天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも
月夜見の 持てるをち水 い取り来て 君に奉りて をち得てしかも


霊酒つくよみ・前編




殺風景な道、俺はいつ通っても確信が持てない。
ライドウは頭の中に方位磁石でも入っているかの様に、迷い無く歩みを進める。
時折小川を跨ぐ橋が有ったりもするが、その小川がさっき跨いだものと同一なのかすら、俺は判断出来ない。
どこにでも有る様な多年草が、ようやく初夏の緑を思い起こさせる程度の景観。
「よく迷わないよな、あんた」
「帰宅出来ぬは幼児も同様だろう?君は家の近所で迷子になっていたのかい」
「近所って程、近いか?ヤタガラスの里…」
「電車と徒歩でなんとかなる距離だね、フフ…残念な事だ」
この男の里帰りは、俺にとって気分の良い事では無い。
普段から横暴だというのに、ヤタガラスが絡むとライドウは更に感情的になるからだ。
そんな事を指摘したら、更に機嫌を損ねるだろう。
だから、思っても云わないで…俺は押し黙ったまま追従していた。
「功刀君、確かに此処にはビルヂングは愚か、幹の太い樹木などもそびえておらぬがね……少しは警戒したら如何だい?」
外套から抜かれたライドウの手には、既にリボルバーが握られていて。
一見何の変哲も無い野原へと、即座に発砲される。
『ぴぎゃっ』
小さく悲鳴した何者かが、被弾に跳ねた。
二転三転しつつ雑草に身体をべしゃりと広げたそいつを見て、俺は一歩後ずさる。
蛙だ……しかし、巨大。俺が見た事の有る蛙のサイズの数倍は有る。
イボイボの濁った色をした背中、其処にめり込んでいる銃弾が鈍く光っていた。
「おい、何だこいつ……でかくないか、気持ち悪い」
「やはり視えていなかったのかい。君は街中と大平原と、どちらが身を隠すに向いていると考えている?」
「それは…隠す手段で変わってくるだろ。そ、それよりもその蛙」
「珍しくも無いさ、里の周辺にはごまんと居る」
それを聞いて、更にこいつの里帰りに付き合うのが嫌になった。
小さな緑色の蛙なら、まだ愛らしいかもしれなかったのに。目の前に転がるソレは、あまりにもグロい。
形は蟇蛙(ひきがえる)の様だが、両手にも乗り切らないであろう異様なサイズ。
銃弾を受けても生きているのだ…恐らく化け物に近いのだろう。
『こやつ等は我々ヤタガラスの者を好いてはおらんでな、時折カラスの連中も脚を齧られよる。攻撃手段は、主に毒液だがな』
「か、齧るんですか……蛙の癖に。それでゴウトさんは齧られた事、あるんですか?」
『お主等より視点が低いのだぞ、舐めるでないわ』
まだヒクヒクと痙攣している蟇蛙の横を、俺達は迂回する様に通過した。
一番近い位置をライドウが歩いたが、蟇蛙は余力を振り絞る様な事はしなかった。
(ライドウの奴、ヤタガラスにも反抗的だからな。もしかしたらヤタガラスの人間って、蛙にすら認識されていないとか)
それならば、この面子で恐らく真っ先に狙われるのはゴウトという事になる。
当人が「舐めるな」と云っているのだから、回避は出来るのかもしれないが。
「どうして蟇蛙っぽいあの化け物は、ヤタガラスの人を襲うんです?」
『ヤタガラスは太陽を象徴し、蟇蛙は月を象徴す。性質からして正反対……他にもまあ、色々と有るのだが……お主も其処まで興味ないだろうに』
「そうですね、もう結構です」
猫程度のサイズなら丸呑みに出来るであろう大口が、酸素を求める様にぱくぱくと開閉している。
そんな蟇蛙を尻目に、俺はライドウに置いて行かれないよう足を速めた。
良いんだ、ゴウトに訊いてみたのも、所詮は興味本位でしかない。
どうせ、ヤタガラスが恨みを買う様な事をしでかしたに違い無い……と。
それが聞きたくて問い質してみた、それだけなんだ。
もしかしたら、ライドウがヤタガラスの悪趣味な何かを暴露してくれるかも…とさえ考えて。
(ああ、もう里の入口まで来ていたのか)
俺の邪な期待は成就されなかった。悪趣味な横槍は飛んで来る事も無く、見上げれば里の門が有った。
普段は煩いくらいに饒舌なライドウの口数が、此処に来ると途端に減る。
「今回、俺は何して暇を潰せば良いんだ」
「酒の品評会が有るので、君にも飲んで欲しいそうだよ。近頃売り込まれた数種だ、具合を見て組織の流通に乗せるか決めるのだろう」
このライドウの口ぶりからして、俺を連れてくるのは本意では無かった様子だ。
自身の力が及ばない範囲で俺を扱われる事が、相当気に喰わないのか。
貸した物に傷が付いて返ってきたら腹立たしいとか、その程度の感覚だろうけれど。
“俺が”というより、そのプライドに傷が付く事が嫌なんだろ?
「どうして俺なんだよ…そういうのは専門家喚べよ。そもそも俺は未成年で――」
「悪魔用の酒だよ、様々な悪魔に飲ませて性質を見定める。そういう利き酒会さ、定期的に行われている」
何だよ、その「おあつらえ向きだろう?」とか続けそうな台詞。
俺の目許がヒクヒクしたのは、里の中に入った緊張感とはまた違うストレスか。
「おい、それにしたって……此処の連中が使役してる悪魔に飲ませれば済む話だろ」
「君はどの属にも該当しないからね、ひとつの記録として欲しいという事だろうさ」
「……実験台かよ」
「自覚、無かったのかい?」
無い訳では無い、ヤタガラスどころかライドウにもその気は見られた。
しかし面と向かって云われると、頭にじわじわと血が昇る。
つかつかと先を行く鋭利な革靴を、俺の地下足袋で止めた。
「何」
ライドウの声は、酷く愉しく無さそうだ。
俺も、思わず立ちはだかっておきながら……静止してしまっている。
いっそ擬態を解除するか?さながら挑発の様に。
いいや、この里で堂々と悪魔の姿を晒したくは無い。既に正体がバレているのだが、そんな問題では無い。
「余計な視線を集めるでないよ、愚図」
「ッ、ひ!」
「全く、人間を手にかける度胸も無い癖にね。悪魔らしい振る舞いをしたくないなら、大人しくして居給え」
思考は唐突に中断され、俺は息を詰まらせながらよろよろとうずくまった。
ライドウの蹴りが、ズバンと俺の股座にキまったからだ。
胎がきゅう、と無数の糸で雁字搦めに縛り上げられるかの様な、四肢を支配する痛み。
『おい……人修羅、大丈夫か?置いていくぞ』
口ぶりだけは心配しているゴウトも、さくさくと傍を横切って行く。
俺は猫の様に低くなった視界で、揺れる尻尾を恨めし気に見つめて溜息した。





ああ、苛々する。
先刻人修羅に喰らわせた蹴りを、もう少し強くしておけば良かったと思い返していた。
うようよと板の間を行き交う黒装束共は、まるで残飯を探す烏の様で。
様々な属の悪魔と肩を並べている人修羅は、袴姿ではあるものの素肌に斑紋が巡っている。
ヤタガラスからの命令だった“本来の姿”で飲酒しろ、との。
当然の様に、人修羅は命じた黒装束を不機嫌そうに睨み返していたが。
「十四代目、貴方は参加されないので?」
カンカン帽の男が、僕の隣に並んだ。
上から下まで黒い、それは麦藁を墨色に染め上げた独特な帽子だった。
やや特徴的な格好なので、すぐに誰かは判った。
「効能を熟知した酒しか、嗜む気はしないので」
「ははぁ、なぁるほどお」
「参加命令も、僕には出ておりませんから」
黒装束に囲まれた人修羅が、渋々とお猪口に手を伸ばしている。
そのお猪口を一気に口元へ運んでいる所、横から腕を取られ怪訝な表情をしていた。
僕等はやや遠巻きに、観察をしている。
「あぁ、貴方の悪魔……人修羅でしたっけな。なかなか未知数とは聞き及んでますけど、蛇の目すら見ないでグイッといくとは……ハッハ」
「蛇の道は蛇でしょう、あれは酒に縁が無くてね」
「はぁ、貴方は大酒呑みなのに?」
その返しに僕は軽く失笑し、流した。
利き酒は、最初の一口よりも先にまず、香りと色を見る。
お猪口の内底面にある、青い二重丸紋様……利き猪口が《蛇の目》と云われる所以だ。
その紋様の揺らぎ・ぼやけ方から、酒の透明度を確認する。
そうして、上立ち香を鼻腔にくすぐらせ……ようやく口に含むのだ。
しかも複数酒を確かめるのだから、ごくごくとあおってはいけない、後に影響する。
個人の好みで減点する事も、当然宜しくない。
利き酒とは、不慣れなほど正当な評価が出来ない行為。そう認識していたが…
人修羅にさせている利き酒ごっこは、少し様子が違う。
酒を摂取した際の、人修羅の魔力変動を記録している。
「美味しいか否か」という意見を、こちらから訊ねる事もして無い。
つまりあれは、利き酒の様式を真似ている別物だ。
人修羅の味覚は使わず、その躰に訊いている様なもの……
「まんさく・からじし・まさむね辺りは人間が飲んでも割とイケますが、属別に効力を発揮する酒はクセが強くて参りますな!」
「わざわざ属別に製造されているのだから、味に特徴が出るのは当然でしょう」
「十四代目…ふっふ、其処でアレですよお!属性を選ばない、口当たりの宜しい――…」
「さて、何でしょう」
「惚けないで下さいな、《つくよみ》ですよ」
先刻から煩い隣の男は、この里のサマナー…兼、問屋。
僕と話し込んではヒソヒソ囁かれるだろうに、と、昔は思っていたのだが。
この男も里では浮いている方であり、評判を左右する事は互いに無かった。
いつも身形だけは上等だが、面立ちは衣装に負けている。家に由緒というものがあり、金なら幾らでも有るそうだが。
無精髭にぱさぱさとした頭髪。齢は僕より五つ程度上なだけというに、少し老いて見えた。
ずんぐりとした背格好に、疣の様な出来物やシミが顔面に多い為、昔から蝦蟇(ガマ)と呼ばれている。
他者の容姿なぞどうだって良い事だが、僕は少々違った理由でこいつをそう呼ぶ。
「十四代目ぇ、ありゃあ凄い酒ですよ、使い所は限られますけどね」
「それはどうも」
「ウチの霊水がねぇ…へへ、ああも化けるとは思わなかったですわ。いやー普通に飲むだけだと、あんまり取り柄も無い水だったのに」
横にちらりと視線を寄越せば、案の定男の眼は欲を孕んでいた。
ヤタガラスのサマナーの多くが私利私欲を以てして動いている、僕も例外では無い。
「乗せて欲しいなら乗せようか?何割だ」
「いいやいいや十四代目、私ぁ稼ぎならまま、有るもんでして。そこじゃあ無いんですわ」
恐らく金では無いだろうと踏んでいたが、すぐに話を持って行く事をしないであろうこの男。
外堀をさっさと此方で埋めて、本題を促す。
「つくよみのねえ…蔵元をね、紹介して欲しいんですよぉ」
「……フフ。断った場合、今後の僕への物資提供はどうなりますかね」
「いやいやいや、売りませんだなんて事ぁ云いませんよ!ただね、蔵元に直接ウチの霊水を運んだ方が早いでしょ?」
「先刻申された通り、使い勝手の幅は狭い酒だ、大して益も無し。それならば僕に言い値で霊水だけ売り捌く方が、貴方の家も潤うと思いますがね」
「しかしあの酒は類を見ない……十四代目、アレは大発見つっても過言じゃないですわ。ねえ蔵元、紹介頼みますよお」
やはり商売欲では無し、名誉欲か。
家や財力に恵まれていても、当人の力量や才に確実な恩恵がもたらされる約束は無い。
親しいつもりはさらさら無いが、ライドウの候補生として数年間を共にしたのだ。何が足りていないかは、透けて見えた。
「僕はあれを世に広めるつもりは無い、今回の品評会にも提出しておらぬ。貴方には素材の提供者という関係上、個人的に完成品を渡しているだけですよ」
「いやはや勿体無いでしょう、素晴らしい酒なら皆で愉しまねば!」
足下でゴウト童子が、尾をぱたんぱたんと上下させていた。
黒い毛に覆われた尾は、床板を微かに啼かせる。
この上司が動じておらぬは、これが僕の日常茶飯事と理解している所為だ。
じゃれ合っている様には、流石に見えぬだろう。
「勿体無い…?フフ…それは貴方の勝手な思想による結論でしょうに。僕は己の悪魔を“調整”する為に《つくよみ》を作らせた、酒道楽の為に非ず」
「ヤタガラスの一羽なら、組織の為に献上するのが筋じゃあ無いんですかねー?」
「霊水は何も世界にひとつでは無い。アムリタや甘露が各地に存在する様に、幾らでも入手経路は有る」
「ハァ〜乳海撹拌でもやるって?そりゃ気の遠くなる話だ!馬鹿馬鹿しい!」
「クク…失敬。貴方の仲魔や交渉術を見るに、ヴィシュヌ等には縁が無かったかな?」
「……ま、まぁ霊水が駄目なら、こちとら薬も売ってるんでね!それこそ、爺共に掘られたケツの孔に効く軟膏とかぁ?…へへ」
せせら笑う相手の表情を見ても、憤る気分にすらならなかった。
ヤタガラスにこの手の侮辱を受ける事は、最早慣れきっている。
いい加減、こういった罵声で僕が怯まぬ事を学習すべきである。
「傷めた孔ならアレに舐めて貰っているのでね、お気遣い無用」
「は…?アレってのぁ」
くい、と顎で示してやった。酒の刺激に眉を顰めているであろう人修羅の方向を。
すると案の定、ガマは怒りに頬をヒクヒクと痙攣させた。
痙攣するガマだなんて、道中に撃った蟇蛙の様では無いか。
「こっ…こぉの淫売が!ヒトが下手に出りゃあ舐めやがってェ……十四代目継いだってな、あんましオイタしてっと降ろされるぞ」
「フフッ、舐めるのが好きなのは、果たして誰だったかな」
「……へ、へへっ…いいんだぞ紺野…おれはなぁ“十四代目の若造”に手玉に取られたつもりは無え。後ろ盾も無いお前がな…いつまでも其処に立って居られる訳が無ぇんだ」
「家の事を考える必要も無い、僕はこの上なく愉快だがね」
と、張りつめたガマの面が次第に緩み始めた。
カンカン帽の下で、下卑た笑みを浮かべ鼻息も荒く僕に問い掛ける。
「お前の事だから、今日品評される酒も本当は下調べしてあるんだろうなぁ?じゃなけりゃあ人修羅をおいそれと寄越さんだろ?」
「……何か混ぜたのか」
「アレッ、そういやぁおれ、受け取ったつくよみをこの辺に置き忘れた様な気がぁ…?もっしかしたら、あの品評酒ん中に間違えて並んでるかもねぇ?」
ゴウト同時がひと鳴きし、床を叩いていた尾を引っ込めた。
僕に踏まれそうになったからだ。
わらわらと集う悪魔達を掻い潜り、一番頼りないシルエットを見つけ足を速める。
此方に割って入る様に、黒装束が立ちはだかった。
「どうした十四代目」
「一寸失礼、自分の仲魔を少々預かりたい」
「おい少し待て、今最後の酒を含んだところ――」
「人修羅!蓮の香りの酒は飲み込むな!」
振り向いた彼の喉が、驚いた表情のまま嚥下に蠢く。
僕は黒装束を躱し、茫然とする人修羅の角を掴んだ。
「ひ、っ、げえっ…!げほッ!」
そのまま鳩尾に膝を入れたが、それとなく咽るのみで吐き出さない。
突如仲魔を蹴り始めた僕を、黒装束達が唖然として眺めていた。
きっと気違いだと思っているのだろう、いいや、それは元々思われている。
 『ヒエェ、葛葉ライドウん十四代目、まーた仲魔ボコしてる…おっかねえぇ』
 『そういえばあのお酒だけ飲んでないや』
 『あんなの有ったっけカ?そういえばヒトシュラだけ全部試飲させられてたヨネ』
 『ソレガ死因トナッタ…ナンツッテー!』
周囲の悪魔達の囁きも、遠のく波の様に消えて行った。
各々の管に戻されたのだろう。人修羅が目覚めた時に錯乱する可能性を危惧されたのかもしれない。
当の人修羅は、先程から変わらずぐったりとしている。僕の腕の中だというに、嫌な顔も…抵抗すら見せない。
普段からアルコホルを口に含んだだけで酔う様な奴だ。数種類も利き酒すれば意識が浮つく事は予測されたが…これは明らかに異常だった。
「う、うぅっ、ぐ」
「人修羅…人修羅。おい…功刀君」
立膝をつき、片腕で肢体を抱え込む。
人修羅は、呼ぼうが頬を叩こうが呻くばかり。
叩いた頬すら熱く、半魔の体温とは思えぬ感触だった。
僕は思わず、ヒリつく己の掌を見つめた。指の隙間から見上げてきた金色が、潤んでいる。
それはまるで幼子の様に頼りない、縋る様な……
『おいライドウ!此れは…錯覚か?人修羅の身体が…』
「……承知しております故、騒がれずとも結構」
傍らに来たゴウト童子が、翡翠の眼を見開いている。
周囲からの視線が、人修羅を貫いている事が判る。流れ弾の様に、僕も被弾しているから。
「あーあぁ、ここまで若返っちゃうのか。半分人間だからですかねえ〜十四代目?」
背後でぼそりと呟いたガマの声音に、僕の腕が戦慄いた。
人修羅の着衣を掴もうとした手が、一瞬帯刀した柄に伸びそうになる……が、留める。
ゆっくりと、もたつく着物と袴を手繰り…“二回りは小さくなった”人修羅を肩に担いだ。
「こ、これは……人修羅が小さく…?」
「十四代目、一体何が…酒の効能か?人修羅の都合なのか?」
問い詰め来る黒装束達への説明を、頭の中で練り上げた。
《つくよみ》という酒の話を何処までするのか、本来発表する予定は無かった事を云うのか、人修羅は元に戻るのか否か。
どの様に動けば、僕の首が絞まらずに人修羅を奪われぬか。
「うっ……ひっく…」
肩に不規則な振動が生まれ、ちらりと目をやれば。幼くなった人修羅がぐずって、僕の外套を湿らせていた。
すぐには戻せぬであろう事が計算され、僕は微かな溜息が出てしまった。




「人修羅が元に戻ったら、ちゃあんと返して下さいね」
「分かっているよ、本来君にあげた物だからね」
「そうですよ!ボクそのしじら織りのが一等気に入ってたのですから!このまま人修羅のモノにされたら、堪ったもんじゃありません!」
「何なら新しいのを今度買ってあげるよ」
「違うんです!もう着れなくなっても保管しておいた理由、解ってますよね十四代目!?」
憤りつつ、人修羅を“見下ろす”正午。
その視線の先には、数年前の彼にあげた着物を纏う幼子。ただし、衿の抜きからはひょっこりと黒い角が生えている。
見慣れた黒い斑紋は肉体に合わせられ、か細く小さくなっていた。
「あのね!ボクはその着物、貸してやるだけなんだからね、分かってます人修羅サン!?」
「……これ、きもの?きょう、シチゴサン?」
「ああっ!そんなつぶらな眼でボクを見ないでっ!さっさと行ってしまってもう!」
妙な身悶えをしつつ、見送りをしてくれた正午。
あれには里に年下が居らぬせいか、この人修羅が愛らしく見えるらしい。
「きょうシチゴサンなの?十四だいめ」
「違うよ。君の着ていた着物がその身には合わぬから、借りただけだ」
「ねえ、やーくんのおかあさんは?」
「居らぬよ」
ぴしゃりと云い放てば、人修羅はまた眉を顰め、唇をわなわなと波打たせ始めた。
薄い霞色の縦糸が編まれたしじらを、鮮やかな藍色で七宝柄に染め抜いた着物だ。
その風情の有る小袖で、ぐしぐしと目許を拭っている。
『泣かせおったわ』
人修羅が幼児化してから、いちいちゴウト童子が煩い。
僕が普段の人修羅を、蹴ろうが犯そうが我関せずの癖に。
「……とりあえず、此処には居らぬよ」
「じゃあ、どこかにいるの?」
「もしかしたら逢えるかもね、僕は逢わせてやれぬけど」
「あっ、いた!」
おいおい居る筈が無いだろう。しかし追うのも何やら滑稽なので、僕は追わない。
構って欲しい幼子がする、唐突な遊びかもしれないだろう。
月白色の兵児帯をふわふわと靡かせて、味気の無い野原を駆ける人修羅。
少し合っていない下駄が、踵をぱこぱこと鳴らしていた。
『……おい、元に戻るのか?あやつは』
「戻らせますよ、その為に蔵元に向かっているのですから」
『お主の作らせていた酒は、飲むと若返るという代物なのか…?』
「先刻も説明したでしょうに。悪魔が飲めば“ひとつ昔の姿”に戻る酒に御座いますよ、童子」
僕が作らせた酒は、霊水を用いて醸造した特殊な物だった。
ハイピクシーが飲めばピクシーに。クー・フーリンが飲めばセタンタに。
それは退化なのでは無いか?と思われがちだが、使い方を選べば化ける酒だ。
『成程……確かにそういう物が欲しい事が有ったな……サマナーの頃だが』
「覚えた技術の記憶は有れど、放てぬ肉体へと戻る可能性は御座います。しかし其れが重要なのです」
『そうだな。覚え直すか、いっそ覚えぬが良い場合も有る。人間も同じだが、妙な手癖のまま習得したつもりになると一番厄介だからな』
「人修羅にあのように効くとは、僕も予測はしておりませんでしたが」
そもそも、ガマが余計な事をしなければ回避出来たのだ。
興味は有るが、人修羅に飲ませようとはしなかったろう、僕ならば。
あれは半人半魔、ひとつ昔の姿はいうなれば人間なのだから。
只の人間に戻られては、僕が困る。それを思えば、人修羅のまま縮んだだけに済んだので、不幸中の幸いか。
『蔵元に行けば治す薬でも有るのか?そういえば、ガマの奴がしつこく訊いておったな…蔵元に関して』
「あそこには仲魔のオオクニヌシを置いて御座います。彼に任せてある物を人修羅に飲ませれば、中和され元に戻る筈」
『確証は?』
「サマナーとしての見識」
『……案外そういう所が有るな、お主』
毒を扱う者が解毒剤を持つ様に、中和作用の有る物はしっかりと用意してある。
ただ、人修羅の体内で同じ様に作用するかまでは判らない。
前例が無いのだ、人修羅という存在自体が唯一無二なのだから当然だ。
育成方法の載った指南書など、在る筈が無い。
「みてみて〜!十四だいめ!」
遠くから呼ぶその甲高い声に、ゴウトから視線を移す。
随分と遠くまで駆けたらしい人修羅が、足元が隠れる程の茂みでぴょんぴょんと跳ねていた。
「あまり先に行くでないよ、道なぞ知らぬだろう」
「ほらっ、いた!」
一瞬屈んだ人修羅が、その茂みから何かを引っ張り頭上に掲げた。
傍のゴウトが変な鳴き声を上げる。僕は一瞬呼吸が止まった。
「手を放せ!」
「すごいおっきいよ!」
「投げ捨てろと云っているのが聴こえないのかい!」
リボルバーに手を掛けたが、結局そのまま人修羅の元まで駆けた。
子供の動きは予測がつかぬ…手を撃ち抜く可能性がある。
この人修羅の再生能力の程度を、まだ僕は知らない。
「あっ」
「蟇蛙は毒液を出すんだ。頭の上からかけられて御覧、失明しても知らぬよ」
刀の柄を掴んで、反らした鞘を人修羅の頭上に差し入れ…上にはじいた。
蟇蛙は彼の手を離れ、鞘にひたりと纏わり付く。
間合いに人修羅が入らぬ様、僕は数歩下がる。
瞬間、空へと放ち抜刀した切っ先で裂いた。
「あーっ」
「亡霊の様な物だ、こうしてやるのが一番良い」
さり、と納刀した頃には、人修羅が分断された蟇蛙をしゃがみ込んで見つめていた。
普段の彼ならば「気持ち悪い」と、言葉で一刀両断するだろうに。
「いきてないの?」
「断面を見て御覧、臓物が無いだろう」
「もつ?もつがない?もってるのにないの?」
「……ほら、もう行くよ」
軽く角を抓ってやると、小さな手がばしばしと叩いて来た。
邪険にする類では無く、じゃれて来る様な……一番疲れる類だ。
「おっきいカエルさん」
「蟇蛙だよ……あれは少し違うけど」
「さっきから、ときどきいるね!」
「……よく見付けたね」
「ふーっ、ふーっ、てないてるから、わかるよ」
少し驚いた、どうやら察知する能力は研ぎ澄まされている。
余計な事を考えぬ所為だろうか、案外普段の人修羅より使い勝手が良いかもしれない。
「でもいきてない……?オバケ?」
「そうさ、この辺りの蟇蛙は九割が死体だ」
「しんじゃったら、うごかないんでしょ……どうしてうごくの」
外套のなびきが脚を打たなくなり、ちらりと見やれば人修羅が端を掴んで居た。
そうしてしっかりと付いて来るのなら、それでも構わない。
僕は、迷子になった仲魔は捜さない主義なのだから。
「オオバコ、知っているかい」
「おおばこ?こばこもあるの?」
「箱じゃないよ、植物のオオバコ」
「やーくんしってる、こばこのほうがイイモノはいってるの」
「舌切り雀かい?フフ……明治以前の版を知っているかい?路を訊ねる翁が、その度に血や糞尿を食わされるという――」
いやいや、違うだろう。
人修羅の嫌そうな顔が愉しいので、ここ最近は彼の嫌悪しそうな話につい繋げてしまう。
しかも、裾を掴む当人はぽかんとしているではないか。
唐突な話の展開についてこれなかったのか、嫌悪する箇所が分からぬのか。
……僕は、酷くつまらない。
「めいじいぜん?」
「オオバコに話を戻すよ」
「あのね、チョコレートはモリナガすき!」
「ふぅん、僕は明治製菓の方が――」
いやいや、違うだろう。
人修羅の揺れる兵児帯に見え隠れするゴウト童子が、何となく口元をむずむずさせているのが癪である。
「……穴を掘り、其処に蟇蛙の死体を埋め、オオバコの葉で覆い隠す。一夜置けば蟇蛙は蘇生し、その際に呪いを交せば使役も出来る」
「ちょっとむずかしい」
「穴掘って死んだ蛙入れて!オオバコの葉っぱでフタすると生き返るのだよ!」
「すごーい!かちかちになったパン、レンジでチンしたみたい、ふわってなるの」
何が凄いだ、少しは突っ込み給え。いつもの様に「悪趣味」とか何とか。
「このへんのはっぱ、オオバコなの?やーくんにもできるかなあ」
しかも実行しようとしているではないか、これ以上蛙の亡霊を増やされても面倒だ。
きょろきょろとし始めた人修羅の角を再度掴み、真っ直ぐ前を向かせた。
「日が暮れる前に、銀楼閣に戻るからそのつもりで」
「ずっとあるくの?」
「この後は電車に乗るよ」
「でんしゃ!あのね、プラレールのでんしゃ四だい持ってるよ。十四だいめは?」
「……君に十四代目と連呼されると、気味が悪い」
「あっ、わかった!十四だいもってるの?だから十四だいめなの?」
一気に蔵元の在る山まで向かいたいのだが、コウリュウに乗せようとした瞬間、こいつは大泣きを始めたのだ。
それだから、急いでいるというのに徒歩という理由……恐らく理解はしておらぬだろう。
普段の人修羅に高所恐怖症の気は見られなかったが…それとも、意地を張っていただけなのか?
無理矢理乗せても泣き声を我慢すれば良いだけと思ったが、コウリュウの鱗をばりばりと引っ剥がし出したので断念した次第だ。
あの硬い鱗を剥がすとは、やはり身体能力は半魔のそれなのだ。
いっそドルミナーをかけてしまおうとも考えたが、現在人修羅が飲んでいるマガタマはイヨマンテ。
そればかり馬鹿のひとつ覚えの如く飲んで、この臆病者……と罵ったのは、つい先日か。
「ねえ十四だいあるの?ねえ…」
「ライドウと呼んでくれ給えよ。その舌っ足らずな口でも、十四代目よりは云い易いだろう?」
「らいどう…ライドウ?そういうでんしゃあるの?」
「僕は電車ではない」
凄い、一戦もまともに交わしておらぬというに、この疲労感だ。
幼い正午の面倒を見た事も有ったが、これ程では無かった。
まず口数が違う、こんなにもお喋りだとは……
しかも人の話を聴いていない、意図を汲まない、僕の名前を憶えていない。
『おい大丈夫かライドウ?トウテツにMAGを喰わせた時と同じくらいの雰囲気をしておるぞ?』
「これは帰りに三河屋の大學芋でも買わないと、気が済みませんね」
『して、先刻の蟇蛙の件だが……まさか昔の大量発生は、お主が引き起こしたのか?』
「フフ……さあ?」
童子はさておき、養分補給で思い出したが…人修羅のMAGはどうなっている。
特に使わせたつもりも無いが……幼いが故に後先も考えず、要らぬ発散をしている可能性が有る。
電車の前に、擬態もしっかり命じなくては……普段なら、云わずとも戦う寸前まで解除しない癖に。
「だいがくいも!? わーい!」
呑気に喜び、無邪気に笑うその顔を見て、色々と思考していた僕の脳内が冷える。
同じ様な表情を、普段の人修羅で見た憶えが殆ど無かったから。
何の感情がそうさせるのか定かでは無かったが……暮れ往く茜色の草原を、僕だけが黙々と歩く。
「ねえライドウ、どこいくの?やーくん、いつおうちにかえれるの?そいえばね、くびのとこ、へんなのはえてる、ツノみたいなの…こんなのまえからあったっけ…?ねえライドウ、ライドウってなにしてるひと?なんさい?やーくんも…なんさいだっけ……」
初夏の虫達の声が遠くなっても、僕の外套を掴むひっつき虫はまだお喋りを続けていて。
それを無視する僕にとうとう痺れを切らし、ぐずり始めた途端に草原が割れた。
隆起した地面が人修羅の位置を押し上げ、僕とゴウト童子は見上げる形となる。
『おいライドウ!相手をしてやれっ!これは小規模だが地母の晩餐だろう!』
「全く面倒な、いつもの人修羅なら項に一発ぶち込めば寝るのですが」
『お主も大概だが、悪魔を恥じぬ人修羅は危険だぞ!』
ああ、そうか、恐らくはそれだろう。
僕はサマナーで、彼は悪魔だった。
彼が悪魔の自覚を失った所為で、その関係が崩れているのだ。
「功刀君、構ってやるから大人しくしてくれ給え」
「だって、だってライドウ、おこってる」
「……いつも、怒ってはいないよ」

「じゃあ、なんで…なんでやーくんのこと、ほっとくの…っ」

“放っておいてくれ”と云うその口で、結局は“置いて行くな”とのたまう。
ああ……慣れた応酬だ。
意識から退けようとしたが、幼い姿に透けていつもの彼が視える。
「ほら、こっちへおいで」
いつかの様に手を差し伸べてみる。
マネカタの泥山では無く、人修羅当人の作り上げた丘ではあったが……
思い出さずには居られなかった。
「ライドウ」
えーん、と泣きながら、僕の手を取りに自ら駆け下りてきた。
今回は引っ掻いてくる事も無く、僕の腰に縋り学生服で涙と鼻を拭っている。
「さっさと戻っておくれよ……愚図でも一応戦力だったのだからね」
「チーン」
「かむな」
胸元から取り出した手拭いを鼻っ面に押し当て、幼い身体を片腕で担ぎ上げる。
イヌガミを召喚し、空いた手はいつでもリボルバーを取れる様に配す。
当てにならぬ“お荷物”の軽さに、僕は何故か焦燥感を覚えていた。



霊酒つくよみ(前編)・了
* あとがき*
拍手御礼SS「HOME SICK」の完全版というリクエストで書き始めました。
完全版というより、構想を練り直しての書きおろしとなります。
案外慌ててはいないライドウですが……後編を御期待下さい。
小さい人修羅と初夏の旅、ライドウの小さい頃の記憶もまじえつつ。