金色の、満月色をした眼を、じっと見ているとのぼせそうで
黒い斑紋を流れ伝う、太陽の陽を反射する水面の色はいつまで見ていても飽きる事無く

黄昏時、貴方の黒髪の先が稲穂の様に、茜に艶めく
その撥ねた癖のある形も愛おしくて

戦いの際、焦がす焔の色の鮮烈さに背筋を痺れが駆け抜けるのです

エメラルドのマグネタイトと、悪魔の残滓に朱く濡れた貴方のそのツノにくちづけて
拭って差し上げたい

ああ、それでも先に逝かねばなりません
隣に並んだあの日から、最期を共にする事は無いと覚悟しておりました

それでも、ずっと傍に居たかった

 


故意文




「葛葉さんっ、あの……」

背後から女性の声、それも年若い娘の様な弾みが感じられた。
嫌な予感に、俺は振り向きもせずに隣の男に告げる。
「先に行ってる」
「フフ、気遣い無用なのに」
「違う馬鹿、俺は他人の色沙汰に興味も無いし、さっさと帰って荷物を降ろしたいんだ」
「ああ、それならばコレもついでに宜しく」
去り際に押し付けられたのは、よくこいつが持ち歩いているトランクだ。
遠方での依頼や、準備の多い合体の際によく手にしている。
背後に感じる視線が痛くて、仕方無くその持ち手を掴むと。少しだけ指が触れ合った。
「っ!?」
途端、電流が奔る、まるで冬場のドアノブみたいな。一瞬だけ見えたエメラルドの火花。
とことん嫌味な男…触れた瞬間にMAGを流してきたのだ。
MAGは使い方ひとつで、蜜の様にも硫酸の様にもなる。
「では宜しくね、功刀君」
とても愉しげに、ニタリと哂う横顔。立ち止まり振り向く頃には、落ち着き払っているのだろう。
「いつも人使い荒いんだよ!」
背後の女性に聴こえる様に、声を張って怒鳴ってやった。
ライドウの指が離れると同時に、ずしりと重量を増すトランク。
中に何が入っているか大凡認識しているが、改めてこのデビルサマナーの体力が人間離れしている事を思い知らされる。
すぐ目の前にまで接近していた銀楼閣の扉を開ける為、俺も片手でトランクを持つ。
『やれやれ、世の女性が如何に面食いかという事が、よく分かるな』
「ゴウトさんもそう思いますか」
ギイ、と軋んだ音を立てながら開く扉。俺が更に力を籠めると、隙間から黒猫がするりと侵入する。
『しかし、見目で釣れる悪魔も居るからな…容姿が優れている事は、寧ろ武器となる筈なのだが。如何にも納得いかんな』
「だってそれだけじゃないですか、あいつ」
『ほう、ではお主もライドウの顔に釣られたという事になるが?』
「まさか」
失笑しつつ階段を上り、事務所の扉を今度は開く。
ゴウトが隙間から入るなり、フーッと威嚇じみた溜息を吐いた。
視線の先には昼行燈。猫の姿に大人げも無くはしゃいでいた。
「おっかえり〜ゴウトちゃん」
立ち上がるまではしないものの、デスクから熱く出迎える鳴海。
一方、無視する黒猫はといえば…ソファで既に丸くなっていた。
『居らぬ方が気楽というに、全くこの男は』
「ん〜ナニナニ?顔反らしちゃってえ。あ、そうだね〜まだ矢代君に挨拶してなかったっけね、御免よゴウトちゃん」
『猫なで声を猫に使うな、気色悪い』
黒猫の台詞など聴こえる筈も無い鳴海は、能天気な笑顔を俺に向けた。
流石に俺も顔を反らす訳にはいかないので、見つめ返す。
双眸を見て…徐々に視線が下る。見た事も無いスーツ、ブルーグレイで薄く織柄の入った生地……
(またツケで買ったな、この人)
支払うのはライドウで、洗濯するのは俺という事だ。
「おかえり矢代君」
「…はあ、戻りました」
「違う違う、こういう時はお兄さんに笑顔で「ただいま」だろ〜?」
「酔ってるんですか?」
気恥ずかしくて、求められてから云える訳無いだろ。
適当に流して、俺は室内に足を踏み入れる事無く扉を閉めようとした…が。
猫なで声から一転した比較的クールな鳴海の声を、耳が拾う。
「ライドウは?」
その問いに、拳一つ分程度の隙間で留める。
「……すぐ後から来ますよ」
それだけ答えて、完全に閉ざした。
これ以上、荷物を持ったまま立ち話をしたくないのだ。
俺は事務所の階から更に上へと上り、ライドウの部屋をやや乱雑に開ける。
ブーツを脱ぎ、ずかずかと足袋で歩く黒檀色のフローリング。
「呑気な野郎めっ」
あの男が荷造りをする定位置目掛け、トランクを放り投げた。
多少乱暴にした自覚は有ったが、思ったよりも力が入ってしまったらしく。
トランクは、接地と同時にぱっかりと口を開いた。
途端、蓋裏にベルトで括ってあった管が数本、からんからんと床に散らばる。
一方、ぎっちり収まったままの替え外套の上、札と一緒に重ねられた封筒が有る。
暗い色調の中に投じられたその白に、吸い寄せられる様にして指が伸びてしまう。
目の前で裏表と、続けて引っ繰り返す。表側には《ライドウへ》と、宛名が刻まれていた。
それに何か違和感を覚え、再度字を確認していると…
「その恋文は女学生からでは無いよ」
降りかかってくる声。俺は咄嗟に横へと避けたが、その避けた方に向かって振り落とされる手刀。
俺の首を思い切り打ちつけてきたライドウ、その指先にも封筒が挟まっている。
「こちらは先程の子から貰った物」
俺の鼻先に、ひらひらと白いそれを煽がせる。神経まで煽っているとしか、思えない。
「呪いの手紙なら面白いのにな」
「フフ、しかし実際、その方が僕も愉しいよ」
「さっさと手、退かせ」
「ばら撒いた管を即刻拾い給え、それなら退かしてあげる」
云われずとも、乱雑に扱った俺に責任が有る事は分かっている。
しかし、回収しようとしていた矢先に云われると、なんとも腹立たしい事。
「俺だって、踏んでコケたくない」
苛々と吐き捨てれば、ようやく手が退いた。
真剣でなく手だったのは、ライドウの気紛れか。
屈み込んだ俺は、ベッドの下にまで転がって行った銀色を、指先で捜す。
毎日掃除をしてやっているので、埃まみれになる不安は無いが…なかなか目的物に当たらない。
もう諦めて、箒でベッド下を洗おうかと思ったその瞬間だった。
「ひ、っ」
袴の裾から挿入され、膝裏をぐりぐりと圧迫してくる不快な爪先。
「っ、何だよ!!」
「擬態を解けば良いだろう?」
「力仕事でも無いし、管からMAGが常に発されてる訳でも無いだろ」
「違うよ、よく見える様になるだろう?発光するのだから」
一瞬でも納得しそうになった俺を詰りたい、そんな気持ちに苛まれつつ腕を動かし続ければ…
ようやく冷たいそれに触れ、寝台の暗闇からサルベージする事に成功した。
「鞄に詰め過ぎなんだよ」
「おや、普通に開けば零れる事など有り得ぬのだが?」
文句しつつも、管をライドウに差し出す。
一方のライドウは、早速机に着席して何かに目を通している。
転がっていた管への興味は、既に薄れているらしい。
「フフ、御覧よ功刀君、此処」
管と入れ違いに俺へと差し出されたのは、手紙の一枚。
刀のタコすら無いその綺麗な指が、文章の一点を指し示す。
「この字、女学生が使うには少し古い旧字体。それに続く詩の引用も男性的だ」
「…何が云いたいんだよ」
「代筆さ、恐らく自身で書いておらぬよ」
哂ってひらひらと、それがまるで恋文とは思えない扱いをするライドウ。
受け取る度、想いよりも文章を読み取る事に集中する、そういう奴だとは理解していたが…
何度見ても女性からの手紙を添削する姿は、あまりにも意地が悪い。
「谷崎潤一郎の初期の文章を引用するだなんて、それこそマゾヒズム溢るる女性かと錯覚してしまうね。悪魔主義に惚れ込むのは、いつだって瀟洒になりたい男共さ」
「……俺に説明しても無駄だからな、古い作家はよく分からない」
「君にとっては古くとも、僕等にとっては進行形のスタアなのだよ、功刀君」
こうしてひとしきり哂った後は、赤いインクを用意して、万年筆でさらさらと注釈を垂れるのだ。
まるで解答用紙みたいに赤文字の入れられた恋文を突き返されて、ショックを受けない女性は居ないだろう。
「普通に断っても、しつこく付き纏われるのだから。このくらいにして返事してやるが良いのさ」と、平然と述べるライドウ。
誤字脱字の添削、代筆へのコメント、引用した詩に関する勝手な感想…だとか。
「教師気取りかよ」
寝台に腰掛けたまま、ぼそりと黒い背中を詰った。
「しかし功刀君、実際僕が教えなければ、仲魔の大半は手紙を寄越さぬよ」
「仲魔…」
その返事で、ようやく思い当たる。そういえばこの男、悪魔合体をさせる際に手紙を受け取っていた。
自ら事前に受け取るか、あのうさんくさい医者に事後受け取るか…
「悪魔、それもこれから合体して消える連中に…そんなの貰って嬉しいのか?」
「僕への恨みつらみが記してあったら、面白いだろう?」
「封筒に納まるのかよ」
「おや功刀君。残念だが、僕はそういった手紙は貰った事が無いのだよ」
嘘吐け、と反射的に返しそうになったが、案外そうかもしれないと留まった。
仲魔使いの荒い奴だが、契約内容は違えない。少しケチだが、MAGの質も高い。
悪魔にとって、条件の悪いデビルサマナーでは無い。
(でも、俺とあいつ等じゃ扱いが違うじゃないかよ)
いっそ管に容れられていた方が、この男の野蛮な日常に付き合わされずに済むというもの。
「あでっ!」
「ほらほら休憩してないで功刀君、此れを届けてくれ給え」
ベッドに腰掛け深く溜息していた俺の膝を、踵でげしりと蹴ってきたライドウ。
足袋とはいえ、妙にスナップの利いた一撃は革靴のヒールと錯覚させる衝撃で。
「痛ぇんだよ野郎……でも、届けろって…」
ライドウの指先には、添削済みと思わしきあの恋文。
「先刻の子だよ、窓から見て御覧」
「は?窓って…まさか、待たせてるのかよあんた」
「何も僕は云っておらぬよ、勝手に此の部屋の窓を見上げているだけさ」
薄くレースカーテンの敷かれた窓に寄り、橋から軽く指で覗く。
海老茶色の行燈袴で、うっとりと見上げる三つ編みの少女が――
「っ……」
「ほらね、往来のど真ん中で夢見る障害物になっているだろう?早く其れを渡して、掃除してきてくれ給え」
「最悪、目が合った……」
咄嗟にカーテンを閉めると、ライドウの指先から封筒を奪い取る。
「遮光カーテンまで閉めなくとも良いのに、部屋が暗いよ」
「レース越しだと視線が貫通する」
「フフ……ま、僕は暗い方が好きだけど」
「なら問題無いだろ、いちいち文句云うな…!」
外履きに替え、部屋を出る際にライドウを振り返った。
暗い部屋の中、それでもカーテンの隙間から零れた太陽が逆光を作り出す。
腰掛けたまま、ぐらーんぐらん、と。椅子の前方の脚二本を、浮かせてふざけているライドウ。
仰け反っているが、逆さになってもやはりムカツクくらいに美人だった。
やっている事は、あんなにも幼稚なのに。
「ね、その返事は僕からだと、しっかり云い給えよ?君からの恋文と一瞬誤解されかねない」
「当然だ、俺は関与してない、こんな趣味の悪い返事の仕方しない」
「では、君はいつもどうやって返事しているのだい?」
その問い掛けの瞬間、奴の唇がきゅっと端を上げる。
きっと分かって云ってやがる、性根の腐ったスケコマシ野郎。
「ラブレターなんて貰った事無いんだよ!」
支えになっている椅子の後ろ脚へ目掛け、俺は室内履きを投げつけたが…
ばたんと倒れる椅子から、瞬時に飛び退いたライドウ。
俺の目の前に着地するものだから、嫌な予感がしてすぐに踵を返す。
「ククッ、御愁傷様」
激しい蹴りでも無く、軽くトンと背を押されただけだったが…
俺こそが支えも無くて、宙を二・三回引っ掻いた後に階段を転げ落ちたのだった。





「古傷が痛むのかい?」
せせら哂うライドウの声に、先日の事を思い出していた。
敵の攻撃に対して、俺が一歩出遅れたせいだ。
「もう治ってる」
「当然だろう?僕のMAGで治癒が促進出来ぬ筈はあるまい」
「余計な消費したくなかったら、俺で遊ぶのを止めやがれ」
背後に感じる、威圧的なMAG。
それは自然と仲魔に流れていくもので、戦闘が始めると同時に水門が開くかの様だ。
潤った土壌が悪い物を生み出す筈も無く、この男の生体エネルギーは悪魔を奮い立たせる。
「ねえ、判っている?それともやる気が無いのかい?働きが非常に悪い」
「煩いな…目の前に来た奴は始末してるだろ」
「索敵して嗾け給えよ、売られた喧嘩は骨までしゃぶってやらねばなるまい」
「…あのな、俺は喧嘩したい訳じゃない。悪魔とは出来るだけ関わりたく無いんだ」
警戒は解かずに、ちら、と背後を見た。
煤汚れた尾を振りつつ帰ってくるイヌガミを、外套の襟に軽く寄せながら哂うライドウ。
俺が先刻放った焔で、少し焦がしてしまったのだ。申し訳無いなんて、微塵も思わないが。
「索敵して追ってくれる犬にも劣るねえ」
犬の頭を撫でつつ俺を侮辱する声に、ひくりと頬が引き攣った。
対して、撫でられるイヌガミは頬を緩ませている。
『褒メラレタ』
「違う、そいつは俺を馬鹿にしたいからわざわざ云っただけだ」
『ジャア、今ノハ嘘カ、オベッカナノカ』
「……いや」
『クゥーン』
「…そんな眼で俺を見るな!」
しょげて垂れ下がった尾を、叩く様にして煤払いしてやる。
俺の焔で汚れたという事実を消して、気を紛らわせた。
『感謝スル、人修羅』
ニヤニヤしているライドウの顔を、なるべく視界に入れない様にして問い質す。
「さっき追ってた奴等、まだ一体残ってるだろ」
『残ッテル、ビルヂングノ隙間』
銀座なので、それなりに背の高い建造物に囲まれている。
そして異界なので、夕暮れ時の森の中に居るみたいな空気だ。
「確かドアマースだったねえ……電撃を使う奴を召喚しても良いが、この辺はツチグモには少し窮屈かな」
カツカツと石畳を鳴らして、ライドウが歩き出す。
血振りしたばかりの刀から、数滴悪魔の体液が滴っている。
「ふむ、パールヴァティかミシャグジかね」
「後者は止めてくれ、見たくない」
ひるがえる外套の裾からはらはらと、数粒ルビーを落としてしまったのではないかと錯覚する…
「女神が望ましい?フフ…君も好きだねえ、マザーコンプレックス」
「猥褻物を召喚するなって、俺は云ってるんだ」
「では君で片してくれるとでも?」
「その犬よりは手早く始末してやる」
と、キネマの大看板に重なる影が微かに動いた。あれが絵の一部では無いと判断し、俺は一歩が慎重になる。
軽く深呼吸して、数歩目で速める。すると悪魔の影もキネマ看板から抜け出して、路上を駆け抜けた。
車も走っていない路面、交通違反を気にする事も無い。俺はただひたすら影を追って、袴をばたつかせる。
そのドアマースという悪魔は、四足を駆使して街燈によじ登り、更にビルの出窓に飛び移った。
俺はライドウに一瞥をくれる。すると奴は既に外套を肩へと払って、するりと刀を翳し構えている。
何も云わずに哂って、その切っ先にMAGを一点集中させる仕草。
みるみるうちに刀は伸びて発光する槍となり、俺の足下へすい、と薙いで来た。
その蛍光色の刃に飛び乗ると、俺の地下足袋が少し灼けた音がした。
「君が飛べたら苦労も無いのに」
「そんな化物で堪るかよ」
「化物だろう?」
「さっさとしやがれ」
横槍から会話まで、数秒も無い。
俺が両足の先を刃に絡ませれば、ライドウがニタリと哂って思い切り肩を使う。
ターンして踊るかの様に振り薙ぎ、ぶん回す。
一番勢いの付いたところで、俺は足を開いて放たれる。
ドアマースが先刻まで居た出窓をはっしと掴んで、その遊びに転がり込む様にして乗り上がる。
異界の淀んだ埃を袴から掃い、隣の窓を睨む。
黒い影が一瞬びくりと俺を見つめ、すぐに逃げた。
「待て」と陳腐な言葉を吐く事も無く、それを追って俺も跳躍して隣に移る。
二歩で跳んでいたのを一歩に短縮して、腕を伸ばす。
指先に魔力を流し、ぐわりと空気ごと薙げば、アイアンクロウの爪先がドアマースを転がした。
『ぎゃうッ』
転落していくその影を目で追うが、地にべしゃりと崩れる音も無く。
黒い影がびくびくと空中で痙攣しているのは、ライドウが槍の切っ先にそれを刺しているから。
「串刺しだなんて、趣味が良いなあんた」
嫌味のつもりで云ったそれも、戦闘中のライドウにはスパイスらしい。
俺を見上げた眼は、悪魔でも無いくせに爛々と輝いている。
「どうするんだよ、その悪魔」
街燈に飛び移り、そこを経由して地上に降りれば、丁度ライドウの傍だった。
混乱してばら撒いたんじゃないかというくらい、沢山のルビーが転がっている……勿論、錯覚。
「さあ?でも最初に嗾けてきたのは彼等だし、ねえ?」
脇で支える槍をゆっくり捻るライドウ、すると頭上から呻き声が降ってくる。
『う、う〜ッ……も、御勘弁を』
「君の仲間は皆始末したよ、しつこくて参ったからねえ」
『し、かし私は、私自身はクズノハに興味は――』
「おや、付き合いで参戦していたのかい、それは社交的な事だ」
『っぎぃいい』
ゆっくりと刃を伝う色…ライドウのMAGよりも、悪魔の体液が割合を占めてきた。
「ねえ功刀君、恋文を渡す際の、あの付添いの女学生とか」
「…おい」
「何なのだろうねえ、野次馬?それとも失恋した直後に慰めて欲しいから、渡す当人が連れているのかな?」
「…あんた、始末するならさっさとしてくれ」
「君が掃除してくれるのでは無いのかい」
思えば、嗾けられていたのは俺だ。
このドアマースは、既に逃げの姿勢だったじゃないか。それを追ってまで、俺は殺したかったのか?
悪魔を殺す事に罪悪を感じはしないが、それだって状況による。
「もう反撃の余力も無いだろ、その辺に捨てれば良い」
「手を汚したくないと?駄目だねえ…約束が違う」
「違う?違うのは――…」
そこまで云って、唇が閉じた。喉が酷く渇く感覚。
云えるか…「あんたがいつもと違う」だなんて。
確かに、売られた喧嘩は倍返しする野蛮な野郎だが……本気で逃げる相手に、普段はここまでしない。
そういう遊び方はしない、俺が見てきた限りでは。
この男は無抵抗の相手より、刃向かってくる奴を嬲る事に快感を覚えるのだから。
「違うのは?」
催促するみたいに、肩を動かして槍を捩じるライドウ。
その小手先で弄ばれるドアマースの胎が、ぐずぐずと重みで槍を呑み込んでいく。
「だからっ、もういいだろ」
その傷口を見ているのも寒気がして、俺はとうとう槍を掴んでしまった。
ぐい、と引き下ろして刃を押しやる。ライドウに突き返すかの様に。
「君が悪魔を助けるとはね」
「無抵抗の相手に…胸糞悪いだけだ」
「槍でも降りそうだねえ…」
「っ、ぐ」
「ほぅら降った」
愉しそうな声で、いけしゃあしゃあと続けるライドウ。
ドアマースの胎から引き抜いたそれを、今度は俺の肩に突き刺してきた。
でも、貫通する程では無い。恐らく、もう気が済んだのだろう…
この男が、何に苛々していたのか解からなかった。またヤタガラスの里に行く予定でも有るのか?いや…特に聞いていない…
『う……うゥ』
俺の膝上で、苦しげに呻く悪魔。ライドウにやられたこいつに同情する訳じゃない、そうだ…それこそ違う。
ただ、普段と違う暴力の発露に…嫌気が差した、それだけだ。
『人修羅、今日ハ優シイ』
近くでころころとはしゃぐイヌガミに、今度は俺が苛々した。
これが優しさに見えるだなんて、やっぱり獣の頭なのだろう。





あれから、ドアマースは俺に懐いてしまった。
ライドウもライドウで、あんなにまで甚振った悪魔を、何故か仲魔に引き入れた。
俺が珍しく助けた悪魔だから…恐らく、嫌がらせだろう。
俺としては…もう見たくも無かった。
悪魔を助けたその事実と、肩を並べて戦うのも御免だった。
それなのに、あの男は……

『そこのデビルサマナーさん、ちょっと』

異界での呼び止めは、依頼か喧嘩が殆どだ。
咄嗟に構え、俺もライドウも踵を返す。
…と、そこに居たのは血眼をした悪魔では無く、どちらかといえば…
『あの、お渡ししたいモノが』
夢見る女学生のソレに近い、そんな眼。
「…おい、俺は向こう行ってるからな」
ライドウに吐き捨て、その場から逃げる様にして駆け出した俺。
奴の返答も聞かずに袋小路まで来ると、本来なら猫が溜まっている塀に背を預けた。
『人修羅様』
追従して来るのは、例のドアマースで。
イヌガミよりも長い尾を振って、まるで飼い主を追う犬の様だ。
「主人は俺じゃないと思いますけど…戻ったらどうですか」
『……サマナーは、今何を?あのネコマタが渡していた手紙は…一体』
しかも、またネコマタ。あの男、妙に雌猫を惹きつける。
「最近人間の真似事して、ラブレター渡すのでも流行ってるんじゃないですか」
『ラブ…レター?』
「恋文ですよ、人間の文字書ける奴なんて限られてるとは思いますけど」
『…人修羅様は、貰った事が』
まさか同じ質問をされると思わなかったが、ライドウよりは厭らしさが無い。
だからといって、会話を楽しむ気も俺には無い。
「ありませんよ」
『…他の仲魔から聞きましたの、合体でお別れをする際に…サマナーに手紙を渡すのだと』
「それも貰った事ありませんから、そもそも合体させるのも好きじゃない」
『お別れが辛いので?』
「違う、あんな事率先してやる程、俺は……」
非人道的?悪魔的?
ライドウ相手に説明すれば、それこそ鼻で笑われるであろう単語の羅列。
しかも悪魔相手に…俺は何を躍起になって説明している。
『私……人間の文字を、習おうかしら』
出来るだけ逸らしていた視線を、呟くドアマースに向けた。
黒艶の毛並が、辛うじて淫猥さを軽減させているその肢体。
女性でなく、家畜を見ているつもりになれて……アルラウネより、マシだ。
「どうぞ、御勝手に」
何故別れに手紙を送るのか…しかも、あんなに手酷くしてきたサマナーに。
俺は理解出来ない。無理矢理羽交い絞めにされて、支配下に置かれた俺には…
(無理矢理…?)
最初に差し出された手を、掴もうと自ら手を伸ばしたのは…誰だった…
あの野蛮な、享楽的なデビルサマナーを、どうして。
どうして……先日違うと感じた?だって、嬲る様な奴じゃなかったのか?
このドアマースを甚振っているのだって、別に可笑しい事も無い……と、思ったのに。
(あいつは、去る者は…追わない)
そう、そこまで執着しない。合体の際に貰った手紙さえ、一度目を通せば終わりにしているくらいだ。
それなら今、目の前に居るこの悪魔に、妙に突っ掛かったのは何故だ?
『人修羅…様?お加減が優れませんか?』
心配の滲み出ている声を、無視した。
恐らくライドウは、あの時甚振った手と同じ手で、万年筆を握り…
この悪魔に教えるのだ、人間の知識を、文字を。
刃で貫き甚振っている時と、同じ様な哂いで愉しげに。
(いかれてる)
恨みの手紙でも、欲しがっているのだろうか。
そんなもの、俺がいくらでも書いてやれるのに。
「もう少し近くで待機し給えよ、功刀君」
脳内に浮かべていたどす黒い奴が、俺の思考に水を差す。
颯爽と歩いて来る、その姿だけは紛れも無い美丈夫なのに。
「それとも、隅でこそこそと獣姦かい?」
趣味の悪い冗談に、相変わらず反吐が出る。
そして、隣で頬を染めるドアマースにも、怒鳴りつけてやりたい気持ちになった。





昔、犬を飼いたかった時期がある。
母が仕事の過渡期に差し掛かると、俺は当時流行り始めていた“鍵っ子”というものの一部と化していた。
与えられた玩具や本は、思考して反応しない。やがて飽きてしまう。
かといって、外出してまで他人と触れ合いたい程の人恋しさも無く。
漠然と…ただただ、尻尾を振って、自分に懐いてくれる小動物が欲しかった。
それを思い出すくらい、ドアマースは…しつこい。
ライドウが文字を教え始めたものだから、部屋に行けば決まって机に向かっている。
「常に召喚してるなよ、獣臭い」と、そんな文句でも云ってやろうかと思ったが…
尻尾を振って挨拶に寄って来るその悪魔は、存外悪い匂いでも無く。
寧ろ、ずっと傍に居るせいか、微かに白檀の香りまで漂わせて…俺を更にイラつかせた。
犬の鼻で、ずっと香の匂いはキツイのでは無いか?そんな必死に文字を覚えなくても良いじゃないか。

(どうせ、終わる…)

ソファに身体を投げ出して、暗闇の中で明滅するテレビを眺めていた夏の夜。
飼っていた犬と死に別れたストーリーの映画が、だらだらと流れていた。
犬の心の声が、副音声の様に劇中入っていたが……俺は子供心に、無常を感じていた。
本当に、そう思っていたのだろうか?所詮、人間と会話が出来ない生き物だ。
一方的に人間が情愛を注ぐだけで、本当は…死の直前まで、疎まれている可能性が無いのだろうか?
でも、言葉が交わせたら…それこそ、良くないかもしれない。
最期の瞬間まで、意思の疎通なんて無い方が、都合好く解釈出来て。
飼い主と犬は、表面上ずっと主従で居られるのかもしれない。
「ねえやーくん、犬が欲しいって云ってたよね」
その年のクリスマス前に、ようやく仕事が落ち着いた母親に訊かれた。
「今度サンタさんに、ワンちゃんお願いしてみよっか?」
夏に観た、死んだ犬に涙している飼い主の映像が、網膜に焼き付いていた。
厭に渇いた喉は、ソーダ水でも潤わなかった。
「……いらない」
「え、いいの?別にお母さんは飼っても平気よ。やーくんがちゃんとお世話してくれるなら…」
「ううん、いい……」
あの副音声、お別れの際の犬の心の声。全部、まがい物だったら怖い。
死に別れという事象はノンフィクションだが、あの副音声はフィクションだ。
そして、本当の心の声が聴こえても…会話が出来ても…怖い。
息を引き取る瞬間に「お前なんて嫌いだった」と、犬の口が吐き捨てる妄想に、あれから当分取り憑かれ。
「いいの?」
「うん…それよりね、やーくんね、あたらしいプラレールほしい」
「そっか、じゃあサンタさんにお手紙書こうねえ」
「うん」
リビングのテーブルに広げられた便箋…母親の指が俺の手に添えられて。
出来るだけ漢字を使おうね、と促され。まだ習っていないのに、漢字を一緒に撫ぞらされて。
知っている文字は力強いが、知らない文字はふるふると…殆ど母親の筆力で綴られていた。
また、いつかの七夕の時みたく「父親が欲しい」とか、一瞬思ったがすぐに引っ込めた。
「じゃあこれ、ちゃんとサンタさんに渡しておくからね」
思えばあれは、自作自演だ。
書かせた手紙を、母親はきっと後で読み返して微笑んでいたのだろう。
多分、家の押入れの何処かに仕舞ってある筈……
居ない人物への手紙を、どうして親は書かせるのだろうか。
手紙の書き方を教える為?文章による感情表現の教育か?
どちらかの存在が無いのに、書かれる手紙は無意味なんじゃないのか?
意味が有るとしたら…遺書くらいだ。

(遺書…?)

は、と覚醒する。びくりと首根っこを掴まれたかの様に、身体が跳ねた。
吐く息が少し白い。俺が今、横になっているのは自宅のソファでは無い。
寝てしまっていたのか…これは、業魔殿の簡易ベンチだ。
(今なら、人間の身体が欲しいって書く)
ぼんやり夢を思い返して、独り自嘲した。
馬鹿じゃないのか、サンタから与えられるのは玩具…物資だけだ。
生体改造なんて、親には不可能だろう。それこそ、こういう業魔殿みたいな悪魔じみた施設でも無ければ…
「おはよう功刀君」
まだ少し霞む視界を、鮮烈な黒が過ぎる。
ようやく合体作業を終えたのか…革靴を鳴らして歩み寄って来るライドウの手に、例の如く白い封筒が確認出来た。
それを目にして、俺は改めて確信する。
「…また遺書、貰ったのかよ」
「遺書?」
「その手紙、あんたが毎度貰ってる…」
「ああ、此れかい」
薄暗い空間に映える白を、俺に差し出してくる。
その程度なら外套の内ポケットに入るじゃないか、と思いながら黙って睨み上げると…
ライドウは薄笑いで返してきた。
「此れ、君宛だから」
「…は?」
「ドアマースから」
それはつまり…
もうあの悪魔は、存在していないという事か。
「居なくなって寂しいかい?」
「どうして俺が…あんたの仲魔に一喜一憂しなきゃいけない」
「燃す前に一応読めば?僕が文字を教えた甲斐が無くなるからね」
嬉々として受け取れる訳も無く、かといって突き返すのも気が引けて。
渋々受け取り、ライドウに見えない様に便箋を開いた。
「別に見たいとも思わぬよ」
その失笑に少し安堵して、文字の羅列に目を通す……
簡単な挨拶から始まり、引き続き綴られていくのは俺の事ばかり。
読んでいる此方が恥ずかしくなる程に、観察結果が書かれていて。
必死に習っただけあって、かなりそれっぽかった。
めくるめく色彩描写に、そういえば…「文章では色を入れる事が大事よ」と、母に教わった事を思い出す。
 「どんな玩具が欲しい?」「赤いミニカー」
 「ホイールの色は?」「銀色」
画や写真なら一目で伝わるが、文字では難しい。
俺の眼の色だって……自分では判らないが、擬態時と悪魔の姿では違うらしい。
「よくあんたも…こんなこっ恥ずかしい文字ばかり教えられたもんだな」
「ドアマースは言葉に不自由はしていなかったからねえ。語彙豊かならば、僕はただ人間の文字を教えるだけで充分だ。気楽なものさ」
ざっと読み終えれば、胸やけしそうな文章に少しクラリとしていた。
仕舞う袋も無いので、肌着と着物の隙間に忍ばせる。
処分するか否かは、後で決めようと思った。
「良かったねえ、ようやく恋文が貰えて」
ライドウのニヤついた祝福は、呪いの言葉の様だった。
これは、果たして恋文なのか?最早、何なのか形容し難い。
「黙れよ」
「フフ…それでは、僕は一足先に銀楼閣へ戻っている」
「は?あんただけ?」
「そろそろ仕上がると思うがね、ドクターヴィクトルに刀を四振りほど任せてある。それが完成したら、持って帰っておいて給え」
「どうして俺がっ」
「僕はね、合体させた仲魔と早く遊びたいのさ」
軽く管を叩くライドウ、その指先からふわりと纏わりつく様に蛍光色のMAGが舞った。
叩かれた二本から召喚されたのは、モー・ショボーと…見た事も無い悪魔。
鱗に半身を覆われた女性体で、その背には大きな羽が生えている。
「モー・ショボーは此処で人修羅と待機」
『えーっ、いいの?ヤシロ様と二人きりな・ん・て』
「新たに生成される刀は、そこそこの魔力を秘めているのでね。人修羅もお前も、互いを監視しろという事だ」
その会話に、思わず横槍を入れる。
「おい、俺はあんたの武器から吸うなんて行儀の悪い事しないからな、その鳥と違って」
『ちょっとヤシロ様あ!今ショボーの事、おギョーギ悪いって云ったでしょ!』
頬を膨らませるモー・ショボーは、そのまま空中でバック転してにんまりした。
『もっと云って☆』
呆れて閉口した俺は、凶鳥を無視してライドウの外套を軽く引っ張る。
「おい、その…」
「何」
軽く視線だけを寄越すライドウ。少し捲れた外套の裏地が、黒の中に映える。
紫紺の色だ。湿った夕暮れ空、降り出しそうな雲間に燃え立つ境界色。
「ドアマースって、一体何に成ったんだ」
「何って、このヴィーヴルさ」
顎で示された先、ライドウの隣で微笑む鱗の悪魔が俺を見た。
ライドウと並ぶくらい、俺より高いその目線で悠然と見下ろしてくる。
「前の犬姿の方がお好みかい」
「そんな事云ってない」
「フフ……黒い翼手に赤の皮膜…龍王の彼女もなかなか洒落ているだろう?」
「悪魔の恰好なんて、どうでもいい」
「ではショボーを辞めて、ミシャグジと組ませようか」
「絶、対、嫌、だ」
フン、と鼻で笑うと、早速そのヴィーヴルとやらを連れて階段を上がっていくライドウ。
なびく黒外套が、一瞬蝙蝠の羽に見えた。
それを睨み送りながら、俺は袴のヨレを直す。横になったせいか、少し崩れていた。
『なんかさ、前より悪女〜って感じになったよねえ』
モー・ショボーがすぐ傍まで来て、無邪気に笑いながら云う。
悪魔合体自体に嫌悪感を抱いていない事がよく解かる、そんな軽さだ。
「あのヴィーヴルって奴?」
『そーそー、ショボーはどっちかってゆーとドアマースの方が好きだったなあ』
「……そんなに会話とか、したのか?」
『したわよおっ、ヤシロ様についてのぉ〜…ムフ、ムフフ』
「いい、聴きたくない」
部屋を移ると、しつこくひっついて飛んで来る凶鳥。
ドアマースのしつこさは、思い返せば少し違った。
あの時、ライドウの部屋の窓から…視線が合った少女の眼と、似ていた。
少し遠くから、待って居る姿勢。直接語らず、手紙に認めるその奥ゆかしさ。
『ねえヤシロ様、ドアマースの事どうだったの?』
「どうも何も、悪魔は総じて嫌いだ」
『ドアマースはね〜ヤシロ様の背中追って、ツノ見てるのが好きだって〜』
知っている、先刻読んだ手紙にもそれらしい事が書いてあった。
ツノがどうとか……俺にとっては、忌むべき特徴でしかないシンボルなので、気分は優れない。
胸元に仕舞った重みを今更感じる。こうして形に残されるのは、処分の瞬間の自己嫌悪が激しいのだ。
『でもさ、ヴィーヴルになったから、ちょっとは識別出来る様になったのかな』
「何が」
『だってえ〜…ヤシロ様の魅力は、そのきんきらしたゴージャスなおめめ、でしょ?』
合体檻を見渡せる位置まで来て、モー・ショボーのその台詞に俺は立ち止まる。
酷い違和感を感じた。何にだ?今の単語が、引っ掛かる。
「識別って、どういう事だ」
『んー?ドアマースねえ、ヤシロ様の金色の眼が判らないの』
「…判らない?」
『だって犬の眼だもん』
俺の色覚が狂ったのではないか、と思う程、頭が真っ白になった。
先刻の手紙の殆どが、それでは辻褄が合わない。
『ねーねーいかれヤブ医者、そーでしょ?ドアマースってわんわんと同じ程度しか視えてないよねー』
刀の最終調整をしているヴィクトルの白衣を引っ張るモー・ショボー。
キリの良い所で振り返ったヴィクトルは、火花に曇ったゴーグルを上げて笑った。
「よくぞ訊いてくれた!そうなのだ、ドアマースは大半のイヌ科と同じ、三原色程度しか識別出来ん。そしてMAGの発光は恐らく白んで視えておる」
近付く事もせずに、俺は茫然とその講釈を耳に入れていた。
暫く眺めていれば、完成した四本の刀を一本ずつ渡されるモー・ショボーが呻き始めた。
『ぐぬぬぬ…ちょっと、ヤシロ様あ〜手伝ってえ!か弱いレディーがあっ、こうしてっ、重い荷物をっ』
「……それ、銀楼閣まで任せる」
今なら、まだその辺を歩いているだろうか。それとも異界に入ったろうか。
すぐ追えば間に合うだろうと、希望的観測で踵を返す。
『はあっ!?ちょっと待ってヤシロ様、これ小枝の何百倍なんですけどぉ!』
翼を戦慄かせる少女の顔がまたもや脹れるが、階段から見下ろしつつ怒鳴った。
「次会ったら、俺のMAGを吸わせてやる」
すると、脹れ面は餅の様に窄まって、一瞬でぱんと破顔する。
『うわっ軽!もう四本は追加でいけるねっ!』
はしゃぐ少女に「それならば他にも…」と、容赦無く刀を追加して持たせるヴィクトルが最後に見えた。


 金色の、満月色をした眼を、じっと見ているとのぼせそうで
 黒い斑紋を流れ伝う、太陽の陽を反射する水面の色はいつまで見ていても飽きる事無く
 
 黄昏時、貴方の黒髪の先が稲穂の様に、茜に艶めく
 その撥ねた癖のある形も愛おしくて
 
 戦いの際、焦がす焔の色の鮮烈さに背筋を痺れが駆け抜けるのです
 エメラルドのマグネタイトと、悪魔の残滓に朱く濡れた貴方のそのツノにくちづけて、拭って差し上げたい


おかしい。
色の乏しい世界で、あんなの書ける筈が無い。
それなら、あの文章は誰が?テンプレートをライドウが差し出した?
いや…人間男性を形容する文章じゃないだろ、あんなの…例文なんて無い。
一体どこまでが、ドアマースの…犬の気持ちだった?
知りもせず筆持つ指に、添えられる白い手が……脳内で、母親からライドウにすり替わる。
「ライドウ!」
居た、まだ大通りを歩いていた。
奴の連れ添うヴィーヴルには目もくれず、俺は人混みを掻き分けて黒い外套に辿り着く。
「四振はどうした?随分と丸腰ではないか功刀君」
擬態した俺の眼を、上から見下ろすデビルサマナー。
真っ直ぐに見据え返し、その黒襟を掴んで問う。
「あんた、俺に懐かせる為にわざと甚振りやがったのか!?」
「話が見えないね」
「俺の目の前で、わざと甚振ったんだろ!あの犬を!」
隣で首を傾げている龍王、その中に犬の副音声はきっと流れていない。
喧嘩か?と通行人に振り返られても、襟首を掴む指を緩める気はさらさら無かった。
「……良かったではないか、手紙、貰えて」
うっそりと哂うライドウの声が、大通りの喧騒の中…すとんと俺に落ちる。
「欲しかったんだろう?」
震える指が、離れる事も引き寄せる事も出来ずに…
俺の中で彷徨う、問い掛けがそのまま言葉にならずに消えていく。
あの手紙は…どこからどこまでが、ドアマースの言葉だった?
それとも、殆ど……
「さっきの手紙、添削しろよ、いつもみたく」
「嫌だね、僕宛でも無い」
「改めて読むのが怖いのか?あんた」
嗤ってやったつもりが、引き攣った呼吸になった。
怖いのは……俺だ。
あの夏に観た犬の気持ちを、本当は知りたくない。
「文章に成る程度は、教えたつもりだがね。君が添削すれば?」
また読むのが、怖い。
筆跡はどうだった?何とも云えない、いや、思い出したくない。
色鮮やかな世界の中で、俺が中心になったその文面。
文末の、最期を悔いる言葉が脳裏に突き刺さって抜けない棘の様に。

 “ずっと傍に居たかった”

最初に読んだ時、虚しく嗤った。
悪魔と人なんだから、それは無理な話だと。
その時、俺は自分を人間側に置いていた。当たり前の様に。
だが今、目の前に居る黒い影と…俺なら、どうなんだ。
このまま人間に戻れなければ……俺が悪魔で、このサマナーが人間なんだ。
「早く放して呉れ給え、僕は異界に行きたいのだよ。往来の障害物になっているよ功刀君?」
「…嫌だ」
「駄々をこねるで無いよ、欲しい物は手に入ったろう?」
「こんなの…ラブレターじゃ、ない」
俺の胸元からライドウのホルスター裏に、白い封筒を無理やり移す。
「遺書なんか、要らない」
呟いた俺の耳元に、形の良い唇が囁く。
「あの犬と、まだ一緒に居たかったのかい?」
サンタの話をする、母親の声にも聴こえた。
あんたの自作自演?馬鹿な…そんなの、可笑しい。
だって……あんな、歯の浮く様な形容、俺への感情。思い出すだけで、頬が熱くなる。
俺はどうかしてる、犬の気持ちと思えばこんなに困惑しなかったのに。
「…居たかった……かも、しれない」
そう返事するのが、精一杯だった。
「そうかい…フフ。君が悪魔に情を惹かれるなぞ、やはり何か降りそうだね」
実際一雨来そうな空を見上げて、俺はようやくライドウから離れた。
気付けば、雨の予感に人は掃けていて。大通りにはぽつりぽつりとしか影が無い。
「あんなの…犬みたいなものだった…から」
「そうかい、では犬でも与えようか?」
「要らない」
「それで結構、銀楼閣には猫も居ることだし?」
襟をただすライドウの声が、湿り気を帯びる。
「それにね…僕は契約で縛れぬ愛玩動物が嫌いだ」
口元だけでしか哂っていない、こういう時、奴の本心が滲む。
いつもの悪趣味な冗談に紛れてくる……色の違う台詞。
それでも俺は、やはり副音声にしている。こいつが何を云っても、本当の心では無いと信じ込む。
こういう男なのだ。自分勝手で、豪胆で、享楽的な…
「じゃあ、契約で縛れている俺は……あんたにとって何なんだ」
ぽつりと零せば、視界が一面曇り空になった。
蹴られたのだとようやく気付き、身体を起こせば奴はもう居ない。
この位置だと…恐らく、手身近な異界の穴に飛び込んだのだろう。
訊かなければ良かった、と、袴の砂埃を掃いつつ自嘲した。

 「やーくん、犬嫌いになっちゃったの?」
 「…だって、ニンゲンより早く死んじゃうもん」

四六時中傍に居ない母親にだって、あんなにも甘えて懐いた俺なのに。
その母が、事故でも無い限りは俺より早く逝くのだと…不安に泣いていたくらいだというのに。
犬なんて飼ったら、俺はどうなってしまうのだろう?と、幼心に恐怖を感じていた。
いつも傍に居る、そんな存在が……俺より遥かに短命だったら…?
じゃれ合って、機嫌を損ねて、ふざけて、憎たらしいけど寄り添って、酸いも甘いも常に一緒。
「ライドウ…」
ぽつりぽつり、今度はいよいよ降ってきた。
色を濃くする地面、俺の藍の着物が昏い色に染まっていく。
背の高い建造物の少ないこの時代、空の色が低い彩度へと変質していく様は、存外悪く無い。
仄暗い雲の隙間から僅か見える紫紺が、あの裏地の様で。
(あんたの世界には色が有って…良かった)
こんなモノクロの空なのに、湿った土の匂いが煙る空気なのに。
あの手紙の極彩色の羅列が、俺の存在を認めている気がして。
(なあ、どんな処に突っ立っていても、しっかり視えているんだろう?)
何故か溢れてきた涙は、とりあえずあの犬の為にしておこう。
あの夏見た映画でも、人間はそうしてたから。


故意文・了
* あとがき*

手紙をテーマに。
ドアマースの設定は激しく捏造なので、あまり気にしないで下さい。
結局、あの手紙の内容の…何処から何処までを、ドアマースが綴ったのか、ライドウが書かせたのか、それとも書いたのか…
特に明記しませんが、劇中説明の通り色彩豊かな表現は、ドアマースには難しいと思います。
気になる子には、いじわるしたいし、欲しいという物はプレゼントしたい。色んな初めてを奪ってやりたい。
我欲を通す為、平然と甚振るライドウは、もっともらしい言葉で濁して誤魔化す。隠れた子供。
「…居たかった……かも、しれない」という人修羅の台詞は、ドアマースに向かっていない。

タイトルの故意文は恋文(こいぶみ)とかけてます。

因みに、認識出来る色が平均数より乏しくても、暗所での微妙な光源を見分ける能力に秀でるそうですので、それが悪いという訳では無いのです。