「髪色が何だ、生まれがどうした。敷地内に異人一人入れただけで気が散るなど、いいわけに過ぎぬ。出入り禁止にするなら鳴海所長をしたらどうだ、先日僕が利用した際にツケを請求されたのだよ」
「ライドウ」
「蒼い眼と金髪に決定的な違いが有るだけで、君は日本の言葉が流暢だ。そして、食事に妙な注文もつけぬだろう、向こうにとって不利益は無い」
「夜」
名を呼ぶと、ようやく口を閉ざした。
こんなライドウは珍しいので、暫く様子を見ていたのだが。
そろそろ場所を変えたかったので、ぼくから切り出した。
「御立腹?」
「わざわざ予約を取ったというのにこれだ。理由が理由ならば折れたものを、あまりに下らない」
「別にぼくは何処でも良い、君がエスコートしてくれるのならね」
「あすこの一番良い席を取ってあったのだよ、雪見障子から庭園の見える個室だ」
「雪の季節には、まだ少し早いのでは?」
「そういう問題では無い」
この国は四つも季節があり、その境目がいまいち判らない。
節目ごとに日は決められているそうだが、その日から気候ががらりと変化するという事でも無いらしい。
曖昧なものに左右される国民達……街を歩けば、衣や売物でそれが感じ取れた。
ゆっくりかと思えば、一瞬で道往く者達の姿は変化していく。
ショールやグローブが目立ち始めると秋で、マフラーやウールコートが大半を占めると冬。
今、ぼくの隣に居る書生は年中マントコートだが。
「十四時まで食事の予定だった」
「臨機応変に予定を組める君ではなかったの?」
「食欲が削がれた」
「ぼくの食欲は削がれていないけれど、それに関しては解消させてくれないのかね?」
「侮辱されたというに、嫌に安穏としているなルイ」
「怒れる君の姿が見られ、寧ろ興奮してるよ」
「何だいそれ、不機嫌な僕を見て面白がっているという解釈で良いのかい?」
「哂っていない君の顔は、普段に輪をかけて綺麗だからね」
一瞬の間、しかし君のプライドが沈黙を許さないのか。
ぼくから顔を背け、鼻で嗤う。
「そんな言葉で歓ぶとでも?」
「まさか」
向こうの壁の絵画と、目が合う。
真鍮額縁の中の書生が、ぼくを見てはっとする。
言葉に失笑を滲ませてはいたが、結局貌は綺麗なままだったという事だ。
アルカイク美術の如き君の能面も悪くは無いが、あれは心を隠してしまう。
ほんの時折、息継ぎの様に面を外すから面白い。
「ジロジロと失礼な奴だ」
「壁の鏡に文句を云っておくれ」
「向かい合えば映り込むのは己だ、僕はこの面をじっと見つめていたくは無いのだよ」
「その割には、この売り場から動かないのだね」
「僕が見繕うのは手鏡だ、遊郭にひとつ持って行く」
「へえ、貢ぎ物?夜に貢がれる女性が存在するとは、これは驚いた」
「違うよ、忍ばせてある僕の悪魔にだ。時折の飴くらいは欲しいだろう?ボイコット防止さ」
物色される手鏡達は全て伏せてあり、煌びやかな細工の背をライドウへと向けている。
材質は様々だが、どれもお決まりの如く草花のモチーフ。
「君の背中にも、こうして刻めば良いのに」
「僕は堅気では無いが、やくざ者と揃いになるつもりは無い」
「傷が刺青に紛れるだろう?それかいっそ、傷を鱗に見立てて龍を彫ればどうだね」
「既に大國湯で知れ渡っているよ、隠すつもりも無い」
手に取るライドウの指先は、刀の手入れをしている時と同じだ。
落とさぬ様にしっかりと支え、しかし傷付けぬ様にやんわりと触れる。
愛撫と同じだと、いつだか云っていた。ぼくが施された事は、殆ど無い。
「君の里に咲いている、あれの刻まれた鏡は無いのかい」
「どの花を指しているか、情報に欠ける」
「赤い火の様な……リコリス?」
「ああ……あれは縁起が宜しくないから、恐らく嗜好品の意匠には為り難いね」
「そうなの?それなら何故刈り取らぬのか、不思議だ」
「毒草には毒草なりの活用法が有るという事さ。紅葉が色めき立つまでは、初秋の彩にもなる」
「通称は?」
「彼岸花、曼珠沙華」
「どっちなのだい」
「どっちもさ」
幾つもの名を持つ存在が多い事を、ぼくは知っている。
草木や獣、天使も悪魔も。
葛葉ライドウと、ぼくも。
「それにするの?随分小柄な鏡だな」
「鏡台なら部屋に用意されているからね、懐に仕舞う事が出来るくらい小さい方が……何?」
ライドウから奪い取る際、微かに指先が触れた。
金属よりは温かい。なんだ、ちゃんと人間らしい指をしているではないか。
「ぼくが払ってあげよう」
「僕の持ち物には成らないのだよ、ルイ。云ったろう、土産にすると」
「承知しているよ、単に奢ってあげたいだけ」
「木の葉のお札じゃあないだろうね?」
「大丈夫」
わざわざ人間の様に持ち歩いているのだ、財布という器に容れて。
難無く会計を済ませすぼくを横目に、ライドウは礼の一つも云わなかった。
此方で勝手にした事だ。それが無い事に、ぼくも憤慨はしない。
絹の巾着に包まれた手鏡を、改めて渡す。
「僕が強請ったと勘違いされても困るな」
「普段から羽振りの良い君だから、そうは思われないだろう」
「君とつるみ始めてから散財しているよ」
「へえ、何故だい?」
「まずは時間を作るだろう、そうするには依頼を早く始末する必要がある。それか依頼自体、請け負わないか……どちらかだ」
「ふむ」
「早い決着の為には、様々な工夫と消費が有る。無理をしたならば回復の必要もあるね、それは治療費さえ払えば解決される。迅速な移動はどうだ?これも金かMAGを消費する」
「分かったよ夜。つまり、ぼくに会う為にいつも大変な思いをしている、という事だね?」
舞治屋百貨店の出入口に差し掛かった頃、ようやくぼくに目を合わせてきた。
学帽の意匠が、黒ずくめの中で一際輝く。
「落ち合う為の調整はしているが、まるで僕が一日千秋の想いを抱いてるかの如く語らないでくれ給え」
「屋上の動物園は観ないのかい」
「獅子の類は悪魔で見慣れているのでね」
「あっちのデパートは?アクアリウムが有るのだろう」
「随分と情報通じゃあないか。さては、既に一通り廻ったな」
ライドウの指摘通り、ふらりと散歩は済ませていた。
この国のヒトはあまり大柄では無い為、ぼくの視線を遮る事は無い。
列に並ぶ事も無くふらふらと眺めては、目の合う動物達を萎縮させて遊んだ。
「暇潰しの娯楽が多くて、帝都は愉しいな」
「まあね、そうでなくては葛葉ライドウなんて辞めている」
「そうなのかい」
「ゴウト童子が居らぬから、云ってみただけさ」
路の並木から、暖色系の葉が零れ落ちる。
二股だったり、五指だったり。並ぶ樹木達は、特徴的な葉を空に広げて。
紅葉というひとつのカラーラベル、季節は秋の様子。
「燃える様な赤色だ」
「実際酷く燃えたからね、僕は当時こっちには居らなかったけれど……あの小料理屋も、割と新しかったねえ。また燃えなければ良いけど」
「おやおや」
「玄関くらいは君からも覗けたろう?先刻話に挙がった彼岸花が、陶器の一輪挿しに活けてあった、客商売というに珍しい事をするよ」
「好くないの?」
「先刻も云った様に、縁起が悪い。それにあれは、持ち帰ると火事になるという俗説が有る」
「夜も案外、そういうものを気にするんだね」
「好きにしたら良いさ。ただ一般的にはどうなのだろうねって、そういう事だよ君」
どうやら大地震後の瓦礫の荒野に、この様なものを建てたらしい。
周辺に殆ど建造物の無い中、堂々とそびえる百貨店。そんな絵葉書が、売店に飾られていた。
建てた直後、再び天災に見舞われる事を想像はしないのだろうか。
そこで被災しようが、恐らくまた工事を始めるのだろうけれど。
「案外しぶとい」
「何の話?」
「躍進する日本國は凄いね、と云ったのだよ」
「台詞の長さが全く違うのだが」
送迎バスの待合に着くライドウの襟を軽く引き、列から外した。
訝しむ視線を受け流し、そのまま歩道へ向かうぼく。
「何処か観たいのか?このまま新世界で良いだろう」
「夜は空腹ではないの?先刻の店で遅めの昼食を頂く予定だったのだろう?」
「新世界にも軽食は有る」
「人間はバランス好く摂取しなければ、具合を悪くするとかなんとか……」
「フン、まるで他人事だな」
ぱしりと叩かれたので、黒い襟から指を遠ざける。
代わりに唇を寄せ、そのもみあげに射抜かれぬ位置から囁いた。
「ぼくをあげる?」
一瞬止まる革靴が、高らかに踵を鳴らす。
進行方向が定まった様だ。ま、仕向けたのはぼくだが。
「フフ……その気が有るのなら、事前に教えてくれ給えよ。そうすれば、MAGを出し渋らずに済んだというに」
「午前は戦う仕事だったの?それは御苦労様……確かに、におうね」
「嫌なら離れるのだね、最中にも発汗するだろうし?」
「白檀だったかな、それのニオイだよ、夜」


この先のゴールを知っている、幾度か利用したからね。
行き着く先は、蕎麦屋とは名ばかりの風俗施設。
一階では喫茶をして、二階より上ではヒトが交わる褥を貸している。
これで平然と下階では飲食しているものだから、なにやら可笑しい。
二階より上はまるで天上、林檎を口にする以前かの如し。
「生臭くては食事の邪魔になるだろうと、相手の返り血ひとつ浴びずにこなしたのだ。少しは評価して頂きたいね」
「すべてを仲魔に任せ、己は高みの見物をすれば楽が出来るじゃないか」
「君と会う日は興奮しているのさ、得物を揮いたくなる」
さらりと述べるライドウは確かに、先刻からマントの下で刀を弄る頻度が高い。
直接見えずとも、微かな振動と音がぼくに視せるのだからしょうがない。
鍔に爪先を引っ掻け、指の腹で目貫を辿り、柄巻をごりごりと扱き上げる。
ありありと判る、その指先の痴態。
刃物の部位の名も、彼に教えて貰った……
というより、唱えながら磨き上げるのだからいい加減記憶してしまう。
二人で居る時にさえ、艶めかしい刃を光らせながら手入れする姿を思い出す。
ライドウのお気に入りの逸品は、武器や呪われた装具や禁書。
ぼくがそれ等に精通している事に、最早戸惑いも見せない。
共に議論し、軽口を叩き合うのみ。
きっと、君がそうしたかったのだろうね。悪友になろうと、約束したのだから。
「そんなに撫でていたら指が疲れて、この後に本領発揮が出来ないだろう」
「馬鹿を云え、この程度で疲弊しては刀も揮えぬ、自慰も出来ぬ」
書生姿で平然と、蕎麦屋の最上階を指定するライドウ。
店の主人も咎める事無く、ライドウに追従するぼくを見て訝しむ事も無い。
目の前で揚々と階段を上る青年は、奔放に見えて実に真摯だ。
商売女しか発散の相手にせず、ヤタガラスには一方的につつかれるのみ。
つまり、此処に連れ込む相手など、ぼく位しか居ないという事。
「ほら見てみ給え、こうして異国人だろうが通した方が利益になるというに」
「おや、随分と根に持っている」
「空腹でね。一日抜こうが平気なんだが、丁度昨日がそれに該当する」
「下で食べてからにすれば良かったのに、今から引き返しても構わないよ。此処は蕎麦屋さんだろう?」
部屋に入るなり外套を脱ぎ捨て、軽く伸びをするライドウ。
「君の“そば”がいいな、ルイ?」
既に綺麗に敷かれた寝床へと、引き倒されてやる。
上を取ったのは、当然の様にライドウだ。
ぼくが完全に丸腰かを確認するまで、警戒は解かないつもりだろう。
「I'm not good at Japanese」
「フン、こういう時だけぶるな」
眉間を指先で摘んできたライドウは、次いでぼくの帽子を撥ね飛ばした。
ハンチングの内側から溢れた金糸を掴み、ニタリと哂って弄ぶ。
手綱の様にくいくいとさせる。ぼくを引き起こしたいのかと思えば直後、自ら胸を合わせてきた。
躰の厚みより一足先に、ごりごりと圧迫してくる感触。
MAGが透けて匂う、硬質な縦並びの肋骨。
デビルサマナーを構成する、召喚器という骨。
「管、挟んでるよ」
「痛い?」
「それほどでも」
「なら文句を云うな。君をひん剥いてから、此方も装備を外す」
「仲魔を挟んで行為に及ぶのかい」
「聴こえておらぬよ……」
蠱惑的な眼、間近に見る程吸い込まれそうな闇だ。
ライドウは今も、ぼくを蒼い眼なのだと思って見つめているのだろう。
これは西洋人という風貌に、シンプルに合わせた外装だ。
(ヒトから見れば、蒼い風にした……)
蒼穹の天は、それ自体がそういう色をしているのでは無いと。
可視光線の関係なのだと、これもライドウに教えられた。
あの蒼は、本当は無いのだと。
それを聴いた時にぼくは、ヒトの解釈や解析の根底にある理由を捉えようとした。
結論として、人間達は「目に見えるものを疑い始めている」から、それを追求するのだと答えが出た。
アポリオンが空を喰い破った時には、天の崇りと慄いたくせに。
「あの店はムジナ料理が美味でねえ……」
「ムジナ?」
「ああ、タヌキでは無いよ?捕まってしまうからね。あすこの素材は、アナグマの方のムジナ」
「ムジナに複数の種類が有るの?」
「まあね……近年タヌキが狩猟禁止になった折、ムジナの解釈違いで問題になったからね。地方によってムジナというのは、タヌキだったりアナグマだったりハクビシンだったりするのさ」
「どれが正解なのだい」
「どれも正解さ、モノの名前なんて人間が勝手につけただけだから」
ライドウの口調は投げやりだが、ぼくは笑って納得した。
そうそう、世に蔓延るは、ヒトの勝手なのだよ……本当の色でも、名前でも無い。
「夜という名は誰がつけたの?」
「さあね」
「拾われたのだっけ?本当の名を知りたくは無いのかね」
「別に」
君はぴしゃりと云い放ち、暫くまさぐっていた片手も落ち着かせた。
ぼくに武器の所持が無いと確認出来たのか、強請る様に股座を押し付けて腰を揺らす。
興奮から熟したであろうものが、ぼくの股の出っ張りにぐりぐりと擦り付けられている。
「ルイ、後ろを解いてくれ給え」
「手ぐらい届くだろう?普段も自身で装備しているのなら、だけれど」
「伊達男の風貌で、よくもそう気の利かぬ事がつらつらと出てくるな君は」
命じられるままに、ライドウの背に腕を回す。
編み上げられた紐の、結び目を解いてゆく。
これは清められた装備だろう、少しだけ指先が痺れる。
生地がもったり撓むと、ライドウが微かに溜息した。
ぼくはするすると編み上げの間隔を広げ、後は任せるつもりで腕を下ろそうとした。
「帯や紐が長い理由を考えないのかい」
先刻とは違う色をした、ライドウの溜息。
アンニュイなまばたきは、やや苛立ちを滲ませている。
紐解きを止めた瞬間のこれだ、つまりこの動きが癪に障ったのか。
「そういう理由なの?」
「さあ?知らないね。しかし前戯の尺伸ばしにはもってこいだろう?」
「夜でも知らない事があるのだね」
「君が最近サボり過ぎなのだよルイ、僕に色々と教えてくれる約束だったじゃないか……ねえ、フフ……」
ぼくは腕を下ろし切らず、再び間延びした編み上げの所に戻した。
紐を撫ぞる様にして、背中を抱き締める。
この学生服の内側に、蚯蚓腫れの背中が在る事をイメージすると、ぼくも何やら興奮してきた。
痛む事を分かっていながらに、尚求める。そんなヒトが可笑しくて、愚かしくて。
砕かぬ様に注意しつつ、更に抱き締めた。


あの時、何故ライドウは怒っていたのか。
幾つかの可能性を考えていた。
彼の云うには「下らぬ理由」で入店を拒否された、これが発生したイレギュラーだ。
だが、どうだろう。あの葛葉ライドウの十四代目は、これだけで怒る人物とは思えない。
新世界で、注文品が在庫切れとやらで出て来なかった時にも、さらりと了解していた。
つまり“難癖をつける客”という類では無い。
では差別に憤慨したか?いいや、彼は逆をされても顔色ひとつ変えていなかった。
晴海で落ち合う際、離れた所からぼくは見ていた。
白人の旅行客に、ライドウが日本人として嗤われる瞬間を。
あの白人の言葉なら、彼は容易く解せた筈。
蔑みには慣れている彼だろうが、少し違う……飄々としつつも、自尊心は高いのだ。
つまり、国籍違いによる差別や偏見などは、本当の意味で下らぬものとして流している。
怒りを覚える対象ですら無い、そう見えた。
「ああ、なるほど」
少しずつ見えてきた、ライドウの怒りの正体。


ぼくは開け放った窓の格子を、誰かの真似をして指先で撫ぞり遊んだ。
一見無意味な行為だが、指の腹で感じるのは、物の質感。
素材、感触、温度……
触れるまでは判らない、何事もそうなのか。
かもしれない、こうしてヒトの形で触れるまでは知る事も無かった。
「……冷える」
褥からのそりと寝返り、シャツ一枚に帽子ひとつのライドウが呟いていた。
ぼくの金糸が、さらりと靡く。風が部屋の中に舞い込んでいる、という事が判る。
「おはよう夜」
「半分は覚醒してたよ、誰が熟睡するものか。しかし……夜におはようとは妙な台詞だね、フフ」
「閉めた方が良いのかな」
「君が風に当たりたいのなら、そのままにすれば良い。僕は羽織れば調整出来るからね……」
エネルギーの余力と、身体的な疲労は別なのだろう。付き合う内、徐々に分かった。
ぼくからMAGをたっぷり吸ったくせに、些か消耗気味という体のライドウ。
あんなに腰を振れば当然だろう。闇雲に動かす訳では無く、的確に……ねっとりとしたあの動き。
此方への労りなど無い、己の快楽のみに従う、あの狂った腰つき。
貫かれながらも、搾取しようとする獣の眼。
そう、君は性行為がそれほど好きでは無いのだろう、夜?
「ほう、この高さだとかなり葉が近いのだね」
「秋風にさざめくと、まるで窓の外が燃えている様に錯覚する。寝ぼけ眼では尚更、火事と見紛うだろうね……いや、僕は寝惚けているつもりは無いが」
「街から少し外れるだけで樹が多い、此処は《田舎》というもの?」
「《郊外》が正しいだろうね。そこの枝なんか、時折野生の動物が駆けているよ」
「ああ、そういえば先刻見た気がする。あれがムジナというやつかもね?」
「……どうだか、そんな丁度良く現れるとも思えぬけど」
他愛も無い会話、酒、煙草、賭博、愛撫、喘ぎ。
恐らくすべて、恋も愛も無い。
付き合えば付き合うほどに、分かる。
君にとっては、逢瀬やセックスすら戦いなのだ。
利害の一致で開戦し、その立派な得物でまず威嚇し、快楽の矛先を定めて一突き。
相手が遊女ならば、堕とし蕩かせば勝ちであり。
相手がぼくならば、自らを坩堝として満腹になった時点で勝ちなのだろう。
「しかし、本当に錯覚かな」
窓辺で涼む仕草のぼくだが、試しに不穏と思われる言葉を吐いてみた。
案の定、布団に包まっていたライドウがじろりと睨んでくる。
「それは何を意味する」
「いやね、遠くの方に……真朱に染まったものがゆらゆらと、見えた気がしたのだよ。しかし時間帯からして、只の夕焼けかもしれない……ふふ、錯覚だ、うん」
押し黙るライドウ。
君が口を開くより先に、遠くから鐘の音がした。
カンカンカンカン、けたたましく。
「どうしたの」
ぼくの呼びかけに答えもせず、ライドウは布団を蹴飛ばす。
その脚のソックスガーターには、管と小さなナイフが携帯されている。裸同然に見えて、常に臨戦態勢ときた。
歩み寄って来ると、大胆に窓から身を乗り出す。
「肌を見られてしまうよ、夜……それか、ぼくが付き落としてしまうかもしれないよ」
その横顔にキスをしようと唇を寄せれば、落葉の如くするりと抜けていった。
枕元のホルスターから管を抜き取ると同時に、既に召喚している。
『キャウ〜ン!ライドウ装備ハドウシタ、身軽ソウ』
「其処の窓から出て、先に現場を調査し給え」
『何ノ現場?』
「火事だ、場所は人の流れか心を読め。消防隊が見えたならそれを追えば良い話だが、可能ならばそれより先に着け」
『消火ハ無理ダゾ』
「現場を見張るだけで良い、野次馬の顔を記憶しろ……さあ往き給え」
イヌガミの額をひと撫でし、そのまま窓の方に追いやるライドウ。
戯れが足りぬらしい犬は、鼻先を名残惜しそうに掌へと擦り付けていたが、やがて発った。
それを確認しつつ、スラックスに脚を通すライドウ。
着替えも早い、あれよあれよという間にマントまで纏った。
管のホルスターなどは、一瞬で後ろ手に結ばれる。ぼくは先刻、あれだけ焦れた真似をさせられたというのに。
「ぼくらも野次馬に行くのかい?」
「実にキナ臭いのでね」
「燃えていたら、当然臭いだろうな」
しがない返事も無視されてしまった、どうやら結構急いているね。
事後の情緒も無いままに、階段を駆け下り街路の人混みを掻い潜るライドウ。
通行人が彼を避けるのか、彼が絶妙に躱しているのか……これはいまいち判断出来ない。
「君も人の流れを読んでいるの?」
「というより、燃えている場所の見当はついている」
「へえ、どういう理由で」
「云ったろう、キナ臭いと」
足早に進み続け、暫くすれば例の料理店だった。
轟々と燃え盛ってはいるが、建物全域という訳でも無さそうだ。
黒山の人だかりを掻き分けずとも、ぼくとライドウはまあまあ見渡す事が出来る。
『ライドウ、来タ来タ』
「御苦労、中に人は居るのか?野次馬の顔は覚えたか?」
『中ニハ誰モ居ナイ、皆逃ゲタ!野次馬ノ顔ハ覚エタ!』
「今後ひと月は忘れるな、火を放つ者は現場を眺めている事が多い。今後も度々見る奴が居れば、僕に伝えろ」
MAGを褒美に与え、イヌガミを管へと戻すライドウ。代わりに召喚したのは、水を湛えたアズミ。
成程、少ないコストで目一杯に活用するのか。
育成上手で、適材適所が出来なければ成立しないやり方だ。
『んっまーライドウちゃん、久し振り!それにしても熱いねぇ、ちょっと火力強すぎやで!』
「ざっとで良い、消火してくれ」
『えぇ!アルラウネぇは!?』
「“蔦が焦げちゃう”とか云い出しそうだからね、なので文句も云わずテキパキ動く君を召喚した、期待している」
『ちょっとちょっと!おばちゃんは焼き魚になっちゃってもええん!?でもその評価は嬉しいわぁ、美味し〜い匂い漂わせて、頑張っちゃおうかねぇ』
氷結の術を撒き散らすライドウの仲魔に、この場のどれだけの者が気付いているのだろうか。
消防の車からも水が放たれてはいるが、そちらの方は焼け石に水。
実体の無い対象、つまりは幻に水をぶちまけているかの様だ……
「わざわざ消火活動とは、帝都の守護者も大変だね」
「だから幾度も云ったろう、臭い火だと」
「普通の炎では無い、と?」
「これはMAGを燃料にして発現する焔のニオイだ。中で鞴として煽ぎ続ける悪魔が居れば、只の水では何時まで経っても消えぬだろうね。道中既に臭っていたよ、風に乗って――」
と、喋り終える前にその場を離れるライドウ。
近くに居た女性に話しかけている、まだ年若い風貌の相手。
逃げ延びた者だろうか。髪はやや乱れ、ほんのり頬が煤けている。
おもむろに、ライドウは懐から何かを取り出し……女性に渡した。
よくよく見ずとも判った、あれはぼくが買ってやった手鏡だ。
巾着から取り出し、まだ新品のそれの両面をひらひらとさせて眺める女性。
戸惑いつつも惚れ惚れしている、品物にかライドウにか。
鏡の反射は、炎の眩しさにも負けず空気を裂く。
女性はうっとりと、火事の熱に中てられた様にも見える。
そして当のライドウは、あっさりと此方に戻ってきた。
「この状況で軟派とは、恐れ入るな」
「馬鹿、胎を見給え」
云われるがままに、再びあの女性を見る。
炎の照り返しで、本来の色が判らない着物。その腹部が、大きな卵でも抱えているかの如く膨らんでいた。
「火災現場で妊婦を軟派したのか、夜はなかなか罪深い」
「だからねぇ、軟派では無いと云っているだろう。妊婦が火事を見ると、産まれた子にコトヤケが出来てしまう」
「コトヤケ?」
「赤痣の事さ、ただし鏡を懐に持てばそれは回避出来る」
「その為だけに貸したのかい」
「いいや、くれてやった」
「仲魔への土産にするのではなかったのかね」
「それはいつでも構わない、優先順を考えればおのずとこうなる。それに君から与えられた物を褒美としてやっても、ねえ?」
ほら、ぼくの推測は恐らく的中だ。

君が憤慨した理由、それは“葛葉ライドウとしての君”の見栄がさせた事だったのだろう。
「葛葉ライドウが護らなければいけない存在」である帝都人が、下らぬ理由でぼくを貶した。
それが許せなかったのだろう?
ぼくが葛葉の責務に「下らぬ」と感想を述べる、それを避けたいのだね?
君が思うのと、ぼくが指摘するのでは、天と地程の差が有る。

「しかしこんなに轟々としていると、天まで色が届くのか。ちぎれ雲まで朱に染まっている」
「あまり安穏な台詞を吐かないでくれ給え、一部の輩に絡まれる。僕の仕事を増やすでないよ」
「燃えるこの色……鮮烈だね。夕暮れの空の様な、はたまた色づいた紅葉の様な。ねえ夜、君はどちらが好き?」
「…………前者」
呆れつつも、はっきりと答えを返したライドウ。
時折見せる素直な言葉が、ぼくの好奇心を疼かせる。
「そうか、ぼくも空が様々な色に偏光するのを見るのは……割と好きだよ、夜」
ぽん、とライドウの肩を叩くぼく。
瞬間、建造物を舐めていた炎が空にざあっと解けた。
周囲の人間達が、一斉に息を呑む。
ライドウは一瞬ぼくに視線をくれたが、直ぐに火元を辿ろうと顔を背ける。
鎮火した家屋は、ほんのりと煤けている様にも見えるが……焼け落ちた筈の柱や梁は元の姿をしている。
騒然とする野次馬達。それでも次第に興味の失せた者から、場を離れ始めた。
『ライドウちゃぁ〜ん、なんやコレ、幻覚かいね?』
「……調査しておく、甲斐の無い仕事をさせてしまったね」
『いんやいや、じっくり炭火で焼かれんで良かったわぁ!あ、そいえばねえ、なんか火ぃ消えた時にチラっとだけど、動物居ったで……燃えもせんで』
「何の動物だ」
『ん〜……ムジナってやつかねぇ?タヌキかもしれんけど、ま、どっちでもええわ。それじゃ、またおばちゃん喚んでねぇ、アルラウネぇよりは雑用でもケチつけんから』
ふわふわと出てきたアズミを管に仕舞うと、いよいよぼくに向き直る君。
何とも云えぬ表情。哂うでも無し、怒るでも無し、アルカイク系にも非ず。
「夕暮れ空がこの建物に滴り落ちたのかの様だった、紙を舐る様に焦がす焔の如し……ね、夜」
「先刻の窓辺でムジナとでも喋っていたのか?真人(マツト)ムジナは人を騙す怪……悪戯好きの君と気が合いそうな奴だよ」
「あっ、でも空の色なんてものは無くて、まがいものだっけ……どういう現象名だった?」
「……レイリー散乱」
些かぶっきらぼうに答えると、君は辺りをぐるりと歩いて回った。
既に火は跡形も無いし、店主や従業員が首を傾げながら、おずおずと店に入って行く様も見える。
その中にはあの妊婦も居た、店主と睦まじそうにしている。
この店の女将だったのか、なるほど……因果が有る。
「しかし、本当に燃えた様に見えたねえ。夜の云った通り、活けられた彼岸花が原因かな?」
「“様に見えた”か……フフ……ぶるのは止めろと云ったじゃないか」
「何が可笑しいのだい。良かったじゃないか、君はこのお店に憤慨していたろう?慌てふためく様子を見て嬉しくは無かった?」
「さあね、とりあえず妊婦ごと燃えなくて良かった。身籠った女性が無念の死を遂げると、魔物になり易いからね。そうなると、僕の仕事が増えて面倒なのだよ」
「あの奥方から、金髪碧眼の赤子が産まれなければ良いけど?」
「ルイ」
「何?」
「確かに、他人事であれば面白い展開だ。だが、余計な真似をするなよ」
「ふむ、心外だな。ぼくには特別な技能なんて無い筈だよ……」
ライドウの足取りは次の行先を決めてあるのか、実に機敏だ。
夕焼け空が色をゆっくりと変え、背の高い建物の影をもったりと伸ばす。
そこらじゅうが、見覚えのある焔の海に見える。ぼく本来の住処でいうと、あの辺りが郊外だろうか。
「しかし良いな、ビモクシュウレイな書生から鏡のプレゼント、良き思い出となっただろう」
「やり場に困っていた物が、さも慈善活動の様に消費出来て良かったよ」
「困っていたの?」
「だって、君からの贈り物には違いないだろう。土産にするのも手元に置くのも、釈然としない」
「他の鏡よりも高かったのに、号外新聞の様にさっと手渡すのだから参るな。どんな細工の鏡だったか君、覚えているのかね?」
確認の素振りで、問い質す。
今更気になってきたのだ。一瞬だけ見た、あの文様の名称。
花弁の渦なのか、獣の毛並なのか。動きのある、触りたくなる柄。
「僕が見繕ったのだから、無論」
「なんという名称の文様?」
「あれは《むじな菊》という。八重菊の様な花弁の並びが、ムジナの毛並に見える事から――」
答えたライドウも、余りのムジナ続きに可笑しさが込み上げたのか、鼻で笑った。
「全く、君が妙に話を展開するものだから。今回の火事が不始末か、放火か、ムジナか、悪魔か、夕暮れのせいなのか……真実が分からなくなりそうだ」
「君にとっては、どれであろうと構わないのだろう?」
「まあね、究明と解決が僕の仕事だから、原因がどれであろうと僕自身には関わりが無い。悪魔が関われば警察よりは役立つ、只それだけさ」
喋る内に、見えてくるは新世界。
まだ酒も入らぬ二つ身で、軽くじゃれ合い街路を往く。
「先刻、君の眼が朱く見えたのも焔か夕暮れの錯覚かね、ルイ」
「ぼくの眼が朱く?朱色の眼をした人間は、まあ多くないだろうね」
「ルイ、お前には本当は全ての色が無いのかもしれない。この世に映る存在では無いのかもしれない、僕にしか視えておらぬのかもしれない」
「急にどうした?」
しおらしい、とは云い難いが。
覇気も無くぽつりぽつりと呟く君は、珍しいので興味をそそられる。
「ゴウト童子は猫にしか見えぬが……君も本当はムジナか何かで、僕を騙しているのかもしれない、とか……いつも考えているのさ」
「いつもぼくの事を考えているの?」
「曲解するでないよ、そもそも先の事件だって君がきっかけではないか。その筈が、周囲は君を囲む事もしない。君と居ると、時折僕は異界に居る心地になる……昔、童子に向けた言葉が跳ね返る……君が風車なのでは無いのかと……」
「風車?」
「いいや、忘れてくれ給え……」
今宵は何を喉に通そうか、やはり適当にソーダ水で良いかな。
あの場でぼくが興じるのは、葛葉ライドウと夜の話なのだから、飲料は何でも良い。
君の羨む金の指輪を、いつもの様に天井のランプに煌めかせよう。
光物を狙うカラスの眼を、ぼくは酒の肴にする。
「お前はあぶくの様に、いつの間にやら消えていそうさ……そうして、それに気付く者は誰も居ない」
「君だけが知っていれば良いのでは?夜」
「……そうだね、同じ穴のムジナ同士が共有すれば良い」
扉の前で立ち止まり、アプローチの段差に乗った君。そうする事で、ぼくと同じ目線の高さとなる。
ニタリと哂いながら、耳に噛み付いてきた。
直後、反撃される前に店へと滑り込む、全く狡い仕草ばかりだね。
それにしても、今の返事に気を良くしたのか?どうやら機嫌は直った様子だ。

さあ、炭酸の泡が消えるまで今宵も語り明かそう。
ぼくがふっと消えるまで、君もせいぜい弄り倒せば良い。


-了-


* あとがき *
要望がありましたので、久々にルイライ。
デートしているだけという、驚愕の内容に。ライドウにもっと我儘をさせたかったのですが、ルイと組ませるとこれが案外……
火事の幻はルイの仕業か否か、特に白黒させずに幕としました。
風車のくだりは、これのひとつ前のSS『ブリアレオスの遺骸』と関連しております。

見出しはいつもと違う趣向で……あの柄が「むじな菊」です。 タイトルの「かいろく」は「怪録」「回禄」両方の意味を持たせて。

* 適当解説 *

《百貨店》
舞治屋百貨店は「松坂屋」をイメージして書いております。当時本当に、屋上には移動動物園の様な催しがありました。「松屋デパート」には吹き抜けがあり、水族館がありました。なかなかゴージャスです。

《回禄》
火災、火事を意味する。

《怪録》
妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語。

《蕎麦屋》
大正頃にはビヤホール・カフェを兼ている所もあった。蕎麦屋だが西洋料理がメニューにつらつらと並んでいたり。 作中に説明があった様に、自由恋愛における性行為の場を提供する所もあった。