脆い鞭




 泡が、舌上でぱちぱちと嗤う。サマナー客の会話、グラスとマドラーの接触、卓上に撒かれる金銭、鉱物、管の音……そんな喧噪をモノともせずに、僕の中でぱちぱちと。
 純粋なソォダ水は久々だった。酒と違い、後追いに昇る熱が無い。それでも炭酸が多少は仕事をしてくれた、もっと不味い記憶をしていたが、それは僕が気の抜けたもの≠ホかり飲んでいた所為と思い出す。そう、ルイが頼んでおきながら一切口にしない時に、決まって僕が飲み干していたのだ。風味だけはぼんやり甘く、しかも温い。その後味の悪さにかこつけて、口直しさせろと小突いた帰り道──
 
 泡もすべて爆ぜ、味気無い回顧から離れた頃。右隣の男に独りか≠ニ訊ねられた。英語だ、それも英国訛りの。カウンター席に座れば珍しくも無い出来事、意図が見えぬ奴は適当にあしらえば良い。
「As you can see(御覧の通り)」
 すればお次はゴウト童子は居ないのか≠ニきた。なるほど話が早い、此方の事は知っている様だ。ちなみに僕が童子を邪険にしたのではない、彼の方から『しばらく依頼を断て』と云われ、銀楼閣を出てきたのだ。確かに、ここ最近は休む事無く動いていた、あの猫も畜生ながらに疲れたのだろう。なにせ監視に同行せねばならぬ、僕に仕事を増やされているも同然という事だ。
 それからひとつふたつ、いかにもサマナーらしい話題を横から投げられた。あの悪魔は何処に居るかだの、希少価値の高い名刺を買い取るだの……我々にとって、つまらなくは無いが、ありきたりな内容だ。これを長時間続けるのであれば話術が求められる、しかし隣の異国人から其のスキルは感じ取れぬ。いよいよ欲しい悪魔は居ないのかだの、捜し物や尋ね人は無いか、などと釣り糸を垂らし始めた為、僕は喉で哂ってしまった。
 お隣さんはサイドの波打った山高帽にスーツ、フロックコートは薄手のウールか、鶯色で統一されている。シャンデリアに照らされ時折輝くうなじ、横目に其れを見てタイプの違う金髪だな≠ニ頭の片隅に思う。
「You wanna do it?(したい訳?)」
 単刀直入に訊いてやれば、隣のサマナーよりも早く、周辺一部の客が静止した。そして何も聴かなかった振りで、各々の時間に戻ってゆく。
 今まで通り、不良書生のガワを纏った猥雑サマナーと認識されていれば良い。新世界がアウトローのサロンだろうが、僕ほど外れた奴もそう居らぬだろう、何も変わる事は無い。
 金の毛並みを猫じゃらしが如く追う僕こそが、もはや黒猫の様であった。 
 
 
 銀座でタクシーを拾い、僕をエスコートするサマナー。先程の挑発に対して意外と前のめりにならず、程々に紳士的である。行き先を記したであろうメモ、渡された運転士が読み上げ、彼はイエスと頷く。何の因果か、其処は以前ルイと泊まったホテルだ。車窓を徐に、ぽつりぽつりと雨粒が飾り始める。携帯していた蝙蝠傘のハンドルを、それとなく握る、悪天候は察していた。紳士に冷えるのか≠ニ問われたが、そうでは無いとだけ返す。一瞬、刀の柄を握りしめたと勘違いされたのだろう……心配よりも緊張が伝わってきた。心配無用、車内で得物を抜刀する事は大変難しい。

 ホテルのフロントは、先日と違う従業員だった。しかし、このいでたちで宿泊する僕は記憶に残り易いであろう。どの様に噂されるかな、西洋人を食い散らかす書生だろうか。僕が葛葉ライドウと知る者であれば、ただ納得するに終わるだけか。
Is it possible for one more person to stay in the room that I have booked?
 紳士が伺うと、従業員は快諾し料金を説明し始めた。こうして勝手に追加された僕は、今宵予約してあるという部屋に連れられた。先日宿泊した階の、ひとつ上だった。部屋の間取りは同一で、調度品の趣にやや差異が有る。カーテンの隙間からは暗闇が零れ、海は見えそうにない。
 紳士はCallum(鳩)と名乗った、恐らく真名ではあるまい。背は此方より頭一つ高く、ポンパドールの様にして短髪を固めていた。暗黙の了解で、まずは互いの身体検査から。上着を一枚脱げば装備が露わとなる。向こうはシンプルに銃とナイフ、サスペンダーに管を複数。シャツまで剥いた時点で鳩胸と判る為、視線で指しつつ「A pigeon, for sure(確かに鳩だ)」と唱えれば、軽やかに笑っていた。
 
 恐ろしいくらいに嫌味の無い、性質とプレイ。そんな行為(というより相手)は珍しく、沿う様に押し引きすれば、僕は只の水と為る。身体の反射も呻きも、掻き乱した際の泡沫。浸食され、緊満した其処をつつけば爆ぜるだけ。僕の垂らす体液に、MAGを求めるにせよそうでないにせよ、ひたすら舐め回す姿は滑稽に映る。
 最初は僕の背面を見るなり声を上げた彼だが、現在痛む傷は無いと伝えれば、それからは気にしていない様子。サマナーに生傷はつきものだが、これが悪魔から与えられたものでは無い事くらいは察したのだろう。
「May I smoke?(吸っても?)」
 余韻に耽りムスコ共々ぐったりしている鳩紳士に問えばもちろん≠ニ返す彼。薄暗闇の中で、金髪は仄白く見える。僕の黒髪は夜の空気に溶け込むと、以前云われた事を、声を思い出す。
(やたら思い出して、我ながら莫迦げている)
 カーテンを開き、窓を開放した。雨は真っ直ぐ降り落ちて、風も無い。雲は薄いが、月は隠され鬱血が如く滲んでいる。
 月光も無し、照明はベッドサイドのみ、しかも四階だ、軍人が見張り歩いていたとして、何も気にする事は無い。僕は全裸のままでテーブルに乗り上げ、窓の縁に片脚を下ろした。灰皿とセットで置かれたマッチを擦り、潮に雑じる赤燐の匂いを吸った、続いて煙草を咥える。
 燻される毒を味わいながら、外を眺めた。水平線も判らぬ黒い海……確かルイを見送ったあの時も、こんな具合の小雨だった。湿気のせいか記憶のせいか、背中が引き攣る。鳩紳士には平気だと云いながら、日の浅い傷がいくつか有った。あの日、見送り、里に行き、打たれた、予測通り。
 単にすっぽかした≠セけならば、嫌味か軽い暴力で終わったろう。僕は明らかに、異国へ逃亡すると疑われていた。面妖な西洋人と何かを企んでいるのではないかと、吐けと打たれ詰られ……半ば拷問の様な仕置きであった。痛いといえば痛いが、ただそれだけ。犯され喘ぐ事や、畜生の様に鳴く事は、まだ演じられる。しかし痛みに啼く事だけは、気が許さない。打たれ、情けなく悲鳴するなぞ、そんな堪え難い事は──
「……」
 唇の放した煙草を、咄嗟に指で引き戻す。雨濡れに乱反射する石畳の上、人影がぽつんと居る事に気付いてはいたが。徐々に顕わになるシルエットに、この身が粟立つ。互いに顔を識別出来る距離では無い、それでも感じた、あれは……あの男は、ルイ・サイファであると。
 
 何故此処に、日本に居る? 渡航日数から計算すれば帰国出来る筈もない。気の迷いが見せる幻覚か、それとも何者かが差し向けた贋者か。様々な可能性が巡っては、結局ひとつに拠れてゆく。あの男なら……何があっても、おかしくは無いからだ。
 灰皿に煙草を叩きつけると、転がり落ちる様にして窓辺から離れた。僕の咄嗟の動きに対し、寝台の鳩紳士も上体を起こしつつ何かあったのか≠ニ潜め声で云った。当然、詳細を教えるつもりは無い。
「Sorry but I’m gonna bail(悪いが、帰りたい)」
 そう返せば、彼は分かり易い落胆の仕草を見せた。逆上し襲ってくる事もしないのだから、僕を抱いてきた面子においては、だいぶ理性的な方である。
 鳩紳士はよろりと寝台から降り、ガウンだけを着込む。そして自身の荷物に近付くと、管を選別し始めた。
 身体の対価は悪魔払い、という条件で承諾したので、今から引き渡しにかかるのだろう。管と管の触れ合う、硬質で澄んだ囁きが部屋に響く。管というのは、触れれば宿る悪魔がサマナーには判る(少なくとも主人であれば)つまり、あの指先の彷徨いは……何を提示するか迷っているという、優柔不断の表れだ。この際、頂戴する悪魔は何でも良い、とにかく早くして欲しい、しかしサマナーとしては理解出来る。
 無言のまま待てば、次第に雨音が目立ち始めた。ふと窓を見やれば、カーテンも忙しなく踊っている。僕は間合いを詰める様にして、再び窓へと近付く。見下ろせば案の定……此方を見上げる姿が有った。ジャケットとハンチング帽が、雨に打たれて沈んだ色をしている。黒革の手袋をひらりと上げ、いつもの淡白な笑顔で手を振る西洋人。その唇がライドウ≠ニ紡いだ後にヨル≠ニ塗り替えてきた。
 締める時間も惜しいので、素肌にスラックスを穿き込んだ。シャツの上から外套で覆い隠し、乱れた髪を帽子に収めて。鳩紳士には「窓から私物を落としたので、拾いに行く」と適当を云い、蝙蝠傘を掴み部屋を出る。フロント従業員の一瞥を流しつつ、表へ抜ければ強い雨脚。ガス灯の光が引き裂かれた様に、暗闇に揺らめいていた。
「ルイ」
 一帯を目視確認する、気配を探る、見当たらぬ。
「ルイ!」
 声を大きくしたが、やはり反応は無い。忽然と消えてしまったというのに、内心どこかで納得をしていた。
 寧ろ僕だ、何故直接来てしまった、窓から此の傘を投げれば渡せたではないか。そう……借り物を返せば用事は済んだ≠ニ、それこそ奴が完全消失する予感が有ったからだ。しかし現実はこの通り、どうやらルイは持ち物に未練が無いらしい。
 先程と同じ従業員が「お帰りなさいませ」と律儀に挨拶し、傘の水滴を拭ってくれる。厚い対応に薄い礼を述べた僕は、無心のまま元の部屋へ向かう。譲渡する悪魔も、いい加減決まった頃だろう。部屋番号を確認、軽くノックし数秒待てば、ドアノブが傾いた。僕は咄嗟に一歩引き、半身のまま構えて睨む。隙間から覗くは鳩紳士にあらず、ルイだった。
「おかえりライドウ」
 いつ擦れ違った、いや他のルートから入ったのか。そもそも本物なのか、鳩紳士の悪戯か、ルイの要素を入手せねば擬態出来ぬ筈、ではこいつは何者だ。
「部屋に居た男性は」
「訪ねた時には居なかったな」
 ルイを押し退ける様に侵入すると、まず荷物を確認した。やはり残っている……スーツもコートも帽子も武器も。そしてソファ前のテーブル上に、放置された管達も。これら一式を置いて何処へ往けるというのだ、ガウン一枚ではフロントで止められるだろう。ではホテル内を放浪しているのか、いや理由が無い。
「もしやルイ、君が化けていたのか」
「何に?」
「……新世界で、僕を口説いた男にだよ」
「へえ、口説かれて一緒に泊まってたのかい、ライドウ」
 再会早々、一体何の話をしているのだ。
「其処は僕の勝手だろう。君が真にルイ・サイファという人物なのか、先ずは証明してくれ給え」
 背後に自身の荷物が来るよう、移動しながら要求した。思えば外に飛び出した際、武器すら携帯しなかった、愚かしい……この状況も、すべて。

-----◇-----

 証明せよとは、また難しい事を云う。ぼくは人間としての証明物品を持っていない。正体を知らぬ君に対し、魔王の証を出すわけにもいかない。大体、人間は何を基準に判別されているのだ、例えば目の前の……
「ねえライドウ、君がライドウである証明をしてみせて」
「何だと」
「ああそうだ、君は葛葉ライドウの十四代目である前に紺野夜だった。では、夜である証明をしてよ。この国だと戸籍≠ニ云うのだったかね、それこそ以前、君がもののついでに教えてくれた」
「僕に有る訳無いだろう、出自不明の孤児だぞ」
「その程度、ヤタガラスが用意するものでは」
「ククッ……されておらぬよ、その方が都合好いそうだからね。葛葉となりし狐、その価値だけが僕に仮初の権利をもたらす」
 目の前の君は、ぼくを睨むまま。全身で警戒しているのが分かる、しかしその強張りは自制の様にも感じる。こちらに飛び掛かるのを抑えているのかな、何の為に掛かって来るのか知れないが。
「戸籍同様、名刺を出したところで只の紙、そんな物は幾らでも偽装可能だ。姿形は、擬態術で誤魔化せる。何であれば納得するのか、提示してくれ給え」
「そのままお返しするよライドウ。君の方こそ、ぼくが何を示せば納得するのか、ヒントくらいは欲しいな」
「……僕の貸した本」
 ぽつりと呟かれた言葉で、ぼくも綺麗に思い当たる。鞄の留金を開き、暗闇を漁った。するりと抜き出したファウストを差し出せば、一瞬で氷解したMAGを感じる。
「ところで、読んだのかい」
「勿論、紐の挟まれていたページを諳んじてみせようか」
「いいや結構。君、文を憶えているだけで内容は解っていないだろうから」
 本を受け取るライドウは、換わりに傘を寄越してきた。そうそう、こんな物も預けてあったな。人間はずうっと濡れている訳にいかず、防御せねば風邪をひくとの事だったから、このなりきり道具にもお世話になったものだ。
「再会を祝したい所ではあるが、男の行方が知れないときた」
 外套を脱ぎつつ云うライドウだが、ぼくはノーコメント。だって、その男がどのようにして出て行った≠ゥを、知っているから。
「その人が戻って来るまで、ぼくは此処に居ても?」
「……構わぬかと」
「そう、ではゆっくりさせていただくよ」
 傘は壁のフックに掛け、雨露に湿ったジャケットを脱いでソファの背に放る。二つ並んだベッドのうち一つに寄り、眺めていた。白い水面を掻いた跡が、記憶の手癖と一致する。
「隣の方をお薦めするよ」
「何故」
「そちらは使用済み」
「二人で寝たの?」
「百を知るまで質問責めする癖に、どうしていちいち一ずつ訊くのかね君は」
「ライドウの洒落を聴くのも久々だな」
「新世界で口説かれた、僕は誘いに乗った、その寝台でセックスした、これで満足かい」
 口早に経緯を語るライドウ、内容に嘘は無い、けれど肝心な部分は欠落している。
 先刻、窓を見上げたぼくと眼を合わせたよね、あの瞬間、君は珍しく隙だらけだった。意図せずぼくは吸い込み、君は溢れさせてしまった。流れ落ちた君の意識は、ヒトに標準を合わせたぼくにとって、分かりやすい絵画と化す。
 描かれる光景には、ぼくの器だらけ。ソォダ水を飲んでいたり、銀座の道路に飛び出したところを君の腕が引き戻したり、何度擦ってもマッチに点火出来なかったり、断崖で海を眺めていたり。風に煽がれたぼくの髪は、沈みゆく太陽を透かし黄金に輝いていた、そこへ君の指が絡み、いやぼくの髪に絡めとられた君の腕が、落ち着く場所を求め彷徨い、やがて戸惑いがちに縋る──
「君はぼくを求めていた、違うの」
 率直な結論だが、返事は無い。ライドウは畳み置いた外套の上にポンと本を放ると、此方に背を向けたままじっとしていた。断りもなく、ぼくは背後に立つ。
「金髪の人間であれば良いのかな」
 振り向きざまに頬を打たれ、ハンチング帽がほろりと絨毯に落ちた。痛みは微塵も無く、ジンとした鳴動は瞬く間に消える。ぼくを攻撃した君は、どんな表情をしているのだろう、予測がつかないのでライドウを真正面から堂々見据えた。しかし俯かれ、あまり見えなかった。
「……………………ごめん」
 消え入りそうな声だが、鮮明に聴こえた。これまで謝罪めいた相槌は幾度か貰ってきた、だが今の言葉は初めてだ。確かこの国の謝罪文に違いない筈、ならば猶更わからない。
「何に対して?」
「ルイが不快に思ったかもしれないと」
「ああ、叩いた事に対する謝罪とは違うのか」
「それも兼ねよう」
「叩いたという事は、怒りを感じたのだろうライドウ、何故?」
「……そんな事まで曝さねばならぬのか、君の鈍感には呆れる」
 謝罪の次には嘲弄するライドウ、その方が見慣れた姿と感じる。でもどうしてか、一瞬見せた先刻の面を、ぼくはもう一度見たい。
「だってライドウ、ぼくが不快に思う事など、何処にある? 君が何をしようと、君の生なのだから勝手にすると良い。誰と遊ぼうが、ぼくの代わりを探そうが自由だろう。それとも、ぼくが不快を感じる事こそが、望みだったか?」
「そんな意図、有る筈が──」
「怒りも悲しみも無いよライドウ。ぼくの事、やはり何も知らないのだね」
 いい加減見えない顔を、こめかみに両手をあてがい上向かす。血色が良い、というよりは紅潮していた。悪酔いも、まぐわいもしていないのに。そして、震えている。表情は……ぼくには判断出来なかった、とりあえず歓びは無いと思う。
「いいよ夜、望みをあげる」
 額に口付け、学帽を落としてやった。強張る君の腕を引き、拒絶を無視して使用済み≠フ水面に押し倒す。以前にも感じたが、押せば逃げるのだね君は。一定の満ち引きを繰る波とは違う、いかにも人間的。
「抱けとは一言も云ってない」
「本当だ、ぼくとは別の金髪が落ちてる」
「せめて隣にし給え」
「君は指摘して欲しい、詰って欲しい、そうなのだろう夜」
「莫迦を云え、何故僕が……」
 首筋に舌を這わせば、息をひきつらせた君。啄ばみつつシャツを開き、顕わになった胸元を今度は吸う。声を殺せば、心音が目立つのに。
「ね、この辺り、しつこく舐められた?」
「は……っ」
「別の人間の味がする」
「どうでも良いのなら、何故抱く」
「夜こそ何故、どうでも良い人間達に抱かれる。ぼく以外に身体を許さぬと、そんな事が出来るのかい」
「散々話してきただろうが、僕の生まれと立場と」
「それらと引き換えにする程の価値や信用が、ぼくには無い、そういう事だよ。だから見送りに来てはくれたが、国を離れる決意は無かった、これまでの己が崩れてしまうからだ。既に葛葉ライドウと君は一体化している、最早切り離す事は出来ない」
 上体を起こせば、ライドウの腹をくすぐるぼくの髪。微かな身じろぎと、悦楽の滲む溜息を聞いた。
「日常的には《ライドウ》が抱かれるのであり、本来の己が望むものではないと云っていたね君。そもそも性交は侵略行為だと。では今回、誘いに乗ったのはどういう事だろう。機関の人間だった? 恩を売っておきたい相手だった?」
 馬乗りのままスラックスを解いてやれば、下穿きが無かった。今問い詰めるべき事情では無い気がして、そのままずるりと剥ぐ。
「……立場も機関も関係ない、恐らく相手もそのつもりで僕を誘っていた」
「一目惚れ?」
「違う」
「セックスがしたかった?」
「違う」
「違わないよ、承諾したのだろう?」
「それが目的な訳無いだろう! 僕は──」
 他者の臭いが残るシーツに押し付けたまま、囁く。
「ぼくを求めていたと云いなさい、夜」
 窘め、貶め、耳を舐め、呪いの様に。
「過剰な愛欲も、性交も畏れる君にとって、ぼくはとっておきの遊び相手だろう。しかしぼくは留まらない、再び日本に戻って来たのも気紛れ。ではぼくを縛るかね、それも出来ない。君が焦がれるは自由や強さ、その前者をぼくに見出したのだから」
「ルイ……」
「支配するより、される方が易いと思っていたのだろう。残念だったね、ぼくに執着が無くて」
 会話しながら準備出来るとは、ぼくもある意味で君に調教されたと見える。
「っあ……はっ、ぁ」
「油は必要? 要らないかな、拡げると垂れてくる、何回出してもらったの?」
「教える義理は無い……」
「背中を見せて」
「人の話を聞いてるのか」
「そうだな、傷の増えた分だけ、ぼくも打ってあげる」
 じゃれつくように引っ繰り返し、シャツを完全に取り払う。相変わらず君の背中は砂嵐のようだが、最後に見た記憶と照らし合わせれば、どの傷が新しいものかすぐ判る。
「四十近く打たれた?」
「既に数えるのも飽いたよ」
「此処、一番治りが遅い」
 右肩近くの傷を舌でなぞると、シーツに爪を立てる君。きっと、鞭の時は轡など噛まされているだろうね、歯を割ってしまうから。それとも、もう奥歯は砕けてたりするのだろうか。散々これまで舌で蹂躙したのに、憶えていない。
「どんなに酷く打たれようが、君は泣き叫ばないのだろう。だからね、ぼくはこっちで打ってあげる」
 君に丁度良く誂えた、いつも通りの形と硬さ≠ナ、引き締まった臀部をひたりと撫でた。懐かしさの震えか、ただの反射か、それとも恐怖か。ライドウは額をシーツに擦り付け、ぼくから目を背けた。その脇腹に手を差し入れて、ぐいと腰を持ち上げる。
「……っ……ぐぅッ」
 呻くライドウに構わず、行き止まりまで挿入した。情交の忘れ形見が、滑りを好くしてくれている。その事実はライドウにとって恥なのか快感なのか、この反応では判らない。
「四十までに君は悲鳴してしまうだろうな、ふふ……」
 ゆっくり、ゆっくりと、犯してゆく。十ほど穿った頃に手袋を外し、素手で直に触れ回る。肌の上を、皮の下を、脈の中を……MAGが踊り狂っていた。薄暗い部屋に淡く散る、儚い光。窓から吹き込む風と雷光に、掻き消されてはまた浮かぶ。グラス越しに君を見つめた時を、記憶から引き出しては思い描く。炭酸の泡は水面で消えるが、ループしたかの如く底面から生まれる。ただしいつかは枯渇する、中の気≠ヘ有限なのだ、生体のMAGと同様。
「十……十二……十三……十四……十五……」
 第三者の体液が、ぼくの男性器(に形作った凸)にまとわりつく。でも、それだけではないね、君の匂いが立ち昇って来たから。確認がてら前を触ってあげようか思考し、やめた。
「は……はぁァ……はッ…………っぐ……」
「三十九……四十…………おやおや、本当に鳴かずに終わった、偉いね夜」
 宣告通りの回数までライドウは、喘ぎになりきらぬ呻きを洩らすのみだった。ずるんと抜いてから、肩を掴んで仰向けにさせる。ライドウのモノは本人と連動せず、ただただ不随意に呼吸して、まるでしゃっくり≠フ様だ。達したか否か定かで無いが、先端が潤んでいる。乱れ崩れた黒髪の隙間、ぼくを射る眼光がぱちり、ぱちりと明滅した。
「別の人間と遊んだ君に不快を感じ、仕置きした。これでいい?」
 傍らに寄り添い、前髪を梳いてあげる。顕わになった面立ちは、どこか青白い。
「今のが仕置きというのか」
「だって君、自分が主導でないセックスは暴力と感じるのだろう」
「以前、僕をひたすら嬲った……あれも仕置きだというのか」
 どれの事を指しているのか、やや考えた。ぼくが一方的に嬲ったといえば、夜がいよいよ涙した日の事かな。
「あれは違うよ。あの時はね、ライドウではない君が気になって、引きずり出してしまったのだよ」
「其れの方がましだった」
「変だね、今回は夜の云う事を聞いてあげたのに」
 ゆっくりと首を傾け、目いっぱい近い距離からぼくを睨むライドウ。雷鳴が轟けば、闇色の眼が紫紺に輝く。あまり長々と眼を合わせては、互いの為にならないよ。ぼくは本来の色を隠しているし、君は眼から侵入されまいと心を必死に閉ざしているし。
 そんな事を思いながらも、暫く見つめ合った。そして徐にライドウが口を開いた、その声に抑揚は無く、まるで独り言の様だ。
「ルイ、いっそお前が悪魔なら良かった。悪魔であれば契約も条件もMAGの取り交しも、何もかもが白黒ついた。僕がサマナーであり、お前が悪魔という、不変の関係で居られた。支配するもされるも、立場がさせるだけと思えたろうに……」
 なんて事を云うのだろう、この人間は。
「夜」
 君の名前を呼び、ぼくは堪らず身体を起こした。ああ、背中が疼いてしょうがない。羽が生えそうになるのを、数秒の集中で抑え込む。これを興奮というのなら、ヒトが云う所の勃起なのかもしれない。ライドウの台詞が、堕天使たるぼくを……わたしを、貫いたのだ。
「ぼくが悪魔でなければ、共に居られないというのかね?」
「そんな事は云ってない」
「ならば気にせずにおいで」
 表情を失くした君は、やはり一層美しい。失くしたというよりも、未だ全てを持たないのかもしれない、知らないのかもしれない。あの休日に見た通り、サマナー以外の部分は傷だらけで音飛びし放題、殆どが不協和音なのかもしれない。
「悪魔も人間も大差無いとは君の論だ、それに従えば良いだけだろう。人間相手にだって、これから基準を作ってゆけば良い。それにね、白黒つける事が出来ない人間なんて、とても大勢居ると思うよ」
 それこそ悪魔、神でさえ。
「だから夜、ぼくが何者かなんて本当はどうでも良い、そうだろう?」
「…………ククッ、尻尾は出さないときた」
 ほら見た事か、此方の好奇心に鎌をかけていた。これだから侮れない、デビルサマナーめ。しかし、今回ばかりは見せ過ぎたねライドウ、窓を閉め忘れては侵入されて当然。それがどれだけ高い位置に在ろうと、翼を持つものには無関係だ。
「さ、二度目。ぼくを求めていたと云いなさい」
 覆い被さり上から呪いを吐く、出来る限り雑に。あまり真剣に行なっては、本当に契約を結んでしまう恐れがあるだろう。力量差などは関係無く、ぼくが己の気紛れを信用出来ないから。
「君の意のままに云うのは癪だな」
 枝垂れるぼくの髪を指先に掴み、目の前に遊ばせるライドウ。
「この髪、一糸くらいくすねておけば良かったと、痛く後悔した。擬態して、鏡でも見れば会える」
「それはぼくに非ず、君でしかない」
「それで構わぬ、君の真似をするのさルイ。どれだけ僕が君を認識していたのか、確認するのだよ。そうでもすれば、頭から消せた筈。幾ら模倣しようが、心髄は宿らぬ。云われた通り、僕は君を……あまりにも知らないのだから」
「一糸と云わず一房でもどうぞ」
 許可した途端、髪を手綱が如く繰るライドウ、そして引き摺り下ろしたぼくに縋りついた、抱擁というには硬すぎる。頬が擦れ合い、もみあげがちくりとした。
「どうせ知れる事も無い、詮索する気も無い。なあ僕の中に入れよルイ、嫌でも僕の呼吸と熱と、生体エネルギイを感じさせてやる。其方に知る気が無くとも、僕を押し付けてやる、君の好奇を充たすのは僕であると──」
 言葉が途絶えたと思った矢先、また唐突に喋り出す。
「仕置きの真似事なぞ君には似合わぬ、あれは欲を伴うからこそ身が入り、相手を脅かすものだ。君のは仕置きでは無い、ただの摩擦だ。僕の望みを叶えたと云うが、思い上がるな。本当に僕の意思を、欲を読み取っていたとすれば……四十と云わず、百、それこそ僕が悲鳴するまで穿って然るべきだ」
「だからね、夜。それを君から要求させる事で、ひとつの仕置きとするのだよ」
 人心掌握に長ける様で、自身が軸となる場合は慧眼に霧がかかるらしい。だから答えを教えてあげたのに、ライドウは無反応だ。触れ合う胴から伝わる心音、助走が如く加速してゆき、やがて飛び降りた。
「……君に犯された日、激しい拒絶と虚脱を覚えた。そして君が渡航してからというもの、その日の事ばかり思い出す。今までずっと、他者からの情欲は僕を貪り利用する煩わしいものばかりだった、それだというのに。ルイ、君からは……どの様な理由や形でも構わない、僕に注いで欲しいと、そんな莫迦げた事まで考えてしまう、今も」
「ぼくからの行為は暴力とは違うと、そう感じるの?」
「暴力でさえ良いと云っているんだ、まだ解らないのか!」
 人間の細かい事は、本当に解らないよライドウ。君の自尊心を詰れば、仕置きになるかと思ったのに。覚悟した君は折れる事なく、ぼくを吸い込み始めた。高慢と威圧を纏いながらにして、自らを捧げるその姿勢、本当に自覚しているのだろうか。潜む魔性に惹かれ集うヒトや悪魔を愚かで野蛮≠ニ哂うのなら、君は些か性質が悪いね、知っていたけど。
「分かったよ、君の気が済むまで抱いてあげる」
 ぐいと引き剥がし、正面から覗き込む。ようやくまともにぼくを見たライドウ、睨むでも眺めるでもなく、それは共に遊び歩く時の眼をしていた。
 
 
 雨雲が立ち去ったのか、窓の四角は美しいSteel blueで、カーテンも両端に留まり息を潜めている。汽笛が微かに聴こえ来るので、思わず船を確認したくなるが、少し堪えた。音からして遠いだろう、海上まで飛んでしまえば、その間にライドウが起きるかもしれない。いや、まだ起きない事がおかしい。以前は確か、この時間帯に鍛練していた。
「ライドウ」
 傍らの少年を揺さぶり、耳元で呼ぶが起きる様子が無い。マットレスが代わりに返事している。昨晩、散々軋ませたのは使用済みのベッドだったが、事が終われば未使用の方へと二人して移り、そのまま寝た(ぼくは眼を瞑っていただけ)糊のきいたシーツは第三者の臭いも無く、それに安堵したのか、君は数秒足らずで寝てしまった。
「夜」
 再度呼んだが、やはり無反応だ。そういえば人間というのは、起こすタイミングによっては急死したり、夢魔に攫われるという話を聞いた。周囲に悪魔の気配は無いが、はたしてぼくの目の前で≠サういう事が実行されるのかは気になる。ライドウが仲魔を召喚する時も、可能な限り人間のフリをしているが……感覚を通じ合わせた途端、バレるだろうね。
 好きに寝かせておけば良いかと、ぼくだけでベッドを離れた。自分の鞄を掴み上げ、窓辺へ行く。外は一面の青だ、建物や外灯は同系色に沈み、水没した都市のよう。
 テーブルに置いた鞄をぽっかり開き、手を差し入れる。指で闇を掻けば、徐々に感触がまとわりついてくる。幾つか当たる中から、息づくものを引っこ抜いた。最初は軽く暴れたが、もう片手でふっくらした胸元を支えると、急に大人しくなる。
「しばらく散歩しておいで」
 ソレを窓の外に放せば、おぼつかぬ羽ばたきで空を舞い往き、やがて消えた。
「本当に奇術師にでもなるつもりかい」
「おはようライドウ」
 鞄の金具を嵌めながら、ベッドへと返事する。一糸纏わぬライドウが、寝そべったまま此方を睨んでいた。
「どう見ても鳩だった、まさか鞄の中にずっと入れていたのか?」
「寝惚けているの?」
「その窓辺に、羽根の一二本落ちていそうなものだが」
「ライドウもおいで、外の青さが美しい」
「話を逸らすでないよ」
 気怠そうな声の割に、すっくと起き上がる君。そして、ぼくの傍までつかつかと歩み来る。丸腰なのに……と思ったが、そういえばぼくも裸だ。君が普段以上に縋るものだから、こちらの着衣を邪魔に感じているのかと思って、すべて脱いだのだ。
「日課は? やらないの?」
「君のタフネスには恐れ入るよ。正直、下手な運動よりも応える」
「つまり、鍛練はサボタージュするのか」
「余韻を潰さまいとする情緒くらい、酌んで欲しいものだね」
 背中の傷を、わざわざ残す君の事だ。忘れたくないのだろう、受けた愛憎のすべてを。それが安らぎの為でなく、復讐の為に活かされるのだから、退廃的としか云い様が無い。
「あの男、とうとう戻って来なかったな……」
「置き去られた私物は一体どうなるのかね、スーツやサマナーの仕事道具」
「フロントが一定期間預かってくれるだろうさ」
「ところでライドウ、タダで抱かせてあげたの?」
「対価なら未払い、しかし君と一泊してしまったからね……チャラとしよう」
「きっと管の一本くらい、気付かない」
「その様なサマナーが居て堪るか」
「はは」
 君はデビルサマナーを美化し過ぎだよ、反証の様に笑ってしまった。他の全てが自分と同レベルとは、流石に思っていないだろうけど。
 と、そこで気付いた。テーブルに置いたままの鞄へ手を伸ばし、片手で留め金を外す。指先でぱかりと開き、手首まで差し込めば、あっという間に手応えを感じた。ずるずる引き摺り出すは、くったりと縒れたガウン。ああやはり、中で分離してしまったのか、どうりで鳩が純白な訳だ(気にせず放ってしまったが)
 あれでは人間に戻った際、きっと全裸。この時代の人の世では、公にそれを晒す事は犯罪になりがちなので、少し可哀想な事をした。いっそ人間のまま鞄に押し込めば良かったかな、いや鳩胸で突っ掛かり、入る事すらままならないか。
「おいおい君、備品を持ち帰るでないよ。それとも向こうのクローゼットから引っ張り出した≠フかい」
「押し戻してみようか、クローゼットには現れないと思うよ」
 ライドウはそれ以上訊いてこなかった。テーブル上の灰皿に指を掛けたが、煙草を持ってくるのが面倒なのか、そのまま放す。この鞄から引っ張り出してあげても良かったが、他の部屋から掴んでしまう可能性もあるし、やめておこう。
「先刻の鳩も、妙に真白だったねえ……あんなものはこの辺りに飛んでいない」
「青の中に飛び立つ白、実に清爽」
「箱舟の窓から放した鳩は、妙に持て囃されるが。烏の方は知っているかね、ルイ」
「ノアの箱舟の事? よく知らないな、カラスが何か?」
 様々な伝承を、いくつか浮かべてはみた。しかし其処からアタリをつけるよりも、ライドウが喋ってくれた方が愉しい。それに、人間がやたらと派生させた信仰だの神霊だのを、ぼくが把握する筈も無い。いずれ我々の世界に顕在するのだから、その時に知れる事。
「旧約とは異なるアラブの民間伝承だ。最初に偵察のため放された烏が帰還しなかった理由、それは洪水に荒れた水面を漂う生き物≠フ死骸を食べ漁っていたからだと。この不服従を呪ったノアの声を聴き、神は烏に罰を与えた。羽根は黒く染まり、声はつんざく喚きの様に、そして永久に腐肉を食す身体となった」
「へえ、厳しい」
「君はこの不服従とやらの責任、何処に有ると感じる?」
「事前に約束も無かった場合、ノアに落ち度が有るのではないかな」
 地位や親密の度合いも考慮せず、命令者と実行者という理屈で答えた。するとライドウはじわりと口角を上げ、流し目でぼくを見た。どうやら嬉しい回答だったらしい。
「餓えを充たす快楽、それを上回る条件か忠誠でも無ければ、還る訳がないよねえ、フフッ」
「そうだね」
「だからルイ、君が帰って来なくとも、何もおかしくは無かった」
「嬉しくなかった?」
「予想外だった」
「嬉しくなかった?」
「君、時折妙に食い下がるな…………ああそうさ、嬉しいね。だから都合をどうにかする僕の為に、待ち合わせには遅れず来給え。それと、僕がもう要らぬと云ったら、止めていい」
「嬉しくなかった?」
 これしか云えなくなった訳では無い、ライドウの感情確認がしたいだけ。一方で君は、どこかうんざりとした表情に変わりつつある。怒らせたとして悲しむぼくでは無いが、感情を揺らす姿にそれとなく胸を躍らせるぼく、表現としてはこれで正解だろう。
「情けなく喚きたく無いのだよ、君の前で」
「普段の君からは想像もつかない声色を上げているけど、情けなくなんて思わないよ。それに、どんな形でも構わないと、昨晩云ってた」
「やはりどうしても、己の耳に入ると寒気がする」
「では、ずっと口を塞ぐ形で行おう」
「もう好きにし給え」
 ぼくに呆れる君の素振りは、どこか懐かしい。数十日など一瞬である筈のぼくが、何故だろう。ライドウの横顔を眺めど、理由は浮かばない。人間も一瞬に対し、同じ感覚を覚える事は有るのだろうか……
 
 思い巡らし静観を続ければ、徐に腕をぐいと引かれ、浴室に誘導された。どうせ互いに裸なのだからと云い、シャワーをぼくにぶちまけ、泡を飛ばして含み哂い、濡れながらじゃれあっては「あのレストランに行きたい」と呟き、またぼくを引っ張って部屋に、自分は一足早くさらりと水気を落とし、いつもの重そうな装備を纏っていた。フロントは別々のタイミングで抜け、外で合流。水溜まりの隙間を縫い、街角のフレンチレストランへ。本日のランチコースの看板を眺める君が突如、腹を抱えて笑い出す「予約をしていなかった」と。続けて向かったのは路地の片隅小さな屋台、君とこの様な処で食べるのは初めてな気がする、カウンター席の縮小版と思えば良いか。客はぼく達二名のみ、眼鏡を蒸気に曇らせた店主が、鍋を相手にライドウ相手に忙しない。手持ち無沙汰の君が「ノアの箱舟と云えば、箱舟の素材に使われる瀝青(れきせい)というのが有ってだね──」とお喋りを始めたが、想像以上のスピードで料理が出てきたものだから「食後に話す」とだけ述べ、箸を掴んでいた。これは中華そば≠ニかいうものらしく、ぼくが半分も食べていない段階で「再来一イ分」と店主に云った君は、追って出てきた同じものを容易く平らげていた。更にはアルコールらしき飲料を追加しているので、ぼくが「朝から大丈夫かい、あの黒猫君は」と訊いたら「上司当人が休めと云った」の一点張り。過去に例がないため信憑性に欠けると思ったが結局、君の中を読めない限り、ぼくも等しく知らない≠フだから、おあいこだね。
 
「そろそろ其方の話も聴かせてくれ給え、欧州をどの様にして巡った?」
「話なんて何も無いよ」
「おいおい無いときた、土産話のひとつも? 何をしに行ったのかね、全く」
「餓えを充たす快楽が無かったので、舞い戻った」
「翼の穢れを畏れるか……フン、ただの気紛れで帰った癖に、はぐらかすな」
 堕天使と誹られた気がした、被害妄想というものだろうか。
「そうでもないさ。欲を叶えるも、忠誠を果たすも同じ。己が望みの代償に黒く染まるのであれば、悔恨など有るものか。君は違うの、夜」
「ああ、きっと僕も後悔はせぬよ、既に黒いから畏れも無いしね……ククッ」
「君を応援しているよ、この先も」
 帽子の影でほそる眼、グラスの影でまろむ唇。アルコールにか、ぼくの言葉にか、君の上機嫌の理由は判別不能。いや、人間は上機嫌になる為に呑むのだったか、それとも上機嫌だから呑むのだったか。やはり、いまいち解からない。
「あのねえルイ、君は余計な事をせず、暇人で居てくれたらそれで良い。間接的とはいえ前科が有る……帝都で妙な真似をしてみろ、僕もまだ暫くは十四代目という立場を利用したいからね、大目に見る事は無い」
「妙な真似とやらを、これまでもした覚えが無い」
「おいおい、またもや無いときた。槻賀多にも、帝都にも、僕に対しても……いや、もういい、再会を祝し乾杯」
 目の前に置かれた空グラスは、一方的な乾杯をされ。二人分を一気にあおる君は、勝手な祝い酒。まるで、此処にぼくが居なかったとしても通用する振舞い。
 思わず「幾度も繰り返したの?」と、訊こうか逡巡し、やめた。


-了-


* あとがき *
 タイトル「脆い鞭」で詭弁(鞭)と掛けています。後日談がエロ含むので、蛇足かと思いおまけ≠フつもりで書き始めれば「ブルー・スピン」より長くなってしまいました。恐ろしいまでにライドウ(以下:夜)が吐露し、受動的で、重い。後の展開を思えば、己を曝し縋った事のすべてが汚点でしょう。ルイもルイで、ひたすら無責任に、庇護するかの如き言動。
 夜のお前が悪魔なら良かった≠ニいう発言は決定的なもので、これには「人間との間に(ライドウでなく一個人として)関係を巧く築けない」夜の証明と「ルイの正体」への伏線が有ります(読者全員、正体は知っている筈ですが)そして、いずれ会う人修羅との関係性が複雑になるであろう示唆。半人半魔の人修羅に対し、夜は「サマナーとして接する」のか「人間として接する」のか、それこそ白黒つけられない訳です。
 ルイの事を真人間とは思わぬ夜ですが、まさか魔王とは予測もしておらず「初めて出来た人間の友人」という感覚だった。ぼくが何者かなんて本当はどうでも良い、そうだろう?≠ニいうルイの問いに、夜は肯定も否定もしていない。それを鮮明にさせては、少なくとも「人間の友」ではなくなりそうな気がしていた。糖度の高く見える展開ながら、常に夜の不信や不安が見え隠れする。仕上げた後に読み直し、自ら出でた感想です。
 それにしても、ルイの頬を打った後の、夜の謝罪。随分普段と違う毛色ですが、恐らくばつが悪くて取り乱してますね。(2020/9/3 親彦)

〜過去作読了の方に向けた小ネタ話〜

▽何度擦ってもマッチに点火出来なかったり
 ▼SS『海気譚』より、夜に「下手糞」と哂われたシーン。

▽「ノアの箱舟と云えば、箱舟の素材に使われる瀝青(れきせい)というのが有ってだね──」
 ▼長編二章『連結の証』より、冒頭で夜が回想している。

▽「日常的には《ライドウ》が抱かれるのであり、本来の己が望むものではないと云っていたね君。」
 ▼SS『caprice』より、主導権を握れなかった夜が、ルイにさんざんヤられる回。

〜簡易解説〜

▼Callum:カラム
鳩の意、イギリスの男性名で実際ある。しかし鳩紳士、実にかわいそう。ちゃんと人間に戻れたのだろうか。

▼ノアの烏(カラス)
旧約とは異なるアラブの民間伝承≠ニは云わせたものの、あまり詳しく調べていない(なので、劇中で語られた逸話は、話半分で)新・旧約聖書だと「偵察に放した後は帰って来ない、以降出番なし」の訳が多い。しかしベネチアのサンマルコ寺院にあるモザイク画(13世紀)では、ノアの放したカラスが明らかに「死骸の上に留まり、啄ばんでいる」様に見えた。寺院内のモザイク画はだいたい旧約聖書を元にしているそうだが、となると腐肉漁り描写は「ざっくりカットされた」もしくは「モザイク画作家のイマジネーション」のいずれか、という事なのか?(カラスのカラーリングは黒だった、これが姿を変えられる以前つまり最初から黒なのか、カラスと判別し易いように変身後の姿で描かれているのか、謎)7世紀時点ではアラブ人に支配されていた領域だそうだし、寺院のアーチはアラブ建築の様相なので、なんとも混沌としている。

▼中華そば屋台
これは神戸外国人居留地に屋台を出していた店を参考にしたので、ほぼイメージです。「再来一イ分(同じのをもうひとつ)」という夜、朝から元気だな。