「コーヒーにがい」
「あららら、ゴメンね〜そうよね子供にはちょっと苦いわよね」
猫撫で声のタヱが鳴海へと視線を投げ、いつもの語調に戻る。
「ねえ鳴海さん、牛乳なんかは無いのかしら?」
「ウチは牛乳取ってないからなぁ」
ヘラヘラと答える鳴海だが、その返答は事実とは異なる。
人修羅が調理に使用するからと契約し、毎朝一本だけは確実に配達されているのだから。
鳴海が目撃した事が無いだけであり、空き壜も毎日回収されている。
僕は冷蔵の棚を開き、ブフの様な冷気に一瞬さらされつつ壜を取り出した。
「有りますよ」
「まあライドウ君ありがとうっ、私とした事が鳴海さんの言葉を鵜呑みにしちゃったわ」
汗をかき始めた壜を手渡せば、葵鳥がにっこりと微笑む。
僕は特に微笑み返す事もしない、口角は常と変わらず上向きだ、問題は無い。
「しかし葵鳥さん、僕はその子供を連れて行かねばならぬ所が有るのでしてね」
「はーい牛乳入れたら少しは飲み易くなるからね〜」
「あまり遅くなると面倒なのですよ、聴いております?」
「ライドウ君に珈琲淹れてもらうなんて久々ねえ、ホラ、最近は矢代君に淹れて貰ってばかりだったじゃない」
「其れを飲ませ終えたなら、もう連れ発ちますから」
「そういえば矢代君は何処?」
自らも冷製珈琲を啜る葵鳥、真横に居る子供の正体も知らずに……
「のめる〜」
「ね、飲み易くなったでしょう?大人になったら牛乳入れなくても飲める様になるからね〜」
「つめたい、のどひんやりする」
葵鳥さん、そいつは成長したところで珈琲を飲めば眉を顰めますよ。
舌の感覚が鈍ろうと、豆の苦味には敏感だったそうですからね。
今そうして笑顔を振り撒き、珈琲牛乳を飲み込んでいるのも、涼を得ているからこその快感でしょうに。
そいつは人間とは違うのだから……
「しっかしアレねえ、ライドウ君も大変ねえ。鳴海さんの尻拭いだなんて」
ソファ横にて、出立待ちの姿勢で佇む僕に投げられた言葉。恐らくは、勘違いをしている。
この女性記者、何事も推察するのは良いが全正解だった事は皆無なのだ。
「残念、鳴海所長の隠し子では御座いません」
「あらそう、これは失礼」
「僕の知る限りでは、所長が起こした帝都での与太事は“過ぎたツケが災いし、その場でスーツを剥がれた事”と“梅毒に感染した事”程度です」
「何それちょっと詳しく聴かせて頂戴」
「其処に当人が居りますのでね、直接訊いた方が早いかと思いますよ」
「だって絶対正直に答えてくれないもの、ねえちょっとライドウ君ってば!」
珈琲を勢い良く噴射した鳴海は、染みになったシャツの上を脱ぎにかかっていた。
すぐに洗わねば落ちぬだろうが、生憎と洗濯係は不在……もとい、休暇中なのだ。
袖を引っ張る葵鳥をやんわりと制し、僕は革鞄の中から引き抜いた数枚を突き付ける。
「……んま」
「今後マッポが蔓延るでしょうね、まだ産まれたばかりの事件です」
「この景色からすると……晴海?公式発表はまだって事よね……ねえ、この写真何処で手に入れたの?」
「フフ、僕の珈琲代は高いですよ葵鳥殿」
「前はタダで淹れてくれたじゃないの、もぉ〜っ」
写真と引き換えに、手帳の切れ端を受け取る。
走り書きではなく、清書済みだ。つまりこれは書き写した物。
学者や各界の著名人から、彼女が個人的興味で集めた質疑応答の結果達。
こういったものは、頭の隅に留めておくほど意外な所で繋がるので重要だ。
葵鳥にとっても、用途は多用だろうが……確か彼女はノンフィクション作家を志しているので、その為の下地なのだろう。
「有難う御座います」
「まぁ良いけれど……でも私より先にデビューしたら、怒っちゃうわよ?」
「書評としての解説を書いて差し上げましょうか?」
「意地悪ねっ、もう!」
すっかり飲み終え、脚をぶらりぶらりと泳がせている人修羅の肩を叩く。
ソファから降り、葵鳥と鳴海に小さな手を振って別れを告げた人修羅。
僕はその掌に紋様が浮かんではおらぬかと、普段なら気にも留めない事で神経を削っていた。


霊酒つくよみ・後編




「あのおじさんからもらったシャシン、タエちゃんにあげちゃったの?」
「君が気にする事では無い」
「ねえねえ、やーくんもシャシンサツエイしたい」
「そんな暇は無い。全くね、そもそも君がぐずって起きぬから朝倉記者に捕まったのだよ」
「どうしていそいでるの?ライドウ」
無回答で良いだろうか、述べた所で幼い頭では理解も出来ぬだろう。
僕は子供が好きでは無い、そして使い魔として機能しない悪魔は不要なのだ。
「おかあさんもいそがしそうだった」
「君には父が居らぬのだから、当然さ」
「でもおやすみのひにね、やーくんあそんでもらってたの。どうぶつえん、すいぞくかん、ゆうえんち……」
僕とて、幼い頃に縁は有った。
野生の獣が住まう山、水妖が引きずり込んでくる水辺、からくり仕掛けの修験界。
「えほんもよんでくれたよ!やーくんときどき、とちゅうでねちゃったけど……」
書物は数え切れぬ程読んできた筈だが、思い起こせば児童向けの物を読んだ記憶が無い。
読んだ記事の中に“絵本”という記述を見た程度だ。
帝都に出た際、歯車が噛み合わぬ事の無い様に。日本國の流行り廃りを頭に叩き込んだ、冊子を取り寄せてまで。
田舎が都会が、などという問題では無い。僕はただ「葛葉一門であれ」「一門はカラスの手足となれ」と、教育される己を呪っていた。

<夜よ、そなたの両親など、おらぬ>
<そなたの父は里と思え>
<帝都は母なのだ>

愚かしい……ヤタガラスめ。
世に産まれ出でる子の、父も母も人の形をしている事を……僕は幼き頃から知っていた。
偶々、親の居らぬ捨て子だからと、好い様に洗脳するつもりだったのだろうが……僕は愚鈍であるつもりは無い。
ゴウト童子が一門の在り方を変えようとしていようが、それすら関係無い。
幼き頃には既に、岐路に立たされていた、それだけだ。
「わあ、クルマだ!」
「電車の無い方面に行くからね、車の通れる所までは此れで向かうよ」
郊外にてオボログルマを召喚し、後部座席へと人修羅を促す。
扉はゆっくりと自動で開閉するので、人修羅が一段と増した興奮を見せる。
「タクシーみたい」
「似た様なものさ。コイツが判断して動かしているのだから、車体でもあり運転手でもある」
「ライドウがうんてんしないの?」
「だから云ったろう、この車が運転手なのだよ」
助手席の後部を人修羅の席として、僕はその隣に乗り込む。
がらんどうとした運転席には、ゴウト童子がするりと跳び乗った。
『お主が操舵を取らぬとは、珍しいな』
「後ろで勝手に粗相をされては困りますのでね、とりあえずはオボログルマにやらせようかと」
『云いながらにして運転席には猫か、フッ』
「前方確認はお任せしますよ童子」
車体が微振動にて暫く唸りを上げた後、車窓からの景色が流れ出した。
窓に張り付く人修羅が、外と内とを交互に見ては訊ねてくる。
「はしってる!? おとしなかったよ、ぶるるっていわなかった」
「仕組みが違うからね」
「しくみ?」
「油で走る車とは違うのだよ」
「あーっ、やーくんしってる、でんきじどうしゃっていうの!でもテレビでしかみたことない……」
「電気とも違うよ……この車も君と同じだというに、判らないのかい?やはり色々と退行しているな」
背の高い建造物は最早遠く。流れ往く景観は、鮮やかな緑や夏の空雲ばかりとなってきた。
田園と向日葵畑が地平を埋める箇所では、人修羅が窓を開けようと辺りを探り出した。
『開ケマショウカ、御主人様』
唐突に響く声に覚えが無い為か、動きを止める人修羅。
僕と童子にとっては慣れた声音であり、何者が発しているかも承知している。
「開けずとも良い、身を乗り出して落ちられては面倒だ」
『貴重品ヲ運搬中、了解』
「……僕の方の窓を開けて貰おうか、速度は落とすな」
『後方確認、了解』
「硝子は全開。前方に障害物が居る場合、対象に応じて判断しろ。通行人回避、攻撃してくる者は轢け。進路は道なり、竹林が見えてきたら知らせ給え」
リボルバーの撃鉄を起こす僕に、人修羅が着座位置をずりずりと寄せて来る。
景色よりも、声の正体に興味が湧いたのだろう。
「ねえ!もしかしてしゃべってるの、このクルマ!?」
「あまり此方に来ないで欲しいのだがね」
「ねえねえ、やーくんもクルマとしゃべっていい?」
開いてゆく窓、頬を撫でる風は少し湿り気を帯びている。
西日が眩しい時刻だが、進行方向と逆を今から見るので問題は無い。
相手からは此方が逆光で判別し辛くなり、好都合だ。
「オボログルマ、僕以外の指示は無視し給え」
『了解、十四代目葛葉ライドウノ音声ノミヲ認識』
「あーっ、いまライドウいじわるした!」
「何が意地悪なものか、これだから子守りは好かぬのだよ」
後部硝子から既に確認済みの、オートバイ。
西日に染まる茜色では無い、車体が真紅をしている。
『赤バイ……警察か?』
「それを装った別の連中でしょうね。交通取り締まりの赤バイであれば、車一台に対し複数追尾は非効率的」
ゴウトが座席の背もたれから顔を覗かせるので、僕はリボルバーを握った手を、軽くフロントに仰いだ。
フウッと啼いた黒猫は、やれやれといった素振りで姿勢を直す。
そうだ、童子には前を警戒しておいて欲しいのだ。仲魔だけでは判断に迷う要素も有るだろう、予測運転が大事である。
『追って来るという事は……どう読むのだライドウよ』
「読むも何も、現状から察するにガマの使いでしょう」
『ほう、随分と云い切るな。もしも警察ならば如何するつもりだ?今の速度が取り締まりの対象であれば、奴等は本物かもしれんぞ?』
「そうですね、制限は16km/hと定められておりますので、現在このオボログルマは50km/h程度の超過に御座います」
『堂々と違反中ではないか!一旦銃を納めろライドウ!しっかり確認をしてから臨戦態勢に入れ』
「大丈夫ですよ童子、警察の輸入した車両は《米国インディアン社製、1,000cc》、追尾してくる連中の車両はその形とは異なります。そして普通のオートバイに、ここまでの速度が出せる筈が無い」
開かれた窓縁に、銃身をカツリと傾けてみたが、黒ずくめのライダー達は車間距離を変えずに追走して来る。
だが、先頭車両を運転する者の動きが、少し乱れた。
ハンドルを握る片手が一寸離れ、ばたつく襟元を探って再びハンドルへと戻ってゆく。
「あっ、ヒトデさんだー!すいぞくかんでみたのより、おっきい」
座席に膝立ちし、完全に後ろを眺めている人修羅がはしゃいだ。
召喚されたデカラビアが視えている様子に、僕は内心で溜息を吐いていた。
まさかその様な所から教えるつもりは無い、一から教える事は骨が折れる。
『ふむ、同業者だな』
「銃を見たならば、警察は止まるでしょう。オートバイに乗りながらの銃撃戦は不利ですからね、銃撃無効の悪魔を盾とした方が早い……僕も今、こうしてオボログルマに乗っておりますしね、フフ」
『……近付いてきているな、デカラビアがそろそろ追いつくぞ』
「童子は先の障害物確認を願います、後ろの相手は自分が致しましょう」
シートベルトを片脚に巻き、其処を触媒にしてMAGを流し込んだ。
油でも電気でもないのだ、この車を動かす燃料は。
「やーくんもシートベルトする?」
「そうだね、大人しく前を向いていておくれ」
「でもヒトデさん、もっとゆっくりみたい」
「オボログルマ、もう10km/hほど加速し給え」
「またライドウいじわるした〜!」
平行に身体を向けたデカラビアが、回転しながら此方へと目掛け迫る。
試しに一発見舞ってやれば、即座に身体を傾け五芒星の盾と化す。
それならばと継いで二連射。二発目の照準をややずらし足の隙間を狙ってみれば、軸を回転させ足に当てているデカラビア。
「フフッ、なかなかに調教されている」
巨大な眼がくわりと見開かれたのを確認し、乗り出していた身を車内へと引っ込める。
あれは衝撃魔法を発する前兆だ、オボログルマを更に加速させる事を優先しなければ。
脚に喰いこむベルトがジリジリと吸い上げるMAG。隣でじっと見つめてくる人修羅が、その蛍光色に眼を光らせている。
「おいしそう」
ぽつりと呟かれた言葉が、脳内で勝手に低音となって復唱された。
本来の人修羅は僕のMAGに逐一賛美などしなかったが、餓えた身体に注いだ時の眼はそれでも充分に訴えてくる。
言葉など不要な程に鮮明な輝きを帯び、それはそれは格別なものだった。
『引き離せるのか?お主にしては悠長だな、更に召喚されたら厄介だぞ?この車は狭い、砦にも棺桶にも成り得る』
「連中、僕等の足は止めない筈ですよ。目的地の近隣まで案内させるつもりでしょうから」
『ははあ、例の蔵元か?』
「その通りに御座います」
迫るザンダインが畦道を掃除するかの如く、砂埃を巻き上げ草木を拓いた。
車体がその攻撃に揺れる事は無かったが、オボログルマが一瞬クラクションを鳴らしたので、恐らくテールにかすめたのだろう。
『御主人様、五百メートル先ニ竹林ヲ確認』
「そうかい、では僕に操舵を任せておくれ」
僕は人修羅をシートベルトから抜き上げ、座席の背凭れを乗り越え前方に移る。
担がれた人修羅はきゃっきゃと笑いされるがまま。愉しい予感に胸を躍らせているのだろう、呑気な奴。
『ライドウ、竹林にこのままでは突っ込む形になるぞ』
「だから僕が運転すると云ったのですよ。ああそうそう、お次は後部確認を願いますね童子」
『簡単に云いよるなお主、速度が緩まったので後ろの危険度が増したろうが、それを我に――』
「お身体が小さい貴方の方が避けやすいでしょう?」
人修羅を助手席に座らせ、シートベルトで固定する。
わざとらしく手足をばたつかせるので、リボルバーのグリップで脳天をコツリと叩いてやった。
「いたい」
「大人しくし給え、暫く揺れるからね……オボログルマ、前方左席の装甲を固めろ」
「ねえねえ、ゆれるってジェットコースターより?」
「さて如何だろうね?僕はそれに乗った事が無いから判断しかねる」
「やーくんもしんちょうたりないから、まだのれないの」
「それでは比較出来ぬではないか、例として挙げるでないよ。本当に話の筋が通ってないねえ君」
「あのね、でもメリーゴーランドはのれるの、それでモガッ」
「美味しいだろう?分かったら大人しく舐めているのだね」
煩い口には普段ならば銃口でも突っ込む所だが、手持ちの飴で済ませる。
ころころと頬の内側で転がす様子を確認し、僕は小さな唇から指を抜いた。
幼い唾液にほんのりとしたMAGを感じながら、それを外套の端で拭う。
「さて、先述の通り揺れますからね」
『衝突せんのかライドウよ!? 狭い所では相手の方が有利でフギャッ』
がくんと向きを変えた車体に、ゴウト童子も転がった事だろう。
竹林と云っても、まだ隙間の多い範囲だ。遊歩道の名残が車体を通す幅は有る。
此処の地理は僕の方が、追手の奴等よりも把握している。
笹葉に埋もれきらぬ枕木が、オボログルマを揺らし、中の僕等を跳ねさせる。
左右のミラーに竹が掠れるか否かという通路幅だが、まだ速度は落とさない。
『おいっ!フゴッ!運転がっ、荒いぞライドウッ!』
「警告はして御座います、童子っ、フフ……!」
フロントミラーで後方を確認すると、シートを右へ左へと転がる黒玉が視界に煩い。
それを無視し、更に向こう側……車体後方の後続車達を見た。
蛇の様な道、波の様な枕木が、後方のオートバイを振り落としにかかっている。
結局、距離を開けずに追尾してきたのは、召喚されたままのデカラビアだけだった。
『ボベッ!! 』
「さてこの辺りで充分でしょう、オートバイの質は良くとも運転手の技量が足らぬ様子で」
『っく〜……止まるならそう云え!』
「童子、シートを引っ掻いたところでオボログルマにダメージが入るだけですよ」
いよいよ途切れた道を見て、アクセルペダルから完全に靴先を離した。
「御苦労様、此処で降りるよ」
『車体損傷報告……外部、目立ツ箇所無シ。内部、シートニ掻キ傷有リ』
「巻き上げた砂埃と笹葉で汚れたろう、次の機会に洗ってやる」
『オプションサービス要請、MAG満タン』
「もう10km/hほど加速が出来たら考えておこう」
『ムムム無理難題』
「そうかい?ドクターヴィクトルは90km/hまでは問題無く出せると述べていたがね……おい帯電するでないよ、寒い朝に洗車してやろうか?」
シートベルトの金具に静電気を感じ、諫めれば次の瞬間に刺激は失せた。
雷電属が時折見せる反抗態度は共通しているが、この車の場合は顕著に現れる。
「いまビビッてした、ふゆじゃないのにセイデンキ」
「もう降りる、少し走るよ」
「やーくん、ゲタだとうまくはしれない……だっこ」
折角合うのを買ってやったというのに、この始末。
火を点ける事は身体が憶えていた癖に。
「ねえライドウ、さっきのキャンディもういっこちょうだい」
「簡単に云うでないよ、金丹なのだから」
オボログルマを管に戻している僕の外套を掴み、衣嚢を勝手に漁っている人修羅。
何も目ぼしい物が無かった様子で、すぐに小さな手を抜き去った。
「きんかん?のどあめだったんだー!ねえねえもうないの?」
悠長に会話している暇は無いので、勘違いを訂正する事も無く走り出す。
人修羅を横目に見れば、まるで追い駆けっこの始まりかといった様な眼で僕を見つめ返し追従してくる。
第三カルパでの駆け引きでは、笑顔なぞ一瞬も無かったというのに、現金な奴め。
『金丹なぞくれてやったのかお主、子供騙しで良いのだから駄菓子で充分だろうが』
「安物ではすぐ噛み砕かれてしまいますよ童子。美味しい物なれば長く楽しむ為、舌上で遊ばせるでしょう?」
舌を噛まぬ様にくれてやった飴だが、同時に傷を負った時の癒しにもなる。
様々な意味での保険であったし……単純にくれてやりたかった。
口寂しいが煙草を切らせた時に、僕も飴代わりに舐めるから。
一般的なサマナーの見解では、ゴウト童子の価値観が恐らく正常なのだろう。
しかし、僕にとっては賽銭箱に五萬を突っ込む事と、何ら変わりないのだ。
「あっ!ライドウ!」
人修羅が唱えると同時に、僕も飛び退く。
互いに避けたその空間を、縫い止める様に一閃が貫く。
剥がれ落ちた笹の葉の絨毯を舞い上がらせ、立ち昇るMAGはぐらぐらと形状を留めていた。
『鷹円撃…!』
「トリグラフでしょうかね。とりあえず俊敏とは言い難いヨモツイクサを召喚する程、愚かでは無いでしょう」
『次に備えろライドウ。人修羅も今回は避けたが、毎度上手くいくとも限らぬぞ』
「承知して御座います、童子。数十秒だけ壁を張りましょう、勘定は僕がします」
会話の間、既に二撃目が投擲されてきた。
刀を翳しMAGを揮えば、一瞬だけの防御壁を成す。
ただし、それは僕しか守れない狭いものであり、状況打破には適さない。
鷹円撃にしては妙に出が早いと思ったが案の定、二撃目のそれはMAGの槍では非ず。
適当な長さに伐採された竹槍だった。
「やれやれ、此処は針山かい」
ぐずりと竹槍を抜き取り、土に汚れた切っ先を向こう側にして構える。
竹色の隙間から現れた“星”へと目掛け、思い切り投擲した。
『イッダァァアィ!大当たタリィィ!』
眼のど真ん中に見事的中し、歓声を上げ墜落するデカラビア。
MAGを流せばどの得物だろうが、物理法則を捻じ曲げる程に美しい軌道で飛ぶ。
泥塗れの切っ先は鉛の様に、飾りの笹葉は矢羽の様に。
鮮明に思い描く程、理想通りの武器と化す。
完璧な模倣は出来ぬが、決して悪魔だけの技では無い。
『青丹色の隙間から視えるぞ……お主の読み通り、トリグラフだ。まだ遠いが、時間の問題だな』
「笹の葉音がしますね、また投げ撃つつもりでしょう。フフ…MAGを節約するとは、しみったれた悪魔め」
『少しはお主も、そういう教育をしたらどうだ?』
「出し惜しみで説教部屋に行くのも、畜生に魂魄を移されるのも御免ですからね、ゴウト童子」
落ちた流れ星を確認しつつ、指の砂埃を軽く掃う。
人修羅のすぐ隣へと管を振り翳し、竹の様にすらりと長いアレを喚んだ。
『んおぉっ?儂を召喚するとは珍しい、他の雷電属がバチバチッとボイコットでもしたかぁ?』
ミシャグジは杖で、自らの殆ど無い肩を叩きハフハフと笑った。
仲魔の中では随一に気長だが、今はそれを要さない。
「周囲にプラント・オパールが密集している、電撃は避け給え」
『よしっ、んぢゃここでひとつ儂の色じかけを――』
「継承させた蛮力の壁があるだろう、あれを切れ目無く頼む」
残念そうに体幹をくねらせつつも、術を唱えたミシャグジ。
あの体格でそこそこの移動速度なので、人修羅を指して命じる。
「その子供を抱きかかえ、僕に追従しろ」
『ほほ、可愛い小僧っ子じゃのぉ、ほ〜れよしよし』
杖を背に携え、人修羅の身体を横に抱くミシャグジ。
好好爺と対照的な幼顔は、普段の功刀を彷彿とさせる不満気なそれだ。
「おじちゃんやだ」
『取って喰ったりはせんぞ〜』
「おちんちんみたいでやだぁ、ぅえ〜ん」
『よしっ、マーラを見せてやれぃライドウよ、面白い事になるぞ〜』
運ばれるだけの人修羅と、舌が有るかも判らぬミシャグジとは違い、僕は走りながら呑気に会話なぞ出来ぬ。
蛮力の壁は、一回の詠唱で約十二秒間保たれる。
ミシャグジの魔力と逆算し、管に戻す機を計っているのだ。
マーラとのイチモツ観賞会をさせるつもりは無い。
やや急いている僕は、そんな気分にはなれなかった。



「フロイトが男根期として提唱している様に、あの年頃の男児ならば歓ぶと思ったのですがね」
『個人差があるだろうが!それにミシャグジさまだぞ?一般的に見れば不気味な相貌だろうに』
「もう人修羅も泣き止んだ事ですし、良いでしょう?」
童子の応酬に付き合う余裕も出てきた頃には、鬱蒼とした場所に辿り着いた。
トリグラフの馬は細身だが、それすら阻むかの様な竹林を抜けてきたのだ。
もはや道など無いに等しい、時折現れる獣道が足下を涼しくさせるだけ。
縁の無い者かられば、同じ場所を歩き続ける錯覚を抱くであろう。
「ライドウ、ここどこ?」
「竹林だよ、林というよりは森が正しいかな」
「ぐるぐるしてない?すすんでるの?ずーっとおなじばしょだよ」
「進んでいるさ、頭上の隙間を御覧。そろそろ輝く月が見えてくるだろう?大凡の時刻が分かれば、照らし合わせて方角は知れる。更に日が落ちれば星が見えてくるね、カシオペアとおおぐま座が見つかれば北極星の位置が分かる」
「せいざ?でもずかんみたいに“え”がでてないからわかんない…」
「君ねえ、図鑑の様にして空に浮かんでいる訳が無いだろう?」
ある程度の距離を離せば、後はその開きを大きくする為に歩くだけ。
鷹円撃の不穏な風切り音も一切止み、周囲の木漏れ日も失せて一切闇。
頭上の天体より一足早く、ゴウト童子の眼が輝きを増した。
「すごいほしたくさん、もしかしてここプラネタリウム?」
「だから竹林だと云っているだろう。それに星は普段通り、さして凄い事も無い」
「だって、やーくんのおうちの2かいからみると、あんまりいない」
それはそうだろう。
あの未来の建造物の量、高さ、伴う窓灯り。
街中なぞいっそ、真夜中の方が目を刺す光に溢れていた。
「キャンプいったの、そこだとたくさんほしあった」
「何処だろうが星の量は同じさ」
「でもいくのたいへんだから、プラネタリウムでいいや」
「横着者、先刻走った時とて平然としていたじゃないか」
「ライドウもプラネタリウムみよう、いっしょにいこ。すわったままぼーっとみてるの、さっきのライドウみたいにせつめいしてくれるの。ライドウなんでもしってるね」
別に僕は、どちらの空でも構わない。
闇に覆われ、火に縋る生き方だろうが…
神霊の類が嘆く、煌々とした人間臭い世界だろうが…
(人間の居ないボルテクスはどうだった)
出張先、という感覚しか無かった。それこそ異界の様なものだと。
人修羅は、あの世界を嫌っていた。
頭上に天体は無く、半分も機能しておらぬ文明の残骸と荒野。
人間の名残を持った思念は居るが、地縛霊の様に其処に留まり、まるでオブジェだ。
あの、付き合いの良いとはいえない人修羅が、人の居ない世を拒んでいた。
今の人懐こい、幼いこれに訊けば分かるのだろうか。
(そんなに人恋しかったのか、と)
少し振り返ると、外套を掴んでいた人修羅がそろそろと歩みを緩める。
物云わぬ僕を、不思議そうに見つめ返してくる、その眼はうっすらと金の色。
「どうしたのライドウ?つかれちゃった?」
「馬鹿にするでないよ、そろそろ着く」
ああ、馬鹿だ。
この人修羅は己の立場が分かっていない、まだ家も母親も在ると思ってすらおりそうで。
人に自ら寄り添う姿を見ていれば分かるではないか、訊くのも馬鹿馬鹿しい。
「ほんとだ!なにかみえてきたー」
見つけ次第走り出す人修羅、その帯を咄嗟に掴み耳元に囁いた。
「勝手に動くようなら、またミシャグジに運ばせるからね」
「おちんちんやだ」
「名前で呼んでやり給え」
結局、外套に縋らせたまま進む。
竹、柳、松で鬱蒼としていた地帯が少し開けてくる。
同じく開けた空より射す月光が、周辺の彩度を上げた。
半開きだったり閉じたりしている、薄桃の蓮達。
手摺の無い簡素な橋が、蓮葉の海を両断している。
年季の入った石造りの橋で、部分的に緑が彩る。鮮やかな苔の色だ。
「こんどはほしじゃなくて、おはな」
「沼地だからね、橋から足を踏み外さぬ様――」
伝えている傍から、さっそく片足を橋から落とす人修羅。
衿をぐいと掴み引き寄せれば、片方の下駄が湿った色へと模様替えしていた。
落ち切らずに済んで良かった、案外深いので面倒な事になる。
美しい蓮の佇む沼は、泥が濃いのだ。着物をこれ以上汚したら、正午が泣くだろう。
新しい着物を買ってあげると云えば、更に泣く事違い無し。やはり子供はどれも厄介だ。
「ぬれちゃった」
「渡りきった先に寺院が在る、其処で洗わせて貰う」
「ごめんなさい」
「謝れば良い子という訳では無いよ、分かっている?」
「おこってる?ライドウ……」
「汚れたいのなら、好きにすれば良いさ。下駄も沼に落としては、見つける事は諦めた方が良いだろうね。君が捜している間に、僕は先に行ってしまうからね」
語気を荒げたつもりは無いが、人修羅の眼は一石投じた水面の様に潤んでいた。
外套を握る小さな腕が震え、感情を発露させるかの如く斑紋がしとしと滲む。
『お主が抱きかかえておけば早かったろうに』
ぼそりと呟く黒猫を蹴っ飛ばし、沼地に沈めてみたい衝動に駆られたが、ひとまず却下する。
僕が抱きかかえてしまっては、襲われた際の応戦手段が限定される。
一度引き離したとはいえ、此処に追手が来る事は予測済みだ。
『此処が例の蔵元なのか?随分と辺鄙な処に構えたものだな』
「廃堂として放置されていた寺院を、少しばかり拝借致しまして」
『外装は朽ちている様子も無いが、中は大丈夫なのだろうな?廃墟で休憩が取れぬお主では無いと思ってはいるが』
「元の劣化も少なかった、綺麗なものですよ。近隣に温泉も御座います、そもそもは湧出したそれに伴い建てられた寺ではないかと」
『……葛葉の物でもなければヤタガラスの物でもない、お主個人の物……とな』
「その通りに御座います、どちらの息がかかっていても臭くて敵いませぬから……フフ」
『別件依頼で小遣い稼ぎしていると思ったら、知らぬ間に滅茶苦茶だなお主は』
蓮池を越えた先、ひっそりと佇む寺院は人の気配が無い。
入口に差し掛かった辺りで、近くの燈籠がひとつ灯る。
出迎えたのはオオクニヌシ、此処を総轄させている僕の仲魔だ。
『先日見えたばかりというのに、どうなされたのですか葛葉様――…』
挨拶も早々に、その眼は一直線に人修羅へと注がれている。
真顔から徐々に眉を顰め、次の瞬間には嗚咽でもしそうな顔になり、僕に向いた瞬間には謎の破顔をしていた。
誓いの様に片手を翳し、清々しい微笑みのままに述べられる。
『大丈夫、私は貴方の味方です。出来てしまったものは仕方が無いじゃあないですか。お忙しい貴方に代わり、此方で預かりましょう』
「云っておくが、隠し子でも何でも無いからね」
『申し訳ありません』
「女性なんて面倒だからねえ?何処かの誰かさんの様に、余所で子供を作る訳ないだろう、ねぇ…?」
『耳が痛いです』
「“阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 多久豆怒能…”」
『おお、その歌はお止め下さい』
深々と頭を下げるオオクニヌシ、こいつは仕事は出来るが女癖が酷い。
複数の女性悪魔から私刑に遭っていた所を泣きつかれ、僕が拾ったのだ。
「さて本題だが、この後すぐに醸造出来るかい?一瓶分もあれば充分だ」
『……まさかこんなにも早くクレームが発生するとは……責任を以て対処致します。処分はお好きになさって下さい。煮るなり焼くなり…合体素材にして下さっても結構です』
「あのねえ、流通させて無いと云ったろう、早とちりが過ぎる」
『申し訳ありません』
「謝れば良い子という訳では無いよ、分かっている?」
人修羅が外套の影で、ころころ笑った気がする。
同じ台詞で注意を受ける大男を見て、可笑しくなったのだろう。
「陰陽の調整率を変えて、陽を引き出せ。それをこの子に飲ませる」
『事情がお有りの様子ですね、もしやその子は人の子では無い?』
「これはつくよみを飲んだ人修羅だよ」
『おお噂の人修羅ですか、はは、なるほどなるほ…………』
朗らかだった眼が、ゆるゆると困惑のそれに変わってゆく。
相手にしていた女性悪魔から仕入れた噂だとすれば、僕も噛んでいる内容だろう。
「余計な詮索はしなくて宜しい」
『はい』



入口で立ち話を続けるのは御免だったので、早速人修羅の足を洗ってやる事にした。
もうすぐ元の形に戻るのだ、この子守りともようやくおさらば出来る。
「ここ、おてら?」
「そうさ、今は寺院として機能していないけれどね」
「みてあれ!おっきなナベ……ぐつぐつしてる……ごはんつくってるの?レストラン?」
「酒を造っているのだよ」
講堂では悪魔達が灯りも無しに、いそいそと働いている。
回廊から覗きこむ様にすれば、逆に覗き返す一部の悪魔。
人修羅はそれに少しばかり驚いて、僕の脚を掴んできた。
「いっぱいいる」
「それほど大勢では無いさ、せいぜい八体……」
「つくったごはん、すぐにたべちゃうの?あそこでモグモグしてたよ」
「違うよ、あの連中も造っている真っ最中だ。口噛み酒という物があってね、穀物を口に入れて噛む事で発酵させるのさ」
人修羅よりも、ゴウト童子の方がぎょっとしている。
その様な製法が存在する事は認知していたと思われるが、それを悪魔にさせるとは思わなかったのであろう。
「えーっ、でもたべたごはんとか、おさけにならないよ」
「すぐに変化する訳ではない。唾液の成分が穀類を糖化させ、それを寝かせる事で天然酵母が発酵し、デンプン質がアルコール化する……まあ、悪魔の場合は都合が変わってくるけどね」
「むずかしい…わかんない」
「それよりも君、あの光景を気持ち悪いとは感じなかったのかい?」
「なんで?よくかんでたべなさいって、おかあさんもいってた。だからたぶん、みんなおりこうさん」
炊いた穀物を悪魔にひたすら噛ませ、魔力を帯びたそれを今度は霊水と合わせ……
日本酒の醸造とほぼ同じだが、寝かせる行為は発酵の為というよりもMAGの固着を促す為だ。
「あっ、こっちにもはっぱ!」
回廊を進めば、講堂の奥も一望出来る。
まるで工場見学の気分だろうか、人修羅は先が気になって仕方が無い様子だ。
僕の外套をしきりに引いては、あれは何だと質問責め。
「あのおねえさん、はっぱだけもってる……はなじゃなくていいのかな?」
「花は使わぬからね、それに君には花が見えておらぬのかい?」
「ないよ」
「あすこに、既に咲いているではないか。全く、女神に失礼な奴だね」
「えーどこどこ〜?ライドウだけみえてるのずるい」
「もういいよ、普段の君も乗って来ない話題だったろうから」
今見えているのは、最終工程。
蓮の大ぶりな葉を、茎から刈り取る。それを利用して瓶に納めるのだ。
ラクシュミが醸造された酒を、少しずつ葉に零す。
表皮を粒となって滑り落ち、茎を通るそれは加護を得る……
あれをする事により、全ての純度が増す。薄っすらと、蓮の香りさえも纏う。
「したのほうからポタポタしてる」
「碧筒杯という、蓮葉を杯にして茎から飲む遊びが有ってね。あれなら漏斗の役割も果たすだろう?」
「ストローみたい。あそこにくちつけて、ちゅーちゅーしてもいい?」
「君には別で用意されるから、少し待ち給え」
「やったー!おはなのジュース」
「ジュースというよりは、薬だよ」
瓶詰めの前に成分調整を行うのだが、それは割愛した。
説明した所で、理解出来る筈も無い。
それに、人修羅へと飲ませるべく現在調整している酒は都合が違う。
「早朝に飲む事となる、それまで大人しくするのだね」
「ライドウもいっしょにのも」
「僕は要らぬ」
「けち」
「何故そうなる、欲さぬ者にけちとは心外だね」
回廊を抜け、畳の部屋に荷物を置く。
縁側寄りに数枚並べてある座布団を一枚拾い、軽く埃を掃う。
常に日干しされている状態なので、色褪せてはいるものの案外ふんわりとしている。
ゴウトにそれを差し出し、僕は装備を一式脱ぎ始める。
「童子、僕は人修羅を洗って参りますので。ごゆるりとお寛ぎ下さいまし」
『……時折、此処に来ているのか?』
「ええ、自分独りで」
『お主は確かに、血では何処にも属しておらぬ……が、十四代目を襲名したのだ。あまり勝手をし過ぎるなよ、紺野』
「おや……フフフ。まさか心配して頂けるとは、痛み入ります」
『ガマも大概だが、妙に敵を増やすのはお主の悪い癖だ。葛葉を穢すなよ』
「連中とて、葛葉の名なぞ気にしてはおりませぬよ」
『何だと、もう一度云ってみろライドウ』
「僕に襲名させたのも、大半はカラスの意向でしょうに…………ほら後ろを向き給え功刀君」
小言を背にして軽装となった僕は、人修羅の帯を解いていた。
締められていた兵児帯は少し癖がついていたが、伸ばせばすぐに空気を含む。
僕の畳んだ外套の傍へと並べ置き、次は着物を開きにかかる。
くすぐったそうに項を震わせるので、何かしらきゃあきゃあと悲鳴すると思いきや、無言だ。
「風呂まですぐだから、此処で裸にしてしまうよ」
こくん、と小さく頷く人修羅。先日のシャワー前に脱がせた時は、あんなに逃げ回ろうとしたのに。
謎の意気消沈ぶりに些か違和感を覚えつつ、僕も着衣を取り払った。
短刀と管だけを持ち、手拭いは人修羅に持たせ部屋を抜ける。
月明かりだけで充分だが、やはり光源は必要かと思い直す。
「ウコバク、外れる事が可能ならば少し付き合い給え」
講堂に向かい唱えれば、静かな工房からゆらりと現れる影ひとつ。
鍋の番をしている悪魔で、火かきの鉄器に焔を纏わせている。
「湯浴みするので、暫くは鍋ではなく此方の番を頼むよ」
『……デケェ』
「何か?」
『いやオレもビッグな男になりたいすわ、とりあえず釜炊き頑張っときまっす』
一言二言交わしつつ、露天風呂へと向かう。とはいえ、本当にあっという間だ。
縁側の端から石畳へと裸足で降りれば、ふわりと薫る煙が見えてくる。
ウコバクは一番大きな岩の上に胡坐をして、湯煙には背を向けている。
彼なりの気遣いであろう。それに、他方へと監視を向けていてくれた方が此方としても助かる。
その為の番なのだから。
「雨天でなくて良かったねえ……今度イッポンダタラに屋根でも付けさせるかな」
刀を平たい岩に置き、湯の中からでもすぐに掴める様に向きを整えた。
帽子を反転させ内側に管を放り、刀の傍に並べ置く。
ウコバクの置き去った手桶で湯を汲み、ざあっと頭を流した。
どうせこの後も汗を滲ませるのだ、雑で充分。
「何を黙りこくっているのだい」
「きゃっ」
人修羅の足に軽く湯をかければ、ぴょいと飛び跳ねた。
そこまで熱い筈は無い、それとも擬態をしているせいで耐性が弱まっているのか?
「擬態を解き給え、ツノを生やしても良い」
「だいじょうぶ?おこらない?」
「此処には人間は居らぬよ……“僕等”以外ね。だから構わない、楽にし給え」
またもやくすぐったそうに、ふるふると項を震わせる。
すうっと一瞬で黒い突起が伸び、か細い手脚にも黒い斑紋が迸った。
「長居はせぬよ。裸で戦えぬ事も無いが、防御面に不安は有るのでね」
「ライドウこわい」
「何がだい。声を張り上げたつもりも無いし、見ての通り丸腰だろう」
「だって……ほらみて、やーくんのよりずっとずっと、おっきいの」
「……あのねえ」
今度はミシャグジではなく、此方に矛先が向いたか。
確かに小物のつもりは無いが、かといって巨根を謳う程でも無い。
「この程度ザラだよ、君の時代は銭湯の数も少ない様子だが――…」
言葉尻を濁しつつ、泥の薄く残っている脚を湯で流した。
ああ、そうか……こいつは父親が居なかったのだ。
記憶も退行しているとすれば、成長しきった男性の局部を間近に見る機会は無さそうである。
幼い頃から嫌という程、男性のブツを見てきた僕からすれば……笑い話だ。
寧ろ、其れを畏怖しても仕方が無いのは、僕の方ではないか?
「身長と同じ様に、そこも成長する。只の肉体の一部、怖いものでは無い」
「そうなの?やーくんのもおっきくなるんだ、よかったあ」
「元の姿に戻ればね」
しかし、戻った所で人修羅なのだから、そこから成長する事は無いであろう。
そもそも、元の君のイチモツの大きさなぞ、僕のと比べれば……
「入らない、そんなの無理だ」と煩く喚く声が脳裏に甦る。
実際、いつも窮屈で。どれだけ経っても慣れた様子は無かった。
「ねえねえライドウ、はいらないの?」
「君が入らないと云ったではないか」
「そんなこといってないよ」
ふと見れば、人修羅は岩辺に腰掛け、爪先を湯に遊ばせていた。
湯煙に見えるのは、確かに輝く斑紋の影。
だが、それは僕の使役してきた半魔では無いというのに……
「ごちゃごちゃと煩いね、地獄の釜に突き落としてやろうか」
「わーっ、おちるやめてライドウ」
華奢な両腋を抱え、水面の上にぶらりと吊るしてやった。
落ちると喚きつつも、両足をばたばたと泳がせ身体を暴れさせるのだ、天邪鬼め。
ゆっくり位置を下げてやれば、蹴られた湯の花が散って硫黄の香りが爆ぜる。
「あれ?おもったよりあつくない、へいき」
「只の温泉だからね」
底に足が着いたのか、身体を屈め始める人修羅。
連なり僕も手を放すと、傍にざぶりと腰を下ろした。
夏とはいえ、宵の空気は鎮まっている。外気に晒された肌は、なかなか涼しい。
遠くに虫の音が聴こえ、それに雑じって蛙の声がする。
冥界より呻る連中とは違い、純粋な畜生の声だ。
此処が里から遠い事を知らしめてくれる。
死霊と化した蟇蛙達の声は、外道の発する不協和音とはまた違った不快が有る。
あれを聴くと、湿った土の臭いに混じった腐臭が、記憶と共に鼻腔に甦るのだ。
「ライドウ、ゴウトとなかよくないの?」
唐突な問い。恐らく見れば判るので、普段の人修羅は口にもしなかった事だ。
先刻から口数が少ないのは、其処に思慮を巡らせていた所為か、子供の癖に。
「好くは無いね」
「ライドウはゴウトのこと、きらいなの?」
「別に、好きも嫌いも無い」
「えーっ、どっちもないなんて、ないよ」
「では君は、僕の事をどう思っている訳?」
「ライドウすき!」
「いや……いいよもう」
「さっきののどあめもすき!あとタエちゃんのくれたコーヒーぎゅうにゅうもすき!あとねあとね、おんぼろぐるまもすき!」
ほらこれだ。好き嫌いの皿の上には、大した優劣も無い。
子供の云う事だ、真に受ける筈が無い。
妙に耳が熱い、のぼせてきたのかもしれない……そろそろ上がるべきか。
「おんぼろぐるま、またのりたい」
「オンボロでは無く、オボログルマだよ。仲魔にした当初は、確かに襤褸だったが」
「ライドウがうんてんするとね、けしきがビューンて。ぜんそくりょくー!で、キモチイの」
「フフ……今度はもっと飛ばしてあげようか?」
「わーい、たのしみ」
「明日の朝、しっかりと薬が飲めたらね」
釘を刺せば、しぱしぱとまばたきする人修羅。
交換条件として提唱したので、警戒しているのかもしれない。
しかしそこは子供の頭。きっと薬というものが、苦いだとか不味いだとか……その程度の警戒であろう。
「あさって、いつくるの?」
「月が薄くなり、太陽が一射し始めたらもう朝だよ」
「いやだ、ずっとよるでいいのに」
素っ気なく云い放った、夜という言葉に引っ掛かる様子も無く。
僕の名が“ライドウ”なのだと信じ、何も疑ってはおらぬのだろう。
「本当に暗い世界のままで良いのかい?」
「うん、ほしもたくさんみえて、きれい」
「残念ながら、此処は常夜の国では無いからね。陽光が無ければ生きられぬ者も多い……外の蓮池とて、花は閉じていただろう?朝一番の光で眼を覚ますのさ」
「あっ、ライドウみてみて、ここさいてるよ」
云うなり、ざぱりと立ち上がった人修羅が腹部を突き出した。
幼児体型という言葉が相応しい、柔らかな白い腹。
其処に黒い睡蓮と、露を纏わせたかの如し燐光が輝いている。
「ねっ、おはなみたいでしょ」
「僕がそう云えば怒った癖に、本当に何もかも憶えておらぬのだね」
「ライドウ、またおこっちゃった……」
「もう上がるよ」
抱き上げれば、滴る水滴は燐光を反射し煌めく。
岩場に移り、柔肌を手拭いで拭う。突起の溝までやわりと揉めば、肩を揺らして笑った。
「そこは弱点だ触るな」と、いきり立たぬ君がおかしい。
ああ落ち着かない、早く装備を纏いたい。
無防備が恐ろしいのではない、用件を片付けたいだけである。
『冬なら雪見酒とかも出来たっしょおにね』
「おいおい、此処に有る酒は呑まぬよ」
『むーっちゃ薄めればイけるんでないすかね、人間でも』
「効果が独特だからね……有志の悪魔を募って実験した事を忘れたのかい」
武器と帽子を手にする僕を見て、会話を止めたウコバクが立ち上がる。
飛び石の方へと鉄器の焔は向けられ、蒼緑の竹林が闇夜に存在感を放った。
「ライドウ、はやくはやく」
ひょいひょいと石から石へ跳ぶ人修羅に、忠告をするのはもう止めた。
云おうが云うまいが粗相をする奴だった事を、ぼんやりと湯冷めの中で思い出していた。



雨戸も閉めず、緑の庭を眺める。
此処を見つけた頃には多少荒れていた庭も、今ではそれなりの風情を取り戻していた。
座布団を並べ敷布団の代わりにした上で、人修羅はすやすやと寝息を立てている。
僕はその隣に肘をついて寝転がり、小さな呼吸の音を聴く。
規則正しい……気を張っていないのだろうか、普段の彼よりも寝つきが良い気もする。
『葛葉様、準備は整いました』
オオクニヌシの声に面を上げ、続いて身体を起こす。
ゴウト童子に目配せすれば、フーッと溜息をして髭が揺れていた。
「人修羅が起きた際には、ライドウはすぐ戻るとお伝え下さいまし」
『我の云う事を聞かん場合も有るぞ』
「夜泣きと同時に地割れなぞ起こす様ならば、流石の僕も気付き次第に舞い戻ります故」
『割れてからでは遅いというに!』
装備一式を纏い、外套を羽織る。
夏の空気だろうが、どす黒いこれは外せない。
手先を隠し、肌を護る戦闘服なのだから。
『出来たばかりのものが一瓶程御座いましたので、後は朝一番の陽光を待つのみです』
「しっかり鏡面は磨いたかい」
『ええ勿論』
「鏡が濁っていては、反射する陽も弱まるからね」
回廊を歩きがてら、打ち合わせをする。
人修羅に飲ませる予定の酒はどうかと……進捗具合の確認だ。
講堂に差し掛かれば、用意の済んだ台座が見えた。
陽の射し混む箇所に立て掛けられたのは、円い宝鏡。
あれが生まれたての太陽の光を吸い、跳ね返した先の霊酒に注ぐ。
そうして酒の中の陰陽は変質し、本来の効能を逆転させる。
とはいえ、陽光に晒したつくよみが進化の薬になる訳でもなく。せいぜい同じ酒で得られた効力を中和する程度だ。
この酒に限った話では無いかもしれぬが、その事実は「悪魔の胎内に成分が残る」という可能性を示す。
排泄も新陳代謝も無い悪魔の事だ、充分に有り得る。
『しかしあのようなお姿になられて……人修羅は半分ほど人間と窺っておりましたが』
「昔の姿、には違いないね」
『中和の酒が効くのでしょうか?』
「効かねば困る」
講堂もとい工房には、幽かな物音も無い。
悪魔達は一通りの作業を終え、各々休憩でも入れているのだろう。
『葛葉様は研究熱心ですね、ヤタガラスの元を離れてもサマナーとして活躍出来るでしょう』
「ヤタガラスが組織に与せぬサマナーに手厳しい事、知らぬのかい」
『そうですね。私もヤタガラスの関係者に使役されるという事で、最初は構えました』
「自由が利かなくなる、と?フン……遊女ならともかく、野放しの女性達とつるむ気は無いね」
『では童と化した人修羅をそのままに連れ歩いては如何でしょう、瘤付きだと女性は寄って来ませんから』
「フフッ、《高嶺の花》だな」

灯りを落とさぬまま、蓮池にぽつりと佇む門構え。
オオクニヌシとは回廊の切れ目で別れ、召喚したイヌガミと共に居座った。
『ライドウ、目立ツノデハナイカ?暗イ方ガ見ツカラナイ』
「此処で構える意味が解からぬのか?この犬頭め」
コツリと指の関節で額を叩けば、キャウンと軽く啼いた。
そのままするりと鼻先まで落とし、湿り気を確認する。
充分な潤いが認められたので、とりあえずMAGの補給は要らぬと判断した。
「暗闇に提げたランプを想像し給え……煩い輩が寄って来るだろう?」
『虫?』
「灯蛾というやつさ。僕がお前を召喚した意味が理解出来た?」
『……ライドウ…………ムズムズスル』
ヒクヒクと鼻先を泳がせ、前方を旋回するイヌガミ。
僕は呼吸を鎮め、外套の内側で腰のベルトに指先を添わせる。
管、刀、銃……何が来ようと対処出来る定石位置。
『……ライドウ!コッチ!四尺先ノ水中!』
「待て、まだかかるな」
アルラウネの管を指先に叩き、外套の隙間から棘をシュルシュルと喚び出す。
遠くにわさわさと揺れ始めた蓮達を、抜刀した切っ先で指し命じる。
「表面で良い、凍らせろ」
『ちょっと葉が邪魔ねえ、ふふっ……』
ブフ・ラティが葉ごと水面を凍結させる。
やがて、めりめりと隆起し始めた。下方から押し上げる何者かが、低い唸りを上げている。
『ハッハッハッ……』
『ねー嫌らしい妨害だこと、んふふっ。どんな悪魔が出てくるのかしらねー?』
舌を出して嗤うイヌガミには、再び額にしっぺを。
指差し笑うアルラウネには、片胸の乳首をぎゅうう、と抓り上げてやる。
『キャウン』『はぁあんっ』
「先制に安堵する瞬間が一番危ういのだよ、解っているかい?」
『クゥーン』『もう片方もお願いよぉ、ラ・イ・ド・ウ』
「イヌガミ、お前は他方から来ていないか探り続けろ」
命じた直後には、季節外れの霜が向こうに散っていた。
氷の亀裂から這い出た腕を観察し、記憶を漁る。
鱗の籠手、連結した腕輪、赤褐色の肌、氷を貫かんとする切っ先は槍状。
「……出た所に焔を見舞ってやれ」
『了解シタ』
「恐らくナーガラジャだ。氷が割れているが、騙し討ちの可能性が有る。凍らぬ端も注意しろ」
銃撃は効かぬ為、刀の握りを強めた。
びきりと一際大きな音を立てた槍が、氷下より突き出たままで静止している。
僕の読みが当たったか。
潜伏し此方に来るまで、そうはかからぬ筈。
『ぶっっっ殺すぞテメー!』
案の定。
ばしゃりと飛沫を上げながら、素手のナーガラジャが凍らぬ沼端より突撃して来た。
打ち合わせた通り、イヌガミがその出鼻を挫く。
『ぅぉ熱っっッ!あっ、あづっ!てめ、こんにゃろっ!』
尾をビチビチと暴れさせ、沼に退避するナーガラジャ。
凍れる範囲まで猛然と泳ぎ、焦げた面をじゅうと押し付け呻いている。
「アルラウネ、門から先に行かせるな」
『オッケーよ、地味な門構えをアレンジメントしてア・ゲ・ル』
塞ぐ様にして、棘蔦が入口を覆う。
仕上げに咲いた赤薔薇が、蓮を台無しにするほど毒々しく香った。
「誰を殺すって?」
一方で僕は橋を駆け、此方からナーガラジャに接近する。
氷に乗り上げ槍を抜いた相手は、既に構えている。
『テメーだよ葛葉ライドゥ!セコイ真似しやがって!』
「さっさとお仲間を呼んでくれないかね、サマナーの数と悪魔の比率が合わない」
『るっせーな!オレはとにかくムカっ腹立ったからテメーを殺る!』
興奮状態のナーガラジャは、眼を血走らせている。
攻撃が頻繁にはなるが、動き自体は単調になる。
突き出される槍を数回往なし、間合いを取りつつMAGを刀に流し込む。
「同じ得物でお相手致そう」
『な、なな……舐めやがってェ〜』
血気盛んな相手は、嫌いでは無い。
僕は槍状にした武器をくるりと片手で回し、持ち方を変える。
突かれれば体軸を反らして躱し、難しい時は柄で流しつつ身体の隙間に通させる。
遠心力で大きく凪いで来た一撃は、足元への軌道だったので跳び避ける。
その跳躍を利用し、此方も振り被り一撃を見舞う。
ナーガラジャの兜は砕けなかったものの、脳震盪の様にふらりと項垂れるその頭。
接地と同時に構え直し、手の痺れを考慮し一歩下がる。
腑抜けた攻撃は、相手に反撃の糸口を掴ませる事となる。
『ってーな……クソッタレ!』
面を上げたナーガラジャの眼光が、くわりと光った。
即座に傍のイヌガミが察し、ブフダインをファイアブレスで食い止める。
しかし攻撃に特化させた訳では無いこの仲魔、じりじりと押され始め苦しげに尾を揺らした。
「……よし、止め。お前も適当に退避し給え」
蒸発に煙る中、イヌガミのブレスを止めさせる。
瞬時に足場は凍結するが、この狭い橋だけが世界では無い。
僕は横に飛び退き、蓮を幾つか踏み付けながら沼に降りた。
入水音につられ、身体の向きを変えるナーガラジャの影がゆらゆら。
煙が互いを隔てる為、鮮明には見えぬのだ。
一気にナーガラジャの背後に回り、橋に転がり上がる。
先刻と反対側の為、此方側は凍結していない。
音に振り返った相手よりも早く駆け、切っ先を突き立てる。
『っ、グゥ!』
「沼遊びなら僕も得意でね」
『っ……へへ、吠え面かくなよサマナー!』
わき腹を抉った僕の槍は、ギリギリと掴まれている。
抜かせないつもりだ。このまま留まれば僕も刺されるであろう。
得物を諦め即座に退避するか、否か。
……押そう。
「それは此方の台詞さ」
この槍は僕のMAGで形成された物なのだから、答えは簡単。
ざあっと蛍の群れが飛び立つ様に、僕の槍からMAGが弾けた。
柄を掴んでいた筈が、いつの間にか刀身を掴んでいるナーガラジャ。
込められていた力が弱まるのを感じ、更にずぐずぐと突き入れる。
『げえっ、な、んだよそりゃあ!チクショウ……ッ、グウウウッ』
「ククッ、良い吠え面」
傍に待機するイヌガミは隙を見計らい、また焔を吐かんと頬を膨らませている。
ビクビクと腕を痙攣させるナーガラジャを確認し、ずるりと刃を抜いた。
刀の血払いついでに、ナーガラジャの槍に切っ先を引っ掻け、遠くへと撥ね上げた。
ぼちゃんと音がする蓮の沼、遠目に見れば蛙でも跳ねたのかと勘違いしそうだ。
ぐったりと倒れ込むナーガラジャ。暫く動けまいであろう、この刀は相手のMAGを吸う。
膨らませていた頬を今度は窄ませ、やや緊張を解いたイヌガミがひょろりと舞った。
『……ハフン』
「門に戻るぞ、先刻からアルラウネが数体相手している」
『ライドウ、怪我ハ無イノカ』
「無傷では無いが、子供が毎日作る生傷程度だろう?」
軽く外套を搾れば、びちゃびちゃと滴る濁った水。湿った重量を軽減させ、次に備える。
凍った箇所を飛び越えつつ門構えへと駆ければ、薔薇の精が両手を広げ笑顔で迎えた。
その足下に転がる人間達は装束姿で、数名折り重なってのびている。
アルラウネが神経麻痺の毒でも咲かせたのか、黒い花弁が辺りに散らばっていた。
『やっとワタシの所に帰ってきてくれたのね、ライドウ』
「何人居た……四か」
『皆サマナーよ。でもダイジョーブしばらく起きられないわ、それにこの通り』
僕の眼前へと蔦が伸び、銀色に光る物が献上の如く掲げられた。
カチカチと、その管同士を打ち鳴らして遊ぶアルラウネ。
サマナーを単身で相手する際は、召喚されるよりも早く管を奪えと教えてある。
「上出来だ」
『それでもって、皆弱いのねえ。ヤタガラスの連中ってこんなものだったかしら?』
「組織の実力者は来ないだろうさ、ガマの取り巻きといったところかね」
『ライドウに手を出したらどうなるか、知らないワケじゃないでしょうにねえ〜?んふふっ』
「これだから、家が後ろ盾に有るのは面倒だ」
名家に属すれば確かに恩恵も有るが、こんな茶番にも付き合わされるのだ。
ガマが僕を気に入らぬと、ただそれだけの理由だろうに。
「さて、茶番劇の主役は何処かね」
『ネズミ一匹たりとも通してないわよ?ほら……って、ヤダこの蛙達、いつの間に?キモイわぁ』
門に張り巡らせた棘蔦に、大量の蟇蛙が蠢く壁の様に密着していた。
此処を離れる際には、居なかった筈……
「間合いを取れ!イヌガミ、蟇蛙を焼き殺せ」
間髪入れず、命令通りに焔が吐かれる。
が、ボトボトと落ちた蟇蛙達はげろげろと嗤い、再び門に這い上る。
四散された所為で、焔は棘蔦を焦がすだけに終わった。
これ以上当てれば棘の結界は焼け落ちるだろう。
隙間から蟇蛙達が侵入する事は、目に見えている。
『気付いてるんだろ十四代目?』
蟇蛙の一匹が、人語を発した。
その声はつい先日聞いたばかりの、あの濁った声音。
『ちょっとライドウ、蛙と知り合いなの?』
「こいつ等は、ガマだ」
『ガマガエル?ふーん……蟇蛙も蝦蟇も同じなんだっけ?その辺疎いからワタシ』
「違う、サマナーのガマ」
『えっどういうコト?変化術?』
警戒しつつ見据える僕等に、今度は別の蟇蛙がげろげろ嗤った。
『あの晩、蟇蛙の集団に襲われてから……おれは皮膚が爛れ岩の様に硬くなり、本当に蝦蟇みたくなっちまってなぁ』
『かかる毒液は痛いし痒いしで、本当にきつかったわぁ』
『いやーそれがだなぁ、どんどん身も心も蛙になったのか知らんけど……』
『血肉でな、分裂出来んのこれが。ちょいと潰されただけじゃおれ自体は痛くも無いしなぁ』
次々と別の蟇蛙が喋くり、ぴょいぴょいと跳ねる。
恐らく崇りの一種だろう、ガマがその身体を有効活用しているだけだ。
『既に数匹、中にお邪魔してるぜぇ?』
『ネズミは見なかったけど、蛙は許しちゃったなぁ?アルラウネちゃん?』
あらっ、という素振りで肩を竦ませるアルラウネ。
気まずそうに僕を見ているが、それならば早い所この蟇蛙共を殺して欲しい。
「真正面から正直に訪問した者は通すな、と命じてあるだけだ。塀なぞ簡単に乗り越えられるだろうからね」
『ごめんねライドウ』
「ゴウト童子を控えさせている、その手前で妙な事は出来ない筈さ」
油脂でぬめった光を、てらてら反射させるガマ達。
僕の靴先に跳び込んで来るのを、容赦無く斬り伏せる。
刀の物打ちがじっとり汗ばむ様に見える、ガマの油がこびり付いたのだ。
即座に、まだ濡れている外套の端で刀を拭った。
『はっは、良い錆止めになんだろ?』
「臭い油は遠慮したいね、そうだな……椿油が宜しい。香りも好く、刃にも肌にも最適だ」
『おれに云うのか?紺野ぉ……お前が操ってたんだろ?あのくたばり損ないの蛙共、ちゃんと埋めもしねえでよ。お陰でこのツラだ』
「死霊の群れに襲われる前から、お前の卑しくふてぶてしい性根は表面に出ていたよ。蛙の所為にしては可哀想だろう、ねえ?」
怒れる大勢のガマ達が、里周辺の蟇蛙の様に鳴き始めた。一斉の合唱が僕の耳を苛む、まるで呪い言。
そうだ、卑しくも死者を利用し駒とした僕の面持ちとて、褒められたものでは無い。
遺恨が有る程に強く術が通ると、身を以て知ったあの時。
どれだけ恨みを買えば頂点に到達出来るのか、考える事すら馬鹿馬鹿しい。
達した瞬間に倒れても構わない生き方を選んできた、後悔は無い。
僕がどれだけの恨みを買おうが、そんな僕を咎める者も居ないのだから、気楽なものだ。
『此処ごと寄越さんかい!帝都守護でそれどころじゃないだろよ!? おれがもっとでかくしてやるぞ?』
「富と名声の為かい?御苦労さん。これは事業では非ず、単なる趣味なのでね」
『葛葉としての悪魔研究の一環ってか?そうだなぁ、昔から御上に気に入られてたもんなぁ、そういう布石が欲しいって事かぁ?』
「葛葉の?まさか。だから僕の趣味だと云っているだろう?……しつこいねあんたも、昔から」
吐きつけられる毒液を外套で防ぎ、隙間から腕をしのばせ狙い撃つ。
彼等はすばしこく跳び交うので、数発は外れ跳弾と化す。
真夜中の山間は遮る物も無く、甲高い音が空に逃げて往く。
仲魔の援助が功を奏し、門から剥がれたガマ達はすぐに一掃出来た。
さて降りて来ない連中を如何するか……意外にも素早い為、無駄弾を作る恐れがある。
しかも、背中が弾をぬるりと弾いてしまう為、顎下を狙う必要があった。
蔦の結界にへばりつく連中は、一様にして此方へ背を向けているのだから厄介だ。
「全員殺せばガマ殿も死ぬのかな?それとも核となる一匹を始末すれば良いのかな?」
『そうは易くいかんぜ、中に潜りこんだちょいとの数でも意志は同じだ。何云ってるか解るかぁ?お前に不利な状況を作って、負けを認めさせるんがおれの目的よ』
「へぇ、明らかに私怨だ。しかし、里の中では嗾ける度胸も無かったと見える」
『一応“葛葉ライドウ様”だもんな?葛葉一門になれんかったおれだと、正式に決闘持ちかける事すら出来やしねぇ、ケッ』
「蔵元なぞ口実に過ぎぬのではないかい、僕を貶めたいだけだろう。その為に悪魔どころか身内まで召喚とは、御立派な事で」
寺院の悪魔達がこの男に寝返るとも思えない。よって、内部を荒らされる心配はない。
しかし蛙とはいえ、人の姿をしていないからこその行動が推測される。
ゴウト童子が現場に居ようとも、平然とやらかしそうだ。
何が頭の隅に引っ掛かるのかというと、要は今の人修羅の事。
『お前もおれが憎ったらしぃんだろう?』
『ぅお、アッブねえなあ。ヒトが喋ってる時に発砲すんじゃねえよ』
『おっと、今は蛙だったなぁ、げろげろげへへっ』
畜生へと変化し、しかも分裂しているときた。当人にその気は無くとも、行動方針は欲望が勝る。
人の形を保たなければそれは顕著だ。人修羅が斑紋や角を厭うのは、無意識に恐れているからであろう。
『どうするライドウ?もう侵入されちゃってるなら、蔦ごとイヌガミに焼いてもらっちゃう?』
しな垂れかかってきたアルラウネ。語調が忙しない、恐らく焦れているのだ。
僕からも絡みつく体で腕を伸ばし、赤毛を撫でつつ耳元に囁き返す。
「氷漬けにすべきだ。淘汰は出来ぬが蔦を焼かずに済む」
『あらん、私のアレンジメント気に入ってくれたの、んふふっ?今はカエルだらけでキモイけど』
「焔では焼け綻んだ結界から残党がなだれ込むだろう。ガマの本体は現在中に居る筈、混ぜこぜにしたくないのだよ」
『ライドウもさっき云ってたけど、全部殺せばいいじゃない』
「徐々に追い詰めると本体は逃走するに違いない。あの男、口は大業だが臆病なのでね」
『ふぅん、じゃあ今回は本気で仕留めるつもりなのね』
「相手の殺意にはお応えするのが信条。それに商売相手としてもアレの相手としても、いずれもガマは粘着質で面倒だ」
『ちょっとヤぁねえ、あんなブ男とヤってたの?あの子が知ったらキレるわよ、ってそういや人修羅ちゃんは何処よ?』
「お前の美観だろう、僕にとってはどうでも良いのさ。それに襲名前の僕は武器も限られていた、小遣いも他人の尻尾も必要だったのでね」
『ねえ、だから人修羅ちゃんは』
ひとしきり睦み合い、無理矢理突き離す。
愛の囁きでなかった事に僅かな落胆を見せたので、餞別にMAGを流してやった。
それに気を好くしたのか、胸と尻をふるりと弾ませ宙に踊る薔薇。
『はぁ、短いチークダンスありがと。それじゃ頑張りましょうかしらね』
唇を舌で舐めずるアルラウネの周囲が瞬間、冷え込む。
ブフ・ラティがそこに放たれる、そう思い身構えた瞬間。
『止マレ!誰カ居ル!』
アルラウネのただでさえ暗い目許を、ぐるりと襟巻の様に遮るイヌガミ。
小さく悲鳴した薔薇は、開花せずに蔦をだらりと垂らした。
焦げ付く臭い、目の前の蛙の壁がもろもろと崩れだす。
次の瞬間、轟々と燃え落ちる門構え。
結界とされた蔦ばかりでなく、囲う木造も色を熱くさせくすぶっている。
「あー、いたーライドウ」
ぽつりと佇んでいたのは、大方の予想通り人修羅だった。
あの焔の質で判る、暖かみの有る橙というよりは、刺す様な色をしているから。
駆けて来る姿はもみくちゃにされた様にも見えるが、ぐずってはおらぬので違うだろう。
下駄も、着物の衿合わせも左右逆。
兵児帯に至っては腹に結び目が来ている、しかも駒結び。
「ねえねえ、どこいってたの、やーくんひとりやだ」
片手に何かを携えている、それも予想通りというべくか。
「その蛙を放し給え」
「あっ、このカエルさんね、ライドウにあげるね」
「大人しくしていろと云った筈だ」
「だって……ゲコゲコすごいからおきたら、カエルさんにかこまれてたの。ゴウトはいっぱいのカエルさんにおしくらまんじゅうされてて、うごけないよ」
脚をむんずと掴み、僕へと差し出す人修羅。
ぶらんぶらんと揺れる蛙……こいつこそが、嫌に大人しい。
じろりと睨めば、まるで僕が蛇になった錯覚を抱く程に、竦み上がっている。
「まちがいさがしなの?やーくんウォーリーをさがせすき!あのね、このカエルまちがいだよ」
「……ああ、その様だね」
即座に人修羅の指から奪い上げ、ゲロゲロ啼く其処へと銃口を突っ込んだ。
地面に叩きつけ、中で発砲する。
汚い飛沫がはじけ飛ぶかもしれないと思い、外套で自身と人修羅を覆ったが……その必要は無かった。
一帯から油臭さが失せ、蓮と湿った泥の香りが甦る。
「あれ、ほかのカエルさんきえちゃった」
「本物を見付けたから偽者は消えた……もとい融合したのだよ」
「ほんものなの?よかったあ。だってカエルさんたち、ぴゅっぴゅってみんなしてとばしてくるから、きものよごさないのたいへんだったの」
周囲のガマ達は、闇に溶け込む様にして消えた。
たった今撃ち抜いた蛙は人の形に成り、地面をのたうちまわっている。
黒のカンカン帽はころころと落ち、向こうへ転がって往った。
「さて如何するかね、ガマの君。もしや人修羅を捕えダシにするつもりだったのかい?御苦労さん」
「……おれの、ナーガラジャは」
「向こうでのびてるよ。全く、蛙のくせに蛇を使役するとは滑稽だね」
立ち上がろうとするガマの間合いから抜け、人修羅をアルラウネに任せようと背後に押しやる。
ガマの胸元から抜かれるは管に非ず、暗器の一種。
彼の家は様々な薬を扱う、ヤタガラスはお得意様の様なものだ。
毒も含んだ上での“薬”であり、あの暗器にはそれが塗り込められている。
「それを喰ろうとて、お前の身体を隅々まで探り、解毒薬を奪う」
「はぁ、ふへへっ……吠え面かくなよぉ紺野」
鍔迫り合い、間近に睨み合う。
刃が離れれば僕が斬り込むであろう、角度を譲れば指をやられるであろう。
腕力はガマが上手なので、足を一歩運ぶにせよ判断が要される。
奴は鍔と噛み合わせた十手の様なそれを、ぐいぐいと力任せに押してくる。
此処に水を差す輩は、僕の仲魔には居ない。
人修羅は馬鹿馬鹿しいと云うが、刀光剣影の空気こそが戦いの真骨頂だろうに。
「同じ事云ってるし。口だけの悪魔とサマナーかい、主従は似るね」
「お前に毒がなぁっかなか効かんのは承知だよ!あぁ……でもアレなら効いたよなぁ……身体ぁ熱くなって、アソコがジンジンする薬」
挑発だろうか、頭が固い割にこういう事は出来るのか。
そうだ、里に居た頃もそうだった。
この男、周囲をものともせずに僕と接触を図るのだ。
暴力かと思えば一方では寵愛、舐めさせられたと思えば次の瞬間には舐められ。
リーもそうだが、こいつも酷く単純。馴れ馴れしく欲望に忠実で……愚かしい。
両者共、最終的には僕に刃を向けているではないか。
何だと云うのだ、お前達は。
「演技だったと云ったら?」
「はは!まじかよぉ。読心でも悪魔にやらせりゃ良かった、な!」
暗器が刀の峰に回り込んで来る、ガマの胴はガラ空きとなった。
しかし力の行き場が宙に放たれたせいで、姿勢が崩れた僕にも隙が生じる。
(読ませるものか)
刀を持つ手の片方で、柄頭を握りぐるりと捻り込む。
刃を上向きに握り替え、眼前に迫るガマの手を狙った。
此方側へ刃を落とし込んだとしても、頭を反らしてしまえば肩を掠めるだけだ。
すると今度は、逆刃にした僕の得物とガマの得物が噛み合った。
この期に及んで遊ぶというのか。殺すのではなかったのか。
早く蹴りを着けたい僕に反し、この男は小手返しの如き動きをしてみせた。
助長させる様なその態度に、神経を爪先で撫で上げられる心地。
「何をしに来たのだ、お前……お遊びはこれで終いなのだろう!? 」
「紺野ォ、お前をぶっ殺して此処を乗っ取る!酒も悪魔もおれのモンにする!そんだけじゃ!」
怒号と共に、ガマの眼が迫る、頭突きだ。
やり返すか、躱すか。確かこいつは石頭――……



指がじんと痺れを伴う。ふと気付けば、何も手にしておらぬではないか。
少し先に、ガマが倒れている。奴の手にした暗器に絡め取られ、刀は指から飛び立ったのだろう。
『ラ、ライドウ……その子……っていうか人修羅ちゃんよね?一瞬で……』
アルラウネの戸惑う声と視線は、僕のすぐ傍に佇む人修羅に向けられていた。
斑紋の燐光が暗がりにか細く光り、その色自体は儚げだというのに。
左右逆のままの下駄でぱたぱたと駆け寄り、しゃがみ込んでガマをじいっと眺めている。
僕は我に返り、空虚になった手をホルスターに伸ばす。
「功刀君、すぐにソレから離れ給え」
リボルバーを撫でつつ接近した、ガマはヒクヒクと痙攣して未だ起き上がる気配が無い。
すっくと立ち上がったのは人修羅だけだ。
「どっちかしんじゃうまで、つづけるんでしょ?」
屈託も無く云い放つと、ガマの首元に爪先を引っ掻け、毬のように撥ね上げた。
それを今度は上から打ち下ろす……アイアンクロウだ。激しく裂傷したガマの着衣と肉が物語る。
しかし人修羅は傷付けた反対に即座に回り込み、返り血ひとつ浴びていない。
「いじわる」
ぽつりと呟く人修羅と、ただひたすら弄ばれるガマ。
何かあればガマを射撃する予定だったリボルバーを放し、その指で管を叩く。
アルラウネとイヌガミを有無を云わさず帰還させ、僕は武器も手にせずつかつかと迫った。
襤褸雑巾の様な人体を、確認するかの如く下駄でぐりぐりと踏みつける人修羅。
傍に立った僕を見上げて、無邪気に微笑んだ。
「ライド――……」
その小さくすべらかな頬を、思い切り平手で打ち据える。
たった今、人修羅の名の通りに慈悲も無い暴虐を施していた子供が、容易く弾き飛ぶ。
倒れ込み空を見上げる眼は、何が起こったのか理解出来ないとでもいう様に暫く茫然としていた。
そして状況を解したのか、火がついたかの如く泣き始めた。
凄惨なガマを跨ぎつつ、轟々と治まる様子の無い焔に近付いた。
しゅんとした兵児帯を掴み、無理矢理立ち上がらせつつ、僕は罵声を浴びせる。
「いたずらに手を汚すな!」
「だって、ひっ、うっ、だってぇ」
泣き止まない、寧ろ悪化し、此方の鼓膜まで焦がしそうな嗚咽。
酷い焦燥感が胸を刺す。ふいごとなっても構わない、この口は止まらない。
「君には関係ない事だった……それだというに手出しする必要があるか!余計な恨みを買うな!」
「だってっ……このひと、ライドウのこといじめてた」
「……いじめ、だと?」
「このひとも、ほかのくろいかっこのひとたちも、ゴウトもっ……ライドウなにもしてないのに、いじめるんだもんっ!」
脚が震える、喉の奥が熱い、眩暈がする。
何を云っているのだ、人修羅……功刀、お前は。
「僕は……っ、僕は虐められた覚えなど無い!」
「ライドウしんじゃうまでけんかするなら、やーくんがこのおじさん、おきなくなるまでボコボコするからっ……だから、ライドウいなくなっちゃやだあ、ぅえぇ〜ん」
再び振り上げていた手の行き場を定められず、わなわなと幼い頭に載せた。
硝煙と血とMAGに塗れた指で、子供らしい猫っ毛をくしゃりと掴んだ。
こんな子供からの同情の施しで、僕の自尊心はズタズタだ。腹立たしい、狂おしい。
しかし、この手でもう一度叩けば癒されるのか?
……苛立ちが加速する予感がして、回避した。僕にも明確な理由が分からない。
そもそも、最初に叩いた事さえも……衝動的であった。
「子供が殺しだなどと、生意気にも程が有る。こんな馬鹿な事で……君の矜持を穢さないでくれ給え」
「ライドウいなくならない?けんかはおわり?」
「そうだ、君が殺す必要は無い」
涙をいっぱいに湛えた金色の眼が、くしゃりと撓む。
嬉しそうにひっつき始めた、つい先刻に己を引っ叩いた張本人の脚に。
理解しているのだろうか?いいや、愚図だから、恐らく無い。
「ライドウって、コンノっていうの?そこのおじさんがよんでた」
「耳ざといね」
「ライドウじゃないの?」
「ライドウは職業の様なものだからね」
「しょくぎょう……おしごと?コンノって、やーくんのクヌギとおなじだよね?じゃあしたのなまえなあに?」
刀を拾い鞘に納め、焼け爛れた蔦の結界を抜ける。
置き去った人間達の事は、寺院の悪魔達にもう任せる事にした。
遠巻きに縁側から此方を睨む黒猫、彼への説明も考えなくては。
「ねえねえなまえ」
「煩いねえ、僕は今から再び風呂に入るよ。臭くて敵わないよ全く、蓮の香りも判らぬ程に麻痺してしまった」
「やーくんもはいる!」
「君は汗もかいてないだろうに……そういえば何故、蟇蛙達の中から本物を探したのだい」
「ゲコゲコうるさくておきたらね、いっぱいカエルさんいてね、でもほんとうにないてるのはいっぴきだけだったの。そしたらカエルのにせものいたー」
「あれは本物だよ」
「にせものでしょ?だってカエルさんじゃないもん」
「だから、あれはガマ達の中の本物なのだよ……いいや、もういい。世界広しといえど、しょっちゅう有る事案では無いか」
追及したところで、僕には永劫具わらぬ感覚なのだろう。
人と悪魔の境界をむざむざと見せ付けられる思いに、普段も君が憎々しい。
「でね、オオバコのはっぱさがしたけど、それはみつからなかったの……」
「はあ?何、それは捜してたのかい君?」
「うん、ライドウのいってたふっかつのてじな、やろうとおもったの」
呆れた。あの蛙の総攻撃を受けつつも、そんな事を考えていたとは。
僕を捜していたのも、恐らくはオオバコの葉の在処でも訊ねるつもりだったのだろう。
「おいおい手品じゃないよ……ふふ、ははっ、あっはははっ」
「あーライドウよろこんだ!わーい!」
「馬鹿、今回は相当疲れた。もう夜も終わるから、風呂の後に薬を飲むのだよ?」
「ねえねえなまえ」
「最初に訊かれてから既に述べたよ、二度は云わない」
「えーっ、いついったの?あっ、わかった!“ひろし”でしょ?」
「違う」





薄靄のかかる蓮池と、華美では無いがしっとりと趣の有る寺院。
避暑地の様な其処で目覚めたは良いが、記憶が飛んでいる。
以前、賭け麻雀で飲む羽目になった件を思い出させる……これは二日酔いの類の頭痛だ。
『大変申し訳ありません、陰陽を調整した酒が荒らされてはいけないと思い、そちらの防衛に手一杯でした、育児放棄ではありません』
謎の謝罪を繰り返すオオクニヌシを後にして、夜明けの竹林に踏み入れる。
里周辺もそうだが、こんな同じ様な風景ばかり……何故ライドウは平然と進むことが出来るのか。
ぼうっとしていると、自身から蓮の香りがする気がしてならない。
「というか、なんで俺は裸一貫なんだよ。あんた俺に何かしただろ?」
「失敬な、治してやっただけだよ?」
「何をだよ、記憶が途切れ千切れで……ヤタガラスの連中に囲まれてた気がするんだけど、どうなんだ?」
「蛙には囲まれていたね」
そう云われると、そうだった気もする……が、この男の都合好く運ばれているに違いない。
突っ掛け代わりの小さい下駄と、着物は明らかに子供のサイズで上っ張りにもなりやしない。
仕方が無いのでライドウの外套を借りはしたが、こんな変質者の格好で外を闊歩し続けるのは御免だ。
「ゴウトさん、事情を説明してくれませんか」
『……まあ、いつもの通りお主はよく泣かされておったわ』
「ちょっと説明になってないんですけど」
『寧ろ我が訊きたいわ、あれから如何様に経緯を踏めば可愛気が失せるのか……』
何故か溜息を返される始末、俺が何かしたのか?
暫く歩いた先、やや開けてくるとライドウが管を光らせた。
黒塗りの車が召喚され、助手席がタクシーの様に自動で開いた。
ライドウの仲魔のオボログルマだ。雑魚の様にボロくない、どちらかといえばヤクザっぽい。
見た事は有ったが、乗せられるのは……実は初めてだった。
運転席にはライドウが乗り、走り出せばハンドルを握っている。
この男、車も運転出来るのか?まあ、今更驚きもしないけれど。
「こんな竹林の中、車で走って平気なのか?」
「少し揺れるがね……君があまりに不埒な格好なものだから、これで送ってあげるよ」
「いや、だから俺には覚えが……っツ!」
「ほら御覧、だらしなく喋っているから舌を噛んだろうに……はい」
ぽい、と投げられたのは飴玉……ではなく、金丹。
何だ?この出血大サービスは。俺の口内は事実、出血中だが。
訝しみながらも口に放り、舌上に転がしてみる。
甘い……人修羅になってからも、これは間違いなく美味しいと感じられる。
血の味は即刻失せ、甘露な風味が心身共に俺を癒す。
「なあ、何で下駄も着物も小さいんだ?子供用だよな……兵児帯も結び癖がついてる、胴がかなり細い」
「僕の子供時代ってのは君、想像出来るかい?」
「はあ?何で唐突にあんたの話になるんだよ……」
幼いライドウ……は、ライドウでは無いのだろう。
襲名したのはここ最近らしいし、それまでは名前で呼ばれていた様子だし。
いや違う、こいつが訊いているのは、多分そういう事じゃない。
無邪気とか、引っ込み思案とか、やんちゃとか……そういうイメージの事だろう。
流れ往く緑が、ストライプからボーダーになる。竹林を抜けて、一気に田園や棚田に変わった。
陽射しが眩しい。朝になりたての、夕日の色に近いそれが眼を刺す。
窓硝子に反射する自分の眼が金色に見えて、しっかり擬態出来ているか不安になる。
「……駄目だ、今のあんたがそのまま小さくなったのしか想像出来ない」
「フフ、だろうね。僕もそうだったよ」
何だ今の過去形は。
いつも通りの哂いを湛えて、ライドウは胸元のホルスター裏から煙草を一本抜き取った。
呼吸の様に俺が魔力を吹きつけようとすれば、何故かライドウは立て続けにマッチを取り出した。
喫茶店の銘が入ったパッケージに擦り付けると、車内で一瞬影が踊った。
「何あんた、律儀にマッチで着火してんだ……」
「……ああ、そういえばそうだね。そういう気分だったんじゃないのかい」
窓を大きく開かせると、煙草の先から紫煙が逃げていく。
茜の空に解けゆくそれが雲に見え、今が実は夕刻で……これから夜になるのではないかという錯覚を抱く。
「薄気味悪い。さっきの金丹も毒が入ってるんじゃないのか?」
「もう食べてしまったろう?遅いね、先刻受け取った時点で疑うべきだよ」
「そしたらあんたをボコして、解毒符を道具袋から漁ってやる」
「同じ事云ってるし……参るね全く」
「おい、何だよさっきから、どうして俺ばっかり溜息されなきゃいけないんだよ」
「さてと、90km/h出るか挑戦してみるかね。暫く直線だし、この時間帯ならば轢いても鈍間な悪魔だろう」
恐ろしい事を云い出したライドウが、宣告の通りにアクセルをベタ踏みする。
背後の席でゴウトが丸まって、既に諦めた気配を醸し出していた。
「ふざけるな、この悪魔が止まれなくなる可能性だってあるじゃないか、機械とは違うんだぞ!」
「だって君の望み通りだろう?何が不満なのだい、我儘だねえ」
「はぁ!? 」
「しっかりお薬飲めたからね、約束通り全速力で疾走してあげるよ」
意味不明な供述に眩暈がする。
ライドウは煙草を吹かしつつ、ハンドルを片手に哂うだけで。
「それとも、もっと具体的な御褒美が良いかい?」
「なあ、さっきの薬って何の話だよ。俺、何かやばいの飲まされたのか?おいライドウ」
「やばいのを飲まされたから、薬を飲んだのだよ。そうじゃなくてねえ、MAGが欲しくないのか僕は訊いているのだよ功刀君」
「なに両手外してるんだよ!ちゃんとハンドル握れよ!シートベルト外すなよ!」
「オボログルマ、直線の限り真っ直ぐで宜しく」
「悪魔任せにするなよ、信用出来ないそんなの、おいっライド――……」
助手席の背凭れが倒され、下敷きになったゴウトの「フギャッ」という悲鳴がした。
それを気にも留めず、覆い被さってきたライドウ。
「な、なにしてんだあんた、こんな所で不潔だ」
「野外でも無いだろうに、何を恥じらっているのだい」
「ざけんな!車も猫も見てるだろうがっ!」
「車も猫も喋らないから吹聴もされないだろう?問題無いではないか」
「こいつらは別だろっ!」
「煩いねえ……この数日間、蹴れないわ突っ込めないわで苛々しているのだよ」
「俺の記憶が無い期間、あんたと喧嘩でもしてたのか?」
「おいおい君、喧嘩なんてしていない日が無いではないか」
外套の中はほぼヌードなので、この状態で拒絶しまくる俺が滑稽だ。
苛立ちの原因が俺というのも理不尽な気はするが、こいつが俺を苛むなんて思えば日常茶飯事だった。
「本気で嫌がる君が良いよねぇ」
酷くサディスティックな台詞を吐き捨て、燻る煙草を片手に哂うライドウ。
サマナーというよりは、こいつがデビルの方だろう。
「さ、何処で揉み消して欲しい功刀君?金丹もあげた事だし、舌で良いかな?」
罵倒に口を開けば、見計らったかの様なタイミングで突っ込まれる煙草。
のたうつ身体はがっちりと羽交い絞めにされていて、シートに響いただけに終わる。
「フッ……フフ、久々でゾクゾクするよ……やっぱりその眼が好きだよ、矢代」
「はッ、あぶっ、ン」
一番忌々しいのは、己の身だ。名前と舌で意識を逸らされ、MAGに帳消しされる痛み。
確信犯、性悪、サド野郎……十四代目葛葉ライドウ……

……紺野夜

どちらかが死ぬまで喧嘩は続くのだろう。
子供の喧嘩の様に「おしまい」で片付けば、死よりも早く楽になれるのに。





霊酒つくよみ(後編)・了
* あとがき*
つ、疲れた……最後は結局カーセッ久かよ、という。
あとがきは後日、気が向いたら書きます。新刊の原稿にようやく着手!(注※締切まであと一週間)