寝苦しい宵、幾度目かの寝返りを打ちつつ耳を澄ます。
感覚は既に半分程度、覚醒をしていた。
『如何されましたか?夜様』
タム・リンが月光を頼りに、窓辺で読書をしている。
悪魔なのでさほど光を要しない筈だが、無いよりは有った方が楽なのだろう。
僕はゆっくりと上体を起こし、前髪を脇に撫で付け耳に引っ掻けた。
「……聴こえんに」
『いっかがされましたか!よるさま!』
「違う馬鹿!お前の声じゃないわ、遅いのに大声出すな」
『おやこれは失礼を、して何が聴こえないのですか?』
「蟇蛙の声」
会話してしまった為か、すっかり頭が回転を始めていた。
夏も幕開けとなり早一ヵ月、あんなにも煩かった蛙達の声が、今宵はぱったりと止んでいる。
これ程とは思わなかったので、放置しようと思っていた件に出掛ける事にした。
『この様な夜更けにお散歩ですか』
「少し目が冴えてしまったわ……すぐ戻る」
『あっ、お待ちを!』
寝間着代わりにしている麻着物の裾から、ちらちらと見え隠れする湿布と包帯。
玄関口にタム・リンが差し出した履物を見て、そういえば片脚を怪我していたのだったな…と、他人事の様に思い出す。
『診療室で借りた下駄じゃあ、大きさが合っていなかったでしょう?ぱっかぱっかと、逆に踵を鳴らされておりましたもんねぇ』
「用意が早いな」
『あはは、まぁ私が作ったんですけどね』
その言葉に、両手を上げて喜ぶ僕な訳が無い。
揃えられた下駄は、一見普通だが……耐久の程はどうだろうか、出先で大破されても困るのだが。
鼻緒を見ると、何処かで見た紐の柄をしている。
薄蘇芳と中青の配色をした、植物柄だ。
『夜様の着られなくなった着物をですねえ、こう…よりよりと…紐にしまして。いやー我ながら粋ですね』
「おい、裏側から括り紐がはみ出てるに。もっと綺麗にすげてから自慢し」
『竜胆の重ね色ですよ、ん〜〜ちょっと夏の初めには早かったですかね』
「まぁいい、履いてから文句云うに」
突っ掛けてみると想像よりもしっくりくる履き心地で、更に悪態を吐こうと思っていた口が塞がれた心地だ。
黙って両足に下駄を纏い、着物を正す僕にうずうずとした声音で問い掛け来る悪魔。
『云わぬので?』
「……煩いな、他は特に問題無かったって事だで、それとも粗探しして欲しいのかお前!?」
『嫌ですねぇ夜様「いってきます」の挨拶ですよ〜云わないんですか〜?』
けらけらと笑いつつ、手にした書物を旗の様に振ってきた。
(そうされて挨拶を返す奴が何処に居るか)
護身用に短刀のみを携帯した。刃渡りからして心の臓には届かぬ物だ。
悪魔ならともかく、里の者に使えばすぐに知れ渡る。
各々に支給された物は、少しずつ刃の形状が違っている。刺せばすぐに判明するのだ、不用意に使えはしない。
(風は涼しい、だが空気は湿っている、纏わりつく暑さが有る……これだから夏は)
先刻、手旗代わりにされていたのは上司小剣の「小ひさき窓より」だった。
あの中の「夏の姿」という話を思い出す。

 ――樹も草も青々と皆葉を附けてゐる美しい大背景の前に
  派手に清らかな装ひをした美しい人たちの立つのは、夏でならなければならぬ。

夏の青空は喉が灼けそうな錯覚を抱かせる、これは僕だけだろうか?
あの炎天下、綿帽子の雲の下に駆ける気が知れない。
うだる熱気の中だろうが、年がら年中この里で行われるは修練のみなのだから季節感も堪能出来たものでは無い。 兎に角、夏と相性が悪いのだ。

 ――アイスクリームを調へる家なぞも多いし、カフエエに入つて見ても夏は一體にサツパリとして四邊の空氣も輕い。

(アイス、食べてみたい)
そんな物、当然此処には無い。
塩で保たせた果物の皮だとか、大學芋とは名ばかりの砂糖を使い渋った物だとか、そんなのばかりだ。
(帝都に出れば、気軽に食べられるのけ)
何を考えているのだ、子供じみている馬鹿馬鹿しい。そんな事が目的で、ライドウになりたい訳では無い。


畦道を暫く歩き続けると、湿気に身体が慣れて今度は冷えてくる。
「あっ、フー!おこんばんは!」
「…こんばんはに“お”は要らぬよ」
「どうしたの!? フーってお散歩が趣味だっけ!? 」
「察しはついている癖に」
既に姿は遠目より確認していたので、唐突な呼び声にも驚く事は無かった。
僕を狐(フー)と呼ぶ候補生の一人で、酷いマザーコンプレックス持ちの狸(リー)だ。
思った通り、着物裾を土に汚しつつ穴を掘っている。
「馬鹿だね、あんな奴の云う事なぞ無視してしまえ」
「だってぇ……一応ガマってさ、薬とかも卸してるでしょ?ぼくの家と被るんだよねえ生業、下手に刺激出来ないよお」
「それで君は、あいつの気紛れに殺した蟇蛙の墓でも作るってのかい、とんだお人好しだね」
「夏だよ?ちょっと離れてはいるけどさあ、もう臭ってるし……嗅ぐ?」
「二つ前の橋から判ってたからいいよ」
「えぇ、そんな方まで?そっち風下だからかなあ、それともぼくの鼻が麻痺しちゃった?」
畑から拝借したのか、鍬でざりざりと湿った土を掘っているリー。
脇に避けてある袋の中には、確認せずとも蟇蛙の死体が大量に入っている事が判る。
「ガマってば酷いよねー!蝦蟇の油を採取する為に殺すならまだしもさー!」
「あいつは蛙から油を採ってる訳では無いよ。ガマの油売りの様な口上をするから、あの仇名がついたのだろう?」
「えっ、そうなの?知らなかったやあ」
「煩いからと殺していたろう、面白半分の殺生だ。商品ならばあそこまで粗雑には処分しない」
「踏んだりナイフで裂いたり、んもー好き放題だもんねえ。これって蛙さん達は浮かばれるのかなあ〜?怪しいね」
ガマと呼ばれるあの男も、候補生の一人だ…だが、有力株では無い。
当人も自覚が有るのか修練はほどほどにしており、既に人脈を作る事に専念している。
そして、評価の高い僕とリーを甚振って遊んでいる。
「あっ」
「いいから、そのくらいにしておき給えよ」
「もうちょっと深くした方が良いんじゃないの?野犬が掘り起こしちゃうよ。そしたらあっちこっちに蟇蛙の死体が…里の空気も濁っちゃう」
鍬を持つ腕を横から捕え、袖ごと引っ張り穴から離した。
訝しんでいるのだろうが、リーの顔は結局いつも通り安穏として見え、やはり僕は苛々する。
「死体片しておけって…ガマが云ってたじゃない。やっとかなきゃ……またしばかれちゃうよ」
そのリーの視線を追えば、僕の着物の裾……脚を見ていた。
この怪我は「自分で殺したんだ、死体も自分で始末しろよ」と、僕が云い返した結果だった。
ガマの持つ護身の短刀と、ぴたりと一致するであろう傷跡。
まるで鍵と鍵穴の様に、加虐と被虐は合致するのだ。
「このまま続けば、蟇蛙の次は僕達かもねえ?爬虫類も人間も、これだけ殺せば似た様な物……邪魔で煩いと思えば扱いは同じだろうよ」
「そんなぁ〜ぼくはともかく、親も後ろ盾も無いし生意気なフーなんて真っ先に殺されちゃうじゃない!まずいよお!」
「君の馬鹿正直な所も、充分に生意気と思うけどね」
それよりも、と、僕はリーの耳元に囁く。
「オオバコの葉を集めておいでよ」
「何それ、どゆこと?」
「オオバコの葉だよ、知らぬのかい」
「知ってるよお、でも何するの?オオバコ相撲?」
「どうして此処で君とそんな事しなきゃいけないんだ、もっと愉しい事だよ」

大量の蟇蛙の死体を、穴に放った。
その上からオオバコの葉で覆い、落とし穴を下手に隠した様な光景が出来上がった。
管が無くても使役出来るの?とリーは首を傾げていたが、僕は「物は試しだ」と呪文を続けた。
次第に、臭いが変わる……単なる死臭から、霊的な死臭とでも云うべきか……
腐乱の甘酸っぱいそれとは、また違う傾向の臭いに移り始めた。
「うわっ!」
リーが驚き、数歩後ずさる。オオバコの葉を頭にくっつけたままの蟇蛙が、穴から跳び出て来たからだ。
それも、次々と。身体の半分千切れたモノから、時間が経過して肥大化したモノまで。
青黒くテラテラと脂ぎった、蟇蛙の死霊。
群れをなして、飛び出た目玉でぎょろぎょろと僕等を見上げた。
「フ、フー…」
「リー!下手に眼を逸らすな!刷り込みさせるんだ……僕等が使役者…サマナーだと認識させるんだよ」
読み漁った叢書の通りだ。小さな生き物ではあるものの、本当に甦った。
「す、すごぉい…頭が吹っ飛んだ奴まで蘇生してるよ!」
「完全な蘇生では無いし、完全な使役ですら無い。路頭に迷う死霊にしてやれるのは、先導だけだ…だろう?」
僕は興奮し、嗾けた。
お前達を殺した男は、向こうの里に居るぞ、と――……


霊酒つくよみ・中編




「ライドウ、ねてたでしょ」
ふと瞼を開けば、小さな指が耳元で騒がしい。
僕のもみあげを撫で上げては、反応を窺う様に首を傾げている。
「寝てない」
「うそ、だってスウスウしてたもん」
「感覚だけは残して仮眠していた、それだけだ」
「ねえ、あんまりひといないね、でんしゃガラガラ」
車窓から景色を見れば、意識を飛ばしていたのはほんのひと時だ。
それにしては鮮明な夢を見た、久々に蟇蛙の話を掘り起こしたせいだろうか。
しかも今回はガマが絡んでいる、記憶が炙り出されても仕方の無い事だ。
「ねえねえ、なんでココこんなにとがってるの?しゃきーんてしてる」
「僕が意識的にそう生やしている訳では無い」
「いたっ!」
まさかと思いちらりと横目に見れば、もみあげから指を退けた人修羅が、えくぼを作って肩を弾ませた。
当然だが指先に傷は無い、あってたまるか。
「あのね、うそ!」
「分かってるよ」
「だってライドウもうそついたもん……」
「少し気を引き締め給え。あの紋様を出したら君、大変な事になるからね」
「はーい」
擬態をさせる事に手間取った、僕にはその能力が無いので説明のしようも無かったから。
とにかく、他人の居る場所では身体の紋を消せ、とだけ訴えた。
やり方などは、当人の感覚に任せる他は無い。
「紋様が有る限り電車はおあずけだ」と云えば……人修羅はぐずりつつも、するすると紋様を溶かしていった。
ある意味扱いは楽かもしれない、御褒美をちらつかせてやれば素直なものである。
「降りる、下駄を履き給え」
「まってまって、ライドウまってー」
床に揃え置いた下駄に、指先をするりと通す人修羅。
既に立ち上がった僕の後を、ぱこりぱかりと踵を鳴らしてついて来る。
車掌のパスで僕は改札を抜け、人修羅は子供切符をごそごそと取り出…………てくる様子が無い。
「ない」
「は?」
「おとしちゃった……」
これが普段の人修羅なら、嫌味のひとつでも飛ばせたろうに。
幼い体躯のこいつにそれをする事は…僕の、ある種の自尊心が赦さなかった。
ぐずる背中を押し、衣嚢から小人運賃分の小銭を出す。
『それらしい物は見なかったぞ』
「童子の視点からも見えぬとなれば、やはりあの場で捜す事は避けて正解でしたね」
『失せ物は捜そうとすれば見えぬでな、いつもの人修羅もやや抜けているが……童ならば尚更、管理を任せるべきでないだろう』
「あの短時間で紛失ですか、やれやれそういうのは果たして“躾”で如何にかなるものなのでしょかね?」
ゴウトと話す僕の顔色を、道中チラチラと窺う人修羅。どうやら反省はしているらしい。
そういった辺りは普段の彼よりも幾分、可愛気が有る。燻る苛立ちと妙な違和感も、やや払拭はされる。
あくまでも幼子の愛嬌であり、良い歳でそれをされた所で…微笑み返しに済ませてやる僕では無いが。
「あっ」
今度は何だろうか、周囲の気配を確認し人修羅を振り返った。
突然擬態を解除されようが対処は出来る、子供に踊らされる訳も無い。
「きっぷあったー!」
くるりと此方に背を剥け、靡く兵児帯をくいっと突き上げた。
やや前屈みになり足の踵を浮かせた人修羅の…下駄側に残るは小さな紙切れ。
『ほほう、これは見つかりもせん筈だなライドウ』
鼻で笑った童子が、踵と下駄に挟まれひしゃげたソレをすっと咥え取った。
踵が柔らかだったのか、それほど擦れてはいない様子だ。
「何故今更気付くんだい、踵に違和感は感じなかったのか」
「ごめんなさい……」
椅子から降り、下駄を履いた時点で気付けたろうに。
それほど鈍いのか?悪魔の感覚は鋭敏では無いのか?本当に君は愚鈍、愚図だ。
「……別に謝罪が欲しいのでは無いよ、次はしっかりと切符を握っていれば良い。解決策を考える事が反省だ……いいかい功刀君」
「そうする!」
潤んでいた眼が細まり、僕を見上げて微笑んでくる。
それに僕の汚い言葉はやり場を失わされ跳ね返り、この心臓を貫く思いだ。
幼児相手の苛立ちなのか、ガマにしてやられた憎しみか、僕の中が時化ている。
ゴウトに渡された切符を指先に携える、幼い踵に圧迫されたそれが湿気ている。
「履物屋に寄る」
「はきものや?だいがくいもは?」
「寝過ごしたから降り損ねた、三河屋は今回無しだ」
「やっぱりねてたんだライドウ!」
うくく、と肩を竦ませ笑う人修羅に、やや目許が引き攣った気がする。
折角下駄を新調してやろうというのに、出資元を煽って如何する。
歩く度にぱこりぱかりと煩いから、僕の耳に悪いから、そうするだけだ。



「ねえねえライドウ、さっきのおみせのゲタなんだけどね、ゲタのうらのね、でっぱってるトコが一ぽんだけのゲタがあったけど、あのゲタであるけるの?」
「下駄下駄煩いね、少し言葉をまとめてから発言し給え。あれは“歯”という部分だ」
「ゲタゲタわらってないよ、やーくん」
「……早く食べたら如何だい」
「そうだった、とけちゃう!」
指摘すると、いちいち「しまった」と云わんばかりの大げさな反応が苛々する。
子供はこういうものだったか?里に居た頃はどうだったか、周囲の餓鬼共は……僕自身は。
「一本歯の下駄は、歯が高いほど重心が上に来る。脚の筋を妙に張らず、傾きに身を任せれば自身の力を殆ど使わずとも動く事が可能だ」
「わかんない…」
「不安定と思うかもしれないがね、ああいう物は慣れると身体への負担が軽減出来るのだよ」
慣れたらば、の話だ。一本歯が最良とは誰も云ってはいない。
本来は二本歯だった下駄が破損し、片歯になった場合は均衡も糞も無い。あれは本当に駄目だ。
「よくわかんないけど、イイモノってこと?じゃあやーくんも、あれにする!」
「フン、慣れる前に転けて泥だらけになるのが関の山さ。余計な選択は省く主義なのでね、僕」
「せんたくなんかいもすると、ほすところなくなっちゃうもんね」
それでは無い、と突っ込めば負けな気すらする。
スプーンの止まった小さな手を見つめ、僕は腕組みを解いた。
「……食べないのなら、僕が頂くよそれ」
「だめっ」
「だって君、止まってるじゃないか」
喫茶店のアイスクリームだ、至って普通だろう。
此処の仕入れ先は把握している、深川の富士乳業だ。
それに人修羅が一口目を頬張る前に僕が口にした、妙な味は無かった。それとも、幼児化して味覚が変化したのだろうか。
「やーくん、カゼひいてるのかなあ……なんか、バニラわかんない…」
いいや、違う。
そのままだ。
悪魔へと変質した際に、舌の感覚が薄らいだ事は把握していたではないか。
よく当人が愚痴として零していた、呪い言の様に、その後遺症を。
「……だってそれ、バニラのアイスでは無いからね」
「やっぱり?やーくんげんきだから、カゼひいてないよね?あまいからすき、ぜんぶたべるっ」
安堵したのか、残りはもくもくと掬って唇の隙間に仕舞いこんでいる。
人修羅という自覚は失せてしまったのだろうか?呑気に頬張る姿は、向かいに座る少年を只の人間だと錯覚させる。
疑う事もしなかった……
僕がライドウを襲名し、此処に初めて訪れた時と同じ味だ、その“バニラ”アイスは。

「おっ、ライドウちゃん今日は小っさいの連れてるじゃねえの」

テーブルの横で立ち止まる影。人修羅はスプーンを咥えたまま首を傾げ、視線をその影に向けている。
僕は見上げずとも声で判る、刑事の風間だ。
人修羅の隣にドカリと腰を下ろされても面倒なので、即座に僕が横へと着座をずらす。
「悪いねえ、へっ……ちょっくら用事有ったからソッチに行こうかと思ってたんだが、どうやら此処で間に合いそうだ」
思惑通りに隣に座られ、ソファの別珍が軽く啼いた。
水を運んできた女給に片手を上げ制するのを見る限り、本当に一瞬の用事か…この後席を移るのだろう。
「何の用事です、先日お渡しした品以外には持ち合わせておりませんよ」
「おう、あの薄っ気味悪ぃ酒!夕間暮れに押収品の部屋に入ってアレ見るとなあ……中に海月みてぇに漂ってる花がな…なんだかじわじわ、まーた赤いの吐いてる様に見えるんだがよ、俺の気のせいかね」
「ホワイトリカーが好い具合に赤ワインと成ったでしょう?フフ…」
「けっ、ライドウちゃんからの寄贈品だけで見世物小屋が作れそうだぜ」
喋りを続けながらも、テーブルに数枚の写真を並べ置いた風間刑事。
レンズを通して薄ぼんやりと存在を主張する姿が、どの写真にも写り込んでいた。
「未解決事件の現場複数、全部即座に撮らせたやつだ」
「まずは人間の中から捜して下さいね、この写り込んだ“連中”とて通行人の可能性がありますからね」
「ボケボケで俺にゃ何が何だか判んねえが、ライドウちゃんにはどの悪魔かまで判ったりするのかい」
「輪郭線や発光部でそれなりには」
「へえ、俺達が同業の……マッポにピンとくるのと似てるなぁ、その辺に紛れてても判るからなぁ」
僕に預けるつもりだったのだろう、そのまま写真を束ねるとテーブルに置き去りにしたまま風間刑事は手を退いた。
他の資料ではなく、ベストの胸から煙草の箱を取り出し始める。
刑事としての用事は終わったという事らしい、長居する必要は僕等に無い。
人修羅もスプーンの先を軽く噛んで待ち惚けている。真の待ち惚けは、外で待機しているゴウト童子ではあるが。
「ところでこの小僧っ子、随分でけえ隠し子じゃねえの。帝都に来る前にこさえたんかい?」
「僕がそんな失敗をやらかす筈無いでしょう」
「ま、それもそうだな……ん、点かねえ畜生め……いよいよ夏だな、湿気てやがる」
マッチに睨みを利かせる風間だが、ほぼ同時に僕の手が動いていた。
風間刑事が愛煙する八千代をテーブル上から拾い、そのまま彼のベストの胸ポケットに送り返す。
既に抜いていた一本を歯で甘噛みしつつ、訝しげに僕を見る風間刑事。
「おぅ、ほひた」
「子供の手前、帝都警察が煙を吹きつけるのは如何かと思いまして」
「はへへ、イヤにやはひぃな」
「フン、貴方の面子の為ですよ風間さん。それに、後々で彼に「喉が痛い」と嘆かれても煩いのでね」
「へへへ、わぁったぉ」
ニタッとした風間刑事が、咥えていたソレを空いた指で挟み込もうとした矢先。
唐突にポッと、赤く点る煙草の先端。
呼吸を引き攣らせた風間刑事の息遣いと共に、ジジ、と燻った。
僕は咄嗟に人修羅を睨んだ。案の定、唇をひょっとこの様に尖らせて、MAGに眼を薄っすらと光らせていた。
気付かれたろうか?風間刑事の視線は、未だ人修羅には向いていない。
先手を取って、退散するが最善か。
「驚きました?」
「…ぉ、おおびびったぜ……何だいライドウちゃんの仕業け?」
「召喚し、マッチの代わりにと……しかしこんなにも至近距離で感付かぬとは、現場に悪魔が群がっていても気付かぬ筈ですね」
「へぇ、何処ら辺に居るんだよ、今」
「イヌガミという悪魔ですよ。ひょろりと貴方の肩に、襟巻が如く寄り掛からせましてね…フフ」
耳元で唱えれば、双肩をぶるっと震わせる風間刑事。
勿論出任せであり、この場でイヌガミを召喚してはいない。
人修羅の目線が泳ぐと思い、読心の狗は暫しの欠席である。
「おい、これで肩こったらライドウちゃんが揉んでくれよ?」
「ではそれも悪魔にさせましょうかね、力強い蛮力の連中に……」
「わ、わぁーったって、いいからさっさと掃ってくれや」
「御安心を、僕等はもう失礼しますので。その一本はどうぞ、ゆっくりと御賞味下さい」
「どうかねェ……子供連れてカフェー来る余裕有るんなら、もう一件程頼みたい事が――……」
僕は目配せしてから席を立ち、スプーンを放した人修羅の衿をくいっと摘み上げる。
「ばいばいおじさん!」
小袖を揺らし手を振っている人修羅、その相手はいつも君が渋い顔を向けていた刑事だというのに。
律儀に手を振り返す刑事を脇目に確認しつつ、会計を即座に済ませる。
足止めしておく方が良いかもしれない。
「あの卓の喫煙者に、水出し珈琲を追加で」
カウンターへ余分に紙幣を置きつつ、サービスのマッチを受け取る。
扉の鐘をいつもよりけたたましく鳴らしながら退店した。
既に薄暗い街路、待ち惚けのゴウト童子が空気に紛れて眼だけを浮かばせている。
『どうした、お主にしては乱雑な開閉だったが』
「失敬、そろそろ幼子は外出すべき時間では無いと、周囲の目が咎めて参りましたので」
『周囲の目なぞ気にするお主か?』
「あのまま居座れば、刑事に職務質問されそうでしたのでね」
『ハッ、誘拐犯扱いか?少しは真面目に答えんかライドウ』
この黒猫まで煩いではないか。僕の問答への追及など、普段はほどほどだというのに。
無視して歩みを進める、隣から妙な音はもうしない。
下駄の歯が素直に、石畳を踏み鳴らす音だけだ。
「おつきさま!」
めいっぱいに上を向いて唱えた人修羅の眼は、何処か爛々としている。
肥えた月齢だ…あまり良い影響を及ぼさない。
このまま暗い道だろうが、蔵元へと直行しようと思っていたが……今宵は一所に留まり今夜は監視すべきかもしれない。
窓灯りの無い銀楼閣を見上げた僕は、妙な溜息が出てしまった。
鳴海所長が起きていない、もしくは不在な事を、心の隅で安堵していた。
顔見知りと遭遇するたびに「隠し子か?」と訊かれる事に、うんざりし始めていたのだ。



「ねむくない」
「寝給え」
「おつきさまみえるのに、なんでねむくないのかな」
そんな事判明している。大して消耗しても無い上に、君が人では無いからだ。
夜中に眠る素振りを見せて、人間と同じ生活に必死にしがみ付いていた事を忘れたのか?
「では功刀君、眠くなる様なお説教でも聴かせてあげようか?」
「わーいきかせてきかせて!」
白けてしまう、お説教の意味が解からないのだろうか。
軽くシャワーを浴びせ、大判のタオルを寝間着の代わりに巻きつけた。
僕のベッドに自ら飛び込み、はしゃぐ姿の皮肉さよ。
枕に抱きつき、すんすんと鼻を鳴らしている。小さな背には、まだ紋様は戻っていない。
「いいにおい、おぶつだん」
「だから白檀だと云っているだろう」
「ライドウはねないの?またがっこうのふくきてる、パジャマは?もしかしてびんぼうなの?」
「あのねえ、僕はかなり稼いでるよ。格好に関してはね、有事の際すぐに身動きが取れなければ意味が無いからさ」
「ライドウもねないなら、やーくんもねないもん」
ほら、まただ。我儘な所は、全く変わっていないではないか。
幾分素直とはいえ、子供は折れる事を知らぬ、身や骨どころか精神も柔軟なのだろうか……
「分かったよ、僕も寝るから君も寝給え」
学生服を脱ぎ始める僕を、タオルに包まったままじっと見つめて来る。
真夜中、薄暗い部屋でMAGを注いでやった後、ぐったりと僕を見つめてくる眼を思い出す。
ただし今、目の前にある眼に、恨めし気な色は無い。
「寝る時は解いて良いよ、擬態」
「ぎたい?」
「……ツノを生やしても良いよ、横向きかうつ伏せにしか寝れぬだろうがね」
「はーい」
するすると黒い影が、人修羅の身体を奔る。
縮小化した様な紋は、蝶のそれに近く感じた。
「まくらおっきいから、ツノぐりぐりならないよっ、ほらっ、ほらっ」
後頭部をぼふっぼふっと何度か枕に叩きつけ、御機嫌そうである。
そんなどうでも良い事でいちいち笑顔になるのは、果たして疲れないのだろうか。
「仰せのままに着替えたろう、早く寝てくれないかい」
麻の浴衣を着流して、軽く帯で括る。
肘をシーツにつかせ隣に寝転ぶ僕に、脚をぱたぱたとシーツに叩きつけ寄って来る人修羅。
管数本と尺の短い刀を、人修羅とは反対側に寝かせた。
「はやくはやく、おせっきょう」
「何かと思えばそれかい、全く…………さっき、風間刑事の煙草に火を吹きつけたろう」
「うん、なんかね、しなきゃいけないとおもったの」
「人前でしてはいけない」
「なんで?」
異端と扱われる恐怖心が無い事は、確かに成長を妨げないだろう。
一瞬で、人間の世には住めなくなるが
それを本来疎む君が……幼く朦朧としたこの際に、これまで築いた意固地な矜持を崩落させてしまうのは……
僕も、あまり気分が好くなかった。
「何故って、君は普通の人が火を吹けると思っているのかい?」
「サーカスのひと、ボーってふいてた」
「君はサーカスの団員では無いだろう。それにあれはね、引火点が五十℃以上の燃料を口に含み、噴射した所を着火しているのだよ」
「でもやーくんも、ふーって、ふきだしたもん……」
「何を」
「うーーんと…なんだろ……ひをつけなきゃ、っておもったらね、からだのナカから…つめたくてあついのがじわじわのぼってきたの」
MAG…つまり生体エネルギイを、魔法として変換した際の感覚を云っているのだろうか。
普段の人修羅ならば言及しないそれは、子供の抽象的な発言だからこそ言葉になり得たと推測する。
「サーカスのひとはふいていいのに、なんでやーくんダメなの?」
「間違えて、周辺に引火しては困る」
「さっきからインカインカってなあに?“インカのめざめ”のこと?」
「……何だいそれ」
「あっ、ライドウしらないんだー!」
笑顔というよりは、小癪な感じの笑みを浮かべた人修羅。
何だろうか、未来の事だとすれば、僕が知らぬも仕方の無い事と思えるのだが。
「もしかして君、まだ僕に見せておらぬ技では無いだろうね」
「……そう!ひっさつわざ!でもみせてあげないもん」
マガタマが胎内で頭に直接語りかけて来るそうだ、己の名と技の名を。
人修羅が命名している訳で無い事は知っている、ただこの様に当人の口から聞ける機会は珍しい。
「ねえそれはどの様な効力なのだい、どのマガタマで会得するのだい、ねえ」
「やーくんねむくなっちゃった」
「嘘を吐き給え、そんな気配(MAG)では無いだろうに、白状し給えよ」
「んん〜っ!ひはははっ、やだやだぁやめてライドウっ!」
「ほらほら、答えなければ死ぬまで続けるよ?」
「やぁ〜だーーっ!」
片腕と片脚で羽交い絞めにし、ツノの麓を指先でくすぐり続ける。
留める術を知らぬのか、こんな事ですらMAGを発散させている小さな体躯。

 「やめろ……この……好色野郎が……っ、や、だ、ぃゃ」
 「ほらほら、何処が一番感じるの?MAGだけでは無いのだろう?好色は誰かな……フフ……答えなければ死ぬまでお預けだよ?」

ぴたり、と、くすぐる指を止めた。
ぜえはあと呼吸を荒げつつ、不思議そうに首を傾げ僕を見つめてくる幼い金眼。
「はーっはーっ…どしたのライドウ、やーくんまだしんでないよ」
「……いつもは僕を殺してやると唱えるくせに」
「そんなこといってないよ?ねえねえ、やーくんいきてるけど“インカのめざめ”おしえてあげないよ」
「知る気が失せた、ほら早く寝給え」
「えーっ、つまんない……」
しょぼくれる人修羅の乱れたタオルを巻き直し、更に上から薄手のキルトで覆う。
夜風に揺れる窓布、透過し降り注ぐ満月の光を遮断し、鎮静を促す。
「ねえライドウ、おやすみ」
「おやすみ」
効果は有った様子で、キルトの膨らみの上下が次第に落ち着いてくる。
鳴海所長が目覚め起きるより早く、明日は此処を発たねば。
(満月に僕も高揚しているだけだ、何も可笑しい事は無い)
睡眠の予定は本来無かったが、僕も早いところ鎮静化させたかったので眠りに就く事と決める。
身悶え悲鳴で嫌々をする人修羅を眺めていたら、まさかという程に思い出してしまったのだ。
性的な現象に惑わされる事は殆ど無いと、自負が有った事が拍車をかけて己を呪う。
体躯は違えど、記憶が脳内に見せるヴィジョンは歯止めの利かぬ幻灯機の様で。
下肢の膨らみが落ち着くまでは、幼い寝息に耳を澄まそうと思った夏の夜。




霊酒つくよみ(中編)・了
* あとがき*
迷いましたが、あまり長いと掲載が遅くなるので中編という風に分けました。
戦闘も無い子守りパートとなってしまいましたが、今回はもう割り切りました。
チャッカマンとして利用していた事が、ここでアダとなるとは…
そういえば以前のSS『揺籃歌』に出したリーを、再びちょこっと出しました。憶えている人は居たろうか…

《小ひさき窓より》
上司小剣(かみつかさ しょうけん)の、大正4年の出版本。エッセイに近い。近代デジタルライブラリーでスキャンされた現物が閲覧可能。「アイスクリン」ではなく「アイスクリーム」との表記だった為、今回はそれに倣った。

《マッポ》
「警察官」の隠語、大正には既に使われていたらしい。張り込みを「まつば」と称していた事から、だとか他多数。諸説入り乱れているので明言出来ない。

《八千代》
大正天皇即位の大礼を記念して発売された煙草。

《一本歯の下駄》
考察は「おばけずかん」様(http://www.obakezukan.net/)の「おばけずかん絵手紙:012一本歯の高下駄」より。

《インカのめざめ》
御存知無い方は調べてみて下さい、多分笑っちゃいます。とりあえず必殺技では無い。