生死滲出


『はあ、私が、ですか』
「こましゃくれておるが、素地だけは一級のものだ、崩さぬ様に」
『嫌なのですがねぇ、人間単体に眼を注ぐのって』
槍を担ぎ直し、黒装束の一羽を見る。
槍術の指導に切りをつけ、肩に掛かる銀糸を篭手の指先で掃った。
「ほう、如何様な理由があって?」
『深く関わるのは御免ですから、人間も悪魔も、ね』
「面倒か」
『いえいえ、お里の命は契約に含まれておりますから、なんなりと』
槍に絡ませた腕の先、柄をするすると撫ぜてMAGに融かす。
装束に云われた通り、後に続けば庵が見えた。
此処、ヤタガラスの里で、人間という生き物が住まう箱。
私は基本的に入る事の無い空間。
『では私は、管に入るという事になるのでしょうかね』
「いいや、今後も指導は担って貰うのでな…管から出ている方が長いだろう」
『安心しました、寝すぎては床擦れを起こしてしまいますが故』
鼻で笑って返す一方、装束の足は止まる。
「どうした、居らぬではないか…」
薄く西日の射す板の間、落葉と落陽の見える部屋。
西からの陽を直接降らせるこの庵は…恐らく大事にされていない。
陰の気を呼び込み、やたらに朱が眩しい。
夏には暑く、冬に幽かに注がれる陽とて薄い。
その斜陽の意味するモノは、《衰退》…《死》…
『もしや孤児のあの仔ですか?』
「流石に耳に入れておったか」
『悪魔はね、噂好きですから』
噂、というより、私の好奇心が覚えていたまでですがね。
「ついでだ、師範よ、見回りも兼ねて捜してきや」
装束が障子をやや乱暴に閉め、下駄を履きなおす。
縁側の縁で待っていた私に指令する。
カラスの鳴き声は、里の命。
『仰せのままに』


秋という気候か。
戦ぐ赤が、この眼光という器官を以ってして体を支配する。
"曼珠沙華"はこの里を飾る額縁。
毒花に囲まれた、如何にもな光景…
人間の生活集落から更に離れた里は、國家機関の術師が住まう。
悪魔召喚師…デビルサマナー。
かつての私の主人もそれであった。
しかし甲斐なく散り、今の私を縛るは里そのもの。
自堕落に過ごそうが、縛られようが、大した望みなぞ無い。
ふらりと散策に往かされた折、同族の淑女と戯れ、適当に喧嘩を買う…
それができれば上等。
(里の人間を観ているのも、一興)
嗤えてしまうのだ、里という見世物が。
あんなに小さいのに、其処には既に世界が在る。
同胞の中にも、小競り合いや斜陽が在るのだ。
『居られますか?』
里の、山間近く。鬱蒼と樹が隠す陽射し。
湿った朱色が一心不乱に天を仰ぐ花畑。
あまりな朱の氾濫ぶりに、人間も寄り付かぬ此処に、予感はしていた。
「誰」
利発そうな声音、でも幼さが滲む。
『もう烏も鳴いておりますから、庵に戻って下さいね』
「答えろ、僕は“誰”って聞いてるに」
やや上方からする声と気配に眼を向けると、この花畑で背が随一高い樹から。
褐返色の着物袖を捲り、擦れた荒縄を腕に携えた童が一人。
『木登りですか、元気で何より』
「…タム・リン」
『幾度か面識は有りましたよね?紺色の君』
するすると降りて、数本の曼珠沙華を下駄で踏みしめ着地した。
その少年の眼は、この朱い薄闇で…ひっそりと輝いている。
「ふん、烏の号令でひと駆け…か?犬は色違いの方だに?軟派悪魔」
クー・フーリンを指しているのか。
悪魔への造詣が知れる瞬間、私の興味は花開く。
『いえ、しかしですね、これよりは貴方様のお傍にて番犬ごっこをする事と相成りまして』
ひくり、と、少年の頬が引き攣った。
誰をも寄せ付けない、孤高の狐。
親無しが故、同郷の童達はこの仔を苛む。
生きる為に必要な営みから外れた、狂ったミクロ・コスモス。
「僕は必要としてないに」
『上からの命令です、この巣に居るからには従わなければなりませぬよ?』
ざくざくと朱色の波を立たせる少年が、早速私を突っぱねた。
(そうでなくては、面白くありませんからねぇ)
ほくそ笑んで、彼が先刻まで居た樹を眺める。
音も無く垂れ下がる縄を見て、その先端に何を括るのか、考えていた。
何の為の工作をしていたのか…
恐らく、童の遊びでは無いだろうと。縄の先端の輪を見て思う。
『お待ち下さいな』
新しい主人の後を追う。
『下の名を頂きたいのですが』
「どうして」
振り返らない背中に、穏やかに答える。
『私の鳴き声を判別して頂きたく存じます』
そう告げれば、夕刻の陽射しに照らされた顔が、ゆっくりと此方を向く。
小さな顔に、切れ長な眼が綺麗だ。
「僕の名前なんて…皆と同じ、紺か狐と呼べば良いし」
『何処から見ても人間の形ですが?それに、名は結びを強くしますからね』
風が出てきた。先刻の縄の影も、それに揺られる。
「お前も苦労すんね、厄介者を押し付けられて」
ざくざくと、茂る小路を進む姿は、焔の中を歩むかの様に見える。
『いえ、永きこの生、色々噛み締めるが愉しい事と心得ておりますからねえ、ふふ』
その、細い背中にさくさくと数歩で駆け寄り、自身の甲冑から垂れるマントをカチリと外した。
『お体を壊されては私が叱られてしまいますから』
私の羽織らせた布を、一瞬ビクリとして手を掛けた少年。
顰めた眉、薄く開いた眼で私を見上げた…が、そのまま止まる。
私はそれとなく知っておりましたから、貴方が笑顔を向けられる事の少なさを。
それに如何様に返すべきか、戸惑いをきっと見せると確信を得て…
やんわりと、微笑んだのだった。
「結局は己が大事、と受け取って良いん?」
『ええ、私は隠しませぬ、ですから、貴方様も明かして下さいな』
「フン、悪魔め」
立ち並ぶ樹の影が一層濃くなる。
遠くの山の端に、ゆっくりと温かさが吸い込まれようとしている。
帳の下りる空気を感じて、か、ぽつりと呟く少年。
「夜」
『ええ、そろそろ来ますね』
「違う、僕の名前」
はっとして見つめ返せば、大股で逃げる様に離れて往った。
頭上の空の色は、あの仔の眼の色と同じに染まり始めていた。



葛葉四天王、という席を取り合うべく組まれた候補の雛鳥達。
常人には見えぬ存在が視える、特別な霊力を持ち合わせる人間。
いつかは此処を巣立ち、各々ヤタガラスの一羽となり暗躍するのだ、陰の世界で。

『夜様、失礼』
手にした竿で、数日前にマントを掛けた背に、ぴしゃりと軽く打った。
キッと振り返る、その怒りすら綺麗に映える相貌に、笑顔で云う。
『背筋が猫の様でしたので』
「そんな事まで云われんのか」
『貴方はきっと背が伸びますから、進言させて頂きますね』
「ホクトセイクンかヤマにでもさせたら?板でさぁ…肩を一喝…くふふっ」
冗談めかして哂う、その形は幼いのに、会話の術は大人びていた。
『上背があるのは得ですよ?それだけで相手を威圧します』
「薪は楊枝にならぬ」
『夜様、それに立ち姿が美しく見えます』
「悪魔が駆れて戦う事が出来れば、それで良いら…」
『美しさに悪魔は惹かれます、貴方様ならまず、それが早いかと』
「ああ、だからお前は容姿ばかり磨かれてるのかに?色惚け」
辛辣な言葉も、弾ませる会話の術。
くすくすと私から零れる笑いは、意図せずとも発されたもの。
其処に才を感じる。
『おや、リャナンシーと遊んでいたのを見られましたか?』
「僕の庵の外で遊ぶな…」
『夜様に何かあっては困りますからねぇ、在宅警備です』
「の割に、喧嘩には口出ししんじゃん」
『貴方の首を絞める事となります故』
「なるほど…お前、馬鹿じゃないら?…守護と庇護を履き違えてない」
落ち葉の獣道を並んで歩き往けば、見えてくる湖畔。
さして透き通ってもいない其処の岩石に、道具を一式下ろす。
竿を槍の如く回し担ぎ、一瞬警戒した貴方に向かい、差し出した。
『さ、どうぞ、夜様の分です』
その眼つきが険しくなった。
「…おい、僕は太公望じゃあないに、やっぱ馬鹿だらお前」
『ふふ、稽古ばかりではお疲れかと思いましてねえ』
用意した釣竿は、餌すら括れぬ真っ直ぐな針、しかも短い。
間違って魚が喰らいつこうとも、引っ掛かりもせずにするりと抜けるだろう。
「馬鹿馬鹿しい、一人で遊んだら?」
『では、私が手本を御覧にいれましょう、夜様』
ああ、愉しい。槍術の手本を見せるより、この方が性に合う。
水面の私の笑みが、針の切っ先で環状に割れる。
垂らした先には餌も無し。
『生き物は、知らず知らずに気配に寄せられます…』
一呼吸軽く置き、篭手の先から魔力を流す。
私の甲冑の色を融かしこんだ様なソレが、釣竿を伝い、針の切っ先へ。
傍に居る貴方が息を呑んだ。
『持った得物に流しませう』
針の先から、魔力が滴り形を成す。
揺らめく影が、それに喰らい付いた。
一気に引き上げ、雫が冷えた空気に舞う。
『狩った得物に流しませう』
流し方を意識して変える、引き上げたその魚は一瞬で貫かれた。
尾の辺りから突き出た針は、針に非ず。
「マグネタイト…」
『御名答、ささ、このまま焼いてしまいましょう』
主人の回答に満足して、私はアギを唱える。
『内から焼いては“外はパリパリ中ふっくら”になりません!炎は外から、ですよ?』
眼前に引き寄せ、適当に見繕った小枝を、MAGの針で貫通した穴から通す。
唖然とした主人に、今度はソレを差し出した。
『食べ盛りの貴方が召し上がって下さいな』
「…そ、そのまま?」
『そうです、マルカジリ、でどうぞ?回虫くらい胎で殺せなければ葛葉になれませぬよ?』
(いつかは人を殺めるのだから)
受け取り、皮の焦げた魚を暫し見つめた主人。
ぎょろりと舐める目玉にいい加減辟易したのか、頭からかぶりついた。
咀嚼の仕方は幼い。
『如何です?』
「………なまぐひゃいに、これ」
『ああ、せめて塩くらい振るえば良かったでしょうか…申し訳ありませぬ』
謝罪すれば、嚥下して…小さく吹き出した。
「でも、中はふっくらだ」
呟いて、細い腕を突き出してくる。
「その竿を貸せ、MAGの疑似餌を作れば良いんだろ?」
『私の故郷では疑似餌釣りが基本でしたからね、餌を与える必要は無いのです』
ああ、真意を察する貴方は聡明だ。
『腹ごしらえも済ませたのですから、暮れる前までに五匹程度はお願いしますね』
「…倍の十は釣ってやる」
見上げてくる眼に宿るのは、貪欲に上を獲る姿勢。
それは戦い抜く上で必要な欲求。
美しい姿勢で竿を振るった横顔は、捕らえる側の笑みを浮かべていた。



「最近紺色の稽古をつけるのが怖いわ」
刀の師範が、がやがやと集まる稽古場の隅で零す愚痴。
「与えてるのは何の変哲も無い木刀ってのに…切れ味がある」
それはそうだ、その為に普段からMAGを揮う機会を与え続けているのだから。
あの方の魔力を操る術は、恐らく候補衆の中では一番だろう。
『おや、候補の童に畏怖してらっしゃいますか?』
私の声にぎょっとして振り返る。
嫌悪感を滲ませるその表情、云わずとも判る。
悪魔如きが、というその感情。
「他の候補と手合わせさせた折に、怪我させんじゃないか、アレは」
『修行中の負傷なぞ、日常茶飯事でしょう?』
(そう、修行中なら、ね)
軽く会話し、道場を出れば、曇り空。
その空が如く、此処に淀む空気に、少し感情を呑まれる。
サマナーとして、悪魔を使う…
悪魔は、使役すべき存在。上に居るのは、人様。
その間に、別の感情は、在りや?契約が結ぶそれは?
「こん、こんこんこーん」
遠くから聞こえてくる…《とおりゃんせ》でも《かごめかごめ》でも無い。
椿の蕾が生る樹を壁にして、静かにその向こうを眺め見た。
着物の袖を掴み合い、じゃれあう童達…と云えば聞こえは普通だが。
単体に対して囲み、殴る蹴るの其れは、遊びとは云い難い。
「顔は止せよ、じじい等に文句云われんに!」
「狐、やったら贔屓されてんしなぁ、おめぃ」
せせら笑って、両側から羽交い締めにされる主人の胎を蹴った童。
鼻緒の先を指に引っ掻け、下駄の歯をあばらに抉り込む執拗さ。
「ぁっ、ぐぅ……こ……この、群れ烏……ふ、ふふ」
流石の主人も厳しいか、咽る声が絞り出されている。
しかし、哂って睨み返すその歯向かいが、更に歯を喰いこませる。
その、自尊心の高さ故、貴方は嬲られる。
骨折までいきそうなら、止めに入ろうかと考えあぐねている私。
すると、主人の指先の揮えが一定の動きを取っているのを視界に確認した。
呼び醒ます印。その指先に滲むMAG。サマナーの動き。
瞬間、周囲の童達が脚を止める。
地中より、ずぐり、ずぐりと生えた何か。
それ等が脚を捕らえていた。
そういえば…今、私刑が行われている場所は、墓地の傍ら…
(召し寄せた?)
候補のはしくれだけあって皆、己の脚を掴む白い骨が視えるのだろう。
悲鳴を上げて、私の主人を突き放し、倒れ込むなりもがくなりする苛めっ子達。
「…っふ……ふふっ、仲良く、遊んでたら?」
阿鼻叫喚の中を這い出て、駆け出した主人を視線で追う。
肩で息をして、やがてその足どりはふらりと定まってくる。
予測通りの場所に向けられた姿勢に、それとなく笑みが滲んだ。
きい
きい
『夜様』
暫く歩いた先で、最近は耳に馴染んだ音が響いていた。
此処の、薄暗がりが、貴方には心地好いのでしょう。
「……此処に垂れた紐が、あのままなら、すぐに逝けたのに…この、お節介が」
『そう仰いますな、はは、悔しい癖に、まだ死ねない癖に』
微笑んで、近くに寄れば、紅い華水面が揺れる。
こんなに綺麗なのに、里で貴方しか理解していないとは、嘆かわしい。
「ブランコなんてさ、幼稚だら?……作り変えるにしたってさぁ…」
『《鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし》』
ひとつ詠い、その板に項垂れた貴方ごと、ぎい、と押す。
『ブランコは漕ぐものです、往ける所まで高く…ね』
揺れるまま、うっそりと見つめてきた主人の眼が私を捉える。
『愛は待つものではありません、憚り、激しく奪いに往くものです』
「愛って…そもそも何を指すの?」
少し咽て、貴方が唱えた。
「子孫を残す為に、生体が脳に与える錯覚?自己保身の為の依存?」
とても幼子から出る言葉とは思えない。
『それは個々で違いますからね』
強く押す、高みに往く程、しがみ付く腕。
『心配も妬みも慈しみも支配欲も肉欲も、思う者によれば愛となりましょう』
「おい…なにそれ…不明瞭」
『ええ、難解な感情です』
貴方が、きっとそれを感じ取った事が無いのです。
生まれた頃から、ずっと此処で虐げられる貴方には…
恐らく、偏愛しか与えられた例が無い。
高い魔の力…ともすれば、影の者に近いその気。
乳臭さを払拭した、その冷たい相貌。
「帝都に往けたら…愉しいかな?」
ぽつりと零された貴方の声に、何故か戸惑う。
此処とて腐ってはいるが…人の多い都会は、異界の様な場所だ。
『夜様が候補の頂点に達すれば、往けますよ』
それが幸福なのか。
「そう……ま、拾われ者の使用価値なんて、それで決まるって自覚はあったからに」
痣だらけの素足を振るって、己の力で漕ぎ始める。
「葛葉の帝都守護…獲るぞ、僕……なあ、リン!」
北風も出てきたこの頃より、貴方の眼が葛葉に向いた。
疾走すれば、風はより冷たさを増す。
失速すれば、再び加速する事は難しい。
夜様…貴方は、何に向かっているのか、解っているのですか?
知っていて止めない私は、残酷でしょうか?
いいえ、仕方の無い話…私はこういう生き物ですから。




「リン、先日依頼した本」
ふと、思い出したのか、主人が椅子に座ったまま顔を向けてくる。
あれから少しばかり経った…それだけなのに、人間の成長は早い。
すらりと着物の裾から伸びた脚は、薄く、しっかりと筋力を湛えている。
まだ子供…だが、幼少というには大きい歳と成った、私のサマナー。
『行商にこっそり頼むの、結構大変なんですよ?』
「…嫌なら僕が自分で頼むわ」
『そそ、それは危険ですからっ!』
フン、と哂って、私から渡されるを待つ。
外はしとしと雨が降り、そんな貴方の黒髪がどこかしっとりと艶めいている。
陰った少年の美しさは、ここら一帯の悪魔にも伝わっていた。
役得、と女性悪魔に罵られる私は、毎度笑って誤魔化す。
『私が妙な眼で見られますよ…ホント』
求められるのは、雑誌が殆ど。
他からの情報を遮断される此処では、当然御法度。
こんな橋を渡ってしまう私は、恐らくこの少年に何か抱いている。
“浅く広く”が身上だったというのに、どうしたものか。
『はいはい、此処に揃って御座いますよ』
風呂敷を、天井の隅、隠し納戸から取り出す。
槍で金具を引っ掛けて、するすると開け閉めする。
その槍先で断ち切らぬ様気をつけながら、主人の眼前にぶら下げた。
『キング・宗教と科学・蠍・少女文芸・小令女・GERMANIA…』
「フフ、そぅそぅこれこれ…」
ちらり、眼を通したが、どの雑誌もちぐはくで。
「クッ…フフフ…見て!これを呑むと簡単に勃起するんだと…あっはは!」
内二冊なんかは女性向け。
「“帝都の乙女はリリアン・ギッシュを真似て化粧する”……ふぅん」
『お化粧ですか…実はその辺り、私は疎くてですねぇ』
「アイライン、を筆で引いて、シャドウなる粉で暈す…だって」
頁をぱらりぱらりと捲っては、眼を細めて愉しそうにする。
その顔を見ると、葛葉の席を獲り合っている事など、忘却しそうになる。
「シャドウっていうの、チョウケシンの鱗粉で代用可能かな?」
『夜様、モボにでも成られるのですか?』
「違う…!女性悪魔との交渉はこの手の話題が引きが良いからだよ、馬鹿」
『はあ、なる程、貴方もいよいよ私の仲魔入りですか』
「馬鹿、ばーか」
長い脚で軽く蹴られた私は、笑って板の間に敷かれた柄の織物を踏みしめた。
勾玉柄と呼ばれるそれは、私の呑み友達がくれた物。
私の故郷ではペイズリーと呼ばれる。
装飾に拘るリャナンシーが、私の主人に、と…所謂貢物という奴である。
しかし、浴びる様にその後呑ませ、お流れとさせた。
淑女の毒牙にかかるには、まだ早いというもの。
そろそろ十二・三程度の歳となるのか…このお方は。
「…此処の頁は、割愛」
ふと零した言葉に、視線を下ろせば…手にする雑誌の見開きは写真。
人間が見れば美味しいと感じるであろう、その料理。
『珈琲、紅茶に、ハヤシライスに、ヒレカツ、ビフテキ…』
「はぁん……流石に、胃にくるな、それ…」
その、やや憔悴した声音は、それ等が重い、という意味に非ず。
小さく胎の嘆きが聞こえて、私は小さく吹き出してしまう。
『夜様の性格に反し、胎は素直ですねぇ』
「茶化すか口説くしか出来ないの?お前」
逆に座り、椅子の背凭れを抱えて、唸る貴方。
「こういう時、悪魔は楽だに……」
悪魔と人間の比較が、思わず口をついている。珍しい……きっと苦しいのだ。
それもその筈、断食も既に四日目。
また御上達の命な訳であるが、今回は少しおかしい。
「どの宗派の真似事だろ…カソリックかな?仏かな?印度のかな?ふふん」
『どれにも該当しない感じですからねぇ…何を考えていらっしゃるのやら』
「体内の気を云々とか?…そんならもっと楽な方法があるだろ…全く、厭になるら?」
しとしと、格子の向こうの紅葉が濡れている。
伝う雨粒が流れる、地面を叩く、屋根を叩く。
暫くすると、数冊まとめて雑誌を寄越してきた主人。
黙って受け取り、微笑んで唱える呪文。
椅子から立ち、先回りして主人が開け放った障子。
更に向こうの雨戸の隙間まで、一気に。
「フフッ、さようなら!帝都の薫り!」
炭化したそれ等が、焔と疾風の術で、外へと追いやられて往く。
別れの言葉と共に障子を閉めた横顔は、名残惜しそうにも見えた。
読み終えた冊子は、全て焼却して、風と流すのだ。
証拠隠滅の儀式を、既に幾年行ってきたか…
『取り寄せに数月…読むは一瞬、ですか、いやはや儚い』
「溜息吐くなリン、しっかり此処に在る」
綺麗な指先で己の頭蓋をトン、と小突く主人。
だが、それは真実だ。異常とも云える記憶力を以ってして、貴方は外を知る。
「帝都に往けたら、まず何処を散策しようか?」
机に戻ると、管の手入れを再開した。
寝床を綺麗に磨き上げる、大半の悪魔は気にしないが、こうして見れば気分が良い。
デビルサマナーの携帯する、大事な道具。
そう、道具。
「ミルクホール?活動写真も良いなぁ」
『それは守護の散策とは少々違うのでは?』
「煩いな…お前もモガを口説いてみたいんだろう?スケコマシ!」
ククッ、と哂って管をひとまとめにする。
手入れを施した後は、機関に返す必要がある。
そう、まだ候補の内は、決められた管しか持てないから。
蛇の目傘を確認し、支度を始めた主人に声を掛ける。
『この雨なら、他の仔達もうろついてはいないでしょうねぇ』
「何ニヤけてんの?リン」
『いえいえ、私、あの方々が嫌いでしてね』
下駄に足先を突っ掛けた主人が哂う。
「へえ、奇遇…僕もだ」
開いた紅い蛇の目が、頭上でくるりと嗤う。
薄い陽が、我々の体を染め上げる、傘と同じ色に。
「未だに狐だの云って油揚げを投げてくる」
『もう何年ですかねぇ、成長が見られませんねえ』
「ま、昔に比べて蹴る場所は姑息になってきたかな?」
主人の着物から覗く範囲に、痣は見られない、成る程。
「体を触ってくる輩が出てきたのは…おぞましいけどね」
それを聞いて少し、ぞわりとした。
最近感じるこれは、錯覚では無かったか。
確かに、候補の一羽だろうが、機関のカラスだろうが、最近妙に…
私の主人の肌を、ねめつける様に見る。
他の師範が手取り足取り、やたらに…
「リン」
『え、あ、はい』
「どうした…?着いたぞ」
気付けば、この里の本殿…三本松様の鎮座する“崇高な場所”に居た。
この里、いや、ヤタガラスの長たる神木…
「渡してくるだけだよ、リン、お前は此処で――」
「紺、待ちなさい」
割って入る声、其処に我々は視線を配す。
黒い頭巾を巻いた…烏の人間。
「タム・リンには先にお引取り願いましょう」
淡々と告げられ、私は朗らかに応える。
『おや、ではこの傘は置いて往きましょう、私は隠し身さえすれば、水濡れはしませんからねぇ』
相合傘は、この様な際には困り物であった。
「紺、貴方にはお役目が」
「随分と…急で御座いますね」
「しかし、これで断食は終りとなります、喜びなさい」
「はい、有り難う御座います」
淡々と返す主人の顔は、薄く哂っている。
此処での処世術…何事にも、哂ってかわす事を身につけた夜。
不敵な笑みは、力さえ具わっていれば、魅了か畏怖を生む。
「ではリン、軽食でも用意しておいてくれ」
『終わったら食べる気満々ですね』
「当たり前だろう、それと少し冷える、部屋でも暖めておいてくれ」
『御帰りを待っておりますね、夜様』
別れを告げ、私は雨の中を歩んだ。MAGのベールを纏って、はじく水。
周囲を眩ませ、景色に影を落とすのみとなり、縫い歩く。
と、庵に佇む影を見つけ、その脚を止めた。
『…何用でしょうか』
黒い羽達は、嗤った。
庭に出来た小さな水流に、貴方の愉しさの、炭化した残滓が、さらさらと融けていた。




高い天井に、揺らめく灯篭の灯り。
磨き上げられた板の床を見て、主人の部屋より数段格上の素材と思い知る。
そんな、どうでも良い事に気を逸らす程に、私は動転しているのか。
適当に、この世を興じて生きてきた私が?
「如何なる理由があってっ」
羽交い締めにされる、主人を前にして、何故身を隠す?
「お答え下さいまし!三本松様!!」
声を張り上げた主人、だが、その叫びは松には届かない。
ぴしゃりと大扉が閉められ、松は応えぬまま、密室となった。
「お狐、暴れるでないぞ…これまで散々待ってやったのだ、頃合だろうて」
愉悦を含んだその声音は、主人の腕を取る黒装束から発された。
既に、その手先が肌を舐め回すかの如く這い伝っている。
「…何の儀式でありましょうか」
「我々がな、くく…喰らってやろうと思いたって、許可を得たまでよ」
「許可…」
「松様は云ったぞ?壊さなければ良い、と」
一同が一斉に笑った。すればみるみるうちに主人の頬が赤くなる。
「御戯れが真意なれば、糾弾致しまする!」
自尊心を言葉で詰られるだけで、激しく激昂するのだ、私の主人は。
なのに、それだというに、何をするか…この烏達は。
「儀式に昇華させれば良いだけの事、何、力を抜けばそうそう痛く無い」
「御神酒を持て」
白い襦袢越しに、白い肌が薄く透けていた。
引き締まった胎の筋が躍動している、呼吸が荒い。
「御上様!」
「下手に動けば、お前がどう処遇を受けるか、解らぬとは云わせんぞ、紺」
怒りに震える眼光が、揺れた。
跳ね除ける腕が、ゆるゆると力強さを失くしていく。
その様子に、腕を捕らえていた装束が肩を小さく震わせた。
「そうだ、拾われた身で、そうそう簡単に葛葉の席が獲れると思い上がるでないぞ」
それが始まりの合図となった。

「御神酒はな、純粋な物だぞ?そこらの酒屋で買える物と思うな?」
「っ……っぁ……」
後ろ手に縛られ、喰い込む紐は封魔の荒縄。MAGを通しても楽には切れない。
腰を突き上げる形で、土下座の体勢をさせられる主人を見て、まるで他人の様だった。
使役される身というのに、潜んでいる、助けもせずに。
「ほうほう、酒豪よの、ほほ」
囃し立てる周囲の装束、一様に注がれる視線は一所に集中している…
下着すら掃われて、曝された下肢。
秘部を本来覆う布は、首に巻かれている。
まるで犬の様に、それがぐいぐいと引かれ、俯こうとする主人を上向かせる。
「っぎ……」
冷や汗が、じわじわと、普段なら涼しげな頬を伝う。
睫毛を震わせて、微かに開かれた唇は浅く呼吸を繰り返す。
「もう二本はいけるだろう?」
「同じ銘のはもう無いぞ?」
「仕方ない、ほら、犬芸で云うアレだ、チンチンしてみろ」
あまりの俗っぽい比喩に、その発言をした周囲から失笑が零れる。
当の装束も悪乗りか、首から垂れる褌をぐい、と引き、促しては嗤っていた。
「あ、ぁ、っ、ふ」
視線が定まらない主人が、両脚をどうにか支えに、膝立ちとなる。
呼吸を整え、眉を顰めたまま唸る。
「この、様な…御無体…っ……葛葉の、サマナーに、必要でありましょう、か」
「他の候補なら、こうはならぬだろうなぁ…ふっ、ひひ」
「自分、に…何の落ち度が」
「落ち度?少し生意気な位で、他は全て及第点…いいや、それ以上なり」
膝で体を支える主人が、局部を見られる羞恥に震えるよりも…苛まれる要因。
御神酒の瓶を、直に後孔に注がれ続けて数本目。
薄い胎は、ゆるゆると脹らみを増していた。
「ほれ、狐、畜生みたく鳴いてみや」
軽く、その胎を、しわがれた爪先で蹴る装束。
瞬間、唇を噛み締めて瞼をきつく結ぶ主人。
黒髪の先から、雨の格子が如く、滴る雫。
「鳴けばしっかり厠で出させてやるぞ?」
ニヤニヤと嗤う口元、ひび割れた爪が貴方の胎を傷つける。
「う、ぅうぅ、ぁ、自分、は、狐では」
云うなり、その膨れた胎をぐぐ、と押す脚。
思わず脚を窄める仕草に、限界が近い事は一目瞭然。
「では、畜生如く粗相すれば思い知るか?え?」
「ひ」
「今の胎は蛙の様だがなぁ?」
強いひと蹴りが入る、貴方の精神が…決壊する。
「ひっ、ぁ、ぁぐぅぅあああっあっ」
詮無き事、どうして止められようか。
それこそ、栓も無いのに、無茶な話だ…
ばたばたと床を濡らして、噴水の様に磨かれた床を穿つ。
がくがく震える脚に伝い、失禁とも見紛う。
苦悶の表情で仰け反り、喘ぐ主人の白い喉元を喰い込む白布。それが強く引かれた。
びたん、と顔から床に突っ込み、呻き声が聞こえてくる。
ふるふると上がる面は、鼻から血が薄く垂れて痛々しい。
「おい、折角の顔だろうが、其処の価値を落とすでない」
向こうの装束がその行為に憤慨する、しかしそれは心配とも違う。
「ほう、断食はしっかりと守っていたのだの?」
ひくひくと蠢く坩堝を卑しい眼で眺め、屈みこんだ装束の頭巾が寄る。
「漏らした神酒が綺麗なままだて、ひひ…」
「そ、その為に…まさ…か…」
「ん、ふひ、美味い、まっこと美味いわ…」
「あ、ぁあぁ、お、御上、ィぃぃいいいぃぁああぁあ」
蕾から無理矢理ちゅうちゅうと吸い出す蟲の様な装束に、いよいよ主人の声がおかしくなる。
「な、ぜ、何故に、視えてる、視える、のに、悪…魔?悪魔か?悪魔で在らせられますか、御上、まさか」
ああ、壊れていく。折角、手折らぬ様に、愛でた花が。
孤高の花が。この里で、唯一腐れの無い、貴方が。
「悪魔?ふはは、それこそ“まさか”なり、悪魔を使役しむる側なるぞ?我等烏は!」
ひとしきり舐め吸われた孔、見れば舌まで入っていて、隠すこの身を戦慄かせた。
下肢を忙しなく揺らす黒い装束に、淫鬱な空気が漂い始める。
「さて、誰が突き破る?」
その一声に眼を見開く、そんな主人の脳裏に、今何が過ぎっているのだろうか。
貞操観念の排他…淫蕩に耽る俗な記事…書物で得た知識だろうか。
「膜なぞ無いに、初物という捉え方も可笑しな話だろうて」
「高純度のMAGを湛えた肉壷なら、雄もしごき甲斐があるってもんだろうさ」
ああ、きっと脳内のそれ等知識が、下卑た猥談で掻き混ぜられている。
しとどに濡らされた其処に、何が入るのか。
人間が排泄する其処から、何を逆に?そんな事、この状況で解らぬ筈…無かったのだ。
「虫拳で決めれば良い」
「それは良いわ」
どっと沸く黒い装束の嗤いに、震えすら止めた私の主人。
開始された虫拳は、蛙と蛇と蛞蝓を模した拳で戦う遊戯。
三すくみの鬩ぎ合いに賭けられるのは…あの方の、操というのに。
そんな…童の遊戯で?
まるで、おはじきや飴玉と同程度の価値を賭けるかの様な。
「おい、待ってたも」
蛇の拳を出して勝ち残った装束に、静止の声が掛かる。
やや不満気に、止めに入った装束を見やる一同。
転がる主人の眼に、微か生気が戻った、その瞬間。
「もう少し成熟してからで無ければ、裂けてしまう、もう二年程待たぬか?」
暗転…その、欲に濡れた声音に、希望は霧散する。
「ゆっくり拡張すれば良いだろうに…な?それこそ、管でも入れさせてみればどうかね?」
「管の携帯を尻の孔に?それは流石に…っくく」
「いやしかし、落とさぬように胎に力が入ろう」
「修行か?」
さも可笑しそうに爆笑する。貴方の尊厳など、もうこの空間には無い。
今、此処で飛び出せば如何なろう?私は斬り捨てられるか?
貴方と離されるのだろうか?
(夜様が私のサマナーではなくなる)
あの、聡明な仔が。
あの、高慢で、気高い…
私に名を赦した、あの方が。
この腐敗した里に佇む、美しい花が。
「紺野、お前を捨てた親でも恨むが良いわ」
腕の戒めは解かれ、代わりに捕らえる黒い袖。
「その様に綺麗な顔…有り余る魔の力…持って生まれた事を恨むが良い」
仰向けにされる相貌は、唇が、ほんの僅か…震えていた。
「お、親御など、自分に、は……何、を、何を恨めと申されましょう」
「なれば自分を恨めば宜し、此処に葛葉の候補として、今居る、己をな!」
ぐずぐずと、無理矢理侵入する、貴方の下から、異物が。
「は」
仰け反り、白布の隙間から喉笛が覗く。
虚空を見つめたまま、白目を剥いた私の主人は、喘ぎも呻きもせず。
隙間風の様な、何かが吹き抜ける音。
「っ、は…ひ」
風の音なら、救いがあったろうに。
「っ〜ひゅ、ひぅッ…ッ!〜っひ…〜」
目尻に、雨垂れの様に、一滴、伝っていた。
今まで、独りだろうが、暴力を受けようが、涙ひとつ見せなかった貴方が。
「おいおい、過呼吸を起こしておるぞ?」
「胎いっぱいで苦しいのか?まだ根までも入ってないというに…」
生木に鉈でも喰い込ませた様な、そんな音が視覚から鼓膜という器官を振動させる。
正常とは云えないその呼吸、ビクビクと痙攣する肉体。
受け入れる事には適さぬ器官で、幼いその器で。
貴方のすべてが、黒い影を拒絶していた。
「おい誰か、この発作を止めてやれ」
「死ぬぞ」
悠長に構える烏の群れは、そう云いつつも嗤っている。
(夜様)
誰にも視えていない、この手を差し出す。
何も出来やしないのに、貴方は縋る事も出来ないのに。
「袋を持て、信玄袋でも良い、あてがえ」
「要は、その陰の呼気を戻せば良いのだろう?ひひ」
私の透けた腕の向こう側、主人の頭は床に打ちつけられ…
「ぁむッ、ん、ぉぉおおおっぉ」
其処に跨る八咫烏の三つ目の脚を、口に突っ込まれていた。
「息が詰まってしまうぞよ」
「やれ、おんしの袋を突っ込んで如何する…」
「っふ、低俗なりや、ひひ!」
黒い群れの中、突き出た細い脚…
時折引きつった様にびくんと蠢き、くぐもった悲鳴が漏れる。
「ぁ゛ ぁあぁ ぁ゛ あ ぁ」
下肢には相も変わらず歪な鎖が打ち込まれ。
「げっ、ぅげぇえええええぇえっ」
人形が如く揺さぶられ、引き抜かれた其処から、逆流する白。
上から、下から。まるで管から溢れるMAGの様に、管から溢れる血の様に。
滲出したそれは、内部を蝕むのだ、きっと。
「流石にまだ狭いか」
退いた装束がそう呟けば、替わりに息の荒い装束が。
貫かれたばかりで、赤い雫までも垂らす蕾に、脈打つ口吻が再び挿し込まれる。
吸う為に非ず、注ぐ為、腐った蜜を。
「胎が空いておろう?たんと喰え!儂等のが呑めぬとは云わせぬぞ?」
「お前は烏に拾われた、生き人形も同然なのだ」
呪いの言葉が、あの方の存在を塗り替える。
「葛葉に適した才は、確かに有る…がな!」
死人の様な、青白い肌に、飛沫がかかる。
口を目一杯に抉じ開けられた主人。あの日釣った、魚の眼。
「安心するのだな、万が一成れなかった場合、瑞々しい間なら囲ってやろう」
若き肢体からMAGを浅ましく啜る、老烏。
その鉤爪に、肌を刻まれた貴方が、ゆっくりまばたきをした…
喉奥から、器官を抉って引きずり出されたアレ。
共に引きずられて、出た言葉。
「…く…げふっ、が……ぼ……僕、は……葛葉、に……」
ぶるりと震える装束の黒が、白い線を鮮明にする。
白く滑るそれが、てらてらと灯篭に照らし出されたなら、淫靡な腐臭が漂う。
「に、んげ、ん…に…ぼ、く」
朦朧とした呟きは、黒い袖から覗く骨ばった、しかし脂っぽい手で、ばちりと遮断される。
頬を赤く腫れさせ顔が反対向きになれば、続いて首の布が引かれて戻される。
「四天王に成りたくば、せいぜい壊れる事の無い様にする事だ、狐」
魚の眼の焦点が定まって、色は陰りを増す。
「お前は人に非ず、畏怖すべき獣なのだ…それは破壊の才」
「人の世に居れる事を感謝しろ!何の仔かすら定かでは無い童を此処まで育ててやったのだから」
「サマナーに成るのだろう?…儂等の機嫌取りくらい軽かろうて?交渉してみい、ほれ?」
主人の…その苦悶から滲み出る、眼の暗い輝きは…
私の、悪魔の性を鷲掴みにした。
「この世に生を与えてやったヤタガラスに、血肉で奉公するが良い!」
「さて悪魔会話じゃて、そうだな…狐の真似でもしてみぃ?」
突如開始される交渉劇。
得物をつき立てたままで、交渉とはこれ如何に?
「さすれば、この場は抜いてやらぬでもない…」
注がれる声に、白い唾液を端から垂らす主人は、小さく…
「こ……ん」
崩落して往く。いや、創造だろうか。
路を、決めてしまったのか。
「それではおんしの記号だろうが、畜生が如く啼けと云っておろう!!」
ぎち、と音を発して深く喰らい付こうと抱えられた脚。
痛みからか、諦観からか、既に悟ったのか。
貴方は小さな唇を…やがて大きく抉じ開けた。
「コンッ、コンコンコンッ!!!!」
高い天井に響いた、そのかすれた啼き声が…私の、何かを奪った。
が、しかし、にしゃりと嗤った装束は満足そうに…そのまま腰を沈める。
話が、違う。
「条件提示なぞ無関係なのだ…騙し合いなるぞ?悪魔との交渉は」
しわがれた御上、そのひと啼き…思い切り突き上げられる主人。
そして、結合の股座を隙間から蹴る、他の烏の脚。
「支配し切れぬサマナーなぞ、此処には要らん」
「ッひぎぃいぃいぃ!!」
「支配の術を、支配されて学べ」
その脚に強かに揉まれ、雁字搦めに墜ちた少年。
「……なんだ、失禁しとるではないか」
「強いMAGでも含んどろうか?くっ、誰かこの聖水でも啜ってやれ」
ああ、その小水すら食む烏達よ。
何処まで、私の主人を喰らう?何処まで育てる?
己の欲を、葛葉の席とすり替えて。
体に支配を、狂気を教え込まれた、繰り人形を作るのか?
(隠し切れぬ)
限界だったのか…気付けば脚は勝手に部屋を抜けようとしていた。
御上達の命令通り、隠し身にて、佇んでいた、観客の様に。
それがどれだけ滑稽だったか、今になって強く内を叩く。
ああ、貴方を…私は…




火鉢の、微かな音が雨音に混ざる。
空気を喰って燃えるソレが、人間の胸を温めるを、主人を見て初めて実感したのは最近の事。
格子の外に過ぎる気配、それに立ち上がって、戸口を開けに駆けた。
『夜様』
いつもの声で迎えれば、全身濡れそぼつ貴方が立っていた。
思わず足元を確認する、白い残滓が流れ伝って、水に融けだしてはいないだろうか、と。
そんな私の卑しい心配を余所に、ぴしゃりと声が飛ぶ。
「部屋、暖めてあんの、リン」
『はい、勿論抜かり無く』
「夕餉は」
『は…』
その言葉を、疑った。
まさか、今さっきまで、あんなにされていたというのに。
貴方は、その体に、胃という器官に、物を入れるのですか?
『あ〜…すいませぬ、どうにも、雨音で記憶が霞んでましてね』
「してないの、用意」
『直ぐに致します、乾物と茶の…茶漬けで宜しければ』
ぐしょりと重みを増した着物を、土間で絞る姿をちら、と見やる。
『傘は、どうされたのですか』
「…お前に持たしてばかりだから、自分で持つの、面倒だった」
嘘仰いな。
体の、生乾きの汚れを、雨に融かしたかったのでしょう。
落ちきるまで、雨に打たれていたのでしょう。
でなければ、下着が塗れそぼるのは、おかしい。
『全く、私が居ないと何もお体を大事になさらない』
笑って支度を進める私は、愚かだろうか。
私が居ても、何も、護られなかったろうが。
(ああ、誰が、私の主人なのだ)
貴方だ…いや、前の主人か…いや、サマナーを統括する里か。
私は、何に従っている?
『ふうふうして差し上げましょうか?』
「いらん」
冷えた襦袢を箪笥から取り出し、それを纏った主人。
盆に乗せた食事を、す、と座る傍に突き出す。
火鉢、湯気を湛えた茶漬け、異国の織物。
あたたかいものに囲まれているというのに。
『用事、お疲れになりました?』
「…食事の時、返事しないに、僕」
それだけ返して、唇にかき込む。
先刻まで、肉を銜えた其処で……
『夜様…?』
「…ぁ…はぁ……っ、ぐ」
が、その平静は、雨音が強まる事で如実になる。
貴方の呼吸の乱れが、不規則な雨粒に共鳴し、泣くのだ。
『夜様!!』
突如、すっくと立ち上がり、障子をもどかしく乱暴に撥ねた貴方。
追う私の眼の前で、小さな体をくの字に折り曲げ。
「ぅ、ぉぐ、ぇえぇえええェ、エッ」
吐寫される物は、明らかに今摂取した物より容積が多い。
白い濁りが雨の小川に流れて、庭を横切る。
「ぅ、く、える」
咽ながら、口を押さえ、指の隙間から尚、零す貴方が叫んだ。
「喰える!喰えるぞリン!!僕はまだ喰えるっ!!」
『落ち着いて、下さいな』
「胎を満たすんだっ!さっさと埋めるんだ!もう断食は終わったんだッ」
暴れる貴方の肩に、静かに外套をかける。
あの日を思い出して、唱えた。
『急な摂取は、負担がかかります…お体、大事になさって下さいね』
誰の為?
『さ、湯浴みしましょうか』
「……」
微笑んで、理由も聞かず。
『処理しなくては、痛くなりますからね』
私は、察した振りをしたのだ。
深く問わず、主人の体をまず労わる、有能な振りを。
私に縋る貴方を見下ろして…微笑んでいたのだ。





あれから、幾年…
また、朱に染まる時期となった里。
「最近のアレに教える事なぞ、あるか?」
給仕の装束が、荷を腕にしたまま、私に伺う。
『悪魔への造詣も、既にお偉方と同程度培ったと思いますよ?』
「だろうなぁ、最近紺色が外の悪魔とつるんでるの、ちらほら見るんでな」
『出来れば、内密に願いますね?』
里の外と通じる事は、基本的に禁忌なのだから。
しかし、密告されたとて、あの方にとっては既に痛手では無いのだろう。
「報告して俺に得があんのか?いやぁ、無えな」
『でしょうねえ』
「狐の祟り、っつうのも…あるしな、それに…」
その装束の口元が、ゆらりと歪む。
「敵に回すよか、何か持ち出して…傘下に入っとくべきかねえ」
『へえ、まだ一介の候補である者の傘下にと?』
「あの能力なら誰も文句無え…いずれ葛葉四天王だろうさぁ、恩を売っといて損はねえ」
へらりと笑って頭巾を被り直す男は、まだ笑いを潜めなかった。
「それにあの容姿だったらぁ…なぁ?男里の此処にゃ、美味しく映るってもんだ」
『生憎、主人にその様な感情は抱きませんのでねぇ』
離れ、帰路に就く。
『それに、女人には不足しておりませんので、私』
「け、悪魔は羨ましいな〜ぁ」
文句を吐かれ、それに穏やかな笑みで返してやる。
(皆、酔っている)
皆が皆、ではないが。この里の一部は既に、主人を崇拝していた。
葛葉の…それも高位、ライドウの席は、もう見えている。
そう、あの方の望んだ、席が。
暮れる夕映えに、陰る時刻の美しさを感じる。
西からの陽は、ずっと貴方の住処を照らしているから。
それに照らされる貴方の横顔が、影になって美しい。
(私も、酔っている?)
自嘲して戸を開けども、姿は見当たらない。
どうしたか、また手酷い遊戯に呼び出されたのだろうか。
ふと、机を見れば…何かの用紙。
『おやおや』
帝都の師範学校の、問題用紙…だろうか。
束になったそれ等は、隅から隅まできっちりと埋められている。
帝都…やはり、あの方は、ライドウとなるのか。
ヤタガラスも、いよいよ止められないという事か、準備を進める様子が伺える。
じわり、と高揚する…が、同時に訪れる、この焦燥。
何故か、悪魔のこの体を…寒く感じる。
『…夜様』
呟いて、秋空の下、駆け出す。
実る畑、戦ぐ稲穂、人間の営みの傍を駆け抜け、里の外れへと。
きい
きい
『夜様』
馴染んだ音は、昔よりも鈍い。
板の支える重みが、たわわに実った証拠。
「何をそんなに慌てているのだい…リン」
吊り上る唇には、幼さは無い。
縄に着物の袖を絡ませ、しな垂れる様は舞の様ですらある。
「どうした……フフ……御上様方が呼んでいるのか?」
『いえ』
何故だろう、理由を探せば、一応思い当たった。
『帝都に往く事になれば、色々お話しておかねばなあ、と思いましてねえ』
「今更?」
『えぇ、老婆心なれど』
笑って云いながら、その背面にさくさくと、朱色を掻き分け寄る。
やはり、予想通り伸びたその上背に、くすりと笑みが零れた。
『この板に乗り上げるのも、既に簡単でしょう』
「だな…お前の腕が無くとも、容易に漕げる」
私の腕が、それを聞いて少し距離を置く。
そう、これが、丁度良いではないか。
『ライドウの十四代目となれば、私の力も不要でしょう』
呟いて、微かに揺れるブランコを離す。
「リン、お前は……」
昔より、少しばかり低くなった、艶の増した、その声を聴く。
「里に使役されているのか」
『いいえ、貴方様の悪魔で御座いますよ、ふふ、どうされました?急――…』
縄に絡む腕が、解けたと思った瞬間…腰帯に携えられた小太刀に伸びた。
自衛の為の模造刀とはいえ、MAGをその切っ先に滲ませる貴方が振るえば、凶器。
背後に跳躍すれば、自らの銀の髪が宙にはらりと微少舞った。
その一閃を確認し、手に槍を喚ぶ。
「なればその槍、仕舞えよ」
板から飛び立ち、宙返りで私の甲冑へと目掛け、蜂の如く刺してくる。
『夜様、不意打ちは卑怯ですよ!』
「お前がまず教えた事だろうに、フフ…悪魔には、容赦せずとも良いと、ねえ?」
私を朱色の絨毯に押し倒し、哂う貴方は…妖艶だ。
「僕もね、今日はお前に用が有って…待っていたのさ、リン」
見下ろしてくる、その眼は…いつか見た、貴方の湿った眼。
小太刀を私の首元に押し当てたまま…その付け根、耳元を、舐め上げて往く。
曼珠沙華より、下手すれば赤い舌。
『おやおや、どういった御戯れで?』
「…あの、豚共に、聞いたのさ……」
ああ、もしや…あの日、私が見ていたという事実が露見したのか?
笑って待ち構えれば、しかしそれは意外な方へと転がった。
「悪魔との、契約の術を、ね」
『ほう、あの好色烏達も、偶にはまともに講釈するのですねえ』
「僕を犯しながらではあったがな、フ、フフッ……」
云いながら、貴方の指は、その紺色の着物に潜って往く。
白い首筋が、暗がりに浮かび上がる。
赤い唇が…輝く目元が。
『…化粧、してますか?』
「判るかい?いつぞやの雑誌を参考に、記憶から掘り起こしたよ」
いつにも増して妖艶な…その瞼。
瑠璃色だろうか、翡翠色だろうか。
「チョウケシンの鱗粉…僕の血の口紅……外面から交渉の成功率を上げてみた」
ああ、どうりで魔の香りがすると思ったら。
『いやぁ、お美しいですよ…夜様』
純粋に賞賛して、伸ばした篭手の指先で、その黒髪をすい、と撫ぜた。
昔、撫ぜれば憤慨したその頭を、ゆるりと。
てっきり、また同じ様に私を罵るのだと、そう思ったのに。
「僕と」
あの頃と違う、微熱混じりの囁き。
「僕と、結べ、リン」
合わされた唇から、リャナンシーと酌み交わす酒よりも強い…上品な味がした。
弄る指は、あの老烏達に仕込まれたのか、甲冑の隙間を縫って、滑り込む。
「ん、んぅ…ぷ、は」
やがて放し、ニタリと微笑む顔は、どこか愉悦に歪んでいた。
何故だろうか、こんなに美しいのに、こんなに芳醇なMAGを湛えた肢体なのに。
『貴方と…まぐわえ、と?』
「そうだ、命令だ、お前のサマナーである、この僕の」
『どういった理由で御座いますか?』
微笑んで酷く冷静な私に、きっと苛立ちを燻らせたであろう貴方。
小太刀を頭の横にぐさりと突きたて、一輪曼珠沙華が落ちた。
「何故?理由が無ければ出来ぬ命令か」
『そうですねえ、私、同性と興じる訳ではありませんから』
「そんなに魅力も無いか」
『いいえ、そこいらの女人より、そそりますよ?合格ですよ?』
あはは、と笑う私の頬を、白い手が鋭く薙いだ。
じん、と頬が痺れた。痛覚より、視覚に訴える、その光景。
「管に…入れず、ひたすらに、MAGを注いでやる」
私を叩いたその手を握り締め、眉を顰める貴方。
「裏切れぬ様、胎から血で…契る為だ」
その台詞に抱いたのは…充実感と…背徳。
『夜様、私は既に裏切っておりますから、結ぶのは止めた方が良いですよ?』
「…何だと」
『私は、貴方が始めて突き破られたあの日…あの刻…』
上に乗る体が強張った、言葉を待っている。
『ずっとお傍に居りました、この身を隠して、ね』
絶望するだろうか、蹴るだろうか。
妙に浮付いた私は、何処かで貴方が私を突き放せば、と思い、告白をした。
そう、すれば…きっと後で楽だから。
「へえ、見てたのか」
『ええ、助けに入りもしませんでした』
「あの晩、やたらに甘やかしてきたのは、それが原因か」
『ですねえ』
ぐ、と噛み締めた唇に、貴方の怒りが滲む。再度張り上げた拳と声に、意識を委ねた。
「だったら!尚更僕を抱け!!」
久しく、子供の様に声を張り上げる様が見れて、少しばかり嬉しい。
「望まぬ豚に犯されて!どうして望む使役悪魔には拒まれる!?」
肩で息をして、その衿を崩し、私というしもべを糾弾するデビルサマナー。
「お前で胎を埋めろ……埋めろ…埋めて、くれ」
震える声。打たれた頬に、貴方の黒髪の甘い薫りがくすぐる。
「管に入れずとも、僕の傍で、僕を護れ…」
か細くなった声と、私に縋りついたその背中も…もう青年なのに、か細く感じた。
ああ、あの日、貴方に教えて頂いた名を、呼ぶ私は…歓んでいたのか。
『夜様…名も体も、使い様、ではありますよ…確かに』
背骨を撫ぜる、一瞬びくりとした体を、地より押し返す。
朱色の波が波紋を作って、貴方の視線を一身に感じ…笑みが零れた。
『肉を繋げ、互いに結ぶは、禁忌です』
ぎし、と、しっかりしているが細い手首を掴む。
馬乗りで、その美しく冷たい相貌に、私の髪が今度はくすぐる。
『その強い契約で、MAGを吸われ続けるのですよ…?管に入れる事も出来ずに』
「…リン」
『おまけに、人間であるデビルサマナーと…悪魔ですよ?人間と悪魔のまぐわいです、異端です』
「もう、悪魔とさせられた事ならある」
『違います、貴方の精をMAGと注ぐのです、穿つはサマナーの貴方です』
冷たい風が、互いの髪を凪ぐ。
それが通り過ぎるのを待って、口を再び開く私。
『繋ぎ注いで、胎に血で印を結ぶ…呪いにも等しい、互いを縛る戒め…』
「だが、そうすれば…僕の支配から逃れる事は難しい、だろう?」
『ふふ、貴方よりその悪魔が強くなったが最期、サマナーの貴方は枯渇するまで吸われるでしょう』
はっとしたその眼を見つめる、やはり、美しい黒曜石。
私の笑顔を映し出す、その一心不乱に我侭な双眸。
どんなに汚されても、此処まで上り詰めた…私の主人。
『それでも良いなら、手ほどき致しましょうかね…』
ぐ、と両手の戒めを強くする。
「リン」
『まず、眼から縛るのです、正面より捉え、呼吸を合わせる』
「おい、リ――…」
『眼から、次に唇』
「あ…」
『……まだ、呼吸は合わせたままで、相手の呼気を吸い、体内のMAGと共鳴させて』
「…リ、リンッ!!」
もう近年、ずっと哂って御上を受け入れていた貴方が…
私からの、たったひとつの接吻で、怯えた。
いつも余裕の顔で、私を…周りの事も、この世を哂っていた貴方が。
この瞬間、瞼を強く瞑ったのだ。
ぞわりと突き抜けた甘美な事実に、悪魔の自分を…感じる。
もう、これで満足だ。
『ふふふ、冗談に御座いますよ、夜様ってば〜』
両手の戒めを柔らかにすれば、瞬間腹の辺りを蹴られた。
その涼やかな素足を見て、周囲を探せば…やはり落ちていた下駄。
黒塗りに、朱色の鼻緒が艶やかなそれを拾い上げ、素足で華を踏みしめる貴方へと差し出す。
「…冗、談」
『ええ、そう、冗談に御座います』
跪いて、その御脚に、片方ずつ、捧げる。
『私が貴方に抱く欲求は、貴方が私を忘れなければなぁ、と、その程度ですよ、ふふ』
その程度、とはよく云ったものだ。酷く、重いであろう。
忘れ得ぬ…という楔。果たして、如何なのだろう。
『夜様、その禁忌を犯す相手は…よく選定しなさいな。それほどまでに手に入れたいのなら、ね』
立ち上がり、まだ一応、私の方が背の高い事にどこか安堵した。
『もしそれを契ったのなら…』
乱れた貴方の黒い前髪を、梳かす…この自身の指が、あの御上達と違う事を誇りに思う。
『その悪魔に、心まで囚われぬ様に』
「…まさか、僕が、悪魔に?フフ、利用価値が高いならば、繋ぐ為に…可能性はあるが」
哂う貴方に、真摯な心で宣告させて頂く。
強い依存は、身の破滅を呼ぶ。きっと、私の云う通りになるであろう。
『目的を成就させたいのなら、その悪魔を最後に殺しなさい』
私は、貴方の覇道の邪魔をしたくはないのです。


畦道を、既に月光が照らしていた。
庵に帰れば、また明日という時間の区切りが訪れるであろう。
そうやって人間は積み重ね、悪魔を置いて往くのだ。
『しかし夜様、ホント、お綺麗ですよ!それで喰っていけますよ』
茶化して語りかければ、フン、と鼻で哂う。
「当然だろう?武器に出来るものは磨くに限る」
『あの問題用紙も拝見しましたが、まあまあよく出来てらっしゃいます』
「順位の出る事柄では常に頂点に居たいのでね」
『欲張りですねぇ』
「欲求が失せた瞬間、堕落が始まるからねぇ」
ああ、もういつもの貴方だ。
着物を翻し、宵闇に、名の通り美しく佇む姿。
いつか散った…昔の主人を思わせて、少しばかり胸が震えた。
『しかしですね、己から誘う事は、出来るだけ避けて頂きたいです!心配で心配で』
「性行為なんて、そういった理由しか無いだろう?支配という――」
述べる貴方の眼の前を、きらりと、何かが光った。
立ち止まり、ふ、と哂う。
「絡新婦…蜘蛛か」
『おや、こんな低い処に……大雨でも来ますかねえ?』
「迷信だろう」
『朝の蜘蛛は好かれ、夜の蜘蛛は殺されますね』
「朝蜘蛛は天の御使い、夜蜘蛛は獄の者、というアレか?」
樹の腕から、畦の曼珠沙華に架かったその橋を、ゆっくりと眺め見る貴方。
『ま、正確に云えば、朝蜘蛛は晴れた日に巣を作って縁起が良い、夜蜘蛛は闇夜に浮かび上がる斑と、新たに生成される巣が気味悪いという事で殺されていただけですがねぇ』
「お前は本当…悪魔の癖に、オッカルトと現実の行き来をするでないよ」
『おや、いけませんか?貴方に仕える様になってから顕著になったのですよ?』
貴方がそうだから、気付いていないのですか?夜様。
貴方は、可笑しなデビルサマナーだ。この里には居なかった人種。
「…交尾している」
ふと呟いた声は、その営みを揶揄するかと思いきや…静かだった。
見下ろす睫こそ、蜘蛛の糸の様に月光に艶めいている。
ただ静かに…貴方はその性行為を見ていた。
『子孫を残すという本能がさせるのですねえ、そういう脳で生まれるのですよ、生物は』
「では、これは愛とも違うのか」
『ちょっと、違うと思いますねえ、終わったら食べちゃいますし』
「喰い合いを互いに解っていて、繋がるのか」
『そういう事になりますね、利害の一致というやつです』
「成る程…」
毒々しい斑の、細い肢体を糸の上で踊らせる雌蜘蛛。花魁に見えるから、女郎蜘蛛とも云うそうだ。
暫く眺めた貴方は…その斑を視線で撫ぞり、薄っすら哂った。
「僕は捕食側になれるかな?ククッ」
そのまま指先に、巣の先端を掬い取り、壊すのかと一瞬思った訳だが
その糸を曼珠沙華から、頭上の樹に吊るしていた。
「通り道で生死のやり取りをするでないよ、邪魔が入るからね」
『お優しいですね』
「殺し合いに邪魔が入るのは無粋だろうが」
虫の声…野鳥の啼き声…風の音…私との会話…
すべて、貴方の記憶に閉じ込めてくれたら、それで良い。
貴方の為に、このまま私は決められた糸を辿るのだから。
『帝都には巣を張る空間も無いでしょうね』
「何処だって張るだろう、何処でだって隙間のモノは生きれる」
『ライドウとなった貴方は、此処の巣から逃れる事が出来ますでしょうかね?夜様』
「何を云っている、僕が巣を張るのさ…帝都にね」
髪を掻き上げた小袖、微かに蜘蛛の糸が絡んでいた。
「ひっそりと陰りにて張り巡らせ…炙り出して捕食してやる」
『しかし夜様、根源を断たねば、貴方の巣を破らんと、烏は啄ばむばかりです』
私は指差し、戦ぐ原を眺めて云う。
『同じ土壌から育つモノは、同じ性質なのですよ。焼き払おうが、その残滓が土となる』
ずっと伝えたかった事を、今解き放とう。
『その土壌から、作り変えないと…ね?』
明日にでも刈り取られるであろう稲穂の、その重みさえ…土が腐っていれば、同じ味。
貴方は、此処に拾われた…全くの異端なのです。
「燃すだけでは、何も変わらぬ…」
『ええ、その基盤、概念から、覆すが…本当の意味での』
全て、貴方に託す。
『復讐に御座いましょう』
私の憎しみと、貴方の憎しみを、合わせましょう。
「…クク」
『ライドウに成ってからの、貴方が…それを成就するべく、猛き悪魔と出逢う事を願いますよ』
「リン、お前では駄目なのか?」
『私はなりません、もう体も鈍っちゃってますしねぇ』
私は、駄目です。貴方の死合せの礎となるべくして、今を生きておりますからね。
「…そうだ…狐でも、喰われる雄蜘蛛でも無い、僕は喰らう側だ…そう在ってやる」
『ええ』
歪んだ熱情に、貴方の魂が踊る、MAGの震えがそれを私に教える。
今まで…いいや、きっとこの先も貴方を弄ぶヤタガラスの羽。
それを、貶める為に生きなさい。
貴方を生かす為なら、私は消える事の無い焔となって、貴方の中に生きましょう。
憎しみの先が破滅であろうと…貴方には、もっともっと、生きて欲しいのです。
貴方が軋み、壊れて、どんなに狡猾に、残虐になろうとも。
貴方そのものを、好いているから。
私の元の主人が憂いていたこの里を、壊す事が出来そうだから。
ええ…すべて私の勝手な思いです。
貴方から離れられない、愚かな私の願いです。
墜ちた貴方が縋ってきたあの日から、それが愛かも知れぬと気付いたのです。
「畜生の方が、人間よりも意味のあるまぐわいをするのかもね?リン」
ぽつり、と零し、月光に哂って帰路に戻る…
そんな貴方の背後上空で、ばりばりと雌に喰われた雄の蜘蛛。
『ええ、そうですね』
それを見た私は、穏やかに…眼前の稲穂が如く、心が戦いだ。

どうか、私を喰らって下さい、夜様。

私を殺して、ライドウと成るのです。
本能でも使役からくる意識でも非ず。
貴方の憎しみを生み出す為に、この身を捧げましょう。
それは、きっと不明瞭な愛より、貴方を生かす。

「早くお前に僕のライドウ姿を見せてやりたいよ、フフ」
その艶やかな声に、ただ微笑む。その日が来ない事を解っていて。
私が、貴方の晴れ姿を見る等、訪れない…
「お前より強い悪魔を見つけて、使役してやるのさ」
『さすれば、私も安心して隠居出来ますねえ』
振り返る貴方が、いつかと重なる。
「結局は己が大事、と受け取って良いん?」
『ええ、私は隠しませぬ、ですから、貴方様も明かして下さいな』
もうずっと、大嘘吐きめ。

「…実はな、あのブランコ、結構好きだに?僕」

名を告げ、走り去った小さな背中。
釣り上げた魚を十匹並べる着物袖。
見えぬ処に隠し下げた、七夕短冊。
哂って私に本を見せてくる、双椀。
赤い蛇の目で共に歩む相合傘の下。
熱に魘され、私の手を握る細い指。
私だけが知る、貴方の姿。
ようやく知ったこの感情を抱いて、逝きましょう。
貴方を惑わす、その前に。
私だけの、美しいデビルサマナー。
『夜様なら、きっと悪魔召喚皇に成れますよ』
どうか、傲慢に、孤高に、この世を哂って憚って。
血の海も、貴方が咲かせば、曼珠沙華となりましょう…

訛って悪戯に微笑んだ青年に、今一度、詠った。

『鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし』

私の生死が、貴方から滲み出る事を願って。
最期にその背を押し、鞦韆ごと啼かせましょう。
そう、悪魔なのです、私は。

生死滲出・了
* あとがき*

SS【愛<憎】

拍手お礼SS【ブランコから】

SS【とってこい】

の順で読んであると、それとなく繋がります。
タム・リンの抱いたものは、恋慕よりは親の愛に近い。
繋がってまで契約する行為は禁忌の術。それを後々、人修羅にしてしまうライドウ…

リンは“己を殺させる”という通過儀礼を、ヤタガラスの命のまま受け入れる。
ヤタガラスの意図する「覚悟・実力・親離れ・嗜虐」というモノとは違い
「それを与えたヤタガラスを憎むライドウ」という結果を望んでの甘受。
この先、憎悪を糧に生きて往ける様にと願って…それが己を賭したリンの愛。
永劫愛しい仔を縛る、呪いに等しい。黒い…
リンにいざ迫られたら怯えてしまったライドウ…ルシファー相手でも強気だったのに。

途中の暴行シーンは……まあ、いつもの事ですが
とりあえずヤタガラスの一部は変態という事にして下さい。子供相手になかなかの非道。
これは人格壊れる訳です。

…タイトルの生死滲出は精子滲出とかけてます。