スワンのシュー

 
まだ少し残暑が霞む帝都です。
私はいつもより軽いジャケットにしました。
日が暮れてくると、少し肌寒い、微妙なシーズンですから。
「こんにちは!」
階段を上がった先、事務所の扉を二回ノック。
前回の様に不在なら、適当に学校や業魔殿を当たるつもりでした。
「はい」
ややあって、声がしました。
聞き覚えのある声音に、口元が綻びます。
「こんにちは功刀さん!ファイン?」
開け放つ扉の向こう、ソファから咄嗟に立ち上がる人修羅…
もとい、今は人に擬態した功刀さんが居ました。
「あ、え?な、凪…さんですよね」
しどろもどろの彼が可笑しくて、自然と笑みが零れます。
ウエストポーチから抜いた管を、指先でトン、と弾ませました。
溢れた光から形を成すハイピクシーが、功刀さんを見て舞います。
『お久しぶりぃ〜っ!って、人間に擬態しちゃってんの?勿体無い!』
彼女の不躾な挨拶に、少し微妙な顔の功刀さん。
私はハイピクシーの翅を掴んで、自身の肩に引寄せました。
『きゃ、ちょっと凪』
「すいません功刀さん、この子、悪魔体の功刀さんのファンなので」
すると、困った様に微笑んで下さいました。
「いえ、構いませんよ…」
その控えめな笑顔に、なんだか私まで戸惑いそうです。



「でも、突然の訪問…セオリーに反しますよね」
隣から述べれば、麻の着物も涼しげな功刀さんが答えます。
「いえ、ライドウもなんだかんだで凪さんの事、心配してるから…」
「心配かけてばかりで、未熟さを呪います」
「…って云ってもあの男、放任主義だから」
ひと呼吸置いたあと、どちらとも無く笑いが零れました。
日差しも強さをなだらかにして、過ごし易い外の空気。
晴海の道は、潮の匂いが微かに滲みます。
(なんだかこれは、デェトみたい…です)
一瞬思い、そんな自分を恥じて、勝手に頬を熱くしてしまいました。
何なのでしょうか、そんなに沢山接してきた訳でも無いのに…
こんな熱病、はしたないとライドウ先輩に叱られてしまうでしょうか…
「凪さん?」
「あ、は、ハイっ!!」
「デザートは何が良いです?製菓材料、其処の店が豊富だから…」
彼の視線の先、色んなお店が並ぶ中、ちょこんと在る小さな其処。
「功刀さんって凄いですね!私だときっと見過ごしてしまいます」
素直に感動を表現すると、功刀さんはいつも困った顔をします。
ライドウ先輩なら、自信を加速させた笑みで返してくれるのですが…
慣れてないないのでしょうか、そういう言葉に。
「デザートは、デザートはですねぇ…」
人差し指を口元に軽く撫ぜて、うう〜む、と考え込みます。
「急かさないですから、ゆっくり考えて」
既にいくつか購入した食材を手に、なだめる様な声。
それが私を微妙に急かしてしまう、そんなプロセスな訳ですが…
と、混迷する私の視界に、煌びやかな色が飛び込んできました。
歩みを少しゆっくりにすると、功刀さんが止まりました。
「気になります?」
「…はい!凄く可愛いですね!」
輸入物の、婦人洋装店が飾るウインドウの中の世界。
キラキラと光る糸で紡がれた、ドレッシィな服のディスプレイ。
洋服だけでなく、皮のトランクから零れる様に溢れる小物が賑やかで。
「あのスワン、愛らしいです」
「これ、多分“白鳥の湖”をイメージしてるんじゃないかな…」
「白鳥の湖?」
聴きなれないその、何かを指している単語。
功刀さんにそれは何か、と問い質そうと口を開きました…
「“白鳥湖”は未だ日本国で未公演だよ」
その声に、私も功刀さんもハッとして振り返ります。
「ラ、ライドウ先輩!あの、急に来てしまってすいません!」
何から説明すれば良いのやら、とりあえず謝罪から入った私ですが。
「ご無沙汰、凪君」
悠然と一笑して、黒い外套を揺らすそのお姿。
(相変わらず堂々とされてて、流石です)
功刀さんと会った時とは別の感動を覚えます。
「ところで功刀君、その食材の資金源は?」
ちら、と視線を流したライドウ先輩。
「十八代目葛葉ゲイリン接待として経費で落とせば?」
功刀さんは事も無げにさらりと云って、私に向き直ります。
「凪さん、デザート勝手に考えましたけど、良いですか?」
「は、はいっ!それでお願いします!」
何なのかすら聞かず、私はこくこくと頷きました。
「じゃ、あの店で買ってくるんで…ライドウと先帰ってて下さい」
「ええっ」
まるで逃げる風の様に、製菓材料のお店に向かってしまった功刀さん。
なんとなく寂しくて、少し肩を落としました。
「凪君、僕は其処に用事が有るのでね…一緒に見るかい?」
扉を半開きに、店内へと足を入れつつライドウ先輩が聞いてきます。
リリン、とベルが鳴って、おいでおいでと誘います。
「わぁ!見たいです!!舶来物とか、興味深いです!」
中は完全にアンティーク。整頓されない商品達が、逆に魅力的です。
「うぅ〜ん、なにやら西洋骨董の異界に迷い込んだみたいです…」
視線をあっちにこっちにと泳がせている私に、ライドウ先輩が笑いました。
「おいおい凪君、此処は人の世界だよ、しっかりしてくれ給え」
足下の商品を蹴らない様に、慎重な足運びで先輩に接近します。
その手元を見れば、繊細なカービングの皮小物。
「職人技ですね…」
「垢抜けていて好きだよ」
吟味しているその傍で、先輩の持つトランクにふと視線が流れます。
「先輩、此処の皮製品がお気に入りなのですか?」
「粗雑に扱ってもくたびれないからね、凪君もどうだい?」
花のカッティングが可愛いポシェットを、すっと差し出してきました。
「サマナーとはいえ年頃の女性なのだから、罪では無いだろう」
「で、でも私…」
「女性を前面に押し出す気は無い?」
ニタリと哂う先輩に、思わずむぐ、と唇を噤んでしまいました。
一拍置いて、そのポシェットを戻した先輩がくすくす笑っています。
「別に僕は、女性だからといって侮る気は無いがね…」
図星だったので、少し恥ずかしくて…言葉が出ません。
「だが、同世代の少女達と同じ夢は見れぬと思うべきだね…葛葉なら」
続けられた先輩の声が、何処か胸の奥を刺した気が…しました。





「ぅう〜ん!デリシャス!素晴らしいですっ」
熱いけれど美味しいので、半分火傷しながら頬張ります。
「おいおい凪君、君の分まで取らぬから少し落ち着いて食べ給え」
ライドウ先輩だって、そうは云いつつも箸(スプーンですが)が早いです。
『そしてお主は平然と飲酒するな』
テーブルの脚に尾を絡ませて、ライドウ先輩を見上げるゴウト様。
その声が憮然としているのに、先輩は挑発するみたくグラスを揺らします。
「ボルシチには既に赤ワインが入っているでしょう?」
哂って下に返答する先輩に、向かいから声が掛かります。
「残念、俺のボルシチにワインは入りません」
功刀さんが、自身の為に取り分けた少ないそれ等を前に語りました。
食欲が湧かないのは、味覚が鈍った所為らしいのですが…
それでここまで作れるのは感嘆ものです。
「こんな赤みを帯びているのに、入らないのだね」
少し意外そうに呟いて、ライドウ先輩はグラスを煽りました。
「本当はビートが入るんだけど、無いからトマトで代用する」
「へぇ、本当はもっと赤い?」
「まあ…」
「君の血でも入れたら?」
意地悪に哂うライドウ先輩に、功刀さんは鋭く睨みます。
その一瞬の空気…私は急いでボルシチを嚥下してから割りました。
「これって、露西亜の郷土料理なのですよね!?」
功刀さんが鋭い視線を伏してから、私を柔らかな視線で見ました。
「凪さんロシアの血が入っているから、合うかと思って」
「ありがとうございます、その…美味しいです、本当」
この血を疎んだ事もあったけれど、こんな時には嬉しいものです。
御都合主義ですが、サマナーにならなければ…逢えなかったと思うと…
「明日からも十八代目!頑張るがセオリーですっ」
お師匠様に“お前は太り易いのだから警戒のプロセスで食事するのだ”
そう云われていた事を思い出しながら、煮込まれたニンジンを食みます。
『十八代目よ、その口振り…明日には槻賀多に戻るのか?』
「ええ!里へ報告に上がったので、ついでに寄らせて頂きましたから」
同じボルシチを猫舌で舐めるゴウト様。
熱かったのか、尾がビビっと震えてます。
「普通に里帰り出来る君が羨ましいよ」
既に一本空けたライドウ先輩が、私に呟きました。
その呟きに一瞬、功刀さんが手を止めた気がします。
「…あ、凪さんそういえば…デザート、失敗しちゃって」
突然の申し出に、意外性と恐縮さを感じながら、私は掌を振りました。
「い、いいえいいえそんな!失敗作でも頂きたいです!」
「上手く膨らまなかった…」
天板をコトリ、と卓に置いた功刀さん。
その上には良い薫りを撒きつつも、ふにゃんとひしゃげた焼き菓子。
「何これ、合体事故?」
「っさいな、シュー生地だよ!あんたは口出ししないでくれ」
ライドウ先輩にぴしゃりと返答して、額を軽く押さえた功刀さん。
生地みたく、しょげた表情が少し可愛い気がしてしまいました…
殿方相手に大変失礼ですが、珍しいので…
「コンロ付けの簡易オーブンじゃ火力が足りなかった」
「マグマアクシスでも使えば?」
「跡形も無くなるだろうが!」
ライドウ先輩の半分本気の様な口調に、口元を押さえて笑いを堪えます。
「功刀さん、槻賀多にいらっしゃいませんか?」
「え?」
「しっかりしたオーブン、実は有るのですよ」
私の発案に、ライドウ先輩は瞼を下ろしていました。
きっと、そのオーブンが誰の物か、思い描いているのです。
「槻賀多って、あんな田舎に……て、あ、すいません!」
「クス、意外でしょう?お菓子作りが好きだった方がいらしたので」
功刀さんに、あの寂しそうなオーブンを使って欲しいと思いました。
「御都合宜しければ、是非いらして下さい!」
巾で口元を拭って、私は弾む声を上げていました…
「ね?先輩にも、修行にお付き合い頂ければ幸いですしっ!」
そう、あのオーブンが寂しそうだから、です、多分…






「凪君、自分の仲魔をしっかり見ているのか」
ライドウ先輩の声。
ハッとして見れば、私の使役するヌエが囲まれています。
「ヌエ!一旦戻りなさい!」
管を翳しましたが、囲む悪魔に阻まれているのでしょうか…
確かに、囲む悪魔は巨大な体躯です。
『サマナァ!オレサマデレナイゾ!!』
微かに聞こえたヌエの声に、焦りを感じつつ接近します。
取り囲む悪魔に面して、ようやく気付きました。
(アラハバキ…!)
振り捌く小太刀が、空で止まります。
ブレスを吐く暇も無いヌエに、指令を出せる筈もありません。
(私が囮になれば、あの子から引き離せる)
アラハバキを真っ直ぐに見据えながら、背後に歩みを取ります。
じり、とヌエから離れ始めるその土偶に、少し安堵したその瞬間。
「きゃっ!」
背後から抱きかかえられる感触。
視界が開けて、跳躍している事に気付きました。
「凪さん、耳塞いで」
その声の通りに、納刀した私は、両耳に掌をあてがいます。
次の瞬間、肩から外された手の感触。
私から離れて、更に虚空に舞ったその影が、腕を振り抜い雷光を放ちました。
背の高いアラハバキにだけ、その紫電が被弾していく轟音。
崩れたアラハバキ達の中から、くたびれたヌエがひょっこり現れました。
「ヌエ!」
『シヌカトオモッタゾ』
駆け寄り、その身体をチェックします。
暴れて自ら傷ついた様な傷も有り、胸が痛みました。
「ごめんなさい、帰るまで管で休んでいて欲しいプロセスです…」
『チョットネカセロ!』
疲れきったヌエを管に封じて、振り返りました。
人影が二つ、片方が掴みかかる形で。
「余計な手を出してくれるな」
掴んでいた顎から手を離し、強かに頬を打ち付ける音。
踏み留まった功刀さんが、喰いつく様にライドウ先輩に向き直ります。
「アラハバキ相手に彼女は術を持っていない」
「だから?」
「だから、って…!不利な状況だろ!?助けろよ!」
「それで鍛錬になると思っているのか?君は」
その険悪な空気を生み出した元凶は、間違い無く私であって…
だからこそ、下手に口も挟めずに…
「厳し過ぎだろ…彼女はあんた程イカレた神経してないんだぞ」
「少女の夢に生きたいのなら葛葉を降りるべきだね…」
ちらりと私を見て、ライドウ先輩は哂って云います。
「凪君、少し外すよ…其処の龍穴で少し反省して待ち給え」
「おいライドウっ!聞けよ!」
功刀さんの憤怒の声が遠くなっていきます。
「あっ…あの」
私は残され、修験場の広さの中、孤独を感じて佇みました。
(ああ、私が集中していなかった所為です…)
おまけに、あの背後からの感触に、感動すら覚えていた…
使命一筋のサマナーに、あるまじき感情。
仲魔にも、先輩にも、先輩の仲魔…人修羅にも迷惑を掛けてしまって。
(人修羅にも?)
先輩の…所有する悪魔は人修羅ですが。
(なら、普段の功刀さんは…誰のもの?)
薄ら寒い心に居た堪れなくなり、龍穴からゆっくり抜け出しました。
先刻ライドウ先輩達が移った方へと、歩みを進めます。
以前、ライドウ先輩に我侭を云って同行して頂いた事を思い出していました。
力への貪欲な意志に、先輩は哂って協力してくれました…
“そうそう…そうやって出し抜く事くらい考えて生き給えよ…”
あの時、尊敬と同時に…少しだけ、畏怖を感じました。正直。
行き止まりの、封印も解除されて久しい扉を、そっと開いていきます。
…声が、聴こえてきました…

「いつもより張り切って殺しているね」
「それが目的じゃ、ない」
「返り血で臭いよ君」
「凪さんが、汚れるから…っ」
「…いつもいつも、汚れを気にする君が、身代わりに被るのかい?」

周囲の揺らめく、古より潰えぬ灯りが…浮かび上がらせる…
その影から、視線を外す事が出来なくて。

「彼女の安否に気が気でなくて、慣れぬ雷撃など放ってさぁ」
「っ」
「ねぇ?一端の男性を演じたいのなら、その程度でフラつかないでおくれよ」
「だからって、誰もMAGを補給したいなんざ一言も」
「彼女が集中出来ぬ理由が解らぬのなら、君は相当鈍いよ、功刀君」
「…何だよ、あんたには解るのかよ」
「フフ、さあ?……ほら、ソーマも今切らしている事だ…」
「ぁ……ふっ」

重なった人影から、氾濫するMAGの光。
功刀さんの苦しげな吐息が、静かな空間に酷く響いて。
その口移しの魔力が、斑紋をぼんやりと輝かせていて。
…私はこの扉を急いで閉めて、引き返すべきでした。
でも…身体が、動かないのです…緊縛術にでも掛かったかの様に…
心臓が、早く駆け過ぎて苦しいです。

「ふ、はっ……も、ぅ…要らない」
「まだまだっ、彼女を護ってやるのだろう?まだ足りぬだろう?ねぇ?」
「だか、ら!あんたのMAGは要らないって――」
「なら勝手に彼女のMAGでも吸って、食中りでも起こせばいい」
「手前…そんな云い方あるかよ!」
「飼い主以外のMAGの味なぞ解らぬくせに…ク、クク…」

貴方の振り上げた拳は、額に向けて翳された銃で止まります。
そのまま彼の空いた手が、貴方の拳を解して指と絡ませ。
銃を項の角に突きつけられたまま、人修羅の貴方が…
喰われていました。

「はっ……は……ぁぁぅ…」

苦しげな喘ぎと脚の震えは、拒絶だけではなくて。
その輝く斑紋が、受け入れる魔力に歓喜する事を証明しています。
私は、呼吸すら忘れていました。
別世界でも、垣間見ているかの様な間隔に。
何処に焦点を合わせれば良いのかすら判らず、彷徨っていました。
すると、私の視線を絡め取る視線。
(先輩)
己の悪魔と唇を合わせたままの、私の先輩が…
私の眼を、見ていました。
この扉の隙間から…私とは判らない筈なのに、その眼には確信が。
私を見て、哂っていました、その眼は。



気付けば駆け出していて。龍穴に独り蹲っていました…
何故でしょうか、あの光景を見ても…驚愕は有りませんでした。
ただ…ただ胸が燃える様に燻って、手脚は氷の様に冷たくて。
「凪君」
その声に、面を上げました。
夕闇みたいな外套を翻して、ライドウ先輩が立っていました。
「少しは落ち着いた?」
私の何時の動揺に対しての言葉かは深く考えず、頷きました。
「功刀は血を拭ってから来ると」
「ライドウ先輩」
私の、どこか無感情な声音に、自分でも驚きましたが
先輩は至って普通に対応して下さいました。
「何かな…凪君」
「ライドウ先輩は、仲魔を増やすのがお上手ですよね」
「勧誘した際の成功率は高いと自負している」
「欲しい悪魔って…どうしたら仲魔に出来るのですか?」
ライドウ先輩の眼を、今度は私から真っ直ぐ見つめました。
先輩の灰暗い眼は、周囲の光すら取り込んでしまいそうで。
私の言葉も消え失せたと、一瞬思いましたが。
「自分だけしか見させない」
その返答に私が相槌をする前に、先輩は続けます。
「望むものを与える」
遠くから、功刀さんが歩いて来るのが見えます。
「出し抜く事くらい考えて生き給えよ?凪君」
云い放って、己の悪魔に歩み寄っていく姿。
その黒い背中を見つめたまま、私はぼんやりと…
何かを思い描いて、妖精王国の夫婦から頂いた物を思い出していました。






「功刀さん、あの、昼はすいませんでした…」
厨房で刃物を扱う貴方に、背後から声を掛けます。
「謝る必要無いですよ、でも自分の身は自分で護れないと…」
「はい」
「でないと、俺みたいになっちゃいますよ」
自嘲気味に云った、その真意は問い質さない事にしました。
初めての厨房なのに、普通に使うその後姿に
茜さんを思い出して、続いて色んな想いが溢れてしまって。
「私、先代ゲイリンに顔向け出来ないですね…」
弱音を吐きながら、背中から手元を覗き込みました。
まな板の赤に一瞬心臓が縮こまりましたが、それは苺で。
包丁から視線を外さない様にして、功刀さんは云いました。
「凪さんは信念があるから、この先もきっと大丈夫ですよ」
薄くスライスされていく赤い果実に、功刀さんの指が染まっていく。
その綺麗な汚れに、視線を注いでいる私は…
“凪さんが、汚れるから…っ”
あの言葉を反芻させて、勝手に微笑んでいました。
「苺、綺麗な赤色ですね」
「はい、意外と常温でもいけたんだな〜って…」
「何に使うのですか?」
「シュークリームに」
その用途が意外で、思わず聞き返しました。
「ええっ、意外なプロセスです!」
「白鳥にしようと思って」
「え?」
「シューの形を、スワン型にしようと…あのディスプレイ見て思って」
先日晴海で見た、あのアンティークのお店の…でしょうか。
「凪さん、一心不乱に見てたから」
そう云ってから、付け足す様に云いました。
「あ、なんで、俺の趣味って訳じゃなくて!」
それが可笑しくて、お腹に掌を当てて笑ってしまいました。
「良いセオリーと思います、ふふ…!」
「凪さん!」
「ご、ごめんなさい、ふふっ……」
「説明しときますけどね、これを少しずつずらして、スワンの背のクリームに飾るんですよ」
「なるほどです」
「ほら、薔薇飾りみたいでしょう?」
その発言がトドメで、やっぱり爆笑してしまいました。
バツが悪そうな功刀さんは、その後黙々と作業に没頭していて。
そんな横顔を見て…
どうして、貴方が悪魔にされてしまったのか。
こんなに、普通に過ごす姿が似合う、太陽の下の人が何故。
そんな喩えようも無い焦燥に駆られていました。
行き場が無くて…拾われて、サマナーとしてしか存在を見出せない私。
あの翻す自信の中に、深い闇を抱く十四代目ライドウ…先輩。
そんな私達ヤタガラスのサマナーと、貴方はやはり違うのです。
「功刀さんに、悪魔の生き方は似合いませんよね…」
私の呟きに、ピタリと動きを止めた貴方。
「まあ、それこそ好きでやってる訳じゃ無いんで」
「でも、人修羅として今此処に居る訳ですね」
「…」
「私、今こうして功刀さんとお話出来る事を、何に感謝すれば良いのですか…」
貴方が人間で居られなくなった事を嘆き、怒る反面
悪魔となり、私達サマナーの支配対象となったその事実を…
心の奥底で歓ぶ、デビルサマナーとしての私が居るのです。
ただひとりの少女が、哂っているのです。

濡れそぼり、滴る黒髪。
私が振り翳した、魔法の露。
反射的に顔を背けた功刀さんが…ゆっくり此方を向きました。
その灰褐色の眼が、金色に瞬間…揺れました。
私をその表面に映して、睫をまばたかせて。
「く…功刀…さん…あの…っ」
震える指に握り締めた“浮気草のつゆ”が入っていた小瓶を後ろに隠します。
云い淀む私に、やんわりと微笑む貴方。
「凪さん」
その呼び声に、鼓動を跳ね上げながら、次の言葉を待ちます。
「少し遅くなりますけど、出来たら運びますから…部屋で待ってて下さい」
その、あまりに普通な内容に…拍子抜けしつつも
濡れる自身に疑問を感じないのかと、妙な違和感を感じました。
「は、はい」
もう普通に返答するしかなくて、私は厨房を後にしました…



(浮気草のつゆ…効力が人修羅には無いのでしょうか)
もしかしたら、そういう耐性を宿しているのかもと、今更後悔です。
(むしろ何しているのでしょうか、私)
オベロン夫妻が笑って渡してくれたあの露。
何でもライドウ先輩に使おうとして失敗したとかなんとか…
それは確かに無茶というものです、あの先輩を陥れようなんて。
ああ、やはり無理だったという事です、私にも。
「ゴウトも来れば良かったのに、此処は空気が美味しい」
伸びをしながら、部屋にライドウ先輩が入ってきました。
外套を外し、すらりとした学生服に身を包んで欠伸しています。
「カラスの里の空気だって美味しいですよ?山に囲まれていますし」
座ったまま云う私に、先輩は怪訝な表情をしました。
「あそこは澱んでると思うが?」
「先輩は里がお嫌いですか?」
「燃してやりたいね」
「ま!」
「フフ、冗談だよ」
哂って荷の整理をするその姿に、冗談めいた空気が無いのは…
私の気のせいでしょうか?
…あのアバドン事件の後、こうして持ち主の居なくなった家を頂き
ヤタガラスのサマナーとしての自分を顧みる日々です…
確かに、先輩の云う通り…世間様でいう少女の生活ではありません。
もう、諦めていますから。
「私も、管と刀の手入れします!」
先輩を見て、そうしなければいけない気分になった私は
道具を取りに立ち上がろうとしました。
「凪さん、座って」
そこに掛けられた声に私は脚を止め、期待に胸を膨らませました。
「わぁ!オーブンしっかり機能した様ですね!!良かったです!」
「もう食事も済んでますが、お茶にしましょう」
畳の上のテーブルに置かれたスワン。
皿の湖に連なって、良い薫りを散らしています。
(ヴァニラでしょうか)
「ふぅん、相変わらずそういうのにだけは真剣だね」
作業の手を止めたライドウ先輩が功刀さんに哂って云いました。
また反発し合うのかと思い、警戒しましたが…
功刀さんは一緒に淹れて来た珈琲を黙って配置していました。
「凪さんは、これ」
あの時云っていた通り、薔薇の様な苺がその羽に躍っています。
「凪君のシューだけ何故血を噴いているのだい?」
「んもぅ!ライドウ先輩!これは苺の薔薇というセオリーですっ!!」
毎回毎回、先輩のぶっ飛んだ感覚には舌を巻いちゃいます。
いいえ!それが“らしさ”なんだと思えば、大変微笑ましいです。
「わぁ…本当に、可愛らしいです」
掌に乗せれば、いっそう薫って、首を傾げる様なスワン。
「まず、その首からどうぞ」
向かい合った功刀さんが、催促してきます。
いいえ、催促が無くても、もう私はぱくりとしたくてウズウズしています。
「ちょっと残酷ですが、首のところはひと息に頂いちゃいますね」
「ふふ、どうぞ」
微笑む功刀さんの前で、はしたなく大口を開けるのもアレですが…
「ではっ…頂きます…!」
掌のスワンに一礼して、唇を開きます。

途端、スワンの首が飛びました。

眼前を掠める、その一閃は銃弾。
発砲音と、突然の攻撃に私の身体は制止させられたままで。
視線でその元を辿れば、ライドウ先輩が調整していた銃を構えています。
「云っておくが、暴発でも何でもないよ」
脳裏を先読みされてしまい、次の言葉が浮かびません。
「…功刀、お前は一体何に罹っている?」
その台詞に、ハッとしました。心当たりが…有るからです。
向かい合っていた功刀さんが、先輩に云われた瞬間。
「はっ、あははははっ」
微笑みを崩して、声を上げ、笑い始めました。
「折角、凪さんの為に、作ったのに」
微かな物音、それがする畳に視線を移すと…
「ひっ」
スワンの首が躍っていました。
その異様な光景に思わず声を上げれば
ライドウ先輩が立ち上がりつつ、撃鉄を起こします。
「生首のヴァリアシオンか、フン、良い趣味してるな」
その躍る首にもう一発、迷い無く放ちました。
すると、その首が爆ぜて、四散した生地の中から…その本体が現れました。
「む、蟲…!?」
驚愕に声を震わせる私に、横からライドウ先輩が返答してくれます…
「そんな近くで感じなかった?それが禍魂だよ…凪君!」
マガタマ…
「な、何故…ですか功刀さ」
云い終わらない内に、私の手首は掴まれていました。
掴む指には、斑紋が脈動していて。
「凪さんは、俺の事…好きなんですよね」
背後から、耳元で囁かれる熱っぽい声に、思わず息を呑んでしまいます。
取り落としたスワンが膝上に崩れて、苺の赤が内臓みたく散っていました…
(浮気草のつゆ…効いていたのですね)
ですが、何故この様な展開になるのか、それが解らず戸惑います。
「なぁ…凪さん…俺とずっと居てくれるなら、マガタマ食べて下さいよ…」
「ぇ…」
「その手、汚してくれないと…俺、一緒に居れない」
昼の発言と、矛盾するその囁き。
その告白に、私の胸は動悸を抑える事が出来なくて…!
「凪さん、悪魔になって」
金色の眼を光らせて、壮絶な微笑で私を見つめる貴方。
その眼に囚われる私は、何も後先を考えず…返事を紡ごうとしていました。

「おい矢代、お前の主人は誰だ」

その声に、脳内が覚醒します。
背後から私を掴む人修羅の功刀さんも、同時にそちらを見ます。
「僕が成れば、ずっとお前は支配されると捉えて良いのだね?」
畳に転がるその蟲を、すらりとした指先に摘まんで。
舌先に垂らす先輩。
「胎でピルエットでも御披露願いたいね」
そのまま口に納めてしまったのです。
「せ、先輩っ!!」
私が叫ぶその声より大きな声で、背後からの絶叫が。
「出しやがれええええええ!!!!」
手首からの冷たい熱は消え、ライドウ先輩の懐に飛び込む悪魔がひとり。
口元を押さえ出さんとする先輩に、必死の形相で掴みかかる功刀さん。
「吐け!吐けよ吐け吐け吐けぇええ!!」
揺さ振られても余裕の笑みすら浮かべるライドウ先輩。
その二人のコーダに唖然として、私は見ている事しか出来ずに。
「あんたには必要無いだろっ!」
功刀さんが、ライドウ先輩の鳩尾に膝を入れたのが見えました。
流石に弛緩したその先輩の腕を、片腕で振り払って
「夜のままで充分だろッ!」
先輩の唇に咬みついた貴方。
空いた腕を、自分のサマナーの首に回して
翳した手を、膝を入れた鳩尾に叩き付けて。
「っぐ」
先輩が呻くと、功刀さんが合わせていた唇を離しました。
「っげほッ…!げぇっ」
ライドウ先輩を突き飛ばして、胸元を掻き毟る貴方。
畳に跪いて、何かを吐き出しました。
それはビチビチと畳を濡らして、魚みたく跳ねていました…
先刻ライドウ先輩が呑んだマガタマでした。
「ク、クククッ」
胎を押さえ口元を拭った先輩は、跪く功刀さんの背後によろめき立ち
ホルスターから引き抜いた銃を、彼の角に突きつけました。
「オディールに合わせてジークフリートが悪魔に成れば良いだけだろう?」
発砲音と共に倒れ込む功刀さん。
「悪魔の姫の、何が悪い?」
哂いながらにそう呟いて、倒れこんだ功刀さんを脚先でつつく先輩。
声を失ったままの私へと視線を投げられました。
「此処に局所的に撃ちこめば、しばらく起きぬよ」
「…」
「その頃には何かの魔法も解けて、オデットに戻るだろうさ」
やれやれ、と小さく溜息を吐き、功刀さんの居た席に座る先輩。
皿上のスワンを一匹摘まみ上げ、捕食されました。
「美味しい」
何かの魔法、は、一時的なものです。
「凪君も食べ給えよ、他には入ってない様子だからね」
目覚めた時、貴方は完全に魔法が解けて
私の元から飛び立ってしまうのですね。






『で!まだ誰も愛したことのないジークフリート王子が!オデット姫を愛して!』
『ふむふむ!』
『ま、途中悪魔の娘からも妨害喰らうんだけどぉ』
『あらあら』
『ま、発覚して、で!オデットの為に悪魔と戦った王子は勝つのだけどぉ…』
『だけど?』
『オデットは人間には戻れないワケよ』
『えぇぇ〜悲劇的ねそれ』
『湖にふたり身を投げて、、来世で結ばれるっつう…』
『愛ね』
『ちょいちょい、凪は聞いてたの?』
その会話に情景を抱くのに必死で、相槌すら返していませんでした。
妖精達が、異国から拾ってきた文化にお喋りを弾ませる王国で
私は“白鳥の湖”なるものを始めて知る事になりました。
「すいません、少し思い描いてて」
『ロマンティックよねぇ〜』
『あ、でね!このバレエ、オデットもオディールも同一の役者が演るのよ!』
「オディール…」
『悪魔の娘の方!』
「悪魔の…」
先日の先輩の言葉を反芻させて、私は黙り込みました。
そんな上の空の私に、妖精達はヒソヒソと会話した後、けしかけてきます。
『大丈夫?なにか…変よ凪』
『ここいら今日も貴女のお陰で平和だからさ、今日は帰って休めば?』
護る立場の私がそう気遣われ、少し心苦しいながらもお言葉に甘えます。
どのみち、そろそろ帰宅するプロセスでした。


帰宅してすぐ厨房に入ると、薫りが広がっていました。
「もう焼けてる!」
意外な時間の経過に驚き、独りごちた私。
開けた窓からの熱気と、ふんわりとした薫りに息を止めます。
「…」
帰る前の功刀さんに、あんなにしっかり聞いたのに。
レシピまで書いて頂いたのに、何故か膨らんでいないです。
(何がいけないのでしょう…)
落胆して、功刀さんより料理が下手な自分を恥らいます。
(これなら悪魔との交渉の方が、まだ成功率高い気がします…)
引き出した天板を木のテーブルに乗せて、ぼんやりと考えてました。
スワンにしようと思って、用意した首だけがしっかり焼けていて。
沢山の沢山の首達が、ずらりと並んで私を見つめています。
そのくねった形に、あの蟲を思い出して、ひとつ摘み上げました。
まだ熱いそれは、指先を痛めます。
気にせずに、舌先に置いて、嚥下しました。
酷く熱いそれは、胎内で踊っているかの様です。
(マガタマを呑むと、こんな感覚なのでしょうか)
ひとつ、もうひとつ、首を取って、呑み下します。
その熱さに、身体が跳ね上がりそうになりつつも吐き出しません。
ひとしきり呑み終えて、込み上げる涙が天板に落ちて蒸発します。

「…美味しくないです」

どれだけ呑んでも
きっと私の傍には居てくれないのです。


スワンのシュー・了
* あとがき*

なんぞこれ。
『白鳥湖』として日本には伝わってくるらしいですね。
ライドウと凪にバレエの簡単な知識があるのは無視してやって下さい。
まあ、此処のライドウなら有りそうですが…
ロシアを意識しました。ボルシチとか白鳥の湖…
スワンのシュークリームは「シーニュ(Cygne)」と云うのですが
『スワンのシュー』のタイトルの方が牧歌的で、中味と相反すると思いまして。
人修羅の潜在意識は、結局のところ主人であるサマナーに従属する…
いえ、ライドウは悪魔に成らずとも、元から悪魔みたいな男だからという意味も込めましたが(おい)
やはり私は「ライ修羅←凪」が好きな様ですね。
そして人修羅よ、お前はパティシエにでも成れ。