蜜猟区

 
「花鳥風月、どちらも愛でてこそ色も艶やかになるものだ」
唱えるデビルサマナーの左右、召喚されたアルラウネとオシチが微笑む。
「花の棘で刺し給え」
ニィと哂って刀で示せば、アルラウネがしなる鞭の様にそれを伸ばす。
緑色の有刺鉄線が捕える、その雁字搦めのクラマテングが翼を広げきる前に。
「鳥の嘴で囀り給え」
翳した刀の切っ先にMAGを乗せ、露の様に払ったそいつ。
光るその雫に潤った喉で、オシチが異形の鳴き声で囀る祝詞。
『喰らっておくりぃす、わっちのアギ・ラティ』
実際MAGの滲んだ朱色というのは、どこか艶めいて見える。
『ちょっとぉ…焦げたんだけどアナタ』
素早く茨蔦を退かせたアルラウネだったが、少しばかりオシチの炎が焼いた様だ。
ジリジリと燃え盛るクラマテングを無視して、互いの間に火花を散らしている。
『それはそれは、まっこと申し訳ありませんえ』
『花が散ったらどう責任とってくれて?』
『ライ様のMAGでは養分が強うて、その表皮には合わないんでなく?』
『んですって』
険悪なその空気を、黒い影がぶった斬る。
「真に良質な色は喧嘩する事は無い筈だが?淑女御二人」
滑る様に光る刀を踊らせて、指に印を組み唱え始めていたクラマテングを一太刀。
察したクラマテングの上空に飛ぶ軌道を先読みして、その翼の付け根を狙う非道。
悲鳴を上げようにも、焼け付いた喉がさせないのか…相手は崩れ落ちるだけだ。
「アルラウネ、散華はとても美しいだろう?厭わずその肢体、揮い給え」
『あらン』
「オシチ、皿と脚は割っても、口は割るで無いよ?折角の大和撫子が台無しだろう?」
『んまぁライ様…いけず』
すっかり炭化したクラマテングなど忘却の彼方なのか、花と鳥はくすくす笑う。
歓びでMAGが溢れているのを見て、なんとなく気分が悪くなった。
「結局は支配だろ」
遠方から吐き棄てれば、ニタリと哂う。
女性悪魔をはべらせて、その異形な悪魔とはいえ美貌に溢れた花鳥風月に挟まれつつ…
「当然だろう、僕の役目を忘れたのか君は」
もっと妖艶に哂って、射し込む陽光の中でライドウが返事した。
胸元の管を指先に撫ぞり、彩を閉じ込める。
『あぁん、もっと一緒に踊りたいのに、もう』
『血塗れで結構、お次の武勇も是非見せてくだしゃんせ』
問答無用で、自分の呼びたい時に呼ぶ、絶対的な支配の下…あの悪魔達は歓んでいる。
頭がやっぱりイカレてるんだ、悪魔って。
「どうだい功刀君、見つかったかな?」
「あんたは」
「目的の種以外ならば、数頭捕えた」
外套の下、はらりと捲れる紫鳶の裏地。
白い指先が掴む篭の中には、色とりどりの蝶。
一瞬感嘆の声を上げそうになって、無理矢理嚥下する。
「と、頭って…“匹”じゃないのかよ」
「学術的には“頭”で合っている筈だが?」
「って、んな事どうでも良いんだ…どうしたらそんな捕まえられるんだ?」
そもそも、どうして鳥篭なんだ、とその指先に下がる細工を訝しげに見やると
「場数かな?戦いと同じでね」
すらりと眼前に差し出される、格子の中に踊る蝶の隙間から、光る暗い眼。
「道具は何でも良い、捕える事が出来るものなら」
ひらめく翅でも無く、ライドウの眼が反射する、薄い光を。
青くなってきた春の葉脈を突き抜ける、白い日差し。
確かに冬は終わった。
だから依頼で《蝶の捕獲》なんてものが舞い込んだのか。
「あんたデビルサマナーだろ、何で昆虫採集なんざ引き受けてんだ」
「小遣い稼ぎに色々請けるのは知っているだろう?それに何とも風情が有って良いではないか」
「何がだ…ったく……」
「この辺りは悪魔も蠢いている、神眠る御山に近いからね」
確かに、太陽の方角目指し合流すれば…ライドウも交戦中だったのだ。
街で安穏と群れる雑魚悪魔よりは、実際タチが悪い。
「童子の具合は?」
「痒そうだった」
「ククッ、それは傑作だ」
「心配しろよ、上司だろ」
「ヒナタイノコヅチにクリノイガか…フフ、猫の柔肌には痛そうだ」
俺の脚…裾の窄まった野袴に付着する種子を見て哂うライドウ。
体をガリガリと掻き毟って悲鳴したゴウトを抱き上げ、先刻俺が麓まで下りたのだ。
そんな事も有り、若干の疲労を感じているのに…この男の反応は癪に障る。
いいや、存在自体、既に俺の既に障ってる。
「あのまま銀楼閣まで帰ったとして、どうやって取るんだ?あのくっつき虫」
草花を掻き分け足を運ぶ。きっと普段の馬乗り袴では面倒だったと思う。
先刻屠られた天狗と同じ様なシルエットの袴で、妙な気分だったが…
それでも、どこか垢抜けた柄と縫製だ。用意したライドウの趣味だろう。
藍色の濃淡。縞文様が両サイドに通っていて、白い笹百合柄の染め抜き。
足は本来、脚絆…足袋なのだろうが、ミドル丈のブーツに裾をインしていた。
バイクに跨る時のそれにも似て。
一方のライドウは普段と同じ学生服に外套…というのが、厭に腹立たしい。
「鳴海さんが居れば、爆笑しつつ駆除してくれるだろうさ」
「居なかったら」
「築土町を駆け回り、心優しき御友人方にでも取り払ってもらうのでは?」
御友人…
「猫かよ」
「おや?今童子は猫の器だろう、何か間違いでも?」
「嫌味な野郎…っツ!!」
背中からギリリと引き絞られる感覚。締まる肩口に何をされているか判断した。
「失敬、緩んでいた様子だったのでね、少しばかり締めてあげたよ」
襷がけの紐を、目一杯引かれ、締め上げられる俺。
下手に動けば首に巻かれそうで、視線だけ背中に流して睨む。
「未だ一頭も捕獲せぬ君に、ひとつ与えようか」
クス、と哂って俺の背中でしゅるりと衣擦れの音。
「ほら、これで君もようやく一頭捕獲」
「意味がわからな――」
「白い蝶かな」
はっとして肩甲骨付近を探れば、蝶の意味を理解した。
襷がけの背中に、ライドウの容赦無い指が踊る。
しゅる、と組まれた紐が兵児帯みたいに広がって、翅を揺らした。
「…蝶結びくらい、自分で出来る」
「背中の翅でせいぜい機敏に動いてくれ給え、折角連れるのに役立たずでは…ねぇ?」
「っ…っさいな!」
振り払うと、草木の影に白い軌道がたなびいた。
俺の背中の襷が、ふわりと蝶の翅みたく、山椒の葉に影を落とす。
(普通に結んでくれりゃ良いのに…この男)
片手にした虫取り網で、半ば八つ当たりの様に山椒を薙ぐ。
溜息混じりに辺りを見渡せば、ライドウが俺の網をはっしと掴む。
「何だよ」
「気付かぬのかい、そこに居る」
「悪魔か」
空いた手の指先に魔力を意識させれば、ライドウが俺を見ずに哂った。
「違うよ愚図」
「いッ!!」
ブーツの先、鞣革がグリュ、とヒールに踏まれていた。
俺の脚を確認せずに踏む術を心得ているイカレた野郎め。
「…カラス、か」
「カラス?何処だよ、ってかカラスなんて築土町にもいるだろ」
「僕の視線くらい読み給え」
苛々しながら、云われるままにライドウの視線の先に目測を置く。
細い葉の整然と並ぶ緑の中に、ひらりと何かが蠢いた。
「蝶」
「カラスアゲハだよ」
「手ぇ放せよあんた、網振るえないだろ」
早速の獲物も、得物が使えなくては捕えられない。
指定の種以外も売れるらしいので提案してやったのだが、ライドウは哂うだけ。
「君が振るったところで捕獲出来るとも思えぬが?」
「擬態解いてんだ、獲物さえ発見出来れば…」
「フフ、きっと翅を傷付けて台無しにするだけだろうさ」
容易に想像出来て、辟易した。
そんな俺にライドウは視線を一瞬移し、網を掴む手を緩めた。
「道具なぞ無くとも良い」
一言唱え、ひらりと山椒の傍、朱色の花にとまっているその蝶に…
すぅ、と離した指を差し向ける。
まさか…と思っていれば、そのまさか。
「おいで」
ここでカラスアゲハが微動だにしなかったり、逃げたりしたら
それこそ腹を抱えて笑ってやれたってのに。 
ひらり、と、花から飛び立つ黒の翅。
鮮やかなヤマツツジを揺らして、その、細く白い指先に…
「嘘、だろ…」
「嘘に感じる?その眼は飾り?」
黒蝶が、花から花へ移るかの様にごく自然に、ライドウの指先に飛んだ。
妙に、ざわざわする。
「どうして…ってか…どうやって…」
唖然として俺の口から出るのは感嘆なのか呆れなのか…認めたくないという叫びか。
そのままライドウは、黒い鳥篭の扉を開き、封魔みたいに流れる動作で仕舞い込んだ。
開いたそこから他の蝶も逃げる事をしない、異様な光景。
いいや…異様、では無いのか?奴の支配下から契約悪魔が逃げないそれと同じか?
「波長を合わせるのだよ」
鳥篭の中を見つめるライドウが、発した。
「波長…?」
「動くものは全て波にたゆたう…空気の振動から核の鼓動まで」
その横顔に、ぎくりとする。気付けば爪先からヒールは退いていた。
「悪魔の様に、知識の余計についたものは乗らぬ事が殆どだ、疑い深いからね…」
…が、瞬時に戻った。俺の普段接する葛葉ライドウに。
「小さき純粋なものこそに通ずる術だよ」
しっかり振り返って、今度こそ俺の眼を見つめた。
捕える際に、何故俺と向き合わないか…解った気がする。
狩りをする瞬間が、一番隙が出来るというのは本当だったのか…
「俺の前でやって良かったのかよ?あんた」
少し嗤って吐いてやる。
「蝶と同じ程度の気しか持たないあんたの、その背中から首かっ捌くかもしれないぞ」
すると、鳥篭を揺らしてライドウが哂う。
篭の中、囚われた蝶達も哂っているのか、狭いその中で踊った。
「ならば何故それをしなかった?」
「…何故、って」
「ほら、今の君には余計な理由が付随している、そこに迷いが生じる」
「そりゃあ、な…今あんたを殺したって、俺に実質メリットは、無い」
違う。
「では功刀君、君の肩から提げる虫篭に一頭でも入る事を願って、二手になろうか」
「もうあんただけで探せば?どうせ俺は見つけんのも捕えるのも下手だ」
「君の洞察力を鍛える良い機会だ、日没までに下り、銀楼閣に戻る」
先刻の云い分は、語弊がある。
「…俺、さっさと下っても良いか」
「一頭も無ければ今回の小遣いは無し、仕置きをあげよう」
「…チッ」
蝶の様に純粋で、なだらかな気を纏うあんたの背中をどうして引き裂けるだろうか。
一心不乱に蜜の在処を求めて漂う、踊る魂。その野辺を踏み荒らす程…
俺は無粋になりたくない。認めたくない、そんな悪魔じみた己を。
「真に暮れ、陽が落ちれば山はかなり危険だ…狙い目の時刻は僅か」
「光る蝶、だっけな」
「君に審美眼を求めちゃいないさ、手当たり次第捕まえ給え」
ざくざく、と今度は俺の爪先でなく碧い絨毯を踏み鳴らすライドウ。
その背中はもう冷たい何かを纏い直している。
「では、健闘し給えよ?」
「…俺だって虫取りくらいしたことある」
別れ際に捨て台詞の様になって、それが更に自身を詰る。
相手の鼓動に合わせるなんて…俺には無理だ。
きっと篭には何も入らないんだろうと諦観して、俺も葉陰に踏み入れていった。




ヤマツツジの紅い花弁に、悪魔の体液が飛散する。
召喚するまでも無いその雑魚を散らして、幽玄に染む樹々の影を見る。
夜光蝶
モルフォとも違う、完全なる発光…を、光も無い闇にするらしい。
本当にそんな種が存在するのか怪しいが、依頼は依頼。
人修羅の云う様に、それこそ他の種を売り込めれば良いだけの話だろう。
(イヌガミを喚ぶか…)
いよいよ暗くなってきた山に、少し警戒して胸元の管に触れた。
と、それとなく見つめた葉陰と枝のレリーフの向こう側、ちらりと何か覗く。
「…功刀君」
その見慣れた蒼き光に、呼びかける。
「一頭でも捕まえたのかい?」
が、その光は遠くなるばかり。
周囲から獲物が遠ざかる事も厭わず、腰のホルスターからリボルバーを抜く。
「虫の居所が悪いから無視?」
哂って引き金を引く。あの発光部位の少なさと高さから計算し、肩口を狙ったつもりだが…
被弾の反応は無い。
怪訝に感じると、更に彼は遠くなる。
「…待ち給えよ」
彼にしては茂ったその暗闇に彷徨う、その妙な足取りに胸がざわつく。
得体の知れない動きを取られると、ひどく苛々するのだ。
予測の困難な軌道はモルフォ蝶にも似て。
「いい加減にし給えよ、君――」
がく、ん
視界が流転する。急激な暗転。
落下を感じ咄嗟に胸元の管を掴もうとリボルバーを放し、指を運ぶ。
「ッぐ!」
瞬間、その腕が突っ撥ねられる。
弾かれた指先が管を取る事は無く、別の衝撃が胸元を抉ってから更に降下した。
鳥篭を持つ手は、それを既に放して接地の圧を逃す為に使った。
痺れが足先から肩まで這い上がり、全身打撲は一応免れた事を再確認する。
(崖…)
暗がりでほぼ見えていなかったのか、それならば功刀は何処へ駆けたのか。
それなりな高さを滑落した事を知る。
とりあえず帰還したら、真っ先にあれの背中を蹴り飛ばそうかと思いつつ天を仰ぐ。
「どうりで胸が軽い訳だ」
ひとりごちたのは、その見上げた先…僅かな夕焼けの残り陽に照らされた光景…
歪な壁面の半ば、突き出た鋭利な岩に引っ掛かり、未だ微かに揺れる管のホルスター。
千切れたそのほつれがひらひらと、僅かな風に舞っていた。
ちら、と右腕を見れば、大きく裂けた学生服の袖。
その隙間からじゅくじゅくと、袖先まで滴っている。
一歩踏み出すと、ぐにゃりとなって重心がおかしい。
(右腕裂傷…曲沢辺りを切ってる…脚もヒビが入ったか)
やれやれ、と、外套の衣嚢から取り出した宝玉を口に運び、噛み砕く。
滴った魔力は喉を過ぎ、中に浸透する。悪魔程では無いが、息衝く魔力が治癒を促進させる。
指先に、砕いた雫をまとわり付かせたまま、右腕の抉れた暗闇に潜らせる。
息を吸い、奥歯を強く噛み締めて、血に湿った砂利を肉の裂け目から掃い除く。
宝玉の欠片が熱く、その歪に裂けた断面の再生を手伝った。
外套の衣嚢、先刻と反対側のそこから、手拭いを引きずり出し捻る。
歯と空いた手で、くるくると緩めに捩った小紋柄のそれを、傷に覆わせる。
輪違いに福寿草の小紋が、みるみるうちに紅く染まる。
(牡丹になった…)
縛り上げた止血帯を、ただ無心にそう思って眺める。
痛みというものは矢張り時間と共に鮮明に襲い掛かってくるのか
じわりと今更な熱に、胸元を見る。
管のホルスターは頭上に垂れ下がるまま、という事は裏に忍ばせたアレも…
「…あった」
薄いケェスに入れた煙草を、薄暗い草の上に発見し、左手に拾う。
そういえば左手の篭はどうしたか、と辺りを見渡すが、らしい物は見当たらない。
黒檀を使った、それなりに高い物なのだが。
あのしっとりとした黒が祟ったのか、暗闇にそれは溶け込んで見えぬのだろう。
どうせ暗闇、神経を昂ぶらせ疲弊し下るより、朝日を待つが楽だ。
そう思い、管を取る事も優先せずに絶壁の麓に歩み寄る。
どかりと腰を下ろし、片足を立て膝に右腕を支えた。
ケェスをトン、と指で叩き、頭を出した煙草を歯で咥え抜く。
と、その瞬間に気付く。
そうだ、人修羅は今居ない。
咥えたそれを上下にゆらゆらと甘噛みで揺らし、いよいよ夕日さえ没した空を見た。
しとしと
湿った感触。
(雨は都合が良い)
何も見えない、真に凝らせば視える気配も、遮断する。
悪魔さえ気付けない程の呼吸と鼓動に抑え、己を殺す。
静かに吸う空気に僅かなニコチンが融けている。
体の痛みを麻痺させてくれるその味が、熱を奪ってゆく…
右腕から、彼等の息吹を感じる。
(ああ、火は、やはり要らぬかな)

合わせる 空気に 向き合うものに 
なかまだよ、と、錯覚させる―――





『ね、あたしの云ったとーりでしょう?』
「本当とは思わんかったに、またしったかぶってんのかと思った」
『んま!失礼しちゃう〜…』
ふわり、肩にとまる蝶の化身。
『紺は凄く薫り高いMAGを持ってるから、居るだけで魂が引き寄せられるの』
その翅の鱗粉が煌き、僕の眼を刺激する。
僕のMAGに触発されたチョウケシンの翅は、いつもより仄かに光るから。
『だから、後は向かい合わせるものに、合わせれば良いだけよ』
「周りに合わせるのって疲れるんだけど」
『欲しい相手に合わせるってだけよぉ紺、別に普段周りのニンゲンに合わせなくっても』
くすくす、と小さく笑ってはらはらと翅をはばたかせる。
『紺はチョウと遊んでくれてればイイの!だからとっておき、教えてあげたんだからね!』
「仲間売り渡す様な事教えて…罪深いらぁ?お前」
『引き寄せられる方の責任だから、それもイイのよ』
差し出す指先、チョウケシンの云うとおりにすれば、とまる蝶。
花鳥風月に合わせる…

花の様にただ揺れて
鳥の様に風に身を委ね
月の様に厳かに呼吸する

人間に合わせるよりも、はるかに易しい。
蝶を狩るその術は、己を忘れる事すら出来る。
血塗れの空気を脱ぎ捨てれば、獲物に合わせれば。
この身も魂も、そこに閃くただの蝶に…

『ねえ紺、捕えた蝶を何故人間は標本にするの?』





毒が、強まる。
「はぁっ…はぁ…」
薄く開けた瞼の向こうに、熱い鼓動を感じる。
咥えた煙草の先が、赤く燃えた。
「どうして…火…点けてないんだよ…っ」
歯先に咥えたまま、答える。
「君の仕事だろう?事実、たった今唱えて着火したではないか」
「そんだけ、かよ…本当に」
裂けている外套の端を、ばさりと掃う光る指先。
その淡い光に照らされた僕の右腕が蠢く。
「どうして吸わせてんだあんた」
「さあ?少し物思いに耽って、追い払うのすら面倒だったからでは?」
「知ってるんだぞ俺…その煙草入れにマッチ入ってんの」
ゆらゆら、煙草の先から出でる紫煙に、炙られる黒い蠢き。
僕の右腕に群がる黒蝶が、蜘蛛の子を散らすかの如く空へ飛び立つ。
「雨で湿気て、着火困難かと思ってね」
「なら空いた手で追い払えよ!!」
血吸いの黒蝶が、僕の薫りに濡れた口吻を傷口から引き抜き飛び立つ。
人修羅の指先が、彼等を虚空へと追いやった。
その怒れる横顔の向こうは彼誰時の藍空が広がっている。
既に夜は明けていた。しとしと、その薄暗い雲から降りそぼる雨。
「何故此処に?銀楼閣に戻らなかったのかい?」
肺に吸い込む毒の味は普段より不味い、湿気た生臭いそれを含み哂う。
「戻った…蝶は、ゼロだけど」
「フフ、やはり、ね」
「あんただって、鳥篭何処にやったんだ」
「さあ?宙にて放ってしまったのでね、行方は知れぬ」
「あんたも収穫ゼロだ」
「先刻この腕に大量確保させていたではないか」
そう答えれば、金色の眼が細まった。
「どうして血吸い蝶に黙って吸わせてたんだよ…」
「おや、流石にあれが普通の蝶で無い事は判った?」
見上げれば、しっとりと濡れた着物のまま、僕を睨む双眸。
肌に張り付いた所から、斑紋の光が浮かび上がっていた。
それが着物の新しい柄にも見えて、なにやら可笑しかった。
「そこ…上から落ちたのか、あんた」
「声にも気付かず、ひらひらと主人を置き去り彷徨った何処かの誰かの所為でねえ」
「は?…何、の話だ」
訝しげに見つめてくる人修羅の貌の光が、あの瞬間と重なる。
「…フ、フフフッ…」
ああ、そういう事…
「あ、はははっ」
更に可笑しくなって、胎が軋むのも構わず哂ってしまった。
「急にどうしたんだあんた、頭でも打ったのか」
「いいや、フフ…片腕が潰れただけで、他は至って正常さ」
僕なりの正常値、ではあるが。
「ねえ、君こそ何故こんな処に?事務所で人間の真似でもして惰眠でも貪っていれば良かったではないか」
それとなく謎は解明したので、一応蹴りは無しにしといてやろう。
思いつつ、他の疑問をぶつけてみる。
「こんな夜明けに、春の霧雨の中」
「…お、れは…」
雨で濡れた髪が、一層艶めいて撥ねている。
天では遠雷が呻いて、当分陽の光は拝めそうに無い。
眼の前の半人半魔の輝きが、映える空気だった。
「俺は…ち、蝶、探しに、どうせあんたがまだ山に籠もってんなら、と思って」
「僕が何故まだ山に居ると?銀楼閣に帰らず、他で時間を過ごしている可能性もあるのに」
クスリ、と追求する。下から見上げているのに、上から物を云う。
「蝶を捕るあんたが…」
睫に縋る雫が光る頬に垂れた。雨の窓辺の硝子の様に反射して零れゆく。
「あんまりにも無防備で……山で、悪魔にでも殺られたかとか、思った、から」
「…思ったから何故来たの」
「何故、って」
顰められた眉。僕を見るその眼はうろたえる。
君の姿を見る限り、傘すら持たず、道すら選ばず。
何を慌てていたのだ。
「今死なれたって、困るから…だ」
「へぇ、ではいつ死ねば満足?」
燻らせた紫煙をふぅ、と吐息で君の足下に流せば、嫌悪と何かを滲ませて返ってくる。
「俺の…手で」
学帽のつばから、雨樋みたくぱたり、と雫が落ちた。
君の体の斑紋を映りこませ、僕の眼を奪う。
「だから、あんたの血の匂いがして、来た」
「嗅覚が宜しい事だ」
「そしたら先客が群がって居て、おまけにあんたは死体みたいに…気配も無くて」
一瞬君が震えたのは、錯覚か。
「まさか、鳥葬ならぬ蝶葬かい?それは優美だな」
「ヘラヘラ哂ってんじゃねえよ!」
指が掠め取り、僕の煙草は灰燼と化す。
雨にも消えぬ焔が、君の波長を波立たす。
「いっつもいっつもふらふら舞ってんのはあんただろうがライドウ…」
ぎゅ、と灰を握り潰し、憎々しげに吐き出される君の声。
雨にも消えぬ憎悪が、他の感情を流してしまう。
「俺が、誰に使役されてるか、解ってるくせに!」
外套の襟を掴み、視線が、金色が眼の前に来る。
「そこらの花みたいに気ままに振舞ってんじゃねえよ!!」
除けられる右肩の布、裏地の紫に錆び色がこぞむ。
赤い牡丹になった手拭いの隙間、先刻蝶が群がっていたその暗闇。
「他の奴等にばっかタダで吸わせるくらいなら…」
右腕に縋る蝶。
「蝶に喰わすくらいなら…っ…」
抉れた其処を、蜜でも啜るかの様に舌が探った。
眼を伏せ、頬を上気させた君が、じくじくと魔力を舐める。
痛みは…無いと云えば嘘になる。
だが、それ以上に…
「随分と浅ましい蝶だね」
上腕を掴む指に、否定の様に力が篭る。
「他には蜜の在処を譲りたくない?傲慢な奴」
「っ…」
前髪を鷲掴みに引き剥がす。その暗い赤に染まった唇に喰らい付く。
ぎゅう、と瞑られた金色が見えない。肩越しに、ひらり、見覚えのある光が舞っていた。
(ああ、やはり仲間と錯覚するのか)
確信して、そして見間違えた己に哂って、唇を放す。
「っぷ、はぁ…っ…はぁっ…お、い…俺は、腕から貰えりゃそれで!」
「静かにおし」
唇に指を差し当てる。
「其処に居る」
「あ、悪魔か!?」
「僕の眼の前になら居るがね……今云ったのは、違うよ」
悪魔と云われ憤慨する君を、左腕でとん、と突き倒す。
不意をつかれ、あっ、と声を上げた君が草に寝た。
雨露に春の花芽が萌えていた。蒼い空気が、宵闇では判らなかった絨毯柄を映し出す。
「光る蝶」
「え…まじ、でか、ど、何処に」
「君も僕に呼吸を合わせ給え」
上から見下ろし、その彷徨う眼を引き寄せた。
「あ、合わせるって、おい」
「さすれば向こうから来る、ほら…」
僕をいつか、殺すと明言する君の前で、力を解く。
眼を見開き、迷い子の様に戸惑う君の耳元に囁く。
「力を抜け…僕が吸えば吐け…吐けば吸え…」
着物の隙間から差し入れた指先で、心臓の上を撫ぞる。
「ばっ、何して!!」
「ここがまだ煩い」
「ざけてんじゃねえよ…!こんな山中であんたやっぱイカレて」
「今から君だけに吸わせてやるのだから」
云った途端、大きく跳ねた鼓動が、また妙な規則で刻まれ始める。
逆効果だったか、と失笑して、首筋の斑紋を舌で辿る。
「蝶、なんて、何処……」
声を止めた君、僕もソレを見て、ニタリと口角が上がる。
「君を仲間だと思っているのさ」
同じ光の色。
淡い碧、他の色を吸うTyndall blue。
僕がMAGを注げば、高揚するその輝き。
「ねぇ、解ったかい…?だから、君は大人しく餌になり給えよ、蝶達の」
しとしと、雨に濡れる君の鱗粉。
乱反射するその輝きが、空気に解け出す。
「っは……ど、して俺がぁ……ん、っ」
「喚くでないよ、逃げてしまうよ」
「…っ……姑息……だ」
いじらしい。
君は蝶なのか花なのか。僕は蝶なのか蜘蛛なのか。
搾取される側なのか、する側なのか。
軋む脚を絡ませ、翠の上に寝そべった。
喘ぎを呑み込む君の、顔を覆う腕に、ひとひら…
「君にはまんまと騙されたね」
眼の前に閃く蝶に微笑んで、僕は搾取を再開した。








「いや、よく見つけてくれたものだ…!」
「この蝶で間違いは無いですか?」
「ああ、光の反射でなく、自体が発光している…これに違いない」
満足気に篭の中の蝶を見る依頼主。
「大した標高でも無いのに、遭難し易いと聞いていたが、大丈夫だったのかね」
確かに、痩せこけたこの人間には、この昆虫採取は無理だったろうと思う。
「山には神が住まうと云いますからね、人ならざるモノが蠢いて惑わすのでしょう」
実際は、悪魔どころか蝶に誘われた訳だが。
いや、見間違えた相手は半分悪魔ではあるか…
「しかし警戒の強いと噂されるコレを、どうやって?」
びくり、と、傍の擬態した人修羅が一瞬跳ねた。
僕は依頼主に、営業の微笑みで返す。
「それは御客人、蝶を収集する身なればお解かりでしょう?」
「やはり教えてはくれないか」
「ええ、詳しい場所も、方法も、伝われば搾取され尽くしてしまいますからね」
まさか、交尾して誘い出したなぞ、云えたものだろうか。
僕は構わないが、一応君の面子の為にそこは伏せておこう。
「銀行に入れておくのと別に、これは気持ちだ、良かったら見てくれ」
手渡されたのは本だった。
依頼主が事務所の扉を開けて出たのを確認し、はらはらと頁を捲る。
綺麗に描かれた数多の蝶が翅を広げた図鑑。
「綺麗で好きなのに、標本にするんだろ」
猜疑心をはらんだ君の声が、背後からする。
それを聞きつつ、事務所から出ると、続けて声がかかる。
「それ、読んでも良いか」
立ち止まり、ひとつ哂って返答した。
「何、突然勉強熱心だね?これより先に悪魔大全でも埋めたらどうだい?」
「悪魔よか蝶の方がマシだ」
階段を上り、僕の部屋に。本棚の空きを探ってから、寝台に放った。
「一番下の左から三番目」
「…ああ」
読み終えたら其処に入れておけ、と指示し、僕は椅子に座る。
右腕は既に落ち着いていたが、裂けた肌に痕が残らぬ様に薬を入れる。
する、と解いた…襷。
そういえば、帰路で。君が巻いてくれたのだったか…
啜る為に手拭いを解いたのは自分だから、と、怒りながら。
怒るくらいならば、最初から解くなよ…と哂った。
知識が無いので、加減も知らずに巻かれた其処は、厭に鬱血してしまっている。
君の背中に結んだ蝶は、赤くなって腕に帰ってきたのだ。
「功刀君…標本にする理由を、考えた事は無いのかい」
寝台に腰掛け、図鑑をぼうっと眺める君に問いかける。
「標本って云えば聞こえは良いけど、要は死体だろ、あれ」
「ククッ、本当に君は風情が無いね」
外套も無い君は、流石に着替え、既に普段の袴姿。
擬態に斑紋も隠れ、見目は人間。
「チョウケシンの標本」
「え」
「昔、里で遊んでいたチョウケシンを、僕は標本にした」
君の眼が、何を云いたいのかは解る。
決して、賛美でも羨望でもない。
夕暮れが窓を伝う露を、床板に転写している。
「蝶を標本にする際に気をつけるのは、翅を傷つけない事だ」
「…抵抗しなかったのかよ、そのチョウケシンは」
「抵抗?」
フン、と哂って、背凭れに寄りかかって君を見据える。
「『捕えた蝶を何故人間は標本にするの?』と聞かれた僕は…」
あの日を思い出す。
「綺麗な姿のまま、飾りたいからじゃないのか、と適当に答えた」
君が息を呑む。
「悪魔としか遊ばなかった僕は、またいつもの夕暮れに別れ、帰路に就く…」
 


だが、その日はチョウケシンが居なかった。
僕のくたびれた庵に入り、古木の机を見れば。
展翅版と針を傍に携えたチョウケシン。
『ねえ、紺、綺麗な標本欲しくない?』
するすると、そのか細い脚に落ちるくすんだ色の着物。
鳶色の躯をした蝶が、針を持って僕に微笑む。
『他に駆逐されんのも厭、紺があたしを標本にして?』



「こ…殺せ、って云ってんのか、それは」
理解不能だと云わんばかりに、怪訝な表情をした君。
でも、一番理解を得れぬのはきっと僕だろう。
「MAGを完全に枯渇させれば、悪魔は消える」
充たされている管と違い、体を造るのは魔力である…空気にはそう在る。
「僕は、チョウケシンにMAGを注ぎながら、針で胸を貫いた」
「…おい…」
「綺麗な顔のまま、苦悶に歪む事も無く、展翅されたよ、彼女は」
「殺したのか」
「いけない?」
「と、友達…だったんだろ、悪魔といえど…当時のあんたには」
ほら、理解出来ぬと云った顔。
可笑しくて、ギイギイと椅子を傾け、僕はせせら哂う。
「向こうが望んだ、僕も望んだ、利害の一致さ」
「おかしい」
「綺麗なまま独占したいから、他に捕られぬうちに展翅するのだよ」
その為だろう、標本とは。
君の怒りに薄く光る斑紋を見て、改めて感じる。
「あんた、やっぱり…蜘蛛だ!捕まる奴等は馬鹿だ、皆馬鹿だ…っ!!」
図鑑を本棚に入れもせず、部屋を飛び出した君。
階段をつまづく音がたたっ、と聞こえ、その慟哭を知る。
「蜘蛛、ね…」
寝台の図鑑を指先に遊ばせる。
あの日、貫いた胸。僕の胸は、痛まない。
甘美なその瞬間、すべてを支配する感覚。
それが死体でも、それは魂であり、存在そのものなのだ。
モルフォ蝶の美しい頁に差し掛かり、机にそれを運ぶ。
蒼が光る、その翅をしばし眺め、万年筆を手に取った。
すらすらと、蒼い翅に伸ばす黒い斑紋。
ガリリと図鑑の紙は、墨を吸う。
みるみるうちに、その頁の一番大きく描かれた蒼い蝶は、黒い斑紋を纏った。
裏表紙の裏側、付録として小さな包みに入っている針を指先に取り…
「ねえ、君を標本にするなら、何処からいこうか」
頁の彼に問い、その胎辺りを貫いた。
脳裏に悲鳴のイメェジが流れる。
四肢という翅を貫く度に、頭では君が啼く。
現実は、頁に開いた穴が針で啼く。
「僕のMAGを流しつつ展翅すれば、あの貌のまま標本に出来るのかい」
一番美しいその瞬間のまま。
濡れたままの君を、その肢体を、その死体を。


その蜜を、独り占めしたい、禁猟区…
僕だけが搾取する君の園、蜜猟区…


どちらが、篭に入っているのだろうか…


蜜猟区・了
* あとがき*

モルフォ型という種は薄片(Lamella・ラメラ)が張り出して反射する光が蒼に輝く。
ザルモキシス型は鱗粉表面が不規則な構造の為乱反射、蒼以外を吸収する為、蒼に輝く。
人修羅の光るイメージは後者です、勝手なイメージですが。他を吸うのです。
シャム猫の眼や鳥の羽、魚の鱗もこの構造で蒼に視える。
チンダルブルーという色の名前でなく、仕組み、だそうです…
ザルモキシス型、のザルモキシスという名が何故つけられたのか調査しておりませんが、ダキア神話(古代欧州地方)の死と再生の神、らしいですね…至高神ザルモキシス。
此処では、死の概念は「生きる場所が変化するだけ」というものらしい、です。
蝶は日本でも昔から、魂や死と繋がりが深い様ですし、モチーフとしては綺麗に想像出来ました。表現出来たかどうかは別として。

補足説明すると、ライドウが鳥篭にしていた理由は…「見目の好み・内部の広さ・翅を傷つけない為」です。普通は三角紙とか、薬包紙みたいな紙にそっと包んで運ぶのですが、指にとまらせて鳥篭に放せば容易いので。
血を吸わせていた心境は…恐らく、己の忘却を図る為かと。ただひとつの花になってたゆたう事が、死に近付くのに安息を得れるから?

蝶と人修羅を見間違えたとは、絶対云えないでしょうなライドウ。 ややネクロフィリアな嗜好を持ち合わせている気がしますね…夜は。