそうだ、現在の主人はライドウなのだから。
「紺野!」
 帯を解いて扉を開け、車外に飛び出た黒装束。銃声が響いた、ライドウが発砲したのだ。
「……ルイ、何故君が共に乗っている」
 間合いを計りつつ接近するライドウは、銃を構えたままだ。黒装束は脚を撃たれたのか、その場に蹲りぼうっと彼を眺めていた。
「勝手に家にお邪魔したお詫びに、ドライブに付き合っていた」
「勝手なものか、あの家の所有者は居らぬよ」
 さてどういう事情か、きっと君も逢う為に訪れたのだろう、ライドウ。ぼくも降りようとしたが、扉がなかなか開かないのでノックしてみた。
「ロック解除」
 気付いたライドウが唱えつつ、オボログルマの前輪を靴先で軽く蹴った。ようやく扉がバタンと開き、ぼくは降車してうんと伸びをした、やはり少し狭いかな。
「谷さん、貴方の徘徊を確認した機関より、討伐命令が下っている」
「……紺野……」
「貴方も研究したのだから解かる筈だ。今は只の夢遊病者に等しいが、腐敗肉に念が拠れば立派な魍魎と化す、人間を害する存在と成り得る」
「ああそうだ、どうやって変容していくかって、やったやった。そいでさ、何が面白いかってあれ、お国柄が出るもんだらあ」
「もう一度、死んで頂く」
「国っつうとさ、巨大戦艦の話! 此の国のどれか一丁かっぱらってさ、未開の国の悪魔眺めて暮らすっつう、優雅な妄想! 俺は干渉研究すべきっつうに、お前は生態系崩すなって猛反対だったら? 可笑しいの」
 会話になってはいるが、黒装束ははぐらかすかの様に思い出話に運ぶ。
 痺れを切らせたのか、ライドウがもう一発見舞った。黒装束はびくんと大きく体を震わせたが、今度は両腕で地面を這い始めた。ずりゅずりゅと削られていく音、劣化した布切れと人間の繊維が、草地に痕を残す。
「だから、脚じゃなくて頭狙えって云ったに」
「……寝ていたので、覚えがない」
「それ起きてたって事だら! ははっ、相変わらず可愛くねえなあ!」
 発砲音が続いた。念の為の一発を残し、すべて撃ち込んだのだろう。
 ぼくはライドウに歩み寄り「大丈夫か」とは訊かずに、MAGで判断する。彼はかなりの緊張状態にあった。とても珍しいので、それを崩さぬ様に此方からは一切声を掛けずにおいた。


 仕留めたという証を里に提出したライドウが帰って来たのは、もう朝焼けの時間帯。ぼくは別に眠くもならないので、じっと車の中で待っていた。あの黒装束が湿らせた運転席も、もうすっかり乾いていた。
「ねえライドウ」
「何」
「あの崖から臨む風景、なかなか良さそうだったよ。あそこからの海が見たいな」
 てっきり却下されると思ったが……運転席に乗り込むなり帯を締め、アクセルを全開にした彼。かなりの速度が出ている。空は白み始め視界良好だ、とはいえ、なかなか危険運転ではないだろうか。
「飛ばすね」
「悪い?」
「疲れてないの」
 肯定も否定もしないライドウ、あっという間に数時間前の現場に到着した。
 幽鬼の削げた痕跡を無視するかの様に、降車したライドウはさっさと移動し、切り立った地形の先に佇んでいた。煽がれる外套が厳かに音を立てなびく姿、確かにカラスの様にも見えるな、と今更共感する。
「ところで夜、どうしてぼくをこの件に連れて来たのだね? 仕事に巻き込む様な真似、普段の君ならば避けると思うが」
「……綺麗な景色を独りで見ていると、死にたくなる」
 確かに、さっきから君は海に飛び込みそうな表情が続いている。
「ぼくを伴い死を回避する、という事?」
「ま、別に君でなくとも良いのだけど」
「つれないね」
 風が心地好いと感じるので、試しにハンチング帽を脱いでみた。ぼくの髪がさらさらと靡いて、滲む朝焼けで金色を増した。ライドウが此方を暫く見てから、おもむろにホルスター裏を探り出す。
「これあげる」
 出されるより先に、此方のポケットから煙草の箱を取り出し手渡す。受け取ったライドウは、訝し気に銘柄を確認している。
「敷島? 此れ、君が吸ってた記憶無いのだけど」
「先日貸してくれた本の……」
「芥川龍之介の《海のほとり》だよ、題名くらい覚えたら如何?」
「そう、其れ、その冒頭の」
「僕等は午飯をすませた後、敷島を何本も灰にしながら、東京の友だちの噂などした=v
「よく憶えているものだ、流石は十四代目葛葉ライドウ」
「ルイの調子の良さには負けるよ」
「海に連れてきてくれたお礼にあげる」
「おいおい煙草一箱分とは恐れ入る。ま、赦してやるかね……」
 箱から流麗に一本取り出したライドウが、ぼくの口元にそれを持ってくる。
「ついでに火なぞ点けてくれたら嬉しいのだけど」
 云われるがままに咥えたぼくは、ふうっと息を吹き込み手品≠お見せした。
「有難う」
 すい、とぼくの口先からさらった煙草を、躊躇いもなく唇で舐める君。毒の煙を深く吸い込み、溜息と共に吐き出した。憂鬱な呼吸にMAGが混じって、少し甘やかに薫った。
「海鳴りがする……」
「海鳴り?」
「天候が荒れる前兆さ。もう帰るよ、寝たい」
「そうだ、何処かに泊まろうよ夜、忘れものの残りもあげなくては」
「……元気だねえ君、僕を寝かせる気無いら?」
 述べた後、はっとして咽たライドウ、どうやら煙草のせいではなさそうだ。
 そうそう訛りといえば、何故帝都で浮くのか、結局ぼくには解からない。
 なまり≠ネのに浮くのか、なんて、覚え始めた日本語で洒落を捏ね繰り回すだけに終わった。
   
-了-


* あとがき *
 海を見に行くのに、オボログルマを使う情景が浮かんだ。折角だからどのような経緯でオボログルマを仲魔にしたのか妄想し、ライドウの昔話として組み上げた。ルイライの必要性が有ったのか謎だが、発端の「海を見に行く」というものはルイとの情景であり、話としても彼が狂言回しに適しているので、まあまあ最適解と思う。
 話の8割くらいはモブライで、これまたオリジナルなモブ。ライドウ(夜)が時折発する訛りの原因を考えていたので、其処を担って頂いた。機関というのは全国から寄せ集められた人間で構築されるイメージなので、各個人の方言も様々だろうと推測する。谷(はざま)の使う方言は遠州弁のつもりだが、これもまた地域によって差が有るのでネイティブの方は目を瞑ってください※一応作者もネイティブ。
 夜は結局「生まれた地域が謎」なので、訛りも伝染った≠ニいう設定にしないとブレる。SS『止まれ、お前はとても美しい』で片親の出身が示唆されていたが、あれも話半分程度で。
 谷がリン程の存在に成り得なかったのは、やはり裏切り行為が大きい。夜にとってルイが友人ならば、谷は兄の様な存在だったのだろう。その身内の様な距離感の男に、裏切られ犯されたのだから激しく憎悪しても良さそうなものだが、制服姿を見せるという義理堅い行為に出て、挙句に心中チキンレースを止めもしない。後者に関しては、自らの手でリンを殺害した直後という事もあり、夜本人も非常に死への欲求が高まっている状態だったと思われる。
 「かつて懇意にしてくれた人間を殺す」という時点で精神負担が有るが、夜は元々暗殺任務などを嫌うタイプなので、冒頭から憂鬱だった(ルイに覇気が無い≠ニ見透かされている。)
 それにしても夜は悪い男に引っかかり過ぎだろう。しかし後々、彼が人修羅にとっての悪い男≠ニなるのであった……
(2019/9/16 親彦)



▼海気
海の空気、気配。怪奇譚のノリで名付けたタイトルが、此の『海気譚』

▼案山子
脳の無いカカシ≠ニいうのは、オズの魔法使いから。

▼海堡(かいほ)
明治〜大正期、人工島に砲台を配置した、洋上にある要塞。超力に出て来る「第四台場」が本来此れに該当する予定だった。

▼海のほとり(著:芥川龍之介)
「中央公論」1925年(大正14年)掲載の小説。海辺でぶらぶらする話、本当にそうとしか言いようがない。気になる方は青空文庫で読むべし。

▼敷島
明治41年から発売された煙草。「和歌の浦の風景」がデザインされた箱に入っている。

▼海鳴り
海から聞こえてくる遠雷のような音。台風や津波などによって生じた大波が海岸近くで崩れ、巻き込まれた空気が圧迫噴出して起こる。

▼遠州弁
けなるい:うらやましい
みがましい:しっかりした
作中で分りづらいのは上記か。 語尾に付く「に・だに・だら」は、作中の雰囲気で使いどころを察して欲しい。