白い烏〈前編〉

 
「あんた、俺の部下、殺ったのか?」
与えられた部屋の、豪奢な扉を開くなり窓辺に投げた問い。
すぅ、と紫煙を黒いリムの隙間から、暗雲に昇らせる黒い影が哂った。
「僕から手は出しておらぬよ」
肩を揺らして、組んだ脚を解いた奴。
反動で揺れた外套、その端にちらりと見えた赤黒い飛沫。
その殺戮の残滓に、思わず眉を顰めた。
「殺し合いの名残を俺の視界に入れないでくれ」
呟いて、つかつかとクロークに寄る。
「へぇ、閣下も今回は妙だねえ、その色」
袖を抜いた腕を、そのままもう片袖に回す。
ライドウの声に、一応返答しておく。
「…今回は、閣下の寄越した服じゃ無い」
「なれば誰だというのだい?」
「どっかの悪魔」
それ以上説明する事は止めた。というより、聞いてなかった。
知りたいなんざ思わない。ただただ、この城に来ては、閣下の云う通りにする。
殺せと云われたら殺すし、食めと云われたら食む。
煌びやかな晩餐会で、俺をお披露目する事も…少なく、無かった。
未だに、震えが止まらない…
どうしても、堕天使への畏怖は払拭出来ず、逆らえない。
まだ、そんな段階まで、俺はいってない…
「悪魔も社交儀礼がある様で、御苦労だね」
くすりと妖しく微笑んで、俺を見ながら吸殻を放ったライドウ。
その塵をひと睨みする俺の髪が、一瞬ふわりと魔力を湛えた。
じゅ、と焦げる様な音がして、吸殻は塵芥と化す。
「フフ、本当御苦労」
「俺の部屋、汚すな」
居心地が良いとは云わないが、一応俺の為の部屋だ。
俺が居なければしっかり捨てるのに、この男。
苛々が先刻からのものに上塗りされ、神経がささくれ立つ。
白い纏い物を寝台に叩きつけた。豪奢なレース刺繍のローブ。
妙に肌にまとわりついて、ぞわぞわしていた。
もう用事は済んだ、さっさと帰るんだ…帝都での住処に。
このケテル城だって、そもそも俺の居場所では無い。
確かに、部屋は設けられている。地位だって用意されていた。
…でも、其処に功刀矢代という個は無い。人修羅という半魔が躍るだけで。
「閣下、何か申しておられたかい?」
「別に…ああ、でも、あんたが俺にべったりな事は指摘してたな」
窓辺の椅子から立ち上がったライドウが、学帽の下から光る眼を覗かせる。
うっそりと歪む口元。
「はん……過保護なんじゃないのか?あんた」
鼻で笑って、来る際に着てきた着物の襦袢に腕を通す。
大正のソレ等は、この城の様式美に背く。
袖口から指先を逃す瞬間、掌に熱が潜って通り抜けた。
「っ、ぐ」
奥歯を噛み締め、声を押し殺す。
震える腕を、そのまま通しきり、血塗れの手先で衿を正した。
白藍の衿が、朱に染まる。
「責任を以って躾するのが飼い主の役目だろう?」
銃口から昇る紫煙を、煙草の様に燻らせるライドウ。
ホルスターにくるりと回し納めると、ヒールを鳴らして傍に来る。
「僕の物、汚してくれるな」
俺の先刻の台詞を、そっくりそのまま置き換えたのが腹立たしい。
哂いながら、俺の手を掴む。
払おうとすれば、銃弾の貫通した孔を、綺麗な指先が抉る。
「あ、っ…く…ぅ」
「放置しては、こうして己の世話すらまま成らぬ…愚図だから、ねぇ?」
ぺろり、と俺の血を赤い舌で舐め取り、爪先を軽く噛む仕草。
どこか淫靡で、思わず…眼を逸らした。
「あんたに…汚された」
「…血の事?それとも」
「っう…煩…い」
微かにMAGすら薫る、その唾液濡れの指先が、襦袢衿を糊付けしていく。
項の突起を締め付けない、広めに抜かれた衣紋。
なすがまま、主人のデビルサマナーに着付けられる。
逆らう気力が、今は無い。くたくたなのだ。
「君が自分で着ると、すぐ崩れる」
着物袖を襦袢に沿わせて流れ往く黒。
背後から、俺の影を覆うそいつが着せていく。
「この色目…良いだろう?烏の濡れ羽の色だよ…」
「葬式かよ」
「襦袢の白藍に縁取られて、何処かの悪魔を彷彿とさせはしまいか?フフ…」
云われてようやく、気付いた。
眼前に在る黒曜石の姿見が映し出す俺、黒い着物に縁取るラインは薄い水の色。
「あ…」
「此処だけは誉めてやりたいのだよ、四六時中、ね」
「悪趣味…っ」
「先刻の白より、はるかに似合う」
だって、そりゃそうだ。自身の溜息に、諦観が篭る。
俺の肌を巡る、忌まわしい斑紋を、誰よりも好いているのは…あんただから。
(こんな、醜い身体を)
俺は最早、着せ替え人形だ。
堕天使と、悪魔召喚師の。



冷たい石の廊下を歩めば、光る相貌達が端に除ける。
俺を崇める悪魔達に一瞥もくれず、無視して先に足を運ぶ。
「君の頭より下に下げるのは、大柄な悪魔には厳しいだろうね」
クク、と哂いながら云うライドウ。
暗に俺の背が低いと述べているその台詞に、頬が引き攣る。
「無意味にでかいよりマシだ」
「もし謀反に遭った際…その巨体達に羽交い締めにされたら、どうなのだい?」
丁度、ティターンやらガネーシャやら、屈むに屈めぬ悪魔達の傍を通る瞬間だった。
巨体の彼等と、俺の間の空気が張り詰める。
背後のデビルサマナーの言葉が、それを弾いた様に震わす。
「果たして小柄な君に、跳ね除ける事が可能なのかな…?クク」
そのライドウの言葉尻、途切れた瞬間には轟音が廊下を吹き抜けていた。
「勝手にやってろ…野蛮な奴等」
振り返らず、吐き捨てた俺はそのまま歩みを止めない。
着物が汚れては、またライドウに文句される、面倒だ。
『人間如きが、我等の将を虚仮にしおってからに』
打ち合う音、ティターンの振り下ろしたであろう拳が、床を穿つ音。
象の嘶き。石壁に跳ね返る衝撃音。
反射するMAGの光が、召喚を一瞬連想させるが、あの男の事だ…
振り翳す刀の切っ先から、MAGを迸らせているのだと察知した。
「跳ね除ける事、僕なれば可能だがね?」
『抜かせェ!』
哂いながら、凛とした涼しげな声で悪魔に云い放つ奴。
一人で悪魔達を相手する事に、歓びを見出している、紛う事なき戦闘狂。
背後からの圧に着物の裾が捲れても、俺は戻らない。
『ヤシロ様、お帰りになられますか!?』
ふと、向かいから聞こえた相変わらずテンションの高い声に耳を預ける。
燭台を背に括り、駆け寄ってくるビフロンス。
傍に跪くと、その骨の指で俺の脚を触った。
「伯爵…当たってるぞ!」
怒声と共に、ぐ、と脚に力を籠めた瞬間、白い掌で制止を促すポーズをとった悪魔。
『お待ち頂けますかヤシロ様!着物の裾が捲れております!!この私めの矮小なる指先にて大変失礼とは思いますが、何卒お直しさせては頂けないものでしょうか!?』
つらつらと説明している、が…その間に既に動いているではないか。
そういう所がちゃっかりしている。悪魔め。
「次から自分で直しますから!触らないで…下さい」
『はいっ、マコトに申し訳ありませんッ!しかしながら見事なる美しさの紋…』
「帰ります!退いて下さい!」
骨ばったそれを蹴り掃けて、廊下の終りを目指して歩みを再開する。
『ヤシロ様!城門までお見送りを!』
燭台の灯がふらふらと、俺の影を石壁に踊らせる。
そのうつろいがうざったくて、さっさと出口を潜った。
すると、ライドウとは別の…黒い影にぶつかる。
見上げれば、悪魔らしくぱっちりと輝く相貌。
なんとなく見覚えのあるそいつに、脳内を巻き戻す。
『人修羅殿、自分の選んだ召し物は気に入りませんでしたか…?』
「あ…いや、その」
思い出した、ルシファーの晩餐会に出席してた悪魔だ。
純白のローブを俺に差し出して、周囲を唖然とさせていた。
『折角、閣下も御赦し下さったのに、残念であります』
“黒は白で引き立つ”
そう述べて、あの堕天使を即座に納得させていた。
まあ、ルシファーもルシファーで…形式に囚われないので、元より煩く無い。
どちらかと云えば、周囲の悪魔達の方がぎゃんぎゃんと喚いていた。
白は…天を思わせる、忌むべき色だと。
それを云う相手が堕天使と、忘れたのか。有象無象達め。
「俺は、もう帰りますんで…あんな衣装着たままじゃ困るってだけです」
『然様ですか』
「魔将とかって俺を奉るなら、着せ替え人形にされるのは遠慮願いたいんですけどね」
対面する悪魔をジロリと睨みあげた。
あの席では意識しなかった、その容貌。
黒い…ベルベットの服、同じく黒い巻き毛も艶やかな…青白い青年姿。
『しかし、とても良くお似合いでしたのに』
微笑んで、白い悪魔じみたその眼を薄くしならせる。
『返る鮮血が鮮やかに彩るではありませぬか…白亜のキャンバスに』
「な」
『その美しい手で、もっと命を手折って頂きたいと願っております』
伸ばされる、その黒い手袋の指先。
俺が引っ込めるより早く
伯爵が喚くより早く
「ソレは僕のだ、触るな」
薬莢のカラカラと、床を転がる音だけが、その声に続いた。
振り返る気がしない、色んな意味を含んだ俺の感情が、そうさせた。
「既に帰路である事において、その悪魔は僕の支配化に居る…」
リボルバーの弾倉を振って填める音。
「纏わせるは、黒で良い」
カツカツ、と革靴を踏み鳴らす音が近くなってくる。
『ク、クズノハ…!弾が跳ね返ってヤシロ様に当たったらどうしてくれるのだキサマ!』
「伯爵、安心なさいな…反射する事の無い肉壁に、確実に撃ちまして候…フフッ」
下ろした視線の先、向かい合う悪魔の指先から、滴っている。体液が。
先刻の俺の姿と重なる、打ち抜かれたその掌。
『おお、これは怖い…かの悪名高きデビルサマナー…ですか』
その濡れた指先で、被った魔女みたいな帽子を、くい、と上にずらす所作。
明るみに出た顔に、少し心臓が跳ね上がった。
よくよく見れば、この悪魔…少し、ライドウに似ていた。
切れ長な眼と、陶器の如き白肌。全身を翳らせた黒。
肩を這う巻き毛が、西洋のドールみたいで印象が違う。
其処が、ある意味救い。
「妖精の属か…ソレをたぶらかしてくれるなよ」
俺に並ぶライドウの声が、棘をいつもより多く含ませている。
『人修羅殿…また、マネキンになって下さいね』
ライドウを無視した悪魔に、俺が何故か気が気では無い。
「誰が…!か、閣下の勅命以外、俺は受けません!」
羞恥に頬が熱くなり、その火照りすら認めたく無いから、掻い潜る。
傍に追従する伯爵が、大きく溜息を吐いた。
『確かに、ヤシロ様に心酔する気持ちは察しますがねェ』
「…何がですか、おかしい、おかしいんですよ、貴方等…」
ああ、苛々する。
俺は、悪魔等の人形じゃない。崇拝だってされたくない。
「フフッ、全くだ。…そんなに虚弱なのに、ねぇ?功刀君?」
だからと云って、あんたの所有物でも無い、葛葉ライドウ…!




「…ぅ」
寝苦しい。いや、そもそも…俺に睡眠は必要無い訳だが。
それさえ省けば、人間の欠片を捨てる気がしてならない。
さっさと目覚めてしまおう、と思えば、見えない何かに引き戻される。
真夜中の海に呑まれる感覚。
薄く開いている視界が、一気に流れた。
どうやら、ソファから転げ落ちたらしい。
それなのに、どうして起きない、覚醒しない、俺の身体。
(痛…い)
ギィ、と、事務所の扉が開く音…がした気がする。
『おい、ライドウ!』
ゴウト童子が啼いた。カツカツと、数段踏み下りる靴音。
「功刀君」
『どうしたのだ、呪術か?』
覗き込んでくる翡翠の眼は、黒猫のもの。
「肉体への干渉となると…あの、白い…ローブ…だろうか」
『思い当たる事が?』
「ブティキルト…あの紋様、今思えば、斑紋を似せて刺繍してありました…人修羅の魔力の脈をおかしくしたのかも知れませんね…」
声だけが、流れていく。
「妖精の属…ラウルと思わしき悪魔、あれは伊太利亜の出です。確か南部地方の」
カツカツ、と、靴のまま床を叩く音。
此処まで土足で下りたのか、この男…行儀、悪い。
「地形で云うと、ヒールの辺りですよ、プーリャ州…カソリックのメッカ」
『なんなのだ、やはり呪いか』
「呪いというより、悪魔祓いの類でしょう……チッ、見過ごすなよ、ルイの奴め…」
ああ、もう、どうでも良いから、なんとかしてくれ。
霞む視界、どうにも身体が動かない。
破魔に苦しむなんて、正直哀しい。何故だ…俺は…魔なんて…そんな。
半分は、人間、なのに。
「功刀君、聞こえているかい」
唇が…震える。返答すら、赦されないのか。
ざわざわと背後から、無数の手に掴まれる。
暗闇に…墜ちていく。
「ただの悪夢だ、それはあの悪魔の常套手段、聞こえているか?おい…功刀…」
項を掴む手、囲まれる、泥人形の海。
苛む声と、血濡れの金属が、容赦なく振り下ろされる。
悪魔より、悪魔。
ボルテクス界の、俺を見る、周囲の視線は…
俺を、弄んでおきながらに、突き放す。
人修羅という、個を。
(ああ、重い、想いが、心の臓を潰す)
壊れない肉体に反して、砕けてく心。
「功刀…」
俺を呼ぶ声は、皆“人修羅”と…
「功刀矢代!」
蠢く泥人形が、ぐずりと啼く。
その割れ目から、墳血するのかと思いきや、差し出されたのは…
「あ、あ、あああ、よ、夜…ッ」
漏れ出す俺の嗚咽。
ああ…あの時、あの瞬間が、再生される。
転げ墜ちてしまった、あの瞬間。
罪に穢れたその手を、取った。



「はぁ…っ!…はあ…!」
がばりと上半身を起こして、傍を見れば、毛を逆立てる黒い獣。
『ライドウ!くそ…早まったな、こやつめ』
怒りすら滲ませたその声音に、俺は少しヒヤリとした。
「お、おい…っ、ライドウ…」
ずるり、と俺にしな垂れるライドウを、揺さ振る。
『手順すら踏まずに精神介入するからだ、慌ておって…珍しい…この男が』
「ゴウトさん…」
精神介入…俺の手を、再び取りに、潜ったのか…ライドウ。
頭上をくるりと廻るイヌガミが、か細く鳴いた。
と、途端、ピクリと動く指先。
そうだ、夢の中から…ずっと、繋いだままだった。
悪夢に触発され、悪魔に戻ってしまった俺の黒が奔る指先。
「だ、大丈夫か…あんた」
問い掛けて、繋いだその指を外し肩に運ぼうとした。
だが、意に反してライドウの指が、俺よりも早く動く。
てっきり、逆に絡め取られ、悪戯に哂って罵られるかと、嬲られるかと思ったのに。
「ぇ…」
思い切り、跳ね除けるその指先。
学帽の下から、俺を射抜く眼が…暗く輝く。
「誰」
「は…?」
「悪魔…?それとも、人間?」
動悸が、狂った様に胸を叩く。
まるで、見知らぬモノを見る、その眼。
それが、俺の行き場を失った指先を追った。
「何、その…気味悪い紋様…」
クスリと哂って、そう云った、はっきりと。
俺は、ただただ、指先の感触を必死に思い出していた。



“一過性ではないのか?”
“それに、記憶の損傷なぞ、能力に変貌を及ぼさぬならば問題はあるまいて”
“お主には痛手かも知れぬがな、人修羅?”
そんなゴウトの台詞を、脳内に蘇らせる。
ちら、と背後を振り返れば…いつもの影が、其処に居る。
でも…吐き出す言葉の違いに、俺の総身がざわりとさざめく。
「何…僕の顔に何か付いてる?」
「い、いや…」
「ねえ君さぁ、先刻から人の事ちらちらと窺い過ぎじゃあないのかい?」
外套を翻して、俺に歩み寄る。
「…何て云ったっけね」
もう、さっきも教えたろうが。
「功刀矢代…」
「そうそう、功刀さん」
聞き慣れない敬称に、鳥肌すら立ちそうだ。
不敵に微笑んで、ライドウは学帽をくい、と整えた。
「悪いねぇ、文句なら朧気な海馬に云ってくれ」
「…十四代目、ってのは」
「知らんにそんなの。僕、まだ襲名して無いのかと思っているし」
ゴウトの声が脳裏に反芻する…
“記憶が閉じた、襲名以前の奴になっている”
そう、この男は…今、十四代目葛葉ライドウではない。
「ねえ、リンは何処行った訳?」
視界を配して、今は亡き悪魔を捜すその仕草。
「なあ、ライド」
「だから云ったろ、僕は襲名してないに?」
その言葉の訛りすら、俺の知り得ないモノで。
「よ、夜」
「馴れ馴れしい」
「…こ、紺…野…」
それすら、赦されないのか。
契約の際に、俺に散々云わせた…唱えさせた、魔の呪文ではないか。
それを今更、禁句にするのか、あんたは。
「ゴウトさんから、現状…詳しく聞いといて…くれよ」
逃げる様にして、その影からふらり、離れた。
「童子から?…君から説明出来ないの?功刀さん」
「嫌だ」
「あは、面倒なの?それ、逃げだら?くふふっ」
他人の部屋を物珍しそうに眺める…
まるでそんな姿で自室に居るあんたが、見てられない。見たくない。



白んだ空、曇ったその上空に舞い上がる紫煙。
景色だけならば、それは俺の狂った日常だ。
大正という空気に、厭に馴染んだこの身体を、擬態して過ごす日々。
書生姿のデビルサマナーに使役される…そんな日々。
「リンも居ないときた…それも僕が手にかけて、ときた」
すぅ、と煙を吐き出し、クク、と背を丸めて哂うライドウ。
「十四代目になろうが、僕の立場はそうそう変わってないらしいわ…ふん」
洗濯物を取り込む俺に、続く言葉。
「ねぇ?人修羅」
面白そうな、そんな眼で見ないで欲しい。
ボルテクスで、マントラで交わした視線にも、近い。
悪魔を見ているのか?人間を見ているのか?
はざまで揺れるその視線の矛先。
「臭いが付く、干してある時に屋上で吸うのはやめろ」
「君、本当は強いんだろ?どうして家政婦の真似をしてるの?」
「居候だから、手伝うのは当然だ」
「どうして僕の使役下に居るの?」
決定的なその質問に、木製のクリップを捕らえた指が止まった。
(どうして、だと?)
震えが、止まらない。
指先のソレに亀裂が奔って、一瞬で微塵になり、大鋸屑が風に舞った。
薄く浮き出た血管は、黒い紋様を通して。
「フフ、怒らせてしまった?」
反省の色もなく、俺に歩み寄る。
「契約…したろ」
「らしいねえ?半人半魔の君は、確かに希少性がある…飼いたいよ、サマナーならば」
飼われていた、確かに。対等ではなかった。
「…あんたも俺も…利害が一致したから」
「その様だね、まぁ…僕の事だ、自分に旨く働く様にあぐねていたろうが」
指先に煙草を遊ばせる、その姿は何も差異無いのに。
「ところで、灰皿とか置いてある?此処」
俺にそれを燃させる事をしない…なんて。
ああ、やっぱり紛い物だ、あんた。
「…っ!」
その煙草を奪って、一瞬で灰燼に帰した。
そんな俺を見てライドウは、愉しそうに口笛を鳴らした…



「凄いねぇ、悪魔の城なんて」
「黙っててくれ」
「何故?」
「余計な事口走りそうだからだ!」
ゴウトに頭を下げて、半分無理矢理連れて来た。
海馬から、閉ざされた記憶を引きずり出すなんざ…
ルシファーに頼めばどうとでもなりそうだから。
「功刀さんは心配性だね?早死にするに?ククッ」
俺の傍を、颯爽と歩むライドウ…その形だけは、つい先日と同じだ。
記憶から消えた筈の、悪魔の巣窟を…臆する事も無く歩む肝がおかしい。
やはり、この男…螺子が抜けているのだ。人間として、欠けている。
俺だって、未だにこの城を歩くのは疲れるのに。
『ヤシロ様!やや!これはこれは連日お越し頂けて!んもぉおお拝顔出来る歓びを間髪入れず味わえるとは!』
「伯爵」
俺に用意された部屋の傍、燭台を扉の脇に設置して、お辞儀するビフロンス。
「君の従者?」
頭を垂れる伯爵を見た際の、ライドウの発言に、ピクリと伯爵が揺れた。
きっと確信犯だろう…鮮明な声音で発したライドウの台詞に、俺は眉を顰めた。


『えええええ、そ、それで記憶が』
「…あの、内密に」
黒い艶を湛える、陶器のカップに茶を注ぐ伯爵。
『そぉおおおそそそそそれはそれはそれは』
「伯爵!溢れますよ!」
伯爵、よほど気が動転しているのか、表面張力でギリギリ留まる紅茶の水面。
『し、失礼を…!』
咄嗟にまともなカップを俺へと差し出すビフロンス伯爵。
「僕には犬みたく啜れという事ですか?」
溢れそうなそれを、目の前に差し出されたライドウがニタリと哂う。
『そもそも貴様、私の出すモノなぞ手をつけぬ…』
はっとして俺を見た、しゃれこうべの気まずそうな震え。
どうして、そんな眼の虚で、俺を哀れむ?
「…今のそいつは、覚えちゃいませんから」
というより、知らないのだ。
与えられる物を疑う、それを此処でも平然としていた事実を。
「閣下に願い申します、そのつもりで来ました」
溜息の後に、続けた俺。
カチャン、と、ビフロンスがポットをテーブルクロスに叩き置く。
カタカタと骨が軋んで、眼の虚がぐらりと揺らいだ。
『な、なりませんヤシロ様、そんなに軽々と…』
「だって、容易いでしょう?海馬を押し開く位…我々の魔帝は」
嫌味の様に、微笑んで呟く。
すれば、伯爵は袖のフリルを揺らして、両手を眼前に組む。
深く礼をして、甲高くも唸る声で、戦慄いた。
『…大変、失礼を承知で…ッ…進言させて頂きます!ヤシロ様』
「何です」
淹れて貰った紅茶を、カップをひと回しして中で遊ばせる。
ふわりと湯気が視界を遮った。俺の好きな茶葉。人間の食物。
『その、原因はどうあれ、閣下が…見過ごしますでしょうか!?』
「…見目が綺麗な衣装だから、着せたいとか単に思われたのでは?俺はどうせマネキンだ」
『もし、もしヤシロ様に危険が及ぶ事を承知で、ならばそれはつまり…ッ』
くい、と唇を触れさせ、熱いと思われる液体を流し込む。
でも、舌に流れるソレに、茶葉の薫りは薄かった。
人間に擬態しなければ、どうしても薄い。
「試された、という事かい?…ククッ…」
脚を組んで哂うライドウに、認めたく無いその可能性を露呈される。
「…紺野、黙ってろ」
口元から離した陶器を空に一閃させれば、まだ熱い飛沫が舞った。
すぐに外套で覆うかと思ったのに、動きすら見せず…
ライドウの帽子のつばから、滴る葉色の雫。
『ヤ、ヤシロ様…』
唖然とした伯爵が、自分が掛けられると思ったのだろうか。
組んだ両手を頭上に持ち上げたまま、俺を見上げた。
「君の作法は、人に紅茶をぶっ掛ける様式か」
つばを手に、学帽を脱ぐ仕草は、変わらないのに。
「…俺なんざ、試すも何も…タカが知れてる…」
「フフ、功刀さん、それとも紅茶が不味かった?」
論点を変えるこの男が、腹立たしい。
立ち上がり、空になったカップをソーサーに乱暴に置く。
「俺は衣装の刺繍に、いちいち目を通さない!あんなの気付けない」
濡れたまま、帽子の露払いをしてライドウも立ち上がる。
「観察眼が薄いね」
「煩い」
「紅茶まで薄くて苛々した?八つ当たりだに…?」
カッと頬が熱くなり、指をカップから解いたその瞬間。
『ヤシロ様!失礼ッ!!』
俺の指先に迸る焔を、ぬるい液体が蒸発させた。見事に指先だけ。
ポットの蓋から直接、紅茶を揮ったビフロンス伯爵。
『謁見されるにあたり、これ以上乱れたお姿で臨むのは非ッ常ぉおに問題かと!』
そのぬるさ故、冷めていく指先と頭。
理解し始めて、恥ずかしさが込み上げてくる…
鎮火された怒りの焔は、俺の心まで窄ませた。
「……ねえ伯爵、所詮この程度なんですよ、俺はね」
『いえ!私は貴方様を』
「いいですから……後片付け、すいませんが、頼みます、ビフロンス」
視線で「ついてこい」と促せば、ライドウは学帽を被り直す。
哂うまま、黒い外套を揺らして俺に追従してくる。
『ヤシロ様!それこそ私はぁッ!閣下よりも貴方様を…!』
背後に響く声が廊下に漏れない内に、急いで扉を閉めた。
貴方の為だ、伯爵。感謝しろ。




「どうしたの?想定外だった?フフ…」
ライドウの声は、よりいっそう、愉しげに。
俺の苛立ちは、胸を蝕んで往く。
(どうしてだ…)
ルシファーと奥に引っ込んだライドウが、暗幕の隙間から出てくる頃には
いつものあいつに戻っていて。俺に暴言のひとつふたつ吐いて哂う…
と、思っていたのに。
共に姿を現した堕天使が、代わりに哂うのだ。
“記憶を創るより、引き戻す方が困難なのだよ、矢代”
傍のライドウの肩に、綺麗な白い指先を置いて、俺に云った。
“契約が果たせぬ様子なら、君と主従の契りを結ぶままの必要は無い…ね?”
どうしたんだ、俺。
聞けば良いじゃないか、あの、ラウルという悪魔が俺に献上した纏いが…
あれが、怪しいのだと。
それとも、貴方様が、仕組んだ戯事なのか、と。
“ね、それとも矢代…”
どうしてあの時、問い詰める事も無く、黙って聞き入った?
どうして俺の命は弄べたのに、記憶のひとつも引き出せないのか?と。
“君達がどのような契約を結んでいたかは…ふふ、知るまでも無いかと、見守っていたが…この際だ”
耳元に掠める、白金の様な黄金色の髪。
鼓膜を灼かに揺らめかす。
ライドウに届かぬ様、読唇をされぬ様、秘めやかに降る言葉。

“ライドウの記憶を塗り替えてしまえばどうかな…?”

脚が、止まってしまう。
あの時の、堕天使の囁きが、鼓膜をまだ揺らしている。
酷い耳鳴りが、止まないかの様に。
「功刀さん?脚、止まってるに?」
聴きなれぬ語尾の癖が癪に障る。
「その訛り、直してくれ」
「どうして?何故君の為だけに?」
「帝都を守護してたあんたは、訛ってなかった」
ただ一言そう云えば、同じく脚を止めたライドウがクッ、と喉を鳴らす。
「成る程…確かに、それは不都合が生じるかな」
首だけで振り向けば、窓から注ぐ、暗黒の日輪の輝き。
でも、其処に浮かび上がる黒曜石の瞳は、俺を貫かない。
「では、十四代目を継続する為…また“夜”を棄てようか」
その声に、体を捻り、向き合えば、つかつかと横を過ぎる。
「紺野」
踊らされる様に、俺は再び向き直った。
「おい!紺…野」
が、ライドウは違う影と睨み合っていた…
『先日は、世話ぁなったな、サマナー…』
ティターンが、同じ魂なのか…恨みの篭る声音で挨拶を始めた。
見目の同じ彼等は、同一の魂なのか一目で判らない。
傍に連なるシルエットは、ガネーシャ…
恐らく、この前の面子で間違いない。
「へぇ、厭に熱心に僕を追う眼があると思えば…人修羅だけでなかったのか」
おい、追ってない、俺は。
『あン?忘れたたぁ云わさんぞ?』
息巻くティターンは、長身のライドウよりも遥かに大きい体。
「フフ、申し訳無い…しかし、記憶中枢に残らぬ程…お前達が脆弱だった可能性も捨てきれぬだろう?」
明らかな挑発に、ライドウの向こう側から殺気が迸る。
『な、何…ぃ…この、人、間…が!』
違和感。
喚いて得物を振り下ろす悪魔達は、そのままに。
だが、外套の下…腕すら動かす気配の無いライドウ。
まさか、戦い方すら忘れたのか?
反射的に、俺の唇が開く。
「触るな!」
叫びつつ、着物の袖から腕を抜き、彼等の左右に撃ち出す灼熱。
ライドウの両脇をすり抜けて、打ち下ろすティターンの両脇腹を焦がす。
『ぐ!がぁあッ』
続けて振るった指先から、柱の燭台に刺さる蝋燭目掛けて放つ着火の種。
暗闇の廊下が煌々と照らされ、ライドウの傍の床を穿った巨人が鮮明に見えた。
『ヤァ…ヤシロ様ァ…これぁ一体…!?』
鉄仮面の下から、くぐもった問いが聞こえる。
だって、だろうな、可笑しい話だ。
今まで軽蔑して、喧嘩を無視していたのに。
それがたった今、喚いて止めに入ったのだから。
「俺の眼の前で、喧嘩は…止めて下さい」
静かに、平静を装って云い放つ。
煙の燻る腕を扇いで、袖に納めた。
いつまでも素肌を晒す気になれない。
蠢くティターンの傍、ガネーシャが大きな耳をはためかせ、鼻を上げた。
『しかしヤシロ様、我等の将たる貴方様を貶めているのは、このサ――』
「黙れと云っている!!」
声を張り上げて、履いた下駄で紅い絨毯を踏みしめ叩く。
洋服の方が好きなのに、また和装で来ていたか、と、今感じた。
そうだ、今まではライドウの見繕った物を、ただ黙って着ていた気がする。
洋装で此処に居る俺を見ると、悪魔達は俺単独だと認識し…
和装で来れば、デビルサマナーの気配を察知するのだ。
閣下の戯れで着崩れようが、それを正せる、ただ一人の…
俺の。
「俺の…契約者だ」
もう一度踏みしめれば、少し離れた箇所で石畳が亀裂を作った。
「勝手に殺したら赦さない」
それだけ云って、照らされた廊下を足早に抜けていく。
唖然とした悪魔達の横、下駄の音を絨毯に染み込ませ。
…追従するヒールの音。それの方が高く鳴る。
「クク…過保護ではないのか?人修羅…」
ぞわり、と総身が粟立つ。
その言葉は、俺が…先日…
どうして、どういう事だ、さっきから、おかしい。
ライドウの云った事、俺の云った事、どうして逆転している。
「ねえ、聞いているかい?フフ…」
背後から、突起の下の衣紋…抜きをぐい、と掴まれる。
「着崩れてるよ」
すぅ、と通る指に、何かが張り裂けそうになる。
「ねえ、そういえば功刀さん、僕が触れるのは平気な訳?」
耳を刺す、詰る様なライドウの声。
珍しく雷鳴の轟く魔界の空が、窓から見える。
灯された燭台からは既に遠く、薄暗がりにその雷光が奔る。
「俺に…」
背中で、詰り返す。
「俺に、どうやってMAGを与えていたか、忘れてんのか…あんた」
握った袖先は、適当に拝借してきたライドウの着物。
センスの無い俺の、適当な合わせ。
帝都守護に不必要なまでに洒落た、あんたの配色でない、平凡な…
「僕が?悪魔に流す様に、空気と融かして…では非ず?」
「それは、戦っている時だ」
「なれば他にどうやって?もっと必要なのかい?僕のMAGが…」
フフ、と、ライドウの哂った吐息が、突起をくすぐって身震いした。
「管に入らぬだけで、随分と特別待遇ではないか…一体どのような契約を結んだ?」
只の、悪魔として、使役する対象としての問いかけ。
俺に、今までしてきた仕打ちを、本当に記憶の底に沈殿させたのか。
「云ったとして、今のあんたがそれに従って動くか分からない」
「では何故…君は僕にそこまで固執する?既に君の知るライドウでは無いのだろう?フフ」
ぐい、と顎を持ち上げられる、爪先まで鋭利な長い指に。
「その薄気味悪い斑紋も、人間離れした金眼も、まさか僕が寵愛したと?他の仲魔より、特別に?」
塗り替えて…しまえば
「ねえ?功刀さん…人修羅の君と、デビルサマナーの僕に、使役関係以外に何か?」

塗 り 替 え て し ま え

「忘れた、んだな、あんた」
俺を知るあんたでは無い。
つまり、俺の発言に矛盾は、生じない。
何を云っても…何を…塗り込めても。
持ち上げられて、締まった喉笛が苦しげに啼く。
予定調和みたいに、俺が呟いた。
「あんたは…変態で、サド野郎の、スキモノだ…っ」
覗き込んできた好奇の眼を、歪んだ俺の視線で絡め取る。
「俺を…悪魔の俺を、お…」
ああ、堕落する。
「お…」
でも、耐えられない。
既成事実が欲しい、どうしても。

「犯した癖に」

自分で云っておきながら、吐き気がした。





「矢代くぅ〜ん」
間の抜けた鳴海の声。
でも、それは俺に気を遣わせない為だと、その位は把握してる。
「はい」
洗い物のキリが丁度良く、蛇口を捻って水流を止める。
たすき掛けを解きつつ、所長のデスクに近付いた。
「俺、ちょっくら呼ばれたから出るね」
葉巻をがりり、と灰皿に磨耗させて火を消した鳴海。
書類やら何やらを鞄に揃い入れ始める。
「あの、いつ戻りますか…」
「ん?寂し〜い?」
「ち、違います!飯の関係で、です」
俺を子供みたく扱うこの人は、偶にやっかいだ。
「気にしないで良いよ、矢代君とライドウとゴウトちゃんの分だけ用意しな?」
席を共にしないこの数日、見ていないから仕方ないと思うが。
鳴海所長、ライドウは数日、俺の飯を食べてませんよ。
“他人”の作った物、警戒してますからね。
きっと記憶が還った事すら知らないと思う。
「んじゃ、行ってきま〜す」
「お気をつけて」
「火打石は?」
階段下から悪戯っぽく聞いてくる鳴海に、呆れて返した。
「大正のこの時代に…?」
「あはは、嘘嘘!いやね、向かう先が空気悪そうだから、厄除けしてもらおーかと」
ひとしきり笑い上げてから、扉を開く彼。
「ヤタガラスん所行って来るね」
ばたり、と閉ざされた扉を、黙って見ていた。
磨り硝子から零れるあたたかな陽射しが、眼に痛い。
反転して、俺は上に向かった。
ノックしようか迷っていれば、中から声が。
『どうした、いつもの通り入れば良いだろうに』
ゴウトの溜息混じりの号令に従って、ノックとほぼ同時に扉を開く。
『…チッ、ライドウの奴め』
寝台のヘッドから飛び降りた黒猫、その眼は険しい。
『定期報告をすっぽかすとは、十四代目から降りたいのか?あ奴』
俺の脚の間をするりと抜け、ふうっと鼻を鳴らす。
「十四代目の自覚が無いのでは?だって、記憶が飛んだ訳ですし…」
俺の声に反応して、威嚇してきた。
『誰の所為だ?』
「はい、ご尤もです」
お目付け役は、俺に同情はしても手助けはしない。
俺だって、別にそれに憤慨しない。
『仲魔を連れ、帝都をブラついておるのか…里にも行かず!』
階段をするすると下りていく、その黒い毛並みは逆立っていた。
下階の窓の隙間からぬるりと抜け出す姿を見て、自分は独りになったと認識する。
無人の事務所、ライドウの部屋で、ぽつりと佇んで。
「プーリャ州…」
《新式世界地図》なる背表紙に眼が赴いた。
ライドウの本棚からそれを引き抜いて、中表紙をはらりと開く。
小洒落たゴシック体のタイトルが、擦れた印字で刻まれている。
相変わらずこの時代の本は読み難いが、世界の形は変わっていない。
それとなくブーツの形を探せば、イタリアがあった。
(ヒールの部分…プーリャの悪魔…)
ちら、と本棚を再度覗き見る。
《以太利ニ於ケル千七百九十六年戦役》
《伊太利語独修》
あの男、そういえばいくつかの国の言葉を話せたっけか。
そこまで完璧になる必要があるのか?デビルサマナーの葛葉として?
語学の本を手に取り、世界地図は寝台のマットに投げた。
意味不明な文字の羅列をはらはらと捲り、単語の頁で指が急制動させる半紙。
[夜]は、La notte――[ラ ノッテ]
ああ、でも、今の夜じゃない、あいつは。
襲名前なら、昨夜、だろうか。
[昨夜]は、ieri sera――[イエルイ セーラ]
(…何調べてんだろうか、俺)
動物、の項で、二箇所に釘付けになった。
和名が黒く染められた、二つ穴。
洋墨がブラインドした単語。
la volpe――[ラ ヴォルペ]
un corvo――[ウン コルヴォ]
慟哭する。
急いで見なかった事にして、頁を進める。
すると、やたらと抽象的な単語の羅列に呑まれ始めた。
夕刻の陽が、頁に落ちる…

diavolo

「…っ」
あの男、この単語を見る度、俺を思い出すのだろうか。
(どっちをだ)
人修羅を?功刀矢代を?
そう感じた瞬間、抑えていたものが溢れ出す。
まだ満月の光は、朱の雲が遮っているのに。まだ、夕刻なのに。
「ぁっ、あ、ああっ、ぐ」
ふらふらと本を胸に抱き、傍の寝台に突っ伏す。
今日、月が満ちるのは解っていた。抑え方だって、知っていた。
ただ、悪魔の衝動の、枷が…居ない。
「く、そ…野郎がぁ…ッ」
掻き毟るシーツ。その指先に黒いラインが伸びて往く。
昔のあいつが撫ぞった、黒い道筋。
あの悪魔を恨むべきか、戻らぬライドウを恨むべきか。
抱いた本をそのままに、片手で、苦しいこの肉を、持ち堪えさせる。
大人しく、あのまま奴の寝台に突っ伏して、無理矢理眠っていれば良かった。
さっさと、あの悪魔を…とっ捕まえて、問い質せば良かった。
どうして俺は、こんなに惑っていた?
「は、あ…ぁっ」
せめて、狂うなら、真夜中に―――


白い烏〈前編〉・了
* あとがき*

お約束ネタですが…
ここまで積み上げたからには、やってみたくなるというもの。
当たり前の様に受けていたものが消えうせる空虚感。
都合良く利用したいからか、都合良く再構築したいからか…
珍しく二部作になってしまいました。