初夏のRhodonite

 

焼け付く陽射し…遠くで数匹蝉が鳴いている。
道行く人々の着用物は、ウールから木綿か麻になり。女性なら、色襦袢に重ねた絽の着物だったり。
氷売りの営業の声が暑苦しくて、傍を通った際に少しげんなりした。
「周りの温度上げてるの、あの人じゃないのか」
ぼそりと零せば、傍の黒尽くめが、ちら、と俺に一瞬黒眼を寄越す。
「雨が降らねば傘屋は閑古鳥だろう?理に適っているではないか」
「涼売る為に熱撒き散らしてるってか…は…えげつない…」
このじわりじわりと喰い込む熱、まだ夏本番ですら無いのに。
いいや、それでも慣れてしまった所為なのか?帝都の気候に。
きっと同じ季節、俺の時代の東京の方が灼熱だったろうけど、イメージに終わる。
楽な方へと記憶も身体も逃げたがるんだ。
「よくその格好…平気だな…あんたやっぱ何処か螺子外れてるだろ」
「ボルテクスの時の君にも云ってやりたいね」
「ぁ…あれはだな…っ、その、何か上羽織ってもすぐ駄目になるから」
「ああ、そうだね、あの頃の君は今以上に浅はかで勝手に転んでいたから仕方ない話だ」
「…おいっ!、あんた――」
「苛々すると暑くなるよ?フフ」
相変わらずの黒い外套を翻すライドウ。台詞に苛立つ俺の方が熱射病になりそうだ。
生地くらいは違うらしく、湿った草木の匂いがする風になびく黒は、冬の頃より軽やかだ。
裏地の紫が何処か藍に近い気がする。其処に涼を忍ばせているのか。
(ま、忍ばせてるのは武装だけどな…)
この男の本質を知る俺は、見目だけは品行方正の書生に改めて失笑した。
頭の上の学帽から、爪先の革靴まで…いや、黒いのは心もだろ?
「どうしたのだい、愉し気ではないか」
「何も、寧ろ不快極まりない」
「衣紋の抜きが足りないからだよ、いつになったら上手に着れる様になるのだい?」
白い指で俺の項をかすめつつ…衿をくい、と引っ張られた。
「おい…勝手に触るな!」
すぐに手で払い除け、睨めばニタリと哂っている。この性悪。
そして何故その指先はそうも冷たいのか、まるで悪魔の様に。あんたは人間の筈なのに。
「そもそも…どうして俺がこの時代に合わせて覚える必要が有る」
「この帝都を拠点とする僕の悪魔だからさ」
「ほざけ…好きでなったんじゃない……あっつ…」
自身が吐く侮蔑すら、熱をはらんでいる。遠くの雲は入道雲に近い。
その雲の麓を見れば、町の景観では無くなってきていた。
またこの男は…郊外まで出る気か。仕事熱心な事だ…
その妙な真面目さを、俺への態度に少しくらい注いで欲しい。
「今回は強敵だよ」
「火、通るんだろうな…無効か反射なら、俺はパスしたい」
「通るねえ、しかし燃してはいけない」
「何だ…生け捕り…封魔するのか」
「捕らえはせぬよ、そうだねえ…平たく云えば…」
青い夏空の下、翳る学帽から光らせた眼で哂うライドウが、続けた。
「生きたまま要らぬ手脚を切断し、綺麗に赤く咲き誇らせてやるのが今回の仕事さ」
その台詞で、ありありと場面が想像出来る俺もどうかしている。
「最悪…それなら一瞬で灰にしてやった方がマシだろ」
「おや、お情けかい」
「違う、人道的に、だ。悪魔とか関係無しに」
「半分踏み外しても誰も文句は云わぬよ、君は半分悪魔なのだし…ねぇ?」
「いちいち煩い」
「クク、煩くしている間に到着したではないか」
云われてから、突き当たりまで歩んだ事にようやく気付く。
「洋館…?」
あの大道寺とかいう家の屋敷よりは小ぶりだが、それなりの風情の建物が見える。
それよりも気になるのは…
「おい、勝手に入って良いのかよ!」
「そういう契約だからね、何も問題は無い」
外套から取り出した鍵で、鉄門をギイ、と開けたライドウ。
その錆びた音は、此処の出入りが頻繁で無い事を連想させた。
追いかければ、外から見えたままの…極彩色。洋館の豪奢さを打ち負かすその色。
「薔薇園…」
呟いた俺に、振り返るライドウが腕組みして哂う。
「ね?強敵だろう?」
「…何しに来たんだ、此処の家の人は?」
「僕が今開いた門は裏門…使用人とて此方には寄り付かぬ…というより、入れぬのさ」
また妙な契約でも交わしたのだろう。俺は考える事を止めて、単刀直入に聞く。
「で、俺は何すれば良いんだよ」
「何、簡単さ…邪魔が入らぬ様に見張っててくれ給え」
「は?それならイヌガミで充分だろ」
「人間が入ってくるかもしれぬからね。薔薇園以外の庭は、此処の庭師が管理している…人の気配に様子を見に来る可能性がある」
「どうして薔薇園はあんたが管理してんだよ、悪魔無関係じゃないか」
「有るのさ」
それだけ云うと、外套の襟を寛げたライドウ。ばさりと脱ぎ払い、俺に差し出す。
「ついでに持っていてくれ給え」
「な、それ…」
「ほら、早く受け取り給えよ、愚図」
胸のホルスターに、管とは明らかに形状が違う物が紛れていた。
ライドウの言葉にムッとしながらも、俺は眼で追う。
ホルスターを外し、長袖の学生服を同じ様に脱ぐ姿、何故か暑苦しさは欠片も無い。
白い長袖のシャツに黒いスラックスだけ、と。先刻よりは涼しい姿の書生になったライドウ。
受け取った学生服の襟にそっと触れたが、本当に僅かしっとりしているだけだった。
殆ど発汗しないのか?人間の癖に。汗すら白檀の香りだったりするのか?ファンタジーかよ…
シャツの胸ポケットに管を数本挿したライドウは、最後にホルスターから例の異物を取り上げた。
「さて、夏剪定の儀式といこうか?功刀君」
夏の日差しに銀色に輝くそれは、植物剪定用の鋏。
唖然とした俺は、しかし突っ立っているのも馬鹿らしくて、門近くのベンチに腰掛けた。
銃を指先で回す時の様に、くるりと持ち直して、刃先を緑の茎に向けるライドウ。
その後姿、シャツはほんの少しだけ背中を透かしている…
パチン、と、薔薇の手脚を切断する音だけが庭に響いた。
パチン、パチンパチン、迷いの無い音。
「そんな切って大丈夫なのかよ…」
「何処を切るべきかくらい心得ている、それにね、薔薇は案外逞しいのだよ…神経質な見目の割に…ねえ、功刀君?」
その声が少し哂いを含んでいて、嫌になる。何が云いたいのか少し解って自己嫌悪する。
ああ、そうだよな、俺の手脚を斬るのだって、きっと迷わないんだあいつ。薔薇と同程度なんだ、俺は。
溜息を吐いた俺が、退屈でそれを吐いたと思ったのか。鋏の音に交じってライドウの声が響き始める。
「美しく咲き誇る霜月に合わせ、暑い中剪定するのだよ」
白い指で掻き分けて、緑の茂みに埋まるあいつ。
「仕上げるからには、不恰好な花は赦せぬからね…か細い枝や懐の枝は、排除する」
そういう所は完璧主義者…
ぼうっと見ていれば、ライドウの過ぎた後は綺麗なシルエットになっている。
茂り過ぎていた緑が消え、他に咲いている薔薇がその隙間から顔を覗かせた。
アーチを伝う荊さえ、踏み台無しで鋏を入れるライドウ。そのすらりとした長身が妬ましい。
「本当、嫌味な奴」
ぼそりと呟く俺は、傍に落ちている葉を掃ってから、受け取った外套一式をそのベンチ上に置いた。
剪定作業さえ画になるなんて、おかしい。いつのまにか捲くり上げた長袖から覗く腕、しなやかな筋肉。
(薔薇背負ってるのはあんただろ…)
そういえば、大正時代には無い品種とか、俺の時代には在るのだろうか…
家の庭には無いものだから、流石に薔薇庭園は新鮮だ。
ケテルの庭園を、そういえばそういう真面目な眼で見た事は無かった。
今此処でようやく、薔薇をまじまじと見つめている気がする。
「どれを見ているのだい」
緑の隙間から眼を覗かせるライドウは、まるで荊の牢獄から俺を見ている様で。
「あ、その…其処の、薄いピンクっぽい奴…」
どきりとして、思わず適当な位置の薔薇を指す。
学帽のつばを少し上げ、俺の促したそれを見たライドウが、一瞬の思考時間で即答した。
「オフェリアだね…ハイブリットティの」
品種を云われても俺にはさっぱりで、そのハイブリットティとかいうのも紅茶の一種と勘違いしそうだ。
「政府が明治に取り寄せたとかいう…ラ・フランスよりは、好きかな…」
独り言の様に呟いて、作業に戻るライドウ。
俺にとってはラ・フランスといえば梨しか無い。
「Voici plus de mille ans que la triste Ophe'lie…」
何か謡っている。召喚の祝詞ですら無い。
「Passe, fanto me blanc, sur le long fleuve noir…」
遠くの蝉の声よりも、囁く様なライドウの声が俺の鼓膜を撫でる。
艶やかに謡うのに、その一方、払い除けた害虫はそのヒールで潰すのか。
確かに、近くに放るだけでは無意味だ。きっと、花にまた這い寄る。
それでも、殆ど害虫は居ないのか…哀れな蟲を目にしたのも、たった数回だった。
特殊な農薬でも撒いてるのか?どうしてそんなに蟲が寄り付かない?
「此処の娘もまさにオフェーリアさ…薔薇に逃げて死んだ」
庭園を一周してきたのか、俺の傍の枝に手を掛け始めたライドウ。
「僕が帝都に来てそう間も無い頃でね、同じ様な夏至の頃」
座ったまま見上げれば、珍しくその陶磁器みたいな首筋に水滴が滴っていた。
「荊が人を襲う怪奇が、探偵社に舞い込んできてねぇ…」
哂う横顔の視線の先、薔薇の花を壊れ物を扱う様に退ける指。
その指を見て、俺は呼吸を忘れた。
「叶わぬ恋に病んだ娘が、大輪の薔薇を抱えて水に身を投げた数日後からの出来事だった」
「その、指…」
「主を失った薔薇は、幾日も訪れぬ主人の姿を捜し、彷徨う…」
「おい」
「“今日も綺麗ね”“結婚したくない”“私を理解してくれるのは貴方達だけ”薔薇達はその声が聞けない…消えた主を求め、夜毎荊を伸ばす。屋敷の者を手当たり次第に戒める…」
「見せろ、っ…」
「注げば応え高らかに咲き誇る…そんな薔薇の姿に陶酔し、結局娘は逃げていたのさ、現実からね」
美しい薄桃の薔薇を俺は乱暴に退かして、その白い枝を手に取る。
白さを覆う赤みは、鉄の臭い。
「主が死そうとも、しっかり魂に呼応するとは…偉いだろう?此処の花は」
「昔話で麻痺してんのかあんた?馬鹿だろ…」
ベンチから身を乗り出して、掴んだ指は棘で血塗れだ。
此処の薔薇はおかしい、異常に鋭い凶器の様な棘。
「どうしてグローブとか、そういうのしないんだよ」
「此処の本来の主がそうしていた様に、との契約だから」
「誰だよ契約者は…そいつに同じ条件で一回させてみれば良いんだ…!」
妙な苛立ちに、口から焔を吐きそうだった。
そんなになるまで、優しい手つきで、どうしてあんたはそこまで律儀に…
「契約者が僕に従う限り、僕は主人として世話をする」
誰に対して、何に対して云っているんだ…この男は、今。
「害虫が寄れば殺す、理想の花に成るまで見放す事はせぬよ」
蝉の声が酷く遠い…向こうに見えていた入道雲が解れてきている…
「功刀君、解る?これは契約なのだよ」
する、と、薄く血で滑った指を、俺が握った指先から抜いて哂うライドウ。
「語りかける言葉が呪いとなったのだろうね、悪魔は人の気から生まれる事もある」
胸ポケットの管を撫で、ライドウが召喚した。
薔薇園に紛れてしまいそうな悪魔。
『あらぁ、今季もしっかり咲かせてくれてるのね、ンフフ』
いつもの様にライドウに身体を絡ませるアルラウネ。
ライドウは鋏の刃先を、アルラウネの眼元に潜らせた。
「よく見えぬだろう」
一瞬眼でも抉るのかと思い、身構えたが…断ち切ったのは眼元の荊のみ。
俺からはよく見えないが、夏の陽に曝されたであろうアルラウネの眼が園を見渡していた。
『本当…ワタシの頃よりも綺麗で妬けちゃうわねぇ』
「僕の血も吸っているからではないかな?」
『んもう!相変わらず贅沢な子達』
此処の主が…誰だったのか…鈍い俺でも推測だけは出来る。
身を乗り出したまま、その会話を唖然として聞いていた俺に、ふと気付くアルラウネ。
『あら人修羅ちゃん、見てくれるの?どう?この薔薇園、素敵でしょう?ンフフ』
ふわりと掛かった前髪で、その眼はやはり見えなかった。
「何処かの誰かみたいで…ケバいです」
ベンチから立ち上がりつつ云う俺に、荊を震わせたまま笑顔の口元で憤慨する悪魔。
『んまあ!失礼しちゃう』
まだ誰とは云ってないのに。
「お前はどれが一番好きだったか…」
枝垂れ掛かるアルラウネの耳元で囁くライドウに、悪魔が微笑む。
『もうずっと、昔からアレよ』
「だろうね、死ぬ時も抱いていたそうだし?」
アルラウネの指した薔薇に歩み寄るライドウが、鋏を指先で躍らせた。
「失礼」
ライドウの一声の後、パチン、とひとつ鋏が啼いて、薔薇の介錯が終わる。
「満足かい?オフェーリア」
薄桃の薔薇を、アルラウネのたゆたう髪に、す、と挿す…
『ええ、とっても……』
「契約更新かい」
『当たり前でしょう?まだまだ咲けるわよ、ワタシ』
「では、今後とも宜しく」
『愛してるわ、ライドウ』
「僕は此処の薔薇ではない…言葉より咲いて示して御覧。ではね…“ショウコ”さん」
蚊帳の外の俺は、ただただ黙っているだけ。
管へとアルラウネが消え、ようやく妖艶な…女性的な香りが鎮まる。
周囲の薔薇の薫りが、夏草の青さと混じる、とても湿った夏らしい薫りだけになった。
視線を俺に戻したライドウ、シャツの襟を少し開いて云う。
「さて、仕上げに水でもひと撒きしようか。屋敷に少しばかり訪ねて来るから、君は大人しく――」
「いい…俺がやるから」
歩き出そうとしたライドウを、俺は引き留めた。
「君が?…フフ、水も無いのにどうやってだい?」
考えるより先に、このどうしようもない胎に渦巻く熱を冷ましたい。
失笑するライドウの前に出て。広がる薔薇の海を見渡した。
薄桃、紅、黄、純白…緑の編み籠に放られた飴玉の様で、甘ったるい芳香も近い。
「今度はあんたが見張ってろ」
それだけ云って、神経を両腕に集中させる。
「まさか君、燃さないだろうね?」
ライドウが背後で殺気に近いそれを纏った瞬間、俺は解き放つ。
涼を得る為に呑んだマガタマが、慣れぬ冷気を生む。
俺の腕を纏うものが、焔とは真逆である事に、ライドウは少し驚いた様だった。
「珍しいね、君が氷を纏うとは」
「夏だろ今…得意分野とかそんな事、云ってられるか…」
息を吐いて前屈みに息衝く俺が、体勢を戻しに視線を上げようとした瞬間。
「いぃっッ!?」
脳天を金属質な何かで叩かれ、俺は悲鳴した。
振り返れば、鋏の刃先を指にしたライドウ。恐らく、ずっしりとした掴みの部分で俺を叩いたのだ。
「何だよあんた!人が親切心でやったってのに!」
「何も調節出来てない、前を見給え」
促された先、見て一瞬ヒヤリとした。冷房なんて要らないくらい。
すぐ眼の前の薔薇は氷漬けになって、白く冷気まで発している。
「これでは凍傷を起してしまうよ…全く、余計な事してくれるね」
他を見渡せば、どうやら重傷は眼の前の一角だけ…他の薔薇は予定通り、薄っすらと霜が付く程度。
この暑さなら、霜はすぐに水になるだろう。
「…謝らないぞ…いつも俺に焔ばっか使わせてるあんたの責任…だ」
ぼそ、と後ろめたさを感じつつも呟く。
「別に他の属性を使うな、とは云ってないが?」
「慣れない事して、今みたいにしくじった俺を…蹴飛ばす癖に」
傍の凍った薔薇を見る。薔薇自体には申し訳無いが、それでも何処か気分は晴れやかで。
…ざまあみろ、と、そんな言葉が込み上げたが、それは嚥下した。
「俺より此処の薔薇扱う指の方が優しいしな、あんた」
だって、同じ“契約”の筈なのに、俺より薔薇の方が遥かに丁重に扱われている。
散々あんたの血を啜った茨を見て、口が勝手に罵り始める。
「こんな呪われた庭、朽ちれば良い…悪魔まで生み出した訳だし…」
ミアズマ、何も効いてないじゃないか。胎の熱を鎮めろ、早く。思い込みでも良いから。
「庭仕事しに帝都来たのかよあんたは?アルラウネにそんな入れ込んで、案外あんたが此処の女性の事を――」
吐き出している途中で、胎を蹴られた。害虫を潰したヒールで、俺を。
「へ、え…げほっ、げふ……図星?…そりゃ、ゾッとする、な」
違う、こんな事吐きに来たんじゃない。
律儀に薔薇を剪定するあんたを…薔薇に逃げた孤独な娘を…貶めたい訳じゃない。
「僕から他者に向けて、恋慕の情は抱かぬ。云ったろう?契約、とね」
何でもそれに託けて、あんたはいつもはぐらかす。
「僕は手の掛かる厄介な花が好きなのだよ」
倒れるままの俺を跨いで、覗き込んでくるライドウ。
「他の奴には咲かす事の出来ないソレを咲かせた瞬間、その薫りに酔いしれるのさ」
暑い…袴が脚にへばりつく感触がする…
「……功刀?」
「暑、い」
思うままに述べれば、少しの間の後、くつくつと身体を揺らすライドウ。
「まさか君、熱中症かい?悪魔の癖に…クク…滑稽…」
炎天下、そういえば帽子も無しでベンチに居た訳だ。
哂うライドウに反論する気力も、その事実を受け止めた瞬間から失せた。
情けない自分に今度は苛々して、早くこの薔薇園から出たくなって。

「…本当に…燃してやれば…良かった…」

邪魔な疎ましい角を石畳に平行に添わせ、横を向いたままぽつりと零した。
何が俺を、そんなに暑くさせていたんだ。
薔薇に優しいあんたが腹立たしかったのか、俺の知らないあんたが見えて苛立ったのか…
そんな傷だらけの指で、まだ水を撒くとか云い出したあんたに……
「ねえ、功刀君、棘の象徴するものが何か、知っているかい?」
俺の零した言葉の後、ずっと黙っていたライドウが喋り出す。
俺の眼前に、すらりと指を伸ばして…哂った。
「“罪”だよ…」
その声に、ゆっくりと視線を流す。血塗れの指先が俺を抱き起こす。
「育てる為に…主人の勝手で剪定と称し身体を削ぐ、薬を、血を注ぐ…美しく咲く姿の為だけに。それは罪…」
「…ぅ」
「そう解釈すれば、この指に刺さる荊は然るべき事象という事になるね?」
せめて擬態だけでも、と思い、俺は吐息と共に角を打ち消した。
呆れて鼻で笑うライドウ。
「それは品種改良とは云い難いな」
「ん…」
横たえられた俺は、陽射しが無い事に気付いて眼を凝らす。
頭上に跨るのは薔薇のアーチ…その上は青い天井…囲む雲は綿みたいだ。
遠くで鍵の音がする。
(施錠音…?)
もしかして、置いて行かれたのだろうか。
閉じ込められたのだろうか、この緑の檻に。嫌がらせか、無能な俺への。
(最悪だ…)
回らない頭、うだる暑さ、薔薇のむせ返る匂い。
もう、このまま失神してしまいたい、熱射病に託けて…

「折角だから、涼を得ようか、功刀君」

下ろした瞼を、すぐに上げる羽目になった。
「ヒィイイッ!!??」
素っ頓狂な悲鳴を出してしまったと、自分でも思う。
何かと思えば、俺の胸元、着物の袷に降る…凍った花びら。
「ク、クククッ…ほらどうだい?君の作った氷菓だろう?」
俺が先刻凍らせてしまったそれを、上からライスシャワーの如く降らせるライドウ。
米どころか、凍った薔薇な訳だが。それが素肌に触れた瞬間、当然反射で身体は跳ねた。
「て、て…てめっ、この…ッ!心臓に悪いだろうが!」
「凍った薔薇なら、庭から頂いても構わぬと思ってねぇ…」
上半身を起す前に馬乗りされて、俺は更に身が竦む。
「ほら、暑いのだろう?」
俺の袷を開く指先、衣紋は抜くどころか、全開にされた。
外気に曝された肌、更に更に、羞恥で熱が篭る。
「っ、の!!」
指先を避けて腕を狙ったが、ぱしりと受け流されるままに膝頭の下に押さえつけられる。
「馬鹿!馬鹿だろあんた…此処何処だと思ってるんだ!」
「施錠はしたよ?」
「誰も見張ってないだろっ」
「見張りが居れば構わぬのかい?」
「ち、違…!駄目だ!駄目…ん、ぐぅッ」
まくし立てる俺の唇に、ずるりと侵入する指。甘い…血の薫り…
「咲いてくれると約束するなら、君も吸って良いよ?」
眼を見開いて、その暗い双眸を睨みつける。
その一方で…俺の舌は…何をしている…
「ん…んっ…ふ」
何をしている…ああ…アツイ…アマイ…MAG…感じる…
「は、ふ、ふーッ…ん…んちゅ、ぷ」
焦点が定まらなくなってきたのは、好都合かもしれない。
そんなおかしくなった頭でしている、素面じゃない。そう云い訳出来るから。
「どう、美味しい?」
「んぷぁ、っ」
外された指、酸欠気味の俺は、やはり苛立つ声で。
「はぁ…っ…は……薔薇に吸わせた分、吸わせろ…っ…」
文句すれば、ライドウは妖しく哂って俺の帯を解いた。
別に、その手段で、とは誰も云ってないだろ、この変態。
でも、暑さが紛れて…熱と、この甘い爛れた空気と一体化出来るなら、もうそれが楽だと思った。
胸の上、薄く凍る花びらを融かす様に、ライドウの舌が舐る。
俺の乳首の…丁度上なのは、確信犯か、偶然か。
「……っ……ひ」
氷が融けただけ、感覚が鋭敏になる。花びら一枚隔てただけなのに、それが酷く淫猥で。
「っあァ」
花びらごと噛まれて、思わず声を上げた。
そのまま喰い千切られそうな恐怖と、ぞわりと這い上がる堕落の感覚。
「花びら、退かしても、同じ色をしているよ」
ライドウの吐息が、濡れて敏感なそこにかかり、頬が熱を持つ。
「の、ぼせる前に…さっさと済ませ…ろ」
「フフ、着物、はりついてる…君の少ない人間の要素が出した汗で…」
袴が引っ掛かりながら、引き摺り下ろされる。
「あっ……う、うるさ、い」
「遠くに鳴く蝉よりも?」
「煩い、ああ、煩いさ、あんたがうるさ――ぁ、嫌ぁ、やめッ…ん、あぁ!」
お前が一番煩いだろう?とでも云わんばかりの笑みで、俺を見て哂うライドウ。
その口は俺の下肢の中心を嬲り、舌は薄布を隔てたまま…舐め上げている。
またもや微妙な感覚に、背中が反る。足先が強張る。嫌な汗が…出る。
「下着、濡れる、っ、やめ」
「もう汗だくなら…関係無いだろう?」
「最低だ、っあ、俺は、俺は別に、こんな行為――…」
自由になった両手で、その頭を押し退け…た筈が、学帽を飛ばしただけに終わる。
俺を舐め上げながら…こっちを見つめるその貌が鮮明になった。
しっとり濡れた黒髪が、少し乱れている。その黒い紗が掛かった肌は、いつも通り白いが…
熱にうかされてるからか、流石のこの男も暑いのか。頬の血色が良い。
その嫌になる色香に、ぞわぞわと俺は縛られ、見えない荊に戒められた気分だった。
「別に……何?」
「別、に…MAGが…喰いたいだけ、で」
「我儘だね…僕にも吸わせてよ…喉、渇いてるのだよねぇ…ほら!」
「ひ、あっ、ああっあっ、あ!」
断続的な喘ぎ…指に梳かれるソコに、呼応するみたく啼く俺。
下の布を横に退けられ、しごかれそそり立つ醜い欲の象徴、俺の恥。
自分でもそんな強く扱った事は無いのに。
「ああ、そういえば…薔薇に嫉妬していたねぇ…功刀君は」
「し…嫉妬、だって…ざけんな…あ、ぁ…植物、に、俺が、んな…あ」
愉しそうに哂ったライドウは、もう片方の指を添える。
「薔薇にした様に、優しく扱えば悦ぶのかい?」
枝を撫で摩り、根元の膨らんだ蕾をやんわりと揉み解す。
その瞬間、此処が何処なのか、そんな事実は脳内からはじき出された。
「んっ、ぁあ…んっ、ぁ、あ、ァ」
痛みからの喘ぎでなく、明らかに判る…多分、嬌声というもので。
自宅の庭から稀に聞こえてきた猫の交尾と思わしきそれに、呆れていた昔を思い出した。
「功刀君…フフ…あられもないねぇ…さてどうしようか」
「はぁ、は、あ、あぁ」
優しい指は凶器だ。じっとり追い詰められる。背の石畳を指先で削らんばかりに引っ掻いた。
「ねえ?君…出るのは、汗だけ…?」
もう、いじられすぎて駄目になる――
「花っ、そんな、触ったら、駄目にっ…なるだろ…!」
上の薔薇の絵画へと視線を逸らして、天に叫んだ。
「さっさと…呑めば良いじゃないか…!もう…早く終わらせてくれぇ…ッ」
顔を覆って、透過してくる僅かな陽射しさえ遮断したくて。
違う、顔を見られたく無い…きっと恥ずかしいくらいに、崩れてるから。
汗で?それとも、快楽に滲む涙でか?
「いつ出るのだい?判らぬから、このまま指に零しそうだね」
「…っ、はッ」
「そうしたら君、喉を潤せぬ僕はどうしようか?ねぇ…再度強請る?それとも…」
閉ざした視界…声だけで俺は、ライドウの意地の悪い哂いを脳裏に描いた。
「凍れる薔薇で喉を満足させてしまおうかな…君の蜜などに頼らず…クク」
俺以外で、事足りる、と云いたいのか。
(嫉妬じゃ、無い)
追い上げてくる指先が、花を手折るそれの様に、ゆるゆると強くなる。
(違う、違うんだ、これは)
「あ……お…俺…っ」
白む視界は、眩しい陽射しが反射する薔薇の葉の光沢の様で。脳内で眼が回る――
脚が突っ張る、指の隙間から眼で訴えてしまう。

「い、クっ、いくっ、ライドウっ、あ、ア」

馬鹿は俺だ。
零されるくらいなら、宣告したいと思ってしまった。
震えるそれを聞いてニタリとしたライドウは、濡れた唇で俺を呑んでいた。
嚥下の為に蠢くその白い首筋から伝う雫は、汗か…俺のアレなのか…判断が出来ない。
吐精と自己嫌悪に放心して、浅く呼吸していると…唇を離したライドウが舌なめずりして覆い被さってきた。
「見てるのだろう…腕、外し給えよ、無意味だ」
「…喉……潤ったかよ…この変態野郎」
「そうだねえ、君が稚拙な台詞ながら教えてくれたからね。一応呑めたよ、零さずに」
腕の手首を掴まれ、そのまま頭の両脇に退かされる。
「与える代わりに、咲いてくれる契約だろう?」
「…放せ…見るな」
「一番染まるのは頬…隠すで無いよ…」
あんたをそんなに汗ばませるのが、見知らぬ女性の庭なのか。
それとも、女性に向いてたのか、あんたの意識が。
「見るな…」
「泣いているのかい」


悔しい


「…き…」
あんたは、俺と同じで、諦めてたのだと、そう思っていたのに。
人間の異性との、色恋なんて。
「き、気持ち…良くて……生理的に、出たんだ、それだけだ」
そんなの、もう望めないと。人間に戻れたら、叶うかもしれないが。
それまではあんたが、あんたこそが俺の鏡で、ずっと独り身なんだと。
「本当かい」
「…ああ」
「なら、もっと吐いて御覧よ、善がって、善がり狂って御覧よ、気持ち良いのだろう?」
「う…」
「可笑しいねえ…薔薇に中てられたかい?潔癖だった君は何処に往った…?フフ…」
涙の理由を勘違いさせたくて嬌声を上げる俺は、薔薇に既に狂わされている。
侵入してくるライドウの熱は、身体の温度を更に上昇させる。
どうせ善がってると思われてるなら、と。流れる涙も止めずに。イカレた奴みたく。
ライドウの肩に乗せられた俺の脚、ひたりと吸い付く互いの汗、シャツ…
挿入が深くなると、頬が、呼気が、全てがアツクなる――
石畳を一定のリズムで擦る刀の鞘の音。帯刀したまま俺と繋がる俺の主。
遠くからの蝉の声は、落ち始めた陽に間延びし始めている。
「外の方がっ、興奮するの君っ…フ、フ…ッ」
「違、ちが…う、ぁあぅあ」
抉られる痛みは快楽に錯覚して、このうだる暑さの中、薔薇の薫りに催淫されたと誤魔化して。
「ほら、云って御覧よ…」
耳元で云われたら、もう、咲くしか無い。
「も…も、っと…っ」
きっと、此処の庭の主は知らなかったであろう名を、叫んでやる。
ライドウと、胎の中で契約した時に、刻まれたその名を。
「ぁ、ぁぐ、よるぅ…ッ」
蕾が千切れそう…
「欲しいんだ夜っ、くれないと、俺、枯れるっ、乾涸びそうなんだッ――」
「なら、もっとしっかり開き給えよ…!」
その狂気に充ちた哂いにも、俺に向けられる欲望が滲む。
急かす律動に腰を振る、その乱れた前髪からぱたりと零れた雫が、俺の舌に垂れる。
それにすら混じるMAGが、塩より砂糖に錯覚させる。
犬みたいに舌を突き出す俺は、何かを口走っている…何なのか、理解もせずに吐く。
「んっ、あぐ、あゥ…嫌、あっ…熱い…アツイぃ…」
一段と強く脈打って、俺に注がれる体液。
薄暗い気持ちと、妙な充足感…
奥から犯された感覚に、俺は身体を痙攣させながら…引き攣った笑みしか浮かばない。
「…は…あ……は…ァ…さ、最悪…」
いよいよ脳内まで蕩けたのか、そこからもう、記憶が飛んだ…





『最悪は我の台詞ぞ』
髭をひくりひくりと震わせて、黒猫が河辺の巨石に丸まった。
木陰に涼やかなせせらぎの音、先刻の灼熱とは打って変わって、此処は冷えている。
「人修羅、気付いて居りませんでしたね」
『全く…何故黙っておった』
「貴方様が居ると知っては、人修羅は警戒を怠りますでしょう」
『確かに…そ奴は他に任せる癖が有る、が!しかしだな!』
山に近い郊外ならではの河…悪魔の気配も無い、寂しい処。
冷たい岩の上に、すっかり茹で上がった人修羅を寝かせる。
庭の手入れも終えた事で、近隣の水辺で小休憩をしている所…
熱の所為か何の所為か知らぬが、失神した人修羅。それを抱えて歩くのは、そう苦でも無かった。
彼がいくら強くなろうが、筋肉は特に発達しない。魔力に依存したその躯。少年の柔らかく薄いそれ。
『お主が内側から施錠した時は、何かと思ったわ』
「フフ、驚かせてしまいましたか、申し訳ありませぬ童子」
外部の見張りをゴウト童子に頼んでおいた訳だが、僕は止まらなかった。
君が躍り出た時、てっきり薔薇達を燃すのだと思い…加虐の予感にぞくりとしたのだが…
君が放ったのは氷であり、君を虐げる事で鎮まる予定だった僕の熱は、行き場を失った。
そう、だから抱いた、ただそれだけ。
『よく聞こえなかったが…いや、聞きたくもないがな、その…何だ』
「はい、何でしょうか」
『ライドウ、お主…その、強姦、なのか』
「……はい?」
『ちらりと見えた人修羅の顔、その…妙に泣きじゃくっておったろうが』
「フフ、まさか」
靴を脱いで、裸足になり浅瀬に遊ぶ僕は、黒猫に哂った。
「人修羅が勝手に勘違いして泣いていたのですよ」
『勘違い?』
「まあ、いつも強姦まがいのセックスでは御座いますが」
『おい…!よくもそう…この…痴れ者め』
冷たい水を蹴って、鳴くゴウトを無視して哂う。少し深みへと臨む。
(よく云う、僕の里での扱いを知っている癖に)
このまま突き進んで沈んだならば、娘の霊にでも会えるのだろうか。
いいや、薔薇の化身と化した今、分霊は消え去っているのかもしれない。
『あれから二年近くは経ったか?』
「そうで御座いますね」
黒猫の眼は、遠くの洋館…先刻まで居た庭先を見ている。
『何故お主は…何かしら、惹き付けてしまうのだろうな…十四代目…』
「さあ?一応容姿に自信は有りますがね」
『……そのまま潜って頭でも冷やせ、このたわけ!』
「フフ、道化で結構、いっそ水の精と戯れてみせましょうか童子」
管をスラックスに挟んだまま、云われるままに潜ってみようかと実際思案したが…
それを止め、ふと、寝そべる人修羅を見た。
(“気持ち良い”から…?嘘を吐くな、功刀)
あの時、縋ってきていた、明らかに。

確か、悪魔の討伐依頼で…最初赴いたのだったか…あの屋敷に。
それから薔薇と共に贈られてくる恋文の嵐。
婚約者が居るでしょう、と、なだめようが消えぬ恋の焔。
嗚呼…あの頃に人修羅が居れば、あの恋文と薔薇を彼に燃させていたのに。
「僕なんかに惚れるから、ねえ?薔子さん」
此処で沈んだ彼女に贈る言葉は、この程度だ。
一方的な恋慕は、破滅を呼び易い。しかし、その強い想いと薔薇の気のお陰で生まれたアルラウネを使役する今が有る訳だが。
それとこれとは別…僕は誰も恋慕しない。彼女に哀れみや感謝はすれども、愛は無い。
(でも、彼女のお陰で珍しいものは見れたな)
庭を見ないで自分を見ろ、とでも云わんばかりの憎しみの涙。
(面白いから、あのまま勘違いさせておこうか)
既にこの世には居らぬ女性に嫉妬し続けるのか、愚かしい。
人修羅は、僕を憎む一方で…何かしら共通のものを求めている。
今の姿では伴侶を得る等不可能に等しい君は、焦ったのだろうね…
「大丈夫さ…僕と君と、異性を愛せない理由は違う、僕にこそ可能性は無い」
深い処…裾を上げた筈のスラックスが濡れる。振り返ってみると…涼む童子は、欠伸をして野辺を歩いていた。
「君は人間では無いから、それを怖れている」
暗い蔭りの水から、夏の青い空を見る。まるで遠い世界の様だった。
「僕は、この血を残したくないから、それを望まぬ」
己の指先を見た…罪に戒められた傷だらけの指。生まれてからずっと絡みついているかの様だ。
どれだけ殺してきたろうか、それが具象化しただけだろう、今のこの血塗れの指は。
人修羅にだって、使役し始めてからは、殺戮を強要してきた。
それだというのに。
見せろ、と、先刻包んできた君の指先が…今でもはっきりと、思い出せる。
羽交い絞めにした時、僕を払い除けた君の手が、この指先を避けたのを認知している…
「暑い」
冷たい水にばしゃりと浸し、傷口に沁みる痛みを味わう。痛みこそが生命の感触。
先刻…甘ったるい薫りより何より、あの君の嬌態でおかしくなりそうだった。
もっと与えて良いのか、もっと嬲って良いのか、何処を斬って良いのか、撫でて良いのか。育て方が解らなくなる。
だって、あの品種は僕しか知らないから、教科書が無いのは当然。
「暑さの所為にしたいのは、僕の方かな…フフ」
次の季節…人修羅は、剪定について来るのだろうか…
また、咲いてくれるのだろうか。
「また、薔薇の氷菓が食べたいね」
子供が親に強請る様に、そっと君に向かって呟いてみた。
(花を抱いて水に沈めと云われたなら、君を抱いて沈んでみようか)
馬鹿げている…これこそ一歩的ではないか…契約外……
が、君なら頷く…そんな気が…する…
「そろそろ荊姫でも起そうか」
独りごちる、蝉の声が烏の声に変わりつつある夏の午後。
冷えた深みからざぱりと歩み寄る。
人修羅…まだ君は陽の下に居るよね、半分程度。
僕は、やはり違う。
夏の空気より、己の内部が熱過ぎて…この心を曝す気すら起きやしない。
草木が陽に薫る空気と、血肉焼け焦げる赤い熱気は、全くの別物だから。
すべて曝せる者が伴侶と云うのなら、僕は死ぬまで独り身だ。
子を作るなんて、言語道断だ…
(身元も判らぬ馬の骨だし、ねえ?)
視線の先…その棘に毒を湛えているであろう、僕を破滅に導く花。
魔の花弁が全て剥がれ落ちれば、人間の君が出てくるのか?
すればきっと、僕を残して飛び立つのだろう。
契約は必要無くなった、と。


悔しい


赦されるものか。
最期まで咲かせたら、摘み取ってしまいたい。
その、希望の芽も、すべて僕の掌に。
咲きそうな寸前で、他に盗られたなら、その時は…
害虫に触れられた箇所を、剪定してしまおうか、矢代。
(きっと迷い無く、刀を振り下ろせるさ…僕ならば、ね)
僕の記憶にだけ、一番鮮やかに咲けば良い。
咲いて君だけ昇華するなら
いっそ徒花の様に散らしてやりたい――…


夏の陽が落ち往く。気分の良い時間が来る。
悪魔も人も、暗き天に口を閉ざす…僕が溶け込み、息をする刻限…帝都の帳。
そう、この静寂の為に、十四代目をやっているのだ。
遠くの蝉の声も消え、眠る君の瞳が…そっと金色を紡ぎ出す。
闇夜に揺らぐ、満ちた月光の色…水に佇む僕の方を真っ直ぐと…射抜く。

「お早う、功刀君、もうすっかり暗いよ?この愚図」

ほらね、君に似合うのは、やはり夜なんだ。

初夏のRhodonite・了
* あとがき*
徒花の少し前頃の話。なので、少しばかりライドウの感情に伏線が有ります。
趣味人ライドウ、だらりと連れられる人修羅。夏の陽射し、薔薇の薫り、汗の甘さ。
アルラウネは、薔薇が意思を持ち悪魔化したという設定です。蝶どころか(SS『蜜猟区』参照)今度は植物に嫉妬する人修羅。暑さの所為にして快楽に流される。 異性の想い人を持てぬそれぞれの理由を提示してみたかった。
表題のRhodonite(ロードナイト)は「薔薇輝石」の事ですが…rhodo=薔薇(ギリシャ語)、nite=night(夜)と掛けまして、薔薇と夜を含ませました。無理矢理ですね。

《冷蔵庫》
大正時代にも有ります、氷室に近い使用法ですが…アンティークな木製、真鍮の金具のとても素敵な逸品。
《オフェリア》
HT(ハイブリットティ)種、1912年作出、イギリスの薔薇。淡い桃色。作中ではシェイクスピアの「ハムレット」に出てくるオフェーリアと掛けてます。恋に狂い死んだ女性。 ライドウが剪定しながら歌ったのは、ランボーの詩「オフェリア」の“千年以上も前から…”のくだり。ランボーを歌わせるのは、此処のライドウがデカダン派好きのイメージの為。