三月狐のお茶会

 
  ねえ、死んでくれる?



 「やだ、眉唾ねえ」
 「本当だってば、先日は女子のお手洗いから…聞こえてくるんですって」
 「よくある怪談でなくって?」
 「あ…」
廊下で会話する女学生の傍を通過する。
珍獣でも発見したかの様に眼を釘付けにし、僕を射る。
止まった会話が、教室の引き戸に手をかけた際にようやく再開していた。
がらりと乾燥した音を引き摺り、開けた空間を見やる。
席を探す必要は無い、退室し易い様に一番後ろの廊下側と相場が決まっているからだ。
「…葛葉さん」
「おぅ、葛葉…」
教室の数名が、僕とその席を交互に見る。
理由は明白である。
「其処は僕の席なのだが、御嬢様」
つかつかと眼の前まで行き、机の面をかつかつと爪先で叩く。
すれば、頬杖をついて蒼い眼をした少女がにこにこと微笑んだ。
僕の席に居座ったまま。
金髪の色も柔らかな、異国の者。
「There is no sense in standing when there are seats available.」
ころころと鈴の様な愛らしさで、僕に首を傾げて述べる。
「上手く聞き取れなくて、何を話しているかよく判らないんだよな」
「最近、葛葉さんの席にいつの間にかやって来ては座ってるの…」
周囲の声からして、この少女が学校の関係者で無い事は確定した。
我関せず、と、笑顔のまま脚をぶらぶら、愉しげな少女に再度問う。
「You're in my seat.」
「Where have you been?」
「I have been to anotherworld.」
異界だ、実際。
そう思いつつ答えれば、異国人特有の蒼い反射の眼をぱちりとまばたかせた少女。
「申し訳無いが、早退する」
僕の突然の言葉に、周囲は驚く、とまではいかぬが確認してくる。
折角登校したというのに、席を取られていただけで憤怒し帰還するとでも思ったのだろうか。
「大丈夫だぞ葛葉、放っておけば授業の頃にはふらっと消えるんだその子」
「ここ最近、日毎訪れる…迷子という事だろう?」
ちら、と学帽のつばを押し上げ、様子を窺う。
身形は良い、綺麗な深い藍のワンピース。
レェス細工の首周りが、黒いリボンの揺れる影を鮮明にしている。
「晴海の大使館に連れて行く」
「んな、先生方に任せればどうだぁ?」
「近くに用事もあるのでね、もののついでだよ」
適当に答え、机から離した指先を少女に差し伸べる。
正面に貌を捉え、恭しくも微笑んで誘ってみせた。
「I was wondering if you'd like to “A Mad Tea-Party”?」
はっとした少女が、ぶらつかせていた脚をぴたりと止める。
艶やかに磨かれた黒いストラップ靴を、そのまま床板に下ろす…が。
「Wait a mo.」
ぴしゃりと唱え、膝を曲げる僕。
鞄を首に回し掛け、少女に背中を明け渡した。
「Come over here.」
そう呼べば、すぐに背中に圧がかかる。
項をくすぐる金糸と、弾んだ吐息が確認出来たところで、腰を上げる。
「葛葉…お前面倒見良いんだなぁ、意外と」
「別に、居座られても面倒なだけだからね…それに校内は土足厳禁だろう?」
「授業でやってようが、英國語ぁよく分からんな」
「僕は授業もまともに受けておらぬが?フフ…」
哂って背負うまま、開けたばかりの扉を潜る。
軋む廊下には、桜が滲む白い陽が射し込んでいた。
気候も温暖になって、いよいよ進級かというこの時期…
僕は相変わらず管を揮って悪魔を駆っていた。
そっくりそのまま、空席が次なる学年へと移るのみかと思っていたが。
「葛葉さん!ちょっと良いかしら!?」
海老茶の袴でずかずか迫り来る怒声、それに背後から呼び止められる。
「不登校が祟って訪れた座敷童子ではないのかしら?」
振り向かず、鼻で哂って足を進めた。
「随分と西洋骨董人形じみた座敷童子ですね」
「その娘を理由に早退?」
「おや、進級も決定しているのに、登校日数を今更稼ぐつもりはありませんよ」
「如何して貴方は真面目に通っていないのに、進級出来るのかしらね!」
「カラスのお陰ですかね」
風紀を乱す僕の様な存在が赦せない性質なのだろう、この女学生。
引き止める学友を跳ね除け、銀楼閣まで訪ね来た事もあった。
「カラス…?何を云ってらっしゃるのかしら、学校と何の関係が?」
「“カラスが書き物机に似ているのは何故?”」
「え…」
女学生へと逆に訊ねた瞬間、背中の少女がくつくつと体ごと奮わせた。
…そう、笑っていたのだ。
「答えは“note”&“flat”」
「ちょっ、葛葉さん!待ちなさいな貴方!!」
「では、お先に失礼」
脚を早めれば、後方から憤りの溜息と吐き捨てられた言葉。
「あんな人が居るから、最近サボタージュする生徒が――」
その声が小さくなって、どうやら撒けた事が判った。
(数名サボタージュしたところで、僕は即座に気付かぬよ)
予鈴が鳴る、廊下から波が帰るかの如く人の気配が消え失せて往く…
無人のがらんどうとした通路、静かになったところで、歩きながら背中に哂い返す。
「いい加減、この国の言葉で話したらどうだい」
昇降口が見えてくると、ようやく返答が来た。
「どーしてバレちゃったの?」
「日本語の会話に反応し過ぎだ」
流暢な日本語で、その鈴の音は、続けて背で鳴る。
「ねえねえ、この国って《不思議の国のアリス》あったんだ?」
「金の星社の《不思議国めぐり》として有るが…僕が読んだのは原書《Alice's Adventures in Wonderland 》だよ」
「ふぅん、どーりでペラペラな訳ね」
己の下駄箱を見る、縦長の其処を開け、刀や装備一式を取り出そうと背中を曲げれば…
「やだ、まだ降りたくない」
少女の華奢な脚の下に回し入れた腕に、駄々の律動。
「ならば此処に寄り付く事はせず、勝手に晴海に帰り給え」
「私、晴海んとこの子じゃないもん」
「英國辺りの者だろう、問題を起こされ国家間の厄介を生んで頂いては困るのでね」
「なんでお兄ちゃんがそんな事気にするワケ?」
「仕事柄さ」
「不良書生さんじゃないのぉ?」
構わず腕を引き抜けば、首に回された細い白腕で絞まる。
ぐぐ、と僕の首を、学生服の詰襟ごと。
「ねえ、ほらお兄ちゃん」
ぶら下がり、体重で絞め上げられてゆく、圧迫されゆく喉。
「しっかりおんぶしてくれなきゃ、このまま絞め殺しちゃう」
「我侭だね…御嬢様」
「“アリス”で良いわよ?」
「ではアリス、お送り致そう。もう現実に戻り給え」
踵のやや高い革靴に、薄足袋の爪先を入れる、負荷が片脚に一挙に押し寄せる。
ぐらつく姿勢に、背中のアリスが胸を弾ませ、笑った。

「じゃあ、私の現実にしちゃお」

全身が粟立つ感覚、瞬間、下駄箱に腕を突っ込む。
空いた腕でアリスの細腕を鷲掴んで、投げの要領で上体を勢い付け振るう。
「きゃはっ」
ばりばりと詰襟を裂く幼い指先、振り切れないで、宙に舞いつつ首を裂いてくる少女。
未だ僕の首を繋ぐその肱を、下駄箱から回収したそれで断絶する。
抜刀と同時に斬り上げ、瞬間首に纏わり付く圧が弱まった。
鮮やかな鮮血を断面から滴らせ、アリスは笑って宙返りし、着地した。
「土足禁止だよ」
云いつつ、ぎゅうぎゅうと未だ引っ掻き絞めつける手首を、毟り取って彼女に投げつける。
両腕を、抱っこでも強請る子供が如く差し出すアリス。
ふわりと磁石の様に惹き合った手首が、ゆるゆると断面に結合した。
「靴だって良いでしょ?さっきと世界が違うんだから」
「弓月の君を不思議の国にしないで頂きたい、アリス」
「うふふっ、ねえねえ、実はずっと待ってたのよ?お兄ちゃんの事」
べちょり、と湿った音を立てながら、再生する腕は既に指先が踊っている。
愉しそうに組み替えられる指が、薄っすら薔薇色の頬に添えられた。
「いつもいつも、あの席、空だったから気になってたの」
背中が熱い、恐らく一太刀浴びせられたか。
やはり背中を明け渡すべきでは無かった。
実際、童女の気配しか無かったのだ…これは、間違い無く僕の油断だった。
「僕の席だと知って居た?あの席から僕を割り出した?」
「もともと葛葉ライドウの噂は聞いてたんだから、アリスちゃん」
「へぇ?どんな?」
「悪魔の兵隊使って、高飛車にこう唱えてるんだって」
異界と化した周囲から、どろりと具現化する悪意の魂。
そういう者を呼び寄せる…この少女はどの管属だろうか。
「“Off with her head!”」
「まさか、それは云った事無いねぇ…」
「でもね、容赦無く残酷に、女の子の腕をすぱーん!って斬っちゃうような子なのよ?」
「フフ、それは否定しない」
管のホルスターを下駄箱から取り出す暇を考え、学帽の裏に挟んである一本を指にした。
飛び来る悪鬼達を、瞬時に茨で薙ぎ払う。
『あらぁライドウ、随分と小さな娘じゃない、そういう趣味だったのアナタ?』
「妄言も大概にし給えよ、僕は少女性愛者では無い、とても勃たぬよ」
『やぁねもう、直接的なんだからぁ…んふふっ…』
茨の残滓をピッと掃い、アルラウネが僕の肩にしな垂れる。
咲き乱れる薔薇の薫りは、異界でも芳しく生きている。
「ほらぁ、真っ赤な薔薇じゃない!やっぱりハートの女王だったのね」
傍の悪魔の薔薇を見て、アリスは一層はしゃいでいた。
「帝都の異界も帝都には変わりない、煩雑にして貰っては困るのだよアリス」
「つまんない、アリスも学校通いたかったんだもの」
「僕とて通いたいさ」
「ずっと一緒に友達で居てくれないんだもの、みんなみんな」
ぐにゃりと歪んだ廊下、歪曲する窓辺、外の桜は鮮やかな赤と黒。
彼女の精神面が大きく影響しているのだろう。
狂気に歪むその世界は、別に居心地が悪くは無い。
「それでもね、二人、お友達になってくれたのよ」
にっこりと微笑むアリスの両側に、ずるずると影が集まる。
マリオネットの様に、その影から引き抜かれるヒトガタ。
それぞれ、男女の一組。恐らく此処の学生だ。
同じ学生服と、女学生特有の袴の形で判った。
「君が誘い込んだのだろう、無理矢理仲魔に」
「お兄ちゃんと違って、この二人が学校に来なくなったら皆「おかしいね」って心配してたわよ」
「僕に関しておかしい事があるとすれば、今日の様に登校した事だろうね」
茨を絡ませ、刀を差し向ける。
「ねえねえ!もしかして!斬り殺しちゃうの!?学校のお友達でしょ?」
「既に君の傀儡なれば、滅してやるのが最良だ」
「傀儡じゃないって、アリスのお友達になったのよ」
「このいかれた世界しか住処に出来ぬなら、死んでいるも同然さ」
事実、彼等の肉体は綻びが始まっている。
魂が縛られ、彼女の支配下にある事は見て解った。
「残酷なハートの女王、私からやっぱり奪うんだわ!」
「この異界から出してくれぬなら、君を始末するしかないね」
「誰もアリスの事、醒ましてくれないんだからぁッ」
「誘われたのは僕の方だろう?君こそがジャバウォックだ」
金色の髪がぶわりと逆立つ。ゆらゆらと立ち上る魔力に、傍のアルラウネの棘が鋭くなった。
『ブフ・ラティ』
空気を察した彼女から、凍てつく花びらと共に吹雪く魔力。
廊下の床板がキシキシと音を立てて、白い霧に飾られる。
「名の無いこの十四代目が、正体不明の主を倒すのだ、それでこの異世界も終いさ」
死霊と戯れるまま、アリスが髪をなびかせ氷を滑る。
「お兄ちゃんも嫌でしょ?何の為に生かされてるのか、考えた事ってある?」
ぱし、ぱしり、と、彼女の靴先から氷に茂る亀裂。
ふわりと幽かに浮いているその姿は、やはり人に非ず。
「境遇こそまやかしだ、呼吸するのは自身…其処を嘆くのはどうかな?」
「息苦しいわ、ヒトの世界なんて」
「変えれば如何?君の立場は知らぬが…」
ヒールを凍れる表面に引っ掛け、刀を回し斬る。
アリスの傍にて蠢いていた、学生人形がぐらりと項垂れた。
手応えを無視して、そのまま刃を押し通す。
「ああっ!ああっあああっ!“友達”が!!」
悲鳴する少女の前で、朱色に染まった窓硝子が、まるで下校の時刻の様だ。
「“夕火の刻、粘滑なるトーヴ”」
反芻し、唇を吊り上げ歌う僕を、アリスは戦慄いて睨む。
「“遥場にありて回儀い錐穿つ”」
詩の通りに、羅刹龍転斬りにて穿つ学生服。
「“ヴォーパルの剣ぞ手に取りて、尾揃しき物探すこと永きに渉れり”」
「いやあああっ!止めてよ!止めてってばあ!!」
僕を燃える眼で射抜くアリス。その眼を見ながら、僕は哂った。
「“両の眼を炯々と燃やしたるジャバウォック”」
「アナタだって友達居ないクセに!!」
「“怒めきずりつつもそこに迫り来たらん”」
刀を、レイピアの如く突き出す。MAGの切っ先で鋭利にした撃。
「“一、二”」
号令に合わせ、アリスの波動をかわしつ踏むステップ。
社交舞踏の様に、相手が踏み込めば引く、引けば踏み込む。
「“一、二…! 貫きて尚も貫く”」
彼女の眼前まで躍り出れば、ぐわりと歪み隆起する床。
にまぁ、と微笑んだアリスを下方に見据え、放物線を描き飛ばされる僕。
『ライドウ!』
逆さになった世界の中央、アルラウネが呼ぶ声を聞き、念じる。
「おいで、赤薔薇」
空いた指先で印を組み、召し寄せた茨に包まれ衝撃を和らげた。
ずぐずぐと厚手の布地を食い破る棘が、僕からMAGを舐め取って往く。
僕の項の上辺りで、ぐにゃりと押し潰されている悪魔の胸が、今度は隆起する。
『ゴチソウさま、んふふっ』
「お代はしっかり頂くよ」
『胸枕じゃあ足りないかしらぁ?』
「肉なら遊女で事足りる」
空いた指先で淫を酌み、召し寄せた茨の蕾を開かせる。
首元に回した手で、アルラウネの乳房をひと掴みして突き放せば
その溜息に無念と艶が混じった。
「頭砕ければ良かったのに…チッ、この小僧」
光る眼で、轟々と僕を睨むアリスが、ゆらりと振り返る。
「久しぶりの友達も、こんなバラバラにして…!」
両腕を広げた彼女の傍の窓硝子から、割れて往く。
順に迫る、此方へと。
見えない何かが窓を足場に奔り来るかの様に。
『来るわよ』
「先刻のお代は此処で頂戴する」
僕の構えから、察した薔薇はしゅるりと茨蔦を僕の四肢に絡めた。
熱とも冷気とも取れぬ衝撃が、向かいの少女から放たれている。
その圧の核に、撃ち込む様に。
「“ヴォーパルの剣が刻み刈り獲らん”」
歌い上げ、銀氷を纏い輝く刀で斬り裂く。
忠義斬に、彼女の胎から胸から頬から、大きく肉は割れる。
軋んだ轟音に塗れ、その華奢な金切り悲鳴は遠くへ吹っ飛んだ。
長い廊下を、クロケーの球みたいに飛んで往き、最後に二転三転して止まった。
「廊下は走ってはいけないよ、アリス?」
裂傷に獣路が出来た氷の上を、ヒールで完全に砕いて歩み寄る。
ひしゃげた身体で、僕を恨めしげに見上げる小さな生霊。
「……滑った、の、よ」
「滑走も禁止だろうね」
蒼い眼をしばたかせ、裂け開いた傷口からは濁ったMAGの体液が溢れている。
人間の赤い鮮血とは違う。
「…アリス、友達、無理矢理連れたんじゃないもの」
ぼそり、と呟き…小さな唇が半円上に歪曲する。
「ちょっと遊ぼう?って誘っただけだもの……ねえ、本当よ?」
「悪魔の常套句だね」
「悪魔じゃないわ、アリスよ」
小さく反抗し、崩れた姿勢から突如飛び起き、腕を振るってきた。
それを刀で払う事もせず、絡むアルラウネの茨に任せた。
『おチビちゃん、駄ぁ目…お触りは別料金なのよ?』
そんな事を云いながらにして僕の頬を撫で擦る悪魔め。
「っ…おばさんのクセに」
赤薔薇に、更に赤い飛沫が掛かる。
湿った音がして、気配が弱まった。
「いいもんいいもん、そのくらいあげる!今回遊んでくれたお礼よ」
声が小さくなり、飛び退いた少女は顔を歪ませ廊下を歪ませ、嗤い消え往く。
いや、正確には僕が追い出されたのだ、この狂った不思議の国から。
「また遊んでね?葛葉ライドウ!」
ゆるゆると融ける周囲の色。異界と人間界が交わる狭間で、アルラウネを管に戻す。
鞘に納刀し、裂けた背首を隠すべく、放った鞄と外套を拾い、身に纏った。

「葛葉さん!!土足禁止でしょう此処は!!」

振り返れば、開く窓硝子の隙間からひとひら、桜が迷い込んでいた。
その雅すら掻き消しそうな剣幕で、風紀に煩いあの女学生が怒鳴っている。
「ああ、これは失礼」
「…あら…貴方、あの背負ってた子は…どうされた訳?」
「逃げられてしまいましてね」
哂ってすぐ傍の窓硝子を、更に横引く。
温かな風に、芳しいそれを感じて縁へと手を掛ける。
「ちょっと何してるのよ!?葛葉さん!葛葉さん!!」
「土足禁止でしょう?校舎は」
開け放った春の額縁に飛び込む。ひらりと舞う外套に、僅か付着していた花びらが散った。
「昇降口から出なさいよ貴方!!…って、え?何?薔薇…?」
桜以外の花弁が散ったのか、追求されぬ内に校庭の芝を歩む。
どうやら授業も終り、昼休みになった様だ。
『おいライドウ、何かやらかしたなお主』
ミャウ、と校門の方角から、黒猫が尻尾を振り振り四足で駆け寄って来る。
その相変わらず畜生めいた姿に失笑しつつ、さらりと返す。
「不思議の国にてジャバウォックを打ち倒し、帰還致しました」
『お主のいい加減な報告にももう飽いたわ、簡潔に頼む』
「屍霊と逢瀬致しまして、異界に囚われましたが脱しまして、早退損に御座いまする」
『今更勉学する事も無かろうて、お主は依頼だけこなし帝都を護れば良い』
昇降口に向き直る僕に、怪訝な眼をやるゴウト。
「他の管を取りに戻ります故」
『何だお主、管も持たずに応戦したのか』
「薔薇をこの度は、髪に一房飾っておりましたのでね」
『フン、頭が確かに咲いておるわ』
「童子は相変わらず…この十四代目に冷たいですねぇ…春なのに、フフ…」
猫と話すいかれた人間を興じながら戻り往く、その道すがら…
喧騒に一層花を散らす桜の大樹が、さざめいていた。
『何だ今度は』
「ああ……成程」
猫より嗅覚が優れているのだろうか、僕は。
先刻、窓を広く開けたその瞬間より、既に感じていた死の薫り。
黒山の人集りのやや上に、ぶらりと揺れる影二つ。
「実体はあそこでしたか」
『読めん、おい説明しろ』
珍獣の僕より、流石に首吊り死体の方が希少価値も高いか。
すぐ傍まで寄れば、聞こえてくる…真実か、ただの噂か。
 「恋人同士ですって」
 「心中?」
 「色々悩んでたみたいだったからなあ、親御さんに反対されたりだとか」
僕もあまり好きでは無い桜の下…垂れ流しの死体二つを見て、妙な哂いを僕も垂らした。
「自殺願望の有る者が惹き込まれる様ですね、彼女の世界に」
『何だと…お主』
「いいえ、僕は半分…己から接触した様なものですから、心配無用」
そう、昔…僕を吊る予定だった紐はブランコに形を変えたのだ。
あれからそのような願望は抱いてなぞおらぬ…
そう、自ら死するなぞ…




「で、その少女は西洋人の形をしていた、と?だから“アリス”?」
「短絡的?フフ…だがね、そうそう遠くも無いと思うよ…」
昨日からのデジャ・ヴを感じる、開け放った格子窓から舞い込む桜…
枝垂れ柳の碧と、薄い白桃の皮の色が融ける空。
春も爛漫、爛れたこの茶屋の空気も、それ相応。
「僕を“ハートの女王”だと云った」
「高慢なところはそっくりだ…」
背後から触れる手を、さらりと払い除けてやれば、言葉は続く。
「ケチなところもね…」
「煩いよ」
格子に絡めた僕の指に、手袋の指が覆う。
今度は払わない、幾度も撥ね退けるというのも、存外疲れる。
それに、指先ならば見えているから、まだまだ赦せる。
「背中、やられたの?」
「負ぶったらね…しくじったよ、正直」
「君はアバドン事件以降、気が緩んでいるのでは?夜」
「かもね、まぁ…春だし?」
僕の項にさらりと架かった金色の吊橋は、更にさらさら肩に枝垂れた。
「帽子、脱いでるのか…珍しいな、ルイ」
「背負った時、その“アリス”の髪も、こうやって君の肩を濡らした?」
「ああ…西洋の薄い色、光る細い金糸が、絹糸みたいに、ね」
項をくすぐり、耳元をくすぐり。
この得体の知れぬ御友人の髪が、帽子から解き放たれて、僕の肩に踊る。
「学校では、結局受講したの?昨日」
「死体も桜と散って、授業も散ったよ」
詰襟を開く為、僕の指から離れていった。
「また習わず仕舞い?いい加減その制服を脱いだらどう?偽りの書生」
あの少女と同じ、流暢な鈴が鳴る、鼓膜の傍で。
いや、鈴というより…
「《triangle》」
「何だい…それは形としての?礼拝に奏でられるあの楽器の?」
「鼓膜の傍で、麻痺させるでないよ…」
細やかな鳴動が、僕の器官を麻痺させる。
鎖骨を絹の上質な手袋が滑走する瞬間、異国のシルクロードを夢想する。
陳腐かもしれないが、単純に、外の世界を僅かなモノから感じるのは愉しいのだ。
「カラスの授業は、偏っていたからね…帝都の学校は、ある種新鮮なのさ」
開かれた胸元、だが寒くない。いよいよ春なのか、と呆れん理由にて認識す。
首だけ反らし、ルイ・サイファの眼を覗き込む。
あの少女よりは、薄暗い…それでいて、こちらの焦点を歪ませる、魔的な瞳。
「《Alice's Adventures in Wonderland 》だったかな?」
「そう、以前英國の物を君に頼んだろう?アレさ…」
風刺と混成語がやたら多いそうなので、手に入れたくなったのだ。
英國の出を一応名乗る、この男に依頼して。
「夜が読みたいと云ったから、ざっくりとは目を通したよ、渡す前にね……確か……」
思案する時、その眼を瞑る彼。
いっそ、この瞬間が一番の隙なのだから、小突いてやりたくもなるが…
何故か、その口から出でる言葉を聞きたく思い、実行に移さない。
この男の言葉は、僕を駆り立てる妙な力を持っている。
「…うん…授業の場面があったね…」
「フフ、適当に読んだ割には記憶しているではないかルイ」
記憶力は良い方だ、と豪語していた。
ただ、引き出しが膨大な量で、選定に時間が要るとの事。
羨ましい頭をしている、正直腹立たしい……僕とて、記憶は良い方なのだが。
「言葉遊びが多くてね、夜が喋ってるみたいだったから」
「洒落はね、好きなのだよ…ククッ」
「でも、日本國の言葉でどう捉えたら良いのか、些か…ねえ、どうなのだろう」
こんな事をしに来たのでは無い、見せたい物がモノだから密室を選んだ…それだけだ。
しかし、先日のアルラウネの冷気に凍えたのか、僕は火遊びがしたくもある。
「夜……《Reeling》and《Writhing》…?」
「そう《這い方》《悶え方》カラスが教えてくれたのは……他には何だと思う?ルイ?」
「それと四則計算?《Ambition》《Distraction》《Uglification》《Derision》」
「《野望》《気晴らし》《醜怪》《嘲笑》……クッ、傑作だな」
一見普通の単語が、混濁した脳内で煮えくり返り、発露する。
少しばかり、もじって読んだ、捻くれた翻訳遊び。
僕等の中は相当似ているらしい、勝手な解釈はほぼ一致していた。
「カラスの学校は“代用海ガメの学校”だったのかい、成程ねぇ…」
哂って、胸を撫でるルイの指を掴み上げた。
事も無げに、この男はいつもの微笑みで僕を見た。
「その学校なら、夜は主席だろうね」
「フン…弓月でだって主席だ、見縊るでないよ」
雨戸も無い、更紗暖簾だけが下ろされたその窓辺で、下方の水路がせせらぐ音を聞きながら。
とさり。
畳の燈芯草が薫って、背中の痛みが体に奔る。
「無理矢理ではないの?ルイ」
「そうかな?君が引き倒した様な気もするよ?」
「彼女も云っていたな…直接手を引いては無い、と…悪魔の常套句だ…ククッ」
上から垂れる黄金の柳が胸をくすぐる。その掠めるだけの感触に肌が粟立つ。
「そのアリスに刻まれた背中の傷は、まだ癒えぬ?」
「昨日の今日だぞ、それこそ悪魔でもあるまい…綺麗な切れ目でも無い裂傷では、流石の葛葉でも遅いよ」
彼の燃える眼に触れる…穏やかな蒼穹の中に見える、不可思議な熱。
胸の萌える芽に触れる…異国の様な、異界の様な薫りを漂わす、その艶やかな髪が。
「はぁ……っ」
見下されるのは、酷く腹立たしいが、既に芳しい魔力を感じている。
思わず吐いた溜息に、帽子の無いルイが笑って云った。
「“Take off your hat.”」
帽子屋が云われた、その命を無視する。
「嫌だ、ね……」
別に、屋内なのだから脱いでも良かったが、云われると脱ぎたくないものだ。
「“Your hair wants cutting.”……くすぐったいのだけど?いい加減…!」
ベストの肩を押し返し、その腰に跨る。
ようやく金の柳の拷問から解放され、僕はチェシャ猫の様に哂った。
「そんなに帽子、脱ぎたくない?」
「ああ、嫌だね、ルイ…君が脱いだとて、僕が同じく脱ぐとでも思ったか?」
「ふぅん…そう……」
ほくそ笑みつつ、ちゃっかりと僕の下を寛げて往くその手袋が憎たらしい。
「やはり、その頭に生えているのかな?狐の耳…」
ぼそりと呟かれた言葉に、一瞬頬が引き攣った。
守りもしない無防備なその白い頬に、一発掌で張った。
部屋に綺麗に響いた音に、胸がすっきりと清涼感を得た。
だが、ぶれる事も無いこの男の余裕の微笑みに、此方も何故だか哂いが漏れる…
「我侭だね夜は」
「あの少女程では無い」
じん、と少しの痺れが残る掌を、下のスラックスに移す。
上物のスーツを剥いで、異国のソレと重なる。
脳内で狂った茶会が開かれた。待合茶屋なのだから、場所は弁えているつもりだ。
「さっさと注げよ、席に着いたのだから、さぁ…」
「三月狐?」
その揶揄に失笑した。狐の発情期なぞ知らぬ。
「黙れ…ほら、早くし給えよ…!一滴も出せないのかい君」
上から催促すれば、下から入れ込まれる、あまりに滑稽な重力図。
「ん、ぐゥっ」
「“招待もされずに座るほうが礼儀正しくないと思うのだけど?”」
悠然と微笑んで、ゆったりもったり揺らしてくる。
“粘滑なる…”律動。
「ねえルイ…礼儀も糞も無いよ、ひとつ僕が述べれば、招待状に成るのさ」
“回儀い錐穿つ…”下の剣。

「帽子、揺り落とさせて御覧」

上から、見下ろして命ずる、使役悪魔でも無い、この男に。
「出来なければ…“Off with her head!”」
高飛車と自分でも感じる位に高揚して唱え、己の首に手で真一文字に鋸引く真似をした。
アリスに「云った事が無い」と返した台詞をそのままに、無に帰した。
一瞬の間の後、下の異国人が嗤う。
世界が揺れた。
「っあ、ぁぁっ、ふ」
油も無く滑り込む、可笑しいくらいにこの男の剣は僕の肉に滑り込む。いつも。
がくがくと、揺れる度に開かれる傷口が湿った雄叫びを上げて。
それを伴奏にして愉しそうに口ずさむルイ。
「“One, two! One, two! And through and through.”」
ああ、全く馬鹿げている。アリスを甚振った僕と、同じ詩を歌っているではないか。
号令に合わせ、僕の腰を掴み踏むステップ。
社交舞踏とまるで逆に、僕が落ちれば穿つ…圧に反射し引けば、この男も引く。
「はぁ、あ、ああぅ、っ、ル、イィ!早く、し、ろ!」
深く繋がる為に、僕に深く注ぐ為に。
じっくり…しかし幾度も突いて来る、その残忍な処遇に恫喝した。
「フ、フフ、はぁ、は、刎ねてやるよ…!その首…あ、ああ、あ…ぁ」
血管すら通っているのか怪しいルイの首を、両手で絞める。
アリスの駄々をこねたその感情が、少し理解出来て辟易した。
「あっ…ぉ、ぃ……もう…っ…ん、ぁ」
ぎりり、と、窒息させんばかりに上下両方を締め上げれば、くすくすと声が響いた。
「“Have some wine.”」
注がれる。熱いソレ。
「っ!あ、あぐっ、ぅ…っ!」
揺れ揺れて、視界が歪み異界の様にすら見えた。
「ひっ、あ、っ……っく」
絞めていた指から、ゆるゆると脱力する…
一瞬の灼熱の後、積み上げたトランプの塔が脳内で決壊していった…
「ーっあ…ぁ、は…っ…はぁっ……激しくすれば…良い訳では、ない、だろうが」
「っふ、ふふ…くく」
下からの、くつくつとした嗤い声、僕の中まで掻き回す震動にすら、今は成り得る。
だが、奴の視線は知れない。
「浅ましいね…君という人間は、いつも」
僕の落ちた学帽が、その額から鼻先までを覆ってしまっていたからだ。
ただ、弓なりに反り上がった唇が、僕を嘲笑している事だけが確かで。
それを見てじわじわと現実世界に引き戻される。
「…窒息するまで…締め上げてやれば良かったかな…喰い千切るまでさぁ?」
鬱屈と吐き、そろりと指を放して濡れた下肢を探ってみる。
乱雑に攻め立てられても、痛みだけを拾う訳でも無いのか。
それとも、この躯が狂っているのか。慣れ過ぎたのだろうか。
「こんな狂った茶会に来た訳では無いのだけれどね……っ…ぅ」
ずるる、と引き抜けば、萎れてそれなのかと問いたいソレが露になる。
しとどに濡れたヴォーパル。そのまま錆びてなまくらにでもなってしまえ。
「っ……は」
胎を埋めていた圧迫が失せて、ふらりと布団の傍の手拭いに手を伸ばす。
処理の為の物だろうに、手拭いまで和更紗にせずとも良いのに。
カラスの利用する処だけあって、どうでも良い所が地味に豪奢だ。
十四代目がこの様な耽溺的な戯事に利用していると知ったら、嘲弄するだろうか。
けたたましい烏共。それを脳裏に描き、面白可笑しくなって喉を鳴らした僕。
「そうそう、ルイ…君にはコレを見て貰う為に、呼んだ筈なのだが」
外套の衣嚢に指を突っ込み、漆黒の帆布で包んだソレを取り出す。
やや気怠い身体を、畳んである布団の山に突っ伏し横たえた。
流れた前髪を耳に掛け、開けた視界の向こうで既に身支度を整えている余裕の男に投げつける。
全く見ていなかったのに、寸分違わず受け止めて、おっとりと聞いてくる。
「中を拝見して良いかな」
「その為と云ったろう…開いて御覧」
はらり、と掌の上で黒い布を端へ端へと開くルイ。
黒い蕾の中から現れた白いソレに、驚愕もせずに訊ねてきた。
「白アスパラガス?」
「…何……何の比喩だ…」
「ああ、仏蘭西、での比喩だったかな…英國ではないか…駄目だな、間違えた」
「何が間違えた、だ……少しは驚く演技でもしてみ給え」
息を整え、開かれた包みの中を視線に捉えつつ、膝で擦り寄った。
畳に綺麗に正座したルイが、それを摘み上げて蒼い眼で眺めている。
「アルラウネの茨が喰い千切った…下らぬ競争の景品さ」
「“指ぬき”の事?…全く……夜は少女にも容赦無いね…指の先端を骨のジョイントから抜いた?」
「屍霊だが肉は在る、ゴーレムだろうか?」
「ヤハウェからルーアハを吹き込まれた西洋骨董人形?ふふふ、可笑しいね」
指先のそれを、包みに戻して蕾を閉ざす様に、その布で覆うルイ。
笑って僕に突き返した。
「御免ね、ぼくはその“アリス”を知っているよ、恐らく」
「何だと」
「いや、ね…ぼくの友人が探している少女に、酷く似ているから」
説明した時点で気付けるだろう、この男め。
小指の包みを受け取り、崩し置いた外套の上に放った僕。
少しばかり苛々しながら、しっとりとしたシャツを脱いで窓辺の柵にばさりと掛けた。
赤と黒の漆が、彼女の異界を思わせる格子と柵。
今思えばトランプの色をしている。
「まだ君の学校に居るのかな」
「さあね?でも現状にも満足しておらぬ様子だったが?家出だろう?」
適当に答え、脚先のホルスターを少し緩めた。スラックスを脚に食い留めているそれ。
「夜、まだぼくを警戒している?」
そのルイの問いに、鼻で笑って締め直す。
スラックスだけ引き抜いても、武器を外すつもりは無い。
「君の首を刎ねる程度の技量は持ち合わせているつもりだ、悪魔の兵隊が居らずともね」
「可哀想に、友人の赤と黒…痛く可愛がっていたからねえ…逢わせてやりたいね」
話を聞いているのかこいつ、勝手に進めている。
「僕に手引きさせるつもりか?」
「不思議の国に閉じこもった少女とて、此処に存在する限り帝都の者だろう?」
先日の台詞を聞いても無いだろうに、さらりと微笑んで僕の役目を提唱する。
その解った風な口が毎度、僕の心をささくれ立たせるのだ。
「葛葉の十四代目といえども、僕は帝都に命を捧げた覚えは無い」
「だろうね、君の眼には野心が揺れている…ヒトの息苦しい世に、抗う如く」
「あの少女も、君も、この世界に恨みでもあるのかい?」
シャツがなびいた。桜の薫りを擦り付けに、ひとひらふたひら、風と共に舞い込んで来る花弁。
僕の学帽を代わりに被ったルイが、くす、と笑う。
「愛玩人形の存在意義を問うよ、夜」
「…愛でる、と一言で述べようが、種類がある」
欲求を充たす為。その欲の種類がそれを区別化させる。
「孤独を紛らわす為か、可愛らしいと感じるものを傍に置きたい性愛に近いそれか…」
「夜は肉欲の為に可愛がられているのかな」
「さあ?支配の欲なる嗜虐情も入り混じっていると思うがね」
僕の背中を知っている、と嗤うその厳かな笑みに、いちいち激昂はしない。
「無理矢理生かされている人形、それはそれは息苦しいだろうね」
「君の友人とやらが生かしているのかい?死霊使い?」
「まあ、そんなものさ…」
「随分と物騒な御友人…だ!」
脚に携えた小太刀を、即座抜刀し翻す。
眼の前の桃色の舞姫を一閃して、指先に刃を沿わす。
分断された桜の花弁は、畳の上にくたりと墜ちた。
「良いよ、ルイ…その依頼、請けよう」
華奢な刃を、脚の鞘に回し納め、向き直る。
「そう、有難う、十四代目葛葉ライドウ…」
「…」
「夜」
「ま、そういう事さ。僕個人……カラスと探偵社は無関係で宜しく頼むよ」
散った桜を爪先で甚振って、畳に擦り付ける。
僕の仕草にルイが視線を寄越す。意味の無い動きで、頭が余計な思考をしたがった。
「“アリシャス、ぐるぐる光り、魅惑の鏡を抜けて巨人の国にいるのか?”」
《Work in Progress》をふと思い出し、唱える。
「“孤独な不思議の旅人は我らを永遠に見失った”」
爪先に摘んだ、くたびれた桜をそのまま持ち上げ、煙管の灰盆に落とし込む。
すら、と伸ばした脚を、そのままに、黒猫褌をするする腰から回し巻く。
「“悲しきかなアリスは鏡を割った!”」
また春風がなびく。黒猫褌の尾を揺らして、それがルイの指先まで運ばれる。
「“リデルは木の葉を抜けて閉じ込められ…”」
ザン系でも唱えたのか?と問いたい程、その風は奴に従順だった。
ルイの指先に引かれた黒に下肢を繋がれたままの僕は、いつの間にか佇むその肩に倒れ込む。
覗き込んでくる眼は、あの少女と似ていた。
西洋人の色…だけでは無く、何処か、何かを渇望しているその色。
僕と同じ…得体の知れぬ、狂おしいまでの執着が。
「“我らは苦痛の謎にある”」
やや見上げ、探る様に歌い上げれば…前髪を手袋が梳いた。
「夜はこの世界が苦しくは無いのかな?」
「馬鹿め…この僕が立場を嘆くとでも?そんなものに憂いて止まれば沈むだけさ」
「“その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない”」
「捕食者と被食者…サマナーと悪魔、どちらがどちらにも成り得るからね」
「やはり君は“赤の女王”だ…」
額を曝される、開けた視界が寒々しい。間近に視線を読まれるのは、あまり好ましくない。
読ませるのと、読まれるのとは、全く別物だ。
「女と男、陰と陽、生と死、悪魔と人間…分かたれる意味は、其処に在るだろう?」
でも…敢えて、読ましてやろうか?ルイ・サイファ。
「喰らい合うから、傷つけ合うからこそ、そこに生じる熱が…世界を回すのさ」
「欠損を補い合う為、と云えないの?ふふふ…」
「進化を止めたモノはそこで終わる、愉しくない」
飽くなき欲求を、デビルサマナーとしての僕を視ろ。
「だからこそ、召喚皇になってみたいのさ」
全て従え、烏を燃した後、何が残るのか…この僕に。
その為の進化が必要無くなった瞬間、如何なるのか、世界が変わって視えるのか?
「ぼくも、探しているよ、未だに」
「何を」
ルイの呟きから、少し笑いが消えた。
「悪魔でも、人間でも無い、星をね」
「…何だそれは…ククッ、アリスは違うのかい?」
「彼女はヒトの形をした亡霊の様なものだからね…少し違うよ」
その得体の不明瞭さが、僕の好奇心をざわつかせるのだ。罪深い奴め。
「ねえ夜、そういう存在を見つけたら、是非僕に教えておくれ」
「良いだろう、そちらも併せ承る」
存在するのか?そんな生き物。
「望むべき姿に魂から進化する…そんな生き物をね、ずっと探してるのだよ、ぼくはね」
更紗暖簾が翻り、うっそりと暮れてきた赤い桜を窓に映し出した。
その眼が、赤く見えた…気のせいだろうか。
「しかし夜、やはり思うのだけどね…」
ふと、髪を梳いて遊んでいた手袋の指が止まり、こめかみに流れた。
「云い給えよ…念の為先手を打つが、もう再戦せぬからそのつもりで、新世界にも今宵は行かぬよ」
するすると述べれば、するすると髪を横に退ける指。
その滑らかなシルクの影の隙間から、皇かな相貌が見えた。
「帽子、無い方が好きだよ、綺麗」
瞬間、引き攣る感覚に襲われた僕は、黒布から指を既に放していた。
「“友人”に云う台詞かい?」
腕ごと払い除け、反復の際にその頬を引っ叩く。
それでも相変わらず悠然と微笑むこの男は、外見上天使の様だろう。
「ハンチング帽子の下、角でも在れば哂ってやったのにな?フン…」
揶揄いを云いながらの、僕の冷笑に…ルイも笑った。
珍しく、チェシャ猫みたいに。





「いや、本当に君には感謝している…葛葉ライドウ」
赤いスーツと、黒いスーツ。
見事に擬態しているが…恐らくは、悪魔。
「いいえ、しかし、子供には遊ばせる事も必要ですからね」
微笑んで述べる僕の腕に、すっかりしがみ付くアリス。
すっかり指も戻って、愛らしい華奢な手が僕の外套ごと腕を掴む。
「この子がこんなに懐くとは…いやはや、どのような魔術を?」
黒いスーツが首を傾げ訊ねてくるが、僕とアリスは見詰め合って笑うだけ。
「良いのよ黒パパ!アリスね、この葛葉ライドウに良い物貰っちゃったから」
「何を一体…」
「うふふ、とっても素敵な贈り物よ」
外套の内に入り込み、かくれんぼする。隙間から顔を覗かせ、紳士二人を笑う無邪気な少女。
「私達も、少し過保護にした報いが下りたのかもしれん」
赤いスーツが溜息する。きっと最近の悩みどころだったのだろう。
「我侭だが、赦してやって欲しい」
「ええ、構いませんよ…ねえ、ミス・アリス?」
見下ろす先、あの男よりかは柔らかな色味の金が踊る。
「うふふ、夜兄様」
その会話に、仰天する黒と赤。
銀楼閣を幾度か振り返り、アリスに手を振りつつ小言を残して去って往った。
ゆらりと人の海に消えた、比喩では無く。
「…ねえ、夜兄様!」
はしゃぐアリスの指先は、あまり温かくない。
「云ったでしょ?アリス、無理矢理友達にしたんじゃ無いって」
「そうだね、桜の下で、彼等も喜んでいたろうさ」
桃色の舞台で…糞尿垂れ流し、涙を垂れ流し、すっきりしたろう。
この世と決別したのは…事実、心が弱かったから。ある種、誠実だったから。
呼吸困難な世界であるのなら、確かに奈落に落ちてしまうのも手なのか、と気付かされた。
「まさか、また遊んでくれるなんて思わなかったもの」
「あのまま迷子にしておいたら、いよいよ無理矢理友達を作りそうだからね」
「ふふ、どうかしらどうかしら?内緒っ」
桜舞う帝都、賑やかな街路、少女を連れる僕を振り返る人々。
球体関節人形に、命でも吹き込んだと思われるだろうか。
しかし僕はヤハウェでもない、ルーアハも吹き込めぬ。
僕が吹き込めるのは、愉しい狂った誘いだけ。
「お母さんがね、云ってたもの」
猫の集団を脚で捌いて、裏路地を通る。その中に一瞬ゴウト童子が居た気がするが、無視した。
「あっ、黒猫!“キティ”かしら?」
「ゴウト、だよ、ミス・アリス……で、何を云っていたのだい?」
「そうそう、あのね!毎晩祈りを捧げていれば、良い子にしていれば、神様の世界にいけるって」
「へぇ…神様、ね……つまりは幾つも世界が在るという事かな?」
「でもね、アリス知っちゃった、神様って他の神様を赦さないのよ?」
「そうだね」
「おまけにね!女の子ひとり助けただけでイイ気になって、自己陶酔も激しいわ」
「ククッ」
ああ、やはり似ている…僕と、ルイと、この子は。

「わあ!アイビーゼラニューム!オーニソガラム!チューリップもある!」
「お気に召したかな?」
「うん!すっごい、素敵よ!」
路地裏から、茂った蔦に包まれた家。無人の様に見える其処は、実は営業中なのだ。
『…珍しい、彼女連れじゃん』
「君にはこの子がそういう相手に見えるのか、それこそ異端だろう?ルイス・キャロルかい」
『うっげやだやだ、ましてや女なんざ』
頭の花冠を撫で、僕に怪訝な視線を寄越すナルキッソス。
『ライドウくらいの美貌なら、まあまあ赦せるけど』
「要らぬよ、僕とて自身が好きだからね」
『け、ナルシスト』
「フフ…どちらがだい?」
財布を取り出す僕を気遣いもせず、花を好き放題選定するアリスが逆に清清しい。
『今日は毒花でも薬でも無いんだ』
「煙草の草は足りている、此度は飾る花を買いに来ただけさ」
『何を飾んのさ、妖精相手にしてる分、彩りは豊かっちゃ豊かだけど』
薄い着流しに、草木染の帯を緩く巻いたナルキッソスがアリスに歩み寄る。
『何買うのさ、おチビちゃん』
「何よ、擬態してもないのに、チャラチャラ着飾ってるのね!」
『だって悪魔ったって真っ裸ヤだし?おチビこそ、可愛こぶってんよな?』
「ねえねえ、オススメのお花は?」
咲き乱れる花畑で、蝶と走るアリスが問う。
だが、ナルキッソスは鮮やかな蜜の髪を手櫛で整えるばかり。
『スイセンなんてどうよ』
「嫌!ナルシストね〜アナタって、おまけに毒草じゃない、商売してんの本当に」
舌を出し、あかんべをしてナルキッソスからそっぽを向いた少女。
『け、あ〜可愛くない可愛くない』
ぶるる、と肩を震わせたナルキッソスが視線を僕に戻す。
その背の向こうでアリスが両手を振って示していた。
「それにするのかい」
笑顔で大きく頷く彼女に、僕も歩み寄った。
ナルキッソスの傍を通る際、がま口の長財布を放り投げる。
『っと!羽振り良いのな相変わらず』
「御勘定宜しく」
そろりと抜刀すれば、上で戯れていた蝶達が空気を読む。
低く穿って横に一閃すれば、その花壇の一部が背を低くした。
『ユリばっかじゃん』
「悪いかい?文句ならアリスに云ってくれ給え」
『いや、時期じゃないから高くつくけど』
「構わぬよ」
総倒れした白百合を少し拾い、花束にしてアリスに哂いかけた。
「有難う!夜兄様」
「この芳香なら、良い夢見だろうね」
甘やかで、生臭い独特の薫り。
『何に使うのこんな目いっぱい…おまけにすぐ枯れるよ』
呆れつつ財布から金を出し、数える此処の番人。
商売人の癖に、先刻から余計な心配ばかりしている。
「枯れたら、また買うさ…」
答えながら、取り忘れられた百合ひとつ、拾い上げて胸のホルスターに挿す。
管を支える筒は、百合の一輪挿しと成る。
「“We're all mad here. I'm mad. You're mad.”」
皆、狂っているのだろう。
納得の朗読をし、包んで貰った花を携えたアリスの手を取った。



「ねえ、本当にアリスの事」
「召喚皇だよ、その程度の悪魔も従えれずに如何する」
「ふふ…楽しみ!」
薄暗いけど、ベルベットのカーテンも、たぐい寄せるタッセルも凄く豪奢。
夜兄様みたいな兄様が本当に居たら、良かったのに。
もっと早く逢えてたら、子供で居れたかもしれなかったなあ。
「でも、大丈夫かなあ、此処って探偵のおじさんとか居るんでしょう?」
「平気さ、僕以外に倉庫に入る者は居らぬからね」
「あれ?夜兄様って小間使いだったの?」
「フフ、昼行灯がどうこうするより、僕が動く方が早いからね」
こっそりこそこそ、銀楼閣の狭い部屋を、アリスの隠れ家にしたの。
異界じゃないわ、そのままの世界だけど、凄く居心地が良いの!
アンティークの内装、英國の薫り、飾られる絵本とカンテラ。
「寝心地は如何かな、ミス・アリス」
覗き込んできた夜兄様、私の何分の一しか生きてないのに…
どうして、分かったのかしら?パパ達だって分からなかったのに。
「今まで寝てきたベッドの中でトップクラスよ」
「それは良かった」
黒檀の棺桶いっぱいに、敷き詰めたユリの花。
包まれて眠れば、爛々としない、ざわつかない。何故だかすぅっと、眠りに就けるの。
「どう、死の薫りは…最高のベッドだろう?」
黒い睫がけぶる、その闇色の眼で…見つめられて今はドキドキ。
「安眠って感じ!ねえ、早く本当に眠りたいわ」
「まあ、待ち給え…僕が猛き悪魔を連れるまでは、ね」
いくら千切られても、焼かれても、繰り返し捏ねられて、元通り。
そんな今は、嫌なの。
「一瞬で火葬してくれる悪魔、早く見つけ出してね!」
天国なんて、厭。神様なんて、嫌い。
この魂ごと、一瞬で消し炭にしてくれる悪魔を、ねえ早く早く!
「勿論…ミス・アリス」
ニタリと哂ったデビルサマナー…一体何処まで使役出来るかしら?
でも、とても好きなのよ?二人でほくそ笑んで、この世界を愉しもうって約束したの。
その契約が成されるまで、アリスは夜兄様の妹。
愉しそうなら、いくらでもお手伝いするの。
だから、それを心待ちに、うずうずしながらこの世界に留まってあげる。

「契約通り、いつか君を殺してあげよう」

はあ…なんて綺麗なテノール。
その子守唄にうとうとしちゃって、またアリス、夢を見ちゃってる…
おかしいわ、いつもの兎じゃなかったの。
狐が誘う穴に転がり墜ちて。

Down, down, down. Would the fall never come to an end…


三月狐のお茶会・了
* あとがき*

たった一言、「不思議の国のアリスのwikiを見て下さい」と云えば済んでしまう気もします。
とりあえず、今回参考に抽出したのは

『不思議(鏡)の国のアリス』
『ジャバウォックの詩』
『赤の女王仮説(進化的軍拡競走)』
『かばん語』
『ジェイムズ・ジョイス』
『英國の葬儀』
『大正時代の校内履物』

不思議の国のアリス…とにかく言葉遊びが多い!おまけに私は英語が不得手でして…

ジェイムス・ジョイスの《意識の流れ》というのを今回初めて知りましたが、「人間の精神の中に絶え間なく移ろっていく主観的な思考や感覚を、特に注釈を付けることなく記述していく文学上の手法」というものらしく…
少しニヤリとしましたとさ。

アリスを書く際に意識するのは「恨み」の情を滲ませる事です。
どうして自分が、だとか…勝手に助けた神を恨んでいる、とか…
現状に何かしらの不満を抱いている、それを子供の様に発露させる。
命のやり取りに愉しさを感じる点は、ライドウに類似する。

アリスの破壊は“とにかく見て欲しい・相手をして欲しい・感情を思い知って欲しい”から。
ライドウの破壊は“目的の邪魔だから排除する・壊れたそれに己を縋らせたい”から。
どちらも、己の存在している意義を“虐げられる・支配されている・生かされている”という頚木から除外せんとしている。それは歩んできた路がさせる思考…と思われます。

アリスが死にたがるのは、永くうつろう世界で、未だに体験出来ない死への好奇心と、それこそ神への“あてつけ”から。
ライドウがアリスを懐かせ可愛がるのは、手駒を増やす意味合いと、居心地の良さから。
魂の兄妹。ごっこでも、殺しあっても、愉しい関係。

約束に出てくる《猛き悪魔》…は、いわずもがな。
アリスは、人修羅が魔に墜ちて力を増すのを、うずうずして待っている。
ライドウの自殺願望はタム・リンで完全払拭された。
ちなみにこの話、SS『汚点』後編の前の話となります。