路上の霊魂


「そんなに沢山…手紙出すんですか?」
百枚綴りで五十銭の切手を受け取り、傍から不思議そうな顔をする君を見た。
「いいや、手紙を出す友人なぞ居らぬでな」
「まあ、俺も居ないですけど…そもそも俺の居た時代だと、メールで済ませてましたから」
紙幣を受付の者に渡し、天井の高い郵便局を退散する。
薄く積もった雪が、行き交う人々の下駄歯や踵で揉みくちゃにされている路面。
人工的な獣道が出来上がる帝都の冬景色は、師走ならではだ。
「君の時代には廃れているのか、複十字シールは」
「もしかして募金切手ですか、さっきの」
「自然療養社発行のものだが…収益金で結核者の療養支援が出来る」
「お金は」
「当然、自身の懐から出している」
街灯下で待っていた業斗と合流するや否や「遅い」と眼で急かされた。
『下の者に行かせれば良いものを、この時期の施設は何処も混んでいて堪らん』
「自分の用事だ、他者に任せたくない」
本当は違う、偽善的と嘲笑されるのが嫌、それだけだ。
結局手紙に使う事も無いので、去年の分も引き出しに入れたまま冷えている。
いっそ無償で誰かにあげてしまおうか、とも思ったが、人修羅に渡しても困惑するだけであろう。
『その用事に俺を待たせ、人修羅は擬態させ連れ歩くのか』
「すまぬ、しかし我が人修羅から眼を離した、と、何かあっては糾弾されるであろう」
『フン、最近理由探しに必死だな』
昔からだ。
『任務に支障を来す様であれば、人修羅とお前を共に居させる事は出来ん、分かっているだろうがな』
「承知している」
師の言葉のひとつひとつが重いのは、久しい感覚であった。
幼い頃、戦う事すらままならぬ我を叱咤する、あの頃の声とは少し違う色。
抉り込んでくる、心の臓に。
「今は、俺の勝手も有りますから、噛み付くなら俺にして下さい業斗さん」
隣を歩く人修羅が、淡々と零した。
『生憎、歯痒いと云う程でも無いのでな、貴様を噛む位なら畜生らしく小骨でも噛んでやるわ』
「そうですか…何なら炙って差し上げましょうか、俺、炙るのは得意ですから」
笑みもせずに返す人修羅の言葉に、どこかざわつく。
稀に見え隠れする好戦的な気配にさえ、惹かれているのだ、我は。
『おい雷堂、帝都人に噛み付かぬ様に見張っておけよ』
「…業斗、人として在りたい彼は、その様な不埒な真似はせぬ」
往路の着込んだ者達より、一枚足りぬ君はどこか浮く。
この雪の冷気を骨身まで許す事も無いのか、その悪魔の身体は。
「矢代君、平気か…?いくら君でも、首元が寒々しいぞ」
横に訊ね、己の首の巻物を外そうとすれば、細い手指がす、と咎めてくる。
「きっと結核にすらなりませんよ」
先刻の切手にそんな事を感じていたのだろうか…
返ってきた君の台詞に、どうしようもない気持ちが込み上げてくる。
これを憐れみや同情と喩えれば、君はきっと眉を顰めるのだろう。
「もう少し歩んだ先に店がある、其処で食事でもしようか」
業斗の溜息を無視した。

◇◆◇

錦糸玉子と青葉と湯葉で包まれた手鞠寿司。
漆塗りの椀には、芳しい汁物が湯気を立てている。
小鉢に根菜を蒸したものが、細かく色彩々に盛られ。
「俺、こんなに食えませんよ雷堂さん」
苦笑して云ったものの、しかし量は控えめな懐石だった。
「云うな、折角業斗も邪魔だて出来ぬ空間なのだ、ゆっくり食せば良い」
「今はっきり邪魔って云いましたよね」
確認すると、一瞬箸を止めて俺を見る片眼。
右側は相変わらず白いガーゼの眼帯が覆っている。
「さてな…最近は少々忘れ易くて困る」
濁したのが可笑しくて、また少し笑ってしまった。
「無理に食して欲しい訳では無い、こうして君と色々な風に過ごしたいだけだ」
向かいの席から真っ直ぐに云う雷堂、その意識だけは迷いが無くて、俺は少し戸惑う。
「それに、口から食むだけが食事の席の愉しみでは無いのだろう?」
「まあ、そうです……空気は大事だ。嫌な奴と一緒の席とかだと、飯も不味いですしね」
そう云う癖に、ライドウとの食事は不味かったか?
思い返して、何処かもやりと、まるで先刻見た空模様の様に曇る奥底。
「君が寒くないならば、少し開けようか」
突然雷堂は立ち上がり、障子に歩み寄ると、手を掛けた。
全てを開くのかと思ったが、半分から下だけがその指に引かれてするりと動いた。
「あっ」
「雪見障子だ、馴染みが無いか?」
「凄い…」
手入れされた庭園は、素人目に見ても綺麗なのだと実感する。
石の灯篭も、松も枯れ枝も、雪化粧。
一面白かと思えば、赤い冬椿が僅かちらりとこちらを覗いていた。
「静止している様だと思わぬか」
座布団に再び正座する雷堂が、ぽつりと零した。
「稀に雪が枝葉から落ちる音が響く、それだけなのだ」
「落ち着きますね、築土って結構賑やかだから、ここまで静かな店も珍しいかも」
「此処は冬が一番好きだ、君に見せたくて思わず連れて来てしまったのだ、すまぬ」
謝罪の割には浮き足立っているみたいな雷堂に、俺の曇りも少し霞む。
「俺の事はいいですから、雷堂さんしっかり食べて下さい…って、俺の金じゃないけど」
「我もそう多く摂取出来る訳では無いのでな」
「小食なんですね、それでよくあんな動ける…」
「胃が重くては何かと困る、それに任務の合間はまともに食事出来ぬ事が多い、少量で足りるならそれが良い」
「でもライドウの奴、凄い量食うんですよ」
また一瞬箸が止まり、汁物を仰ぐ雷堂。口許を見られたくないのだろうか…と、穿った考えをしてしまう。
俺も、これ以上ライドウの事を発するべきでないと悟り、同じ物をつついてみる。
椀を持たずに、中の具材を箸で掻き分け、物色する。
「あ、油揚げ」
意識せずに口から出た言葉に、自分でも嫌になってしまった。
「苦手か?」
「いえ、ちょっと」
何でもない、と返そうとした瞬間、障子の向こうから音が響いた。
二人して音の方に向けば、先刻の白い絵画と違う。
「間違い探しだな」
少し悪戯っぽく云う姿は、子供みたいだ。
「…あ、少し赤が増えてますね」
冬椿から雪が落ち、その真紅が鮮明に見える様になっていた。
「兎の眼の様だ」
そういう純粋めいたこの人の感想は、あの男の気障っぽさはあまり無い。
同じ十四代目葛葉ライドウと雷堂で、何故こうも空気が違うのか。
「そういえば兎と云えば、この雑煮の肉もそうだったが、平気か矢代君」
「えっ…」
「美味ではあるが、少し癖が有るから…その、君は舌があまり利かぬ今、恐らく風味で味わうだろうと思い」
「食べれない、って訳じゃないですが」
少し驚いた、流石に調理した事は無い。
薄く濁っているのは、醤油やみりん、椎茸や牛蒡の滲んだ色か。
合間にぷっかりと浮かぶ肉は、一見変哲も無く。
「兎肉って…雑煮にするんだ」
「徳川の家では、正月の定番だったそうだが」
「フランス料理のジビエみたいなものかな…野生のを狩猟するんですか?」
「いや、近年は兎の飼育が盛んらしくな…其処の、襟巻きもアンゴラ兎の毛で織られている」
「何か意外ですね…俺の時代だと基本的にペットだから、日本じゃ兎食べる事あまり無いと」
「軍需の為に多く入ってきたのでな」
綺麗な作法で食を進める雷堂を見つつ、兎肉を避けて適当に牛蒡を齧った。
風味に肉の癖は滲みていない様子で、少し安堵してこり、と歯を立てる。
「君の眼が真紅なれば、それこそ兎の様であろうな」
赤い眼…それを想像して、少し小袖を震わせてしまった。
ただでさえ金色が嫌なのに、それこそ真の…
「気に障ったなら、すまぬ…我は人を愉しませる術を知らぬ…こればかりは、修行でも磨けぬ」
「あ…いえ、雷堂さん、別に俺この身体を貴方の所為にしたい訳でも無い…そんな顔しないでいいです」
「どの様な顔だ」
「どの様なって…」
いざ聞かれたら、いつも満面の笑みをする雷堂でも無いだろ、と自分で首を捻ってしまった。
ライドウの、余裕に充ちた哂いとも違う、少し堅い表情…
普段からそうだと云ったら、更に落ち込むかもしれない。
「その、少し翳った表情…って云うんでしょうか…」
語彙が脆弱なので、適当な言葉も見つからずに答えた。
それ以上掘り下げられない様に、手鞠寿司に箸を伸ばす。
「ヤタガラスに与しているからとて、太陽が如く快活で居られる我ではないのだ」
金色の錦糸玉子の手鞠が、箸先から逃げて転がる。
雷堂の言葉に気が散って、上手く拾えない。
「何か、間違った事をしては居らぬか、云ってはないだろうか、そればかり気にしてしまう…」
「そういうのって、誰にでも」
「顕著であろう、君の労りの言葉が欲しいという感情すら有る」
薄く失笑して、茶をひと啜りした雷堂が、湯呑みで温まった指を少し翳す。
「まだ左の腕は痛むか?」
「ん、ぇ…まあ」
手鞠を口の中で解いて、嚥下する。
正しい栄養に変換されず、俺の中でただの生体エネルギーに替わるのだ。
俺なんて、身体の中から間違っているじゃないか。
「上手く食べれぬであろう…」
腰を上げて、すらりとした黒い学生服が、背後に着座する気配。
「何が食べたい」
何を意図しているのか、それとなく察知した途端、流石に恥ずかしくなる。
「右は普通に動かせます、左も添える程度には問題無いですから」
「少しは甘えてくれないだろうか…」
見返りを求められても、困る。
「結構です、病人でも無いですし…手を煩わせたくないか、ら――」
軽い圧、沢山の雪が両肩に積もった感触にも似てる。
背から肩の上を通過した腕が、俺から箸を奪う。
「熱い物は避けようか…確か君は猫舌だったからな」
「こ、子供じゃないんですから、食わされるのは勘弁して下さい」
「ふむ…これが風味豊かで美味だった」
「だからっ…雷堂さ――んぐ」
「柚子の効いた揚げ出し豆腐…もう冷めていたから、平気と思ったが」
咀嚼していると、実際感じる柚子の薫り。
「兎はな…ヤタガラスとは仲良く出来ぬ」
「どうして…です」
「赤茄子の関東煮、食感が少し面白かった」
次から次へと差し出されては、食べる他無い。
食べなければ時間が進まない気がした。
「太陽信仰…射日神話を知らぬか、矢代君」
「トマトおでんとか、すご………あ、はい…知らないです…アマテラスとかその辺ですか」
「オホヒルメノムチ…確かにヒルメ…日の巫女ではあるが、少し離れる」
先刻もつついた豆腐の柚子を、そっと箸の先で摘んでいる。
「柚子湯は好きか」
「す……まあ、嫌いじゃないです」
ライドウもそれを好きだったとか、云えるか。
同じ物を好きでいるのが、むず痒い。
「柚子湯に入るは、冬至において太陽の力が弱まるからだ、一陽来復…陰が極まり、陽に返る」
「冬至って、やっぱ何かしらあるんですね」
「そういえば君は、我の上の名を知っていたか」
小さく切られた柚子は自分の口に放り、次には南瓜の煮物を摘む箸。
「え、と…ひ…」
「“ひうが”だ」
「…なんか、名字も名前もお日様ですよね」
「おい君、我が能天気だと聞こえるぞ」
「あっ、そんなつもりじゃ」
箸が揺れて、肩に笑いが伝わってくる。
「いや、すまぬ…少し意地悪をしただけだ」
「あ、のですねえ、そもそもこの状態だって俺――んむ」
振り返る前に、南瓜で口封じされる。
「ヤタガラスは太陽の象徴…まさにうってつけだったのだ、ヤタガラスの一員に、な」
嬉しくなさそうな、口振りに一瞬聞こえた。
「増え過ぎた太陽を、打ち落とす話が射日神話だ」
「………はぁ、ちょっと、今の一口、大きかったんですが」
「む…我とした事が…失礼した、君の唇が小さい事を失念していた様だ」
その言葉に、よからぬ光景が連想されて、すぐに切り返す。
「ありがたい太陽でも、多過ぎると困るって事ですか」
「何事にも、統一には数多の象徴は不要という事であろう」
「ヤタガラスのサマナーとしての意見ですか」
「日本國を裏で支える機関…その一人として、そう教わってきた」
スラックスのポケットから取り出した薄い手巾で、雷堂が俺の口の端をそっと拭った。
その左手をやんわり押し返す…あまりに過保護で頬が熱くなる。
「弓神事にて執り行われる…太陽と月の的中ては、太陽にヤタガラスが描かれ、月に兎が描かれるのだ」
「ああ、だから仲良くなれない、って?」
「共に描かれる事は多くとも、重なり合う事は無いのであろうな…」
臙脂色の絨毯は、表の白を一層映えさせる。
薄暗い室内で、すぐ傍に金色を感じる。
貴方の虚に在る、俺のかつての眼だ。ガーゼ越しに、熱を持っているのが判る。
「月の的を残し、太陽の的を射落とす」
間近で見つめないで欲しい、首筋にかかる吐息が熱い。
「此の神話に見える国家統一の思想だ……想いを馳せる流れが幾重にも散るより、ひとつの奔流と成った方が強いであろう?」
「この国の為にいつも動いてるんですか」
「我の生きる意味は、今其処に殉じている」
「それじゃ、本当に傀儡だ」
ぼそりと零せば、次を選んでいた箸が虚空に留まる。
怒っただろうか、でも、何となく、咎めたい気分だった。
「そうだな、我はデビルサマナーと成った事を、間違いでは無かった、と思いたいだけなのやも知れぬ」
細かく刻まれた具材を胡瓜の舟から掃けると、それごと摘み上げる。
ぎょっとして腕を張れば、肩ごとぎゅう、と抱かれて阻まれた。

「ん、んんぅ、ぐ」

小さい唇だ、と云っていたその直後に、何をしているんだこの人は。
呼吸がままならずに、ずるずると、胡瓜が舌上を滑る。
出たり入ったり、器にされていた胡瓜だから、まるのまま。

「んぶ、ん、ん〜っ」
「ああ、やはり狭い、な…君の口は」

擬似的に耽っているのか、ひたりと密着する雷堂の下肢が、もぞりと俺の腰を押さえる。
違和感を感じる、銃のホルスターはそんな位置に無い。袴の臀部にぐにり、と。
「んっ、ん!!」
ぞくりとして思わず突っ撥ねると、更に抱かれ。
こういう時の力は迷い無く、ライドウと違ってMAGより欲が滲んでいる。
視界に映る、自分の口から抜かれる胡瓜がぬらぬらと唾液に光ってて、堪らず羞恥が歯を立てさせた。
ばり、と軽快な音を立てて、真っ二つに食い千切られたそれ。
「これは痛そうだな」
鼻で笑って、箸に残った側を自らばりりと食む雷堂。
俺は喉奥まで蹂躙していた異物を、自棄になって噛み砕いた。
「…げほっ……低俗です…っ」
「今の戯れは傀儡に出来ぬであろう?我の自我がさせた欲求だ、矢代君」
咽る俺の背を撫でさすり、笑みは謝罪めいて優しいのに声が少し嬉々としている。
「悪魔を駆ろうが、人を殺めようが、それが己に返る事は無かった…葛葉雷堂に返るのみで」
「食事、もういいですから」
「ああ…そうだな、今の君にとっての食事は、別であった」
「あっ」
唇が触れて、柚子の味がした。
じんわり、と流されるMAG。じっとり、確かめる様に舌が、唇から歯列を辿って上顎を這う。
戒める薫りは、白檀とは違う…若い竹林に似ている…甘さより、辛さが目立つ様な。
「ん…ぅ…」
今さっきの食物より、身体が明らかに歓喜する。
眼の奥がぽうっとして、本当の姿の片鱗が指先にチリ、と焦がす様に発露した。
(いけない、駄目だ、これで悦ぶのは、悪魔の証)
充分注がれたと思い、いよいよ恥が爆発しそうで、押し返そうと腕を動かす…と。
ばん、と襖の音。
「っ、ち、違います!!」
慌てて雷堂を突き飛ばして、開いた人物を見た。
料亭の個室に堂々と入ってくるなんて、店の人間かと思ったが。
「…子供?」
ぜえはあと息衝く俺を素通りして、男の子が…絨毯にのめる雷堂を見つめていた。
たた、と、その黒い足下に駆け寄り、ひしりと抱きつくなり。

「おとうさん!」

凍る空気。いや、俺が勝手に冷えただけなのかもしれない。
一瞬で色々駆け巡る、この子供の母親に刺されたらどうしよう、だとか。
「らい、雷堂さん…っ」
唇を咄嗟に手の甲で拭い、問い質す。
「ほう、座敷童子にしては重いな」
ぐ、と起き上がると同時に雷堂は、子供の両脇を手で支えて面と向かっていた。
「何云ってるんですか、貴方の子供って云ってますけど、その子」
「そんな訳なかろう矢代君、我は童貞だ」
「…そういう単語、真顔で云わないで下さい」
何故か俺が恥ずかしくて、少し乱れた着衣を整えつつ、子供を眺める。
迷子だろうか、どうして父親と間違える?
「君よ、何故我が父なのだ…母はこの店に居らぬのか?」
「いたけど、さっき知らない人たちといっしょに出てっちゃった」
「ほう、置いて行かれた、と?…しかし何故我が父なのだ?関連性が無いぞ」
「おとうさん」
ぎゅ、と抱きつくが、ホルスターの管の金属の冷ややかさに吃驚して、顔を離していた。
「君の父はこの様な装備はしておらぬだろう」
「でも天使様使うの」
そう答えて笑う子供に、俺も雷堂もビクリとした。
視えているのか…この少年。
「何処で見た」
「お店のお外で、天使様呼んでた」
確かに、ゴウトに一体付けた状態で、外を見張らせていた。
その際の召喚を見ていたのか。
「こんな小さい子が見えると、色々不都合無いんでしょうかね…子供の云う事だから、って済まされるのかな」
横目にしつつ云えば、雷堂の片眼が曇る。
「…この子の、母親とやらを、捜そう」
「えっ、雷堂さん自ら?駐在所の人に任せるとかすればどうでしょうか」
「いや……捜す」
思いつめた声に不安がってか、子供は少しぐずり出す。
雷堂の袖をぐいぐい引っ張って、しきりに“おとうさん”と囀った。
「天使を使うのが、君の父か?」
「天主様がおとうさんで、天使様たちをいっぱい連れてるの」
「カソリックか…」
小さなコートを「一寸失礼」と云い、少し探る雷堂。
その指先に、しゃらりと涼しい音が鳴る。無宗教の俺でもすぐ判った。
「十字架…」
「ロザリオ、だな……今日の日の礼拝は、もう行ったのか?クリスマスだろう…」
視線を落として訊ねる雷堂に、笑顔で頷く子供。
毛糸の手袋を繋ぐ紐が揺れた。
「天にましますわれらの父よ ねがわくはみ名を あがめさせたまえ」
「人の形の父は居らぬのか」
「おとうさん」
「…いや、我はな…君の父では無い、天使を使うが違う。君の讃える主では…父では無いのだ」
きっぱり云い切る雷堂が真剣な顔だったのか、潤んだ眼で見上げれば。
「いたい…ばりばりってされたの?」
顔の傷に恐ろしくなったのか、嗚咽を上げ始める。
小さく溜息して、子供の頭をおそるおそる撫でる雷堂。
「頼む…泣かないでくれ…我は子供の泣き声が、怖い」
俺だって、子供が得意では無いが、いたたまれなくなって援護に入る。
「おなか…空いてない?」
「パンとぶどう果汁飲んだよ」
「手、見てて」
両拳を差し出せば、じっ、と俺の両手を見てくる。
両方開いて、片手に乗せた小さな手鞠寿司を見せる。子供受けの良さそうな、色の華美な種類にした。
それをく、と再び拳にして、隠す。
自らの眼前に二、三回交差させ、ぱっ、と差し出す。
「どっちの手に入ってる?」
「んーんーっ……こっち!」
最初に見せた右の手を、指差してくる、まあ妥当な判断だ。
そっと右を開く。
「あ、入ってない!?じゃあ、こっち?」
「どうだろ、ほら…開くから、見てて」
左も開く。
あっ、と困惑の声を上げる子供の声を、上塗りして掻き消す悲鳴。
「入ってないだと!?」
「貴方が驚いてどうするんですか雷堂さん、食ったんですよ俺が」
振り返って、咀嚼物を嚥下する。
「顔の前で交差させてる時に、さりげなく口に放るんです」
「ほう、奇術か」
「いや、こんなの小学生だって出来るし……」
悪魔を召喚する雷堂の方が、よほど奇術めいてると思うが。
「やっぱりおとうさんのお供は魔法できるんだ!」
きゃっきゃとはしゃぐ子供を見て、何やら逆効果だった気がしてきた。
「天使様なの?人間に化けてるの?」
「…天使じゃ、ないけど」
「じゃあなあに?」
子供の悪意の無い質問ほど、性質の悪いものは無い。
引き攣った苦笑いの俺の傍、雷堂が指を伸ばす。小さな眼の端をそっと拭った。
「もう涙は乾いたか」
「うん!」
「泣いたまま雪の上に出ては、眼が開かなくなってしまうからな」
「キズ、いたくない?」
「ああ、もう大丈夫だ……昔の傷だからな」
頭の、柔らかそうな髪をひと撫でして、立ち上がると俺にこそりと語りかけてくる。
「外では、見せぬ様にしよう、我の悪魔も、君の本来の姿も」
「そうですね…でも、親を捜すにせよ、人手が多い方が良いんじゃないですか?」
瞬間、長い睫が伏せられる。俺を横目に、じっと見つめる。
「帝都人の“視える人間”は、我等が機関が把握している」
「把握して、管理でもしてるんですか」
「危険因子でなければ干渉はせぬが、この齢の子供が勧誘もされずに放置されている事実が、おかしいのだ。視える子供の噂はすぐにカラスが運んでくる…」
「勧誘…?」
「ヤタガラスは、才の見える童を放ってはおかぬ。巧く成長させれば、サマナーに成れるのだからな…」
つまり、この子供は、認知されずにいる。ヤタガラスに知れたら、一体どうなるんだ。
「母親と引き離される…とか、ですか」
「その可能性が高い、親が宗教家なら尚更、思想の隔たりが危険とみなされ引き離されるであろう」
「表から出て大丈夫でしょうか、業斗さんは何か云いますよね、絶対」
ふと、考え込む仕草。
間が開いてから、子供に云い聞かせる。
「良いか、此処より出てからは、我を父と呼ぶでないぞ」
「うん」
「天使が見えても、内緒だからな、良いな?」
「うん!」
「よし、善い子だ」
赤い手袋の片手が元気に上がった。

◇◆◇

捜す、とは云え簡単な事なのだ。
天主教会の者に、連れた子供を見せて追求すれば、身元が簡単に割れる。
晴海の閑静な住宅街、其処にこの子の家がある、と。
「やしろくんはお手てさむくないの?」
「…大丈夫だよ」
「いっこ貸してあげるね!よいしょよいしょ」
紐で繋がれた手袋、その片方を人修羅の右手に無理矢理嵌めようとしている。
大きさの問題も有るが、子供にはその様な事は無関係らしい。
指先だけ挿入して、困惑しつつ子供を見下ろす人修羅。
子供との間に揺れる赤い糸が、何故か我の心に突き刺さる。
「左が寒いままでは、均等が取れぬだろうて」
己の右手で人修羅の左手を握り、外套の衣嚢へと迎え入れる。
「な…何子供に対抗してるんですか雷堂さん」
「違う、陰陽も均衡が大事であろう、そういう事だ」
口早に返せば、下からも嘲笑される。
『お前の手袋を人修羅に着せれば一発で解消するだろうが』
「いやしかしだな業斗、折角の児童の気遣いを無にしては不味いのではなかろうか」
師との喋りに一瞬子供が気になったが、猫と会話したい疼き心を必死に耐えている様子だ。
その懸命さに業斗が気付かぬうちに、話を進める。
「泣いた迷子を親元に差し出すのは、気が引けるでな」
『それで襲撃されてみろ、右手は塞がったままだぞ』
「矢代君の左手は護れる」
『再生する化け物の手なぞ護る必要は無い』
ぎゅ、と右手で人修羅の手を握り締める。
(大丈夫だ、我はその様な事、思ってはおらぬ)
口に出さずとも伝わったろうか、そう、いつだって君を慕い、共に在りたい。
間違いなんかでは無いと。
「ねえおとうさん」
「違うだろう、正しく呼ぶまで返事せぬ」
「へんじしてるじゃん、らいどうくん」
訂正させると、業斗が訝しげに髭を揺らす。
迷子を家に送り届ける、という話で説明してあるのだが…他人を親と呼んでしまうなど、幼子にはままある事よ。
特に追求されぬまま、通りを過ぎる。
「あー!おかあさんいた〜」
子供が手袋を嵌めた手で指す、その方向を見やると、アールデコの建造物の影。
雪の中だというのに、あまり厚着をしていない女性を取り囲む黒い数名。
「おかあさ〜ん!」
「あっ、ねえこれ、君――」
子供が駆け出すと、人修羅の指先に引っ掛かり手袋が置き去られる。
人修羅は自身の右手と、行ってしまった子供を交互に見て、更に続けて我に視線を向けた。
「見つかったみたいですけど、ちょっとコレ渡してきます」
「待て」
人修羅の手を握り直す、それをするりと腰から滑らせ、背後に隠す様にした。
外套の影に君を隠す様にして、さくりさくりと、雪が捌けられた石畳を進んだ。
「誰かと思えば、十四代目」
雷堂様、若様、と、口々に振り返る。
遠くからでも感じた、サマナーのMAGの気配。
母親らしき女性と、子供を囲んだままの群れに、穏やかな笑みは無い。
「…カラスが雁首揃えて、何をしているのだ、悪目立ちするであろう」
「これはこれは、わざわざ悪魔の子供を連れて来て下さったのですか」
黒い着物にインバネスコートの集団。ヤタガラスのサマナーだ。
「悪魔の子…?」
「この女性、人間と偽っていた悪魔に御座います。実は以前より情報だけは入っておりまして」
「悪魔だと……?子供に悪魔たる気配は無かったが」
縮こまり、子供を抱き締める女性。擬態は遜色ない、技芸に秀でた属だろうか。
「悪い事、何もしてないわ…お願いだから、この子は連れて行かないで」
サマナー達が、黒い囲いをしている様な圧迫感。
幼き頃、遠くから見つめた近所の子供達がしていた遊びに似ている。
かごめかごめ、とかいうやつだ。
「その子供に何を植え付けている事やら…契約外の悪魔の云う事は話半分で聞くべきでしてな」
「拾い子だからこの子は間違いなく人間です。普通の子と同じに育ててきました、教会に通って、愛情も注いだつもりです!」
「子供にとって、だんだんと不一致が生じるのですよ、視える子供は普通には生きられませぬでな」
この問答である。
背後に握った人修羅の手が、強く我の指を掴んでいた。
「ねえ…おかあさん、泣かないで、おとうさんつれてきたから」
子供の声に、顔を上げる母親。悪魔らしく涙は無い、しかし潤む赤い眼。
「おとうさん…?」
「天使様呼んで、きっと助けてくれるよ!」
やめてくれ。
この状況で、我にどうしろと云うのだ。
人と違うモノが視えてしまう幼子は、健全に育つのは難しい。
育ての親が悪魔だとすれば、それこそ…本能が勝った瞬間、何か起こり得る。
『おい、雷堂、しっかり指揮を執らんか』
業斗の叱咤に、周囲のサマナーが畏まる。
我より言葉に威厳がある貴方がしてくれたなら、いっそ楽になれるのに。
“明…っ”
泣いている小母様の顔と、あの母親の顔が重なる気がしてならぬ。
どうして、あの時、あの家を離れる選択をしたのか。
「天使は…呼べぬ」
ただ呟いて、しかし無理矢理引き離す事も厭われる。
あの頃、サマナーという路を選ぶ事の、真の意味を知らなかった。
この子供にも、きっと深い説明なぞしないのだろう。
母親の為と云い聞かせ、機関に勧誘し…その悪魔の母とは二度と会えぬのだ。
人間に擬態する母と、悪魔使役の術を叩き込む機関。
悪魔に近くさせるのは、果たしてどちらだ?
「…定期的に観察する様にすれば良かろうて。人に害を及ぼす存在は実際、悪魔より人に多い」
『ハッ!お前…帝都人に犯罪者が多いと同義に聞こえるぞ』
「嘘は吐かぬ。なあ業斗よ…子供の判断に委ねる、それでは駄目か。引き離す必要は無い、まだ若手は要らぬ、我が当分尽くす」
『俺に聞くな、周囲のカラスに頷かせてみろ』
不安げな子供は、白い息を吐いて我を見上げていた。
祈る様な眼。
「雷堂様、視える者は稀少と御存知でしょうに」
「悪魔の育てる人間は、帝都に歪な軋みを生じさせる筈。親が悪魔なら、心も悪魔の何かが芽生えるものです」
我の賛同者は、居らぬ。
やはり此処でも馴染めない、独りなのだ。
「ほら、この母親の擬態を解いてみせれば如何だ?子供も何に自分が育てられていたか、知れて愕然とするだろうさ」
蹲る母親の束ねた髪を、ぐ、と引っ掴むカラスの一人。
怯えた赤い眼が一瞬光る、あれは、憎しみだ。
己の幸せを阻む相手を威嚇する、刺す様な心。
(変わらぬ…)
その眼を幾度向けられた事か。
身内を排除された人間達から、平和の為と称され殺される穏やかな悪魔達から。
普段、牙を見せぬ者達の見せる、魂の揺らめき。
これ以上、見たくないのだ。だが、如何すれば良いのか、もうずっと分からぬ。
「やめてよおっ!」
母を嬲るカラスの手に、手袋も無い小さな素手で掴み掛かる子供。
ああ、もう、仕方の無い事なのか。
いざなれば、この子供を我がしっかり看れば良い。
そうして、この子の親を、我が管に入れれば…始末される心配も無いであろう。
(親子、いつか逢えるならそれで…良いではないか、ましというもの)
脳内で、勝手に決まる。この場を切り抜ける理由を、間違っていないと心に云い聞かせ。
「貴殿、乱暴にするな…我が」
一歩踏み出し、子供をあしらうカラスを制さんと、塞がっていた右手を名残惜しいが解く。
ふっ、と瞬間、我が右手を差し出すより早く、影が外套を揺らす。
「うぐあっ」
一瞬の悲鳴。雪塵がぶわりと舞い、向こう側の垣根にぶつかり止った。
その衝撃で落ちる葉雪を被っていたのは、子供を振り払ったカラス。
一同が唖然とする中、殴りつけた腕をす、と引いた人修羅が振り返る。
「嘘吐きですね」
「や…矢代君!何をしているのだ!!」
傍に駆け寄り、見下ろす。くっきりとした黒い斑紋は、背景の雪白で更に目立つ。
「だって、雷堂さんのMAGが訴えてた、俺の…左手に」
滲んでいたのか、繋いだ君の手に。嬉しく思い、しかし哀しくもあり、脚が震えた。
そう、心と裏腹にしか述べれぬ我は、嘘吐きだ。
「君は立場を解っているのか!?いくらカラスの衆に素性が知れているとは云え、己で危うくして如何する!」
「悪魔は嫌いですけど、ああやって親から子供を無理矢理引き離す輩は、もっと嫌悪する」
周囲のサマナーが、既に召喚の気配を放っていた。
「雷堂さんの立場を危うくする事も、分かってます」
我の背中に手を回し、しゅるりと何かを抜いて往く。
その手を見れば、鞘袋の紐が握られている。
そういえば、子供の手前剥き出しも如何なものかと、大太刀は鞘袋に入れて背負っていた事を忘れていた。
「でも、俺は所詮こっちの存在じゃ無いですから」
寂しい事を、云わないでくれ。
「…矢代君は…勝手だ」
「嫌って頂いて構いません、俺は貴方の本心を云い訳にして、今から野蛮な事しますから」
先端に飾り房の付いた鞘袋の紐を、時折口に咥えつつ、器用にぐるりと腕に回して襷掛けする人修羅。
露わになる腕には光る斑紋、寒々しさよりも、何処か鋭さがある輝き。
部屋を清掃してくれた時の袴姿に近い。
「クリスマス過ぎたら、正月ですからね」
金色に光る眼は、確かに憎しみが混じる。
だが、それが総てでは、無い…そんな気がする、確かな熱を感じる。
「少し早いけど、掃除してやりたくなった、それだけです…!」
「待て!!」
サマナー達の召喚する黒い影は、全てヤタガラス。
跳躍する君を、我の指がかすめる。結局虚空を抱くに終わる。
無数の群れは黒いうねりを作り上げ君を囲む。
使役に負担の無いあの悪魔は、我でなくとも数匹従える事が出来るのだ、それが厄介な事になっている。
『手綱も握れぬなら、飼うな馬鹿め』
「……矢代君!」
業斗の声は、だが嗤っている。我が身動き出来ぬ事が、憐れで可笑しいのだろう。
激しい焔と疾風から、母子を庇うようにして、下がらせる。
街中での混戦は避けるべき、との教えの通り、通りの出口に向かって我も二体天使を飛ばす。
「天使様!!」
背後できゃっきゃと喜ぶ子供の声が、痛い。
ヤタガラスという機関の不祥を覆い隠す為に、人間を遮断するだけなのだ。
我の使役する天使は、万人を救う訳では無い。肝心な何かが、救えない。
「もう止めぬか!各自管に戻せ!」
「しかし雷堂様!この悪魔めはサマナーに手を出しましたぞ」
人間へ攻撃を仕掛けた悪魔は、処分の対象と成り得る。
いやだ、君がカラスに喰われるなぞ。
『もう二体召喚しているだろう、だがあの状態…お前が突っ込んだ所で、大太刀も振るえぬ』
業斗の云う通り、ヤタガラスと人修羅を引き離す術が無い。
と、人修羅の袴の裾を咥えた一体が、空に舞い上がった。
逆さ吊りのまま、高い位置まで攫われると、サマナーの怒号じみた命令が響く。
「落としてやれ!!」
「砕ければ再生も困難であろう、人間もどきめ!」
啄ばまれた人修羅、そこらが肉と共に裂けた藍の着物がたなびく。
あ、と思わず叫びそうになるが、彼の眼が一瞬光るのを見て息を呑む。
落下し始める人修羅は、近くのヤタガラスの嘴に手を突っ込み、空に留まった。
ぐじゅ、と赤い体液が、突っ込んだ腕と捲れた袖を染め上げる。
キイキイと痛々しい鳴き声で暴れるヤタガラスは、更にがむしゃらに羽ばたいた。
それを助けんと、他のヤタガラスがまた彼に集い、肉を啄ばむのだ。
嗚呼、君の金色の眼も、斑紋の輝きも遮られ、暗色渦巻く虚空を見上げるばかりの我は…弱い。
震える手を、ぐ、と握り締めて下ろせば、ふとした感触。
その存在に気付き、外套を払いホルスターへと指を伸ばした。
『止めておけ、その程度の鉛弾ではカラスを追い払えぬぞ。そもそもお前に銃撃の腕は期待しておらんわ』
「…オビシャ」
『何だ』
「多過ぎる太陽を落とす程度なら、我の技量でも不足は無い」
『何の話だ雷堂』
的が多ければ、狙うは容易い。
渡されたままのコルトを握り、天に翳して定める。
左手で眼帯をずらし熱い右眼で凝らせば、魔物が如し力が備わったか、あまりに澄んで視える。
黒い翼の羽ばたきすら、鮮明に捉えられる。これが君の眼なのか。
パン、と一発放った、黒い太陽が一つ落下する。
『何をしとるか雷堂!』
(我にとっての太陽は、ヤタガラスに非ず)
撃つだけ落ちて往く太陽。
唖然とするサマナー達の視線も痛くは無い、
ただ、我の心を護ってくれた君の事を護りたくて、撃ち続ける。
太陽一体を残し、人修羅が共に落ちて往く。
疾風と焔が高い空から飛来するは、まるで天変地異の前触れの様で。
(我の世界は、太陽も月も、君だけで構わぬのだ)
ぐちゃり、とヤタガラスを踏みつけ着地した人修羅が、煤けた羽を肩から掃う。
君の金色の眼と、我の金色の眼が、見えない何かで繋がって空に遊ぶ。
「ジビエにするには、少し汚くなっちゃいましたね」
ぼそりと呟いた人修羅が体液に濡れる頬を拭うと、赤が拡がって、雪国の稚児の様だった。
「まあ、悪魔なんて食べないですよね、それも烏とか」
嗚呼、君が掃ったのは機関の従属悪魔だと云うに。
「…矢代君、脚が汚れてしまう、早く降りるのだ」
乱心と思われても良い、説明なら後でも出来る。
人修羅の眼に力を得た様に、我は十四代目として、周囲のサマナーに号令していた。





サマナー達を業斗に任せ、半強制的に本部に帰す。
戦いの痕跡は、降り出した雪が隠す。
小ぢんまりとした白漆喰の家の前、葡萄蔦の柄をした鉄扉に寄りかかる子供が笑った。
「ありがとう、らいどうくん」
「いや、しかし引き伸ばせただけだ…すまぬ」
せめてこの聖夜、母と仲良く過ごして欲しい。
機関に聞き入れて貰えたのは、今宵のクリスマスだけでも多目に見てやる、という事だけだった。
結局、人修羅と共に機関の悪魔を殺傷した事が大きい。
だが猶予を与える事が出来たには違いない。
跪き、子供に小さく耳打ちした。
「良いか、明日迎えに行く機関の者は、我の擬態させた仲魔を一体含ませる」
きょとん、とする子供。
「明日、君の母を帝都から離れた所に住まわせるよう裏から手配する…機関では、君が人間から離れぬ様、我が面倒を看る」
「さびしい」
「しばし耐えろ。契約者も居らぬ、狩りもせぬ、その様な悪魔は普段弱い…つまり、君の母だ」
そっと頭を撫でてやる、あの頃の我よりも、少し背丈が低いか。
「母を護れる術と思い、機関で悪魔を学ぶと良い」
「………わかった、明日からよろしくね、らいどうくん」
子供なりに理解したのか、半分べそをかきながらも、こっくり頷いた。
嗚呼、良かった、あのまま放置していては、母親は駆逐されていた可能性が有る。
手荒だが、人修羅のお陰で意思を鮮明に出来たのだ。
「やしろくん、天使様じゃなかったんだ…」
幼い声に、人修羅の眼が少し強張る。
我の眼帯の下、共鳴する様に眼の奥が熱く感じる、涙が出そうだ。
「サンタさんだったんだ!」
「…は?」
「だって、お洋服赤いもん」
困惑気味の彼を見れば、ヤタガラスの血で確かに小袖も袴も赤い…
雪の湿度が鮮明な色を残させている所為か。帰り道は外套を着せてやらねば。
「それに、おかあさんと一緒のクリスマス、プレゼントしてくれたもんね」
“悪魔”と云われる彼を見たというのに。
この子供にとっては、全く別に感じられたのか。
「俺、そんな良い存在でも無いよ…」
「よろこぶ者と共によろこび 泣く者と共に泣きなさい、だよ」
「結局あんな形でしか発露出来ないんだ、悪魔嫌いなのにね」
「聖霊の親しき交わりが わたしたち一同と共に 世々限りなくありますように!」
諦観めいた君の声を遮る様に、鈴の様な声が鳴る。
屈託の無い笑顔に、凍った呼吸が溶かされる。
間違いでは無かった、と、その笑顔に赦される気がしたのだ。
「おかあさん、中で待ってるからそろそろ帰るね!メリークリスマス!」
手を振り返す、我は無宗教だが、温かい挨拶に感じた。
「…メリークリスマス」
恥じらいつつ返事する君の横顔に、薄っすら微笑みが有ったのを見て、我も共に喜んだ。
「清らな今宵、我が友に祝福あれ」
小さい背中を見送り、窓灯りの人影を見て、遠き日の己を重ね唱えた。






『眼の前の幸福ばかり求める、それが盲目という事だ』
業斗の声が、我の心臓まで一息に貫いた気がした。
『解るか?お前の抱く幸せの形と、あの子供の抱くソレは一致していたのかもしれん。だがな、母親もそうとは限らん』
「…真実は判らぬではないか」
『紅蓮の属だった様子だからな、あの母親…いや、悪魔』
それであの擬態、見事なり。子を護る為に磨かれた術だったのだろうか…
「三本松様に御報告は…」
『要らぬ、母子両名焼死、灰も確認した。MAGの少ない悪魔の残骸だ、それが小さき人間の遺体を抱いていれば奴等に違い無いだろう』
「何故…」
『お前も見たろう雷堂、あの母という悪魔の、疑う怯えた眼差しを』
憎しみ混じりの、他者を信用せぬ眼。
人間と悪魔の境界に揺れ動く者の眼。
『どうせ奪われるなら、と、聖夜に灰になって昇ったつもりなのだろうな。フン、勝手なのは人の親と確かに近いわ』
失笑して、師は欄干に飛び乗った。雪がぼたりと落ちる。
『人修羅にお咎めが無いのは、今回此方にも強制じみたところが有ったからだ。悪魔相手ならともかく、あれが帝都人相手ではやや不祥なり』
「承知している」
『しかし、責任をもって殺傷したヤタガラスは補充しておけよ、この辺なら確か――…』
業斗の声に半分放心して居れば、手元を尾で叩かれた。
『しゃんとしろ馬鹿が。悪魔と人間は所詮、対等では居れぬ、平穏に過ごす事なぞ不可能なのだ』
両脚を揃え、きちりと一礼してから、渡り廊下を歩む。
一刻も早く、自分の部屋に戻りたかった。
(間違っていたのか)
聖夜に焼身心中、嘘だろう?カソリックはそれでは天に逝けぬではないか。
子を奪うつもりは無かったのだ、もっと詳細を、母という悪魔に説明すれば良かったのか?
怯えきった耳に、まともには聞こえていなかったのだろうか。
既に心は決まっていて、外の言葉など意味を成さぬ…その状態は、昔ヤタガラスに連れて行かれた自身に近い。
「あ…」
自室の扉を開くと、屏風の向こうから声がした。
「俺、出て行きますか」
「いや、許しは得ている、此処に居て欲しい」
「あの子供、迎えに行かないんですか」
「…家が蛻の殻だった、きっと母が連れ発ち、人知れぬ遠くへと逃げたのだろう…」
何処へ往こうが、人間の眼は有る、ヤタガラスの眼も冴え渡っている。逃げなど意味を成さぬ。
最早これまでか、と、諦観した焔があの家ごと焼いた事実を、君にどう説明しろと。
「そうですか…まあ、親子で一緒に居る間は、変な事しないと思いますけどね」
ほつれた着物袖を繕い、我の机に向かう背中。針仕事で暇潰しする人修羅は、室内でも擬態をしている。
唐格子の窓の外、ひたすらに白い帝都が見える。遠く晴海に黒点が出来た事も、覆い隠す雪が降る。
「あれ、珍しいですね…もう寝るんですか」
「仮眠だ」
「でも寝着に着替えるなんて、雷堂さんにしては珍しい。俺の尻拭いで流石に疲れました?」
「君の肌ならば、いくらでも拭える」
率直な思いで返せば、云い出した張本人が頬を少し染め、視線を逸らした。
「君はあのライドウと違い、皮肉が墓穴を掘る」
「悪かったですね」
「其処がどこか可笑しく、少し可愛らしいのだ」
椅子をギイ、と啼かせて立ち上がる気配。きっと君の眉は顰められ、羞恥しているのだろう。
冷たい寝着に腕を通し終え、帯で結んで布団に寝そべる。
近寄った君は、我が簡単に掛けた外套と帽子を丁寧に掛け直し、薄く積もった雪を掃っていた。
「君の新しい袴を明日買おうか、着物の様に繕って済む損傷では無かった筈だ」
「俺は一文無しですが」
「御代は――」
「身体では絶対払いませんよ」
ぴしゃりと雪の様に払い除けられる。
解っている、潔癖な君が甘受する筈も無い。
「少し、寒い……」
暖房も無い部屋で、文句を云って君を困らせてみる。
部屋を暖める必要が無い程、此処では稀に過ごす程度だったから、最近気付いた。
独りにしては広すぎる本部の自室、とても寒いという事。
「隣に寝てくれぬか」
「そんな、子供じゃあるまいし…」
云いつつも、我が両眼を覆っていた頃、寝付くまで隣に居てくれた君を知っている。
溜息の後、掛けた布団が少し揺れる。
「…つむじ、逆なんですよね」
誰と比較しているのか理解しつつ、少し離れた君の温度を感じる。
いいや、正確に云えば、この距離に子供の様にはしゃいだ心の我が、勝手に昂ぶっているだけで。
クリスマスの贈り物を待ち望む子供の様に。
横目に君を見れば、背中を向けている。一方通行が寂しくて、我も背中を向けた。
人修羅は、悪魔よりも、人間よりも、近い様で遠い。
「説明を…受けていたが、我はヤタガラスに与する事を選んだ」
ぽつり、と零れ始めた、暖まり雪解けの様に、止められぬ。
「小父様も小母様も、我が留まっても良いと云ったであろう、だが、我はあの家から逃げたくなったのだ」
「…どうして」
「我が“視える”事が、あの人達を不幸に陥れるのではないか、と。いつか…見放されてしまうのでは、と」
眼帯の中の瞼まで、ぎゅう、と瞑った。あの日が視える。
「嫌われてしまう前に、姿を消したかった。いつか化け物と糾弾されるその前に――」
「俺は化け物ですか」
「違う!」
振り向くと、手を掴まれた。指先に、ぼんやりとした感触。
「返しそびれちゃいました」
布団の隙間から見える、赤い紐で一揃いが繋がれた小さな手袋。
「もしかしたら、何処かであの子供に会うかもしれないでしょう、雷堂さんが保管して下さいね、これ」
「…ああ」
「あのクリスマスシートも一緒にあげたらどうです?子供ってああいうの好きでしょう」
「…ああ」
また、机の引き出しで冷たく眠るのだろう。渡す相手はこの世に居らぬ。
「寒いなら…今だけ借りましょうか、これ」
紐からじんわりとMAGが伝わる。ただ流し合う。与え合う訳ですら無い。
血の循環の様に、奥底から巡る熱が、互いの眼を金色に輝かせた。
指先から赤い紐で繋がっている、その見目だけで、倒錯しそうだ。
女々しいか?そうだ、きっと女性悪魔よりも、我は女々しい。
「葛葉雷堂の十四代目として、歩んで来た…から、今君と居る。間違いで無かったと、思いたい」
間近から我を覗き込む君の眼、やはり美しい。
「…どうしても、悪魔と人間は、共に対等で在れぬのだろうか」
「俺はずっと悪魔で居るつもりじゃないですから」
「君の望みを叶えてあげたい、共に居る、しかしそれが本当に君の為なのかが、不安になる」
怖い、生きている事さえ不安で。
「あの時、家を離れたのは間違いだったのだろうか?小父様達の幸せを願って選んだつもりで、それは逆に辛い思いをさせていたのかもしれぬ」
「雷堂さん」
「帝都人の幸せを思い、何かを殺せば誰かが傷付く。誰かに喜ばれると、誰かから憎まれる。悪魔を仲魔と称しながら、消耗品が如く扱うサマナーの機関が此処に在る」
何をしても、裏腹だ。何をしても、間違いなのだ。
あの時、親子を引き離してしまった方が、子供だけでも救えたのでは無いか?
「雷堂さん…いつまでも起きてると、プレゼント貰えないですよ」
慟哭する我の肩まで、布団が引き上げられた。
「サンタの正体が気になって、一晩中狸寝入りしてたら、結局その晩来なかったんです」
「…貰いそびれたか?」
「いえ、寝不足で次の晩はぐっすりいっちゃいましたから、それで目が覚めたら枕元に置いてあった」
ふ、と笑えば、君の口許もやや綻んだ。
「では、先払いで頂けぬだろうか」
「え?」
「そうすればすぐに眠れる」
既に指先へと流して貰っているというに、我はまるで駄々っ子の様に甘えた。
あの頃、素直に甘える事にすら不安を感じていた分を、君で取り戻すかの様に。
「…俺、サンタじゃないんですが」
「では天使様の方で良いか」
「よくそういう事…子供でも無い口で云えますね」
「我は無信仰だが、天使は好きなのだ」
浄化された、赦された気持ちになれるから。
「これは、間違いだろうか?」
人修羅の唇を見つめる、冷たい糖蜜の様なMAGの薫りがする。
「…正解も間違いも、判らないです……俺は、悪魔の自分を間違っていると感じるから、この道を選んだ…それだけ、です」
「少しだけ、啜って良いだろうか」
溜息、そして羞恥の視線を逸らされた。
「勝手にして下さい…それ以上は拒みますけど」
「では、失礼する」
頬に手を添え、啜る甘さ、きっとMAGはあまり関係無い。
は、と息を零した君の仕草に、それ以上煽られぬ内に背を向けた。
「君があの時、カラスを蹴散らしてくれて…内心、嬉しかったのだ」
「……そんな事云って良いんですか、十四代目ですよね貴方」
「君にしか、云えない」
本当の心は、真白な雪に覆われて。
君の焔の溶かした所から、我の甘くて黒い自我が見え隠れする。
「今のは、クリスマスプレゼントですからね、いつもして良いだなんて訳じゃないですよ雷堂さん」
「毎日クリスマスなら良いというに」
「はぁ?子供みたいな事云わないで下さい、全く…」
呆れた声の後、手袋の指先が一瞬触れ合い――
「昨日見た子供の、笑った顔…あれ、あの子喜んでたって事ですよね」
離れる。
「もう、それで良いんじゃないですか?顛末はその瞬間無関係なんだ…その瞬間に幸せに出来たなら、間違いじゃない」
「刹那的だ」
「そういうものでしょう…短命な人間なら、特に」
どこか悪魔じみた君の、矛盾した存在が我を安堵させているのかもしれない。
憐れみこそが人徳、しかしそれがもたらすは、一瞬の幸福。生の路上に見る一瞬の邂逅。
全ての霊魂を救う術なぞ、神でさえ持ち合わせておらぬというに。一介のデビルサマナーに果たして出来ようか?
所詮…この程度なのだ。
「本当にサンタが居るならば…生涯全ての回数を消費して、君を人間にしてあげたいのに」
「またそういう妄想してる…先払いしたんですから、早く寝て下さい」
珍しい、本当にうっとりと睡魔が襲ってきた。
雪の音すら感じる程の静寂、だが、孤独では無い。今だけでも、そう思っていたい。
瞼を閉じる前に、君に挨拶をせねば。
君もこの後眠るだろう?君が夢に入る前に聞く最後の声が、我であって欲しい、いつも、いつでも。

「俺の…天使様、メリークリスマス」

我は寝呆けていただろうか、しかし偽り無く思ったままの挨拶だ。
間違って…ない。



-了-


【あとがき】
とんでもなく遅くなりまして、申し訳御座いませんでした…
久々の雷堂(明)で、この話の時期というのは徒花で云うと『淡雪』の後辺りのイメージです。
徒花本編で過ごした短期間を書いてなかったので、少しばかりと思い。
良かれと思い、珍しく我を通した雷堂でしたが、それが決して幸福の形に結びつく訳では無く…
ライドウ(夜)と違って雷堂は、常に自信が無い。不安に突き動かされている。

タイトル『路上の霊魂』は松竹キネマ研究所の第1回作品(大正10年)から。
古いですが日本が舞台のクリスマスのお話です。サイレント映画、暗い内容です。


《複十字シール》
雷堂が説明した通り。しかし作中で扱っているのは自然療養社発行のものであって、後に発行された白十字会の物とは違う。絵柄が愛らしい物が多い。

《ジビエ》
狩猟によって捕獲された食用の鳥獣。銃弾などで可食部分が破損するので、撃つ場所は気を遣わねばならない。
因みに兎の事はリエーヴルと云う。家禽の場合はラパン。

《射日神話》
複数の太陽を射落とす神話の事。世界各地にこの類の神話は点在しているが、日本のオビシャ神事においては「三本足の烏(ヤタガラス)」の的を射る。
兎は神聖なモチーフとして日本ではよく見られる。正月の門出祝いは兎の雑煮を食す家庭も少なくなかった…らしいがやはりピンとこない。