かわいそうなこども-夜

 
アダルト サヴァイヴァー(Adult Survivor)
幼少期に機能不全家庭で育ったり、成長の過程で心的外傷を負わされたことにより、何とか生き延びて思春期・成人期に達してはいるものの、人間成長のどこかの段階を喪失したために、その好ましくない影響を心身に色濃く残している人々を云う。



香の薫り。
薄桃色の艶やかなぼんぼり提灯。

「鳴海さん、今日は遅うござりんすなあ」
「いや〜ごめんごめん、ちょっと話が長くなっちゃってさあ」
ヤタガラスめ、長々と話をされてしまった所為で
出遅れて夜の社交場へ繰り出す羽目になった。
「何のお話されてたんすえ?」
少し唇を尖らせた遊女が、しなを作って問い掛けてくる。
彼女には到底分からぬ世界の話。
「ええ〜云っても分からないと思うよぉ?専門的なハ・ナ・シ」
「いけずぅ」
「はいはい、わかったわかった!」
苦笑いして帽子を外す。
俺は掻い摘んで、さらりと説明した。
「あのね、明日から俺の探偵社に新人入るから、それの打ち合わせ」
「へええ、探偵見習いでありんす?」
「ま、そんなとこ」
まあ、ただの見習い…でもないんだけどね。
だからヤタガラスが、あんなに念押しして説明していったのだ。
おまけに滅茶苦茶な事まで云いやがった。
カラスの上人等が寵愛してるから、手は出すなとか。
おいおい、俺を男女構わず手を出すケダモノとでも思っているのか?
「失礼しちゃうよねぇ〜全く」
「何がですぅ?」
「俺はオンナノヒトが好きなの〜」
フザケながら遊女のおくれ毛を指先で摘まむ。
すると彼女はすっ、と掌を俺に差し出した。
平たい面を盾の様にして、俺に制止命令。
「えっ?」
「残念でありんす〜」
「なになに?何よお?」
「今晩は先客が居りますけん、鳴海さんは他あたって下さいな」
その言葉に、俺は項垂れた。
お気に入りのこの娘と、ヤタガラスとどっちが良いかだって?
この娘に決まってたろうがああああ!!
「へ、へえ…先客、ねえ」
「そ、なかなかの美人さんですえ」
「ほ〜」
「あん、わっちは鳴海さんが好みの異性でありんす」
きっちり営業を忘れず、その遊女はしなを作ってから退場した。
(なにさなにさ〜美形かあ、結局面食いだなぁ遊女達も)
ま、仕方の無い話だな。
明日はその新人も来るって訳だし、もう帰って今日は寝るかな…
と、ふて寝の為に帰路に就く。
桃色が遠ざかっていく。
俺は少しばかり寂しくて、ちらりと背後を振り返った。
遊郭の入り口、迎え入れている贔屓のあの娘。
黒い外套がその向こうに見えた。
(インバネスコート?この時期に?)
少しまだ暑いのでは?寒がりですか?今日のお相手は。
俺は惨めに脳内質問を繰り返し、溜息を吐いて暗い道を戻って往くのだった。





…ん
…なんだ?なにか聞こえる…

「鳴海所長!!」
「うわわわッ!!」

突然の声に、俺は悲鳴を上げて飛び起きた。
自分の悲鳴に更に驚いて、傍のウイスキー瓶を腕で倒す。
「えっ、あ!ごごごめん」
何に対して謝っているのかも考えず声が出た。
瓶は勢い良くデスクの端へ飛び、床へ落下していった。
と、その起こしてきた人物が咄嗟にそれを掴む。
呆然と、未だデスクに突っ伏している俺の眼前に、ウイスキー瓶を置いた。
「鳴海所長、失礼ながらお時間になっても駅に見えぬ為、直接参りました」
「は、はあ」
「ノックしてもお返事が無い為、勝手に侵入した事、お詫び申し上げます」
すっ、と綺麗なお辞儀をすると、学帽の上面が俺に挨拶する形となる。
「あの、まさかヤタガラスの…って、君が?」
俺のまだ寝惚けた声音の質問に、彼は面を上げて笑顔で返答した。

「はい、十四代目が葛葉…ライドウに御座います」

ああ…
まあ、確かに…可愛がられるな、この顔じゃ。
下まつげまであんな綺麗に、ばっちりと…
成程、こりゃ念押しされる訳だ。
書生の姿で無く、着飾ればそれこそ、である。
(って、これじゃ俺まで面食いみたいだ)

「ええと、君の部屋はねぇ…」
「はい」

大人しく、にこやかな微笑みで従う。
別に筋骨隆々としている訳でも無く、湿った霊媒師のそれでも無い。
折り目正しい、弓月の君の制服が似合っている書生。

「君、じゃなくてライドウ…は、弓月の君に編入したんだっけ?」
「はい、試験を通りましたので」
「へぇ、カラスの手は借りずに入ったんだ?利口なんだねぇ」
カラスの名を出した一瞬、彼の眼が俺を二度見した。
「ええ、実力で入らなければ付いて行くのも困難でしょうから」
ああ、そうだよな、馬鹿にされたと思ったのかもしれない。
「だよね〜いや、失敬失敬」
へらりと俺は笑って、部屋に荷を置かせた。
(何だ、俺は楽が出来そうだなあ)
おまけに凄腕のデビルサマナーとか何とか…
これならオッカルトに付き物の“不可視の存在”にも対応出来そうだな…
既に放任の方針を決め込んで、俺は応接室へと戻った。
「その猫ちゃんも大人しいねえ」
「ゴウトという名です、使い魔と思って下さい」
「へえ、魔術的じゃん、やっぱ黒猫なんだなあ」
珈琲を炒れながら、俺は他愛も無い事ばかり並べ立てた。
少し感じる違和感。
ああ、まだ借りてきた猫だから、だろうか。
…少し、ライドウの言動に色が無い気がする。
こう、本人の色、が。


「…もしかして珈琲苦手?」

なかなか手をつけないライドウに、俺はまずったかと思い聞いた。
湯気も徐々に落ち着いてきたその珈琲を見ている俺に
ライドウはやんわりと答えた。
「申し訳有りません、猫舌なので冷まさせて頂いてから」
「あ、いいやいいや、無理して飲まなくって良いから」
別に苦手で無いなら、とりあえず良かった。
この屋内に在る飲み物は珈琲と酒だけなのだ。
酒は駄目だから…この子が飲める物なんて珈琲しか置いていない。

「ちょっと屋上で吸って来るから、楽にしててくれ」
俺は葉巻をちらちらと、座るライドウに見せ付けてから部屋を出た。
階段を上がり、少し重い扉を開ける。
青空…とは云い難いその白い空に、おもいきり伸びをした。
「くあ…」
まだ微妙に眠くて、欠伸で涙が出た。
(さて、と)
屋上端に寄りかかって、俺は手帳を取り出した。
繋がった定期入れの、その裏を返す。
それを屋上端から突き出して、眼先で覗き込む。
鏡になった裏面に、逆さになったライドウが映り込む。
(あ〜あ、俺も性質悪いな全く)
これから一つ屋根の下を共にする人間を、のっけから観察とは。
しかし、依頼人に対しても偶にやるこれは…結構重要だった。
勝手に部屋を漁る人間は、お断りする為だ。

(おっ、どう出る…)

すっ、と立ち上がったライドウ。
珈琲のカップを持ち、そのまま移動している。
俺はそれに合わせて横に動き、映し探る窓を替える。
今日が曇りで良かった、勘が良いと反射でばれる。
(…シンク?)
映り込むライドウは、カップをシンクに傾けた。
まだ中身がたゆたうそのカップから、ばたばたと落ちていく飲料。
(おいおいおいおい)
いや、そんな嫌いなら云ってくれたら良いだろう…
あの真面目っぽい書生のぶっ飛んだ行動に、俺は少し眩暈がした。
そんなショッキングな光景を鏡越しに見てしまった俺は
葉巻で一服すらせず、下階へと降りていった。


「待たせたな」

扉を開ければ、ライドウの前の卓上には…何も無い。
ちら、とシンク側を見れば洗い上げられた食器。
(証拠隠滅か)
俺が溜めてあった食器まで洗う辺り、完璧主義者なのか。
「洗い場に戻してくれたんだ、ありがとね」
「いえ、なんなりと」
にこやかに。
「ねえ、珈琲美味しかった?」
俺が問ば、ただ…
ただ、にこやかに。

「はい、美味しかったです」

…その微笑に、背筋が凍った。




それから数日間、特に何も無く経過していった。
ライドウは実によく働く。
家事から書類整理、聞き込みまできっちりこなす。
家政婦を雇う必要すら無い、事務所の整いっぷり。
(いつ遊んでんだろ〜あいつ)
俺はマッチ棒金閣寺で集中力を高めつつ、考えていた。
(いや、それよりも…俺の事警戒してるよな、かなり)
あれから、俺が怖くて珈琲を出せない。
食事なんかは既に各自で摂っていたし…
なにせライドウが依頼の為に帰還時間も定かでないから。
そう、依頼と云えば…先日も。
結構な傷を負って帰ってきた。
一体何と戦っているのかと聞けば。

「云っても分からないと思いますよ?専門的なハナシ、です」

と、これまた妙に何処かで聞いた台詞を吐いた。
お約束の微笑を浮かべて。
…そう、あの笑顔がまるで能面なのだ。
あの笑顔にきっと感情は含まれていない。
(いよいよ聞こうかな〜)
少し気になる件も有った俺は、指先で金閣寺を崩落させ
彼の帰還を待った。




「ただいま戻りました」
ぎぃ、と扉の開閉音。
俺はソファから立ち上がり、入ってきたライドウに声を掛けた。
「なあ、ライドウ」
「はい」
「珈琲飲む?」

一瞬、間が有った。

「自分が炒れましょう」
「いいや、疲れているだろ?俺がやるよ」

先に行かせまい、と、俺はすぐドリップメイカーへと足を運んだ。
ライドウはそのまま、俺の背中を見つめてソファに腰を下ろした様子だ。
今度は流させない、珈琲も話も。

「お待たせ〜」
「有り難う御座います」

かちゃり、と…俺とライドウの分を卓上に置く。
そして俺もライドウの向かいに腰を下ろした。
ライドウ、今日は大した怪我も無い様で…これなら続けていいかな?

「本日の調査報告ですが」
「ライドウ、それはまた後にしよう」
いきなり止めた俺に、ライドウが口を閉ざす。
「少し気になる事があって、ライドウにも確認したいんだけど」
「はい、なんでしょうか」
「俺…最近張られてるんだよね、多分」
切り出せば、ライドウが少し硬い表情になった。
傍の黒猫…もといゴウトちゃんがミャウ、と鳴く。
「張られて…何故そうお思いで?」
ライドウの返答に、俺は癖毛をわしわしとほぐして答え始めた。
「んっとね…遊郭で、俺の贔屓ちゃんばかり引き抜かれてるのがひとつ」
「遊郭ですか」
「んで、ふたつ目…機密書類が多分読まれてる」
「僕が整理を任されているものは違いますが」
「だよね、これはまた後で…んで、みっつ目は…」
「…」
「勘だよ、昔からの」

時計の振り子の音が響く。
夜半、既に外も静まり返っている。

「ねえ、ライドウ」
「はい」
「その機密書類…俺はいつも適当にぶち込んでんだけど…昨日ね、少しだけ綺麗に揃えてあったんだよ …端っこがね」
「…」
「見た当人は元の様に、乱雑に戻したつもりかもしれないけど…微妙に綺麗だった」
「でも、それは証拠に成り得ませんね」
「ん〜その通り!これを証拠提示するようじゃ依頼人に笑われちゃうからねぇ!」
俺は大口を開けてひとしきり笑った。
ライドウの表情は先刻から変わらない。

「あはは……あ、そんでさライドウ」
「はい」
「折角炒れたんだからさ、飲んでよそれ」

俺は、笑ったまま指図した。
もう、いい具合に冷めた珈琲。
猫舌などと逃げる事は出来ない。

「ねえ、何故飲まない?気分じゃない?珈琲やっぱり嫌いだった?」
「…」
「ライドウ」
「…」

飲まないんじゃない。
飲めない理由が有るんだ。

「ねえライドウ、毒なんか入ってないからさ」

微妙にゴウトちゃんが威嚇して声を鳴らした。
物騒な単語をいきなり吐いた俺に対してかな?
そんなゴウトちゃんを俺は見つめてから、隣のライドウに視線を戻した。
ライドウは表情を変えずに俺を見ていた…が。
その肩が微妙に、小刻みに揺れている。
俺は何も云わずに様子を窺う。
ひそかに零れ始めたのは…哂い声。


「ふ、ふふふふっ…鳴海所長、流石に諜報員だっただけある…」


いよいよ姿を見せた、本当の葛葉ライドウ。
それまでの微笑みは掻き消えて。
脱げた下の表情は…酷く感情的だった。

「まあ、大した機密でも無いし済んだ件だから…あんなのは見せちゃっても構わないんだけどね」
「僕は諜報活動を専門に指導されておりませんので…やはり駄目ですね」
「いやいや、イイ感じだったよ〜…で、俺の事諜報員って事まで調査済みなんだ?」
「陸軍諜報員…抜けてからはヤタガラスの傘下にてオッカルト専門に探偵…と看板を掲げている」
「そうそう、ヤタガラス様様ですよ」
「ヤタガラスのお陰で、軍部とかつての敵対勢力からの脅威を受けず安穏と過ごせる…」
「ま、サマナーと依頼人の窓口になり続ける必要はあるんだけどな」
ライドウは、つらつらと俺の過去と現状を述べた。
全く虚は無い。
「カルチエの腕時計三つ、アクアスキュータムのスーツ五着を好んで廻し着…愛用の葉巻はクレブラ」
「ぉおいおい、よく観察したもんだなあ」
「ヤタガラスに与してはいるものの、悪魔を不可視と断定し、存在を感じようとしない」
「その通り、だって見えないもの」
だから、ライドウが戦っていても…
きっと何も解らないのだろうと思う。

「ねえ、鳴海…さん」

初めて、ライドウから…俺に声が掛かった気がする。
私的な都合で。
「その珈琲に毒が入っていない、と言い切れるのですか?」
とんでもない。
何故俺がお前を陥れる。
ヤタガラスの命令だとしても、何故毒を盛る?
「だって、俺ライドウに怨みないよ?」
「無くともやっていたでしょう?過去に」
痛い所を突いてくる。
そう、それにも嫌気が差していたのは事実だ。
「だったら、俺が飲んでみせようか?ライドウ」
「もちろん同じカップの同じ吸い口ですよね?」
「そりゃあそうさ、条件の一致に意味が有るんだからな」
ライドウの側にあるカップを指で掴む。
そのいつも通りに薫る液体に、舌をつけた。
「ほら」
嚥下する苦味は、いつもと同じ。
そう、いつもと…

「っ」

ち、がう。
いつもと違う…!
視界が少し揺れる。
なんだ、一体なんの種類だ?
飲料に紛れるのだ、植物性の薄いやつか?

「ふふ…ほら、御覧なさい鳴海さん」

向かいに座るライドウ…が、揺れて見える。
妖しく、さも可笑しそうに哂うその顔…は
(ああ、もしかしてあれが不可視の…存在?)
馬鹿な、使役する側だろう?彼は。

「いつ…」
「貴方がゴウトに気を逸らした瞬間に入れました」

なんとも淡々と云ってのけるこの少年。
おかしい…だろう。
ソファに横たわり、唸る俺に近付いてきたライドウ。
俺を上から見下ろして、呟いている。

「いつ、盛られるかも分からぬ…簡単に口にする方がおかしいでしょう…」
「っく…」
「貴方がヤタガラスに命じられ、僕に試練を与えている可能性…捨て切れない」
「ライ…」
「僕に優しくする理由も無いのに、している貴方が疑わせた…自業自得と思い、今後僕には命令のみすれば良いのです」

おい、おいおい…何を云っているんだ。
それがお前の普通…なのか?
これが、ヤタガラスの育てた…凄腕サマナー?

「解毒剤なら有りますから、勝手に呑んでおいてくださ」
「…いそうに」

なんで、なんでこんな…

「?…鳴海さ」
「かわいそうに…ッ…かわいそう、に…ッ」

お前、何歳だ?
里から出た事があったのか?
人から貰う歓びを知らないのか?
血染めで還ったその日にも、お前は平然として
優しさすら甘受出来ないのか?

こんな…
中身は…中身はこどものままじゃないか。
何も知らないままじゃないか。
俺の過去を知ったって、ヤタガラスの機密を知ったって。
お前は人生の何割も知ったことにはならないのに。

俺の呻きは、別にライドウを馬鹿にしている訳では無い。
現に、自分でも情けないくらいに震える声音だった。
それくらい…あまりに眼の前の少年が、哀れだった。

「…」

ライドウは、俺を見つめたまま停止していた。
その眼は…哂ってもいないし怒ってもいない。
苦しむ俺から視線を外さないで…そのまま俺に覆い被さってきた。
綺麗な相貌が、揺れた視界でも確認出来る位に…近い。

「鳴海さん」

ズキズキしてきた頭を、少し動かしてライドウをしっかり見た。

「解毒しますから、口を寄越して下さい」

なんだ、お前が介抱してくれる気になったのか?
俺はそうぼんやりと考えて、口を開いた。
(!ちょっ―――)
突如唇を割って入ってきた舌。
と、苦い味。
解毒剤を舌で、無理矢理喉奥に押し込まれた。
噛み砕かれたその錠剤は、既に解け広がって苦い、かなり苦い。
そして…遊女のそれよりも熱い舌。
嫌に巧みなその動きが、この少年の“普通”を匂わせる。
「ぷ、はっ」
毒と、熱に侵された俺を、跨ったまま見下ろすライドウ…
あの、哂いのまま…ただ、ぽつりと呟いた。

「コンゴトモヨロシク」

眼は哂っていなかった。
かわいそうと俺に云われた時の、あの眼をしていた。

かわいそうなこども-夜・了
* あとがき*

ああ、久々に完結した気分です。
これは以前から考えてあった話ではありますが…
微妙にライドウ×鳴海なのでしょうか?
でも…精神的には鳴海が大人でありんす。
冒頭説明にある《アダルトサヴァイヴァー》ですが…
かなりライドウです。
『対人恐怖を持ちながら、心を開いた他者に対しては一転して依存的になり、退行したあげくに欲求が満たされないとして攻撃的になるという対人関係様式を持つ』
うわあああああ後の人修羅に対する言動を思うと…