宇宙の統一的な相互対応関係は
神による予定調和にほかならないとされた


死因、apoptosis




「空って、こんなに紅かったか」
「夕暮れ時には朱色に染まるものだろう?」
飛び交う巨大な羽蟲を焼き殺すと、煩い羽音が一瞬で消える。
数匹、俺の焔から逃れた奴が方々へと散るが、暗い穴にホールインワンしていった。
「気味悪い」
穴というそれがまた巨大な食虫植物。大きな口を開いて、粘液の涎を端からたらたら垂れ流し。
ぐじゅ、と閉じたその中で、じわじわと溶解されゆくのか。
生唾を呑んで、そいつから眼を逸らした俺は背後を振り返る。
『あぁらぁ…喰い意地が悪いのねえ、んふふっ…』
しなる鞭の様に荊を四方に躍らせたアルラウネが、蟲をばたばたと地に落とす。
『あんな大きなムシを丸呑みだなんてぇ、ねーぇライドウ?』
くねり、と主人に絡み付き、たった今敵を始末したその荊で求愛する。
鮮やかな荊の緑に、蟲のよく分からない濁った体液が纏わり付いていて、俺の吐き気を促進させた。
「アルラウネ、そういうお前に喰い気が無いとは云わせぬが」
『もう、ケチねぇ、あんな気持ち悪いのをワタシの手脚で処理させたのよ?口直しさせて頂戴よライドウ』
「ほら御覧、云った傍からではないか、意地汚いな…クク」
血振りした刀を鞘に納める主人に、べったりと肩に垂れ掛かるアルラウネ。
顎を軽く掴んで、いつもの様にMAGを口付けようとするライドウ。
じろじろと見ていたって気分が悪いだけなので、視線を逸らそうとした、が…
『ぁん』
熱さに弾かれた様に、アルラウネがその場を退く。続いて俺を見た。
『人修羅ちゃん!待ちきれないの?順番よジュ・ン・バ・ン』
「違う!そっちにまだ残ってたからです!」
熱い接吻を交わそうとするシルエットの向こう、蟲の影が躍ったからしたまで。
放った焔にほんの少し薔薇を焦がしたアルラウネ、焦げた花弁を摘んで溜息した。
『もぅ、妬いちゃ駄目よぉ』
その台詞のニュアンスに、かあっと血が上ったが、助けてやったという事実に俺は冷却効果を見出そうと向こう側を見る。
だが、焼き殺した筈の羽蟲は居ない。消し炭になったのだとしても、無風のこの大地、さらさらと痕跡が下に積もっている筈なのに。
「功刀君、問題点にかすりもせぬ手出しは、横槍にしか成らぬのだよ」
ライドウがちらりと俺を一瞥して、クク、と哂う。アルラウネを捕らえる手指と逆の手指が器用に、リボルバーを構えていた。
「…黙って見ていたとしても、怒る癖に」
「しっかり仕留めれば褒めてあげたよ?フフ」
そう、俺の焔より早く、ライドウの銃弾が敵を狙撃していた。
焼けた灰の死骸は無い。MAGを睦み合う主従の隙間から見えたのは、脳天を打ち抜かれた死骸。
確かに、何かが焦げる臭いより、硝煙の臭いの方が強い。
俺の判断能力と命中精度が頼り無い事を如実にさせられ、やるせない気分で見つめていれば…なんと、まだ絡んでいる。
「いつまでしてるんだよ…!」
いい加減済ませて、さっさと此処から出る算段を企ててくれ。その程度のMAGなんて空気に流せるだろ。
苛々しながらライドウとアルラウネをじろりと睨めば、何故かニヤァ、と二者の眼が俺を嗤う。
そんなんじゃない、馬鹿じゃないのか。乾いた砂をスニーカーの爪先で蹴れば、きゅ、と啼いた。


見渡す限り、乾いた空気に乾いた砂。毒々しい色合いの植物は、殆どが生きている。
草花が生きている、とかそういう倫理観ではなくて、本当に生きて、生存競争をしているのだ。
「別の惑星みたいだ」
「地球以外の惑星に降りた事があったとは知らなかったねえ」
「ち…比喩に決まってるだろ」
「しかし功刀君、当たらずとも遠からずだね、アマラ宇宙という中に漂うひとつの世界だとすれば」
「そんな事が云いたいんじゃなくてだな…どうしてあんたは何処に行っても動じないんだ?」
「異界遊びにボルテクス観光、最近ではケテル城で優雅な休日を過ごさせて頂いているのでね」
よくそんな事を哂って云える、と半ば呆れつつ、足下の黒猫を蹴飛ばさない様に駆け寄る。
「そもそも功刀君、君がしくじった所為だろう?少しは反省している?」
ぎくりとした、確かに悪いのは俺だった。唱え間違えたのだ、魔界への門を開く詞を。
「胎に人面瘡が浮き出たという件、このままぐずぐずしていては、手遅れになるやもしれぬねぇ…?」
「…俺の所為って云いたいのか」
「閣下と人間の富豪ではねぇ……クク、それは君、確かに悪魔を優先すべきさ」
「あ、あんたが別件依頼の事、俺になんっにも説明してなかった所為だろ!?」
仕方ないじゃないか。依頼の時間が押してるとか、あんたが急かした所為で呪文を間違えたんだ……多分。
結局、ケテルにも行けないまま、こんな処に放り出されてしまった。
胎に人面瘡が出来て「悪魔憑きだ、オッカルト専門の探偵を呼べ」と依頼の遣いを寄越してきた富豪の屋敷は、電車で数時間の場所だった筈。
「でも…此処で足止め喰らって、本当に手遅れになったら……俺、どう責任取ればいいんだ?財産は無いぞ」
「まあ、人面瘡に殺されたという顛末は今のところ聞いた事が無いからね…悪魔の仕業か、ただの狂言か…フフ、拝みに行ってやろうと思って楽しみにしていたのさ」
「悪趣味野郎」
違えたとしても、開かないだけだと安易に考えていたのだが、まさか…違う世界に出るだとか、そんなの堕天使からも聞いてない。
アマラの宇宙を通るとか、そんな話は一応されていたので、きっと流れ着いた形なのだとは思うが。
扉を開いた先、吸い込まれるように風が靡き、気付いたら砂丘に蹲っていたのだ。
そんな俺を隣から見下ろしてきて、これはどういう事?と凶悪な笑みで俺を責めるライドウの眼が記憶に新しい…
「別件依頼、ひとつお流れになるかもねえ?功刀君?まぁ、閣下なぞは待たせておけば良いのさ」
「…すいません」
視線を落として、俺は改めて謝罪の言葉を吐く。
「おいおい、ゴウト童子にしか云ってなかったろう今、ほら、僕の眼を見て云って御覧?」
ライドウはそう云うが、別に謝罪など求めていない事は一目瞭然だ。
(ライドウに謝罪なんて、誰がするか)
新しい遊び場、俺の失態を弄くり倒すきっかけ…愉しい瞬間まさに真っ最中という眼。
この悪魔召喚師、愉しさだけは素直に滲む。眼の黒が爛々と耀く様は俺にさえ判る。
『いやしかしだな…ライドウ、遊んでくれるな…本当にこれは早く脱出すべきであるぞ』
「左様に御座いますか」
尻尾をしょげさせ、どこか口調にも覇気が無いゴウトがそれでも活を入れ、フーッと怒る。
『なぁにが左様にだお主、気付いておるのだろう?この畜生の素体では些か不安だ』
「フフ、じわりじわりと、この地より吸われておりますね、我々の生体エネルギイが」
その会話に「気付いていなかったです」だなんて、云い出せない。
「と、そういう事だ功刀君、先刻の横槍は君のMAGを無駄に消耗しただけという事さ、ックク」
更に“無意味な行動”と箔押しされた気分。
「この空間に居るだけで消耗してるなら、枯渇する前に有益に使うべきだろ」
「君の消耗は僕の消耗に繋がる、軽率な判断は控えてくれ給え」
「煩い、それならアルラウネにMAG補償してないで他の元気な仲魔召喚しろよ」
「蟲は焼けずとも〜…か、フフ」
耳が熱くなって、云い返そうかと見上げれば、ライドウよりも眼が向いてしまう紅い空。
(白じゃなくて、助かった)
白い空…いや、正確に云えば、天に地が這うあの世界、ボルテクス世界…
同じ様な色をしていたら、吐き気が増して酷かったところだ。
「童子」
と、空ばかり見上げていた俺は、ライドウの低いトーンの声に我に返った。
『……居住区、か?』
「この世界の広さは知れませぬが、アマラに関して知る者が居れば尋ねたいところですね」
『言葉が通じればな』
「悪魔なら話は早いのですがね」
そこがまずおかしいだろ、と内心突っ込みを入れつつ、ライドウ達と同じ方角を向いた。
白んだ砂塵の彼方に霞んで、建造物が見えた。



『アラディアとかいう…漂流神なら』
その名前に、思わず眼を見開いた。
『貴方達人間も…稀に悪魔も、流れ着きますな』
「それで言葉を知っている、と、そういう事ですか」
『はは、喰えば理解は一瞬ですから』
続く返答に、背筋が凍った。
集落を行き交う生物は、人の形に近似していた。高い鉄塔も、東京タワーを匂わせる。
成長という過程があるのか、住人達は大小様々で、性別も有る様子だった。
ただ、俺の知る人間と違うのは、その脚が地に着いているという所…
靴を履いていない、それは、歩行の度にずるずると、地と足先が癒着しているからだ。
下ろす爪先が、ささくれ立った草編の地と結合しては、千切れ往く。
この集落に入って、唖然とした。人修羅に成って、散々悪魔を見てきたっていうのに、俺はいつまで経ってもこれだ。
『我々はこうして地より得ているのです、そう…貴方達の言葉で云えば、エネルギーというものでしょう』
どこか有機的な建造物、材質は、きっと聞いても分からない。
じっと見つめれば、確かに胎動を感じる。建物さえも、一部は生きている様だ。
「フフ、では貴方がたは、稀に辿り着く人間や悪魔を喰らうのですか?」
哂って問うライドウ、その外套の下で指を何処に置いているのか、知れてる。
突然声をかけられて、この男が算段も無くついて行く筈が無い。
発されている言葉が、俺達の世界でいう日本語なら、尚更。
『漂流物は、誰が喰らって良いという養分ではありません。我等が神がすべて吸い上げるを待つのみです』
「へえ、神……アラディアの様に、何かに憑依させ、具象化させているのですか?」
『あの様な仮初のモノと同一視しないで頂けませんかな…我等の神は既に此処に居られる、常に我々と共に』
「まさしく“神”の姿ですね、フフ……しかし僕等はそろそろお暇したいので、帰り道を教えて頂けませんか」
葉脈の様に血管が奔る肌、鮮やかな翠の髪を揺らして笑う別世界の住人。
この住人に「立ち話も何ですから」と、最初通された時、椅子を促されたが断った。
座った瞬間、触れた其処から融合しそうで、少し怖かったから。
向かい合って、先刻からずっとおぞましい会話。
『折角来て頂けたのです、最期の瞬間までどうぞごゆるりと』
「ちょっと…待って下さい、それって、俺達に死ねって云ってるんですよね」
聞き捨てならずに、思わず口を挟めば。
『人聞きの悪い…いえ、我等もヒトでは無いですが。そういえば…貴方もニンゲンとはどこか違いますな』
この返しだ。人間の知識を得ているからだろうか…人間の語彙が豊かで、ムカつく。
苛々と拳に力を込めれば、相手の口の様な器官がぱくぱくと、まるで俺を笑う様に開いていた。
『脈の流れが高揚しておりますね、どうぞ、したければ、お打ち下さい』
「何ですかそれ……『お前達の帰り道なんて知らないから、殴っても無駄だ』って事ですか?」
『いいえ、我々は朽ちても、すぐに甦りますので、人間的に云う“死”に恐れを抱いておりません』
揚々と述べる相手を見て、少しの困惑と凶暴な感情が、俺の中で巡り出す。
ちら、と隣のライドウを見れば、一瞬こっちを見返してきた。俺を止める気はなさそうだ。
「…帰り道、何処ですか…門とかを開く詞が必要なら、それを教えて下さい」
『綻べば何処からでも出れますよ、ですがね…我々は取り入れた餌をみすみす還す気は無い』
「殴ります」
『どうぞ干乾びるまで、ごゆるりと』
その答えが返った瞬間、俺の拳は住人の頬から抉り込み、脳天から突き抜けた。
思った以上に柔らかく、ぶちぶちと管の千切れる感触と音がおぞましい。
腕にこびりついた残滓が、ぼたぼたと地に落ちる。
「…っ……避けもしなかった…畜生!」
腕を振っても、どうしても湿っている指先、傍のライドウの外套を思わず掴んだ。
「己の着衣で拭い給え」
ぴしゃりと跳ねられ、スニーカーの甲をヒールで踏まれる。
それに小さく呻き、俺はライドウを突き飛ばして仕方なく自分の着ているジャケットで拭った。
擦り付けた液は、幼い頃に草葉で駆け、無意識に潰してしまった植物の痕にも似ている。
『おい、ライドウ大丈夫なのか……って、おい…お主…、また強硬手段に出たのか?生臭い臭いがするぞ』
出入口からそそくさと顔を覗かせたゴウトが、入ってくるなりフギャアと啼いた。
その翡翠の視線は、俺の吹っ飛ばした住人の残骸に注がれている。
「違いますよ童子、フフ…失礼な、そういう乱暴事は総て僕の仕業とお思いで?」
『佐竹の事務所で抜刀したのは何処のどいつだ』
「さあ?」
『風間に代わって尋問した事も知っているぞ』
「おや、童子の猫耳には未だ入っておらぬ事と思っておりましたが」
また凶悪な話をしている。呆れる俺も、床に散った残骸を見ながら「他人の事が云えた立場か」と自分を罵りたくなる。
いや…眼の前で死ねと云われたら、そして殴って良いと許可されたら、これはもう…
「不可抗力」
ぽつりと呟いて眺める先、残骸がじゅくじゅくと音を立てて床と同化していった。
「違うね功刀君、予定調和だろう?」
ライドウが哂いながら、外套をなびかせる。もう此処を出るらしい。
集落内で一番大きな建造物だ、きっとこの集落の長か何かだったのだろう。
「予定調和ってライドウ…それ、どうしたって俺がぶっ飛ばす未来が待ってた、とか云いたいのか、おい」
置いて行かれるのも嫌で、追従する。見上げてくるゴウトの視線がどこか苦しい。
『はぁ…やったのはお主か人修羅』
「いえ、だってゴウトさん。此処の方、俺等に死ねって、殴っても良いって云ったんですよ」
『お主は人修羅だろうが、その一発に人間の何倍の力が宿ると思っておる?』
「御当人にも、お許しは頂きました」
『そういう問題では…はぁ……お主も似てきたな』
「は?」
何に、と問い質すより早く、ゴウトはするりと駆け抜ける。
『ライドウよ、お主もお主だ、相手が口を割らぬと公言していたとて、読心の隙すらなかったのか?』
黒をなびかせる前の人物に、咎める口調で責める黒猫。振り返りもせず、ライドウは冷静に返す。
「童子、読心は思っている事しか読めませぬ」
『感情を支配出来ている相手、という事か』
「此処の住民達にとっての絶対的な神、がそうさせているのでしょう。現に、整然とした心で、言の葉として入って参りませんでした」
『ちゃっかりと読んでおるではないか』
ニャア、と溜息の黒猫。その頭上に一瞬イヌガミがくるりと回って、アオォン、と吠えた。
「人間の言葉が通じる相手に御座いますので、まぁ…懐柔出来ぬとも思いませぬが」
『フン、もうあの通り、喋れもせんだろうが。イヌガミ、もういいぞ、控えておけ』
「童子、僕に代わって命じないで頂きたい」
『この異世界で気を張らせては苦痛だろう、少しは休ませてやれライドウ、お主の消耗にも繋がるのだぞ』
「これはこれはお優しい。確かに、この面子で一人生き延びるが不可能は貴方様に御座いますからねえ、フフ…」
素直に御礼が云えないのかよ、と辟易したが、ゴウトもゴウトで嫌味だから、おあいこだ。
廊下を抜ければ、紅い空が広がる外に出た。思えば、あの空間から廊下、こうして外に到るまで、段差も無い。
建造物は上に階が無いものばかり。何処に居ても、足先からエネルギーを得ているという事か。
『して、その神の名は聞いたか?』
「いいえ、きっと彼等も知らぬのでしょう」
大人しく管にイヌガミを戻したライドウが、淡々と返答する。
集落は、胎動を感じるが、個々の意識を殆ど感じない。感情が無い…訳でも無い様子だが、喜怒哀楽に乏しい。
狂信的な信者が、ただ日々を神に捧げて生きるその空気感に近い、そんな…

ぐず

湿った音、反射的に構えて振り返る俺とライドウ。
その発生源を捉えた瞬間、そこから、しゅるしゅると一瞬で生える。
早回しの記録映像の様に、芽吹いて手脚が伸びた。
花弁が開くが如く、髪がふぁさりと空に舞えば、同じ形の口がぱくぱく嗤った。
「どうぞ、ごゆるりと」




「化け物達」
「君が云えた台詞かい」
「再生力じゃないだろ、マグマアクシスで灰にしても…数時間後には同じ奴が歩いてた」
「へえ、君は時間の感覚がまだ残っているのかい?繊細だねえ、この世界に時計なぞ在ったかな?」
「……っくそ!いちいち揚げ足取るな」
空から降る雨に、大地が噎び啼く。潤いを得て、しっとり膨らむ。
紅い雨が気味悪くて、俺達よそ者は、適当な建造物に逃れた。
地階に下っても、足下はやっぱり蠢いている。
地に足が着いていない状態というのは、この世界で基本無いらしい。それはそうだ、彼等の養分摂取の手段なら。
しかし靴を履いていても、どうしたってじわじわと地表から俺達の生体エネルギーは搾取されている。
まるでこの大地が生きているみたいに、獲物を嗅ぎ分けて、吸い取っている。
『はぁ…地に足が着かぬ心地だぞ』
ゴウトは船酔いの様に、小さく呻いた。四足で接地しているから、影響が大きいのだろう。
その身体を憐れに思いつつ、樹海の色をした屋内を踏み往く。
「此処、何の場所だ…?」
もう、手当たり次第だった。怪しい所は追求する、挑発してきた奴は、一応問い質し、場合によっては処分した。
誰かを殺せば、それが鍵となるのかもしれない、そう思い殺しても、しゅるしゅると生えてくる。
もしかすれば、再生しない奴というのが存在しているのでは、と。
しかし無差別に住人を殺す気は起こらない。それが帰還の鍵とならぬ場合、ただの大量虐殺になってしまう、それは御免だ。
そんな存在に成りたくない。
「…なにもかも、此処の人達にとっては神の恩恵ってやつなのか…」
「フフ、君が云うと滑稽だ」
「あんたが云っても不気味だろ」
雨の降る時間帯は、まるで恵みでも授かるかの様に、住人達が外に出る。
そう、だからこそ雨降る今、奥が気になる。誰か、居やしないだろうか、と。
「どうして…殺しても同じ存在がまた生まれるんだ」
「個体情報を記憶している神が、再生させるのだろうさ」
「…集落の外の、蟲とかは?アイツ等もまさか、再生してるのか?」
「外の生命体は違うだろうね、普通に繁殖して増減しているのだろう。この集落にとっての同胞では無い…という事だろうさ」
「人間も悪魔も、なんでも増え過ぎたらまずいだろ?…此処の住人達って、増えも減りもしないのか?」
奥へと続く廊下は薄暗い。ぼんやりとユリの形の花が発光して路を照らす。それさえも花なのか、確信が持てないが。
「神が調整しているという事なのではないかな、フフ……ほら、扉が見えたよ」
ライドウの云う通り、廊下は終わり、扉が見える。近付くと顎でくい、と促されたので、俺はそっと手を掛ける。
仕掛けは無い。と、開く前に、俺は気付いた事を口にした。
「……あんた、俺で試したろ」
「今?それとも数刻前?」
「二回もかよ」
「確かに、今は罠など無いか、君に開けさせたねえ、君ならば治癒も早いだろうし?」
「…その、“前の”は何だ」
「あれは此処の長だろうかね?あれを殴るを見過ごした事も、該当するかな」
俺の、扉の取っ手を握る指に、ライドウの指が重なる。
「『己は甦る』と云った相手の言葉が本当かを、見定めるべくね」
「…それならあんたが斬れば良かったじゃないか」
「それと、単純に君が殴る様を観賞したかったのさ」
吠える代わりに、指に力を込めた。
「殴り損だ」
片開きの扉の隙間、背中合わせに中に一歩踏み出す。
しんとした室内…が、足下の感触に、流石に鈍感な俺も気付いた。
「…此処、おかしい」
「おかしくなかった処なぞ、この世界に在ったかい?」
気付いてる癖にはぐらかすな、と、ゴウトと同じ事を云いたくなった。
哂うライドウは、ヒールをカツカツ、と鳴らし哂う。
そう、此処は“鳴る”のだ。有機的な、あの胎動する床とは違う。
硬質なタイルが敷かれた、冷たい部屋。この部屋は、養分を吸収する術が無い。
「これ…ベッドか?」
床上に置かれた、ちょうどヒト一人分が寝そべれそうなそれ。
他の建造物でも見れたが、アレ等は床と一体化した、草のベッドだった。
でもこれは違う。硬そうな材質で出来た、捻りの効いたアーチが綺麗な。
なんだか、久々に人間世界に戻ってきた心地にさせる部屋だ。
疲れていたので、思わず突っ伏したくなる欲求が疼き出した。マットレスも、そっと押せばじわりと窪む、低反発の様な感触。
『あの…』
突如、か細い声が聞こえてきた。
『そこはわたしの寝床です』
人と近似している、とはいえ、相貌が愛らしく見えるのは罪だと思った。
振り返れば、翠の髪をざっくばらんに下ろした、少し幼い女性体…
廊下から、おっとりとこちらに歩み来る。
異様な感じがした、何故そう感じるのか、自身でも一瞬分からなかった。
「傘に長靴…息苦しくないのですか?お嬢さん」
問い掛けるライドウと同じ疑問を、俺も無意識に抱いていた。
そう、この世界の住人は皆、素足だ。それなのに、この少女ときたら、長靴を履いている。
長靴では足先が地に這わず、養分を得られない。
それに、今は外で紅い雨が降っている。恍惚の表情で他の住人は浴びるのに、何故傘を持っている?
『もうわたしは、吸う必要が無いのです』
ただぽつりと呟いて、少女の姿をしたその住人は、傘の露を胎動する廊下にぱぱっ、と掃った。
紅い雫が血溜まりの様になった後、ぐんぐんと吸われていく。
それを見届けると、傘を立て掛け長靴を廊下に脱ぎ残し、いよいよ部屋に入って来る。
『…ニンゲン…と……』
ライドウを見た後、首を傾げると俺を見つめた。
『アクマ…じゃ、ない?』
ついこないだと同じ事を云われているのに、この少女には憤慨しないのか?と、ライドウの眼が俺をニヤ…と射抜く。
気まずい俺は、少女が寝床だと云うベッドから慌てて離れて、視線を逸らす。
「あの…貴女も知ってるんですか、人間とか悪魔を」
『わたしたち、神様と繋がっているから、こうしてニンゲンの日本国の言葉も発せます』
云っているシステムはそれとなく理解出来たので、質問を切り替える。
「此処の方々は、養分が吸えないと…いつか死ぬんですか」
『死……?』
知識が有っても、概念までは理解出来ないのだろうか。
それはそうだ、俺だって、悪魔なんて…と思ってた。成らなきゃ、解り得ない。
「死…っていうのは……他の住人の様に再生したりとかいう事も無く、完全に消える事を云います…多分」
思うまま、適当な説明をすれば、ああ、と呟く少女。
『消えることが死というなら、そうです、死にます、わたし』
その返事に、俺とライドウは集中した。
『わたしの消える事を、邪魔しないでくださいね』
明らかに、この少女は怪しかった。出口の鍵…かも、しれなかった。





『まあ、それでその衛星はどうなさったのですか』
「ロケットに仲魔を乗せて、処理して貰ったのですよ」
『共に爆発しなかったのですか』
「しましたよ、ねえ?童子?」
黒いベッドに乗り上げ、ニタリと哂い黒猫を見るライドウ。
『いけしゃあしゃあと……我と再びまみえた時のお主の怪訝そうな顔、忘れやせぬぞ』
髭をひくひくと引きつらせて、ゴウトがニャアニャア鳴く。
その様子に、視線をライドウへ戻した少女。
『この…ネコ?の方を、乗せたのですか』
「この御方が勝手に乗っただけですよ、フフ。まあ、こうして感動の再会を果たしている訳ですがね」
クス、と流し眼で傍のゴウトを見るライドウ、その言葉に感動の気配は無い。
それにしたって、俺も初めて聞く内容だったので、呆れる一方で…感嘆もしていた。
「本当に、あんたは滅茶苦茶だ」
ベッドの端の、ライドウからなるべく離れた場所に腰掛けた俺が吐き捨てれば、また哂う。
「叢書が出せる程度には冒険活劇しているねえ」
「そのロケット、何乗せたんだよ……仲魔って」
「天使だが、何か?」
思った通りの回答に、特に返せる訳でも無い俺。
『天使というのは、背中に翼のあるヒトガタですか』
「そうですよ、しかしアクマとも呼び、それをサマナーは使役出来るのです」
『形は関係無いのですか?ニンゲンとアクマの区別は、何を参照すれば良いのですか』
「生命の糧は近いものがありますからね、正確に云えば、形を構成する物質の違いでしょう」
ベッドできゃっきゃと、何を考えているんだライドウは。
もうずっとこの調子で、もしかすれば数日はこうしているのではないか。
暗い部屋にずっと閉じ篭って、この少女とお喋り三昧。
「貴女に近いのは、アルラウネかな…フフ」
『さきほど見せてくださったアクマですか』
「この世界は植物の色をしている、生える都市も、住む生き物もね」
『ニンゲン……の、住む世界は違うのですか』
「何を云わんとしましたか」
発声を一瞬塞き止め、開いた口が震えた少女を見逃さず、さらりと問い詰めるライドウ。
『…個体名称に関してです。漂流してくるニンゲンも、次元が違えば性質も同じ様に違いました。だから、それを思って』
その眼は透き通っている様にも見える。少女の眼はビー玉の様な質感で輝き、薄い碧。
無造作な髪も、ゴウトの眼を暗くした様な色。
四肢は少し葉脈の透過が見られるが、それも他の住人に比べると、どこか細かった。
死ぬ、と云っていたから…衰弱の前兆なのか。
『あなたがたの、個体名称は』
「自分はデビルサマナー十四代目、葛葉ライドウに御座います」
女性なら誰でも一瞬蕩けそうな笑みを、悪気無く咲かせるライドウ。そこに穏やかさは無いが。
それを整然と構えて見やると、少女は小さく頷いた。
「して、其処で不貞腐れている紋様だけは派手な奴が、自分の使役悪魔の――」
「おい」
少しベッドに乗り上げ、思わずライドウを睨む。
だが、少女の眼が俺を見て、訊ねているのは一目瞭然。
少し近くなった距離で“人間の形にやっぱり近い”と、再認識して、俺は少し頬が熱くなっていた。
「…功刀です」
ぼそりと呟いて、元の位置に腰を下ろせば、容赦無い追い打ち。
『アクマなのですか?』
「…半分」
『クヌギというアクマ?』
「いえ…その……」
どう答えるのが正しいのか、いまいち判断出来なかった。
違う、それは…クヌギヤシロは…
「人修羅という存在で、名を功刀と云うのですよ」
声を辿れば、長い脚を組んだライドウが、少女に向かって云っていた。
『個体名称がクヌギ…?』
「そういう事ですね、しかし、お見せしたイヌガミやアルラウネ…という呼び方、それを個体名称とするならば、少し違う」
不思議な顔をした少女が、ぼんやりとライドウの胸元を眺めている。管の銀色が、少ない光を反射して鈍く輝いていた。
『葛葉ライドウも、個体名称では無いのですか』
「そうですよ…フフ、ライドウと別に、僕にも名が有る」
ライドウの名前を知った幾つかの場面を思い出し…それがつい先日にも、遠い過去の様にも感じる。
「しかし僕の事はライドウと、アレの事は人修羅と呼べば良いのです」
『ライドウ…ヒト…シュラ……』
「名、というもので、互いを捉える…“人間”は」
己の真名は、教えないつもりだろう。ライドウは、上の名まではするりと教えたとしても、下までは中々云わない。
『わたしも、あれば…教えたいのですが……知らないのです』
「貴方達の云う神にとって、わざわざ与える必要も無いからでしょう」
『互いの認識は、名でする必要は無いからです。それぞれ、生まれ出ずる際に、役割があるから、他との干渉に名は要らないのです』
それでも寂しげな眼を、初めて見せた少女。
感情を萌芽し出すその姿に、くす、と哂って黒い影が囁いた。
「橘と呼びましょうか」
『タチバナ?』
「柑橘系の樹木、咲く花は純白の小さな五弁、とても清涼でいて薫り高い実をつける、言葉は“追憶”」
説明からイメージしているのか、少女がしばし黙る。この世界に無いのなら、薫りまではピンとこないだろうけれど。
俺は、人間時代に何回か吸ったあの芳しい薫りを、脳内に思い出そうとしていた。
確か、あまりに酸味が強くて、香り付けや、マーマレードジャムにしか使えない果実なのだ。
「“永遠”の象徴ですよ」
ライドウの、低めに囁くテノールが、ベッド以外何も無い空間に響く。
学帽の下、暗闇の中でもしっとりと、黒い眼が光っていた。
「フフ…もう少し、お喋りを続けたいですか?」
その闇色の眼に吸い込まれる様に、じっと見つめ返す少女の髪が…微かに震えていた。


時間の経過と共に、意図は解ってきた。
ライドウは、この少女を生かし続ける為に、団欒を作っていたのだ。
「自殺者を止めるなど…その様な無粋な事、本来ならせぬよ」
さらりと云い、湿気た廊下で煙草を噴かす。
「延命は、何が目的だよ…出口は知らない様子だし、粘っても無駄だ」
「フフ、君には苦痛な時間かな?」
「まあ、あんたが話題豊富で、俺の出る幕は無さそうだけど」
「あれから集落を廻って見たろう?彼女だけなのさ、自ら死に向かう個体が、ね……この世が排除しようとしている、何かの意味が其処に在る」
ライドウがふぅ、と吐いた煙は、厳かに脈動する壁に呑まれた。漂流者のエネルギーだけでなく、紫煙すら喰らうのか。
「…意地汚い」
「アルラウネより?」
「あんたなあ……命かかってるんだぞ、よくもそう暢気で居られるな、ライドウってのは螺子が抜けてるのか…ッ、げほっげほぉッ!」
侮蔑を吐き捨てると、間近から、ふ、と吹き掛けられ、堪らず咽た。
そんな俺を見て、ふ、と鼻で哂うライドウ。悪気のカケラも無い。
「さて、もう少しばかり現世に執着して貰おうではないか」
「それだけの為に、楽しくお喋りしてんのか、あんた……」
こうして腰を下ろしている床や壁から、じゅくじゅくと肉まで吸収されそうな気がして。
上着を敷いて、くったりと休息を得る。どこか、やはりだるい…
「もっと遠くに…探しに行くべきじゃないのか…仲魔に偵察させろよ…」
「遥か上空より見下ろせば、この集落を取り囲む砂漠地帯が、ぐるりと這い上がるように包み込んでいるらしい」
どこかで聞いた様な構造。
「…何処のボルテクスだよ…気分悪い」
「フフ…世界は個人の機嫌なぞ伺わぬ。まぁ、ショボーの眼だからね…もしかすれば見落としがあるかもしれぬが」
隣の部屋の中では、タチバナが眠っている。養分を得ずに衰弱を待つ筈の彼女は、今も生き長らえていた。
目覚めては、廊下に出て。根を下ろせば、彼女の中の脈が潤う。
少し、あと少し、と、延命を続けていた。
「最近、あのさ…タチバナ…さん」
靴紐を結び直しつつ、何となしに口から出る。
「笑う様になってきた…気がするんだけど、俺の気のせいか…」
異世界なのに、ましてや人間ですらないのに。
どうしてこんなに近いのだろう。
「此処でしている行為が無為と感じるなら、何処へなりと、探索に行くが良いさ」
「…あんたの読みが外れる事は、滅多に無い」
彼女の延命の先にある答えが、出口の鍵だという…朧気な推測。俺だけでは、到底思いもつかない。
「それに、砂漠でMAG尽きたら…本当、どうしようもない。此処の蟲からMAGは吸えない…」
この大地、俺達のエネルギーを喰う癖に、あの蟲共からMAGは発されない。
では、一体どうやってあの蟲達は生きている?
「蟲は外敵の可能性がある」
「俺等だってよそ者だ、なんで蟲は喰われてないんだよ」
「よそ者だろうが、喰えるものは喰うのだろうさ」
じゅ、と蠢く壁で煙草を揉み消して、くつくつと哂うライドウ。流石に煙以上は喰いたがらないらしい。
「やれやれ、偏食だね…折角喰わせてやろうと思ったのに」
指に残ったシケモクで、俺の掌をつつく。
「さて、橘の君が目覚めたら、次は何を話そうかね?君も少しは女性と話す術を身に着け給えよ、功刀君」
はぁ、と溜息で、仕方なく俺は吸殻を握り潰し、灰にした。
「こんな事にMAG消耗させるな」
「おや、もう足りないのかい?貪欲なのか容量が狭いのか…クク、いずれにせよ、今の程度ならこれで事足りるだろう?」
床に落としていた視線が、横にぶれる。ライドウに、項の突起を掴まれ、顔を向き直される。
「ん、グっ…」
噛み付くようなそれに、怒りが生じつつも、身体は正直にMAGを迎え入れる。
(何だよ、今さっき、あのまま掌を掴めば、そこから充分流せただろ)
暴力的な欲求を発散する術が、此処では無い所為か…
「ぁ、ふ」
俺の呼吸を殺したがるかの様に、角度を変えて密閉される。
蟲を殺すよりも、この男にとって嗜虐の欲望を解消出来るのか。
『おはよう、ございます』
その涼やかな声、咄嗟にライドウを突き飛ばした俺は発声源に眼を向ける。
目覚め、部屋の扉を開けたタチバナが、ぼうっと俺達を見下ろしていた。
大して高くも無い目線から見下ろされ、責められている様な、呆れられている様な錯覚に陥る。
「ち、違っ…」
「何が違うのだい功刀君?だらしが無いねえ、口の端からMAGが垂れてるよ」
ばっ、と唇を手の甲で拭えば、別に何も垂れていない。騙しやがった。
『今のは“キス”ですか』
薄い衣に身を包むタチバナ。編まれ、サイドからふわりと結い上げてもらった翠の髪は、パールヴァティの仕業だ。
あの女神…「可愛いお人形さん」と、私情を滲ませまくって、愛でていた。
「き、き……きっ」
「そうだよ、接吻(キッス)というものだね」
「貴様ぁッ」
振り上げた拳、しかし血の上った俺の攻撃は容易く往なされ、結局俺は腕を掴まれたまま、腹にヒールを喰わされた。
『…お主等、本当に何とかしてくれよ…猫の干物は嫌だぞ、おい……聞いとるのか…』
ライドウの学帽の上にずっと退避していた黒猫が、ようやく呟いた。


結われた髪をそっと撫で、パールヴァティに小さく微笑みかけたり。
ライドウの話す悪魔の話に、透き通る眼を薄っすら輝かせたり。
あの悪魔が見てみたい、と強請ってみたり。
日々日々、異世界の少女の欲求は増すばかりで。
知識だけは有るらしいお菓子の話に、眼をきらきらとさせていた。
打ち解けたのか、この短期間で。
確かに、葛葉ライドウという男は、俺の知る限りでは交渉上手で、口説くのだって巧い…
いや、俺は口説かれて使役下に入った訳じゃないが。
『いつか作ってほしいです、ジャムたっぷりのスコーンというモノが気になるのです』
タチバナは、俺を悪魔と畏怖しない。人間と悪魔の差を、知識としてしか有していないからだ。
人間のライドウと、半分悪魔の俺を、同じ眼で見つめる。
「そんな簡単なのでいいんですか…」
『色とりどりの、宝石みたく艶めくジャムと、柔らかな白い雲母の生クリームで、着飾ったお菓子が見たいのです』
「…ジャム…分かりました」
さっさとこの世界から脱出したいのに、安易に頷く俺。
こうして調理の依頼をされると、嫌だとか、云いたくない。
『人修羅は、人間と感じ方が違うのに、よくお料理できますね』
「はぁ…昔取った杵柄ってやつです」
短い期間で、タチバナは随分と喋りが細やかになった気がする。
語彙だけは豊富だったのに、それを使う機会も無かったというだけで…
この世界の神だとかが喰った人間の知識は、総てでは無いものの、住人達に流れているらしい。
人間と、違うのは身体の仕組みだけか。
『“橘の花”のカタチは想像できるのですが、薫りという概念がいまひとつ』
呟くタチバナに、ライドウは隣から語る。
寝台に腰掛け、ただ話を聴かせる毎日。この世界にもサイクルは有るので、その一周を一日とした。
「タチバナ、空気を感じる事は出来ないのかい?」
『この世界に芽生えるモノは、どれも似通ったニオイで、よくわからないです』
「確かに乾いているね、おまけに雨の後は生臭い、錆の臭いに近い」
『十四代目ライドウからは、違うニオイがする…それは判ります』
「僕かい?……フフ…これは白檀の香だよ」
『ビャクダン?』
白いシーツにライドウが指先で綴る。
「《白檀》……隣の国では《栴檀》と書く」
『…“栴檀(センダン)は双葉より芳し”という言葉なら、知識としては有しているのですが…この字面、本当はビャクダンと読むのですか?』
「フフ…少々ややこしいがね、読みはセンダンでありながら、それはビャクダンを指しているのだよ」
『…?どういう意味でしょう』
「ほら云ったろう、ややこしいと。その諺の栴檀はビャクダンの事を指すが、同じ文字で栴檀(センダン)という植物が、また別に存在しているのさ」
知識だけは有る所為で、稀に辻褄が合わずに混乱していた。
『センダン…』
「樹皮が駆虫薬に要される植物だ」
『駆虫薬…』
一瞬、タチバナの眼が濁った様に見えたのは気のせいか。
『もっと、色々聞きたくて、お話したくて…もうわたしは…本当は消えていなくてはならないのに』
最近のタチバナは、どこか鬱屈としている。
「何故消えねばならぬのだい?」
『…理由なんて、神がそうせよと云うからです。わたしの命は生まれた刻より定められているのです』
「それで満足?」
『…橘の花の薫りを、吸い込んでみたいです』
その会話を聞きながら、俺は廊下に出た。少し外が気になる。
どこか脈動の弱々しい廊下。ランプも明滅を繰り返し、管理の行き届いていないアパートの様だった。
廊下を抜けた先、ロビーの様な空間は、何かを啜る住民達でひしめき合っている。
魔界のBARみたいな空気、俺は話しかけもしないでテーブルっぽいそれ等を掻い潜る。
『人間、お前達が流れ着いてから、どうしてこんなに大地が干乾びている』
ローブの様な葉衣を纏う大柄な生物、俺を睨んだ……多分。
眼に生気が無いので、恐らくという推測でしかない。
タチバナの眼は、今でこそ生き生きとしているが、最初はこうだったな、と思い出す。
『雨も降りやしねえ』
俺に解る言葉で発している辺り、この住人達は皆、感情を持っている事が判る。
各々に役割が有るという事も、タチバナから聞いた。人間の世界と同じだ。
「すいませんでしたね」
軽く返し、西部劇の酒場みたいな軽い開き戸を開けた。
ここ数日、定期的に外に出て空を見上げているのだが。
事実、最近の空は薄暗い。雨は日に日に減り、植物が枯れ往く様に、鮮やかさが周囲から消えている。
潤いを失くした住人達は、保存してある養分を啜り生き長らえている様子。
きっと今、此処の住人を殺せば、以前よりも再生に時間が掛かるのだろう。
反面、俺とライドウの身体はまだ平気で、ライドウ曰く“時間経過が違うのではないか”という話だ。
(多分多分って…全部推測でしか無いじゃないかよ、馬鹿げてる…さっさと、この世界から出ないと)
随分と冷えてきた外の空気、まるで冬の様に。
どこか、違和感がして…空をもっと、眼を凝らして見上げる。
薄っすらぼやけていた空が、雲間の様な亀裂を作っていた。




蟲の飛び交う集落、建造物すらがじがじと喰らうその羽蟲達。
爛れた空はいつも以上に紅い色をして、この世の終わりを連想させる。
既に脈が絶えた大地は、住人達に活力を送る事も無い。
いよいよおかしい空気に、俺とライドウはこの日、ずっと屋外に出ていた。
外の蟲達が、突如集落を襲ったのだ。環境音すら無いこの街に、悲鳴と咀嚼音が響いていた。
『キリが無いわよ』
集落でいくら荊鞭を振るおうと、周囲に当たるだとかをきっと気にする事も無い。
外に出ている住人は、蟲に喰われてばかりだから。
『ねえライドウったらあ』
アルラウネの不満気な声に、ライドウがしなる荊を棘も厭わず掴み引く。
「主人が良しと云うまで振り続け給え」
切れ長な、孔雀睫がはためく…サマナーの微笑。
『……ん、もぅライドウったら、頑張っちゃおうかしらぁ…んふふ』
有無を云わさない威圧と、妙に色めいたテノールで云い聞かせるライドウ。
微少のMAGだろうと薔薇を咲かせたアルラウネ。
(単純…)
奴のああいう仲魔達を見ると、苛々する。
当のアルラウネは、ライドウの頬に軽いキスをして、建造物の窓に伸ばした荊で瞬時に跳ぶ。
それを追う様にして、複眼をぎょろりと光らせる蟲。
『ワタシの蜜を吸って良いのはライドウだけよ?アナタ達はお呼びでな・い・の』
窓に腰掛け、深窓の薔薇が邪悪に微笑む。羽ばたき寄る蟲達に、拡散させて打つ氷塊。
アルラウネのブフ・ラティは蟲の羽を停止させ、ボトボトと地に叩き伏せさせる。
ひくひくと足を蠢かし、ギチギチ歯を鳴らす蟲達。仰向けに転がり、うねる胎が気色悪い。
俺の逸らした視線の先、ライドウが空を見上げて哂っている。
「見給えよ功刀君、天が割れている」
云われるまま上を見れば、いよいよ亀裂が拡がり、言葉の通り割れている。
『アバドン事件のアポリオンを思い出すな、胸糞悪い事この上無い』
蟲をひょい、と飛び越えながらゴウトがライドウの足下に駆け寄った。
『ライドウよ、空間の歪みが何処かしらに発生しているやもしれぬ、よくよく確認しろ』
「成るべくして成った…と云ったなら?」
『何…?』
「フフ、脱出の為には傷口を広げなくてはなりませぬ童子」
黒猫に哂い、ライドウは胸を細長い指でするりと撫でる。
「アルラウネ、戻り給え」
一声発し、入れ違いにMAGの光が帯となる。
『ご無沙汰!』
舞う薔薇の花びらが、深緑の木の葉に取って代わる。
さざめきうねる旋風、ぎょろりと光る眼が俺達を見下ろした。
「久しいねヒトコトヌシ、早速だが仕事だ」
『何!?』
召喚されたヒトコトヌシは、名前の通り一言ずつしか発さない。
自然と横柄な物云いになるので、俺は顔を顰める。
それに、ヒトコト大風で身を裂かれた記憶が有る俺としては、仲良く出来る筈もない。
「天の割れ目が見えるだろう?無風のこの地に、飛行の風を起こしてくれ給えよ」
『…遠い!』
「へえ、この程度の距離も飛ばせぬかい、ケチだねえ“いちごんさん”は」
クス、とライドウが嘲弄すれば、木の葉が渦巻き鳥の形を取る。
『乗れ!』
巨大な鳥は、ライドウと俺と黒猫程度なら容易に積載出来そうだ。
「クク、御苦労」
満足そうに哂いつつ、ライドウはヒールの踵をひしめく木の葉に掛けた。
タタッ、とそれに追従するゴウトが、俺の傍を通過する際にボソリと零す。
『あのヒトコトヌシは“いちごんさん”と呼ばれるのが嫌いでな』
成程、ライドウの意地の悪さが垣間見える。
乗れと促された訳では無いが、文句される前に俺もヒトコトヌシへと歩み寄った。
が、スニーカーを引っ掛ける前に、止まった。
「ライドウ、見に行かなくていいのか」
「何をだい」
白々しい。
「…タチバナさん」
勝手にライドウが命名したその名を出せば、奴の形の良い唇がニィ、と歪んだ。
「折角頭上に路が開けたと云うに、君は何を云っているのだい?」
「此処の住人、皆倒れてるじゃないか」
「それが?君の困る事が有るのかい?」
「無い…けど……あんた、あんなに馴れ合ってたじゃないか」
僅かばかり私情を込めて糾弾すれば、あはは、と声をあげるライドウ。
「気になるのなら、確認しに行き給え」
「別に、気になるとかじゃなくて…!」
「では百二十秒待とう、一……二……」
これまた勝手にカウントを始めるライドウに、俺は納得出来ないまま踵を返す。
「本当に先に帰ったら憶えてろよライドウ、絶対ぶっ飛ばす」
吐き捨てつつ、足はあの建造物に向かっていた。
(助けてやりたい訳じゃない)
ライドウが、生きる路を選択させていた理由を知りたかった。
彼女の自殺を止めていた理由を。


「……」
胎動もせず、息を殺している廊下。明滅していた花灯りは、既に消えて。
殆ど暗闇と思うが、俺の悪魔の眼が、壁を透過する薄日を拾っているのか、視える。
部屋から這い出たのであろうタチバナが、廊下に上半身をぴったりと寝かせたまま、絶えていた。
「…タチバナさん」
返事は無い。
上半身の薄い纏いすら剥ぎ取って、極微量でもいいから、と、まるで床を抱く様にして。
死にたくない、とでも云いたげに、死の部屋から這い出ていた。
パールヴァティに愛らしく結ってもらった翠の髪が、踏み荒らされた花畑が如く、解け散って。
透き通り煌いていた眼は、透明度の低いガラス球。
俺は、その亡骸に別れも告げれずに、ただ黙って、残りの秒数を意識する他無かった。


「おかえり功刀君、残り三秒だったよ、危なかったねえ」
ヒトコトヌシの上で脚組みして哂うライドウの背後に、応えもせずに飛び乗る。
『飛ぶ!』
ぐわ、と浮遊感が身を一瞬強張らせた。ヒトコトヌシが離陸して、紅い空の中を舞う。
蟲や住人の散らかった大地は、死屍累々としていた。
以前ちらりと聞いたアポリオン騒動の帝都も、こんな具合だったのか、と、ぼんやり考えた…
…考えたかった。先刻の映像を遮断したかった。
……出来ない。
気が散ってしょうがない。問い詰めてやりたい事が、どうしたって脳裏を行き交う。
「功刀君、次は帰りの詞、間違えぬ様」
前方に乗るライドウ、声は哂っている。
きっとまた変な世界に辿り着いたとしても、脱出出来る自信が有るのだろう。
そんな奴に、噛み付く様に問う。
「おい、ライドウ」
ライドウの相槌を待たずに、黒い背中を睨んで。
「タチバナさんが死ぬの、予定通りだったのか」
天の傷口が近付いてくる、異界に揺らぐ現世への歪みにも似ていた。
「ライド…」
「また漂流したいのかい」
前方に跨る黒い外套が捲れて、隙間から刀の鞘がぐぐ、とこちら側に突き出る。
俺の脇腹を抉る様に傾き、圧迫した。
「嫌ならば、早く唱え給えよ」
小さく首だけで振り返るライドウ、長い睫が目立つ横顔。
有無を云わせぬその声音に、俺は言葉を呑み込んだ。
「……  」
元の次元へと繋げる呪文を囀って傷口を広げれば、ヒトコトヌシが滑空し、その勢いのまま上昇して往く。
揺らぐ紅い空に、巨大な…長い胴の白い蟲を見た気がした。
『掴まれ!』
木の葉にしがみ付く不安定さは、眼の前の閃光に呑まれれば気にもならない。
次元を泳ぐ際の、皮膚が引き攣るあの感触…


どさり


はっ、と、気付けば掌と膝に、接地の感覚。
瞼を開けば、蠢く草木…でなく、植物柄。少し毛足の長い、豪奢な臙脂と紺の絨毯。
此処は、何処だ?
「俺…また、間違えて――」
冷や汗の滲む気持ちで、四つん這いに蹲る姿勢から立ち上がろうとすれば。
舞い散る木の葉の隙間から、黒い外套を靡かせたライドウが飛び出し、俺の髪を鷲掴んできた。
「いぎっ!?」
ぐい、と引き寄せられ、すぐ傍をMAGがたなびき、空気を震わすテノール。
「我等が眼前に張り給え」
俺はライドウを睨んだ眼で、そのまま指先の管を追う。
指令の通り、俺達の手前に張られた障壁…召喚され、張ったのはネビロス。つまり、外法の壁か?
ヒトコトヌシの葉は、俺を抱えるライドウの胸元にぞぞぞ、と吸い込まれていく。
「ライドウ…ッ」
「君は耐性が無い足手纏いなのだから、少しは察知する努力でもしたらどうだい?」
既に空いた手で抜刀し、臨戦態勢のライドウ。
ようやく俺は脳天の髪を解放され、びしりとデコピンで突き放される。
「いっ…!てめ…どうやってムドの先読みしろってんだ…!」
「相手の唇が呪殺の詞を紡いでいるだろう?読心よりも早い……それより御覧、功刀君…フフ…これは実に都合が良い」
「何が…」
ライドウの示す先を再度振り返れば、障壁越しに蠢く肉塊。
巨象の様な体躯だが、頭と四肢は確認出来る。あれは…人間…なのか?
襤褸切れになった着衣らしき残骸を、その四肢に垂らしていた。
「辛うじてヒトガタを残しているが、僕等を吐き出した際に大きく裂けたのだ、もう長く無いだろう」
「は?吐き出した?」
ぱくぱくと、涎を垂らしながら開くは…まるで生き物の口。でも、有り得ない場所に付いている。
人間なら、あれは腹部に当たる位置だ。
『ぅ、うぅうぐぅうう……くれ…もっとくれ、屍肉くれえぇええ』
先刻から、外法の壁がキン、と幾度か鳴っている。呪殺魔法を唱えているのか、裂けた口がごぷりと液を漏らす。
壁が無ければ、俺は床に突っ伏していただろう…そう思えばゾッとした。
「吐き出した…って…どういう意味だ」
「僕等は奴の胎から出てきたのだよ?」
一瞬ライドウの云う言葉が理解出来ず、自身の身体を見下ろした。
確かに、薄っすらと体液で濡れそぼっている。奴の胃液だろうか。
「んだよそれ…今まで俺達、あれの中に居たってのか……?意味が、分からない」
考えた瞬間、背筋がぞわりとして、吐き気が込み上げてきた。俺まで吐き出しそうだ。
「さて、早く始末してやるべきかな」
隣で呟くライドウが、うっそりと哂う。
「始末って…おい、そいつ、悪魔なのか…?俺達に何の関係が」
外法の壁を通り抜けていくライドウ、障壁が水面の様に波打った。
蠢く肉塊の発する呪いは、あの男には通用していない。あいつは、ムドの効かない悪魔の如きサマナーなのだ。
膨らんだ瞼でよく見えてないのか、ライドウがすぐ眼の前に居るというのに、肉塊は直接攻撃すらしてこない。
「脳ばかり肥大して…フフ、持て余し活用されぬ知識ほど無意味なものは無いね……おい、ネビロス」
『はい』
「コレの中からいくつの魂を感じる?」
『ざっと二十名でしょうか』
「そうかい、では間違い無いねぇ……クク」
仲魔と会話したと思った次の瞬間には、刀の切っ先を胎の口に喰わせるライドウ。
腕を傾け、ぐじゅぐじゅと抉り込む。その不快な水音に、俺は堪らず眼を背けた。
『オノレ…デビルサマナー…』
どこからの声か、あの肉塊とも違う微かな響き。
視線を戻せば、ライドウの刀の切っ先に、白い蛇の様な蟲がしゅるしゅると巻きついていた。
あの肉塊の内部から出てきたのか…俺達の様に?
『応声虫…!』
俺の足下からフギャ、と黒猫が鳴いた。
「オウセイチュウ?何ですかあれ…悪魔の一種ですか」
『まあ、近いと云えば近いな…ヒトの胎に住み、その胎に口を作りては、まるでヒトが如く喋り、食物を要求する様になる厄介者だ』
「寄生されてるなら、あのデカイの…本来は人間って事でしょう、助けなくていいんですか」
『ふぅむ……あそこまで進行しておると、乖離は不可能であろうな』
濡れた毛皮がムズムズするのか、絨毯に手脚を擦り付けつつ、ゴウトはあっさり云い切った。
『コノ人間ノ望ミヲ、少シバカリ叶エテヤッタダケ』
ライドウの刀の先で、白い蟲がチロチロと舌を出す。
その舌先がライドウの学帽のつばをパスン、と少し撥ねれば、クク…と肩で哂うデビルサマナー。
「僕の仕事は帝都の治安向上だからね、お前の様な存在は邪魔なのだよ」
『其処ナル帝都ノ人間ガ悪イダロウ?』
「善悪では無い、邪魔だから排除するだけ…僕等を邪魔者と認識したカラダの仕組みと同じ様にするまでさ」
と、その白が纏わり付く切っ先を、突如俺に差し向けたライドウ。
思わず腰が引けたが、俺だって流石に警戒はしていた。角が少しばかりビリビリする。
「功刀君、燃してくれ給え」
「な、なんで俺が!」
『わたくしが始末致しましょうか』
「ネビロス、僕は人修羅に命令しているだろう…頭巾で耳が遠いか?」
仲魔の横槍をへし折るライドウ。やっぱ、勝手な野郎だ…
「応声虫自体は再生能力が強い…良いかい?一瞬で灰にするのだよ」
「……チッ…」
「ああ、それとひとつ、君は眼を逸らしていたので知らぬと思うが、この蟲は媒体の肛門から排泄されたのでそのつもりで」
ニタァ、と哂って、更に俺に切っ先を寄せるライドウ。絶対わざとだ。
「んの…糞野郎」
「それはこの蟲に云っておやり」
外法の壁一枚を隔てて、白い回虫が俺に嗤った。
『サマナーノモ、ナカナカ良カッタガ…オ前ノMAGモ美味カッタナァ?』
あの人間を媒体にしていただけあって、啜っていた生体エネルギーの味は把握しているのか。
「そうですか、不味いって云われるよりはマシですかね」
間近から見据えて、眼の奥に意識を集中する。
俺から滲む殺意を感じ取ったのか、眼前の舌がチロチロと躍り、続いて外法の壁が啼いた。
透明な障壁が視えていないのか、憐れな蟲に胎の底から笑いが込み上げそうになって。
「人間の所為にしないで下さいよ、この…寄生虫が!」
そんな自身の顔を見ずに済んで、ああ、障壁が鏡面でなくて助かった。
苛々するんだ、人間に寄生する類のモノは。俺の中に巣食う蟲を思い出すから。
『ピギィ』
一種の蟲の悲鳴。刀の切っ先が轟々と揺らめき、その灰になった蟲を掃うライドウ。
「おいおい君、玉鋼にしないでくれよ」
熱された刀を鞘に納めて落ち着かせ、俺をチラ、と叱咤してくる。
そんなにヤワな武器、使ってないだろあんた。
「…しっかり加減した…熱消毒にもなったんじゃないのか」
「ま、とても良い貌は拝めたけどね?」
クク、と哂うその声に、はっとする。そうだ、鏡面じゃないから、向かいのライドウには丸見えだった。
何か云い返そうと、気まずい俺が口を開こうとすれば…
激しいノック音、開かれる重厚な扉。
「旦那様!!」
使用人姿の初老の男性が、肉塊と俺達を入口から交互に見る。
「な、ななな何ですか貴方達は!?おまけに土足で!!」
咄嗟に擬態して、ライドウの影に隠れた俺は、思わずスニーカーを見た。そういえば、此処は屋内だ。
あの肉塊は、この家か何かの主人という事だろうか。
「土足にて失礼、自分は築土の鳴海探偵社より参りました葛葉に御座います」
あまりに自然に対応し会釈するライドウに、背中から辟易の溜息を零してしまう。
「鳴海探偵社…ああ、ああ!依頼してあった、あのオッカルト専門の!」
「左様に御座います、此方の御主人が人面瘡にお悩みとの事で、嗚呼これは一大事、と、思わず靴履きのまま部屋に直行してしまいましてね」
ゴウトがフゥ、と呆れている。相変わらずの喋りに、お目付け役まで溜息している事実。
この部屋に出てからの流れで分かったのは、この肉塊が、人面瘡の主だという事。
(悪魔が憑いていたとはいえ、胎内があんな…ひとつの世界みたくなるもんか?なんで…カラダの組織が…人格有ったんだ…)
どんなSFだよ、子供じみてる。
結局俺達は、異次元に漂流したにも関わらず、別件依頼に間に合ったのだ。
…いや、死んでるし、間に合って無いか?
「しかし旦那様は呼吸をしてない!どういう事ですか!」
慌てふためく使用人に、ライドウは学帽を被り直してニヤ、と微笑む。
「実はこのお屋敷に呼ばれた数名が行方知れずとなっておりましてね…風間という刑事と結託し、調査しておりました」
「け、刑事!?」
「貴方は先刻から、呼吸をしておらぬ主人に驚きはせども…その肉塊姿には微塵の疑問も感じておりませんね?最早、人面瘡という規格の姿では無い」
白髪交じりのオールバックを、びくびくした指先で撫でつける使用人。眼が泳いでいる。
そんな初老を虐める様にも見えるライドウが、豪奢な絨毯を一歩、ヒールで踏み出した。
「此方の御主人、己の胎の人面瘡を餌に、著名な科学者・医者などを遠方より呼び、喰らっていたと推察します。知識人の脳ほど美味らしい」
「…なにを、馬鹿な事を!」
「元々悪食だったそうでは無いですか…フフ…やや趣味の悪いグルマンディーズの集いに出席された形跡もある…蟲だとか、人肉だとか、ね」
獲物を追い詰めている時のライドウの眼は、黒曜石に紫が滲む。
人間のくせに、この数日間疲弊も見せず、MAGをじわりと発して唇の端を吊り上げていた。
「応声虫と共生し、欲のままに喰らうイキモノは、既に悪魔に御座いましょう?」
革靴の爪先が、肉塊の口を蹴り上げれば、ぐじゅりと崩れた。
「ヤタガラスの一羽として、十四代目が始末させて頂く」
膝を着いた使用人を、哂うまま見下ろすライドウ。
ゴウトは欠伸をして、一段落と伸びを始めていたが…
俺は、何処か鬱屈としていた。
ライドウの靴先、裂けた肉塊の裂け目から、はらはらと純白の小さな五弁はなびら。
腐臭混じりのその薫りは、何故か白檀のそれだった。








『人修羅の失態も、時には役立つものだな』
「まあ、僕もまさか依頼主の胎内に通じるとは予測も出来なかったですがね」
昨日の薄汚れた着衣を洗濯し、晴天の下に干す俺。見上げた空は紅くない。
離れた所、柵に寄りかかり煙草を噴かすライドウが、ゴウトから俺に眼を寄越す。
「手が止まっているよ、功刀君」
「…あんた、いつからあの世界が、誰かの胎ん中って判ってたんだよ」
「おや?確信は無かったさ」
「どうしてタチバナを生かす事が、出口を作る方法だと……」
薄いシャツを握る指が、少し震えた。あの世界の住人は、皆こんな薄布を纏っていた。
「知らぬのかい功刀君、神という創造主はね…世界の均衡を崩さぬ為に、不要な存在は排除するものなのだよ」
フゥ、と吐き出された紫煙が、上空の雲に入り乱れる。
銀楼閣の屋上は、擬態の肌には寒い。
「神に死を定められた彼女は、きっと役目を果たした後に、消えねばならなかったのさ」
「どうしてだよ」
「アポトーシスを知らぬか」
聞き慣れない単語。ばん、と叩いた洗濯物の水分が眼前に舞う。
「あの富豪はね、知識人を喰らう事で知的好奇心を充たしていた…脳は肥大化し、勿論肉体も象の様に脹れ上がっていた。だが媒体は所詮人間…内部の細胞死を食い止められ、伸びきらぬ肉体は裂けた」
「あんな醜くなったら、もう、人間なんて云えないだろ…」
「肉体という世界はね、毎日誰かを殺して保たれているのさ。生物が巨大化し、成長する過程において…排除される細胞の数知れぬ事。生まれいずる手前…胎内では人間の指の隙間に水掻きの如くヒレがある…そのヒレも、アポトーシスなる細胞達が自殺する事で、五本の指として分かたれる…他にも、オタマジャクシの尻尾…だとかもね。成長するにおいて不要となる部分の徹底排除が、肉体では行われているのだよ」
煙の白い環を、ふ、と吐き出し哂うと、ライドウはカツカツとヒールを鳴らす。
「君の様な人外ともなれば、寿命たるテロメアの環さえ怪しいがね」
吐き出したばかりの環を、したり顔の指先で掻き消し、俺に歩み寄る。
「アポートシスの死により、ヒトの肉体という世界の均衡は保たれる」
長い睫の麓、黒い闇色の眼が、俺を映り込ませると、くす、と嗤った。
「つまりは、自殺する細胞だったのさ、タチバナはね。だから、生かし、世界が崩れるを待った…それだけの事」
「あんなに色々話して、娯楽教えて、結局はそれかよ、相変わらず思わせぶりだよな、この悪魔」
「君が他に手段を提案出来た?随分と同情的だね、これで彼女が悪魔ならば、君はせせら哂っていたのではないかい?」
「っさいなこの…冷血漢!タチバナさん廊下で…」
もう吸えないのに、抱き縋ってたんだぞ。
多分、もっと、生きたかったんだ。
「あんたが余計な事ばっか教えるから!最期が…」
「では君だけあの胎の中で、融けきるまで居残っていれば良かったではないか」
ぴしゃりと撥ね付けられる。どう返せば良いのか分からない。
「最期が辛かろうとでも云いたい?フフ…では、あのまま自殺する様を見送れば良かったかな?しかし、それでは世界は綻ばぬ、僕等は脱出が出来ぬ」
そうなのだ、どちらにせよ、彼女は死ぬ運命を辿る。
彼女だけが世界の為に死ぬか、世界と共に彼女も死ぬか。過程が違うだけ。
『ライドウ、そろそろ行くぞ』
ゴウトの声に、ライドウは煙草を俺に押し付ける。
洗濯物で湿った掌で、消し炭にする必要も無く鎮火したそれ。
「どうして…」
学生服の黒い背中に、吐きつける。
「どうしてタチバナとか、名前あげたんだよ!!」
“永遠”の象徴だ、と。微笑みながら与えていたライドウを、思い出す程に苛々する。吐き気がする。
あの瞬間、あんたは何を考えて与えたんだ。
「弟橘比売命」
「え?」
「あぁ…やはり解ってなかったのかい?オトタチバナヒメ…」
アハハッ、と背中を丸めて、さも可笑しそうに哂う背中。
「日本で最初に自殺した者の名だよ、功刀君」
思わず火を吐きそうになった。
名前を呼ぶその行為の重さを、俺は知っている。
稀に俺の名を呼ぶ、あんたの声音を、俺は知っているからこそ――…
「…あの世界が、真実人間の胎の中だったのか、はたまた何処ぞの惑星だったのか、確証は持てぬ」
扉を開くライドウが、震える俺に云い残す。
「胎の蟲が治まらぬのなら、忘れる事だね」
扉が閉まり切るその前に、嫌味を込めて“夜”と一声発してやろうか迷って…止めた。







「よぉライドウちゃん!やぁーっぱクロだったろ?え?」
「そうですね、フフ…風間さんの目星は大方当たっている」
葬式だというのに、にこにこと笑う風間刑事に、周囲が少し怪訝な顔そしていた。
「そういやライドウちゃんも狙われてたんだろ?依頼つって呼ばれてよぉ。いやー良かったなあ喰われんくてなぁ?」
「まあ、一度胎内には入ったのですがね」
「んぁ?」
不思議そうに眉を顰める風間、向こう側から部下に呼ばれると、手を軽く上げてから、えっちらおっちら去って往く。
流石富豪、葬儀には各界の大御所がごろごろと来ていた。
僕も刑事も、この面子を眼に焼き付けておく為に出席しているのだ。
この様に培う記憶が、他の事件に繋がる瞬間のシナプスの震えが堪らない。
『我の様な畜生を連れて…お主も白い目で見られておるぞライドウ』
「慣れております故、痛くも痒くも御座いませぬ童子」
『そういう問題か……ん、おい、賑やかいのが居るぞ』
ゴウトの示す先、式場の入口で見慣れた姿の女性が、小さく腰を屈め記帳していた。
薄い萌黄色のスーツでも、茶系で纏めたワンピースでも無い。
「タヱさん」
その背に声を掛ければ、はっと振り返って笑顔になるタヱ。
「ライドウ君!あらあらゴウトちゃんも?」
黒いタイトな衣装だった。だが、手提げにはちゃっかりと手帳が忍ばされている。
「葵鳥さんが記帳ですか」
「んもぅライドウ君たら、こんな所でまで楽しい事云わないの!」
どの様な伝手かは分からぬが、この記者の事だ。きっと怪異と知り、参列しているのだろう。
「どうやらね、趣味の悪い金持ちだったみたい…悪食らしくてね…ワインを水の様に呑むから、胃に穴開いたんじゃないの?」
「血の杯でしょうかね」
「やだ、ライドウ君、おっかないわよ」
あながち、間違いでも無いと思うが。あの赤い雨は、しっとり錆の香りがした。
「あ、ほら…見て」
こそこそと、内緒話の様に声を潜めるタヱ。
「この屋敷に招かれて行方不明になっちゃった人達の親族よ、あそこに居るの」
その眼を追うと、屋敷の者に詰め寄る人間達が、ちらりと見えた。
「今回亡くなった御主人、胎に人面瘡が有ったとか…って、まっさか人面瘡が人を喰らう訳無いわよ…ねえ?」
「さあ?どうでしょうね…人面瘡の食の好みと云うより、媒体の嗜好が大きいと思いますがね」
「えっ?なになに、さては何か知ってるわねぇライドウ君?葵鳥さんに教えなさい」
「先日珈琲を淹れて差し上げたでしょうタヱさん、あの豆はアカラナという回廊を通って遥々入手した特上の」
「ぁーはいはい分かった分かりました!今回は深追いしない、しないわ、聞かなかった事にする…!」
「フフ、また淹れて差し上げますよ」
頬を膨らませつつも、すぐに笑顔に戻ると、小走りに駆けて行くタヱ。
『やかましい女だ、ああだから事件に巻き込まれるのであろう』
「人を喰らわずに得ようとする好奇心なれば、健全でしょうに童子」
『フン…』
この屋敷の、既に亡き主人は遺骨だ。
肉塊姿を晒せる訳も無く、骨の姿で一同にお披露目し、お別れの会。
焼却炉にて焼かれた際、あの異世界も…喰らわれた魂達も…灰になり空に融けたのだ。
それを知る由も無い遺族達は、追い返されていた。
僕の背に、整然とした声が掛かる。

「お勤めご苦労様です、十四代目葛葉ライドウ」

振り返らずとも判る、黒い装束に身を包んだ、ヤタガラスの使者。
「名も無き神社より出張ですか、貴女様もお勤め御苦労様です」
フ…と、鼻で哂ってしまう。早速口止めに来たか。
「そのまま聞きなさい。この件の真相は他言無用、アポリオン騒動にて、帝都は蟲に敏感です、ましてや人に寄生する応声虫…混乱を招きます」
理由も知る事無く、闇に消されるのだ。
「被害に遭った方々の親族には、決して漏らさぬ様…」
此処の主人の及ぼす力が、それなりに大きかったのだろう。金融や軍事に携わる重鎮なら、ヤタガラスもカアカア鳴かぬ。
お偉方が人を喰らおうが、これまでの世界を壊さぬ様に…ただ、そ知らぬ者達が闇に葬られるだけ。
「ヒトの胎内だけの話かと、思うておりましたが…」
ゴウト童子が僕を見上げて、威嚇した。“黙れ”と、云っているのだろう。
ヤタガラスの使者の、鋭い視線を背に感じつつ、高らかに唱えてやる。

「予定調和のこの世は、理由も分からず死滅する細胞により保たれている…そして洗脳操作は、大義名分により執行される」
『ライドウ…口を噤め』
「眼の前で呼吸するは“平和なる発展を遂げし帝都”を構成する、細胞達に御座いましょうかねぇ……フフフ」
『ライドウ!!』

いきり立ち突如鳴く猫に、周囲の喪服が一斉に此方を注目した。
僕の背後に、既に使者の気配は無い。

「お悔やみ申し上げまする」

哂いつつ述べた僕を、気味悪いとひそり、さざめきあう細胞達。
それを掻い潜り、帰路を辿る。
追従してくる黒猫の機嫌が悪いのは、伝わるMAGの鼓動で判る。
あの世界の、あの少女の鼓動が、日に日に高まって往くのを感じていたこの身には……容易い。
歩む己の靴先、昨日それが橘の花に埋もれた事を思い出す。
(白檀の薫る橘とは、珍妙だね)
真の薫りすら知らぬまま、消えた彼女に同情はせぬ。
神殺しの一端を担った僕等は、寧ろ感謝されたくある。
外界に這い出たタチバナの花に、彼女の鼓動の余韻を感じた…それは、間違い無く彼女という個の意思だった。
最期の瞬間に残留した思念が、十割十分十厘、後悔だったとは、云わせぬ。
「身体の意図せぬ処、たったひとつの細胞が肉を殺すのであります」
『フン、お主にヤタガラスは崩せぬ』
黒猫と応酬していれば、いつの間にやら近付いてくる銀楼閣。胎動せぬ廊下に鳴り響くヒール音が、大変心地良い。
足下で鼻をひくりとさせるゴウト。
『また何か作っておるか、女々しい奴め、悪魔の分際で…』
鮮やかな柑橘の薫り。その隙間に蕩けるバターの焦げ付く気配。
「マーマレェドコンフィチュールたっぷりのスコーンでしょうかね」
『おいおい匂いで判るのかお主?畜生の鼻に勝って如何する…喰い意地が汚いぞ』
「フフ…きっと僕への嫌がらせで御座いましょう」
『はぁ…?』
人間らしく、確かに空腹を感じる細胞が疼く僕。
扉に手を掛け開けば、人修羅の侮蔑の眼差しで迎え入れられる。
「ほら、当たり」
其れを見下ろし哂って発すれば、溜息と共に着席する君。
焼き上がった粉菓子に、煌く蒲公英色の砂糖蜜。卓上に転がる果実は、橘の実。
「こういう事だけは得意だねえ?鳴海さんが居ないからとて、己の焔で焼いたろう?」
「あんた葬式帰りだろ、塩振ったのかライドウ」
「誰に云っているのだい…そんな事したら、悪魔が寄れないだろう?」
「な…!手ぐらい洗ってから…っ」
カラスを殺す、たったひとつの細胞に…成れるのだろうか、ねえ、タチバナ。
僕は、アポートシスには、決して成らぬ。

 わあ、おいしそう、こんな薫りだったのですね

味わい、嚥下する。隣から、彼女の声が鈴の様に囁いた気がした。
「美味しいよ」
あくまでも、その幻聴に囁き返せば。
向かいに頬杖する悪魔が、眼元を染めて視線を逸らした。
「フフ…これが本物の橘の薫りだろう、ねえ?」
「…!」
頬杖の腕を掴み寄せる。塩で清めぬこの身、触れ得ぬという云い訳は通用せぬよ?
睨んでくる眼の輝きに、一瞬悪魔が過る。それすら今は、芳しい柑橘の色に見えてしまう。
「要らない、放せ、今日は消耗してない」
向かいの君にも、MAGと共にお裾分けしてあげよう。
舌いっぱいの、彼女の薫り。
『おいライドウ、次の依頼が控えておるのだぞ、さっさと喰うなら喰え!』
黒猫の叱咤に、息継ぎの唇で返す。
「どちらをでしょうか?橡蜜?橘蜜?」
『空腹を充たすなら菓子、精気を潤すなら人修羅にしておけ、そしてさっさと済ませろ痴れ者め』
柑橘の果実の様に、君の眼が丸くなった。反撃の腕を、ギリリと締め上げる。
「はぁ!?…ざ、ざけんな…ッ…ゴ、ゴウトさんもこいつの面倒しっかり見て下さい!」
「では、両方にしておこうか、僕はトウテツ並みだからね」
「意地汚いんだよ!こ…の、冷血漢共が…!」

神を殺そう。予定調和を狂わせよう。
僕と君は、きっと悪い細胞。人も悪魔も無い。
まだ、君を生かしておいてあげるから。
だから呼んであげる、その名前。今、舌の上でね…


アマラ宇宙なる御体の、ひとつの世界、細胞という部屋の中。
そんな、どうでも良い、下らない、蜜色の午さがり。


死因、apoptosis・了
* あとがき*

-サイエンスフィクション-…SFもどき。人体の中を小さくなって冒険する類の児童向け番組を思い出す。 神の胎内のイメージが、宇宙のひとつひとつの世界にあるので。悪魔蔓延る異界とも、また少し違う。 細胞ひとつの死を己が感じる事も無く、そうして躯が保たれている事が、この世と通ずるものがある。冒頭の文は、ライプニッツの形而上学説「モナド論」から(モナドと云うと、ゼノブレイドを思い出す。ゼノギアスのゾハルシステムも、此処ら辺りな気がした)

タチバナとの馴れ合いを丁寧に綴る程、呆気なく死に絶えた際の焦燥感やライドウへの鬱屈とした感覚が強くなるのだろうけれど、これ以上長くするのもどうかと感じ。SSとは名ばかりで、コンパクトに纏めるのが大変に苦手である。(タチバナの細胞としての役割については、割愛してしまった)
ライドウは、どの道死ぬ細胞のひとつを助ける事よりも、有効活用かつタチバナにとっても死の意味を捉える機会を与えた=単なるアポトーシスから個への昇華をさせてやった、とも思っていそう。そのくらいの気概で居なければライドウとして立ち回れ無さそう。
人修羅は多分、自殺を止めてまで馴れ合ってたライドウに苛々してた。タチバナに同情はするが、絶対心の何処かでライドウの行動に理由が合った事に安堵している。しかし無情にも見えるライドウの振る舞いにも、妙な苦しさを感じている。名を呼ばれる際の魂の疼きを知っているから、今回はやや傷心している。最近の彼は、少々行動がガサツである、ゴウトの云う通り主人に似てきたのかも。

胎から橘の花が溢れるシーンが、個人的にはお気に入り。

《応声虫》
人間の腹の中に棲みつくとしばらく高熱が続いた後、腹の表面に口の形をした腫れ物が出来、人の口真似をしたり、食べ物を要求して宿主を困らせる。このため応声虫という名がついた。虫の嫌がる薬を飲ませると肛門から出てきたという。(「神魔精妖名辞典」様より)
人面瘡だとかオッカルトな雰囲気もあり、回虫という説は非西洋科学でもある感じ。このどっちつかず感が扱い易かった。作中でライドウが発した「胎の蟲が〜」は、勿論この奇怪な蟲と掛けている。

《タチバナ(橘)》
ミカン科ミカン属の常緑小高木。常緑が「永遠」を喩える。酸味が強く生食用には向かないが、マーマレードなどの加工品にされることがある。
ナチュラルに千晶の名字と被ってしまった…それに気付いたのは執筆も終わる頃。「マーマレードボーイ」でマーマレードジャムの存在を知り、「デリシャス!」でスコーンの存在を知った、そういう世代です。

《弟橘媛(オトタチバナヒメ)》
ヤマトタケルノミコトの妻の一人。海神の怒りを鎮める為に入水した。日本で最も古い自殺に関する伝承…らしい。ので、今回はそれに掛けてキャラに命名。自殺の第一人者というタチバナヒメと、永遠の象徴を表す橘をひとつにした。 オトタチバナヒメというと、どうにも諸星大二郎著『暗黒神話』の彼女を連想してしまう。繭の様なタイムカプセルから出て、可憐な姿も呆気無くドロドロに溶解してしまうのだ。

《アポトーシス (apoptosis) 》
、多細胞生物の体を構成する細胞の死に方の一種で、個体をより良い状態に保つために積極的に引き起こされる、管理・調節された細胞の自殺すなわちプログラムされた細胞死(狭義にはその中の、カスパーゼに依存する型)のこと。(此処まで完全にwikiから)
毎日の、代謝だとか、成長に応じて細胞が自殺をする。(壊死とは違う、それが重要)“自殺という行為を人間が勝手に当てはめているだけ”といえばそうなってしまうのだが、自殺する細胞という響きがとても魅力的で記憶していた。 タイトルの「死因、apoptosis」は、本来死から遠ざけてくれるべきアポトーシスに殺されたという矛盾を孕んだ雰囲気を出したく名付けた。