とってこい

 
 「とってこ〜い!」

ざくざくざく、駆け回る二つのはしゃぎ声。
少年と犬の戯れ。

 「よしよし、いいこだぞ〜ヤシロ!」

その名に、思わず脚が雪を啼かせる事を止めた。
「犬にヤシロと命名する事が、今日び流行っているのかな?」
云いつつ傍で鬱蒼と哂う影を通り越し、視線をその向こうへと流した
白い景色の中、白い息を吐いて笑い合う犬と、着物の少年
撥ねた雪が、着物に白い霞柄を掛けていた
「…あんたはたった二件で流行を断定するのか、性急なこって…」
「おいおい、君こそ、そう急ぐなよ功刀君」
「煩いな…今は寒いんだよ、悪魔じゃあるまいし」
「そもそも君、二件の内に己を認めているではないか、ククク…可笑しい奴だねぇ」
紺色の袴を捌いて、やや大股に雪下駄を喰い込ませる。
背後からの声に苛立ち、持たされた戦利品の鞄、その持ち手を強く握り締めた。
中で転がる魔晶の音すら、哂い声に聞こえて、俺を罵るかの様に。
「功刀君、そんなに急ぐと」
「うっさいなライド――…っ」
額に衝撃。軽いが、あまりに急で身体が反応出来なかった…
咄嗟に瞑った眼で視界が白から黒へと反転、指先から放れた鞄の重い音が続く。
「ほら、云ったろう?」
尻餅まで着いて袴の尻を濡らす俺を、上から見下ろす男。
高い身長はすっぽりと俺を覆い隠す影を作って、その気配に身が凍る。
「ごめんねお兄ちゃん!」
駆け寄ってくる少年。それよりも先に、犬が俺の傍で旋回していた。
あうあう、と、落とした衝撃に開いた鞄…其処から零れ出た宝石達が気になる様。
俺の額に直撃した棒切れなど、既に眼中に無いらしい。
「こらっ!ヤシロ!それはお兄ちゃんのだからひろっちゃダメ!」
柴犬だろうか、雑種か…そんな平凡な干草色の犬に叱る少年。
その声は俺を思ってだろうが…正直、名の所為で、とことん惨めな気持ちになる。
ああ、もう、その名前で呼ばないでくれ。
「ごめんなさい、ウチのヤシロ、他に気ぃ取られちゃうと一直線で」
「…そう」
そう、としか返せず、とりあえず散らばった魔晶に指を伸ばした。
雪に隠れるそれは、砂場に隠したおはじきや、ビー玉を髣髴とさせる。
「わぁ…キレイだぁ…これなあに?」
犬のヤシロを足下に、少年は臆びもせずに雪を掻き分ける。
指先の柔らかさからだろうか、すぐに赤く染まり始めている…それを見て。
「冷たいよ、見たいなら…俺が拾ったのを見せるから」
さく、と、自分の指で、その汚れの無さそうな幼い指を、やんわり退けた。
「犬も歩けば棒に当たる、か」
方々に散った魔晶の欠片を既に集めたのか、呟き哂いながら、ライドウが少年に寄った。
「良かったねえ坊や…これでひとつ言葉を覚えたろう?」
一瞬俺を見て、それから少年の目線に屈む。黒い外套が雪に鮮烈な影を作る。
「ことば?」
「フフ…その愛犬が飴と間違えぬ様、しっかり保管し給え」
「え?」
「袖を御覧」
傍のヤシロがわうわうと、少年の小袖を食んだ。
万歳をするかの如く腕を上げた少年、その質量に違和感を覚えたらしい表情。
「あ〜っ!なんで?いつの間に!?」
隙間から出てきたのは、がま口でもなければ手袋でもない
魔の輝きを放つ宝石。
(子供相手に気障な真似してんじゃねえよ、外面男が)
残りを拾い終え、鞄を閉じた俺。やはり納得がいかない。
そもそも俺を散々叱咤して集めた魔晶だろうが、ああも簡単に…子供に…
「ありがとう、黒いお兄ちゃん!」
「その犬、もっとよく躾するのだよ?」
いい終え、少年の目線から…更には俺の目線すら越えて、上から…
「では、行こうか…“ヤシロ”?さっさと立ち給え」
犬畜生を見る冷たい眼で、俺を見つめた。





「ぁ、っ、あ〜…っぐ」
食い縛る歯の隙間、吹き抜ける悲鳴が自分でも煩い。
「犬、ねぇ…フフ…」
「は〜っ…は〜っ」
「だらしなく舌を垂らす所なぞ、瓜二つではないか…ねぇ?」
その揶揄いに舌打ちすれば、いっそう後孔にめり込む冷たい棒。
「っ…はひ、ぃっ」
「ずるずる、ずるずるずるずる……こんなに慣らしているのに、如何して解れない?」
「あ、んたイカれてる、だろ…っ…其処、は…ソレは…」
「こんな行為に使用すべき処と、物ではない?」
袴は、既にシーツと絡まって、寝台の端に丸まっている。
暖房すら無い、寒い筈の部屋で…どうして俺は裸なのだろうか。
どうして寒くないのだろうか。
「君から抜いたこれ…何も汚れない…染まっても鮮血のみ…羨ましいねぇ、その身体」
「っ…う…ぐ」
ずる、と、刻みが壁を引っ掻いて往く。
「既に排泄器官としての役目を忘れたのかな?」
「あ、ゃ」
端まで抜かれたかと思いきや、また往復する。
なあ、どうして、こうしている?
あれから、この建物に戻ってきて…俺は炊事という役目を終えて…
それから…それから?
「知っている?これ、マーラの管なのだよ」
その悪魔の名前に、全身が波打った。嫌悪感が汗の様に噴出す。
「…ん、な、下劣な、モン、入れるな…ッ」
震える声を奮い立たせて発せば、項の突起にぐりりとあてがわれる銃口。
感触で解る…こういう時に持ち出す小型銃だ。普段のリボルバーより殺傷力は低い。
そう頭で理解しつつ、何故俺は押さえ込まれているのだろうか。
魔晶を選別するライドウの指先が、何時の間に俺の肌の斑紋を辿り始めた?
おかしい。俺はこんな行為、望んでない、赦してない。
「魔羅は坩堝の欲を掻き出す為に在るだろう?」
「それは、管、だろうがってめ…っぁあ゛ぁああ!!」
くぷん、と胎内に押し込まれた召喚器。
長いそれが直腸を占拠しているのを想像するだけで、吐き気がする。
俺と違い、黒い学生服を纏ったままのライドウは、哂って宣告した。
「文句が多いから、少し芸の特訓でもしようか?忠誠心の教育…ククッ」
跨がれていた脚は折り進められて、更に尻を突き出す体勢をとらされる。
どうしてか勃ちあがっている俺のアレが、頭を寝台のマットに擦り付けて…
薄皮の捲れた先端で必死に…一体何に謝っているんだ?
そんなにとろとろ涙して土下座するなら、俺に謝罪して欲しい。この身体そのものである俺に。
「さあ、排泄し給えよ、功刀君」
身の毛がよだつ、その主人からの命令。
「人間の真似、好きだろう?だから今こうして与えてやっているではないか…真似する機会を、ね」
「っう…うう、う、や、だ」
「ま、排泄物はマーラ入りの管だが…クククッ」
俺は指先に一瞬焔を燻らせたが…何故か止めてしまった。
今、脳が選定したのは、報復の痛みより一瞬の恥だとでも云うのか。
それとも…この倒錯的な行為に、微少たりとも…何かを見出している?ありえない。
「俺は…ライドウの、犬じゃ、ない!」
口はただただ、俺の信念に基づいて、認めない、このデビルサマナーを。
「…云う事が聞けない?」
項の悪魔の証に、ぐ、と主張してくる銃の口径。
奥歯を噛み締めたが、其処に弾丸が埋まることは無かった。
だが、しかし…そんな安堵を一瞬で消し去る、酷い台詞が俺を襲う。
「胎でマーラが喚ばれたなら、君はどうなるだろうねぇ…」
「…は…っ…」
「流石に人修羅と云えども…己の股座から巨根に喰い破られては、ひとたまりも無いだろうね?」
「糞ッ、糞野郎がッ…ぁ」
「その可愛らしい男根が御立派に生え変わるのだから、寧ろ感謝して頂きたいな」
クククッ、と、嘲って俺のアレを握ってきた。
悪魔に成ろうが、やはり急所には違いない其処を掌握されて、抵抗の意識が遠のく。
ゆるゆると、ぐいぐいと、じゅぷじゅぷと昇華していく摩擦。
「ほら、早く出して御覧」
背後に当たる、制服の硬質な布地。耳元にかかる冷たい吐息。冬の呼吸。
「あと十秒」
「んっ、んぁ」
「君の中でマーラを召喚するまでの残された刻」
哂って続けるカウントダウン。ライドウの指先には脅迫めいたMAGが滲み始めた。
「悪魔だから、再生するだろう?…六…五…」
「ひっ、ば、か、馬鹿だろあんた!何、ふざけた」
「蘇生術の道具なら机の引き出し…三…二…」
俺を嬲るこの男に、今まで冗談なんかあったか?
「…一」
「待て…っ!」
背に覆いかぶさる影を振り向き、その濡れ羽色の黒髪を引っ掴んで、耳を寄せた。
顔を見たくないから、遠くの窓を見つめて吐き出す。
「…出、す…出すから、これ以上…っ…」
「焦らすな、と?」
「違…」
口ごたえの瞬間、小気味良い音が部屋に響いた。
ライドウが、俺の臀部を強かに掌で打ちつけた音。羞恥が込み上げる…腰が震えた。
「…っ…ぁ……はぁ…ぅ」
後孔の内壁、筋肉を収縮させる。そうただそれだけだ、意味を持たない持たせない。
俺は排泄行為をしていない、これは…違う。
「君、排泄の時…毎度そんなに扇情的な喘ぎを漏らすのかい?クク…」
背の圧が消えた。恐らく観察してる、収縮する其処を…悪趣味野郎が。
「早く、済ませ…たぃ…だけ、だ……ん、ぁ、ああ」
中で、管が流動する。一気に押し出す瞬間、先端の輪が壁に縋りつく。
その爪痕が神経を直通して、過敏に反応していた俺の分身を叱咤した。
脚の爪先から、びくびくと駆け上がる、背徳と嫌悪の蟲達に埋め尽くされてしまう。
頭を枕に突っ込ませて、その巾を噛み締めた。
「…!」
が、声を零さぬ意図が裏目に出た。俺は、その突っ込んだ先から薫る白檀に…
「っひ、ぁ、ああぁあぁーっ!」
全身で反応する、怨めしいこの身体。
ずりゅ、と抜け落ちる感触と、その薫りに連鎖して、股に熱い飛沫が散った。
「…待ても出来ずに粗相するとは…っく…あはは…本当に、躾が必要だね“ヤシロ”?」
音がした、からり、と、黒鳶色のフローリングに落ちた音。
からからと、俺の生み落としたソレが和洋折衷な空間を転がった。
「とってきてよ」
崩れ落ちた俺に、容赦なく降り注ぐ声。あの少年とは、大違いだ。
「ほら」
ぐい、と顎の下に裸足の爪先を差し込まれ、面を無理矢理上げさせられた。
絞まる喉から吹き抜けるくぐもった呼吸が、やはり煩くて。
ライドウの整った綺麗な爪を砕く勢いで、俺はその指ごと噛み付いた。
「ぁが――……ッ」
瞬間、口内を抉る様にして蹴り飛ばされ、視界が流転する。
気付いたら俺も床に転がって、傍には濡れ煌く管が在った。
「フ、フフッ…早く拾い給えよ、召喚した魔羅で犯されたいのかい…?」
ライドウの声は微かに震えていて、俺をそれより震わせる。
きっと、俺を躾する理由を、俺が自ら生み出す事に歓喜している…
どこまで鬼畜なのだ、このデビルサマナー…
あのおぞましい姿の魔王を脳裏に浮かべて、己の意識と裏腹に指を伸ばす。
ぬらりと艶めく管に届こうかと思った、その時。
中に響く音。ちょうど、後孔を抉られるのにも似た様な。
「っふ…ぁ、あああああぁ〜ッ…あ」
銀色の召喚器を掴まず、床板を掻き毟った。
ぐちゅ、と、掌の孔からどくどく噴き出る赤い泉が水音を立てているのに
別に大したことも無い様子で、ライドウの声がそれを掻き消す。
「犬は手で拾わぬだろう?咥えてとってこい」
視界の端の姿見に反射した月光で、寝台の上が見えた。
がちゃり、とサイレンサーを銃から外し、サイドチェストの引き出しに放り込んでいる。
今しがた、音を最小限に留めて俺の手の甲を撃ち抜いたのだ。
「く、そ…くそっ…下衆が…!悪魔…がぁ…っ」
赤い手で胎を抱えて、俺は管に喰らい付いた。
吼えると、噛み付くと、躾されるから。
痛みに眼元すら歪むが、睨む事すら止めれば、本当に俺は犬になってしまいそうで。
無心で咥えて運び、寝台の上にソレをぶっきらぼうに放った。
先刻蹴られた際に口内が切れたのか、赤い汚れが付着して、シーツを染める。
「ふぅん…やれば出来るじゃないか」
「……満足…かよ、変態」
そう吐き捨てれば、ライドウは口の端を吊り上げる。
あの哂いに、俺はボルテクスの頃から支配されているのだろうか…背筋が凍る。
「御褒美を与えなくてはね」
「え…」
「管では満足出来ぬだろう?」
声も出ない俺を、寝台に引き摺り上げる主人。
「ふざけんな、てめぇ!何も、何も良くないっ!嫌だ、やっ、あ、ああああぐ」

犬みたく啼かされて、犬みたいな体勢で、犬みたいに粗相させられた。





『こんな早くから洗濯か?お主も苦労するのう、人修羅よ』
「…一応、居候ですから…」
人修羅なのに、眼の下が落ち窪みそうだ。
宵も明け、吹雪いてないのを確認して屋上を行き来する。
白い空に、白く洗い上げたシーツをぱん、と払う。
微かに舞う水気が、湿った昨夜を彷彿とさせる。
ぱん、ぱん、ぱんっ
「…」
何度やっても、一瞬で乾燥はしない。
『…おい、人修羅』
傍の黒猫が口を挟んだ頃には、掴んだ端から裂けた音がした。
「…あ」
『おいおい…大丈夫か?寝不足…というものは無いか?人修羅には…』
「繕えば平気な程度でした」
『そういう問題か?』
「良いんですよ、これあいつのですし」
自分の色んな液が付着したそれを、ボロボロの身体で洗う俺を知りもしない癖に。
この黒猫、あの男の一番酷い瞬間を絶対知らない。
俺しかきっと知らない。
『屋上くらい人目が無いのだ、擬態解除すれば良かろうて』
「好きにさせて下さい。俺のお目付け役じゃなくて、あっちを躾して下さいよ本当に…」
こうして、冬の早朝に濡れた洗濯物を干す…かじかむ指先に、人間を感じる
吐く息の白さに、人間を感じる。
冬の呼吸…
(あいつ、今日発つのか)
確かに、いつも酷いが…昨晩は徹底していた。
法則がある。あの男が、俺を酷くして愉悦する周期が。
「ゴウトさん、ライドウって今日、報告に向かうんでしょうか」
空になった籠を掴んで、薄く積もった雪絨毯を歩む黒猫に問う。
『おお、よく分かったな…今日、里に向かう予定だ』
ああ、やっぱり。
鬱憤晴らしか、里帰りの前後は酷い。
業魔殿送りにされた事もあるので、本当に…逆らうタイミングを見計らう必要がある。
「分かりますよ、だって機嫌すっげえ悪いですからね」
『そうなのか?』
「ちゃんと見てます?もっとしっかり監視して下さいよ」
『ではお主が畜生如く扱われる様を視姦しろとでも云うのか?』
息が詰まる。
『冗談きついわ…ハッ』
ミャウ、とひと鳴きして、肉球模様を連ねて扉の隙間を潜って往った。
(…なんだよ、それ)
籠を抱えて、立ち尽くす他無いのか。
畜生に畜生と云われた事に、えも云われぬ羞恥に佇む。
どうして俺が、今こうして居るのか。
こんな立場、一寸たりとも、赦したくないのに、本当は…本当は人間なのに。
「功刀君」
ぎぃ、と隙間が広がる。前方からかかる声は、昨晩俺を苛んだテノール。
「僕はこれから里に向かう…いつも通り君は留守の雑務を……」
屋上風になびく黒い外套、学帽の下から覗く視線は、俺を射抜いている
「…どうした、功刀君」
籠を横に放った。ころん、と肉球柄の上から網目模様を刻んで廻る、転げる
さく、さく、と、下駄で歩み寄る。その、胸元だけを見つめて。
警戒しつつも、きっと対処出来ると思っているのだろう、俺が今、人間の形だから。
「ライドウ…」
幽鬼みたいに揺らめいて、その胸元に、両腕をそっと伸ばした。
「何か」
「…管に封じられたら、俺は犬にならなくて済むのかよ」
ホルスターの金属を、継ぎ目を、ベルト穴を指先に撫そる。
「管に…!」
ライドウの指が追ってくる前に、先刻から目に付く一本に指を掛けた。
普段の面子が入らない、入れ替わり立ち代りに納められるその場所に在る管。
先端の輪で引き抜き、急いで駆け出す。
「功刀っ」
「こいつ等よりも立場が無いのかよっ」
荒い呼吸、白い息が霧の様で、それを掻き分けて端の柵までもんどりうってなだれ込む。
ぜえぜえと俺の声、すぐ後ろからライドウの叱咤。
「返し給え!」
影が雪に映り、俺の腕を捕らえようと突き出される。
その鏡を見ながら、避けた俺は大きく着物の袖を振りかぶった。
「こんなのに封じられる悪魔ごときにぃッ!」
白銀に飛ぶ銀色、薄い陽の光を反射して一瞬見失う。
だが、すぐに軽い水音が響いて、それが水路に落ちた事を明白にした。
氷が張らない水路、運が悪かったな。
何処か妙な期待に疼く胸を片手に押さえつけ、俺の腕を掴みあげるライドウを見上げた。
どんな顔、してるんだろうか。
また虐めるきっかけが出来た、と、哂うそれか?
率直に切れて、イラついた時のそれか?
「なんだよ…ほら、さっさと云ったらどうだ?とってこいって――…」
云いつつ見上げた先、ライドウは…
どこか、青ざめていた。
掴みあげていた俺を突き放し、踵を返して扉に駆けて往く。
柵に寄りかかったままの俺は、妙な動悸が止まらない。
「…ぉ、い……おいっ!?」
後ろ姿が消えない内に、ざくざくと踏み越えて、階段を駆け下りた。
開いたままの銀楼閣の扉を押し退けて、ちらほらと行き来する人の中に黒い影を捜した。
「ライドウッ」
ぎょっとして俺を振り返る人の群れ。もう、人の出蔓延る刻限になったのか。
水路の流れを見て、それに沿って袴を捌く。流れ着く先は…
「何してんだあんた!」
丑込め返り橋で、外套をばさりと欄干に掛けた書生。
帽子をその細工の上に引っ掛け、片手を着いて、乗り越えた。
唖然とする通行人を後目に、真冬の水路に一際大きな音が舞う。
人を掻き分け、其処へと躍り出た俺は、気を乱して悪魔に戻りそうなのを必死に抑えつつ、叫んだ。
「どうして…っ」
俺に拾わせろよ、俺が放った物だぞ、それは。
俺を叱咤もせずに、何故お前がとってこいを云われる側の如く…
「お、あ、上がったぞ」
傍の中年男性が声を発して、俺はハッとしてその先を見た。
黒い学生服をいっそう重苦しい色に濡らしたライドウが、浅い箇所に上がってきている。
安堵したのか、土左衛門が見れぬと興醒めしたのか、人は勝手に掃けて往く。
欄干の外套と帽子を手にし、其処へと駆け寄った。
「お…い、あんた」
石造りの小さな土手に這い上がり、俺を見上げたその眼が…
「…何」
酷く冷たい。
「あ…あんたが、率先して飛び込む必要、あったのか」
俺に行かせろ、なんて絶対云わないが、それをとりあえず聞く。
すると、ライドウは少しよろめいて、睫毛の先から雫を滴らせて呟いた。
「本当に引き戻したい物を…他者に任せる訳、無いだろう」
張り付いた黒髪を掻きあげて、舞った雫が矢の様に俺を射る。
その言葉に、俺の魂が射られる。
「それ、持ったまま、銀楼閣に来い…」
歩き出すライドウのホルスターに、あの放った管は無い。
その手にしっかと握られ、冷たく輝いていた。
俺は外套と学帽というありふれた物体を持たされ、呆然とその後に続くしか、出来なかった。




「珍しいね、ライドウが風邪ひくなんざ」
「…です、ね」
「あいつ、結構無理するからねぇ……お、美味しそう〜」
「ただの粥ですけど」
「風邪の時は胃に負担かけちゃいけないからね!絶対それ一択だって」
お玉を持つ指先に、粥ですら重く感じる。
…当然だろう、雪の中、水路で失せ物捜しなんかすれば…
人の目があったから悪魔に行かせなかった?いや…違う…
脇目も振らず、一直線にあの管に走った、あの男。
あの管、何者が入っている?
そこまで衝動的に走らせる悪魔が、いるのか…あの中に。
「じゃあ、俺、とりあえず持って行きます」
「ん、暇そうなら話し相手になっておやりよ、染されない程度にね〜」
葉巻を咥えて、新聞を数部手にした鳴海が席に戻る。
…正直、持って行きたくない、というより顔すら合わせたくない。
しかし、此処の主が云うのだから、俺は粥を作って持って行かなければならない。
盆を片手に持ち直し、ライドウの部屋の扉を空いた手で叩こうとすれば
「入れば」
一枚隔てた声音。それにひとつ深呼吸して、開け入る。
「鳴海さんが作れって云うから作った、喰いたければ喰え…」
サイドチェストに不躾にそれを置く。
寝台のライドウは、新しく替えたシーツの中、滅多に見ない寝着姿でジロリと俺を睨む。
続いて粥の白い湯気に視線を移し、一言。
「目障りだ、退けてくれ給え」
瞬間、脳天にカツリと来て、口が勝手に云い返す。
「喰わなきゃ良いだけだろうが、わざわざ…っ」
「余計な事をしてくれるな」
「…っ…」
寝込んだ母親に初めて作ってあげた、思い入れの強い物だっただけに、腹立たしい。
喜んでくれた顔が忘れられなくて、次第に料理を覚えていったものだ。
だがそうか、この男にとっては、余計な事なのか。
「勝手に…しろ…っ」
盆ごと引っ掴んで、背を向けた。
この苛立ちの矛先が無くて、まさか病人のライドウにぶつけたという事実も作りたくなくて。
即座の退散を試みる。
隙間を開けたままの扉に爪先を差し込んだ瞬間に、器の中が大きく波打つ。
「な…」
ぐわんぐわんと踊る盆。零れた白い粥が、板目に沿って流れ出る。
ライドウに、押し倒されていた。
「…嫌いなのだよ…このドロドロした白い米!」
零れたそれを、転がっていた蓮華に無理矢理掬って、俺の唇に押し当てこじ開けた。
「あ゛―――ッ!!」
冷ましもしていない灼熱のそれを、人に擬態したままの俺に流し込む。
焼け付く口内、まるで溶岩。
熱さが痛みになるその温度に、脚を必死にばたつかせたが、妙に血気迫るライドウは退かない。
「ああぁ!ぅ、うううがふっ、ごぽっ」
「こんな熱を孕んだモノを病人に喰わせて、本当に…貴様等は」
腕を脚に押さえ込まれたまま、込み上げる熱に涙が滲んだ。
すると、ふっとその圧が消えた。
「ライドウ…!」
何時の間にか、割り入って来たその人影に、ライドウは掠め取られて往く。
パン、と、横っ面を引っ叩かれたライドウが、机の横に転がった。
見れば、その手を震わせて、自分でも驚いた顔をしている鳴海が居た。
「…あ、悪い…」
その手を握り拳にして、しかし威勢は失くさず続ける彼。
「ライドウ、喧嘩が悪いとは思わないが…これは喧嘩か?」
「…いいえ」
「お前の過去はこの子には関係ないんだ」
俺を抱き起こして、ぴしゃりと云うその姿に、俺は哀しくなった。
何故だ。
「要らないにせよ、また冷たい云い方したんだろ?」
「ご想像に、お任せします」
「…って、そうそう…実は」
俺の周りに散乱する物を拾いつつ、鳴海は渋い顔をした。ライドウを叩いた時より、渋い。
「断りきれんかった、ライドウ…里に来いだとさ」
云われたライドウは、机を支えにしつつ起き上がり、鬱蒼と哂った。
「でしょうね…風邪なぞ、此方の責任ですから」
「何云ってんだ、責任を感じるとすりゃ、お前の場合肺癌だろ?」
「フフ、です、ね…」
「ってそうじゃない!…ヤタガラスめ、病人を引きずり出すなんざ…気が知れないよ」
大丈夫?と俺に優しく微笑む鳴海に、口元を押さえつつ相槌する。
「あ、矢代君、良かったらライドウに付き添って行ってやってよ」
ひくり、と、俺の頬が一瞬引き攣った気がする。
「里まで結構距離ある様子だし…喧嘩する程の間柄なら可能だろう?ね?」
優しいのか残酷なのか、分からない…この大人。
溜息と同時に、ライドウをちらりと見てみた。
普段よりも血色の良い肌色が、人間らしかった。




「まさか、鳴海さん、同行者を付けると…口走っていたとは、ね」
「…別に、俺も報告する訳じゃないだろ?門で待ってれば…」
「君は面が割れているのだ、人修羅とバレている…此処の一部には、ね」
一部、とは…お上だろうか。
「ほら、ね…」
門を潜れば、黒い装束が招く。
俺の為の、首輪を持って。

「しかし、此度は犬に先導されて参ったか十四代目」
「悪魔に介護されるとは、情けなや」
くすくすと猥雑な嗤いがこだまする、広い、高い空間。
灯篭の灯が、磨きこまれた板に反射して、鏡面の様な床。
俺の首から伸びる紐は、ライドウではなく黒装束が掴んでいた。
それだけなのに、酷く、気持ち悪い。
擬態を解除させられて、わざわざ項の角を穿って、その紐を通されたのだ、体が…重い。
四肢が床を這う、まるで、本当に犬になった気分だ…
「十四代目」
先刻から、報告の内容は俺の耳を通り抜けるだけで、脳に刻まれない。
「はっ」
「しかしその人修羅、本当に管に入らぬのかえ?」
「…その様な、類の悪魔に御座いませぬ故」
「試してみようか」
奴等が黒い袖で口を隠して嗤うと、それに連動して俺の項が引き攣る。
「ほれ、空き位つくってあるだろうて、一本差し出せ」
管の事だろうか、そのややしわがれた指をすう、と突き出した老烏。
頭を垂れたままのライドウは、上目に確認して、述べた。
「…いえ、有りませぬ」
「そんな筈無いだろう、此処ではその様に教えておらなんだ」
数人が、跪くライドウに近付いて、その胸元を必要以上に弄っている。
その光景に吐き気がして、思わず目を背ければ、紐が揺れた。
きっと、俺の困惑に嗤っているのだろう…変態集団め。
「この管、永らく輪が廻っておらぬ様子…?どうなのだ?十四代目よ」
散々体を這い回ったであろうその指は、まさしく、あの管に到達していた。
あの、俺が投げ棄てて、ライドウが入水してまで取り戻した管。
「それは……」
あの、よくもぺらぺらと廻る口車が、廻っていない。
熱の所為なのか、他の理由が…あるのだろうか。
「それは、お止め下さい」
空気が変わった。ライドウが、額を床に擦ったからだ。
「その管は、お止め下さいまし」
どうして、そんな事云うんだ?相手の術中に嵌る、浅はかな俺を見ているみたいだ。
ニィ、と口元を歪めるお上達に、虫唾が走った。
「そうか、コレはアレの管か!まだ持っていたのかお前は!ははは!」
何の事か解らない俺は、そのまま置いてけぼりを喰らうと思っていたのだが。
「ひぎィ…ッ」
凄まじい痛みに、のた打ち回った。
首の突起から繋がれる紐を、ぐいぐい引かれる。
「おい人修羅よ、この管を咥え持て」
ぽん、と放られて、板の間を転がる管。デジャ・ヴ。
「ぅ、ぐ……」
よろりと四肢を動かせば、絶妙なタイミングで引かれる紐。
俺は、馬鹿な犬みたいに、ひたすら管を追う事しか出来なかった。
ああ、そうか、此処では…俺にも、ライドウにも、人間としての尊厳なんて…与えられないのか。
いっそ全て破壊してしまおうか?そんな夢想に囚われるも、それは本意では無い。
それは、野望をも打ち砕くから。今は、出来ない。俺も、ライドウも。
「はっ…はっ、ぁ…く…っ」
酷いジレンマ。
「ほほ、十四代目と人修羅と、どちらが上手いかの、この芸は」
視える、同じ事をされていた、ライドウが、脳裏に。
「そんなにもあの管が大事なれば、犬に“とってこい”させねばなぁ?」
苦しい、もう、喉が血で、張り付いて呼吸がままならない。
下肢に襦袢が絡みついて、肌も露わの俺を…ねめつける視線達が痛い。
「汗もかかぬ、綺麗な肌よ」
「ん、んん」
管を咥えたままの俺を、その乾いた様な脂っぽいような、妙な指で撫ぜあげる。
首を振って睨みあげても、誰も、助けてはくれない。
ライドウは、この管が、大事なのだから。
「もう一度取ってきたなら、褒美をくれてやろう…」
にしゃりとほくそ笑んだその衆に、全身が強張った。
もう、次にされる事は、視えた気がする。
「ほぅれ、とってこい!」
黒い袖から放たれた鈍い銀色。
それがカラン、と、またあの音を立てると思った。俺の肉を削る音になるのかと。

「ご無礼仕り候」

その銀色は、一閃され、真っ二つに、虚空を舞った。
俺の、眼前に、かしゃん、と、転がった。その断面からは…
(な、何も…居ない…)
MAGすら零れない、本当に…空だった、中には、悪魔も何も居ない。
首だけで振り返れば、熱っぽい頬のライドウが眉根を顰めて、刀を構えて声を張り上げる。
「その様な空管、貴方様方には無意味な物…その様な虚しい産物で御戯れになるは、格を下げまする」
納刀して、呆気に取られているお上達に、再度膝をついた。
「良き血統を与えられし自分が狗と成りましょう」
学生服の詰襟を、熱でだろうか…ぶれる指先で開くその姿。
止めろ…止めろ…
「その狗の紐を外し、この十四代目の頸に頂戴したく願いまする」
犬は…狗は、あんたじゃない!!





「やっぱり、風邪なのに里帰りは良くないってこったねえ」
傍の鳴海がコートを羽織りつつ、吐き捨てた。
「ちょっくら行ってくるね〜矢代君」
「…はい」
「何があったのか知らないけどさ…矢代君も疲れた様だね…今回はありがとうね」
「いえ…俺、何もしてませんから」
寧ろ、悪化させた。
「んじゃ、睨まれない程度にヤタガラスに文句云って来るかんね、俺」
にしし、と笑って、銀楼閣の階段を下りていくその姿に、詰めていた息を吐き出す。
事務所内に戻れば、ゴウトが消えたストーブの余熱で体を炙っていた。
『お主が居ると、十四代目の首は絞まるばかりだな』
「俺の所為ですか」
『…いいや、連れ歩くあやつの責任でもある…それに…因果だろうな』
「因果ですか」
『支配する側に回れて、歓んでおるのだろう?あやつ』
それだけ…だろうか。
「少し、見てきます」
踵を返して、すぐ上の階へと駆け上がる。
ノックもせずにがちゃり、と押し開ければ、反応は無い。
一瞬ビクリとして、思わず傍まで歩み寄れば…寝息が聞こえた。
死んでいない事に、安堵すべきか、落胆すべきか。
「…イヌガミ」
ゆるゆると擬態を解いて、虚空に呼びかけた。
「少し、この男の脳、探りたいんだけど」
ふわりふわりと浮かぶ、本物の狗に、金色の眼で脅す。
『人修羅…』
「頼み込むなんて、しない…俺は悪魔に頭を下げたくないから」
ライドウの首に、そうっと指をかける。別に、殺す気は無い、それは俺の破滅も意味するから。
「今、覗ける範囲で構わないんだ」
指先に、くっ、と力を籠めて、イヌガミに薄く笑いかける。
「出来るかな」
脅迫。
『…ソレハ、何ノ為ダ』
その問いに、俺は間を置いてから、静かに云った。
「犬みたく、傷を舐め合う…為」
そのまま、夢に引きずり込まれる。
イヌガミの遠吠えが耳鳴りの様に響いて、小波の様に反響する…
遠い処に居る様な…
遠い刻に居る様な…


『夜様!』
「馬鹿じゃないの、僕を幾つだと思ってんのお前」
『はいっ、おでこぴったんこ』
「やめろって云ってるに!お節介悪魔!」
翡翠の甲冑、銀糸の髪…優しくて、凛とした横顔…
『こんな季節に気持ち悪い乾布摩擦なぞするから、お風邪を召されてしまうのですよ、ねぇ?』
「…好きで、やってる訳ない」
『そう、貴方様にそうさせる老いぼれ烏の責任ですよ!あはは』
快活に、しかし流麗に哂う。ライドウにも似て。
『しかし、貴方様も風邪、ひかれるのですね』
「呪いの類の方がマシだに…解呪ですぐ終わるし」
『何を云ってらっしゃいますか!』
何処からか取り出した体温計、古い、水銀のアレだ。
それを、幼い誰かの唇に突っ込んで、また哂う。
『そんな脆弱なところが可愛いのですよ、人間は』
ズキリ、とした、心臓が、ぎりぎりと、いた、い。
『ね?ちゃんと人間でしょう?夜様は』
「…きふねらひ、ぼふ」
『ふふっ、お熱が測れてから、文句はどうぞ』
この…悪魔…は…
タム・リン、だろうか。


薄暗い、暗転して、急に襲う妙な熱。
熱くて寒い悪寒…
「熱があるのかえ?ほほ、いつもより扇情的で宜しい事」
「生っ白い肌も病的でそそるが、これはこれで生々しくて良いな」
弄る、気配。あの空間。犬の視点。
「とってこーい」
「とってこぉーい」
やめろ
「とってこぉぉおおおい」
やめろ
いやだ
僕は
僕は犬じゃない
「白くて熱ければ粥だろう?」
「ほれ、啜れ、風邪をこじらせているのだろ?修行が足りぬな」
「啜れ、啜らんか!呑め!嚥下しろ!MAGすら滲んでおるのだぞ!?」
あ、つい
にがい
呑んだ口内が焼け爛れて、胃を汚染して、僕のすべてを汚す。
排泄しようが、吐き戻そうが、染み付いている、この白い毒の残滓。

…俺は、今…
誰になっていた?

『その管、妙に錆びておるな』
「へえ…流石は童子、お気づきになりましたか」
『永い事、使っておらぬな?どういった理由だ?』
「昔、僕の云う事を聞かぬ悪魔がおりましてねぇ…まあよく幼い時分におちょくられたものです」
『お主でも使役出来ぬ奴がおったのか?』
「フフ…気分屋でしたから、僕と似て」
胸元に…光る、鈍い銀色。
「ですから、今もそうなのですよ」
指が撫ぜる、愛おしそうに、その空の管を。
「ある日、突然ひょっこりと出てくると思いますので、こうして放置しているのです」
『里に…帰る日は、引き出しから出して、連れるのか?』
「ええ、よくご存知で」
『…我の思うに、その悪魔…お主の師範であった』
「僕のお目付け役は、貴方様では非ず」
鋭い声音。
「永遠に、リンだけだ」



「〜……っ」
意識が戻った頃、俺は横たわるライドウの胸元に突っ伏して、床に膝をついていた。
「重いよ、君…」
その声に、はっとして顔を上げた。
「そもそも…どうして僕の胸に身を預けている?そんなに主人が恋しいのかい?ククッ」
近くにイヌガミの気配は、無い。追求を恐れたのか、姿を眩ませたな…あの悪魔。
「恋しい訳ない!ちょっと用事があって来たら、俺も疲れてて、その」
「何も、無かった」
「…え」
首にある、紐の痕が痛々しい…それなのに、どうしてそんなに振舞える。
「あの管は、やはり空だった…ようだ」
俺が夢を覗いた事を知ってか知らずか、ただ、静かに哂って云った。
「やれやれ…一種の御守りとして、帰郷の際には世話になっていたのにねぇ…」
上体を起こしたライドウが、己の胸を、細い指先でするりと撫ぞった。
「とって…これぬな、これでは…アレの魂も」
そう唱えたライドウの眼が、どこか遠くて。
「っ!…」
「…ね、熱、まだあるんじゃないのか、あんた」
ライドウの額に、頭突きした。
合わさったこの男の額が熱い。悪魔姿の今の俺と違って。
「一応悪魔と、違って弱いんだしな…そのまま、死ぬまで寝てればどうだ」
すぐに離した額、微かに残る熱が俺にまで伝染して、頬が熱い。
立ち上がり、さっさと去ろうとしたが、視界が流転した。
着物の袖が…ライドウの指先に、掛かっている。
「…僕の熱を、とってこい」
熱で腫れたのか、啼かされて腫れたのか定かでは無いが、その擦れた声で俺に命令した。
「とってこい、矢代」
震える袖を、そのまま引かれる。
甘受して、たった今だけ、犬になってやる。
その熱の痛みを、探ってとってきてやる。
…そう、いつかの自分の為と、云い聞かせて。


踵を返して振り返る、先刻…僕を見上げた瞬間から、その眼は如何して潤んでいる?
あの瞬間、他に飼い慣らされる君を赦せなくて、堪らなくなった。
もう胸を護るものは、無い。
再び、僕の手で斬ってしまったから。
…だが、今回は…喪失感が、少ない。
僕の、僕だけの、狗。人修羅…僕しか使役出来ぬ、悪魔と人間の君。
「とってこい、矢代」
袖を引けば、するりと舞い戻って来た。
管に納まらぬ君は、気分で出て来ぬ事は無い。
僕が手をかけぬ限り。堕天使に取られぬ限り。
引けば、戻る。呼べば、来る。そう…その名を呼べば。
耳元で、悔しげに、切なげに吼える狗。
「夜…よる…っ、ん」
合わさった唇が、その遠吠えをくぐもらせる。

 「とってこ〜い!」

窓の下から、あの少年の声が聞こえる。
霜がレースをひいた硝子の向こう、遠い世界。
僕等のいる暗闇とは違う、帝都の美しい冬景色。

 「よしよし、いいこだぞ〜ヤシロ!」

言葉とは裏腹に。
まぐわう口の中、僕は君を追いかける。
とってくる側となる。
君の舌を絡め取って、歓喜してMAGを震わせる。
熱量を奪われて、狗になる、君の。
そう、烏などではない、それならいっそ、君の…

 「えへへっ、ずぅっと一緒だよ!ヤシロ!」

ざくざくざく、暗闇を駆け回る二つの啼き声。
狗と狗の戯れ。

とってこい・了
* あとがき*

タム・リンの管を大事に御守りにしていたライドウ
今其処に居る人修羅をとってくるのか
大事な過去の温もりをとってくるのか
白い雪景色は灰の山

珍しく前半にエロですね。
犬は物質的
狗は精神的なイメージで書きました。
風邪のライドウを書きたかったという願望もあり。
袖を引っ張る夜…
おでこぴったんこ