赤い沓の後日談(おまけ)です。


年の瀬の仇波




『どうして責めなかったのよ』
「えっ?」
『足ちょん切らなくても何とか出来るプロセスが有った筈ですぅ〜 ってさ』
固く絞った濡れ布巾で、キッチンタイルの水滴を拭った所でした。
アイボリーの中に、時折ブルーのタイルが交じるのです。
この国の柄や意匠は、とても鮮明で綺麗です。
タイルは余所の国から伝わった様子ですが、目の前の柄はとても馴染み深い雰囲気で。
着物を彷彿とさせます、藍染の……
「そういえば、裾が破けてました」
『んっ? そうでもないじゃない、脚絆してたからズボンにはダメージ無いでしょ』
「違います、功刀さんの袴です」
『えーっ、でも駆けつけた時に葉っぱまみれだったし、慌てて来たあいつの自己責任でしょ』
「しかし……来て頂く事になったのは、私のミスが招いた訳で」
『もういいじゃん、ゴウトにも許して貰ったんでしょ! この程度でメソメソしてたらミイラになるわよぉ、凪ってただでさえ泣き虫なんだし』
蛇口の上に腰掛け、脚を交互に曲げ伸ばしするハイピクシー。
私はううっ、と声が詰まります。
反論出来ません、実際キッチンを片付けながらコソコソと鼻をすすっておりました。
とても情けないのです、銀楼閣の片付けは一通り完了しましたが……
とりあえず、まだまだする事が残っているのです。
楽隊の楽器を弁償して、人力車のお客様に謝罪文を書き、金王屋の垂れ幕を洗い、踏んづけた野良猫さんを捜し出して回復を……
「そうだよ凪君、綺麗な肌は水分含有率で左右されるのだよ」
「ぅわッ、先輩」
「何だいその驚き方」
驚くなという方が難しいです、突如キッチンに現れたライドウ先輩は……
前掛け……前掛けをしているのです!
いつもは功刀さんが着けている前掛けを!
「い、今から刀でも砥ぐセオリー!?」
「何故わざわざ炊事場で砥ぐのだい、此処は調理をする場だろう」
「あ、悪魔を料理するセオリー!?」
「それは戦場か業魔殿にて行う事だろう」
学生服の袖を軽く捲った先輩が、綺麗な指を蛇口のハンドルに伸ばします。
ひらりと飛び立ったハイピクシーが、私の肩に避難して来ました。
『何、あんたが料理すんの?』
「功刀君は立てないからね」
『ははぁ、一応フォローはするんだ?』
「出前の取れる時刻でも無い、所長に作らせるよりはマシさ。 それに人修羅を完全に再生させるには、結局僕がMAGを消耗するからねえ……」
『はぁ……消耗デスカ』
呟くハイピクシーが、私の耳を引っ張ります。
何か云って欲しいのでしょうか、今の言葉の意味を追求しろとの事でしょうか。
「せ、先輩っ」
「手伝いなら無用だよ、眺める分には構わないが」
「私も食べて良いですか!」
耳朶をビンタされました、恐らくハイピクシーの意向から逸れたのですね。
一方ライドウ先輩は、いつもの不敵な笑みで私を迎え撃ちます。
「勿論、此度招いたのは僕だからね」
こ、これは……手料理に自信が有る、という事ですね?
それとも、私の舌がグルメでは無いという認識をしているのでしょうか。
確かに、質より量のこの凪……香草の種類や隠し味がイマイチ判りません!
しかし、ライドウ先輩はお忙しい方。しかも炊事は功刀さんに任せきり。
これまで伺った内容から察するに、功刀さんが来る前までは殆ど外食か出前です!
『おっ……これは勝てるセオリーじゃね?』
髪を隠れ蓑にしたハイピクシーが、ぼそっと私の鼓膜に叩き込みました。
一瞬読心を使われたのかと思い、身体が竦みましたが……
ノンノン、落ち着くのです凪。ハイピクシーは外法属では無いでしょう。
「で、では邪魔にならぬ様に、この辺りから拝見しておりますっ」
「どうぞお好きに」
端に寄せられた小さ目な椅子を持ち、私は先輩のやや後方にそれを置きました。
脚を開かぬ様に着座し、黒くすらりとした背を見つめます。
管のホルダーベルトでは無く、今は前掛けの襷が白線を作っています。
特にもたつく様子も無く、てきぱきと食材籠や冷蔵棚から素材を取り出しては洗い、処理していきます……
予習済みなのでしょうか、私は調理本が無ければ思考停止してしまうのですが。
「話しかけてくれても構わないが」
「す、すみませんっ、視線が背中に突き刺さっておりましたか!?」
「出窓の硝子に反射して、丸見えだよ」
よ、良かった……がに股開きをしていなくて、良かったです。
疲れてくると、自然とだらしなくなってしまうので、自分で注意しなくてはなりません。
よく師匠にも云われたものです、稽古の後が特に酷いと。
「あの、功刀さんの容体はどうですか」
「君も見たろう、僕に殴りかかってくる程度には元気さ」
「足は爪先まで、しっかりと治るのですか?」
「当然、でなくては僕も落とさぬ」
「ライドウ先輩は……怪奇事件を解決するというセオリーを第一に、あの方法を取ったのですか」
包丁の音が止まりました。
私は、首を傾げる様にして振り向く先輩の、その整った横顔を見つめます。
刃物を片手に口角を上げているお姿。
とても料理人とも云えませんが、山姥よりは清廉としています。
「君はゲイリンの十八代目として、その問いを投げたのかい」
「……それは」
「それとも、赤い靴を履いてしまった一人の少女として? フフ……」
「どちらであっても、同じ事を訊いておりました」
「そうかい、ならば僕も両方で答えるが公平だね」
刃から、ほろほろと刻まれた根菜が鍋に落とされてゆきます。
それ等はバラバラになり、湧きだした湯を跳ねる音がしました。
私は頭の隅で、ぼんやりと戦闘中の事を思い出しておりました……
腕に何処か、迷いが生じるのです。もう何年も、悪魔相手に武器を揮っているというのに。
昔ほどではありませんが、未だ時折……繋がっているのです。
斬り付けた悪魔の四肢や首が、皮一枚でぶらりんと。
「己の仲魔を犠牲にしても、葛葉又はヤタガラスとしては原因を突き止め、再発を防ぐ事が重要と云えるだろう。 よって、再生可能である悪魔の足を削ぎ落とす事には、何の不都合も無い」
淡々と答える先輩の声は、私に指導する葛葉ライドウとしての声と同じトーンです。
私も教わってきた通りの……それが葛葉一門の矜持、スタンスです。
それを知っているからこそ、あの場で叫び出す事が出来ませんでした。
「で、君は“僕”にも訊きたいのだろう?」
「……はい、先輩の……いえ、貴方の本当の御意見を伺いたく思うのです。 それが私の曇りをクリアにすると信じ、訊ねる無礼をお許し下さい」
私からも、硝子に映り込む先輩が見えます。
ランプがちらちらと明滅して、その口元を暗くします。
「寧ろ、僕が葛葉ライドウでさえ無ければ……好きに切り刻めたというのにね」
鍋から溢れる上気で硝子は曇り……
一切が隠れてしまいました。





「どうしたの凪ちゃん、足りなかった?」
「えっ! いえっ、お腹いっぱいですっ! おかわりもしましたからっ」
「んーそれなら良かった。 おっ、そうだ食後の珈琲は如何?」
「そんな、お構いなく……」
「落ちこんだ顔してる子に世話焼かせたくないよ、なっ、ライドウ?」
甲斐甲斐しい台詞を吐く鳴海だが、僕に淹れてくれた事は殆ど無い。
「ライドウが珍しく飯作ったし、珈琲くらい俺が淹れてやるよ」
「では、お言葉に甘えるセオリーで」
崩れたマッチ棒建造の手を止め、席を立つ鳴海。
明るく返した凪だが、あの所長にさえ指摘された通りの気配をしている。
「僕の料理は如何だった、功刀君のと比べて泥の様だったかい」
「そんなっ、美味しかったです! その……私の料理を食べて頂く機会は、まだまだ先にして下さい」
「調理手順の書面さえ有れば、ワケないだろう?」
「そうでも無いのです、あはは……それにしても、お雑煮とはビックリしました」
「では何が出てくると思っていたのだい」
「んん……ビーフストロガノフ? クリスマスだから七面鳥……とか?」
「僕はシェフでは無いし、そんな準備も無かったよ」
窓は薄曇り、外は雪。
Xマス目前だが、手っ取り早く済む料理にさせて頂いた。
正月用に人修羅が購入・保管しておいた餅を拝借し、適当な野菜で汁物にしただけだ。
里に居た頃、特に手習いが有った訳では無い。
釣った魚をアギで焼かせ、それにかぶりついていた位だ。
腹など、充たされればそれで充分だった。
「なんだか、一足早くお正月を頂いたみたいです」
「……実際、今日の二十七宿は鬼だ。正月事始めであるから、準備の際のつまみ食いとでも思えば良い」
「二十七宿ですか、それはええと……西洋占星術とは無関係のプロセス?」
「印度の占星術だね、ナクシャトラだ。占ってあげようか? 生まれ年と日で性質診断が出来るよ、当たるも当らぬも八卦だが」
「あっ、そうやって交渉を展開させるのですね! なるほど……そういえば私、インドの悪魔とはあまり縁が無いです」
「シヴァ神の妃を複数同時召喚すると、面白い事になるよ」
「ふふ、なんとも危険な香りがします」
「奪い合う者達は、傍観しているのが一番愉しいよ」
ストーブ燃料の燃える臭いが立ち込める。
向こうの炊事場から、サイフォンの音が微かに響く。
一呼吸置いた凪が、ようやく応えた。
「ハラハラしますけど、確かに……部外者で居られるのなら、それが理想のプロセス……」
「取り合う自信が無い?」
「……葛葉の席は、誰も座っていない状態の所を奪い合うだけですから」
「機関の用意した空席でなく、誰かの用意した席では別問題と?」
「あの靴と同じで、席の視え方が違ったら……ちょっとしたホラーですから」
「君にしては抽象的だ」
「本当は誰かが既に座っているのに、それを無い物と受け取り……押し退けて座ってしまう。 そういうパターンも有ると思うのです、先輩」
僕の返しを待つかの様に、眼を爛々とさせる凪。
ソファから身を乗り出し、豊かな巻毛がほろりと肩から零れている。
しかし、割って入る様にして珈琲の香り。
湯気の隙間から、鳴海のウインクが見え隠れした。
「お待たせ凪ちゃん」
「有難う御座います! わぁ……苦味を感じるのに、何処かフルーティな香りです」
「伯剌西爾(ブラジル)産だよ! 伯剌西爾産! おっとライドウにも有るぞ、ほら」
手前のテーブルに置かれたカップを見て「流石は所長」と僕は哂った。
これは僕のカップでは無い、人修羅がいつも使用する物だ。
慣れない事をすると、すぐにボロが出る。
しかしそのボロに気付く事も無い凪は、美味しそうに啜るのみ。
そうだ、普段居ない彼女を呼んだ理由を忘れてはならない。
「凪君、憶えているかい? Xマスプレゼントが有るのだよ」
「んんっ……っ、は、はいそうです! 私、それをゲットしに来たのでした!」
「急いで嚥下せずとも良いのに、まだ熱かったろう…………ほら、これさ」
テーブル越しに管を渡せば、何処か拍子抜けした眼。
がっかり、という風では無いが、思い違いを感じさせる。
それはそうだろう、どうやら君は“例の靴”を、一瞬プレゼントと勘違いした様子だし?
「空の管でしょうか」
「いいや、容れてある。 召喚してみ給え」
やや警戒しながらも、管を眼前に翳す凪。
ちらりと周囲を確認する視線が、鳴海の方向で留まる。
「平気さ、僕の召喚した悪魔と麻雀をする人だから」
「えっ、鳴海さんには普段から視えて居りましたか?」
「視えずとも遊戯出来るだろう? ほら、麻雀牌さえ目視出来ればねえ」
狼狽える凪に、珈琲を啜りながら空いた手を振る鳴海。
全く気にしないので好きにやってくれ、という合図。
例え悪魔が視えていたとしても、ものの数秒で意識から消せるであろう男だ。
気にしないという術に長けている、昔取った杵柄か。
「では、失礼して……我が名は十八代目葛葉ゲイリン、貴殿の新たなる主の命に応え出でよ」
爆ぜるMAGの泡に包まれ、巨体が成される。
凪の隣に現れたのは、オニ。
鶏冠の様な突起が、軽く照明を掠め揺らした。
『おっ、んだ此処はぁ? 業魔殿じゃねえし、新しい御主人サマって云ってたよなぁ?』
「オニですか……」
『ぁんだよそのガッカリ系の眼は!』
「いえ、確かに真っ赤です……」
貰う予定のプレゼントが“赤い”という事を憶えていたのだろう。
しかし靴では無いのだよ、凪君。
「蛮力が不足していた様に見えたのでね」
「ううっ……ビンゴです。そのせいで踊り続ける羽目に……」
「趣味では無いかもしれぬが、僕が誂えたオニだ。 短期間でそれなりに鍛えたからね、即戦力になる」
「有難う御座います!」
「勿論、この後すぐに合体素材にしても構わぬよ?」
僕の言葉に、オニがおいおいと首を鳴らす。
再び揺れる照明が、壁に映り込む影を踊らせた。
「御安心をオニさん、来年の日の出は見れると思っていてくれてOKです」
『へへっ、いやいや……女っつうのは気が変わるかんなァ?』
来年の口約束なぞするから、鬼が笑っている。
返す様にして、安穏と微笑む凪。
つられて、次第にオニの嗤いが和らぐ。
そう、悪魔は鏡になる。 デビルサマナーの気質は、確実に影響する。
そんなにも微笑み合って、業魔殿の合体装置へと見送られるのか?
「確かに、ビルドアップされてる感じですね! こう、MAGがストーブの熱の様に!」
『其処にストーブ有るからって安直だろ姉ちゃん! でもまあ、悪い気はしねーな!』
「短期間での調整をしたそうですが、どの様なプロセス?」
『ライドウの手下と毎日の様にやり合ってよぉ、短期訓練ぷろぐらむだぜ』
「手下……?」
『おう、ヒョロいくせに生意気なんだよ! こないだなんて、容赦無く腹パンしてきやがったんだぜ? そんでオレ様ゲロっちまってよぉ』
「だ、大丈夫でしたか?」
『ゲロ浴びたソイツがマジギレして、周りの機械巻き込みながら暴れて大火事よ』
「ええっ、火事はすぐに鎮火されたのでしょうか!?」
『拡がる前にオレが色々ぶっ壊したから、全焼は避けられたぜ? いやーライドウの手下が、立つ瀬無ぇでやんの、ヒャッハッハ!』
まるで鬼の首を取ったかの様な云い回しをしているオニ。
実際には、僕が現場に到着してみればオニの首がへし折られる瞬間だった訳で。
眼を煌々と金に光らせた人修羅の腕を撃ち抜き、阻止をしたのだ。
「少し上に行く、凪君はゆっくりしていると良い」
僕は席を立ち、ストーブ傍のゴウト童子を踏まぬ様にして離れる。
これ以上此処に居ると、オニの声が煩い。
人修羅に立つ瀬が無かったのは事実だが、このオニも浅瀬の仇波の如し。
「年末に足を挫くとか、矢代君もツイてないね〜」
「そっ、それは……あの……靴の件で散らかした物に功刀さんはつまずいてしまったから、私のせいです」
「あらら……ん? って事は俺の新作《ツリー》が決壊してたのも……?」
鳴海の怪訝な表情が、僕に向かって来る前に脱せねば。
いちいち煩い為、不必要な部分は当事者が消えてから説明する予定なのだから。

上の部屋に向かうだけなので、室内履きの方に爪先を挿し入れた。
草履では無く、これは甲まで緩く覆う“沓”の形をしている。
廊下はキンと冷え込む。上階の踊り場の照明だけが、小さな月の如く暗がりに浮かび上がっていた。
『ねえちょっと、クズノハライドウ』
事務所の飾り窓を、コツコツと叩くはハイピクシー。
硝子越しに通る華奢な声は、オニの隣に居る凪には届かないだろう。
「何か」
『あのスープみたいなの、ちょっと舐めたわよ』
「お味は如何」
『何使ってんのヨ……? なんか、ぞわぞわすんの』
「不味かったかい?」
『今までつまんだニンゲンの料理の中で、一番美味しかった……ケド』
「葛葉同士だからね……御裾分けさ、フフ」
言葉を詰まらせる妖精、恐らく追求する気も無かったのだろう。
それか、おおよそ推測が出来ているか、どちらかだ。
「もう遅い、今宵は事務所に君の主人を泊めよう」
『ソファで寝ろって?』
「倉庫から長椅子を用意する、ソファと同じ高さだからね。
長椅子はやや固いので、渡す様に布団を敷かせる。 キルトを羽織れば立派な寝台さ」
『凪は人修羅の隣でいいじゃん、今上で寝てるんでしょ? 人修羅』
「男女が褥を共にするのは様々な可能性が有る、それに今の凪君は人修羅が完治するまでは傍に残らぬだろうよ」
『……男同士でも、シてんでしょ』
「サマナーは仲魔にMAGを与える必要が有るからね」
『だって、そんなのわざわざスる必要無いじゃ――』
カツ、とハイピクシーの顔面を爪先で叩く。 正確には顔面手前の硝子を、だが。
弾かれた様に窓枠から足を踏み外し、ふらりと落下していった妖精。
「枯れた大地に如雨露で水を撒くつもりかい? 雲を呼び雨を降らせ、濁流だろうが氾濫させてしまえば一瞬だろう」

階段を上り、扉の前で一拍置いてみる。
気配は判る筈だ、消したつもりは無い。
「用が有るならさっさと入れ」
板一枚隔てるだけだ、人修羅の声は主の僕に真っ直ぐ届く。
恐らく、普段の様にノックも無しに押し入る僕を想定していたのだろう。
僕が部屋の持ち主なのだから、それ自体に異常は無いが。
「お加減は如何? 功刀君」
「……あんた、いつまでごっこ遊びしてるんだ」
「ごっこ?」
「此処に戻ったら、真っ先に俺にMAGを流せば済む話だろ。 どうして俺の代わりに飯なんて作ってるんだよ、足が治れば凪さんの片付けだって手伝えたのに……」
寝台に横たわる人修羅の膝から下は、防寒用のショールが覆い隠している。
本来ならば爪先にあたる位置を、僕は手刀で叩きつけた。
一瞬肩を揺らす人修羅だったが、触れる事は無いと判断したらしく、躱す仕草は無かった。
「これでは未だ立てないな」
「見て確認すれば良いだけだろ。 何でそう、いちいち……」
朱いショールが撓み、マットレスが押し返してくる感触。
足首から先が無い事が分かった。
当然だ、僕は戻ってからというもの、殆どMAGを与えていない。
失った部位を手早く再生するには、素材が必要となる。
回復の術や道具を使ったところで、治癒がやや促進されるのみ。
「折角僕が作り凪君が運んでくれたのに、残すのかい」
「……食欲が無い」
「フフ、何を云ってるの、そんなもの特に無いのだろう……」
寝台傍の卓上、半量も減っていない雑煮が有った。
すっかり冷めたのか、薫りを運ぶ湯気も無い。
「ごっこと云えば、君こそ人間ごっこが好きではないか」
「乗らないからな。 靴のさせた事とはいえ、踊り疲れてるんだ」
「しかし味覚が薄いとはいえ、風味はおぼろげに感じ取れるのだろう? 僕の手料理が忌まわしい?」
「誰も不味いなんて云ってないだろ! そんな事じゃない、違う……なんか、おかしかった」
「不味くは無いが、おかしい味とはこれ如何に」
言葉を探しても見つからぬのだろう、適した例えが。
人修羅にとって未知の感覚だとすれば、僕にとっても同じく未知。
ただ、憶測というよりは推測だと豪語出来る。
あの雑煮のダシは、君の骨なのだし。
それを知るのは僕一人だから。
「もうどうだっていいだろ。 はぁ……あんたが斬り取った足先が有れば、くっつけてそれで良しだったのに」
溜息で流したつもりの人修羅が、不貞寝の如く身を沈めた。
軽く軋む寝台。撓むショールは、間延びした皺を作る。
爪先が無い、思う様に蹴る事も叶わぬ姿。
不自由。
「……おい、あんたは何処で寝るんだ」
「凪君と同室では、君が煩いだろう?」
「俺のせいにするなよ」
「所長は自室、君は此処、凪君は事務所」
「あんな広い部屋に……冷え込まないのか」
「ストーブの番を童子に頼む、それに彼女のハイピクシーも居るからね」
「……だから、あんたは何処で寝るんだって訊いてる」
普段はそんな事、逐一確認しないくせに。
ボルテクス界に居た頃も、休憩地よりふらりと出歩く僕を気にも留めず。
天輪鼓の影から、金色の視線だけを向けてきていた。
「この部屋が誰の物か、知らぬとは云わせないがね」
「だったら……俺にMAGを注げ」
此方を見る事もせず、本棚に顔を向けたままだ。
僕の顔を見れずに済むのなら、どんな背表紙だって受け入れるのだろう。
「早急な回復を、僕は命じておらぬけど」
「この調子だとあんた、俺を負ぶってでも引っ張り出すだろ」
「さて、どうだろうね」
「凪さんが居なかったら、即行で治させてる筈だ、絶対そうだ。あんたは俺の面倒を看る姿を、凪さんに見せつけたいだけだ」
「クク……随分と直接的な事だ。 人はそれを憶測と云うのだよ、功刀君」
「だって、前に俺が足を削った時、あんたは俺の面倒看てくれてた凪さんを追い出し――」
掴んだ前髪は、脂っぽさも無い。
その代謝の部分的な乏しさに、僕は安堵する。
あれだけ踊り狂った身体も、悪魔であればこその冷たさを湛えている。
「僕が何をしたって?」
「い、たい……手、放せよ」
「彼女には彼女の役目が有る、君は誰と接しているつもりなのだい? 彼女は葛葉四天王の一人なのだよ、介護人では無い」
「あんただって、そうだろっ……」
「各々の持ち場に戻るべきなのさ、甲斐甲斐しく使役悪魔を世話する僕に文句が吐ける筈なかろうね、だって、前にそれをしたのは己とて同じなのだからさあ……フ、フフ」
人修羅の前髪を掴み上げる僕の手首が掴まれる。
その掴んでくる君の手首を、もう片方の手で掴む僕。
「嫌がらせかよ、同じ葛葉相手に……最低な野郎」
「あれで君が世話を焼いてもらう快感を覚えてしまったら、それこそ重罪だ」
「そういえば、こうしてあんたに世話してもらっても、全然嬉しくないな」
「へえ、それではもう止めにしようかね、ごっこ遊びは」
眉を顰める人修羅の後頭部を、枕に押し付けた。
やや乱れた黒髪の隙間に、僕は舌を挿し込む。
「あっという間に爪先まで生やしてやろう。 下に聞こえぬよう、せいぜい声を殺す事に専念し給え」
呪いを囁きながら、軽く耳朶を舐め上げた。
引き攣った様に呻いた人修羅が、一瞬頬に斑紋をうつろわせる。
まだ触ってもいないのに、与えられるMAGの予感に身が震えるのだろうか。
いじらしく、貪欲な奴め。
「ああ、その前に」
するりと離れる僕に「は?」と声を上げる人修羅。
一人分の重量に減った寝台が、今度は安堵に啼く。
怪訝な表情で振り向く君の、その視線は責める様なものであり。
おあずけを喰らった畜生の如し。
「凪君の寝床の為に、倉庫から長椅子を出さなくてはね」
「…………ほら、だから俺の足が有れば……その程度、さっさと済ませてやったのに」
「倉庫には椅子の用事も有るが、一時的にあの靴も仕舞ってある。 札を今度は直に貼ったから大丈夫だと思うが、大人しくしているか確認しなくてはね」
視えぬ尻尾を振る気配に、鼻で笑ってやる。
施しを受けたくないと吐きながら、餌待ちの犬猫状態。
態と倉庫整理でもして、焦らしてやろうか。
そんな案を拗らせながら、僕は部屋の扉を開け……ようとしたが、ノブに触れたまま一時停止する。
扉から足音を立てて離れ……そして唐突に戻り開け放った。

「いったぁ〜い」
「こんばんは、ミス・アリス」
「メリークリスマス! 夜兄様!」
強かに額をぶつけたアリスが、満面の笑みを浮かべている。
そうだ、倉庫には彼女の“ベッド”が在るのだ。
祭に浮かれた時期は警戒すべきだった、この童女は暇を持て余しているのだから。
「あのね、本当にクリスマスになるまではベッドに隠れてようと思ったんだけど、なんか今日バタバタしてたでしょ? 騒がしくて起きちゃった」
「我慢出来なくなっただけだろう? それに、聞き耳を立てる理由にはならぬ」
「ねえねえ、続きはぁ?」
「僕の肩越しに見たら良い。 きっと布団に潜り込み、本格的に不貞寝している筈だから」
「えぇ〜つまんないっ」
地団駄を踏むアリスの足取りが妙に軽快で、僕は警戒した。
よくよく見れば、その爪先は……
「ねえ、これ可愛いでしょ? 円いトゥ、ちょっと太めのヒール、クロスストラップ、つやっつやのレザー♪」
「倉庫の備品を勝手に拝借するとは、躾がなってないね」
「よく分かんないシールがべたべた貼ってあったけど、剥がしちゃった。 ちょっと指が焦げちゃったし、ねえディアして誰かぁ」
「君こそ傷などモノともしないだろうに、唾でもつけておけば宜しい」
「夜兄様、なんかつめた〜い」
制御しきれていないのか、歩き出せばどこかそわそわした足取りのアリス。
それでも踊り出さないとは……靴が力を失いつつあるのか、はたまたアリスの念力が捻じ伏せているのか。
十八代目を持ち場に帰すと云った傍から、引き留めたくなった。
アリスの遊び相手を、彼女に押し付けてしまおうか。
すぐにでも人修羅の足を生えさせて、クリスマスの銀楼閣は不在を決め込もうか。
「良いから、さっさと其れを脱ぎ給え。ヤタガラスに分析させるのだから、まだ譲れぬよ」
「ねえねえ、銀楼閣ちょっと傾いてない? 身体がよよよって一定の方向に引き寄せられちゃうんだけど」
「その靴の仕業だよ、ほらミス・アリス。 赤い靴という歌を知らぬのかい? 異人に連れ去られるよ」
「もうとっくに攫われてるわよ、それにあれって此処のお歌でしょ? アリスだって、ニホンジンからしたら“イジン”さんじゃない」
軽やかに僕の腕から逃げるアリスのブロンドが、暗闇に光る。
観念したのか本気でないのか、今度は自ら外套に飛び付きじゃれついてくる。
さて、いつ頃人修羅にMAGを注ぐべきかと思案し始めた僕。
しかし、後方からの言葉にその思考をかち割られる。

「あれって“良い爺さん”じゃなかったのか!?」

布団から這い出した人修羅、それを見つめ静止する僕とアリス。
赤い靴の足下だけが、押し殺した笑いの様に小刻みに床を叩いていた。


-了-

* あとがき *
しょうもない内容なのに、無駄に長くなってしまいました。
しかも既に年末どころか新年…一月の半ば。
相変わらず、凪ちゃんに喰わせるのが好きみたいですね(自分が)

アリスの寝床に関しては、SS【三月狐のお茶会】を御覧下さい。
人修羅の云う「前に俺が足を削った時」というのは、SS【止まれ、お前はとても美しい(全三話)】を御覧下さい。