母さん、母さん、どこへ行た。
紅い金魚と遊びませう。

母さん、歸らぬ、さびしいな。
金魚を一匹突き殺す。

まだまだ、歸らぬ、くやしいな。
金魚をニ匹締め殺す。

なぜなぜ、歸らぬ、ひもじいな。
金魚を三匹捻ぢ殺す。

涙がこぼれる、日は暮れる。
紅い金魚も死ぬ死ぬ。

母さん怖いよ、眼が光る。
ピカピカ、金魚の眼が光る。
 


金魚玉




「本当、最近起きると身体が重くて…堪りんせんの」
僕の落とす灰が山に成ると、その盆を下げた遊女。
火鉢の灰にそれを放つと、小さく咳き込んでいた。
「悪い輩に心酔し、心が虚弱に成っているのでは?」
「あらあ、ライ様よりも悪い男なんて、こなたの世に居るんでありんすか?」
「クク…確かに、お眼にかかりたいねえ」
煙は止め、煙管の先で軽く誘う。
少し嬉しそうな眼で、遊女が此方にすす、と、着物を畳みに擦らせて寄った。
「一寸失礼」
豪奢な着物の袷、その下の膨らみを、空いた指先で軽く押す。
「あん」
「変な声を発するで無いよ、只の診察さ」
「お医者様ごっこなら、特殊な器具をお持ちしんしょうかぇ?」
「患者さん、もう終わったよ」
「いけず」
「その様な嗜好なら、変態の倶楽部にでも依頼し給え」
何も感じない。
興奮も然る事ながら、MAGの滞留も…異常な感じは無い。
僕が触れた彼女の箇所が大きく跳ね上がり、それに伴う流れしか感じなかった。
この遊女自体に、問題は無さそうだ。
「何なんでありんしょうかねえ…こなんでは、折角ここのとこ好きにさせて貰える様になりんしたのに、お客様も取れんせん」
黒髪を撫で、よよ、と泣く振りで着物袖を目許に運ぶ仕草の遊女。
業とらしいが、それが仕事なのだ、特に可笑しくも無い。
「廓の中で自由も何もあるのかい?」
「あらライ様、此処のお外に自由はあるんでありんすか?」
「どうだろうねえ?フフ……ほら御覧、すぐ其処の金魚よりは、広い世界に居るだろうよ、僕等はね」
窓辺に吊るされる、大きな風鈴の如きそれを見上げた。
薄い陽光に照らされ、ゆらゆら泳ぐ金魚の朱色が畳に影を落とす。
「吊るし形の金魚鉢は、ここのとこの流行らしくて」
「確かに美しいけれど、陽を集積し易いだろう。周りに燃える物は置かぬ事だね」
「どうしてです?」
「レンズの関係でね…」
と、一通り説明しつつも恐らくは如何でも良いのだろう。理解しているか怪しい。
にこりと微笑みつつ、相槌を適当に打つのが彼女等の愛嬌。
物云わぬ金魚にも似て、美しい着物袖を揺らし、只、褥に泳いでいれば呼吸は出来る。
それこそが生きる術なのだ。
「その金魚、綺麗だねえ」
「ライ様が興味を示されるなんて、この金魚は幸せ者でありんすね 、妬けるわあ」
「白秋の《金魚》という童謡を知っているかい?」
「いいえぇ…」
まあ、知らぬが良いか。実に無邪気で残酷な歌だから、好きなのだがね。
「どうやって手に入れたのだい、其れ」
「うふふ、姐さんが残して呉れたんでありんす。まあ、今となっては忘れ形見となってしまいんしたけど」
最近姿を眩ませた遊女の事か。
「…姐さんが居なくなってから、寂しい……それから、何だかずうっと、身体が重い……寂しいんで、その金魚見ながら寝るんでありんすよ」
戻れば罰が待っている。廓を無断で離れた者が、帰ってくる筈も無い。
「一日ばかり、僕に貸してくれないかい」
「え?」
「その金魚」




銀楼閣の事務所の扉、開けば仁王立ちの影。
「…何処行ってたんだよ、あんた」
袴に白木綿の前掛けをした人修羅が、頬を膨らませそうな勢いでむくれた面をする。
それを真正面に見て、思わず失笑した。
「まさか二足歩行のらんちうを拝めるとは思わなかったね」
「は?らんちう?…って、その金魚鉢、何なんだよ」
「遊女から拝借した」
そう返せば、引き攣った頬がやや紅潮するのが見えた。
まさしく、らんちうではないか。
滑稽で、少し肩が揺れる。金魚鉢の中の水も揺れた。
「晩飯作るのに、困るんだよ…何人分作れば良いのか判らないだろ」
「絶対に作れと、僕は云ってないが?」
「鳴海さんに渡されてる金は食事代なんだ、無駄にしたくないだろうが」
ちら、と僕の指先から吊るされる金魚鉢を見る人修羅。
中の金魚と眼が合ったのか、その眼が少し金色を帯びる。
「くす…食べるで無いよ、これは観賞魚だからねえ?」
「誰が!その注意はゴウトさんに云っておけよ」
憤慨する人修羅、その向こうのソファからむくりと起き上がった黒が尾を逆立てる。
『たわけ!誰が金魚なぞ喰うか!!』
いきり立つ黒猫は無視して、僕は部屋に帰った。




「拝借って…それ、返すのか?」
扉が開くと同時に、窓辺の硝子に眼を運んだ人修羅。
「そうさ、早ければ明日にでもね」
「何の為に借りたんだよ…借りた割には、観察しないんだなあんた」
憮然とした声音で、金魚鉢に近付くと、まじまじと見つめて続ける。
「…何だこの金魚、凄い…ボコボコしてる」
「“らんちう”さ、その筋の人間には大変人気なシロモノだ」
「……なんか、気味悪い」
「頭の瘤で優劣が決まるのさ…その面妖な頭は、寧ろ評価するべき箇所なのだよ?」
奇異なものを見る眼付き、そのまま僕の許可すら取らずに寝台に腰掛けて、じろじろと眺め続ける。
「下に敷いてある石は、随分綺麗だけど…」
「ああ、それね、恐らく真珠だよ」
「はぁ!?真珠って……養殖?イミテーションって事か?」
「おいおい功刀君、養殖もある意味本物だろう?君の云うイミテーションとは、物質が違う贋物の事だよ」
金魚鉢の底に敷き詰められた白は、鑑定をせずとも…恐らく真珠なのだ。
あの遊女から違和感を感じない、とすれば…
原因は、彼女の周囲に有るのだろう?
「さて、僕は仮眠でも取るかな」
「は、こんな時間に?」
「おや、いけないのかい?君に指図されて就寝時間を決める程、僕は幼稚でも無いが?」
普段よりも早い時間、まだ窓の外は金魚の様な朱色だ。
金魚鉢の中の魚の色が、その陽の色で判別不可能なくらいには、黄昏時。
「遊女の相手で少し疲れているのだよ」
適当な云い訳をしてみれば、夕暮れの色なのか、それとも充血なのか、君の頬が染まる。
「じゃあ、さっさと寝てそのおしろい臭い身体でも鎮めてやがれ、この破廉恥野郎」
「おや、君も鼻が利く様になったねえ?フフ」
「起きても飯無いからな」
「出先にて“はい、あーん”として貰ったから、腹は膨れているよ」
そんな事実は無いのだが。
苦虫を噛み潰した様な顔が見たくて、捏造してやった。
ばたん、と強い音を放って締められた扉、階段を駆け下りる音も、僕の耳には鮮明だ。
この狭い建造物の中、あれの動きは手に取るように判る。
ほくそ笑み、本当に仮眠なので、着替えもせずに学生服の上だけ脱ぐと、シャツのまま横になる。
寝台に、先刻人修羅が腰掛けた時の皺が、水面に一石投じたかの様に名残を残していた。




真朱
一面揺れる焔
見覚えのある建物

(銀楼閣?)

火消しも来ていない、外には既に所長達が居る。
轟々と燃える銀楼閣を見て、僕は小さく唱える。
鳴海所長の制止も振り切り、轟々と燃え盛る建物の扉を開け放った。
いつもの階段を駆け上がり、ヒールの音すら無い、熱に融け、僕の着衣も黒が崩落して往く。
ドアノブを握ると、指が火傷した。
お構い無しに扉を開き、部屋の中に叫んだ。
人修羅の名。
部屋の窓辺に吊るされているビードロ玉に、焔がゆらゆらと映り込む。
ぐらぐらと陽炎が、その丸い鉢を溶かそうと、この視界から歪ませてくる。
中に泳いでいる筈の人修羅は煮えてしまったのか、ただ揺れていた。
ぐったりと、斑紋を朱色に染め上げて。
風前の灯の様に明滅させている、小さなその身体。
押し迫る焔、阻む炎熱。
“――…しろ”
今戻れば、己は助かる。
それなのに、視界は更に真朱に染まる。何故その様な馬鹿な選択をしているのか、自身が理解不能だ。
吊るされる金魚鉢に駆け寄った僕の手脚は、もろもろと灰になる。
“矢代!”
硝子越しに、ぐったりした金眼が見上げてきた。
恨めしげな、その眼が…

『閉じ込めておいて、この、人でなし』

出目金の様に、ぐりゅ、と蠢いて、ばちんと爆ぜた。





「成程、これは心身疲弊する訳だ」
寝台から跳ね起きて、召喚しておいたアルプに目配せする。
『ライドウの云ってたと〜りだったヨ!』
ぱちんとウインクするアルプが、僕に流動していたMAGから手繰り寄せる。
蛍光色した光の帯が、僕の躯から滲み出てアルプの尻尾に絡め取られていく。
それを釣竿の様にくい、と天に振り上げると、光の糸に喰らい付いていたのは朱色の魚。
ちゃぷん、と涼しい音で金魚鉢から引きずり出され、叩きつけられた床板にびちびちと跳ねる。
「御苦労」
『うなされてたケド、ね〜どんな夢見てたの?教えてよォ』
「悪夢なんざ脈絡も無い。説明出来ぬし、もう忘却してしまったねえ」
『ちぇ〜ライドウのいけずゥ!折角頑張って寝てるトコにちょっかい出さないよ〜にしてたのにサ!』
「しっかり別でMAGを呉れてやっているだろう、わざわざ寝ている獲物を狙うリスクを冒す必要もあるまい」
きゃんきゃんと喧しいので、懐からするりと出す管を眼の前で振ってみせる。
『うなされてるトコがエロいから吸いたいんですゥ〜!』
管に帰還しつつも、捨て台詞の様に残したアルプ。
最近女性陣には嘆かれてばかりな気もするが、その程度が良い。
跳ねるらんちうを見ながら、哂ってそう思った。
「随分な夢を見せてくれたねえ……いや、内容まで貴女が決めている訳でも無さそうか」
床に水滴を撒き散らしつつ跳ねる、その朱色をしゃがんで見下ろす。
薄い鱗がてらてらと、暗闇に光っている。自然光の反射には見えない。
ふぅ、と、MAGの吐息で、濡れた鱗を逆撫でしてやる。
びちびち、びちびち。
跳ねを一層強めたらんちう。
ぼこん、ぼこんと頭の肉瘤が割れ、その割れ目から更に新しい肉瘤が盛り上がってくる。
やがてその体躯が大人一人分程の大きさとなり、虚ろな魚の眼は人間の眼に成った。
『あ、あーぅう、ぅ』
人間の女性の上半身をした、魚。
しかし腕は胴と癒着して、ぼろぼろに解れたヒレの様な髪が、頬に纏わり付いている。
「あの娘に、怨みでもあったのかい。夜毎人の夢に荒波立たせるのは、寒心に堪えないね」
『ち、違う、怨みなんか…ァ』
床を這う半漁の姿、僕を捉える眼に攻撃性は無い。
寧ろ、縋るような黒々とした魚眼。
『私が面倒看てきたってぇのに…あの子を』
「追い越されそうで恐怖した?」
『どうでもいい雑魚相手ならまだ良かったのさ!上に昇る程に、一人一人が独占する時間が濃密になるんだよォ』
「面倒を看る必要が無くなり恐怖した、が正しいかな?」
『解るかいアンタに…あの子を飼ってたんは、この私なんよ』
「何処の術師か悪魔に頼んだのやら…その様な姿に成ってまで占有したかった?愚かな女だ」
『強く想ってる人をねぇ…夢に見るのさぁ…窓辺に私のあげた魚が泳いでいたら…それ見て寝てたら、想わずにゃ居られないだろう?』
「発狂、ゆくゆくは衰弱死しても構わぬと?」
ぱくりぱくりと、鰓呼吸も出来ない巨大な金魚が笑った。
『私のさぁ、ゆ、夢を…きっとあの子ぁ見てるのさ…私の夢見て死んでくれたら、堪らないねェ!』
叫びながら、見開く眼が白っぽく濁る。
項垂れ、伏せられた目許から、何かが落ちて床を転がる。
純白の真珠がカラカラと、僕の爪先に当たって止まった。
はらはらと、伝う涙が石になる。
「唆されて、乗った己の罪だろうよ、フフ……まさか鮫人に成るとは思ってなかったかい…」
『……ぅ、ううぅ……だって、だってぇ……あの子の気ぃ惹けて…ずっと近くに居れるって』
「貴女の様な何かに執着している盲目な人間は、実に良い獲物なのだよ」
あんな夢を見せられて、僕はあまり機嫌が宜しくない。
脚に括ってあるホルスターからリボルバーを引き抜き、魚人の額にごり、と銃口を押し付けた。
「さて、どうしようかね…廓の主人からは“遊女の具合が悪い、邪な気に中てられているのかもしれない”と依頼されましてねぇ…つまり、原因の排除が依頼達成の要」
『ひっ、ひいっ…』
「あの遊女の部屋に居たら、まだまだ苦しめてしまうだろう?」
『も、もう自分でも自制が』
「身も心も、欲望に侵蝕されているのだよ。下級の人外に成るというのは、つまりはそういう事さ」
『違う!違うんだよぉ!ずっと一緒に、一緒に居たかっただけなのに!懐いてくれたあの子と一緒に死ぬまでェ!!』
喚きだすと、更にびちびちと跳ね回る。
その衝撃で弾かれ舞う床の真珠が、やたらと煌いて眼に煩い。
「煩いね…心中を夢想する悪魔なら、排除する他無いと解らぬのかい?」
『こんな筈じゃ、私、わたしはぁ…悪魔なんかにゃ成りたくなかったんよォ…!』
何処か重なるその悲鳴に、引き鉄にかかる指が先に反応しそうだった。
違う、人修羅は人間と悪魔の半々。コレとは訳が違うだろう?
「人に害なす悪魔を調伏する、それが仕事なのでね」
からからころころ。
床一面に踊る真珠がぶつかり合い、ああ、なんて煩い。
お前の責任だろう。
そんなにも容易く、望みが叶うと思っていたのか?
人の心が残っているからこその、呪いなのだろうか。
その余計な感情が、呆れてしまう程の暴挙に己を運ばせるのだろうか。
完全な悪魔に成り切れぬ心こそが、一番の毒なのか…
「飼われていた、の間違いだろう?」
引き鉄の代わりに、管を手に取った。






「はあ、有難う御座いますねえ葛葉様」
「いえ、あれからあの方の調子は如何です?」
「この二日間ですっかり良くなりましてですね、うつらうつらとする事も無く、笑顔にも覇気が戻って来ましたよ。ところで化け物か何かの祟りだったんですかい?」
化け物…ね。
人間も該当するのなら、疑問も無く頷けそうだ。
「フフ、慕っていた遊女が出て行った事で、落ち込んでいたのも要因のひとつでしょう」
「あぁ…あの逃げた花魁ですか、アレは私財もちゃっかり持って出て行きましたからねえ。ま、外じゃあ金無いと生きていけない事くらい知ってたって事ですかな」
全財産投げ打って、あの姿を得たのか。
「本当に馬鹿だね」
「えっ?」
「いえ、此方の話……そうそう、それと此れ」
外套の内側から、木綿の巾着を取り出して、主人に渡す。
訝しんでそれを受け取った主人が、袋の隙間を覗いて、あっと声を上げた。
「あの新米花魁の部屋に居る金魚の、餌代にでもしてやって下さいな」
「こ、こここれ一体どうしたんです、贋物じゃないですよねえ!?」
「さて…フフ、金王屋にでも鑑定して貰えば如何です?」
袋の中でさざめく真珠達が、波の音にも聴こえる。
下に敷き詰めれば、あの狭い鉢の中でも海の心地なのだろうか。
遊郭から出ると、灯篭の近くで待ちぼうけを喰らっていた人修羅が先ず眼に入った。
数人の煌びやかな遊女に、きゃいきゃいと絡まれている。
「ちょっと可愛いねぇぼうや、此処で遊ぶお小遣いしっかり貰って来たの?」
「さっきからだんまりで、姉さん達ぁ寂しいわぁ」
「そんな買い物籠、此処で持ってても邪魔なだけでありんすえ?」
半分無視しつつも女性を邪険にする事に慣れないのか、眼を泳がせて困惑の貌をしていた。
「こら君達、金魚の糞が如く纏わり付くで無いよ」
哂いつつ其処に歩み寄れば、一斉に此方を向く一同。
この界隈では上客の書生である僕に、微笑みかける遊女達。
「ライ様!金魚の糞だなんてけったいな」
「鶯の糞なら欲しいでありんすけんどぉ」
「うふふ、うふふ」
この華やかな廓の中、余計な感情は自滅への路を開かせるのか…
一心不乱に見つめた先に泳ごうとして、硝子に阻まれている事にすら気付けぬのだろう。
割れた其処から、流出し、のた打ち回って死ぬのだ。
「功刀君、いつまで突っ立って居るのだい」
人修羅に一声かけ、この歓楽通りを抜ける。
「金魚返すだけなのに、遅い」
「何を勘繰っているのだい?少ない脳で」
「人を待たせておいて、いちゃついてきたのか、このど助平」
「そうしたら別料金だからねえ、今回は返却という任務を達成しに来ただけさ」

金魚の姿へ再び戻った鮫人。悪夢に想い人を溺れさせる事は、もう出来ぬ。
あの鉢の底に、まじないを施した。呪力は貫通しない。
彼女は本当に、只の金魚と成ったのだ。
この先、硝子越しに愛しい後輩が抱かれようが、愛でられようが。
黙って見ているだけの魚。
泣きながらも、それを望んだのだ。
残酷?いいやまさか、これは悪魔と交渉した結果だろう?
僕は悪魔を殺す仕事をしているのではない、悪魔を“活かす”仕事をしているのだから。

「昨日の夜、なんかあんたの部屋騒がしくなかったか?」
隣を歩く人修羅の、今日の着物は随分と華やかだった。
だった、では無いか。そういえば適当に見繕ったのは僕だ。
箪笥から人修羅に投げつけ「着替え給え、出掛けるよ」と指図したのだ。
もしかしたら、無意識にあの色合わせを着せたかったのかもしれない。
朱色と、白と、黒地の…更紗。歩く度、袴の蛇腹がヒレの様に軌跡を描く。
この金魚なら、品評会でも高評価を得られるであろうと、僕はちらりと横目にしてほくそ笑む。
「何じろじろ見てんだよ、俺の質問に言葉で答えろよ」
「また勘繰っているね?昨晩の部屋には、僕とらんちうしか居なかった」
「ああ、あの気味悪い金魚……そういえば、あんたどうして借りたんだ?欲しかったのか?」
灯篭が、アンティークなガス灯に移り変わっていく。
川を越えて、砂埃の舞う大通りを抜け、ひっそりとした柳の下を歩く。
水草の様なその緑の隙間から、君を見下ろす。
「僕はらんちう、好きでは無いのでね」
「借りておいてそれかよ、勝手な奴」
「だってねえ、滅多打ちにされた人間の顔みたいだろう?あの金魚」
別に、奇形なぞ悪魔で見慣れているのだから。それを嫌悪はせぬ僕であるが、冗談めかしてそう述べてみた。
悪趣味な洒落に、人修羅がまた呆れるかと思ったからだ。
が、意外にも人修羅は嫌悪の表情もせず、僕をまじまじと見つめ。
挙句にクスリと唇が微笑んだ。
「あんたにしてはマトモな美的感覚だな」
その上から目線の金魚に、僕はサッと脚払いをかけてやった。
盛大に転げるかと思ったが、柳の枝垂れた緑を咄嗟に掴み、つんのめるだけに留まった人修羅。
「な、にしやがんだ、この野郎…っ」
背後からの罵倒も気にせず、僕はつかつかと街路を歩む。
そうそう、その位の気概が欲しい所だね。
焔に包まれ煮えるなぞ、人修羅の名が泣くではないか。
魔人の焔から、皮膚を爛れさせつつも生き長らえた君を思い出す。
「おい、聞いてるのかライドウ!」
「聞こえているよ、煩いね。今晩は魚にしてくれ給え、そうだね…淡水魚が良い」
「飯の話じゃねえよ、態とだろあんた」
そう返しつつも、僕を追い越した人修羅の脚は、商店街に向かっている。
思えば、こうして人間の振りをさせてやっている僕は…
飼っている魚に、最近甘いかもしれない。
火事の中、放置していようが、アレは生き延びる筈。
そう、昨夜のあれは夢。どうしようも無い、悪魔に見せられた夢なのだから。




眼を開く。
開いても尚、闇であった。
仄かに光る、その光源を頼りに歩み寄れば、丸い硝子。
金魚鉢程度の大きさ。しかし口が無い、何も外部から入れる事が出来ない。
中には、雪の様な色の砂塵。少し丘になっていたり、赤いタワーが聳えるのが見える。
ジオラマ、だろうか。これは未来の帝都だろうか。
何処かで見たと思えば、そう、ボルテクス界。
透明な隙間から覗きこむ。
(またこの手の夢かい)
もう僕の部屋に鮫人は居らぬ、ではこれは何に見せられているのだ?
僕の心が見せているのか?滑稽な。
この硝子玉の中に、人修羅でも居るのだろうか。
ころん、と床に転がせば、砂がさらさらと中で踊って、見えない。
しかし、ぼんやりと何かは聞こえる。
“ライ…ドウ…”
彼の、人修羅の声だった。
どうやら僕に助けを求めている様子だね。
思わず唇の端が吊り上がる。靴の爪先で、トン、と軽くボルテクスの玉を蹴り転がす。
この身を挺してまで、他を救うなぞ愚かしい事。
そう、この様に、あくまでも僕が爪先で遊ぶかの様な状態でもなければ。
君なぞ拾わなかったさ、混沌の悪魔。
“ライドウ”
はいはい、煩いね。
「クク…今出してやるから、情けなく僕の脚にでも縋ってみるが良いさ」
屈んで、掌でボルテクスを包むと、僕はすっくと立ち上がり。
眼の高さにまで上げて、腕を開いた。
音も無く落下した世界が、割れる。
砕けた丸が、床に飛散した。
その中に、もぞりと這い出す何かが居ると思っていた。
が、音沙汰は無い。
予測と逸れたその結果に、訝しんで爪先で破片と砂をさらう。
無い、何も居ない。

  ぴしり

何かの音に、反射的にその方を向く。
割れたボルテクスの光が消えた代わりに、差し込む光が有った。
それは、日光の暖かさも無く、どちらかといえば月光の冷たさで。
外套で顔を庇いながら、上を見上げた。
月…?
蜜の様な色をした月が、天の割れ目から覗き込んでいた。
弓張月から、やがて満ちる、膨らんだ十六夜。
僕を、見下ろしている。
本当に…月なのか?
胸が軋む、慟哭する。
あの世界を割った瞬間に、そういえば頭上で音がした気がする。

“今出してやるからな、夜”

はっきりと、呼ばれた。
天の裂け目から覗き込む、金色の眼がほくそ笑む。
僕は、彼の掌で、転がされていた。




「違う!!!!」

自身の叫びで跳ね起きる。
向かいの椅子で尻尾を揺らしていたゴウト童子が、ビクリと尾を硬直させた。
机で書類を揃えていた鳴海が、バラバラと紙を取り落とす。
背後で皿の割れる音がした。横になっていたソファから、身を起こし振り返る。
驚いた顔をした人修羅が、炊事場から運んで来る途中の料理を落としたのだ。
…全く、ソファで転寝をしていたのか、僕は…
部屋で寝ていれば、この様な失態なぞ犯さなかったのに。
シンとした中を、立ち上がり、つかつかと人修羅に歩み寄る。
落ちた魚は、鮎だろうか。薄い輪切りのかぼすも、割れた食器と一緒に散っていた。
その煮浸しにされて死んでいる魚の尾を、摘み上げる。
「…いいかい、功刀君」
「は…な、何――…」
「飼っているのは、僕なのだからね?」
「は?」
唖然としたままの人修羅の眼を見て、鼻先で述べてやる。
鮎の胎を齧って咥えたまま、僕は事務所を後にした。
「おい、ライドウ、あんたのせいで落としたじゃないかよ!おい――」
献立の要望を云ったが、もう今夜の飯は要らぬ、あの部屋にあれ以上居る気がしない。
おかしい、夢を悪魔に弄られたままなのではないか?
このまま毎晩続くなら、一度ヴィクトルに診てもらう必要が有るな。
憤りすら感じつつ、自室の椅子に腰掛け脚組みをする。
読みかけの本を開き、栞を抜く。
駄目だ頭に入らない。好きな筈の北原白秋の文すら眼を滑る。
(……美味しい)
咥えたままの鮎の煮浸しから、生姜と柑橘類の薫りがする。
そういえば、以前同じ物を食べた。この風味は悪く無いね、と、述べた気がする。
「まさかね、レパートリィが少ないだけだろう?」
歯を緩め、尾を掴んでぶらんと眼前に揺らし問い掛ける。
その、死んだ眼をした魚と、眼が合った。
『アクマに踊らされてるね葛葉ライドウ!サマナーのくせに!』
阿呆みたく開いた口が、そう喋った幻聴さえする。
あの夢の、金魚鉢の中の魚は…人修羅だったろうか?
それとも……

「煩いね、喰ってやる」

その、苛々させる眼から、ばりばりと、骨まで喰らってやった。
“ピカピカ、金魚の眼が光る”
たとえどちらであろうと、赦せないのだ。


金魚玉・了
* あとがき*

冒頭の歌は、北原白秋の『金魚』という童謡。
先日書いたSSの金魚の描写が個人的に気に入っていたので、そこから発展させた。 飼っているつもりで飼われている。 この関係の描写は、SS『シュレーディンガーの猫』と被っているかもしれない。 ライドウが少し振り回されてる(勝手に慌てているだけ?)気がする。彼がらんちうが嫌いなのは、前のSSの通りヤタガラスの里の池で飼ってるから。
花魁の姐さんは、同性愛とはまた少し違うイメージで書いた。独占欲であり、他に色は無い。

《金魚玉》
硝子で出来た丸い鉢。窓辺などに吊るし、泳ぐ金魚を眺める。落ちた時が怖い、しかしその危うさも美しい。

《らんちう》
蘭鋳。背びれの無いずんぐりむっくりとした金魚。頭はフルボッコされたかの様に、ボコボコした肉瘤がある。かなり好き嫌いが分かれそうだが、愛好家は多い。

《鮫人-コウジン-》
中国の書物に見られる人魚の一種。涙が真珠となる。
今回出した悪魔は、江戸時代の小説『梅花氷裂』に出てくる藻之花の怨魂“金魚の霊”のビジュアルイメージで書いた。しかし設定としては、勝手に鮫人にした。真珠というワードを使いたかったから。