無声映画

 
『ライドウ』
ふと、教科書から眼を逸らす。
窓際に黒い影。
傍から聴けばミャウとしか聴こえないだろう猫の声。
教科書を閉じ、文具をしまう。
なにやらガサガサと物音を立てる此方を気にしてか
ちらりと振り返る教師。
一瞬眼が合ったが、そのまま黒板に白い線を綴り続ける。
周囲も、誰も何も気に留めない。
いつぞや観た、無声映画の様でさえあった。
何故そんな状況になるかと云うと
僕が授業中に席を立つ事など、珍しくも何とも無いからだ。
教室の戸の前で、一礼してから廊下に出る。
個別の収納棚の錠を外し、ホルスター諸々を持ち出す。
授業が行われている時刻の校舎というのは、とても静かだ。
下駄箱に向かえば、そこには既にゴウトが居た。
『また早退になってしまうな』
「毎度の事で、誰も気にしちゃいませんよ」
革靴に履き替え、ホルスターを装着した。
慣れた重量感に、安堵すら覚える。
「掃除当番からは除外されてますし」
『だろうな』
「偶に登校すれば、配布物で机の中が溢れかえっていますよ」
校庭に出れば、運動授業の真っ最中の生徒がちらほら。
用具を手に、無駄話をして器具庫へと歩みを進めていた。
「あ、葛葉さん」
「え?」
「本当だ」
既に校内で見かける事すら希少性が有るのか
口々に此方を見ては物を云う。
「こんにちは」
にこりと笑顔で挨拶すれば、ビクリとして口々に返す。
「こ、こんにちは」
「もうお帰りですか?具合が宜しくないとか…?」
伺ってくる生徒に、そのままの笑顔で答える。
「これに呼ばれたので、本日はフけますね」
足元のゴウトを顎で示してから、歩き始める。
生徒達はえっ?という面持ちでゴウトと僕を見比べ
その場に停滞して居た。
『お主、“これ”とは失礼な…』
「すいません」
ふりふりと、尾を振るゴウト。
畜生の器の動きには、やはり逆らえぬのか。
『ほれ、客人だ』
ゴウトの声に、校門へと視線を移せば
目立つ容姿の少女が一人。
「ライドウ先輩っ!」
「これは驚いた…いつ帝都へ?」
「先刻到着したので、いざ参らんのセオリーと思った次第です!」
足元のゴウトを見る。
髭が震えていた。
「…何笑っているんですか、ゴウト」
『いや、別に』
黒猫は、明らかに愉しげだ。
「探偵社にお邪魔したら、無人でしたので」
「無人?鳴海さんはともかく…少年が居なかったか?」
「いえ、誰も」
「…」
何処をほっつき歩いているんだ人修羅は。
気になったが、今はこの少女の相手をするのが最優先だった。
「とりあえず、パーラーでも行こうか凪君?」
「ええっ、パーラー、ですか !?」
「小腹が減っては行動に支障をきたすだろう?」
「で、でも」
「この十四代目が奢る」
「り、理想的なプロセス…!」
眼を輝かす辺り、やはり女性といった所か…
歩幅を合わせ、筑土町を歩く。
女性客で賑わう富士子パーラーの扉を開ければ
ふわりと甘い匂いが漂う。
窓際の席に腰を下ろし、品書きを向かいの少女に手渡した。
「どうぞ、お好きなだけ」
「で、でも食べすぎては戦闘中の動きがヘヴィに…」
「女性は皆、体重を気にし過ぎだ…その位戦い続ければ消費するだろう?」
そう云えば、自己解決したのだろうか
困り顔を期待にすり替えた凪は、店員を呼ぶ。

「ん…ん〜!デリシャス!」
「それは良かった」
生クリーム、苺、カステイラスポンジ。
その砂糖がふんだんに使われた物を頬張り
凪は口元を綻ばせる。
「槻賀多には洋菓子が無いのでっ、これは嬉しいセオリーです!」
「だろうね」
「前は茜さんにケーキの類をご馳走になって…」
そこまで喋ると、あっと口を噤む凪。
スポンジに食い込むフォークが停止した。
「す、すいません…」
「何故謝罪する?」
「あ、茜さん…軽々しく、話題にすべきでは無いプロセス…」
項垂れる凪。
その停止したフォークを奪い、刺さったままのスポンジを掬う。
「気にする事では無い」
そう云って凪の口にそれを突っ込んだ。
「ふが!ラ、ライホーへんはひっ!」
「僕はライホーでは無いが」
クスッと、呆れ笑いでフォークを明け渡す。
「凪君…君は一人救えないだけでそこまで傷心するのか?」
「で、でも…」
「それでは先に折れてしまうよ」
槻賀多村での惨劇が甦る…
あそこの令嬢、茜を犠牲に事件は幕を閉じた…
確かに、洋菓子を見てふと、脳裏に過ぎる事もあった。
「でも、ライドウ先輩は帝都守護をパーフェクトにこなしてます!」
「それは無い、何処かで犠牲は出ているだろうからね」
「でもっ、尊敬に値します」
その一心不乱に慕う眼差しは、あのゲイリンに向けられていたもの。
そうして彼を思い出すと、ヤタガラスへの思いが胸で疼く。
(あのゲイリンは、葛葉として居るべきではなかったのだ…)
真っ直ぐな意志を持つ、あの人間は。
あんな腐った巣に居ずとも、亜米利加で自由に過ごせば良かったのだ。
「…ほら、食べ終わるまで待つから、ゆっくりお食べ」
「は、はいっ」
しかし慌てて食す凪に、鼻で笑ってしまった。
と、窓の外で何かを感じる。
先刻から、動いていない通行人が居る。
「…」
その窓外の人物は、口を動かして此方に何か訴えてきた。
その反復する動きを、読唇する。

な に や っ て ん だ 破 廉 恥 

(…何故そこで破廉恥へ直結する)
見慣れた人物の口は、容易に読めた。

デ エ ト

からかってやろうと思い、そう口を動かしてやれば
そいつは頬をサッと赤くして、握り拳の親指を下に立てた。
じろりと侮蔑の金眼が、硝子越しの僕に注がれる。
「ライドウ先輩?」
その声に引き戻されて、窓から眼を離した。
「先程から、窓が気になるセオリーですか?」
「いや、すまない…」
しかし、そこで凪の方へと視線を向ければ
テーブルの横に誰かが居るのが、まず眼に入った。
「デートの真っ最中に大変申し訳ないんですが」
そう云い、僕を指差す。
「この男とは、絶っっ対!付き合わない方が良いですよ」
「…功刀君、いきなりだな」
「こいつ、複数女性居ますよ !?」
「フフ…とんだ云い掛かりだ」
半分は当たっているが。
そう思い、いきり立つ人修羅に返していれば
凪はぽかんとしつつもハッとし、改めてその口を開いた。
「大丈夫です!師匠も昔はブイブイ云わせるプロセスだったそうですから!」
おいおい、それは何が大丈夫なのだ?
そう思う僕と、傍の人修羅の意見は珍しくかみ合っていた。

「で、君は何故ぶらぶらほっつき歩いていたのだ?」
「いや、業魔殿で目覚めたらあんたは居ないし」
「学校へ行っていた」
そう答えれば、唖然として人修羅は腕を組む。
「呆れた…俺は完全放置かよ!」
「留守を出来ぬ程子供でもあるまい?」
その、銀楼閣への道中のやり取りを見ていた凪が
クスクスと笑う。
「ライドウ先輩はマイペースがセオリーですからね」
そんな凪を振り返り、人修羅はそう云えば…と続ける
「ライドウ、この子とどんな関係なんだよあんた」
またまたじろりと睨まれる。
「お似合いかい?」
フフ、と哂って問えば、なんとも云えぬ表情になる人修羅。
「あんたに引っ掛かったら人も悪魔も皆被害者だ」
その意味深な台詞に、思わずほくそ笑む。
「冗談…彼女は葛葉四天王の一角だ、功刀君」
「え…っ」
その話の流れを汲み、凪は口を開く。
「十八代目葛葉ゲイリンこと凪と申します、以後お見知りおきを」
その真っ直ぐに見つめる彼女に、少し照れながら返答する人修羅。
「本当にサマナー…?こんな子が…」
そうこうしていると、銀楼閣に着いた。
「ところで凪君、君は何故急に来たのだ?」
その肝心な事を聞いていなかった。
凪は階段を上がりつつハキハキと喋る。
「ええ、それが実はヤタガラスより調査を依頼されまして」
「帝都で?君の管轄外での調査とは珍しいな」

「ええ、人修羅なる悪魔について調査のプロセスで」

「…」
人修羅の眼の色が変わる。
「そうか…凪君は人修羅が何たるかを…知らなかったか?」
「はい、そんな悪魔が居るんですか?ライドウ先輩が使役すると聞いて参ったのですが…」
「まぁ、間違っては居ないが…」
どうしたものか。
まさか、まだヤタガラスに所属して間も無い彼女を寄越すと思わなかった。
正直やっかいだ。
「葛葉四天王をこんな調査に寄越すとは、余程日本国は平和らしいな」
機関に対する嫌味を洩らせば、凪が不安そうに見てくる。
「その人修羅という悪魔を調査して、それが危険な存在であれば…」
「始末のセオリー、かい?」
「そ、それは…その…っ」
云い淀む凪に、人修羅が突如語りかける。
「それが遂行出来なかったら、凪さんがヤタガラスに叱られるのか?」
その口調に、よもやと思い人修羅を睨む。
だが怯まずに、彼は続ける。
「だったら凪さん、人修羅を実際使役してその眼で確かめてみたらどうですか?」
その言葉に、思わずゴウトの脚を踏んでしまう。
『いだだだだ!おい!踏んでおるぞライドウ!』
「あ、すいません」
少し取り乱してしまった様だ。
それはそうだろう、この男、何を云い出すかと思いきや…
「凪君、ちょっと失礼…先に応接室へ入っていてくれ」
僕は凪が返答すらせぬ内に、人修羅の襟首を掴みぐいぐいと上階へ昇る。
それに顔をしかめつつ、脚を躍らす人修羅。
自室の扉を開け、彼を無理矢理押し込む。
「痛っ!乱暴だな相変わらず!」
床に投げ出された人修羅は、乱れた首元を正す。
「君は何を考えている?ヤタガラスからは出来る限りその身を隠す様にと、あれ程云ってきただろう」
「だって、それじゃあの子がそれなりの罰を受けるんじゃないのか?」
「それは、そうだが…」
帽子を深く被る。
正直、参っていた、頭が痛い。
凪は亡き先代ゲイリンから任された、大事な忘れ形見だ。
あの慕ってくる姿を見て、此方とて面倒を見ぬ訳にはいかぬ。
熱心な姿はそう思わせる。
しかし、それとこれとは別だ。
「十八代目ゲイリンは何処までの依頼を受けているのだ?僕等にはああ云って、君の捕縛を命じられている可能性だって否めない」
「おいおい、考えすぎじゃないかあんた」
「君が考え無さ過ぎなのだろう!四天王同士庇いあう仲と思ったら、そんなの大間違いだ!」
思わず怒鳴り、彼の足の甲を強かに踏みつける。
すると彼は僕を突き飛ばして忌々しげに吐く。
「あんなに女の子には優しいのになぁ、ライドウ先輩?」
「…君に優しくする必要が在る?」
「気味悪ぃっ…いらない」
「宜しい」
その僕を睨んでくる眼を見て、そこに居るのは僕の使役する
混沌の悪魔だと再認識する。
「やれやれ、しょうがない…ひと芝居打つとしよう」
僕は手帳をゴウトから取り上げ、近日舞い込んだ依頼を確認した。



「本当に、宜しいのですかライドウ先輩!」
「ああ、二言は無い」
桜田山の裏手、見上げればラヂヲ塔が見える。
「随分と分かり辛い場所だな…」
人修羅が傍らで辺りを見渡す。
「君は迷子になり易いから、特に注意してくれ」
「うっるさいな、ホント…」
ムッとする人修羅を見て、凪が笑う。
「でも功刀さん、今からは危険が付き纏うプロセス…此処に居て大丈夫なのですか?」
その凪の心配の声を聞いて、人修羅はふう、と溜息を吐く。
僕は彼女をヤタガラスのサマナーとして見ずに
地域守護を賜る同胞として、の上で明かした。
「凪君、そいつは只の人では無いよ」
「え…?」
解せぬと云わんばかりの表情で、凪は人修羅を見つめる。
人修羅は上着の繋ぎ目の金具を引いて、肌を露わにする。
「凪さん…気持ち悪いかもしれないけど、これが本当の姿なんだ」
途端、ビリつく空気。
サマナーなら感ずるであろうその魔力の余波。
「えっ、ええっ?」
驚き、口元に手をあてる凪。
その凪の眼の前で、人修羅功刀矢代は悪魔に変貌する。
眼から胸元、指先まで光が奔り、斑紋が浮かぶ。
その瞬間、正直他のサマナーに見せる事は無いと思っていただけに
少し失望した。
この瞬間が一番美しいと思っていたから。
「ま…さか、功刀さん、貴殿が人修羅…悪魔のセオリー?」
「はい、そう云うセオリーです」
既に意味など考えずに、口にしているであろう単語に
人修羅の生来の人の良さが出ていた。
「凪さん、俺は今日一日あなたの悪魔です」
人修羅はふわりと笑って、そう凪に優しく云った。
それを見て、何処かで何かが疼く。
(おい、そんな笑顔見た事も無いぞ)
それを向けられた凪は、少し赤くなって慌てふためく。
「こ、こちらこそ宜しくお願い致します!」
そう大きな声で返し、人修羅の手を取る。
「えっ」
「シェイクハンドです!先代ゲイリンからの受け売りです!」
「…俺の手、気持ち悪くないですか?」
「ノープロブレム!繊細なラインが窓枠みたいで素敵です!」
「ま、窓枠…」
それにクスクスと、少し顔を俯かせて笑いを堪える彼。
『おい、お主より良い主人になりそうではないか』
足下で笑うゴウト。
「そうです、ねっ」
『いだだだだだ!踏んでおる!踏んでおるぞライドウ !!』
僕は人知れず溜息を吐いた。
長い一日に成りそうだった。


「しかし…管に入らないとは、普通の悪魔と違うステイタス、という事でしょうか」
凪の疑問に、仮説として答える。
「マグネタイトが無ければ消失する悪魔達とは、基本構造からして違うのだろう」
「成る程…」
「彼自身、悪魔を召喚出来るしね」
「ええっ!悪魔が悪魔を !?」
そう叫んだ凪は、傍の人修羅を振り返る
「あ、す、すいません功刀さん!」
「いいえ、実際悪魔だから気にしませんよ」
眉すら顰めず、爽やかに返す人修羅。
それを見て思う。
このライドウが同じ言葉を口にすれば
君は「完全な悪魔じゃない」等と否定し憤慨するだろう…
と、人修羅がその穏やかな表情を一転させる。
凪を突如抱きかかえ、大きく跳躍する。
無論僕も、それを見送る頃には避けた後であった。
その、元居た地点は衝撃で草地が荒れ爆ぜた。
「功刀さん!」
「凪さん、指示を下さい」
腕に収まるサマナーに、依頼する人修羅。
「て、敵の位置を突き止めて下さい!追って支援するプロセスです!」
「はい」
答えた人修羅が、凪をそこに降ろして
その衝撃の来る先へと駆けて行く。
『おい、お主は行かなくて良いのか?』
「今日僕は彼のサマナーではありませんから」
『…変に拗ねて我に当たるのは止してくれよ』
ゴウトの言葉に、些か苛立ちを感じたのは否めない。
「居た…!」
人修羅の声に、視線を投げた。
星型の影。
(こんな処にデカラビア…)
意外な犯人に、少々驚く。
かまいたちの正体見たり、である。
この人を襲うかまいたちの発生源を絶てば、依頼完了だ。
晴れて「人修羅と共に帝都守護の支援をして参りました」とヤタガラスに報告出来る訳である。
「ハイピクシー!」
『了解っ!タル・カジャ !!』
凪の管から召喚された着物姿のハイピクシーが
人修羅の覇気を増幅させる。
その闘気を纏った拳で、デカラビアの中央を一突きする。
人修羅の拳が、呑まれて行く。
ずぐり、と粘着質な音を立て、デカラビアの眼が溢れた。
「わ…!」
『ワイルドぉ〜!!』
驚きを隠せない凪と、はしゃぐハイピクシー。
人修羅は腕をずるりと抜き取り、甲の上に落ちた抜殻を脚で除けた。
「凪さんの方には、行ってませんでした?」
「え?」
「テンペスト」
云いながら振り返った人修羅の前面。
胸部を中心に、幾重にも赤い裂傷が奔っている。
「い、いつそんな…!?」
叫び駆け寄る凪は、ハイピクシーに眼で指示をした。
『うっひゃ〜痛そぉ……ほら、ディアラマ!』
光の粒子がその傷口に触れ落ち、再生は速度を増す。
「有り難う御座います」
凪に向かって礼をする人修羅。
「君も、有り難う」
ハイピクシーにもそう一礼すれば、舞い上がる妖精。
『凪〜ちょっとイイ悪魔(オトコ)従えて!このこの〜!』
「ち、違います!ライドウ先輩の大事な悪魔です…!早とちりはミスを招くセオリーです!」
すっかり出血の落ち着いた人修羅が、ふと口にした。
「さっきは、いきなり抱きかかえてすいませんでした」
「そんな!あれが無ければ危なかったです…私は気付いてすらいませんでした…こんな事では、先代にもライドウ先輩にも、笑われてしまいます」
しゅんと俯く凪に、人修羅は微笑む。
「とても戦い易かったですよ、凪さん」
「ほ、本当ですか?」
「はい、だってすぐに後方支援してくれましたし、傷を見れば回復してくれ、おまけに労わりの言葉まで付いてれば…俺としては満足です」
その発言をした時、あきらかに僕へとその視線は注がれていた。
金色の眼が云う。
お前とは違ってな、と。
「マグネタイトの供給も、ごく自然で…安心出来ました」
「グッドでしたか?実は私、エネルギィを上手く送れなくて…よくあの子にも指摘されるプロセスです」
ちら、とハイピクシーを見て語る凪。
確かに、それは彼女の苦手とする所であった。
意識せずとも供給している自分には、上手くアドバイスが出来ない。
「…凪さん、その方法、俺からひとつ伝授しましょうか?」
人修羅が、視線を僕から彼女へと移す。
彼にしては珍しく、女性の眼をしっかりと見つめていた。
「方法、ですか?」
「はい、俺の本来の主からされる、かなり具体的な方法」
何を云い出すのだ、彼は。
僕からする…生体エネルギィの供給方法?
(まさか)
人修羅は、対面する凪の両肩を
その斑紋が浮かぶ指先で掴む。
少し屈んで、眼を閉じ薄っすら開けた唇を
驚き、固まっているそのサマナーの口元に…

「矢代 !!」

ここ最近で、こんなに大きな声を出したのは初めてだった。
その掛けた相手を見れば、唇が触れる寸前で
まるで無声映画の様に、音も無く停止していた。
「…ふ、くくく」
笑い声。
「あっはははは!!」
凪をやんわりと解放し、その掴んでいた腕を自らの胎に沿え
抱えて大笑いする人修羅。
「す、する訳無いだろ…あんな下品な方法…ッ…は、あっははは!」
笑い過ぎて擦れる声を息も絶え絶えに紡ぐ。
目尻に涙さえ浮かべて、彼は唖然とする凪の前で笑い続けた。
「…凪君、僕からサマナーとしてひとつ教えようか」
僕の重い声音に、呆然としていた凪が背筋を伸ばした。
「い、如何なるプロセスでしょうかっ !?」
「主であるサマナーを使って、調子に乗った冗談を働く悪魔に…躾せねばならないとは思わないか?」
「え…っ」
「ほら、君はダシに使われたんだよ、僕をおちょくる為のね」
腕を組み、人修羅を睨む。
正直、先刻の自身の声の、なんと情けない事か。
あれが人修羅の唇と、凪の唇と
どちらがどちらに奪われるという解釈での制止だったのか
考えもしたくなかった。
(ああ、苛々する)
「ほら、凪君…人修羅にビンタのひとつでもしてやりたまえ」
僕なら、まず抜刀してその喉元に刃先を当てて
許しをまず請わせるかな…
そんな妄想に囚われながら、凪へと要求する。
「ライドウ先輩が、そう仰るなら…もうしない様に、痛い目にあわせるセオリーです!」
ぐっ、と唇をを引き締めて、凪が人修羅に向き直る。
「どうぞ、覚悟でしましたから…遠慮はいりません」
人修羅は、凪に面と向かって云うと眼を瞑った。
と、凪の指先が人修羅の頬に触れる。
だが、それは張るような音すら立てず
壊れ物を扱うかの様な、柔らかい…

「十八代目ッ!!」

恐らく、先刻よりも大きな声だった。
凪の唇が、僕の悪魔の唇に触れていた。
驚愕し、眼を見開く人修羅。
僕が引き剥がさずとも、慌てて凪を引き離す。
「な、凪さん、な…な!」
「恐らくこれが一番嫌がるセオリーかと思いまして、失礼ながらさせて頂いた所存です」
至って真面目に答える彼女を見て、僕は呼吸を止めそうになった。
(何故こいつの事が、彼女には多少なりとも把握出来ているのだ…)
「…凪君、一応悪魔と云えど人修羅とて男…君の様な女性が、いとも簡単に唇を明け渡すものでは無い」
「…はい」
「先代が泣くぞ」
勝手に十七代目ゲイリンの所為にしておく。
ふと、指先の感触を確認した。
刀の柄に、指が伸びていた。
そこで抜刀したとして、何を斬るつもりだったのだ?
(やれやれ、僕もどうかしている…)
指先をそのまま、懐に滑らせて太鼓を取り出す。
「依頼は完了した、銀楼閣へと戻ろうか」
「はい、ライドウ先輩!」
「…」
無言の人修羅は、放ってあった上着を肩にかけて
終始そっぽを向いたままだった。



「凪さんは、帰ったのか?」
「ああ、電車が出ているうちにね」
「コウリュウで送れば良かったじゃん」
「彼女は僕を足にしたくないらしいからね」
しん、と静まり返る事務所。
日中の光景が、無音だと甦ってしょうがない。
無声映画の如く、何度でも再生される。
「凪さん…」
ぽつりと呟く人修羅が、ソファに身を投げ出したまま、ぼそりと続けた。
「凄く、やわらかい感触だった」
「へえ、そうかい」
「…」
「何」
「…」
「何だ!何が云いたい!?」
挑発するかの様な台詞を吐いたままだんまりの人修羅に
思わず頭に血が上る。
ソファに寄り、上から見下ろす。
僕を見つめてくる、金色の双眸。
「あんた、俺が他の人とアレをするのは嫌なのか」
「他のサマナーと交わされるのは、正直気分が悪いね」
「じゃあ、見かけたサマナーと今後挨拶代わりにしようかな、アレ」
クスッと、昼間とは対極的な笑みで云う人修羅。
「あんたが嫌がるなら、率先して下種になろうか」
それを聞いた瞬間、手が伸びていた。
彼の頤に、指を沿わせる。
「あまり、苛々させないでくれたまえ」
「学校もデートも、途中で妨害されたから?」
そんなのでは無い。
「他の葛葉四天王に、懐刀を取られては堪らぬからね…」
「…疑心暗鬼」
「ならぬ方が異常だ」
指をそのまま離し、背を向けた。
足蹴にする事も、絞める事もしなかった。
珍しく、そんな気になれなかった。
「ライドウ」
背後から、声がする。
「懐に入れた刀で、怪我しないようにな」
「…そんなに間抜けでは無い」
そう返して、事務所の扉を開ける。
自室に戻り、ある物を一式持ち出して銀楼閣の屋上へと赴いた。


町の灯りで、空気が濁っている。
里に居た頃より、星空は鮮明ではない。
端に肘を掛け、すぅ…と煙を肺に吸い込んだ。
『何をしとるか、不良書生』
「…ああ、ゴウト」
『ああ、では無いわ!身体機能の低下を招くぞ?』
「葛葉の霊力を宿したら、この程度では揺るぎませんよ」
煙管から灰を盆に落とし、違う物に指を伸ばした。
『葉巻まで!それは鳴海のではないのか?』
「数本拝借させて頂きました」
ここでマグネタイトを消耗するのも何なので
いそいそとマッチで着火する。
新世界でよく貰う、平たいタイプの物だ。
ふ〜っ、と肺に沁みる毒に、甘美な脳内物質が分泌される。
「学校もロクに行けぬなら、道楽くらい好きにさせて下さい」
『ちゃっかり試験日は狙って行く癖に、よう云うわ』
「順位表に記述が無ければ、皆僕の事は死んだと思うでしょうね」
『フ、なんじゃそりゃ』
「里の教えは守っているじゃないですか、常に頂点であれと」
『そこまで徹底せずとも良かろう』
「昼、まさかあの様な展開に及ぶとは思いませんでした」
急な話の転換に、ゴウトは少し黙り顔を洗う。
『なんだお主、彼等の接吻がそこまで気に喰わなかったのか?』
「…何なのでしょうか、この…苛立ち」
葉巻の先が、赤く熱を持つ。
夜闇に酷く目立つ。
「草でもアルコオルでもやってなきゃ、葛葉四天王は勤まりませんよ全く」
『おいおい、どうした…随分愚痴っぽいな今宵は』
「…仮に、僕が命を落としたとして」
その仮説の語りに、ゴウトは笑うような仕草を止めた。
「人修羅が路頭に迷ったら、十八代目ゲイリンに使役してもらうべきでしょうか 」
『…何故そう思う』
「さあ…とりあえず、僕が死んだ後なら人修羅が人間に戻ろうが何しようが勝手ですし、凪も強い悪魔を使役する良いきっかけになりましょう」
そう、自分の死んだ後の人修羅など、どうでも良い。
自分が死んだなら、彼は両手を揚げて喜びそうですらある。
「何歳まで生きれるでしょうかね」
『葛葉は永いからな、しかしお主の戦い方を以ってすると…早いかもしれぬ』
「ですね…人修羅に注ぎ続けて、正直最近は身体が重い」
やはり、あの許容量の悪魔は負荷も大きいのだろう。
人修羅が人の成りをしていれば、解消されるのだが。
「ゴウトも、まだ生きるのですか?」
『罰なのだからしょうがあるまい?』
「不可抗力ですか」
哂って、そろそろ戻ろうかと火を消し振り向けば
階段扉の手前に人修羅が立っている。
「どうした、功刀君」
「なんか…気分が」
こちらへそのまま、ふらふらと歩み寄ったかと思えば
軒の端に寄り掛かった。
「…俺、もしかして、あんたのマグネタイトに慣れ過ぎたかも」
それを聞いて、少し胸がスカッとする。
「へえ、僕のマグでその体内が構築されていると受け取って良いのだね?」
「くっそ…なんで凪さんのじゃ駄目なんだよ」
「そんなに彼女の方が良かった?」
「…そりゃ、あんな子に、キスとかされたら考えない訳無いだろ」
ずるずると、壁に背を滑らせしゃがみこんだ人修羅。
「でもさ、俺がこうして人修羅でもなければ…あんな風に、西洋人形みたいな子とのキスなんて訪れなかった訳だ」
「君の場合はそうだろうね」
「なんか、皮肉だよな…」
そう薄く哂って、人修羅が溜息を吐いた。
「君も吸うかい?」
煙管も葉巻も提示したが、人修羅は眉を顰めた。
「いらないし、そもそも未成年だから」
「…では、味だけでも如何?」
僕はしゃがみ、問答無用で彼の唇に自らのそれを押し当てて
舌を少しだけ絡め、比較的早めに退散した。
「…っ苦…い」
「ニコチンが溶け込んでいるだろうからね」
「…でも、少し落ち着いた」
それは体が慣れたマグネタイトだからか。
草の毒が麻痺させたのか。
「君が望むなら、いくらでも注いであげるよ」
立ち上がり、外套の捲れを正す。
「あんたにマグもらう時に、まずキスする必要が無い」
「でもこれが一番、エネルギイが殺がれずに伝達される方法だと思うが?」
「…悪趣味」
「効率の良いプロセスだ」
「思ってたけど、あの口調何なんだ?」
「ゲイリンガル」
「はぁ?」
呆れかえる人修羅に、哂いつつ適当な事を云う。
そして彼の手を握り、立ち上がらせた。
「これはシェイクハンド」
「凪さんの上から塗り替えるなよ」
「これは抱擁」
外套で包みこみ、抱き締める。
「これが…」
もう一度、その唇に落とそう、と寄せたが…
途端、外套から抜け去る人修羅。
バッ、と虚空を舞い、瞬時に魔力を解放する。
銀楼閣の頂上から、一気に彼は飛び降りて
地上に舞い降りていった。
声ひとつ上げず、無音で。
「やれやれ、逃げられてしまった」
口の端を吊り上げ、僕は地上を見下ろす。
その地上の人物は、口を動かして此方に何か訴えてきた。
その反復する動きを、読唇する。

死 ね 破 廉 恥 

(全く、つれない奴)
負けじと、発声せずに唇で紡ぎ返す。

今 度 デ エ ト し よ う か

そいつは頬をサッと赤くして、握り拳の親指を下に立てた。
『何やってるんだかお前等は…』
傍のゴウトが、溜息混じりに呟く。
僕はフフ、と哂って喫煙道具を懐にしまった。

この無声映画に、勝手に声を割り当てようか。
君があの時喫茶店で、その女と居るな!と云えばすぐ退いた。
あの騙し接吻の時だって
先刻のやり取りだって
いつだって、僕は君に素晴らしい役者で居て欲しいのだ。
ダブルキャスト。
主役は君と僕。
どちらかが死ぬまで、騙し合う。
それは、恋慕の駆け引きにも似た遊戯だった。

無声映画・了
* あとがき*

あれ…甘い?ヒヤリとしたライドウ、でした。
何なのだ…この作品は。
とりあえずライドウ、凪に妬くなよ…
大事な忘れ形見と、大事な人修羅。
天秤にかければ、人修羅が重いですが…
雷堂の様に、凪を扱う気にもなれず
接吻を赦す結果に。
人修羅、かなり挑戦的な行動してますねコレ。