無い憑座




「身許も知れぬ小僧に襲名なぞして、お次は小娘ときた。葛葉四天王は学童保護でも始めたのかねえ」
 一瞬何を云われているのか分からず、インプットに時間がかかりました。優しげに見える老齢の首長は、穏やかな微笑みのままに我々を侮辱したのです。先輩は特に動じる様子も無く、いつもの哂いを浮かべているだけ。
 ゴウト童子が実力は確かだ、外野が口を出す事ではあるまい≠ニ一蹴し、ひとまずお開きとなりました。首長の家から出ると、数名の村人達が待ち構えておりました。が、蜘蛛の子を散らす様にして一気に数は減り、最後にぽつんと一人だけ。
「自分が案内を……」
 小柄な女性、ちょうど私達の親くらいの年齢でしょうか。やや綻びた着物は水仙柄、履物は草履。後ろで束にした黒髪は、赤い細リボンで括ってあります。ついつい顔より先に、こういう所から憶えてしまいます、召しものが変われば判らなくなるというのに。
「宜しく願います」
 先輩が応答したので、私は少し後ろから会釈をします。先程の話からして、このまま向かうは悪魔に憑依された人間≠フ住む家だと思います。夏も近付き草も青々と茂る時期ですが、村の中は随分ひっそりとしていて、なんだか以前の槻賀多村を彷彿とさせます。
「此処です」
 あっという間の到着でした。目の前の建造物は家屋とは違って見えます、倉かと思いましたが出入口は横開きのタイプで、其処に棒が突っ掛けてあります。密閉性に乏しいのであれば、倉では無いのでしょう。ちょっとした離れの様なものでしょうか、それにしては縁側も無く、どこか殺風景です。
「入っても?」
「ええ……縛ってあるんで大丈夫と思うけど、お気をつけて」
「捕縛可能な程度ではある、と」
 呟きつつ、自然な動作でイヌガミを召喚する先輩。その瞬間、案内人の女性が目を泳がせました。ゴウト童子の声が聴こえていた首長同様、この方もサマナーの素養が有るのでしょう。
『油断するなよライドウ』
「たった今、番犬も付けましたでしょう、さあ御免」
 突っ掛け棒を持ち上げ、女性に渡す先輩。がらがらと音を立て扉が開かれると、隙間からは土間が見えました。もう少し寄って見ると、内部は仕切りの壁や障子も無く、板の間だけが広がっていました。窓が壁面にいくつか有るものの、屋外から何か被せてあるのか、陽射しが入る隙は無いです。
「こ、子供ですか?」
 思わず声に出してしまいました、ぐるぐると芋虫の様に縛られ転がっていたのは、小さな体躯の人間だったのですから。物音に反応してか、それまでくったりしていた子はびたんびたんと跳ね始め、野山の獣が如く鳴き出しました。その金切り声とも唸り声ともつかぬ音からは、少年か少女かの判断もつきません。その乱れに乱れた着物は白く、寝間着にしては鮮明過ぎる色です。布端から飛び出た手足は幼さを纏いか細く、暴れた事による創傷でしょうか、赤い擦り傷が大変痛々しいです。
「簀巻きにされた人間をよく見る羽目になる」
 ひとつ哂った先輩が子供に近付くと、背後から「あまり呼びかけん方がええですわよ、憑かれちまいます」と女性の声が。しかし先輩は気にも留めず屈みこみ、質感でも確かめる様に、するすると縄を指先で撫ぞっているのです。
 一方の子供は鉄板の上の油か、はたまた干潟の魚、縦横無尽に跳ね回ります。というのに先輩が弾かれる様子は無いので、まるであの指先に操られている様にも見えます。
「確認は終えた、明日改めて」
 すっくと立ち上がる先輩は、土間で立ち竦んだままの女性に語り掛けます。今此処で、出来る限りの聴取をするものと思っていたのですが、黒い外套は颯爽と表に出てゆきました。私は一度だけ振り返って、しかし再びまともに見る事も出来ず、その場を後にしました。
 
 
『全く、敵意剥き出しだな』
 用意された部屋と理解しながらもでしょう、ゴウト童子ははっきりと憤りを口にしました。黒猫の下の座布団はぺしゃんこで、見るからに湿気ています。どうやら長い間重ねて収納されていた様で、四隅の房に変なクセが付いたままです。
「あの、ゴウト様。私達は指名されたのですよね? 何故歓迎のムードが皆無なのでしょう……あっ、いえ歓迎しろという意味ではなく!」
『此処の連中は、ヤタガラスを毛嫌いしているのだ。呼ぶのであれば本来別筋である葛葉がマシ、といった所だろう』
「しかし私と先輩、二名もですよ。此処は管轄からもやや外れておりますし、その、拒否権は無かったのでしょうか。憑き物祓いだって専門では無いのに、これは非常に不可解なプロセスでは?」
『それは……』
 歯切れの悪くなった童子が、おもむろに座布団へと爪を立てました。追及したら良いのか、爪を立てては不味いですと注意すべきなのか。散々悩みましたが、私が口を開くより早く、向こうの障子がすうっと開きました。
「何を口ごもる必要が有るのです、童子」
 案の定、現れたのはライドウ先輩。暗くなる前に周辺を確認してくると云っておりましたが、やはり何をするにも手早いです。それにしても、一体どの辺りから聴いていたのか不思議です……気配を感じませんでした。
『十八代目の志気が下がるだろうて』
「今更、清々しい組織のおつもりで? それに人修羅が居らぬ今回、彼女のテンションは元々低いですよ」
 何か指摘された気もしますが、ノーコメントです。
 外套の襟ボタンを外し、首回りをくつろげた先輩。畳に直接腰を下ろし、あぐらの姿勢を取っています。一応旅館よろしく、ローテーブルと人数分の座布団、そして寝具も用意されているのですが。
「先輩、お疲れ様です」
「早朝発つ、僕が見張りにつくので君は仮眠を取り給え」
「そんな、せめて交代で休憩しましょう」
「長居したい処でもないのでね、明日の夕には帝都に戻るから、そのつもりで」
 云いながら先輩は、おもむろに外套の内から何かを取り出しました。傍のテーブルにカツンと置かれたそれは、漆塗りのお椀でした。小ぶりでどこか愛らしく、朱色に窪んだ曲面は、電灯の光を水面が如く反射しています。
「それ、一体どうされたのですか?」
「近くの滝壺で拾った」
「拾った?」
「食器の類は一揃い、水底に有った」
「素潜りしたのですか!?」
「まさか、そういう時こそ悪魔を使うのがサマナーだろう」
 フッと哂った先輩の吐息は、苦みのある白い霧。端正なお顔から指先にかけて見つめれば、火のついた煙草を持っています。もう片手はマッチ箱を懐に仕舞い終えたところでした。
「一部の者は視える@l子だが、現在の住人達はサマナーとは云えぬ。悪魔、しいては神とする存在から遠くなり、祀り畏れている。水神に対し椀を返しているのだから、随分と前から《一般人》なのだろうね」
「ヤタガラスとの確執は何故……」
「この村里から能力を奪ったのが、紛れもなくヤタガラスだからさ」
「奪う……サマナーのヘッドハンティングでもしたのでしょうか?」
「その通り、優秀な人材の引き抜きをする事で、此処を無力化したのだよ。それはヤタガラスが他の勢力を認めぬ組織が故、非公認の召喚師の大体をダークサマナーと称しているのも、其処に起因する」
「でも、それだけで恨むものでしょうか。実際引き抜かれてしまったという事は、理不尽が其処に有るとも思えないのですが」
「本来の形態が途絶えようと、恨みだけは滾々と絶えぬものさ。形骸化した義憤、其れを即ち呪いという……フフッ」
 煙草を口から離し、おもむろに椀へと伸ばした先輩。綺麗な朱色の曲面に、ぐりぐりと灰を擦りつけているではありませんか。火が消えた事を確認すると、そのまま煙草を置き去りに、白い指だけ離れてゆきます。灰皿ならば、この屋敷の人に相談すれば貸してくれたのでは……と云いかけて、止めました。自分が喫煙者であったとしても、そうする気にはなれませんでした。この屋敷は首長の家なのですから、日中の侮辱を思い出すと……借りを作るのは、正直嫌です。
『おい十八代目』
 まだ薄っすらと漂う煙を避け、ゴウト童子が座布団から降りました。
『あまり真に受けるなよ。こやつの物云いは三割がた憶測だ』
「まあっ、七割は童子の信頼を得ているのですね」
『…………フンッ』
 何故かそっぽを向いた童子、そのまま障子の方へと進まれるので、私は慌てて立ち上がり其処をスライドさせました。
『一周して来る』
「偵察なら先輩がさっき」
『人間と猫であれば、一般人はどちらを警戒するのだ? ヤニの煙が流れた頃にでも戻って来る、構うな』
 肉球で柔らかな足音をつくりながら、板張りの廊下を往ってしまいました。猫一名分の隙間が出来た障子をゆるゆると閉じて、気配を確認して……それから私は先輩の隣にすっと着座します。
「先輩は日中の、あの子供の状態を何と捉えますか」
「憑座の成れの果て」
「ヨリマシ?」
「雑に説明すると依り代の人間版という事だ、子供が多い」
「では、やはり何者かに憑かれているのですか」
「さあね」
 先輩にしては濁すので、逆に気になります。まだ不確定な部分が多いのでしょうか? 今回は一応、バディとして自分が選ばれたので、教えてくれても良いのに……そう、もうひとつ気になる事が有りました、このままついでに訊いてしまいます。
「先輩は、親の無い事を云われて……憤りを感じたりはしませんか」
「首長に云われた事を気にしているのかい、君は」
「それが……これがダメージなのか判らないのです。師匠が見てくださったお陰か、ああして直接罵倒された事も今まで有りませんでした。親の無いという事実が、この世の中ではマイナスポイントになるのでしょうか、不幸というレッテルなのでしょうか? 先輩は動じている様子も無かったので、意見を仰ぎたく思い……」
「先代ゲイリンを親とは思わなかったかね」
「親の様に……と、云って良いのか、それもよく分からないのです。私に親の記憶は一切無いので、知らないものを引き合いに出せません」
「実親と縁の無いまま生きらば親の像など情報、または空想でしかない。そして親が居る℃魔ノよる不遇も此の世には存在する。つまり親の不在だけでは、マイナスに働く要素としては薄いね」
「……ですよね」
「非血縁者を親の様に思う、のは勝手にしたら良いさ。産みの親をも素通りし、思慕の向かう先が己の望む親の像≠ニいう事ならば、言葉としても間違いは無い。僕とて、師範であった悪魔を──」
 饒舌であった先輩が、ぴたりと口を閉ざしました。気分では無いのか、話すつもりも無い辺りまで触れてしまったのか、定かではありませんが……ひとつ瞬きする先輩の、睫毛の長さに思わず目が行きます。
「早朝と云うのは空の白む頃だからね、寝なくて平気なのかい」
「先輩は大丈夫なのですか?」
「イヌガミにも張らせている、半覚醒程度に留め休憩するが横にはならぬ。ああ、それとも僕が寝込みを襲うかを心配している?」
「んえっ」
 そんな失礼な事は一ミリも考えていなかったので、即座に否定すべきです。しかし私はどうした事か、変な声を上げた後に、イメージの入り乱れた問いを投げてしまったのです。
「先輩は功刀さんとの場合も、出先でお布団並べて寝るとかは絶対無い、というセオリー!?」
 プライベートの旅だろうと横になる事は滅多に無いのか、必ず見張りを買って出るのか、功刀さんとバディの時はどの様な役割分担なのか、そもそも寝込みを襲った事が有るのかまでをも一瞬かすめて考えてしまい、それら全てが混合された結果でした。
 いっそ怪訝な顔でもして、軽くあしらってくれたら良かったのですが。先輩はぞっとする(色んな意味で)哂いを浮かべ、怪談話の始まりの様なトーンで云うのです。
「……知りたい?」
 実際どうなのかを想像する事も出来ず、むしろ吹き飛び。私は「お、おやすみなさいっ」とだけ返事をして、適当に引っ張り広げた布団にスライディングしました。これまで任務で先輩と寝所と共にしても何も思わなかったのに、シチュエーションの中に功刀さんが入って来るだけで、ときめきか動悸か悪寒か、これまた判らない状態に陥るのでした。
 
 
 云われていた通り、本当に早朝でした。朝靄漂う村の中、早起きの御老人が一人二人は散歩でもしているのではと思ったのですが、見事に誰も歩いていないです。空を横切る電線をいくつかくぐり、キジバトの声が遠くなってゆきます。
『眠りが浅かったか、十八代目?』
「えっ、私どこかおかしいでしょうか」
『やつれた様に見える』
 ゴウト童子の指摘どおりです。私はあれから妙に頭が冴えてしまい、しかしお喋りを続けては迷惑だろうとも思い。暗い部屋に浮かび上がった障子の白い升目を、親の仇の様に睨んでおりました、親は居ないのに。
 ぐんぐんと歩みを進める先輩、その足取りに重さは感じられません。やはり基礎体力からして、私とは段違いという事でしょうか……不埒な妄想で疲弊した自分が、何とも情けなくなります。
「あの、先輩。例の御宅を通過しましたが、どの様なプロセスで?」
「渓谷の滝壺に向かう、それほど距離は無い」
「昨晩仰っていた処ですか」
「例の憑座に読心した際、言葉では無く映像で流れてきた。下見の結果、同一の場と判明している」
「憑座って、あの子供の事ですよね? いつの間に読心を……」
 私に歩行速度を合わせてくれていた童子が、フーッと小さく唸りました。
『気付いておらなんだか、イヌガミにさせておったろう』
「子供の叫びに圧倒されてしまい……申し訳ありません」
『まあ、こやつの犬は気取られぬよう躾されているからな、手品師か詐欺師の様に自然なものだ。場数を踏んでおらんお主には、少々察し辛いかもしれん』
 云われてみれば、警護の為だけに召喚されるイヌガミではありません、捜査への貢献度が非常に高いのです。私がイヌガミを従えていても、ペットと勘違いされそうな気がしてきました。
「あっ!!」
 視界が激しく揺れました。受け身を取ったつもりが、衝撃は有りません。目の前に広がる蔓草と、樹木と、じっとりした霧と……それ等がゆっくりと流れるにつれ、肩を支えられる感覚が鮮明になってきたのです。
「天斗樹林で歩き慣れているものと思ったが」
「すっ、すいません! 想像以上にぬかるんでいたのか、その」
 前を歩いていた筈の先輩に助けていただくとは、なんとも情けない。ブーツの先でそろそろと、安全そうな足場を確認します。葉がミルフィーユの様に重なる箇所は、大変危険なのです。それを知っていたというのに、この有様。
「……先輩?」
 自重のバランスを整え、両足でまっすぐ立とうとするのですが、何故か……私の双肩を支える先輩の手が、支えるというよりも固定≠オている気がします。続いて、ぞわりと駆け上がる何か。電気とも熱とも判らないそれは、私の肌から浸透して、鼓動を速めます。駄目です、何か発しなければ、口にしなくては、開いた唇から逃さなくては。
「待って……ください、ストップ、ストーップ!」
 ようやく声の出せた私は、よろよろと先輩から離れました。向き直れば、するんと外套の内側に隠れたイヌガミ。一方の主は涼し気に目を細め、口角をきゅっと上げました。
「流石、十八代目を襲名しただけはある、施錠は早い様だ」
「もしかして、これもテストの一環ですか? 先日の槻賀多村の一件といい……抜き打ちがセオリーという、それがヤタガラスの方針?」
「いいや、今の読心は僕の勝手だ」
「私の頭を覗いても、きっと大したギャップも無いです」
「そうだね、直接訊いても良かったな」
 呆気に取られているゴウト童子を素通りして、先輩はさくさくと歩みを再開しました。私は今度こそ滑らないよう、注意しながら追います。黒く踊る裾からチラチラと、白いイヌガミの尻尾が見え隠れ。
「あのっ、一体何が知りたいのですか? 先輩に不都合が無ければ、それこそ直接訊いてくだされば良いのに」
「おっと凪君、その件は後回し」
 先輩の見据える先を、私もつられて眺めました。人の作った獣道は此処で途絶え、一気に空間が開けました。水色は淡く翠に輝き、しぶきが霧を濃密にしています。滝というのは轟音を響かせるモノだと、そんなイメージを抱いていたのですが、目の前のそれは意外と穏やかなものでした。白んだ空の向こうには、薄墨で描いた様な山の影。
「此処が例の滝壺?」
「そう、このまま淵に接近し、聴き込みを開始する」
 水辺ではありますが、さっきの路より却って分かり易いです。ごつごつとした岩は、苔のメリハリが有ります、その緑色を踏まぬ様に一歩進んでは確認、一歩進んでは確認……と、鈍間ではありますが堅実に進行出来るのです。
『おい十八代目、前を往くライドウの足場を確認すれば早いぞ』
「はっ、はい!」
 私の要領の悪さを素早く見抜く、流石はゴウト童子。そういえば、師匠はいつも後から忠告をくれましたね。私はそそっかしいので、真っ最中に云われると完全に気が移ってしまうのです。最近はこれでも、ややマシになりましたが。
「見えるかね、凪君」
 滝のしぶきが髪をしっとりさせる位置、立ち止まった先輩が私に視線を寄越します。目の前には水の束と、波打つ水面と、つまり普通の滝壺が広がっています。
「あのお椀はどの辺りに沈んでいたのですか?」
「それは拾って来た当人に訊かねば分からぬ」
 私の問いに返しつつ、肩を軽く揺らす先輩。すると瞬間、足元の岩が眩く照らされ、外套から滝の様にMAGが溢れました。それはドレープを描く水面と一体化し、次第に影を持ち始めます。私にも分かる悪魔……あれはアズミです。
『あらぁ〜今回も水辺じゃない、有難いわあ。毎度こーゆう所で呼んでやあライドウちゃん、おばちゃんお肌潤っちゃうから』
「人の世界では、あれから数刻しか経っておらぬよ」
『あれっ、また何か拾ってこいって? 前に渡したお椀くらいやったで、コレになりそ〜なのは』
 水掻きで繋がった指を、輪っかにするアズミ。あれも分かります、マネーのジェスチャーです。
「下の住民を連れてき給え、聴き込みがしたい」
『あぁはいはい、ええよ。でも向こうさんが機嫌悪かったらどうしようねえ?』
「おや、お前の美貌で釣れるだろうに」
『んまぁ〜〜随分と上げるねぇ、そういうの冗談めかさずさらっと云うと、たまに真に受けちゃうから注意しや』
「へえ、冗談にして欲しいのかい」
『いけず、もっと褒めたってぇ!』
 す、凄い……アズミのテンションは、みるみる上がってゆきます。先輩は、決して優しげとは云えぬ笑みを浮かべつつ宜しく≠ニ唱えます。すると、それが出発の合図となり、トプンと音を立てアズミは水底へと消えました。
「先輩、この滝壺……それほど深く見えませんが」
「人の意識、君の先刻と同じさ。施錠も無しに、門を全開放しておくものかね」
「更に奥が在ると?」
「……念の為、武器と管の再確認をし給え」
 声量を落とした先輩の言葉に、私は強張りました。水面の透明度は失せ、瞬間的に天を映しました。その鏡を砕く様に、影が二体ばしゃりと跳ね上がります。
『ライドウちゃんおまた〜』
 水を滴らせるアズミが宙でウインクしました、その隣には見慣れぬ悪魔が。アズミと同程度の体格でぬるりとした表皮、水掻きも有るため水妖と思われますが、頭は坊主、そして鼻は天狗の様に長い。
「御苦労」
『あっ、でも美貌だけじゃ釣れんかったんだわ。悪いけど何かあげたって、羽振りが良いサマナーって説明しちゃったでね』
「ケチと紹介されるより望ましい」
『あっはっはは、ほらみい云ったでしょ、この人とお喋りしてチップまで貰えるなんて、その辺のお嬢さんらに恨まれるでぇ〜アンタ!』
 先輩と会話の最中、アズミはケラケラ笑いながら、正体不明の悪魔の背をバシンと叩きました。私は一瞬ひやりとしたのですが、当の水妖は平然としています。水の上をひたひたと歩き、近くの大きな岩に腰を下ろす仕草、案外リラックスしているみたいです。
『ヴォジャノーイだ』
 背後からゴウト童子の声がしました、きっと私が知らない℃魔察したのです。勉強不足が大変恥ずかしいところですが、目の前で生態を講義されるのもヴォジャノーイにとって気分が悪いでしょう、教わるのは帰路の折に。
『サマナーと聞いたが、其処の村のモンじゃないな?』
「ええ、帝都の葛葉ライドウと申します」
『ははあ……葛葉……ところで何代目?』
「十四」
『や、訊いても意味無かった、なんせ葛葉一門とは面識もねえ。ところで何しに来なさった、人間にとって楽しいものが有るのは帝都の方だろ?』
「此の滝で、水垢離をしていた人間の子供に覚えは無いかと」
『あーあー、居たな、最近見ないけど』
「話した事は」
『他所は知らんけどね。人間連れ帰る酔狂な真似はせんよ、此処の魔者は』
「よく眺めていた筈だ」
 まるで見てきたかの如き論調の先輩。対するヴォジャノーイはゆっくり首を傾いで、やがて双眸を瞑り、再び口を開きました。
『びしょ濡れだから涙は見えんかったけど、毎日泣いてたなアレ。肩ぁひっくひっく弾ませて、滝から抜けても目ん玉ぐしぐし擦ってたからなァ……』
「もう一度訊くが、話した事は」
『だって会話になりゃせん。村の人間も劣化した、こっちの声も聴こえとらんしな。別にお椀くれとかは、一言も云っちゃいねえのに、おっかしいのなあ』
「実はですね、此処で禊をしていた村の子供、憑き物にやられ軟禁状態にあるのですよ」
 先輩が其処まで話した時、唐突にヴォジャノーイが目を見開き、小さく叫びました。
『なんだぁそりゃ……知らんぞ、オレ達じゃねえ!』
「水垢離から戻ってきた時には既に」
『此処の所為つってんのか、村の連中』
「そして此度、償還された召喚師が我々という事です」
『おいおい勘弁してくれ、んな馬鹿な……有ったとしても道中の、陸の奴が憑いたんじゃないのか』
「水辺の者は無関係、と云う事で?」
 他人事といった素振りから一転、ヴォジャノーイは何処か焦燥した物云いでああ≠ニだけ返事をしました。先輩もそれ以上詮索する事はせず、御礼の宝石を片手たっぷり、それこそお椀一杯分は渡し、そうして聴き込みは終了となりました。
 
 
 村に戻る頃には、朝靄も晴れていました。かといって、快活爽快な青空が広がっている訳でもなく。そのどんよりとした雲模様は、今の気持ちを代弁するかの様でした。
 ライドウ先輩は寄り道もせず、例の小屋に赴きます。私は思わず敷地前で立ち止まり、どこか確認じみた問いを投げました。
「一体何者が憑依しているのか、分かります?」
「水辺の連中で無い事は確かだね」
「では誰が……私の脳内では他にキャストが居らず、見当もつきません」
「つかぬのであれば、見える範囲に当たる他無い。最終局面にて解が反転する事も有る、真実や正体はうつろうものだからね」
「この前の抜き打ち試験、もし私が本物の人修羅を刺せば、それは不正解というルールでしたよね。あれは何をどうしても、最初から答えが決まっているものであって、見当をつけないとアプローチも出来ない。大体の人は、そういうプロセスで動いていると思うのですが……」
「一か八かが怖い?」
「怖いです」
「しかし君は刺した、視えぬ路は歩めぬという事さ」
 自分で掘り起こしておいて無責任ですが、思い出せば更にどんよりとしました。確かにその通り、私にはあの試験を降りる勇気は無く、変更を物申す度胸も無く、回避する頭も有りませんでした。あの時に懸けたプライドというのは、私自身にあったのか、葛葉ゲイリンの名にあったのか、結局判らないのです。
「ウゥウウッ、ワアアッ、アアッ」
 私達が小屋に侵入すると、途端に鳴き出す子供。しかし咆哮は、昨日より弱々しく聴こえます。衰弱が進んでいるのでしょう、あの状態で数日となれば無理もありません。
「さあ追い祓ってくれるのかねえ、葛葉一同」
 上がり框に腰かけた首長が、急く様に訊ねてきました。相変わらず声音と顔つきだけは穏やかで、私はそれを勿体無いなあ、とぼんやり思います。白髪頭に渋い色目の着物で、刻まれた皺に垂れる目はにっこりと見え、ヴィジュアルだけなら理想のおじいちゃんでしたから。
「首長さん、残念ですが、憑いておらぬ者から祓う事は不可能に御座います」 
 面と向かい断言した先輩。私も童子も首長も、息を呑みました。私は理由が気になります、首長はきっと覆しに来るでしょう。ゴウト童子は……七割信頼しているかと。
「憑いていない? じゃあ何がどうして暴れ狂っているんだ」
「このままでは衰弱死しますからね、拘束は解き、座敷牢にでも数日入れるが宜しい。根負けした頃に治りますよ」
「根負け……」
「憑依された振りをしているのですよ、その子は」
「ウチの村の者を、嘘吐きだと云うのか」
 とうとう穏やかな声音さえ失せた首長は、子供と先輩を交互に睨みつけています。一方の先輩は「万一があってはならぬので、失敬」と云いつつ、革靴で板の間に踏み入りました。私も「失礼します」と断りながら、ブーツのまま先輩に続きました。
「祭事の憑座として、数日に渡り水垢離をする。例え真夏であったとしても、暫く滝に打たれれば凍える。その冷たさから逃れる術は幾つか有る、この村を出るか、もしくは禊の出来ぬ状態≠ノ陥るかだ」
 先輩は子供を見下ろしながら、外套にするりと手をしのばせ……リボルバーを抜きました。そして何故か、銃口を子供に向けるのです。
「悪魔に憑かれた事にして、一度穢れてしまえば良い。さすれば今後、憑座としての役目は巡ってこない。そう思ったのだろう、違うかね。此の銃には今、退魔の弾が装填されている。君には何も憑いておらぬ筈だが、撃たれたくば、そのまま大人しくしているが良い」
 子供は紐の轡をきゅっと噛むまま、黙ってしまいました。乱れ髪の隙間から、眼がじいっと先輩を見詰めているのが分かります。
「先輩っ、だ、大丈夫なのでしょうか?」
「なに凪君、簀巻きだろうが横には転がれる、発砲までカウントしてやれば避ける事は容易だ。床板の硬度からして、跳弾の恐れも無い……三、二、一」
 まさかのテンカウントならぬスリーカウント、そして先輩は本当に撃ったのです。大きく身体を捻らせた子供の、脚のすぐ傍、床板に穴が出来上がっています。火薬の臭いと、私の心臓の音、ブラウスの下をつうっと汗が伝い落ちていく感覚。
「……っ……ぅ、うっ」
 子供が泣き出し、ようやく時間の流れが戻りました。これまでの獣じみた咆哮とは違う、人の咽びが空間を満たします。土間から駆け上がって来た女性が、未だ硬直している首長の脇を通過します。しきりに名の様なものを呟き、おそるおそる屈み込むと……子供にそっと触れました。
「あんた……何も、何も憑いて無かったって、本当かい。ずっと嘘吐いてたんかい!?」
 ア〜ンと泣く子供は、幾度も頷いています。あの女性は恐らく母親でしょう、昨日も此処まで案内してくれた人です、後ろ姿に見覚えがありました。
「首長殿、憑いているモノの正体が分からぬという事で、無理難題を我々に投げましたね? 手の施しようが無い者の処分をさせたかったのでしょう、そうして祓えずに何を葛葉か≠ネどと、嘲弄するも良し……まあ、見事にアテが外れた訳だ、ククッ」
 先輩は既に銃をしまい、帰る気満々といった風です。云われるままの首長は暫く放心しておりましたが、次第に耳が赤く染まってゆき、やがて茹蛸の様になってしまいました。
「悪魔討伐も祓除も無かったが、出張と調査の費用はお支払い下さいね、ヤタガラスに……ああいや、帝都の鳴海探偵社でも結構。それでは失礼」
 気付けばライドウ先輩は、とっくに小屋の外へと出ているではありませんか。私は「待ってください先輩!」と呼びながら、床板をブーツでどかどか駆け抜けました、新品の試し履きでもここまで大胆に走りません。表に飛び出したは良いものの、一瞬気になって振り返ると……首長が睨んでいるのです、あの母子を。そして、昨日のシーンと同じく野次馬が、道端からこの一角をじろじろと眺めておりました。
 
 
「退魔の特殊弾が有るとは知りませんでした、そんなプレミア品、一体何処で?」
「そんな逸品、有るのなら是非とも欲しいね」
「えっ、でもさっき」
「出任せさ、騙し合いに負ける僕と思うかい」
 平然と云う先輩、足下のゴウト童子もまあよくある事だ≠ニ流しました。
 ひとまず解決です。憑かれた人も居らず、滝壺の悪魔たちの潔白も証明されました。でも、どうして、何故こんなにも不安なのでしょうか。
「先輩……私どうやら落とし物をしたみたいで。捜してまいりますので、先に帰還してください」
 騙し合いでは負けぬと豪語した人に、何を吹っかけているのでしょう、私は。
「電車駅までかなり歩くと思うが」
「体力づくり……そう、ダイエットもしてるので、今」
「どうぞ御自由に」
「有難うございますっ、いざ参らんのセオリーですっ!」
 ゴウト童子はほんのり訝し気でしたが、先輩はあっさりと許可をくれました。きっとこの後、ひらけた場所からコウリュウに乗り、帝都へ戻るのでしょう。
 私は踵を返し、猛然と駆けました。未だそれほど離れていなかったので、件の小屋にはすぐ到着しました。しかし見当たりません、あの母子が。
「さっきの子供は!?」
 遠巻きに此方を窺う人達に、私は直接歩み寄りました。視えている人、視えていない人、それを瞬時に判断出来ない私には、これが一番早いのです。読心術というのは、察されては一層壁を厚くされるもの。それならいっそ、正直にぶつかるのみ。
「話したい事が有るのです、帰る前にひとつだけ!」
 隣同士見合い、口を閉ざす村人達。恐らく、緘口令は出ていないのです、この人達が勝手にそうしているのでしょう。この村が特殊という訳ではありません、いくつかの集団を見てきた今なら分かるのです、これは自然発生であり、人間特有の呪いなのだと。
「ちょいとお嬢さん、悪い事は云わんから、今回の件にはもう関わらんでくれんか」
 ジャケットの肩をトントンと叩かれ、振り返れば頬のこけたお婆さんが……めいっぱいの背伸びをして、私の耳元に囁きます。
「あのな、ふらっと消えてもうたんよぉ、親子で。若い衆が滝の方も捜したが、居らんちゅう話じゃ……諦めなされ」
 私は会釈でお返事して、その場を離れました。謎の確信を以て、湿った緑の中を往きました。仲魔の一体も傍に付けず、黙々と水音だけを聴きながら。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 今朝の数倍速く歩いた為、流石に息が上がりました。苔で軽く滑りながらも水面に近付き、奥底を見下ろします。そういえば、潜ってくれるような悪魔を従えておりません。宝石を投げ込めば、泉の精よろしく現れてくれないでしょうか。ああ、駄目です……こういう時に限って、ちょうど持っていないセオリー。
『おーい』
 滝の音が、一瞬誰かの声に聴こえました。 
『今朝来たサマナーの片割れだろ、アンタ』
 水壁がざらりと割れ、数刻前に見たヴォジャノーイが顔を覗かせました。私は姿勢を正し、改めてお辞儀します。
「こちらに子供が来ていないか、確認しに参りました」
『あぁ来たよ。先に子供、後から大人の女』
「もしかして、匿っていらっしゃる?」
『コッチから人間引きずり込むなんて、本来はゴメンだな。しかしいつまでも死体ほっぽっとくワケにもいかんだろ、お椀じゃあるめえし、ははっ』
「し、死体……」
『だーっと駆けてきたあのガキが、此処でまた滝に打たれて、まあ念仏みたいにしきりに謝ってるんだよ、誰に対してか知らんけどな。そしたら追って来たんが多分親さぁ、そいつも同じ様に謝りながらもういい、もういい≠チて、アレをヨシヨシと抱き締めたと思いきや、水に沈めたのよ』
 話の最中だというのに、私は視線を水面へ向けました。ヴォジャノーイの説明からすると、恐らく片付けられたのでしょう。よくよく見れば、水面から露出する岩に何か引っ掛かっています、華奢な赤いリボンでした。碧い水色に、まるで差し色の様に、ゆらゆらゆらゆらと。
『親の方は…………オレが殺しちまったよ』
「それは、何故」
『どうしてかなあ、どうでも良かった筈なのに。さああれだ、調伏するならしてみぃ、もちろん抵抗はさせて貰うがな』
 人間を殺したと云う悪魔、しかし私はその現場を目撃しておらず、具体的な証拠も有りません。いいえ、そんな理屈より何より、何が罰されるべきか、救われるべきか、私がそれを見失ってしまいました。
「私達の任務は、もう終わっています。憑座の子が、今後あの村でどの様な扱いを受けるか……ちょっと不安になって、それで戻って来ただけです。ですからっ、これはサマナーとしての用事ではなく、私のプライベートです」
『おう、そうかいそうかい、見逃してくれるって?』
「見逃すも何も」
『……云っとくが、ガキは死んじゃいないぞ。でも死んだ事にしといてやってな、人間としては死んだんだ。アレはこれからオレ達の家で暮らす、水を冷たく感じる事も、もう無い』
 頭が混乱してきました。私に出来る事は、もはや何も残っていないのですから、水辺を濁さず立ち去るのみでしょう。
「色々と有難うございました、帰ります」
 青い身体の悪魔は、水掻きの掌でバイバイをすると一際高く跳ね、水面に飛び込みます。揺らぎが淡くなり、水底が見える頃には気配も消えておりました。
 
 
 滝壺から戻ってみれば、ライドウ先輩は別れた位置にそのまま留まり、喫煙をしておりました。私は平謝りでコウリュウに乗り、上空で童子から落とし物は見つかったのか≠ニ訊かれ、ようやく云い訳を思い出した次第です。
「すいません、シャワーまで借りてしまって」
「着の身着のまま一泊、辛気臭い村に沢歩き、湿気にだれた巻毛の女を放置しては、僕が外野から文句を云われかねない」
「この事務所、本当に何でも揃ってて素晴らしい、パーフェクトです」
「鳴海所長が常に勤務体制であればね。ああ、それにコテも無かったか……」
 事務所から出ていく先輩、既に軽装である事から、きっと入れ替わりでシャワーを浴びに行くのでしょう。テーブルには途中まで書かれた報告書が載っています、今回は二名で赴いたので、共に作成するのです。
「なんださっきの野郎、もっと云い方が有るだろ」
「功刀さん」
「お疲れ様です、勝手に珈琲にしちゃいましたけど」
「ぃ、いいぇいいぇ、もぅなんでも」
 私にとって、パーフェクトの五割を占める存在が現れました。鳴海さんが昼行燈でも、コテが無くても、人修羅が……功刀さんが居れば、半分はクリアです。
「その着物、大きくないですか?」
「其処はさすが平面裁断、はしょればノープロブレムです。それに私、肩幅広いので……」
「女性ものが有ればそれを貸せたと思うんですけど、すいません。それにしたって、俺のを貸せば良いのに……あ、いや俺の背が低いっていうより、あいつが割と高めなだけですよね?」
 この鈍色の着物、やはり先輩の私物でしたか。まあそれは察しがついておりました、功刀さんの服に袖を通したら、私はきっとテンションがおかしくなりますから。きっとそれを避ける為の配慮でしょう、配慮。
「髪の毛」
「はっ、はい」
「巻かなくても綺麗ですよ、やっぱり純粋な日本人と毛質違うんですかね」
 珈琲のついでみたいに、殺し文句を置き去る功刀さん。もうこれから巻かなくても良いんじゃない?≠ニハイピクシーの声がしましたが、今は召喚していないので幻聴です。
「なんだい、僕の分の珈琲は無しか」
「先輩、物凄くシャワー早いですね!? 流石にもう少しかかると思ったんでしょう、功刀さんも……」
 烏の行水、と口から出そうになりましたが、珈琲を啜って呑み込みます。
 先輩は制服のシャツとスラックス姿です、おそらくストックに着替えたのでしょう。首回りのボタンは填めておらず、ちらりと覗く鎖骨にラフな色気を感じるのですが、不思議と上品です。まだ乾ききっていない頭には、学帽でなくジャカード織の白タオルが、まるでベールの様に掛けられています。肌の白さと黒髪の艶も相俟って、全身モノトーン、なんだか一枚の絵みたいです。
「あの、ヴォジャノーイに関して、私何も知らないのです。宜しければレクチャーを……」
 気になっていた事を切り出せば、私の向かいに座った先輩。資料も無しに、すらすらと紡ぎ始めました。
「基本的には東欧に生息する水妖だ、アズミより見る機会は少ないだろう。今回の様な魚人の時もあれば、人や動物、植物にさえ化ける事もある。人間に対し友好的な者も居れば、真逆も居る、それは他の悪魔と同じ、個体や群れによりけり」
「人間を仲間に引き入れる事はあるのでしょうか、眷属にするというか」
「ドヴォルザークの交響詩にもあるだろう、人を引き摺り込む者も居る。奴隷や食料にする事もあるそうだよ」
「えぇっ……そ、そういう悪魔だったのですか!?」
「あのねえ、だから君、今日の悪魔も云っていたろう余所は知らない≠ニ。同種であれば確実に同じ倫理、とは限らぬよ」
 そうですね、そしてそれは人間にも云える事……あのヴォジャノーイが、きっと子供に良くしてくれているのだと。この思いも、私個人の勝手な倫理観が抱かせる欲求なのです。
「ヴォジャノーイ達は一体どんな処に住んでいるのでしょう、あの滝壺の水底は行き止まりに見えました」
「諸説あるが、中でも華やかなのは水晶宮かね」
「水晶って、クリスタルの宮殿という事ですか?」
「宝石や魔の装身具、打ち捨てられた貴金属などで飾り立てられているそうだ」
「まあ素敵、それは一目見たかったものです」
「それこそ余所の話だろうよ、あの滝壺では漆塗りの食器で出来た御殿だろう」
「ち……ちょっと想像がつかないです」
「さて、しっかり入金されるか見ものだね。別にフイにされても僕は構わぬが、意地汚いヤタガラスがつつきに行くだろうからねえ……クックッ」
 目の前の報告書は、万年筆のインクでカリカリと埋められてゆきます。私は字が汚いので、先輩が書いてくれるのは正直助かりました。
「あの子供が憑依されているのか否か、不確定だった宵、僕が云った事を憶えているかね……憑座の成れの果て≠ニいう言葉」
 用紙から視線を逸らす事なく、先輩が問い掛けてきます。
「はい」
「調査対象の子供の他に、僕はあのヴォジャノーイこそ、憑座の成れの果てではないかと思うのだがね」
「私達と話したヴォジャノーイが……ですか?」
「幼子の水垢離、その時点で死亡率はまあまあ高い。そして未だにあの風習だ、古い時代にも幾人か亡くなっているだろうね、憑座が」
「つまり、あの滝壺に暮らす水妖達は……」
「只の憶測、妄想の類さ、聞き流してくれ給え」
 先輩は、私とヴォジャノーイの会話を、何処かから見聞きしていたのでしょうか。それとも、子供に読心した際、他にも色々視えていたのでしょうか……いえ、やはり本当に憶測なのでしょうか。
「先輩は、私があの憑座の子を連れ帰ってきたら、どの様に対応するつもりでしたか」
「返してこいと云うだろうね、それこそ学童保護はやっておらぬ」
「あの時点で、親子関係に亀裂は生じているでしょう。大事になり首長に恥をかかせたのです、きっと村八分に遭うでしょう。そしてまだ、本当に幼い子でした……自ら苦難より脱する事は、ほぼ不可能に近い。年長者の、経験者のサポートは必須と思うのですが」
「成程、君は師匠の志を意識している訳だ。己の受けた恩恵を返さぬは、面目が立たぬと」
 その指摘に反論は無いです、しかし腑に落ちない部分もありました、なにせ私はそこまで深く重く考えてはいないのですから。
「君こそがイレギュラーだったのだよ、十八代目。先代ゲイリン殿が、どれだけ長くサマナーとして活動していたか考えてみ給え。君はちょうど、全てのタイミングが良く拾われたのさ、そうして此処に居るのだ」
「そう、かもしれません」
「それに、親元から勝手に引き離すつもりだったのかい? 子が望むのであればまた別だが、大体は拒絶するだろうね。まるで血縁の呪いにでもかかったかの様に、苦しくとも親から離れぬ者が多い」
「でもっ……(殺されてしまったのですよ、母親に!)」
「でも?」
「……」
 続きが声になりません、頭の中で叫ぶに終わりました。何がでも≠ネのか、自分でも分からなくなってしまったのです。子が肉親に望むものなど、知る由も無いのです……私には、血縁の親が居ないのですから。
「先輩は、もしも引き離してくれる$lが居たら、ついて行きますか」
「何の話だ」
「私達、この生き方しか知らないじゃないですか。もしかしたら、世間一般の皆様から見た私達は、あの憑座の子の様に見えるのでは。ヤタガラスに与するサマナーとして在る、これって同業からすれば誉れ高いのかもしれませんが、外野からは不幸のレッテルにも見えるのでは」
「……自分達こそが呪われていると?」
「葛葉を、サマナーを辞めろと云われたら、辞められるとしたら……どうですか。私は、そういう路も最近は想像します。大事な人に説得されたら、あっさり降りてしまうかもしれません。先輩は──」
 ガチャン、と甲高い陶器の響きに遮られました。テーブル中央に勢いよく置かれた、蓋付きの小鍋。視線を上げていくと、目が合いました。
「鳴海さんいつ帰るか聞いてませんし、もう飯にしませんか」
「は……はいっ」
「凪さんはそのまま座ってて大丈夫ですからね、残り持ってきます。おいライドウ、書くのか食うのか、どっちかにしろよな」
 添えていた両手を、鍋から放す功刀さん。熱くなかったのでしょうか、ミトンも無しに……もしかして、火炎を扱うから平気だとか? 私が勝手に悶々としていると、やや小走りに戻って来られ、その片手には布巾を持っています。
「鍋敷き忘れてた……って何敷いてるんだよあんた」
「書き損じの有効活用」
「紙切れ一枚じゃ不安だろ」
「無いよりマシというものさ」
 いつの間にか、鍋下に差し込まれている報告書。先輩が書き損じるなんて、どこか違和感が有ります。私が話しかけ過ぎて、気が散ったのでしょうか。それとも、さっきの問いに対する答えが書いてあるのでしょうか。いずれにせよ、水滴と熱でうやむやにされてしまいました。
「さてと、椀は投げずに使うが好し。半日以上食べて無いのだから、早くしてくれ給えよ」
 上質そうな万年筆は脇によけ、胸ポケットから抜いた管で鍋の縁を叩く先輩。食器類を運んできた功刀さんが咎めると、受け取った箸で今度は叩き始めました。
「最悪、俺が親だったら反省するまで飯抜きにするところだ」
「ああ誰の子でもなく助かったよ」
「前言撤回、あんた赤の他人だけど飯抜き、箸置いて姿勢正せ」
「偉そうに云うねえ君、立場が分かっておらぬ、今宵からMAG抜き」
「はぁ!? なんでそうなるんだよ!」
 もう可笑しくて、私は行儀もそっちのけで笑いました。空腹に沁みます、これは早く食べなくては。ひとまず姿勢を正し、笑いによれた衿も整え、まるで幼子の様にご飯を待ちました。
 赤く腫れた功刀さんの指を、私も先輩も視認しながらに無視し、ただただ幼子の様に……


-了-


* あとがき *
 タイトルは「無い憑座(よりまし)」これは作中台詞にもある通り無いよりマシ≠ニ掛けています、何が無いよりマシなのか、誰にとってそうなのか、ご自由に解釈ください。久々の凪視点の新作となり、折角なので今回は敢えて「人修羅抜き」のシーンを多くしました。そうすると、ライドウも凪も微妙にテンションが低くなり、執筆中に笑いました。
 このサイトのライドウと凪、二名の共通点は「親の無いこと」なので、その辺りをメインテーマに。ライドウの真意は具体的に書きませんでしたが、自らの云う呪い≠ニいう概念に、己が該当するとは認めたくないでしょう。
 凪は葛葉一門でヤタガラスに使われるサマナーではあるものの、先代ゲイリンが面倒をみていただけあって、外部から入った人間というポジションです、帰属意識は低いと思われます。
 かたやライドウは生まれからの殆どを里で過ごした事もあり、無意識下で従属している訳です。当人はそんなつもりは無い≠ニ、襲名以前から外界の情報を積極的に取り込んでいたものの、目標として結実するのが「葛葉を襲名し召喚皇となり、組織を瓦解させる」事だった辺りが証明。彼は憑座の子供に対し嫌ならば、生存したければ、その時に自ら行動するだろう∞親や村に従い続けるかは本人の決める事≠ュらいに思っていた様子ですが、痛々しい子供に抱いた「幼い愚かさ」というものは、大体自分に跳ね返っていたのです。他の生き方に憧れはしても、あくまでも夢、ライドウにとってそれは現実ではないのです。凪が夜に投げた問いは、功刀が割り込んだ形となり、答えを聞けませんでした。このタイミングが故意か否かは、功刀の指に訊いて下さい。

 ※ちなみに、本作のおまけをWeb拍手(TOPページ)の御礼SSに放り込みました。しょうのない内容ですが、ライ修羅度はそちらの方がやや上かと思います。
(2020/7/12 親彦)

〜過去作読了の方に向けた小ネタ話〜
▽「もしかして、これもテストの一環ですか? 先日の槻賀多村の一件といい……抜き打ちがセオリーという、それがヤタガラスの方針?」 「この前の抜き打ち試験、もし私が本物の人修羅を刺せば、それは不正解というルールでしたよね。あれは何をどうしても、最初から答えが決まっているものであって、見当をつけないとアプローチも出来ない。大体の人は、そういうプロセスで動いていると思うのですが……」
▼これら凪の台詞はSS『chaosの零余子』の一件を指す。

▽「それに、親元から勝手に引き離すつもりだったのかい? 子が望むのであればまた別だが、大体は拒絶するだろうね。まるで血縁の呪いにでもかかったかの様に、苦しくとも親から離れぬ者が多い」
▼という夜の台詞。連載《帳》の番外SS『玉繭の化石』において、彼はまさしく親元から引き離す≠ニいう事をやってしまうのである。




▼憑座 -よりまし-
尸童とも書く。作中ライドウが説明した通り、神の依代となる人間を指す。六歳頃までの少年が選ばれる事が多い。本作では禊(垢離)などを神事の前に行う≠ニいうイメージで書いた。

▼垢離 -こり-
神仏祈願の折、冷水を浴びる滝行などの行為を指す。世間でいうところの禊だが、仏教(山岳信仰による影響が多いところ)などでは水垢離と称する事が多い。

▼椀貸伝説
民話・伝承の類型の一つで、塚や淵、大岩、山陰の洞穴などから膳や椀を借りる話を主題とした言い伝えの総称である=iwiki引用)
地元にも、複数の伝承が有る。たまに行く滝壺(龍王権現)も、シンプルな椀貸伝承がある。今回は其処の景観を思い出しながら話を作った。非常に美しい場所なのだが、誰とも遭遇した事が無い。

▼ヴォジャノーイ
作中でライドウが説明している辺りは割愛。チェコにもヴォドニークという類似した水妖が居る、そちらは鮮やかなリボンや、鏡などで婦女子を沼に誘い込む(水に揺れる赤いリボンの描写は此れをイメージ)
ドヴォルザークの交響詩「水の精」は、ヴォドニークに攫われた女性が望まぬ子を産まされ、人の世と違う水の国に嘆くストーリー(しかも赤子は最終的にヴォドニークに惨殺される)