白い烏〈後編〉

  純白の翼みたいなそれを羽織り、鮮血色の絨毯を踏む。
面前に姿を自ら現した俺に、どよめく奴等。
「この宵は、再びお集まり頂き、有難う御座います」
機械的に発する、でも、正直滑稽で笑みは浮かぶ。
軽く会釈をした際に、肩からさらさらと揺れる白いケープが忌々しい。
「ほら、皆の衆、此度はこの修羅が御前達を呼んだのだぞ?」
傍の堕天使が一言発すれば、獅子威しが静寂を割るに等しいその効力。
「ね、矢代…?」
「この場を貸して下さり、感謝するばかりです、閣下」
「頭をお上げ…ふふ…君から社交の場を持ち出すなど、珍しいのだから」
後は好きにやりなさい、と、角を撫ぜつつ微笑む、氷の美貌。
その底知れぬ力に畏怖しながら、俺はただ「はい」と返事した。
そう、此処からは…好きにして良いんだ。
お赦しが出たのだから、どう動こうが…俺の、勝手だ。
炙り出す為の、偽りの宴を…


『この前の席ではご機嫌斜めだったのに、今回は随分と振舞われますのう?』
パズスがずい、と俺の頭上に影を作りつつ寄って来る。
その獣の眼をチラ、と見て、突き返す皮肉。
「マネキンは表情変えませんからね、そう思われたならそれで結構です」
『はっは、それは違いないですなあ…しかしてヤシロ様、そのお召し物…』
『お気に召しタ?眼に痛いノニ』
背後から聞こえる声に振り返れば、眼をぱちぱちしばたくデカラビア。
確かに、その面積に白を映せば痛いかもしれない。
「純白を纏えば、皆さんの眼の色も変わるかと思って」
俺を囲む一同、この言葉に反射的に此方を向いた。
「弱っちい人間な上、清廉なモノ着てたら、煮えくり返りませんか?腹」
もう数体、ガリガリと奥歯を鳴らして俺を射抜いている、その滾った眼差しで。
シャンデリアも揺れる高い天井に、ゆらゆら悪魔達の影が踊る。
少し遠くで、ケッ、と、食んでいた馳走を床に吐き出した悪魔が見えた。
俺が潔癖なのを知っている、でかい図体の夜魔。
「お口に合いませんでしたか」
『…閣下じゃなくって、アンタが直々にってゆうからなあ、来たらなあ?なあ?』
太い角をがっしがし、酷くイライラした挙動で掻くフォーモリア。
『人間ん〜、卑屈なんだよぉ、おまえ?』
「今回の、俺が作ったんですよ」
『聞いてるのぉ?なあ?』
「イタリアン、やっぱり悪魔の口には理解不能ですよね、だろうと思った」
ケープから抜いた腕、それに周囲の神経が集中する。
向こうのテーブルのフォーモリアと俺の間が、一瞬で割れた。
皆、これから何が起こるか察したのだろう。
「温かいのと冷たいの…どちらにします?」
『いらねえよぉ、人間の喰い物なんざなぁあ?』
一歩踏み出し、俺のつま先がいつもより数拍遅れて接地する。
ライドウの靴を無理矢理履いたから、確かフェラガモ。1927年製の本物だと。
「イタリアなら食前に聞かれますよ、ああ、でも悪魔に熱の差なんか判りませんよね」
慣れないヒールが痛い、でも、鳴らして向かう。
聴け、この音。食め、この馳走。出て来い、あの悪魔。
「じゃあ、とりあえず温かいのにしときます?」
フォーモリアが、大きな口を咆哮と共に開放した。
俺に返事するかの様に、雄叫びを上げる、その衝撃にシャンデリアがざらざら啼く。
身体の筋力を緩くさせ、牙を剥がすその波動。
踏み締めた足場で、ヒールがぐずり啼く。赤色の絨毯に埋まるそれを、勢いつけて跳ね返す。
懐に潜り込み、両腕の先に纏わせた焔をなびかせ悪魔の太い足下へ。
『っついわ!!このチビがあアァッ』
振り下ろしてくる腕の影が見えた、でも止めない。
頭蓋に酷い震動が訪れて、脳内が揺さぶられる。どうして悪魔になると石頭に成っているんだ?
これでも死なない自分に嫌気が差して、それでも死なない事に安堵して。
「チビ、で、悪かったですね!」
偏った中身を振って戻すかの様にして、二撃目が来る前に力を籠める。
先刻の雄叫びで弱まった腕先はそれほど隆起しない、でも問題は無い。
「ほら、どっちかっ、選んで下さいよ」
酷い体躯の差、その脚に抱きついてる様に見えると思う。
でも、上からの声に状況は一瞬で判るだろう。咆哮じゃなく、悲鳴じみた雄叫び。
「レア?ミディアム?」
『があああっあああぐ、ぐぞぉっ、ごの!』
焔の塊と化した毛皮、灼熱を振り払った腕が、再び下りてくる。
地団駄するその脚を放して、後方に宙返りしつつ発った場所を見た。
焦げる腕で、その足場を砕くフォーモリアが映って流れる。
その光景に続けて、顔面の削げた頬骨をカタカタと覆い、狼狽したビフロンス伯爵が。
表情筋も無いのにどうして狼狽してるとか解るんだ。俺もどうかしてる。
きっと、いつもまとわりついてくるから、嫌でも解る様になってしまったんだ。
『猫かぶってんじゃねえぞおおぉぉお?』
ずんぐりとしたその肉体、火達磨で此方に突撃してくる。
擦れた絨毯がずるんずるんと、フォーモリアが駆ける脚で剥けていく。
「がっ!ぐぅ、うッ――」
奥歯を噛み締めて、その轟々と燃え猛る夜魔を、骨も砕けに受け止めた。
じり、と、俺の手から離れた焔が俺を焦がす。
『!!あぐ〜〜〜〜っっ!おま!!おま!!』
「生焼けの、赤い断面、気持ち悪いから…っ」
ふいごの様に、受け止める腕から魔の力を注いだ。俺の焔に塗り替えんと。
「だから、ウェルダンで」
ああ、眼の奥から、項から、どくどくと脈打つ。
マガタマが無くても、この焔は俺から出ずる。加熱は得意だ。
『んご、ぉぉおおおぁあぁあ』
…どこか笑ってさえいるんじゃないか、俺は。
なんだ、ライドウが居なくても、平気じゃないか。
「しっかり口付けたら、食べて下さい」
先刻この悪魔が吐き棄てたモノに、爛れたその体を叩き付けた。
「パンツエロティ、オレキエッテ、ブッラータ…しっかり揃えたのに、パスタばっかですけど」
いつもは、俺を詰るこのヒールで、山羊みたいな角をぐりり、と詰る。
床に沈んだフォーモリアが情けない声を上げた。
ずるんずるんと、絨毯みたいに皮膚が削げて、赤いじゅくじゅくした皮下組織が零れる。
何故か、酷く苛々する。気持ち悪い。
「食べて下さい」
角を押しやり、絨毯を汚した半咀嚼物に、その顔を擦り付ける。
「食べろっつってんだろ!!」
まるで俺を見ている錯覚に、眩暈がしそうだ。
この、ヒールで、頭を…角を……

『いや、人修羅殿はお料理も大変お上手で』

ふと飛び込んできたその聞き覚えのある声に、詰る足先を止めた。
視線だけでその発生源を辿る。
『茹で具合も完璧でありますね』
黒い帽子、黒いローブ…黒い巻き毛が艶やかな。
「…ラウル」
『おや、自分の名をご存知でしたか、これは光栄に御座います…』
「デュラム小麦、わざわざ取り寄せましたので」
『故郷の陽の薫りさえしそうですよ』
現れたな、イタリア悪魔め。
フォーモリアからヒールを退ければ、ごてん、とその頭が絨毯にぶつかって揺れた。
他の悪魔達がその瞬間、息を呑んだ。
「流石に判るんですね、貴方」
判らせる為に準備したんだから、当然だ。
『ええ、馴染みの空気です、此度の晩餐会は』
ヒールの汚れを、ずりずりと絨毯の毛足で落とす。
黒い妖精の属に歩み寄れば、ひらりと舞うケープにその視線が喰い付いたのが判った。
そう、パスタじゃなくて、これに喰い付け。
『てっきり御不満かと思っておりましたのに…』
「改めて着たら、そんなに悪くなかったですよ」
相手の興味を引くギミックを。
喰い付いたら、一気に引かず、じわりじわりと。
「この刺繍、イタリアのですよね」
『ええ、ブティに魔力を籠めまして』
「貴方がその国の眷属だって聞いたので、今回は趣向を凝らしてみたんですけど」
『…ほお、それはそれは、身に余る光栄で御座います』
間接的に気分を上げさせる。あまりに直接的だと、警戒される。
「夢が…」
その、黒いローブの端に指を伸ばせば、やや身構えるラウル。
俺の指先の黒に、しかし見惚れている。おぞましい。
「夢見が、面白かった…です」
『然様ですか、それは良かった』
「もっと作れませんか?こういうの」
本当は脱ぎ捨てたい、肌からじりじり吸われるこの感覚、落ち着かなさ。純白。
それ等をかなぐり捨てて、如何してこの悪魔を釣ったのか?
ライドウの言葉が反芻される脳内。
“利用価値が有るから”
そう、全ては、それだけ。媚びる筈も無い。
どうして俺が、悪魔なんかに…
ライドウの真似までして、交渉していると思っているんだ。
こいつに、聞きたい事があるからだ。
『勿論、貴方様にぴったりの纏物をお作りしましょう、人修羅殿』
その黒い帽子の影で、双眸がギラリと光った…
俺が頷けば、それがたわんで三日月の様に微笑んだ。
周囲の悪魔が、俺の様子に唖然としていた。一部は食事にがっつくままに見送ってきたが。
俺達の退場で、宴は早々にお開きとなった。




『人修羅殿は博識なのですね、自分の拠点にしている処を把握されている』
暗い廊下を歩む際、傍からかけられる賞賛。
『靴も…イタリーのですね、とても良くお似合いで御座います』
「どうも」
貴方が褒めてるのは全部ライドウの物ですがね。
『以前から資料にて拝見させて頂いておりました、ボルテクスという処は、如何でした?』
「如何って…何がです」
『居心地』
「最悪でしたね」
そうこう云っている間に、薄く灯りの下がる扉が見えてきた。
冷たい古城の、それも地下。暗色日輪すら届かない空間。
『あのカグツチとやら、纏う衣装の色がすぐに退色しそうですね』
「熱は、そう感じませんでしたが、太陽と違って」
『だから上半身を曝していても焼けなかったのですね』
その発言に、思わず顔を見つめ返す。
「ふっ…服は!受胎の後目覚めたら――」
『おや、着きまして御座いますよ、人修羅殿』
この悪魔…
『ささ、どうぞ…自分の工房です』
すう、と開かれる扉は、想像よりもスムーズな動きだ。
促されて足を踏み入れるなり、視界に飛び込んできた物。
「…悪趣味、です」
踊る、沢山の骨。骸骨達。色んなポージングで、ファッションショーみたいに。
『然様で御座いますか?骨の標本はとても使い易く、見目も美麗と思いますが』
「人間じゃない骨まで…」
『自分は人型以外も承っておりますので、閣下の物も』
真赤な別珍のドレープが効いたドレス…草で染めた様な渋い色味の帯が絡む法衣…
これの一着一着が、何らかの力を湛えた魔具なのか…?
『大正の日本國に合わせた着衣も、いくつか拵えた覚えが御座います』
色んな衣装を纏った骨のマネキンが、皆一様に作業台を眺めている配置。
「…よくこんな処で作業出来ますね貴方」
『見つめられつつ織り出す行為は、至福のひとときでありますから』
突如、今纏っているケープの、その端を掴まれた。
『さあ、採寸しましょう…』
「え、っ」
『骨の記憶から肉を割り出すのがザラでした、が…人修羅殿には肉がありますので』
唇が怒りに戦慄きそうになる、触るな!と……
「…手短、に…」
それを押し殺して、赦しを与える。
『有難う御座います。では失礼致します』
「っ、あ、の…モノサシっていうか、巻尺みたいの、使わないんですか」
冷たい血肉の指先が、ケープを捲って俺の腕を取った。
たゆたう黒髪の隙間から、嬉しげな眼が俺を絡め取る。
『指を滑らせば全て解るので…記憶中枢にそのまま仕舞えますから、楽であります』
何を尤もらしく云ってるのだろう、この悪魔め…
『まずは、腕の裄から測りましょうか…ああ、この黒い紋様をこんなに間近で…ふふ、ふ』
つつ、と辿って走る指に、腕が震えた。
ずい、と侵入してくる黒い爪先が、衿を割って、鎖骨を滑り落ちてゆく。
『肩幅は…あまり無い…』
「…っ……」
『胸周りは、筋肉が薄いのですね、ああ、あの力は魔力に依存しているのですか』
「っは……やく、済ませ…」
見知らぬ指が蹂躙する肌、気持ち悪い、気持ち悪い。
『腰の細い事………』
「…!!」
腰骨から、更に下に流れ落ちてゆく指の冷たさ。瞬間的に体が跳ねた。
ラウルを突き飛ばし、乱れた着物を掻き抱いた。ああ、無理だ、これ以上。
「そ…こまで、測る必要が」
『ヒトで云うヌード採寸というモノに御座います』
別に下卑た笑みでもなく、嬉々としているその声音。
『それに、その下肢の斑紋がどの様に奔っているのか…非常に興味が御座いまして』
「興味だけでジロジロ見るな…っ」
引き寄せた獲物に、自分を何処まで喰わせるか。
愉悦に相手が蕩けている瞬間が、一番のチャンスだと、ライドウの背中で知っていた。
あの男が、交渉悪魔の要求に応え、MAGをその唇に…ああ、思い出すだけでも、妙に苛立つ。
その接吻は、あくまでもライドウが与えるを赦している行為。
必死に貪るのは、交渉相手なのだ。
恍惚と貪る相手を、そのままゆるゆると管に封じる事もあった…
そう、喰われる側になる事は、避けなければならない。それなのに。
『人修羅殿…それでは作れません』
「適当で良いです!下は」
ギリギリまで引き寄せるなんて、無理だ。身体を捧げるなんて、尚の事。
どうしてライドウは、自分を切り売り出来ていた?そんなにまでして何をしたかった?
『それはいけません、残す作品は全て完璧でなくては気が済みません』
「そんなの貴方の勝手だ」
『その斑紋に、最も合う至高の一着を…』
と、ラウルの指先に絡んだ何かが、するすると空を舞った。
それを辿れば…自然と俺の体に…
何だ、おかしい、体が…
『先日お贈りしたこのケープ、着て頂いており大変悦ばしく思います』
「俺に何の怨みがあった」
『怨み?いいえ、自分は貴方様のお姿に感銘を受けている衆の、ほんの一握りでありますよ』
「この白い服!これに変な夢を―――…」
がくん、と力が抜ける。
突如訪れたその脱力に、体勢を立て直そうと脚だけが踏ん縛るが、無駄だった。
とさり、と支えられ、黒い巻き毛が首をくすぐる。
『…ええ、夢より侵蝕し、人修羅殿の気を手繰り寄せるのが、この衣装の役目』
「な………」
『その斑紋が浮かばぬ貴方様は、人間と同じ…一時的に抑制は可能だろうかと興味が御座いまして』
暗い帽子の影と、俺の顔の間に通るのは、白い糸。
ラウルの指先で、糸紡ぎされるそれは、俺のぺらい胸板を走っている。
『こうして、仕付け糸を抜くと……ほら、如何ですか?』
「はあ、はああぁ」
吸い上げられる感覚が一層強くなる。だらりと下がる指先の斑紋が啼く。
俺の身体が、おかしくされている。
『この聖衣は、この糸を抜いて完成なのです』
「ど、ういぅ…っ…おま…ぇ」
『人修羅殿の斑紋に合わせて織り上げたレェス…抜けば逆の紋様に、貴方を封じる呪いに』
端に目盛りの付いた作業台に、そのままどさりと押し倒される。
反射的に項を庇おうとしたが、痛みの空虚さに驚愕した。
項の、突起が…無い!?
『少しの間封じれたなら、それで良いのです』
くい、と持ち上げられた俺の腕先に…斑紋は無い。
まさか、まさかこの瞬間…俺は、ただの人間なのか。
先刻まで憚らせた焔すら発せない、その寒さに心臓が萎縮した。
この、白い着衣が俺の足枷になっている、またしても。
「何、が…目的」
『下肢の寸法計測で御座います』
「そ、そんだけの、為に…こんな、っ」
見下ろしてくるのは、確かに黒い影。でも、素知らぬ一悪魔。
『伯爵には劣りますが、自分も貴方様を痛く痛く焦がれております』
崩れた着物の袷に、黒い爪先が不躾に潜り込む。
カッと血が上る感覚と同時に、気付けば拳を振るい上げていた。
「あ、っ」
白い頬に叩きつける寸前で、細い指に軽々と受け止められる。
そう、俺が思っていたよりも、この腕は遅く、弱々しかったから。
『御無理なさらず、ほんの数刻、人間に等しいだけですから』
「あ、っああ…あっ」
『黒いレェスの織り成す魔力…その目のパターンも是非教えて頂きたく』
がくがくと、肩から震える。意味の無い喘ぎが呼吸と漏れる。
そう、間違いなく、俺は恐怖していた。この城に、この状況に…
脆弱な人間で居る事に。
『下を測り、しっかりと、貴方様に合う着衣を織り上げましょう…ふふふ』
「か、閣下が、閣下がこんな無体を赦すと――」
咄嗟に出たのは、堕天使を餌にした逃げ道。
しかし、この悪魔はうっそり微笑む。俺の腰帯に指をかけて。
『閣下は“後は好きに――”と、申されておりましたので』
ぞわり、と背筋が凍る。
『我等一同、好きに飲食し、喧嘩し、宴に興じた訳であります…』
ああ、そうだ、閣下は…ルシファーは俺を試して、遊んでいるんだ。
どうしてそんな存在を盾にして恫喝したんだ、俺は。
…馬鹿だ。釣られたのはどっちだ?
「下、暴いてみろ……戻ったら…俺が悪魔に戻ったら、殺す……っ」
『しっかりと織り上げた魔の滴る衣装で、強大な力を引き出せたとしても?』
「俺は、悪魔の力なんか要らない!」
『今、この瞬間は欲しているのにですか?』
その指摘の、あまりな図星に声が出なくなった。
『御安心を…痛くはしませぬ、どこぞのサマナーと違い、貴方様を傷つけたい訳では――』
「記憶…戻せよ…!」
出なくなった筈なのに…どうして、この叫びは、喉奥からこみ上げた?
胸を開く悪魔の指に、怯える筈なのに。ただの人間のこの身体で…
「記憶…奴の…ライドウの記憶、元通りにしろ」
『それが聞きたくて、自分に接触を試みたのですか?』
更なる図星は、もうどうでも良い。
ライドウへの申し訳無さなんか、全然抱いてない。
ただ、ただ俺が…息苦しいだけ。俺にとって、今のあの男の状態が…
「お前には出来る筈、だろ…!お前の見せた悪夢が!」
『それは直接的な要因では御座いませぬ、自分には操作し得ぬ範囲』
「嘘だ」
『いいえ、これが真実……記憶、ですか?』
くすり、と笑った悪魔が、手にした仕付け糸でぐるぐると俺を台に固定する。
「嘘、だっ、嘘だ嘘だ」
『記憶が飛ぶなど……それはサマナー葛葉の落ち度でありましょう…』
お前に、何が分かる。
『人修羅殿の気に病む事では御座いませぬ』
同じ黒でも、全く違う。
悪魔の俺を崇拝する指先と視線。
これが酷く息苦しい。
半端な俺を嘲笑する爪先と紫煙。
あれは吐き気がする、嫌悪感がこみ上げる……のに、どうして…
どうして、付き従う?
どうして、俺はあのデビルサマナーに…
『……御加減が、優れませんか?』
探る指先が、下肢の裾を払う直前に止まる。その光る眼が俺をじっと見つめる。
『人間の、涙、は……確か、哀しみと苦しみで落つるモノ…』
涙?
『つまり今の人修羅殿は、余程気分が振れていると見ました』
「…何云って…俺は、泣いてなんか」
『そうですね、少し後にしましょう。そういう光物はこの眼には厳しいので…ああ、眩しや』
着物の袷がゆっくり閉じられ、上に覆いかぶさっていた影が退く。
『では、それも涸れ果てた頃に、採寸致しましょう?人修羅殿』
カツリ、とブーツの音と愉しげな声が、遠くに去っていく。
薄暗いランプがふっ、と消され、暗闇が訪れた。
ひとまず、難を逃れたのか……いや、後回しにされただけと思うが。
遮光幕の隙間、黒い日輪がゆらゆらと、窓に揺れていた…
朝も夜も無い、ずっと常闇。
「誰が……涙なんか…」
ずっと、ずっと流せる人間に還れるのなら、そう在りたい。
人間に戻る事が、俺の…最終的な目的なのだから。
でも、こんな形で手に入れたかった訳じゃ…
どうして、俺だけではしくじる?あの男の真似したって、成功しない。
今までどうやって生き延びた?
…ボルテクスで、俺の尊厳をいつも奪ったあの存在が…
…ずっと、俺を奮い立たせて、生かしていた…と、どこかで解っていた。
(このまま帝都に戻らなかったら、きっとあいつ、哂うんだろうな)
あの日から、あの吐き気がする程の狂おしい交わりから、会ってない。
外套を叩き返しに戻った先、既に消えていた。
すれ違い…鳴海に聞いてもゴウトに聞いてもすれ違い。
俺を避けているのか、今までは俺が避けていたのに。
(このまま、契約も自然消滅、か)
乾いた笑いが自然と出て、喉を震わせた。
なんて馬鹿馬鹿しい、本当に、ただのマネキン、着せ替え人形じゃないか。
友達に人形を貸す程度なのだろう、堕天使にとっては。
それで自我が壊れたら、それまでの玩具。そう云いたいのだろう。
(葛葉…ライドウ)
ああ…乱暴でも、欲望任せでも、本当は良かったのかもしれない。
血濡れの繰り糸で、俺を…踊らせて欲しい。
もう一度、泥山から引き摺り墜としてくれよ。
やり場の無い、この孤独に濡れた力の矛先を。馬鹿にしたその哂いで、俺に与えろ。
「 」
唇が…暗闇に囁いた…契約の名を…来る筈も無い…
かつん。
音が、呼応する。
ラウルの帰還かと、身を強張らせ、いっそ瞼を閉じた。
気配が、する…傍に立つ、影の気配が。
先刻閉じられた着物の袷が、また開かれる。
無心でそれを受け入れる、もう、早く過ぎてしまえ、と。
どうせ、血相を変えて怒りを撒き散らす、あの男は居ないのだから。
整然と行使されるのだろう。
痛みは無い筈…ただ、吐き気を堪えるだけで良いんだから――………!?
「っあ、あああ゛ーッ!!」
突き刺さる、鋭い痛み。針状の硬質な、何か。
想像もしていなかったソレに、途端瞼を開くが、見えない。
暗幕の隙間から、日輪は厳かな闇しか零さない。その所為で、俺の目の前の正体が見えない。
「ぁぁあああぁぁっだあああ痛い!痛いぃッ!!」
人間の俺の肌に、容赦無く入っては出て行く何か。
跳ねる身体が痛みと抵抗を滲ませて、相手を蹴り上げようとした。
ぱしり、と先は捉えられ、呆気なく封じられ。
する、とブーツが脱がされる。軽くなった爪先の寒気と痛みが鮮明になる。
と、思い出したかの様に肉に刺さる針。
ずるる、と皮膚に刻まれる熱い糸が、俺の肌を…肉を…
「はぁっ、ぁ、っ、っぐ!!」
腕を、確かめる様に、その指が踊る。
暗闇の中、視えない形を辿る様に、記憶を辿る様に。
俺の身体を推し測る、冷たい指先。
指の後を追って潜る針と、糸。
びきびきと、腕が熱くなる。燃え立つこの感覚…酔い痴れる、堕落の焔。
呑み慣れた…魔力が。
「はーっ…はーっ……」
凄まじい痛みに、眩暈がする。引き攣った様に、出入りする針に持っていかれそうになる。
固定されていた腕が捕らえられていたのだ、きっと俺の緊縛は既に解けているのに。
どうして俺は逃げなかった?
そろり、とケープが肩に下ろされ、横たわって息も絶え絶えの俺に…被さった影が囁く。

「後は、自分でおやり」

その声で、身体が目覚める…覚醒する。そう、頭は既に認知している…
上体を起こし、窓の在った方へと駆け、指先に暗幕の感触を確認すると左右に開いた。
重い闇に薄い闇が射し込んで、少しだけ照らされた作業部屋。
俺の寝かされていた台の周囲には、誰も居ない。
どくどくと、胸が煩い。腕が、ああ、熱い。
『人修羅殿…?』
出入り口の扉が少し開き、あの悪魔の声がした。
視線で追えば、俺の姿にやや驚く彼。
『戒めは、そんなにも簡単に溶けましたか』
悪魔の黒いローブは闇に紛れて、よく確認出来ない。でも、今なら大丈夫だ…強く出れる。
「一発殴らせてもらいます」
『何故裸足なのですか』
「閣下からお咎めの無い程度に…っ!」
『くすっ…人間の御身体で?』
大勢の骸骨に囲まれて、その観衆の中。闊歩しつつ俺は睨んだ。
ケープを掃い、腕をラウルに突き出す。すると、案の定…
『な、黒蔦の紋様、何故…』
俺の腕に奔る、黒い刺繍。
乾ききらぬ血が鈍く輝く、その縫い目は、寸分違わず俺の斑紋の通りに。
本当に、糸が縫いつけられている…
自分で見ても、痛々しくて身の毛がよだつ。
『し…しかし、腕のみ、ですか…なればさほど問題でもありません…』
そのあっさりした温和な笑みを、叩き潰してやる。
「良い、腕だけで充分だ」
黒い糸が、俺に魔力を流し込む。浮かばぬ斑紋の代わりに啼く。
そう、腕さえ悪魔なら。
「二度と俺に近付くな!ラウル!!」
叫びと同時に、織り上げる焔。瞬間、ローブの袖で顔を覆い、マカラカーンを唱えたラウル。
誰が、そこに振り下ろしてやるか。分かっていて放つ程、愚かじゃない。
左右に広げた腕で、火の粉を散らして骸骨に蠢く熱流を。心に喰らえ。
『っああああ酷い!!酷い!』
それまでと打って変わって、声を張り上げる悪魔。
燃え盛る骸骨達は、纏う着衣が燃料となって更に情熱と踊る。
『作品達がっ!あっ、あっああ!!』
燃えるそれ等に縋りつつ、術の効果で己は焼けない悪魔。
情けない声を上げるまま、作業場を右往左往。
息の上がった俺は、ただただそれを見て、熱い空間の中で立ち尽くす。
『自分はただ、人修羅殿を作品に取り入れたかっただけでっ』
のたまいつつ、まだ燃えてないマネキンのひとつに掴みかかったラウル。
同じ黒の、たゆたう着衣も艶めかしい…ソレが、喋る。
「ヒトの作品に落書きするものでは無いな…」
はっ、と見上げた悪魔。俺も、その瞬間にようやく気付いた。
轟々と燃え盛る焔の中、残る人型の影。
喋る筈の無いそれは、ニタリと哂ってヒールを鳴らす。
「人修羅…は、僕の作品だから、ねえ?」
離れようとしたラウルの襟首を掴み寄せ、そのまま足掛け、背負い投げる。
その流れる動作に、口すら挟めない俺。
『ウ!!グ、ッ』
「非戦闘員ならば大人しくしてい給え…よ!」
レザーのコードやレースの端切れ、骨の散った床に投げられたその悪魔を、強かに蹴り上げた。
ごろごろと転がった先、テーブルにぶつかれば、その上に積まれた装飾が飛散する。
「!そうだ、っ…一発、くれてやらなきゃ、っ」
其処に歩み寄って、くたびれた黒いローブに、拳を振り上げた矢先…
「お止し、閣下がオーダーメイド出来ぬとお怒りになるかもしれないからね」
俺に発された声に、苛々しつつも拳を引いた。
気を飛ばしてしまったらしいラウルを、軽く爪先で小突いてみれば
行儀も悪く舌打ちが出てしまった。
未だに肌に纏わり付いてくるケープを、ばっさりと脱ぎ捨て
パチパチと未だ燃え盛る骸骨にそれを放れば、ゆっくりゆっくり燃えていく。
「流石に特殊な素材で織り上げてある、一瞬で焦げる化繊とは違うね」
「あんた、さっき投げた上に蹴り飛ばしただろ」
「ローブで見えぬ場所だ」
「最低」
吐き棄てて、自らの腕を眺め見る。無理矢理に縫われた肌が、薄く変色してきている。
「本当…最…っ…低、だ」
「ヤタガラスの羽から紡いだ特殊な糸だよ…フフ」
哂う、いつも通り、今まで通り。
「んな、もん何処に」
「此処だよ」
ひらり、と捲られた外套。その先端の綻びから
ゆらゆらと解れた糸が…焔に炙られ揺れている。
ああ、マジなのか、あの沢山の有象無象の血を啜ってきた…あの外套の糸…
「汚、い……不衛生」
「云うと思ったよ…クク、潔癖め」
熱の所為か、ふらふらする。奴の影が視界に定まらない。
おい、もっとしっかり…見せろ。見せてくれ…今のあんたは、一体…
「お、い…夜」
朦朧とした意識で呟いた。
がしり、と掴まれる腕、引き戻される…この身体…
「フフ…あの纏い物の刺繍、全然…駄目だね」
小手先だけの力を使い果たし、もう余力が無いのだろうか…
あの、慣れた、嫌味ったらしい声だけがする。
「この斑紋を完全に刻めるのは僕だけだ」
刺繍を撫ぞる指先、斑紋を縁取る様に、ざっくりと、しかし要所要所を捉えた位置取り。
星座が如く、点と点を結ぶ線が魔力の通り道になっていた。
「よ…る」
幾度、名前で呼ぼうが、跳ね除けない。
馴れ馴れしい、と怒らない。
「其処に寝ている妖精の属よ、そんなに自分の物にしたくば、名前でも書いておいたらどうだい?」
あは、あはははっ
こだまする笑い声の中…俺は意識を飛ばした。




項を掴む手、囲まれる、泥人形の海。
苛む声と、血濡れの金属が、容赦なく振り下ろされる。
「あ、ああ…俺は、俺は違うっ」
幾度もこの場面を見ている気がする。
そして、幾度も…
「功刀矢代」
泥を突き破る、勇ましくも危なげなその手指。
「おいで」
ああ、駄目だ、この手を取ったら。
夢から目覚めたら、またあんたは―――!!

「っは、っはあ、はあはあっ」

胸を掻き毟り目覚めれば、熱くない。
向こう側で本を読むライドウが、鼻で笑った。
「ぁ、っ…く」
誰の所為だ。と、何処かデジャ・ヴを感じながら睨み上げる。
問うてくるその顔は、眼は、俺を真っ直ぐに見つめてくる。
「夢見は?」
「……っ……良くない」
「あ、そう…フフ、可笑しいねえ、もうラウルの呪いは消えた頃なのに」
その言葉にハッとして周囲を見渡す。冷たい硬質な空間…底冷えした密室。
「業魔殿…」
「あのまま君を抱えて運び込む羽目になったよ、礼のひとつでも云ってみたらどうだい?」
「って、あんたいつから居たんだよ!」
本棚にもたれて、例の日誌をぱらりぱらりと捲るライドウ。
その頁にある記述の数々を、今どうやって呑み込んでいる?
見知らぬ記憶?それとも…
「此処で、うつらうつらと、眼が醒めれば…妙に肌を曝した己が居てねえ…」
「…覚えてないのか、その前の」
「察しはつくさ、胎が少しばかり君ので滑っていたからねぇ?ククッ」
叫びかけて、唇は閉じる。俺から誘った事を思い出して、何も云いたくなくなった。
「仲魔に聞いた、ざっと把握はしているがね」
棚に仕舞われた日誌の背表紙、それを長い指で辿ると、振り返る奴。
冷たい床、器具達、互いの間に流れるそれも、どこか冷え冷えとしている。
俺の心臓だけが、忙しないのか。
「此処で君と…どういった経緯か知らぬが、致した訳だ…“記憶の巻き戻された僕”が」
「…あ、あんたが、毎度の如く俺を」
「記憶も無いのに?十四代目に成る前の僕が、素知らぬ君をかい?」
ああ、やっぱりいつものあんたが其処に居る。
底意地の悪い言葉で、俺を詰る、忌々しいデビルサマナーが。
「まあ、結果としては君にとっても吉と出たのでは?そのまぐわいがどうやら記憶を醒ました様だし、ねえ?」
すっかり、記憶は戻った…という事だろうか。MAGの交配が引き金となったのか?
最初にカルパで契約した時にも似た、それで。
「しかし、激しかった様だね?着衣が酷く乱れていた…フフッ」
「…あんたが、いつもと同じで俺を引っ掻きまわした、それだけ…だ」
この手術台で致された行為を覚えていないらしい。俺はそれに酷く安堵して…
(あの、気味悪い位に優しい愛撫も、何もかも?)
安堵して…いる筈なのに。ざわつく。
「単身で、勝手にケテル城に向かったとゴウト童子から聞いてね、何かと思ったよ」
「あんただって何処かほっつき歩いてたじゃないか、里の報告も放置して」
「よくもまあ再びあのローブを纏ったものだ…血吸い蛭の如くMAGを啜るのにね」
「見てたんだろ、そう思うなら云えよ、っていうかさっさと出て来いよ」
台から降りようとして、腕を振りかぶって気付く。
腕に通る二重の黒。
「あっ…っつ……」
動けばキリキリと肉に喰い込み、マリオネットの気分。
そんな俺を見てせせら哂うライドウ。カツリカツリと台まで歩み寄ってくる。
「あの伊太利亜悪魔をおびき寄せる為に、白を纏い馳走を用意し、その身を曝した…」
哂っているのに、眼は酷く冷たい。よく知っている、その表情。
「何の目的があってだい?」
答えようも無い。俺が間違っても、云える筈無い。
「夢から侵蝕された報復に…っひぐ、っ!」
「愚かしいね、それであんな失態を犯したのか…君は」
黒い糸の通った腕を、捻り上げられる。開く皮膚の縫い目が泣く。
「堕天使が嗤うだろうね?こんな体たらく」
「痛い!放せ…!」
赤い涙の滲む、この男の刻んだ刺繍。暗闇でも、俺を完全に創り上げる異常さ。
「僕の記憶が戻っていなければ、あのままマネキンに成っていたねえ…功刀君?」
「は…っ!ぐ、ゥ」
「愚図」
渡る糸を、ピン、と爪先で弾かれる。ふわりと赤いマガツヒが舞う。
「肌を通る紋様にも、着物に施される刺繍にも、意味は有る。魔的な力をもたらす」
「エグい、だろっ、んな…こんなやり方」
「あの場に針は有った、僕の纏う黒い糸も、ね。一番適切な処置と思うが?」
「あ!ふっ…」
囚われる両の肱。黒が重なる、寸分の狂いも無く俺の斑紋の上を走る糸。
じわじわと、ライドウのMAGが…吸ってきた血が、本当に刺青の様に。
「死臭の薫る刺繍を、刺青と思いはしないかい?」
「下らな、い…思わない、っ!いい加減これ、解けよ」
「人修羅の、その身に浮かぶ斑紋の意味なぞ…解き明かされなくて良いのさ。他は知らずとも良い」
途端突き放され、急な動きに俺は項を強かに打ち付けた。
首の突起が冷えた台を抉り、一瞬頭が真っ白になる。
奥歯を噛み締めて上体を起こせば、既に出入り口にさしかかるライドウ。
「僕以外に暴かれたその時は、覚悟し給えよ?折角の秘密が台無しになる事は赦せぬ」
酷く、勝手な支配欲。追う様に伸ばした、その腕の先で哂うデビルサマナー。
「フフ…既に悪魔に戻れるのだから、自分で仕付け糸を解き給え、功刀君」
優しさなんて、無い。
「そうそう、茨の如く烏の羽が毛羽立つからね…きっと痛いだろうねぇ?…ククッ…」
「この、外道…」
「ではね、功刀君、Ciao」
それとなく知っている、確かイタリアの別れの挨拶。ノリの軽い類だ。
妙に人を馬鹿にした様な調子で、それを云って去るライドウ。
「くそっ」
閉ざされた扉に吐き棄て、改めて腕を見る。
暗闇で、俺の形を確かめる様に辿ってきた指を思い出す。
流れ伝った魔力の薫りに、すぐ何者か解った俺が腹立たしい。
刺々しい心のまま、鬱血する縫い目に、指をかけた。
「ぁ、ぅうッ、ぐぅううぅぅうっ、あ」
ぐずぐずと泣いてばかりの其処に、思わず声が漏れる。
赤く染まった腕を見ると、イタリアンのトマトベースの料理を思い出した。
宴で散々に悪魔達の味覚を罵った。でも、本当は解ってる。
味見した瞬間、あまりの薄さに人間を感じなくなる事。
熱さも冷たさも、酷く鈍くなっている事。
(最悪、痛みだけは、鮮明だとか)
思い出すのは、痛み。ボルテクスで受けた刀傷。銃創。
胎の奥底を抉った、あの男の…
「はぁっ…っぐ…最低…最悪…っ」
中でぶちりと千切れた糸を、逆の縫い目からずりずり引き抜く。
慎重にやらないと、千切れる。でも、痛みは長く俺を苛む。
滴る赤が台にぽたりと垂れた。それを見て、着物が汚れはしないかと脱脂綿を探す。
そう、とりあえず、汚れたくない、血まみれが嫌だ。
血をひたすら吸ってきた、あの男の外套の紬糸なんて…
(血を…?)
煌く刃、使役される悪魔達、急所を穿つ弾丸。
(あの男が、敵の返り血を盛大に浴びる事なんて、あったか?)
不敵な笑みを浮かべ、掃討するその姿。
俺を見下して、駄目だと扱き下ろして、横から入る刃。
あ、そうだ……舞う血は…俺の……
「…はぁ…はぁ………お、かしい、っ…頭」
俺の、血だ。
あの男の外套を、黒く仕立て上げていたのは、俺の血じゃないか…?
ライドウが、MAGを乗せて、俺の魔力を流転させただけ。
ただ、元の躯に還っただけなのか、この糸達は。
敵の血肉は避けるくせに。どうして俺のは哂って浴びるんだ?
「っひ、っ」
勢い余ってぶちりと、また途中で切れた。
黒の残留が怖くて…痛いのに慎重に、ゆっくりになる。
痛いのに、酷く苦しいのに、楔の様に残るのが怖くて。
(ライドウの与えてくる傷)
じわじわと繰る痛みは、生きている、と、実感を与えてくれる…?
(必要とされている証)
「要らねぇよっ…こんなっ、刻みなんて…っ…」
胎から、奴の血潮で刻まれた契約。一番鮮明な記憶に、呻きが口を割る。
頭に血が昇っている所為か…血が一層流れ出す。ああ、駄目だ、拭かないと。
先刻視線を巡らせた際に発見していた、脱脂綿の入った蒼硝子の瓶。
それに指を伸ばす、その瞬間すら糸が指先を引き攣らせる。
抑制される動きで、薬液のひたひたした脱脂綿をきゅう、と搾って赤い腕へ…
「…?」
反射して、機器のアームに映りこんだ俺の首筋。
妙な感じを覚えて、身体を捻って視線だけを流す。
鏡のアームを引き寄せて、項の突起の上辺りを…映し出す…
「……な」
息が、詰まった。






「その傷はどうしたのだ?」
玉座にゆったりと座る堕天使が、此方に向かって悠然と微笑む。
数刻前、逸れた鞭が頬に入ったので、きっとソレを指している。
「十四代目葛葉ライドウとして、機関より受けた叱咤に御座います」
「記憶の無い時の失態を、君は受けに行ったのか?」
さも可笑しそうにその眼がたわむ。
「ええ、何か?」
「いや、君らしいな……」
薄い羽衣が空を舞う。
「少し外せ」
『はっ』
その視線に突き動かされ、左右の悪魔が持ち場を離れて往く。
広々とした謁見の間に、ルシファーと僕だけとなった。
こうなると、奴の口調はゆるゆると昔に還る。僕への嫌がらせか。
「相変わらず鞭が好きなのかな、夜は」
「どう邪推して頂いても結構」
「ラウルがね、憔悴しきっていたよ…これでは当分注文は出来そうにないな」
「それはそれは御労しい、これを機に伊太利亜への帰省を勧めてみては如何です?」
「クッ……はは、君の蹴りが肋骨を相当痛めつけた様子だったが?」
金糸の髪を指先にくるくると巻き、羽衣を腕に遊ばせる奴。
「糸を依代に、魔力を引き出すとは…君の発想は非凡だな、相変わらず」
「ある物は利用するだけです」
「ねえ夜は塗り替えなかったのかい?あの子を」
「フ…どうせ同じ事を、人修羅に吹き込んでいたのでしょう」
そう問えば、ひたり、と冷たく嗤った魔帝。
「いつから戻っていたのか、まだ明かしてないのかい?酷いね、君という男は」
くすくすと、指先で解した金色。それを今度は角に持って往く。
僕と人修羅を縛る、この存在こそ…残酷だろうに。
「まさか、最初にぼくへと連れてきた頃より、既に戻っていたとは思わぬだろうな」
「それより数日後から戻った、と明言してあります」
「その間、記憶の無い演技かい?」
「…彼がどう出るか、窺うべく取った行動です」
「使役するライドウとして?支配する夜として?」
煩い。
「何故、普通の友人なり、恩人なりとして、築き直さなかったの?」
「ならば、今の貴方は僕と築き直す気が持てるのですかね?」
哂って云い返せば、角を撫ぜるその指が止まる。
黒い爪が、カリリ、とその表面を削った。
「成る程」
「気味悪いでしょう?何なら試してみましょうか?」
ルイ・サイファを脳裏に描き、あの頃吸っていた煙草の味を思い出す。
「ねえ、ルイ?」
「ふふっ…今度こそ寝首を掻かれてしまうからな、遠慮しておこう」
ひらり、と手首を振ったその仕草。下がって良いとの合図。
「…失礼致します」
「ふふ…矢代に「またいつでも晩餐会しなさい」と云っておいてくれ」
彼から今後する事は無いだろう、と答えは出ているが、一応会釈する。
胸元へと手にしていた学帽を被り、謁見の間より抜け出でた。
(何が友だ)
お前が笑って云えたモノか、ルイ。
それより、云ってやりたかった。あの人修羅が…もっと凄い事を述べたと。

  「俺の事“愛してる”と、云った…」

震える声で、着物を開いて、熱にうかされた様な上気する頬で。
滑稽だろう?まるで馬鹿げている。あの瞬間、本当に笑った。
いざ優しくすれば、戸惑って違うと喚くし、本当に…愚かな奴。
カツリカツリと石畳を啼かして、城の廊下を闊歩する。
ジロとねめつける視線を幾つか感じた、先日…人修羅の焔に炙られた巨人と象。
黙して通過する。双方とも、きっとその瞬間思い描くのは、あの熱い焔なのだ。
静かに、この城の悪魔達を威圧するのは…音も無く揺らめく焔。
脆弱な形の中に、在るその魂に焦がされている。
悪魔も、サマナーも。

『ああっ!クズノハ!!まぁた貴様はノックも無しに!!不躾にも程がありますヨ程がああ!』
紅茶を注ぐ伯爵が、部屋に入るなり怒鳴り散らす。
「伯爵!溢れますよ!」
傍に腰掛ける人修羅が叫ぶと、そのティーポットがカクリと上に跳ね上がった。
『こ、これは失礼を!ヤシロ様!!』
「中国茶じゃないんですから、ソーサーまで注がないで下さい」
『大変申し訳御座いません!!もしその御指が濡れた場合には!私に是非拭かせて頂きたく――』
恍惚と語るビフロンスを無視して、新たに注がれた紅茶のカップを手にした人修羅。
その金色の眼が、ちら、と一瞬此方を見た。
蠢く喉笛の白さが見えない、着物の衿に巻物がしてあるから。
『しかし此度はコレ、いつもの茶葉ではありませぬがヤシロ様!御心境の変化でしょうカ!?』
「…どうでも良いでしょうそんな事…余計な詮索しないで下さい」
冷たく云い放ち、カップをソーサーに戻す彼。
テーブルの上、並ぶ小奇麗な陶器に並んで見える茶葉の缶。
「“TE' ALLO ZENZERO”?」
読み上げれば、伯爵が僕を見上げる。
『先日まではアッサムやダージリンでしたのに、コレは何ですかね?』
「“テェ アッロ ゼンゼロ”…生姜紅茶だね、伊太利亜産の銘柄とは、これ如何に?功刀君」
淹れたてなのに、即座に啜っていた。きっと熱さは薄く感じる程度なのだろう。
「イタリア産の物仕入れたから、ついでに…」
「あの宴、そういえば君が食事は用意したそうだが…?」
「伯爵に協力して貰って、俺の時代から直輸入」
その言葉が嬉しかったのか、ティーポットを抱えたまま伯爵は小躍りした。
『いえいえヤシロ様の御命令とあれば薬草であらずとも食材までキッチリ入手してみせましょおオ!!』
「煩いです」
『大変申し訳御座いませんヤシロ様!』
そのやり取りを鼻で笑いつつ、人修羅の向かいの椅子に腰掛けた。
人修羅の姿…黒い着物、烏の濡れ羽の色。合わせた襦袢…半襟は白群、水の色。
ただ、普段と違うのは、その首。角すら覆い隠す布。
「悪魔のくせに、寒いのかい?」
「…擬態したら、寒いから」
「今は悪魔だろう?外せばどうだい」
「巻き直すのが面倒だから…」
一応、形だけは用意された僕の分の紅茶。だが手は付けない。
『生姜ですか、寒気を伴う風邪とかの症状には効果が御座いますねぇ!ま、人間にしか該当しませんからネェ!ヤシロ様は…』
はっ、としたしゃれこうべ。ようやく禁句に気付いて、その虚で人修羅をギギギ、と振り返る。
「俺は風邪でも無いし、完全な悪魔でもありませんから」
カチャン、と、再度啜っていたそれをソーサーに置く人修羅。
激昂するかと思ったが、その金色は酷く静かだ。
「伯爵、すいませんけど、ラウルの処に行ってくれますか」
『ぇえあ、ハイ!あのうつけの処にですか!?』
「きっと骨と宝飾の山に埋もれて、靴があると思いますので、探してきて下さい」
『靴!?あの宴の際に履かれていた?』
「はい、イタリア革のヒールブーツです」
ポットをテーブルにひょい、と置くと、フリル袖を揺らして颯爽と駆け出すビフロンス。
『では行って参りますぅうぅうう!!!!是非帰還のあかつきには履かせるお役目をォ!!』
「自分で履けます、さっさと行って下さい」
背の燭台を携えて、嬉々として了解をした悪魔。
人修羅に扱き使われる事に快感を見出しているのだ、あの変態め。
「君、僕の靴の一足を、勝手に履いていただろう」
向かいに話しかける、いつも通りの、つまらなそうな顔をしている。
既に抑制は解け、しっかりと伸びる黒い茨、君を苛むその悪魔の証。
「馴染みのある匂いで釣れって、以前からあんたが云ってたからだ」
「釣った魚に喰われるのか君は、器用だねぇ…ククッ」
テーブルの下、脚でつついて、着物の裾を割る。
靴の爪先に感じる素肌。するりと撫で下ろして往けば…ずっと滑らかに。
「裸足かい」
「この後来る予定のブーツを履くから」
「僕のだが」
「手にして持ち帰るのが面倒だから」
「緩いだろう?君と僕では足の大きさが違う」
ヒールの部分で、その甲を軽く踏む。骨と骨の間に喰い込んで沈む。
食い縛った人修羅が、微かな呻きと吐いた。
「痛い…」
「裸足の君が悪い」
「踏むあんたが悪い」
「悪夢に呑まれる君が悪い」
「俺を追い詰めたあんたが悪い」
「人修羅である君が悪い」
「デビルサマナーのあんたが悪い」
ひとしきり罵り合い、少しの間を置いて君が呟く。
「どうして…ヤタガラスの里に行ったんだ…」
「閣下と同じ事を聞くのだねぇ、やはり“親”と似るのかな?」
「記憶無かった頃の行動だろ、知らないの一点張りで逃げれば良かったじゃないか」
本当は、その時既に戻っていたのだよ、功刀君。
「頬に一筋、入ってるぞ、裂傷」
「君ほどの化け物では無いから遅いが、一応完治はする予定さ」
「いぎッ」
ぐりゅ、と離れ際に強く抉って、席を立つ。
「功刀君、アルビノを知っているかい?」
「アルビノ…」
「先天性白皮症の事だが…簡潔に云えば、真っ白な生き物の事さ」
どこか、ぎくりと視線を逸らす人修羅、何か見たのか?そういう生き物を…
「白きモノは、神聖な…崇拝対象、慈しむべき対象、鑑賞され得る美として存在する」
黒い外套をなびかせて僕が云うこの状況が、面白いだろう?
「本来黒き生き物が、白く生まれるとどうなるか知っているかい?」
歩み寄れば、椅子に座ったままの君が首を振った。
「本当ならあるべき要素の欠落したその躯は、脆い」
首の巻物を掴み、引き寄せる。半立ちになり、小さく悲鳴を漏らす君を無視して続ける。
「クク……カラスの者はね、白くは成れぬのだよ」
「く、るし…っ」
「記憶など関係無い、既にこの魂にこびり付いて落ちぬ、他では生きれぬよ、僕は」
ぐ、と若草の色の巻物を掴む人修羅。その薄い織物を黒い茨がしゅるりと解いた。
苦しげに喉を押さえる君、その白い項を見て、唇の端が吊り上がった。
ああ、やはり気付いてないのか、それとも…
「ねえ、まだ糸が残っているが、良いのかな?功刀君?」
その刺繍を指先で確認する、しっかりと、深く眠る君に縫い付けたその刻みを。
業魔殿で、君の体に深く刻み付けたあの手術台で、今度はその項に…
「だから、巻いてたんだよ…っ」
苦々しげに吐かれる感情、人修羅は肩に引っかかっている巻物を完全に剥がした。
彼自ら着付けたのに、今回はしっかりと抜かれた衣紋。
「…俺で抜きたくないから」
ぼそりと呟く人修羅。
「あんたが、抜いてくれよ」
黒曜石の鏡の前、君の金色の眼が、仄かに映り込む。
「フフ、何故僕が?」
「いいからっ…あんたで、抜けよ、此処のだけは」
彼の視線では何と縫ってあるか、見える筈も無い。
反射させても鏡文字になる、そもそも異国の言葉など、読める筈が…
「此処に無くたって、胎にもう、刻まれて…る…解りきってる、事だ」
人修羅の、その台詞。
この数日の、偽りの優しさが蘇る。更に遡れば、カルパの契約に…
「鏡の前に往き給え」
そう告げれば、ひたひたと裸足のまま、向かう人修羅。
その後ろに続けば、普段よりも開いた身長の差。
「クク…だから裸足なのかい」
「どうだって良いだろ…はやくしやが――」
少し首を屈めただけで、君の項を啄ばめるこの高低差。角を避けてその上辺を舐める。
「ぁ、っく」
ちらりと視線を鏡に移す。項を啄ばむと、僕から君の顔が見えぬから、鏡まで誘導したまで。
「いッ――」
ぶつり、ぶちり、表皮ごと噛み千切っては、啜る。君の血が滲む糸。
戦慄く両の腕を捕らえて、その指に指を絡ませ。
「はぁっ、はぁ―――ッ」
噛んだ糸を、ずるると引き抜く。鏡の中の君が苦悶に眼を瞑る。
綺麗な黒茨の細い指が、握り返してくる。
「っは、あ、紺、野」
君に施した支配の刺繍を、唇で解く。
「気味の悪い、呼び方をするで無い、よ…っ!」
ずるり、と引き抜けば、マガツヒの光が空気に融け出した。
「あぐぅ、ッ」
「契約名を忘れたか」
見開かれた鏡の金を射抜く。乱れた着物が開いても、矢張り黒い茨を纏う君。
きっとその爪先まで、寸分違わず僕なら刻めた。
他の悪魔が知る由も無い、君のすべてを知る権利は、この僕が有している。
「やっぱ、あんた、残酷…だ…」
力無く歪む金色。ならば、何故優しい愛撫を施した時より、安堵している?
「君を愛してなぞおらぬ、支配しているのだから当然だろう?」
互いの色を塗り替える事も無く。
君に、あの愛撫の瞬間も僕なのだと明かせば、どうなるのだろうか。
里への報告を怠った、逃げる僕も、この僕なのだと…
では、何故逃げ切らなかった?
「はぁ、あ!や、だ、やめろっおい、あ、ああぁ」
「抜いてくれと云ったのは君だろう?フフ」
「そっちは、違…ッあ」
刺繍の傷跡を舐めながら、寛げた下を弄った。
追って下りて来る手指が、重なっても引っ掻いても止めない。
黒曜石の薄暗い鏡に、潤む金色がゆらりゆらり。
悲鳴が喘ぎになり始める、映り込む羞恥に耐えられぬと云わんばかりに唇を噛み締めた君。
その、赤く染まった耳の傍で囁く。
「さあ…契約の刻と、同じ様に」
眉根が顰まる、君。その心音が、人間の形の器官が蠢く鼓動が、僕に伝わる。
その中身まで暴いてやりたい。何処から何処までがヒトなのか悪魔なのか。
その為には、優しい友も、慈しむ想い人も、どれも適さぬ。
完全なる支配を、この十四代目葛葉ライドウという立場でせねば。
「イく時は名前で呼んでくれ給えよ、ねえ」
動揺しつつもそそり立つ君の下肢を開花させてあげる。
「矢代」
毒の吐息で囁けば、指先に感じる君の蜜。
泣き濡れた金色は、鋭く僕を鏡越しに睨み上げている。
噛み締め過ぎて赤く染まったその唇を読唇する。

  よ る

それ以上、何も吐かせたくなくて、塞いだ。
僕の選んだ着物を黙って纏う君が、愚かしく滑稽で。
蔑みながら縋ってくる、その華奢な身体の熱き焔が。
酷く……足枷となっているのだ。
漆黒の烏であるべき筈の僕を…惑わす。


舌先に撫ぞった黒き La notte の刺繍

白い烏〈後編〉・了
* あとがき*

La notte、「夜」の意。
人修羅の項に自分の名前を刺繍したライドウ。
それをくちづけで抜き解く。
それが書きたかった欲望まみれの回。
結局互いに関係を塗り替える事も無く、緊張の糸は解けない。
ライドウは中編では既に記憶が戻っていた、と。
つまりあの優しいまぐわいは……

ちなみに、前編で黒く塗りつぶされていた単語の
la volpe――[ラ ヴォルペ]は「狐」
un corvo――[ウン コルヴォ]は「烏」
です。