月の 沙漠を はるばる と
 
  旅の 駱駝が 行きました

鉱石ラジオから流れるノイズまじりの歌声。
湯上りに涼む、むさ苦しい男達が、竹細工の編み椅子にどかりと腰掛け、談笑している。
誰か、その放送を聴いているのだろうか、ただの環境音と成り果てていた。

 J O A K  J O A K

  こちらは東京放送局であります…

 ただいまお送り致しましたのは 詩人の加藤――

「おぅ葛葉、よう来たな」
番台の傍まで行けば、俺達に向かってきた声。ラジオの放送を完全に掻き消す存在感。
いかつい体躯、着物袖の端から豪華絢爛なソレが見え隠れする。
「湯場に行かずとも、夢の国々諸国漫遊が可能ですね」
「ペンキ絵と一緒にすんなやワレ」
がははっ、と笑い飛ばして、揶揄したライドウの肩を小突く。
その腕から獄彩色の、俺とは全く意味合いの違う紋様が今度こそハッキリ見えた。
この銭湯に来るのは、好きじゃない。
番台の傍で、いつも女湯の方に逃げたくなる。
いや、そんな事してはそれこそ大問題なのだが。
男湯には、いかがわしい輩ばかりで、俺の精神を削るから。
「後ろの小僧は珍しいのう?え?」
腕組みしつつ、その眉間に皺寄せて、極道の親分が俺を見た。
ライドウの後ろに隠れるなんざ、あまりに情けないが。
犯罪の片棒を担ぐ類の人種とは、出来るだけ無縁で居たい。
「…どうも」
無視しては咬みつかれるかと懸念して、軽く会釈する。
クスリと哂って、ライドウが返答した。
「佐竹さん、築土の湯屋が現在閉まっているのは御存知で?」
「たりめぇよ」
「なれば、此処の占有時間を控えさせては如何です?貴方方の、ね」
学帽のつばを少し上げ、畏れもせずに極道者に意見する書生。
遠目に見れば命知らずってもんだろうが…
「他所の客が流れれば、肌より懐が潤いましょう?」
「…っふ、そうやな、その通りや」
「組の方々は見えているだけで客掃けさせてしまいますからね、フフ」
「失礼なやっちゃなお前、正直で気持ちエエわ」
その会話の通り、近場の銭湯が閉まっているのだ。
仕方なく、こっちの大黒湯に来た、俺はただそれだけ。
でも、ライドウは…それだけじゃない、そう感じる。
(またどうせ黒い話だろ)
嫌々ではあるが、とても独りで来る気がしない。
シャワーで流せば済むと云え、俺は正直毎日入浴したい性質の人間で。
ボルテクスの頃だって、泉が無けりゃ発狂しそうだったと云うのに。
「功刀君、外道だよ」
鬱々と考えていれば、腰の周りが外気に触れた。
巻いていたタオルを取られたと気付き、かといって手で隠すのも恥だ。
「てっ…め」
「呆けてそのまま湯船に浸かるかと思ってねえ、まあ、それで私刑に遭ったところで僕の知った事では無いが」
「丸出してる神経の方が知れない」
そろりとライドウの下肢に視線が落ちてしまう。
ハッキリと目視するなんて、嫌な事ばかり脳裏を巡って仕方無い。
現在の自分の姿からか、立派なそれに畏怖の記憶を引きずり出されてか。
ぞわぞわと背筋を悪寒が駆けて、俺はその場を離れる。
もう良い、さっさと入って、さっさと出て勝手に帰ろう。
背後にライドウという後ろ盾が居れば、喧嘩を売られる事も無い。
がらりと開け放って、一気に湿った空気が身体に纏わり付く。
この圧迫感のある暑い空気が、少し肺を痛める。
その感覚に少し人間を思い出して、勝手に和むんだ。
そう、ただそれだけ。成長しない俺の肉体は、老廃の残滓すら無に等しいのだから。
こうして湯に入浴するなんて、悪魔からすれば馬鹿馬鹿しいのかも知れない…
「せっかちだね…早く晒したかったのかい?」
掛け湯する俺に、ニヤニヤとして迫る声。
それに追従して、ややドスのきいた声音が笑いあげる。
「葛葉、そら御立派様持ってる奴にせめて云わんとアカン」
頬が熱くなる、そんな事、わざわざ云うな。
水音にあまり隠れない親分の声が、浴場にこだまする。
火照りすら恥なので、即刻湯船に脚を入れた…この上気は蒸気の所為だと。
熱くて焼け切れそうなのだが、俺は一息に飛び込んだ。
「帯刀する得物は、それなりに立派でなければ心許無いでしょう?佐竹さん」
「はは、まあそやな、遊女と指切りも出来ん程の小物じゃ面子も立たんわ」
「たてたいのは茶と面子と竿ですね」
「腐れ書生が」
一体どういう会話してんだこいつ等。
周囲の舎弟が、湯煙の隙間から窺っているのが俺にも判る。
刺青の肌の隣に、惨たらしい背中。
あいつ等…どうして、あんなに晒せるのか、それこそ気が知れない。
ライドウが普通の書生で無い事は、その背で一目瞭然だ。話すより早いと思う…しかし…
「フフ、佐竹さん」
結構前から顔馴染みだそうで。
「今度お邪魔して宜しいですか?銀楼閣では頼り無いので」
「いつでも来ぃや、夜長の暇潰し相手なら仰山居る」
どこからが本気で、どこからが冗談なのか。
何の話をしているのか、俺にはさっぱりで、理解したくも無くて。
だって俺は、この時代の存在ですら無い。
「頼りにしてますよ…佐竹の兄貴?ククッ」
学帽を取り、礼をしたライドウ。
しっとりとした前髪から、墨色が滴りそうな艶に、眼が引き寄せられる。
「おい、あんま垂れ流すなや、反応させおってからに、性質悪ぅて敵わん」
「タチが悪い?反応しているのでは?」
「ほんっに性質悪いわお前、悪魔っちゅうのはお前やろが」
悪態だが笑って叩く、そんな極道と馴れ合うあの男。
苛々する…俺は今、悪いのぼせ方をしている気がする…
舎弟のチンピラが居ない隙間を探し、其処に滑り込んで、カランを叩きつけるかの様に押した。
溢れんばかりの湯が桶にたゆたうのを上から見下ろして、背中の声を聞く。
 「また近い日に葛葉の兄ちゃんと遊べるんか?」
 「丁半か花札か、麻雀でもええわな…」
 「ごっそり削がれても、あの貌拝めりゃそう高くもねえ」
木桶に溜まったお湯を、自らの脳天からぶちまけた。
鼓膜に伝わる水の振動が、人間の余計な声を遮断した。



『ヤシロ様?』
「…!」
がくり、と意識が覚醒する。
水音が消えたと思えば、眼の前は硝子でも無い。
遠目に見える風景は、ペンキ絵の宝船でも無い。
(…ケテル城)
意識を飛ばしていたのか、そんな気持ちが良かったのか、この羊水みたいな薬湯が。
『も、もしや…寝られておいででしたカ!?も、もも申し訳御座いません!眠りを妨げるなどという矮小な私めの、この愚行!!』
騒ぎ立てるビフロンス伯爵、その背で揺れる燭台の火も揺れた。
「…寝起きと思うなら、少しは静かにしてくれませんか」
『はっ、はひぃいい!!』
ああ、八つ当たりだ。
自己嫌悪しながら、体の良い相手だからと、今度はカランでは無く伯爵に当たった。
ソーマの風呂は、あの銭湯の茹で上がる様なそれと大違いで。
明らかに、この肉体に効力を発揮する。
大國湯の湯船に揺らぐ自身の身体と違う、斑紋の輝く身体。
数日前と違い、大衆に晒さずとも済む、たった独り様の浴場。
髪の雫を払っただけで、ふわりとしたタオルに身体を包む。
『紋のお色も落ち着かれたターコイズブルーになられましたねぇ!ソーマがよっく染み入った様で!…っはぁア』
足下の豪奢な敷物に滴るそれ等を、伯爵は羨む様に眺め射る。気持ち悪い。
疎ましくて、思わず溜息を吐いた。
『お、お疲れなのでしょうカ?』
「この城に来る事実に、既に疲弊させられます」
閣下に報告する、という行為は。
他にも色々付随するから、口頭報告だけで無い。
土壇場に立たされなければ悪魔になれない、そんな俺にルシファーは呆れている。
それと同時に、虐げ遊ぶのだ…どこかのデビルサマナーみたく。
『お茶をお淹れしましょうカ!?お好きな茶葉なら補充済みであります!!ぬかり無く!』
「結構です、もう今回は帰りますから」
『お見送りさせて頂きます!!道中暗いですからねえっ!足下を照らさせて下さいまし!』
「いっつも暗いでしょう、この城…そんなの理由になりゃしない」
この、魔界全体、陽の光なんてものは存在しない。
それが無くても此処は存在出来る、人外の住む世界なのだから。
学生服で、ビル影に阻まれて歩いていた東京の…暗闇とも、違う。
また溜息しながら、薄い黒服に袖を通す。
緩いボートネックから角が出るように、角度をつけて頭を潜らせる。
そんな自然な動作。項の突起を自分の一部と無意識に意識してしまう…この精神が歯痒い。
カーキ色のボトムに脚を入れると、伯爵が零す。
『御脚の斑紋が見えなくなるのは、非情に勿体無いです…!』
そんな“勿体無い”なんて感覚、悪魔にあってたまるか。
「裸の王様でもしろって事ですか?」
『い、いぃえぇ!ヤシロ様が露出を嫌うのは勿論存じております故!』
「だったら、余計な事云わないで下さい」
黒色のガーゼが緩く包む、身体の冷たい斑紋熱。
俺の会話は、銭湯でのライドウと佐竹とのモノと…全く違う。
毒があっても笑い飛ばせるあの男達がおかしい。
『纏っていようがいまいが、私めのお慕いするヤシロ様に御座います』
悪魔の要素が無ければ、見捨てる癖に…
そう思う俺は疑い深いのか、伯爵がどんなに慕ってこようが、赦せない。
そう、未だに契約主のライドウが赦せないのにも等しく。
「功刀矢代、か……固体の識別名称でしょう、貴方等にとっては」
人間と悪魔の……どっちの俺を視ているのか、問い質してやりたくなる。

暗い曲がり角、この城の構造を全て理解している訳無いが、このルートは空見で歩ける。
与えられた部屋から、帰路一直線。
晴海の天主教会から、銀楼閣まで一直線。
余計な道は歩かない。余計な労力に疲弊したくない。

 『あのデビルサマナーにやられた』

そう、余計な音を聞きたくないから。こんな風な。

 『こないだは人修羅と一緒に来てた』
 『まさか手ェ出したの?』
 『馬鹿ガ』
 『片脚ぶった斬られたけど、気持ち良かった』
 『げぇえ、アンタそういうシュミだったのォ?』

人間も、悪魔も、噂が好き。
そんな喧騒に揺らされたくないんだ、俺は。
こんな…こんな…

 『ゾクゾクする、あんな眼の出来る人間は滅多に居ない』
 『確カニ、美味ソウ』
 『きゃはっ、だよねだよねェ?人修羅よかよっぽど悪魔よねェ』
 『あの黒ラクダさえヒトガタに擬態して従いたいのが本心だそうで、色目出したくなるのも解る』

こんなの、いつもの様に無視すれば良いんだ。
何を云われたって、無関係。付き合いが悪いと云われたって、俺のペースが有る。
人間の頃から、もうずっと変わらない…そう、変わってたまるか。

 『人修羅がくたばったら、あのデビルサマナーを引き入れてくれないかな』

ひたり、と止まる足音。
自分の動きが客観的に感じられる、どうして。
『ヤシロ様!』
傍の伯爵が、フリル袖の白を揺らしてスーツの腕を差し出す。
『私めにお任せ下さい!貴方が御手を――』
慌てている、それはそうだ。だって、いつもは聞き流すのだから。
方向転換して、囁き声の部屋に踏み入れる。
空気が瞬間、冷却された。
ジッ、と黙して俺を見つめる悪魔数体。形だけ用意されたテーブルに、肱ついたり腰掛けたり。
酒という形に似せた、魔力のこぞむ飲料を嗜む場だった。所謂酒場。
カウンターの向こう、佇む女性の形の悪魔が、顔を顰める。
豊かな胸に、開けたばかりの瓶を持ち、唇を尖らせて。
ウェーブがかった白金に近い髪を、肩から掃う。
『面倒事なら外で願いますわよ、人修羅様』
『酒棚だけは御勘弁を』
傍の黒服のバーテンが、釘を刺す。男性体と思ったが、声は女のそれだった。
しんとする中、後ろから続いた伯爵の背負う灯りが俺達の影を揺らす。
『しかしですねぇマヤウェル!パテカトル!』
『何よ』『何か』
『下らぬ思想を眼の前にして、酒が美味くなるとでも思ってんですか貴方達は!愚かです愚か愚かァ!!』
きょとんとして、女性らしい方が伯爵に微笑んだ。
『だって、噂は格好の肴でしょ?』
どっ、と湧く周囲の悪魔達。伯爵がカタカタと、そのしゃれこうべを震わせた。
滲み出るその怒りを、どこか冷めた感覚で感じ取った俺。
『あら、サマナー葛葉はお連れで無いの?呑みっぷりが見れると思ったのに』
その名を出すな。折角の冷たい身体が、沸騰しそうになるんだ。
『きゃはは、ねえ今度連れて来て下さいよォ人修羅サマ!あの格好良いサマナー』
はしゃぐ妖精、正確にどの種族の悪魔かなんて、そんなの知らない。
それの声がするテーブル目掛け、伯爵が骨の両手を翳した。制裁か、俺に代わって。
…でも、もうそれが既に腹立たしいんだ。
「余計な真似するな!ビフロンス!!」
叫び、その骨の先が握り締める燭台の焔が轟く前に。
俺の焔で掻き消した。
同情なのか?庇護なのか?
悪魔なんざにそんなモノ、買いたく無い、そんな俺が酷く惨めだろうが…!
「外でなら、構わないんですよね!?」
返答も待たずに、妖精と獣の座るそのテーブルの下に滑り込む様に潜る。
片脚を軸に、四方のテーブル脚目掛け、回し蹴り砕く。
支えを失って落つる頭上の板を、拳で叩き割る。
貫いた先で酒瓶が割れ、未だ半乾きの俺の髪に降り注いだ。
『ひぐッ』
割れる破片の隙間から、皮膚を傷付けながら伸ばした指先に捕らえる妖精。
大きな体躯の獣の悪魔が影になるが、その胎目掛けて掴むコレごと、拳を叩きつける。
「っ、ぉおおおッ」
相手の咆哮を無視して、軋む腕も無視して。
入り口までひっくるめて、吼えながら押し進めた。己の咆哮で掻き消す悪魔の叫び。
空間から出た先、石壁がみしりと悲鳴を上げた瞬間、脳内の血もようやくゆるゆると収まる。
一瞬の強い酒に喰らったダメージの様に、寒気が足下から、襲ってきた。
『ヤシロ、様…!御靴が汚れておりますッ!』
伯爵の声に、ぴちゃ、と…ブーツを少し上げてみれば、水音がした。
廊下の赤絨毯が、色を濃くする。寒気は、この気味の悪い…液体から。
『げひゅっ』
壁に縫いとめた獣の、咽たそれを顔面に被った瞬間、ぬるつきと臭気に…吐き気がした。
鷲掴んだままの妖精の痛々しい姿も、普段程気に止まらない。
「汚い!汚い汚いっ汚いっ!」
その、牙を剥いた犬の様な獣の口に、妖精を突っ込む、拳ごと。
甲ががりがりと犬歯に削られて、骨が突っかかったが、もう今は塞ぐ事しか考えられない。
その煩い口、臭い口、黙らせてやる。
「はぁっ…はぁっ…」
だらりと垂れた舌の上に、身体の捩れた妖精を残して、手を引き抜く。
まるで妖精を噛み砕かんと、口に留めた状態。
ずるずると、石の壁に獣の体毛を含んだ血が、残留して模様を描いていった。
「そんなに、あの男と遊びたいなら、勝手にして下さい…」
呟き、ブーツのソールを、地に崩れた獣の脚になすり付ける。
が、更に汚くなった気がして舌打ちしてしまった。
背後の狭い入り口に、野次馬が集まってきてるのか、気配の圧迫感が酷い。
込み上げる胸の圧迫感も…蒸気のそれで無く、吐き気の…
『外でって云ったじゃないのよ!』
その、空気すらつんざく声音に、視線だけ振り返る。
わいのわいのと蠢く鬼やら幽体を掻き分け、女性が躍り出てきていた。
マヤウェルとかいう店主悪魔の片方か。俺の眼の前に、割れた破片を操り飛ばしてくる。
アルコール臭い破片が一斉に、振り返った俺の身体に突き刺さった。
瓶の破片だからか、貫通する程の鋭さは無いので、却って痛い。
薬品でも入れていたかの様な色をした瓶の欠片。碧い切っ先が服を裂いて肉に埋まる。
息すれば、酷い異物感に見舞われた。揺れる影で把握する、喉に埋まる一際大きな破片。
『ディアラマなら私めにも使用可能に御座いますヤシロ様!』
駆け寄って来た伯爵に一瞥くれ、その言葉だけは信用してやる。
ゆらりとそのまま、視線をマヤウェルに流した。
見目は可憐なその姿、胸元に携えた酒瓶の水面と、豊かな乳房が揺れていた。
『お帰りになって!』
「二度と!来ません!」
マヤウェルの放つ二撃目の軌道を、振り翳す腕で歪ませる。
脈動した肉体から、刺さる破片が蒸発していくのを感じる。焔が全身を舐め回して往く感覚。
中にマガタマが無くとも、この身体に住み着いた忌まわしい力。
「っ、は」
と、喉の異物感の代わりに、赤色の飛沫が上がった。融け失せたのか、血が噴出する。
一瞬激しい痛みが駆け巡り、呼吸が乱れるが、伯爵の唱えた術が其処を塞いで往く。
口に溢れる錆の風味を嚥下して、腕の魔力を流転させる。
鞴の様に空気を扇げば、マグマ・アクシスが舞うアルコール煽られ更に彩めき立った。
轟音の後、訪れる静寂。酔いの醒めた空気というモノに似ている。
俺の焔に、一同は口を開いたまま…
噂話も今は叩けないだろうと悟り、俺は転がる獣を汚物みたく跨いだ。
「しっかり店内には残してないでしょう?血汚れ…」
そう吐き捨てて、震えるままのマヤウェルに。
「もし残ってたら、お湯じゃなく水で、酵素含んだもので叩き落として下さい」
それだけ云い残し、生臭くなった酒場一帯を通過する。
追従してくる伯爵が、足下を照らした。
『やはり汚れてしまっております!下賎なモノの体液が!!あぁああぁ』
煩いけど、実際その通りだ。ソーマの風呂で折角身奇麗にしたと云うのに。
「…いいです」
『えっ』
「今はもう、さっさと此処から出たい、生臭い」
俺に刺さるのが、ただの物質的な刃なら良かった。
傷は、いくらでも癒える、この悪魔の身体なら。
囁かれる嘲弄が、何よりもうざったい。
強制的に、此処に居るのに。閣下の剣にさせられたのに。
ライドウは、俺を利用しているだけなのに。
俺は、どれだけ惨めなのか。
閣下にぶら下がり、ライドウに縄引かれ。
不安定な悪魔達の上に、好奇と蔑みの視線でせっ突かれ。
『せめて御髪を乾かしてから!その美しい黒橡の色が褪せてしまいますよぉぉ!』
伯爵が差し出す白い布、それをさらりと受け取って、顔だけ拭った。
薄暗い窓から透ける日輪月光に照らされ、鈍い血の色を布に確認する。
もう、身体の傷も塞がり始めている。
「髪は良いです」
『何なら替えの布をお持ち致します!準備が足りず申し訳御座いません!いやはや私とした事が――』
無視して、指先に点した薄い焔で、こめかみをはらりと撫ぜる。
雨樋を伝う雫の様に、つう、と伝わった熱が湿気を掃った。
「あの廊下の悪魔と、酒場の件、宜しくお願いします、後片付け…」
返事の代わりに面倒を押し付けて、足早に駆け出す。
ボルテクスで、悪魔やライドウに追われた時より幾ばくか遅い程度。
『ヤシロ様ァ!!貴方様の住まう処は魔界に有りや!!此処です!此処なのです!!!!』
背後の声も聞こえぬ様に、即座に角を曲がる。
途中、数体の悪魔にぶつかった。夜魔やら、鬼女やら、姿すらはっきり認知しなかった。
挨拶でも侮蔑でも、どんな反動でも、今は嫌だ。
知っている、俺よりライドウを奉る悪魔共が、この城に居る事を。
(なら、俺は何の為に悪魔にされた)
俺の必要があったのか?今の存在意義さえ、ライドウの吐息で消える灯火の様に。
ライドウの激しい焔が、俺の蝋燭を消すんだ。
「此処でたまるかよ…っ」
独りごちて、堕天使もお気に入りの薔薇園を駆け抜ける。
花弁と薄く血を散らして、城門まで、ひといきに飛び立った。
廊下を巡る事すら腹立たしくて、結局バルコニーから入り口まで、一直線だった。





ガス灯が小さく啼く、夜更けの霧雨の中。
魔界から戻れば、此方の時間帯などいつも不明瞭で。
(…寒)
天主教会から、ひそりと抜け出せばこの暗闇。
転々と、道を印す外灯だけが頼りの時間帯…おまけに冷える。
擬態しなければ、暗闇の街路に俺の斑紋は浮かび上がってしまうのだ。
いくら春になったとはいえども、この中を歩くのは…
周囲を確認しつつ、道を選んで進む。
電車の通らぬ時間だが、朝まで待つ気にもなれない。
いいや、電車なんてそもそも、この身体の状態では。
「…臭い」
湿った霧が、髪に纏わり付く死臭を漂わせる。
ああ、こんな時ライドウはどうしていたっけか…
綺麗に並べられた晴海の石畳を踏み、思い出す。
…そういえば、あの男は…返り血を浴びない。
外套が覆い隠すか、刀が綺麗に分断する、その飛沫すら。
頬に稀に飛ぶ赤が、鮮明に記憶に浮かび上がっては、流れた。
無駄の無い動きと太刀筋、悪魔に命ずるその声。
…性格以外は、完璧なのだ。ああ、腹立たしい、あの男。
「おい、君」
「!!」
まさか、こんな時間に人が居るとも思わず、びくりと前方を見た。
油断しきっていた、果たして斑紋は滲んでいなかったろうか。
動悸を抑え、呼吸を整え擬態に集中する。
薄手のよれたコートを羽織った、男性が…ガス灯の下から俺に声かけていた。
「こんな時間に危ないだろう、何歳だね」
「…少し、教会で居眠りしてたら」
「クリスチャンかね?まあいい、正義に貢献すると思って訊ねられてくれんかね」
適当な嘘で誤魔化して、差し出される何かを見る。
近付くポマード臭い頭が、俺の死臭を隠しているのが、気持ち悪くて有り難い。
(警察の手帳……と…写真か)
薄い明かりの下、モノトーンのそれをよく眼を凝らして見れば。
俺の背筋がぞわりと凍る。
「知っているかね?築土の書生だ」
写真には、雑踏に紛れる黒い外套…でも、その中で一際…写りも大きくないのに目立つ。
「銀楼閣に住まう葛葉という男児だ、背の丈は八七」
「は、八七…?」
「…五尺八七寸だ、何だ、ピンと来ないのかね?普通の男なら五尺を省くは当然だろう」
頼むから、センチメートルで云ってくれ。
いや、云われずとも、その男が誰なのか、どの程度の身長なのか知っているが。
俺より拳一つ以上の差が確実にある、ヒールの所為もあいまって。
「で、この人がどうしたんですか…」
「知らんかね?」
「俺は、知りませんね」
「…そうか、有難う」
また嘘を吐いた俺。
踵を返し、去り往く中年男性の背中に、やはり気になって問いかける。
「あの、その人、何かしたんですか」
…何か、だと?今までの、あの男の非道を知っているのは、人修羅の俺だろう?
自分で聞いておいて、反吐が出る。
「詳細は機密だが、通り魔では無いよ、安心なさい」
はっ、と笑ってそのまま暗がりに消えた警察の者。
胸がざわつく……が、しかし、ライドウの安否は、俺の保身の為であって。
別に、思い遣りとか、そういった感情の類では無い、これは。
「いっつも、勝手に…あの男」
ガス灯に、湿った翅で懸命に、群がる羽虫が数匹。
俺の頭上に影を落とし…
(何故だ、あいつは寧ろ、警察すら手駒にする奴なのに)
ジジ、と焼かれて、頭上で死んでいた。



「鳴海さん」
自然と足早になっていたのか、少し痺れた脚を引き摺り、階段を上がる。
「鳴海さん、居ますか」
扉を開ける、暗い事務所には誰も居ない。
壁に貼られたカレンダーの日付を見れば、ああ、出張か…そういえば。
方々を回って、ライドウとは別のルートから仕事を拾うのだっけか…
不在なのに、こんなにも施錠を放置して、どういった神経なんだ。
(ライドウも居ないのか…捜索されてるって事は)
爪楊枝金閣寺がそのまま、机上に誇らしげに聳えている。
なんとなく、その呑気さに苛々して、崩してやりたくなった瞬間。
「いいのかい?鳴海ちゃんの力作、勝手に崩壊させてよぉ?」
ゆるゆると伸ばしていた指先が、節くれ立った指に捕まれた。
はっとして、その先を追えば、窓の薄い明かりに照らされる相貌がくわりとした。
「御同行願うぜ?家政婦の坊ちゃん?」
「か、風間刑…事っ」
潜んでたのか、この男。どうも俺は気が立っていて集中力が皆無らしい。
「不法侵入ですよ」
「何云ってんだぁよお前さん、立ち入りだよ立ち入り、ホレ見ろってんだ」
先刻も見た、あの手帳を鼻先にヒラつかせ、腕を捻り上げられた。
カッとなって、擬態が緩みかけるのを、必死に制御する。
「何だ…坊ちゃん、本当に家政婦でしかねぇのかよ」
もう二人か、潜んでいた人間が出てきて、俺の天辺から爪先を見る。
「風間さん、もう放してやったらどうっすか、暴れても大丈夫っしょ」
「武器らしい武器も、葛葉みたく所有してないみたいです」
机に肩から頬にかけ、ビタンと叩きつけられる。軋む感触に頬が引き攣った。
「っ痛…」
「どうだか、ライドウちゃんの傍にいっつも居るんだぞ?怪しいってもんだろうがよ」
「あ、っ!!」
その指に、他意が無い事は解る、素早い流れからして。
でも、酷く…屈辱的で。嫌だ、嫌だ!
「…本当に、何も無ぇんだな」
「ひィ、ッ!」
かさつく指が、肩甲骨から腰骨まで一気に駆け下りた。
脚を蹴られる様にして、机の壁に押し付けられ、撫ぞられる。
舌打ちする風間刑事が、放し間際にもうひと押し、俺の頭を机に擦り付ける。
衝撃に、眼の前で金閣寺が崩落して、軽い音を立てた。
「ん、武器無し、おいお前、戸ぉ閉めろ」
「はい」
勝手に進むやり取りに、ついていけない。
擬態の俺の肉体は軋んでいた。よろりと上体を、腕を伸ばし上げれば…そのまま引かれた。
「うっ」
「重要参考人だかんなぁ?家政婦なら見てるかもしんねぇだろ?ライドウちゃんのイロイロ」
ソファーだから、先刻の堅い机面より幾許かマシだったが…
説明も無しのこの扱いは、はらわたが煮えくり返りそうで。
軽く押さえつけられるまま、横倒しにソファーに居ると…
ライドウにそうされている錯覚まで出てきて、恥が滲出する、脳内から。
「ライドウちゃんはホルスター以外にも、ズボン下に隠してると俺は踏んでるんだが」
「俺が、なんで…こんな!」
「ちょっとした毒針なんかをよぉ?」
「っ!!!!」
ぎゅむ、と一瞬、股座を掴まれ、萎縮する。
「は〜流石に此処にゃ無ぇか、おまけにその得物自体かわいいもんたぁな?坊ちゃんだなぁ――んぶッ!!」
「痴漢野郎ッ…け、警察に突き出す…っ」
俺に頬を土足のまま蹴られ、ハンチングがずれた風間刑事。
でも、続けて爆笑した。
「もう来てるぜ?帝都警察部」
信じられない、が、事実そうなのだ。
自分の台詞の滑稽さに、唇を噛んで睨み上げれば…ようやく本題に入りそうだった。
「ちぃとばかし、ライドウちゃんに聞きたい事があってよ」
「何、ですか…俺は無関係だ、奴の居場所なんて、知らないです」
「庇ってるんかい?」
「知らない…あの男が何処に行こうが野垂れ死のうが、知ったこっちゃないです」
「冷たいねぇ?友達なのによ」
横にされているのに、頭に血が昇る。重力に逆らってる、感情が。
「友達なんかじゃない!」
俺の突然の剣幕に、周囲の刑事も一瞬警戒した。
上から風間刑事が、失笑する。
「だってな、毎度金魚の糞みてえに甲斐甲斐しくついて回ってるからよ」
「き、金魚の…」
耳まで熱くなる、まさか、そんな喩えにされて喜ぶ訳無いだろ。
おまけに、好きであの男に追従してる訳…
「ライドウちゃんが傍に置くんなら、何か隠し持ってるか…ソッチの人間だろ?」
ハンチングを被り直し、部下に命じて机のランプを点けた。
過激な正義に、ロウを感じて、眩暈がする。
「それとも…パシリか?奴隷?まぁーライドウちゃん女王気質だかんなあ」
悪気も無く、俺に笑って云う。
帝都の人間は、そう感じるのか。俺が…あの男の傍に居る事を。
とても、対等では無いと、既に空気が滲んでいるのか。
「んま、いいか、なあ家政婦の坊ちゃんよ、聞きたい事あるだけだからな?」
「俺は…何も知りません、帰って下さい」
冷たく返しても、照らされる刑事達は無視する。
取り出した手帳をはらはらと指で捲り、確認しつつ聞いてくるだけ。
「最近よ、ライドウちゃん、何処かに長期滞在するとか云ってなかったか?」
「…いえ、さっぱり」
今、強い悪魔に読心術されたら、少し危なかったと思う。
瞬間、大國湯の銭湯を思い出していた。
あのヤクザの親分と…きっと、何か話してたんだ…ライドウ。
「本当かぁ?だってよ、坊ちゃんそりゃ困るだろが、晩飯の買出しとかよ」
怪訝な顔で云う風間刑事に、俺はゾッとした。
まさか数日尾行でもされていたのか…確かに、その通りだった。
ライドウの突然の不在に、俺は憤っていた、いつも。
飯の支度をしても、俺と鳴海と、酷い時なんかゴウトも置き去りで。
無駄にさせまいと、ライドウの分を食べる事もあった。
俺なんか、沢山摂取する必要なんて皆無なのに。
どうして此処で、家事なんてしているのか、人修羅なのに。
(仕方無いだろ、だって、戻れないし、魔界に居たくない)
居候なりに仕事をすれば、さりとて無駄になる事に…自分の成果が無為にされる事に。
(本当に俺は必要なのか)
此処に居て良いか、不安になる、そんな欠片さえも。
「深川方面の遊郭とか、お調べになったんですか…」
半笑いで、見上げて吐き捨ててやる。
「どうせあの男の事だから、誘惑された人が匿ってるとか、でしょう…」
いっそ、本当に遊郭に居たなら、ひっ捕らえたら良いんだ。
俺がこんな目に遭っているのに、女の上で哂っていたら…
そのまま極刑にでも処されろ。
そう夢想しながら唱えれば、風間刑事は手帳をしまった。
「お偉方とかがなぁ、何でも?悪魔使って此処一帯の水脈を弄ってるらしいぜ?」
悪魔…だと。
「な?オッカルトだろ?水脈ったってちゃちいモンじゃねえ、金が動くんだカネが」
「どうしてライドウを、それなら犯罪者の様に追うんですか…悪魔は、あいつの専門で」
「お偉方の依頼先がライドウちゃんだからよ」
何だって…
利権か?本当に、黒い話だったのか、まさか。
黙る俺の後に、傍の刑事が眉を顰めて零す。
「風間さん、あんましペラペラ喋ったら…」
「良いだろ、乱暴に入ったんだ、ワケ云うけじめはつけさせろってんだ」
ぎしり、と、ソファーから退く風間刑事。
俺にかかる圧が和らいで、動悸が少し落ち着いてきた…少し、だけ。
「最近この辺の湯屋、一部営業してねえだろ?やっぱ水脈狂ってんだとさ」
「どうして、狂わせて何を…何の為に」
「自分の処に引き込めば、そりゃあ坊ちゃん、懐暖かいだろぉがよ?ん?」
我田引水…正にそのもの、か。
でも、おかしい…ライドウが、あの男が、そんな面倒な事するか?
いくら面白い事だろうと、気難しい政治屋や金融相手は、嫌う筈だ。
奴のやり方に…反する気が、する。
「おい、ちょっくら抜ける」
風間刑事が、呆然とする俺を一瞥して、傍の刑事に俺を任せる。
「自分はどちらに付きましょう」
片割れが発すれば、俺の傍に張り付く刑事がそれに返す。
「外の方がこの時間は危険っしょ、いいすよ、オレだけで残りますわ」
「大丈夫なのか?しっかりその子を見張ってろよ」
「丸腰な家政婦に逃げられるかっての」
一々苛立つ応酬、風間刑事等を見届けながら俺はソファーで上体を起こした。
「俺、まだ解放してもらえないんですか」
「ちょっくら待ってな、風間さん等結構鼻利くかんなぁ…」
残った刑事が、云いつつ煙草を取り出した。
「なぁ、灰皿無い?」
図々しい、しかし適当な所に破棄されても困る。
「随分と警察の方は凶悪なんですね」
視線だけ送りつつ、指先をテーブルの下に伸ばす。
板のすぐ下に、もう一段、隙間が有るのだ。其処に入れてある。
「凶悪?良くゆ〜わ」
まだ若い風の、その刑事が…刈り上げた髪を掻き上げる。
片手にした煙草を差し出し、俺にニマァ、と笑った。
「ん、火」
「は…?」
「ライドウにいつもしてっしょ?ホラ、火」
途端、脳内に危険信号が流れる。
この刑事は、俺が半分悪魔だと…知っている、のか。
「誰がっ」
ソファーの端まで一息に退いて、掴んだままの灰皿を振り上げた。
その脳天に、振り下ろす。硝子製だが、死に至るダメージは無いと、根拠の無い確信の下に。
しかし、俺の持つ灰皿は、びきりと亀裂が奔ったかと思えば、割れ落ちた。
その向こう側に、先刻までの刑事の姿は無い。
『ホンット、凶悪っしょ、人修羅さぁ』
煙草を指にしたままの、角を生やした悪魔が一体…
角の先端は、灰皿の破片を掴んだままの、俺の指の傍で止まっていた。
見覚えがある、いや、昔見た奴とは魂は別物なのだろうが。
「止めないか!ナガスネヒコ!」
ガチャリと音がして、同時に静止の声が入る。
あの、ガス灯の下で会った警察の人間だった。そう、過去形になった。
みるみる内に、そのよれたコートも、中年の相貌も変化してゆく。
なびく長髪は、眼の前で笑う悪魔と逆の白髪、若い顔立ち。
『ってよぉ〜兄者、折角助けてやろーってのに、この仕打ちっしょ?カチキレれるっしょ』
『擬態していたのだ、信用など得られる筈無いと思わんか』
『ちぇ、そのまま刑事本業にしたらいいすよ』
本来の長い髪をばさりと払うナガスネヒコ、手にする煙草だけは擬態対象と無関係らしい。
指にしたままのそれを、俺に突き出し再度「ん」と促す。
『オレ等は十四代目の管仲魔、彦兄弟、コレ、そのライドウから』
「待ってくれ、おい…やっぱり意味が解らないんですけど」
何だ、悪魔だったのなら、もっと勢い付けて振り下ろせば良かった。
そう思い返しつつ、差し出された煙草を見れば、確かにあの男の物だ。
『見ての通り、私はアビヒコだ……申し訳無い人修羅、しかし敵を欺くには味方から、とは思わんかね?』
『オレは正直かったりーんすけどね』
『少し黙らんかナガスネヒコ』
あのポマード臭い風貌から逸して、暗い肌に白髪が映える悪魔らしい貌が見えた。
もう遠慮も要らないだろうと思い、俺はソファーから完全に立ち上がる。
「ライドウは何してるんです?俺放置で、また勝手に暴れてるんですか」
『あの風間のオッサンの云ってた事は本当っしょ』
「水脈云々ですか?」
『いや待ちなさい人修羅、我々兄弟は稀に警察の人間と成り代わり探っておるのだがな』
「ライドウの命令ですか?ならどうしてライドウに罪が行ってんですか今回」
『だーから雲隠れしてんっしょ』
「俺に捜査が回ってくるのを予測してる筈なのに、あの野郎…一人だけ隠れてるんですか」
『それは仕方の無い事だ、あの方は今現在表に出るべきで無いと判断しておろう』
「……っ…交互に喋るな!!」
俺は怒鳴りつつ、割れてしまった灰皿の破片を、ブーツでソファーと床の隙間に追いやった。
今は片している場合では無い、土足だろうが構うか。
『うむ、ではあの方の御処へ御案内致そうかね人修羅』
『兄者いい加減人間のオッサンの真似し過ぎて老け込んだろ、語調』
長い一角をぶつからぬ様に、近付きながらも離れ合い、悪魔の兄弟は俺を囲む。
『そいや兄者、途中すれ違ったりしんかったの?人修羅と。教会張ってたんっしょ?』
『それがだな、あまりに貧弱に見え、まさか人修羅とは思わなかったという事だ』
もうそのお喋りを止めてくれ。悪かったな、貧弱な見目で。
『あ、そーいやぁ人修羅、この煙草吸う?ライドウのMAGが詰めてあってさぁ…どよ?良いっしょ〜?』
「…要らないです」
『良いのかね?長期の擬態には最高の一服だぞ?主人のMAGが携帯出来るとは、幸せだ、我等は』
「だから!要らないって云ってるでしょう!」
ぴしゃりと拒絶した。本当は、伸ばしかけた指先が震えていた。
ソーマの風呂では充たされない胎の底が、空いていたから。
そう、それだけ、なんだ。




案内された先は、案の定、深川方面…それも萬年町。
「あーあ、風間のオッサンにどう説明すりゃいいかな〜」
「その辺は十四代目が抜かり無く運ぶと思わんかね?ナガスネヒコは面倒臭がり過ぎだ」
人間の姿でその会話は、違和感があった。
左右の正体を知っているからこそだが…どちらにせよ、俺には楽しくない。
「さて、其処の茶屋だった筈」
彦の兄の方が水路の傍で脚を止めた。ちらりと見えた水路は、ゆるゆると流れていたが…
確かに、上に揺れる桜の花弁達は、その勢いの無さに渋滞を起こしていた。
水路にも、影響が及んでいるのだろうか…
桃色の花弁は、発光している様にも見える。それはこの街路の所為。
「よりによってオカマロヲド…」
気が知れない…思わず声に出てしまった。
「オカマっちょの方が義理堅いからじゃないすかねー」
真剣なのか適当なのか、へらへら笑って呟く弟が、兄にジロ、と睨まれている。
「見るが早いと思わんか、人修羅」
「ライドウが居るんでしょう?俺を放置しときたかったんじゃないですか?あいつ」
「この宵…既にお開きの会合だろう、風間刑事が掴む尻尾はもう無い事からしても」
警察の捜査が行き詰っているのは、ライドウの思惑通りって事か。
「偉い人ってのが此処に集まってるんですよね」
「極道者に護られてな」
呆れた。やっぱり、偉い人ってのは癒着があってなんぼ、なのか。
朱色の格子戸を眺めれば、桃色の灯篭で鈍っては居るが、戸の向こうもぼんやりと明るい。
人の気配も、確かにする。
「上からコッソリ見たらどうよ、下のヤクザ衆に説明すんのもたりぃっしょ」
「っ、わ」
突如、両腋にコート袖が介入してくる。俺の意見など聞かずに進み、靴先は地から離れた。
擬態を瞬間解いたナガスネヒコが、二階の出窓に飛んだ。そう、俺を掴んだまま。
「突然止めて下さい!許可も無しに触るな!運ぶな!まだ誰も見るなんて…」
『ライドウが悪の会合に出席してるのがムカツクの?』
「違う、あの男がえげつないってのは知ってますから」
『どーなんかね、何がワルなのか、一度見たったら良いっしょ』
したり顔で俺をパッ、と投げ放すナガスネヒコ。慌ててその空室に転がり込んで、外を見た。
霧雨のまだ引かない暗い空に、眼の光る悪魔が笑って手をヒラヒラさせていた。
『んじゃ、オレは兄者と共に帝都警察部に戻りまっす』
「待て!おいっ」
『下の階で話が終わったら、ライドウに直接聞きゃ良いっしょ、オレ等まだまだ仕事あるから』
下方から、兄の方の声が響いてきた。
「では十四代目に宜しく…“家政婦少年の裏は取れた”と、風間刑事には説明しておく」
窓から見下ろせば、既に彦兄弟は人間の姿で刑事として踵を返していた。
「…くそ」
桃色の光が溢れる、逆光で室内は暗い。
(見ろ、聞け、ったって…どうすれば…)
ふんわりとおしろいの匂いが立ち込める部屋を見渡し、襖の位置を確認する。
少し開けば、光も無い廊下が広がっていて、その行き止まりに階段らしい暗がりが見える。
這って行けば、近付くにつれ暗がりは明るみに変わり、気配が混入してくる。
一段一段、掌を着いて、下階を探りながら降りれば…
話し声、それとなく、から、やがて鮮明に。

「本当に水脈は戻るのかね?」
「あの湯屋には大枚叩いているんだ、いい加減戻ってくれんと!」
スーツ姿も居れば、着物の初老の男性まで。十の人数は居る。
誰がどの業界人か知らないが、確かに偉そうだ、皆一様に。
「戻りますよ、朝方にはね」
はっ、とした。ああ、あの男の声だ。
少し身を乗り出して、視線をギリギリの範囲まで流す。
外套のまま、煙管でふぅ、と毒を吐くライドウが…
「金融水脈でも牛耳るつもりだったのでしょうかね、何者かが抜け駆けしたのだと思いますよ」
いつもの、あの美しい立ち振る舞いで、述べていた。
「抜け駆け?誰が…」
「さぁ?自分はただ、水の妖を始末して、本来の流れに戻しただけに御座います」
フフ、と哂って、管の辺りを外套上から指で撫ぞる仕草。
「居るのでしょう?この中に、非公認のサマナーを雇ったか…サマナー御本人が」
と、ライドウが云い放った直後…畳の上、円状に並べられた座布団の一箇所が、欠けた。
台詞に触発されたのか、そのお偉方の一人が飛び掛る。
「ふざけた事を吐くな!書生如きが!」
あっ、と思わず声が零れ、俺は階段から転がり落ちた。
一斉に俺へと眼が集中する一方、気を散らす事も無いライドウが、腕を振り抜く。
金属音がして、畳に突っ伏す俺の眼の前で、軽い音がした。
今度はマッチ棒でなく、封魔管。
「…サマナー!!」
「お前まさか、ヤタガラスに与しておらんだろうに!」
「悪魔使いだったのかぁ、あんたぁ…たまげたわい」
ライドウの煙管で、指先に携えた管を跳ね飛ばされたか。
それが俺の手前まで、吹っ飛んで来たという事だ。
周囲の男達が怒号を飛ばす中、部屋の四方から晒を巻いた極道者が駆けつける。
「おいライドウ、ワシ等は此処で血祭するのは御免やぞ、畳張り替えんとアカンくなる」
その中から、よく通るドスの効いた声がした。見れば、あの貫禄の違い…やはり佐竹だった。
非公式サマナーを取り押さえる子分に目配せして、周囲を鎮めている。
「のぅ坊?お前も血ぃ苦手だろうが?え?」
転がるままの俺に、振り返りニィ、と笑った。
俺は慌てて立ち上がるが、状況も解らないのに云い訳なんか出来る筈も無く。
唇を噛みつつ静止していれば、ライドウが肩を震わせ哂った。
「ッフフ……佐竹さん、そいつは慣れたものですよ、血なんてね」
奴のその声に、否定しようと僅か首を振ったが、佐竹も笑い返している。
「そやな、血ぃの臭いしよる、ビンビン」
風間刑事には指摘されなかったというのに、それこそ慣れた者の違いなのか。
「処分は貴方達にお任せしますよ、ヤタガラスに預けては、それこそ私刑では済まぬかも知れませぬ」
振るったのに、先端の灰は落ちていないのか、手にした煙管を再度咥えるライドウ。
黒に真鍮の細工だろうか、あまり明るくない室内で、それがきらりと光った。
「帝都の水を踊らせたウンディーネは、此処に居りますよ…フフ、使役するなりに可愛がりますので御安心を」
畳に捻じ伏せられるスーツの男を、見下して冷淡に微笑むライドウ。
愛撫みたく胸元を撫ぞり上げる白い指先は、封魔した水の精に対してか。
「っ、カラスが、良い気になって!ウンディーネなぞくれてやるわ!」
「自分はこの件、一切カラスに絡めておりませぬ、お生憎」
「ど、どうやって警察に説明つけるんだ?え!?きっともうお前の悪行は噂されてるぞ…葛葉ライドウ!」
「……警察?」
すぅ、と煙管から吸い…唇を離す際、舌が赤く覗く。
ニタリとしたその顔は、愉しそうに吸った毒を吐いた。
低く視線を落とし、そのサマナーを覗き込む様にして、妖しく微笑み、吹きかける。
「もう居りますよ?帝都警察部…この空間に」
「な、に」
「誰、とは云いませんがね…クク……狂犬と名高い風間刑事の上司様ですから?ねぇ…きっと流してくれますよ」
煙管の先端の灰を、今度こそ落としたライドウ。睨み上げる、そのサマナーの脳天に。
悲鳴するその男を、極道者が取り押さえる。周囲の男達が取り囲むまま。
暴力的な空気が渦巻く、MAGでなく、そういう感情だけで構成されるモノが。
「自分は帝都の御為、水脈を戻しただけ…土地権・水源の権に関しては、どうぞお好きに」
誰も俺なんか気に留めず、いよいよ私刑の始まりか。ライドウは哂って手を二回叩いた。
あのサマナーが抜け駆けした、という事しか判らないが、きっとそれで十分だった。
「ねぇ?佐竹さん…話した通り、水に流されましょうねぇ?フフッ」
「あの重役が終結の為の生贄かい葛葉、おっかねえもんじゃ」
「僕にとって、あの男が企業のお偉方だろうと関係無い、第一線から離れているなら、下にも影響はほぼ無いでしょう?」
云い終えたライドウが、まるで…俺がビフロンスに投げたかの様に、佐竹に目配せしていた。
後始末は、佐竹の組の仕事なのか。
「さ、行こうか、功刀君?」
と、あまりに自然に声をかけてくるので、俺は咄嗟に反応すら出来なかった。
外套をばさり、と羽織り直して、いつものあの眼で俺を真っ直ぐ見つめる。
何故か、怒鳴りつける威勢も出ずに、か細く俺は問いかけた。
「…あんた、俺に一切話さなかったよな、今回の件」
「それが?」
「迷惑…被った」
「へぇ?アビヒコ辺りが先手を打って、君に忠告しに巡回してなかったのかい?」
その言葉にぎくりとする……そう、アビヒコは人修羅だと判らなかったんだ、俺の事を。
だから、刑事の一人として通行人の俺に聞き込みをした。それだけに終わった。
ああ、あれは忠告の為だったのか…そう、か。
「魔界から天主教会へ戻るのは時刻も不明瞭だからねぇ…あの職業なら深夜でも怪しくないだろう?」
「あんた、管に入らない悪魔、どれだけ使役してんだ」
「さあねぇ?君に教えたところで、記憶出来まいだろうよ」
「…っ」
戦慄けば、場を取り仕切った佐竹が、ライドウの背後で笑った。
「あんま苛めんなや葛葉、悪魔とかよぅ分からんが…お前がその坊を放って不安にさせたんは違いねぇ」
その言葉に…どうしたのだろうか。妙にカチンときた。
相手は極道の親分だと、分かっているのに、声が喉の奥から突き抜ける。
「不安じゃない!どうしてこんな男…ッ!」
もう、いい加減にしてくれ、沢山だ。
「功刀――」
ライドウの声を通過して、茶屋の出入り口に駆け出した。
俺の顔を微妙に見知っている極道者達は、俺を止めずに視線だけで追ってきた。
そう、取り押さえる必要なんか感じてないからだ。
そう…脅威も、心配も、何も抱かないのだ。
何か、が俺である必要は無いのだ。魔界でも帝都でも。
(どうして俺が、どうして誰も)
桃色の街路に飛び出たが、この妙な時間帯、オカマすら居ない。失笑モノだ。
「はぁっ、はぁっ」
霧雨だろうがお構いなしに、何も追ってこないのに、ひたすら駆け抜けた。
多くの視線の中に居れば、意識せずには居られないから、逃げたかった。
水路の上の橋を渡れば、ぎしぎしと啼く足場。
桃色の灯篭が、桜を一層鮮やかに照らしていた…
花弁は、懸命に水面を泳いでいる。水音が、先刻より大きい。
ライドウの云っていた通り、本来の流れに戻りつつあるのだろう。
「――ッ!?」
水音が近くなる、いや、俺が近付いたのか。
視界が横になり、一気に高度が下がった為だった。
じくじくと、熱から寒気に変わる…ああ、どこか、撃たれたのか。
「呼ばれて返事もしない、止まりもしない…」
首だけを動かして、視線を声の方に投げた。
薄い、桃色が霧雨で乱反射して、異界の様なけぶる空気の中に…俺の主人が見えた。
この気候だからか、既にリボルバーはホルスターに戻されている。
「“待て”も上手く出来ないとは…僕の悪魔の自覚、あるのかい?」
「…んな、自覚、持ったら…最後、だろ」
力が入り難い…脚を撃たれたのか。
「今回は利権絡みだ、それこそ君を連れた状態が面倒と思ってねぇ?」
「俺は…」
「君が人間を尊重するかの様に横槍を入れる事は、予測されていた…」
「人間を…尊重?」
「そうさ、君は毎度、まるで善人が如く僕を糾弾するだろう?闇に精通しているだけだというのに」
学帽の下からのその眼は、光っている様にも見える。
いや、周囲の光を飲み込んでしまうのか、深い闇の様に。
「余計な事を口走られても困るのでね」
かつかつ、と、石畳を啼かせる。
すぐ傍まで来ると、脳天を靴先で小突かれた。痛みにすくむ身体が、びくりとした。
「臭いよ…何を殺してきたのだい?」
「殺しては、ない…多分」
トップスのネックに、靴先を差し入れて、項の辺りを甲で苛めてくる。
ぐぐ、と絞まる首許に、呼吸が困難になる。
「フン、僕が居らぬ間、しっかりと城で暇潰し出来ているではないか」
その嘲笑にカッとなって、その小突く脚を咄嗟に掴み上げてやった。
が、即座に納刀したままの鞘で、重く一撃…腕の筋に喰らわされる。
痺れる腕はそのまま落ちて、俺はライドウに縋る形になった。
酷く、惨めな構図。
「僕はねえ、功刀君…デビルサマナーだよ?葛葉ライドウなのだよ?」
ずる、と、掴み寄せられるガーゼの襟が…
びり、と、千切れそうに、俺の代わりに悲鳴する。
「適材適所、使役する仲魔の其々…使い道は心得ているのさ」
「道具、だろ、どうせ」
「そうだねえ、そういう契約の下にMAGも与えているのだから、何も悪くは無いだろう?」
事実、ライドウに使役される悪魔達は、皆愉しげだった。
俺を除いて。
「俺は…俺はっ」
触れそうな睫がくすぐってくる、苛々する、何も、愉しくなんかない。
「俺は、あんたの傍に居たくない」
怒りを滲ませた筈だってのに、何故かか細く消えていった。
ただ哂う、その相貌に淡々と告げた。
「俺の分まで空気吸って、俺の発する気も吸って、俺の事、全部掻き消すんだ…あんたは」
「…随分と抽象的だね」
「この世界でも、城でも、何処でだって、俺はあんたの影でしか無いんだろ…」
もう、自分でも何が云いたいのか分からなかった。
「居なくても事が進むなら、最初から契約するな――ッ!?」
云い終わらない内に、額に衝撃が奔った。
こつんと、つばの感触に続いてがつりと頭蓋の打撃。頭突きされたとようやく把握した。
「下らぬ戯言はそれで終いかい?」
思っていたより石頭なのか、そのくらいお硬い頭してくれてたら楽なのに。
そんな事をクラクラした脳内でぼんやりと考えていれば、突如太鼓を取り出したライドウが見えた。
たたん、たたん、と、鳴らされる音に呼応して、龍の頭が街路に下りてくる。
『狭いなライドウよ、そして花街にしては実に粉っぽい…人間の“化粧”のニオイか?』
「コウリュウ様、花粉症では御座いませぬか?季節ですからねぇ…フフ」
こんな処に呼び出して、なんて奴だ。
「い、っ」
「ほら、しっかり乗り給えよ、墜落しても骨は拾ってやらぬよ」
促され、仕方無くその鱗の背中に跨った。あまり機会の無いこのタクシー。
電車も無い時間帯だから…の選択か?
ライドウは全ての主導権を握られる事を避ける。
コウリュウにも、あまり乗りたがらないのに。何だ、何処へ行く気だ。
霧雨の雲間は、酷く湿っている。寒い…ライドウほど着込んでいないので、酷く。
「この麓でお願いしますよ、コウリュウ様」
『ほう、随分辺鄙な処を指定するのだな』
降ろされる、その場所は確かに鬱蒼としていた。
樹々の隙間に飛び降りるライドウ。俺はコウリュウの頭まで這って、足場を確保しながら降りる。
『足蹴にするでないわ』
その文句に振り返った頃には、既に空に帰っていた。
とはいえ、応酬するつもりも無かった俺は、視線を周囲に流す。
何だろうか、何も無い様に見える……影になったラヂヲ塔がぼんやり霧隠れ。
山寄りだが、それも本当に…人の介入しない範囲だろう。
獣道しか見当たらない。
「…おい、もう汚い話済んだなら、さっさと銀楼閣戻らないのかよ」
「朝に水脈が戻ろうが、ボイラーで沸かすのは時間が要るだろう?近場の銭湯にはありつけぬ」
「大國湯は」
「あすこは開くのがやや遅い」
ざくざく、と湿った草木を掻き分けるライドウ。
溜息でその後を、一定の間隔を開けて追う。
「沸かぬなら、湧かせれば良いだけだ」
呟いた奴は、突如管を外套から突き出す。警戒していた俺は、身構えたが…
蛍光色と現れたその悪魔は、あまりに普通の動物のシルエットをしていたので、拍子抜けする。
「何だよ…その悪魔」
「序列四拾七番の公爵、ウヴァル」
黒いのは、逆光によるシルエットかと思ったが、毛色が黒だった。
ヒトコブラクダ、という生き物の形をしている…悪魔には、見えない。
『ミサー ルヘイル』
ぎょっとして、そのウヴァルを眺め見た。その獣の口から発される声音は、しっかりと声だったから。
「ミサー ンヌール……さて、辿ってくれ給え、ウヴァル」
返事して、外套の内から取り出した織物をそのコブに掛けたライドウ。
チラ、と振り向き、俺に指図する。
「その様にだらりと追従されてはねえ?…迷子になりたいのかい君?」
「ま、迷子だと…っ…馬鹿にしてんのか」
「ほら、さっさと乗り給えよ…クク、探してなぞやらぬからね」
でも、実際身体は妙に疲弊していた。おかしい位に。
睨みつけながら、その二輪より車高の高い背中にぐ、っと跨った。
身体の下で、七色の煌びやかな織物が揺れる。
「直接跨っては、魔力の脈が乱れるかもしれぬのだよ」
「脈が…」
「そう、水脈と同じ…僅かな綻びも、歪曲も、正常な流れに支障を齎す」
織物の端を指先に遊ばせ、クスリと哂うライドウがウヴァルに何か唱えた。
もったりとした揺れに、脚でハングオンして、しがみ付く。
「き、急に動くな…!」
「フフ、水の匂いを嗅いでいるのさ」
「み、水…?」
「そういうのが得意なソロモンの悪魔だ」
ゆっくり白んでゆく空が、朧月に照らされている。
ざりざりと、ラクダのウヴァルが踏み締める大地の音が変わり始める。
『イッディーニ マイヤ イッディーニ マイヤ』
ぼそぼそ喋る下のウヴァルが気味悪い。
「なあ、何云ってんだ…この悪魔」
「水を欲しているのさ」
「つっても何でこんな山中で…もう水脈云々は済んだんじゃないのか?」
「折角召喚したのだから、利用し尽くさねば勿体無いだろう?」
「何だよ、それ…意味が分からない」
ライドウの返答に、最早追求の気すら失せ、項垂れた。
サイケデリックな織り柄の反物…幽かに異国の匂いがする。
「アトラス紋様、クイナクなる民族衣装にも使用される」
「別に、聞いてない」
「派手だろう?」
「デュオニュソスみたいで眼がチカチカする、けばい」
苛々し過ぎて、ライドウがムカつき過ぎて、何も考えて無い俺。
鬱蒼とした景色は、徐々に色が変わってくる。
断崖絶壁に近いのか、岩肌と、乾いた砂が姿を見せ始める。
(いつもこうして放置と思えば引きずり回して、最悪だ)
ぼうっと前方の、ウヴァルの脳天を見ていたその時。 

「月の〜…沙漠を…はぁるぅ…ばぁると」

数日前の、大國湯にあった鉱石ラジオが蘇る。

「旅の〜…駱駝が…行きぃ…ました」

ノイズも何も混じらない、冷涼とした声音。
ウヴァルと並ぶライドウが、赤い唇で紡ぐ。
祝詞でも呪いでも何でもなく、ただの童謡。
ライドウに一見似合わない、少年少女の歌…
「広い〜沙漠を…ひぃと…すじに――」
「っわ!?」
いきなりの静止、もんどりうった俺はウヴァルの首に突っ伏した。
歌を止めたライドウが、ニタリと哂ってウヴァルに問いかける。
「ワッラーヒ?」
『イエムキン モムキン』
「シュクラヌ」
その哂いのまま、会話を終えたライドウが、管を振り翳す。
あ、と思い飛び降りれば案の定、俺に配慮も無しで管にウヴァルを戻したのだった。
「一声かけろよ!それにさっきから意味不明な言葉で会話して」
「エジプトの口語“アーンミーヤ”だ、ウヴァルも大して上手では無いがね」
する、とホルスターに挿すと同時に、反復する指先が隣接する管を引き抜く。
その流暢さは、言葉だけでなく指先も、か。
「穿ち給え、ショウテン」
巨体がたたらを踏めば、僅かに地が揺さぶられる。
『ライドウ、何を叩けば良い!?そこの小僧か!?』
牙の隙間からギョロリと俺を見据えた象に、ライドウは失笑して顎でくい、と示す。
「砕け散ってしまうから今は止しておくれ」
今は、とは何だ、この男。
『山!?よもやこの山を砕けと云うのか!?』
「ああ、そこの一部で良い、その頚動脈に一撃宜しく」
『うむ!ライドウの云う事ならば此処が脈にて違い無し!ォォオオオオオン!!』
巨体に負けぬ矛を振り下ろし、開けた空間の草地を叩き割る。
ぞぞぞ、と、足下で蠢く音と感触。
砕け散った地表から、噴出する間欠泉。
少し浴びたのか、ショウテンが一瞬嘶いた。それを見てせせら哂うライドウ。
唖然としている俺の眼の前で、ショウテンに代わりイッポンダタラを召喚し、命令する。
岩肌から砕かれる無骨な、それでいて頑丈そうな天然の石材。
それ等が振り抜かれる槌で、間欠泉を囲めば…なみなみとたゆたう水面。
遠くに見える断崖からの水平線と重なる。
「施工完了」
さらりと述べて、愉しそうに仲魔を管に戻す。
くるくると指先に遊んでから、ホルスターに仕舞うライドウ。
完成した天然温泉の湯気なのか、霧雨なのか、朝靄なのか判らない。
そんな霞んだ空気の中、その黒い外套に向かって…俺は感嘆が出た。
「施工ってあんた…これ」
「温泉」
「そうじゃないだろ!何しに来たかと思えば…!こんな事?」
「地の水脈を占うウヴァルが居れば、可能かと思ってねえ…目星は付けていたのだよ」
不敵に微笑み外套の襟を緩めるライドウ。まさかと思い指先を視線で追えば…
するすると、外套を脱ぎ、一際大きな岩に掛けた。
「柘榴石入りの荒削りな御影石だねぇ…なかなか風情が出たものだ、イッポンダタラの突貫にしては」
ホルスターを外す、ずしりと重量の感じられる胸と腰のそれが、縁の岩に置かれる。
「こんな、外で」
「人どころか、悪魔すら寄り付かぬ、それこそ温泉しか無い場だ」
「そんな問題かよ、ろ、露出狂…っ」
まじまじと見たくない俺は、更に項垂れる。視界の端にライドウの白い脚がちらりと蠢いた。
「温度も丁度良いな、フフ」
水音。縁の岩を見れば、装備一式は其処に残したまま。
銭湯の際の学帽すら、岩上に被らせて。
(完全に、丸腰)
動悸がした。この男が…本当に一糸纏わぬ姿になる事が、異質だから。
犯す時も、浴びる時も、近くには武器が、管が在るのに。
学帽の裏の管の存在だって、知っている。
「何しているのだい、功刀君」
弾かれた様に、その声に面を上げた。
俺を捉えてすらいない、完全に背中を向けているデビルサマナー。
「モタモタしていれば、あがってしまうよ、僕」
誘っている、俺を。哂いの滲んだ声で、試している…
牙を剥くなら、今だぞ、と。
「その臭い血、早く流したらどうだい?それとも…」
ククッ、と、挑発してくる。朝の月が見下ろす麓で。
「僕の血で更に湯浴みしたいのかな?」
頬が熱くなる、血が、巡る。駆け出し、霧が裂けたその切れ間。
(ざけやがって――)
しかし、見えた景色に血の気が引いた。
怒りの間欠泉は出口を見失った。
寸前で失速した俺は、へたりこみ…縁に膝を着いた。
どうして止まった、どうして、一矢報いる事もせずに。
「……ざけ、んな…きっと酔う」
絞りだした声が、遠くの波音に消されそうだった。
「どうして、晒すんだよ…その背中」
惨たらしい。白い肌に縦横無尽に奔る蚯蚓達。
恥辱の証を、どうして直さないのだ、いつも思う。
その背中に、爪を立てる事は…牙を剥くのは…!
「この脈こそが僕の生きる路だからさ」
「その路に俺を立たせないでくれ、痛い…」
「君が駒になる事を認めたのだろう?今更嘆くのかい」
「違う!使役するってんなら、戦わせるだけで良いだろ!!」
水面を叩く、熱い飛沫が服を濡らした。
血の乾いた髪に掛かって、額に張り付いた。
「傍に引き寄せるな!俺が惨めになるんだ!あんたが…」
強過ぎて…
「俺の存在を、掻き消すんだ…誰も…誰もが…あんたしか見ない」
俺は弱い脈で、気付かれずに、埋もれ死ぬんだ。
ボルテクスから引きずり出されて、一気に弱くなったかもしれない。
あんたの傍に来てからだ、葛葉ライドウ。
「愚かしいね人修羅」
ぴしゃりと、俺の声を撥ね退ける、その声。
武器すら持たぬのに、どうしてそんなに強く立っていられるんだ。
「僕の、何を見ているだと?皆が…?」
「あんたを褒め称える、見目だとか!実力だとか!」
「へぇ?警察の犬と嗅ぎ回って、極道とも遊ぶ僕を?」
「警察もヤクザもあんたを認めてる…どっちの界隈も」
「フ、フフ…君は何処を見ているのだい…?」
泉の熱と対照的な、冷たいその眼が俺を射抜く。
首だけで俺を振り返るその哂い…
「警察はカラスなぞ信用しない…極道は真の闇には触れない……解らぬ?」
どうして哂って云うんだ。
だって……本当は知っている。
その背を、大國湯でしか晒さない事。警察の一部に、要注意人物として扱われている事。
「極道者ですら、流石にこの背を見れば手を引くからねぇ……確かに、刺青とは意味が違うのさ」
惹かれて、近付いては、その真髄に触れられない。
その闇が強すぎて、惨たらしい傷に、惧れを抱いて。
「ほら、擬態を解き給えよ…」
まだ浸かってもいないのに、俺はのぼせたのか。
その声のまま、汚れた上を、ずる、と脱いでいた。
そこで気付いた。そう、俺は、魔界から帰って…ずっと、人間の姿のままだった。
ライドウに撃たれた時にさえ、その擬態を解除せずに。
「余程の緊張状態にあったのかな?人脈に弄られて」
否定もしないで、下肢の着衣を脚から逃がす。薄い布も同時に引き摺り下ろした。
「いつでも殺せる様に、僕には見せてくれるのだろう?斑紋」
ちゃぷり、熱い、熱い本流に、魔脈が疼く。
振り返ったライドウに見られて、斑紋が啼いた。
「…丸腰で良いのかよ、あんた」
吐き捨てれば、唇の端が吊り上がる。
「僕の武器なら、眼の前に在る」
「あんたをいつか殺すのに?」
「その前に折れない“なまくら”でなければ、ね」
熱い、熱いそれは、身体をゆるゆると融かしそうだった。
「道具は…武器は、ここぞという時の為に、懐に納め置くのだよ」
撃たれた俺の脚から、赤いマガツヒが湯に織り柄を挿し始める。
血脈の様に、葉脈の様に、ライドウの脚に絡みついた。
あの、異国の織り柄の様だった。
「今回の様な与太事に、君を使う気はしないねぇ…刀身を見せれば、盗られてしまうかもしれぬのに」
「だからって、豪奢な刀の傍に居たくない、俺を惨めにさせて愉しいのか…あんた」
「いい加減しつこいね」
脚を引っ掛けられ、ざぱりと俺は湯に沈んだ。手を着き起きるより先に、髪を掴まれ引き起こされる。
「っは!ぁ、はぁ、て、め」
「僕が待てと云えば待ち給え、来いと云えば蹴れる範囲に来給え」
「滅茶苦茶、だ!」
「君が周りに何を云われようが、どう見られようが、僕の知った事では無いね」
その腹立たしい台詞に、やはり一発ぶちかまそうかと腕に力を込める。
が、そのまま耳許で、ライドウは俺の思考をぶち壊した。

「僕の手駒だろう…功刀矢代…僕が良いと云えば、良い、それだけの事」

腕から力が抜け落ちる。
その名前を呼ばれて、ぐらついた意識の足許は固定される。
雁字搦めの束縛で。
「存在意義を提唱したくば、契約破棄するでないよ…?」
胎が熱い、契約した瞬間から其処に結ばれた糸が、引かれているのだろうか。
でも、ライドウの指先には何も無い。
そんなものは見えてない、筈なのに。
「今の君はね、僕の支配下でしか呼吸出来ぬのだからさぁ…」
震える肩に、狂気が滲む。声を上げて、しかし静かに哂って海を見た。
俺の髪から梳き抜く指先は、額から瞼に滑り落ちる。
頬から首の脈の上を跨いで、鎖骨の翳りを掬う。
「何、してんだ」
「この魔脈とて、僕の吹き込むMAGで息衝いている」
暗い斑紋の脈を伝って、俺の…鼓動の上へ。
「人修羅」
心の臓の上で、その掌が鷲掴む。
呼ばれた固体名に嫌悪の慟哭。
すると、酷く残酷な笑みへと変わった。
「“矢代”」
跳ね上がる。悪魔の肉の中で、俺の核が。
単純に呼ばれ、振り返る。そんな記号では無くて。
「ク、クククッ…本当…君は」
「退かせ、っ!!」
掌を払い除ける、先刻よりも波打つ心を覚られたく無いから。
久々に呼ばれた名に、塞き止められていた鬱屈が飛散した。
「一々、確認するな、触るな…!」
突き飛ばして、肌寒くなった身体を湯に埋めた。
薄く映り込んだ月が、水面で更にぼやけて歪む。
この数日の憎しみを、嫌味の様に吐露してやる…
「ライドウ、あんたこそ…命令聞かせるなら、俺が聞こえる範囲に、居ろよ」
ぽつりと呟けば、肩まで覆う波間が揺れた。
傍に座り、片膝ついた男が海を見たまま云う。
「僕はライドウの十四代目だろう?」
「…十四代目葛葉ライドウって呼べば良いのかよ」
「功刀君、一番脳脈の海馬に響き入る言魂を知っている?」
「ッ…ぐ」
痛い…脚、が。
「契約の詞さ、ほら、知っているだろう?」
脚の傷口に抉り込んだライドウの指が、無遠慮に銃弾を引きずり出していく。
見向きもせずに、俺を穿って…自分以外の不純物を取り除きたいのか。
「……よ…」
ああ、頬が熱いのは、のぼせた所為だろう、きっと。
醒めたいから、だから呼ぶんだ。
「“夜”」
大國湯の湯より温度が低い筈なのに、まるで融けそうだ。
ようやくこの位置に還って来た俺は、痛みを伴いながらも目一杯呼吸した。
擬態も解除して、素の肌で、こんな外で。ありえない光景。
「…ま、それなら聞こえるかな」
くつくつと含み笑いして、抉り取った弾丸を泉の面に鋭く放ったライドウ。
器用に水切りの要領で、その弾丸は水面を幾度か跳ねて、消えた。
「この距離で十は跳ねた、流石は僕」
「ガキかよ…」
「子供騙しと思うでないよ、水面で跳躍することで射程が伸びる、英国海軍はこの原理を利用して」
「あーもう良い、あんたの薀蓄は、血生臭い…」
嫌がらせの様に、血みどろの知識を湯に歌い披露するこの男に
俺はやはり溜息しか出なかった。
いや…この溜息は、もしかして、安堵だろうか。
「カラスに渡してなるものか、利権こそ関与させては不味いのだよ」
絶壁からの日の出は訪れない、今日も曇りなのだろう。
辛く吐き捨てる、この男。百数えたって、煮え湯から出ないつもりだろうか。
「あんたさ…」
流れる血潮は、人間の証。その背に浮き出る傷跡は、業苦の証。
人間から受けた、責め苦の…
「何」
「…いや」
鳥の声、静かにこだまする波音と、それだけで。
異質な空間にしか存在出来ないのか、と感じた俺は
やはり無性に腹立たしくなった。

「つきのー…さばく、を」

音楽の授業は、皆の声に紛れて消えていた。
カラオケなんて、新田の独壇場だった。
俺の声なんて、響かない…なんて、自分でも解っている。

「はーるーばる、と?」

確認する様に躓きつつ発声すれば、嘲弄に水面が揺れた。
「おいおい功刀君、疑問系とはこれ如何に」
「ラジオでちらっと聴いただけだし、それとあんたの歌ってたのしか…」
「突然どうしたのだい?プリンパでもかかってた?音痴だねぇ…いや、それは術と無関係かな」
「っさいな!」
ばしゃりと湯を刎ねつけてやれば、ライドウの前髪に滴る。
余計に艶が増して、更に苛々させられる。
「あんたと二人きりで無音だと、どうでも良い事ばかり頭を過ぎるから、異界ばっかだし」
膝をかかえて、下肢を隠す。堂々と見せられるか、あんたじゃあるまい。
「だから、ラ、ラジオの代わり…」
ピクリ、と一瞬、ライドウの黒曜石の眼が虚空に留まった。
「…そんな消え入る声で?周波数は合っている?」
「普通の銭湯、行った事無い癖に」
叱咤が飛んでくるその前に、俺は云い逃れしておく。
「だから、ラジオでも流れてれば大衆浴場…だろ」
俺だってこの斑紋のまま、普通の銭湯に行けない。
主従揃って、普通の処には行けないんだ。
「…で、君の歌かい」
「悪かったな、電波状況悪いんだよ」
「あちらの方角にラヂヲ塔が見えるのだがねぇ?」
「本当性悪だなあんた」
「フフ……良い性格だろう?犬の躾も花道の散歩も慣れたもの…さ!」
「ぁがッ!?」
急に水面から突き出た足先、こめかみを蹴り飛ばされて、俺はまた潜水する羽目になった。
呼吸確保の為に膝を立て、熱い織り柄から逃げ抜ける。
俺の血が織り混ぜられた、その泉から、頭を突き出した。
「っは…!!っ、はぁっ……こ、っの野郎」

「 Y H V H …Y H V H … 」

その四文字にぎょっとして、濡れ髪も掃わずにライドウを見た。
天使も魔界の悪鬼共も、どちらが聞いても脚のすくむその名。

「こちらは天界より展開致しております、唯一絶対放送局よりの毒電波に御座います」

「おい!それ、っ…あんまり云うとルシファーの前でポロって出るぞ」
俺がいつかは対面させられるであろうその名を、聞いて気分が良い訳無い。
ヤハウェと読まずに、アルファベット一文字区切りで呼び上げたライドウ。
そんな放送局あってたまるか。いや、この世界は確かに毒されているが。
「四文字が他に見当たらなかったのでねえ、それに温泉にポロリはつき物だろう?」
一体何処からの知識なんだ。
血も既に落ちた髪を後ろに撫でつけて、ライドウの横顔を見た。
長い睫の先まで黒く艶めいて、確かに面は綺麗なのに。
「鉱石ラジオでも置こうかねぇ、功刀君?」
美しい流れに脚を踏み入れれば、その底にこぞむ深い泥に攫われる。
畏怖して皆、綺麗な水面だけで遊ぶ。
ああ、でも、その水源は、泥の奥から湧き出ている…
「ああ、でも君の周波数のぶれた放送があれば良いかな?」
「しつこいのはあんただろ、もう誰が歌うか…チッ…」
誰も本当のあんたを見てないんだ。
強く生きる葛葉ライドウ…上辺の強い、激しい脈に覆われて見えないんだ。
「そうかい、海に山にラヂヲ塔、花鳥風月豊かな壁画も在る、立派な湯なのにねぇ」
「こんな、コウリュウでしか来れないだろ」
「道具の手入れは大事だからねぇ…血、しっかり落とし給えよ?」
「誰の所為だと……それに…さっきの歌、続き知らないからな…俺は」
その、静かな、横顔を。誰も。
「……此処の開湯伝説は、スクナヒコナより黒駱駝が良いだろうね」
「スクナヒコナ…?」
「ほらまた知らない、どうせ半殺しにした悪魔の顔すら覚えてないのだろう?クク」
「悪いかよ、悪魔の顔なんて覚えても、あんたと違って生かせないしな」
「フフ…ま、誰にも教える予定は無いがね、此処」
クス、と哂ったその瞼が下りた。
「続き、僕が放送してあげようか」
「あんたの守備範囲が意味不明だ」
「幼い頃読んだ《少女倶楽部》に載っていた」
「はぁ?しょ、うじょ?あんたそんな物まで…」
それがデビルサマナーに不可欠とは思えない。
「リンに取り寄せてもらってね……銭湯も、本で知識としては得ていたさ」
本で“普通”を学ぶのか、あんたは。
親から童謡を教わったこの身に刺さる、刀より鋭く。

「……広い〜沙漠を…ひぃとすじに…二人…はどこへ…行くの〜でしょう」

その声は、高らかに俺を呼ぶテノール。
伸びる声は、何にも邪魔をされない。
帝都の喧騒にも、魔界の有象無象にも…カラスにも。

「朧…にけぶるぅ…月の夜を…対の〜駱駝は…とぼとぼと」
  
ちらりと見上げれば、頭上の月はゆっくりと消えてきた。
また、血生臭い今日がやってきたのだ。
悪魔を殺し、使役し、MAGと称した暴虐を打ち付けあう日々が。

「砂丘〜を越えてぇ…行き…ました」

渇いたボルテクスを越えて。

「黙ぁって越えて…行きまし…た…」

俺達は、確かに、受信し合える距離になり
互いのノイズを把握出来る様に、なっていた。
その不協和音は、不安に揺れるタイトロープだったが…
自分の為だけに用意された、たったひとつの脈だった。

「あったかい、な………………ぁ、ゆ、湯が!」
「湯が、ねぇ」

なまあたたかい潤いに、浸かっていたいかもしれない。
奥底のマグマに焼き尽くされる、その日まで。

脈・了
* あとがき*

今回のテーマは極道・警察・温泉・脈…です。
本質的には「己の立ち位置」だとか「釣り合っているのか」という不安提唱。
だらだらと長くなるばかりで纏まりがありません。
後半の会話なんかは、フラフラにのぼせてますね、執筆者が…
人修羅はライドウを憎みつつ羨望を抱いている、傍に居るのが惨めになる。ライドウは人修羅を使役しつつ引き寄せる、胸が傷付いても気付かず懐に入れる。

【作中のあれこれを適当に解説】

《J O A K》
東京放送局のコールサイン“JOAK”の“J”は、明治41年、逓信大臣名の公達で、海岸局の局名符号の第一文字として定められたもの。
後半、ライドウは勝手にヤハウェの四文字にして遊んでる。

《鉱石ラジオ》
響きが素敵ですね。
方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の整流作用を利用したAMラジオ受信機。

《指切り》
遊女が小指の第一関節から切り、その指を客に与えるというもの。「指切り、拳万…」の約束歌もここからきている。
佐竹の兄貴は“遊女と指切り出来ない程の小物”“指切りに必要な長さも無い程の短小”と、かけてます。

《マヤウェル・パテカトル》
マヤウェル:アステカの、竜舌蘭の女神。酒造と出産、幸運の守護神。パテカトルの夫。
パテカトル:アステカの、肥沃と治癒の神。竜舌蘭酒の王。
ケテル城酒場の主人二人という設定。しかし此処の捏造でパテトカルも女体。男装の麗人。
酒の肴になるのなら、下衆な事も見過ごす二人。

《血汚れ》
大根の絞り汁なんか良いそうですよ。

《背の丈は八七》
この時代の男性は、大抵五尺あったそうで、五尺を省いた数を云っていたそう。
五尺八七寸は、大体178cm。夜はその位。ヒールでもう少し高くなりますが…

《我田引水》
(自分の田に水を引く意) 物事を、自分の利益となるようにひきつけて言ったり、したりすること」

《ナガスネヒコ》
ライドウの仲魔の長髄彦。弟。若造。仕事は適当にがモットー。
擬態しても若い、へらへらしている。人修羅の事も適当に知っているらしい。ライドウのMAGを結晶化した煙草がお気に入り。

《アビヒコ》
同じく仲魔の安日彦。兄。性格老けてる。仕事は人間らしく(適度に汚く)がモットー。
擬態するとポマード臭い中年になる。人間の刑事を観察した結果らしい。ライドウに定期的に報告を入れる、糞真面目。

《土地権》
温泉権とは別物だそうですね。

《ウヴァル》
ソロモンの悪魔。序列四拾七番の公爵。黒いラクダの姿をしている。術者の命で人の姿を取り、余り完璧でないエジプト語を喋る。砂漠・水脈・愛について力を行使する。

《アーンミーヤ》
エジプトの口語、劇中の会話は下記の通り。

『ミサー ルヘイル』
 こんばんは“良い夜”という意。
「ミサー ンヌール」
 (上記に対する返事)こんばんは“光の夜”という意。
『イッディーニ マイヤ』
 水が欲しい
「ワッラーヒ?」
 本当に?
『イエムキン モムキン』
 多分出来る
「シュクラヌ」
 有難う

《御影石》
花崗岩。石材としては御影石と呼ぶ。石榴石を副成分鉱物として含む事もある。

《アトラス紋様》
ウズベキスタンの織物。七色の絹糸を使った日本の矢絣を大きくしたような紋様。派手である。

《水切り》
石を水面に投げ、跳ねさせる遊び。爆雷の一種「反跳爆弾」に、この原理が利用されている。

《開湯伝説》
温泉が発見された由来に関する言い伝え・伝説。あくまで言い伝えであり、史実とは異なる。開湯伝説が創られる理由として、口頭説明に信憑性をもたらすためだとしている。各地に大国主命と少彦名命の開湯伝説がある。

《月の沙漠》
藤まさをが、講談社発行の雑誌『少女倶楽部』(大正12年)3月号に発表した、詩と挿画からなる作品。これに曲を付けたことで、童謡としての「月の沙漠」が生まれた。海岸の風景がモチーフになっており、海岸の砂はみずみずしいことから、「砂漠」ではなく「沙漠」としている。