
鳥の声がする。
ハッとして窓を見れば、もう日が射している。空は白み始めていた。
『寝ていないのか?』
声のする方へ、面を向ける。
翡翠の視線をギラつかせる黒猫が、部屋に入って来た。
「業斗……いや、すまない」
『それとも寝れなかったのか? そりゃそうだろうな、遅くまでじゃれ合い過ぎだ、このたわけ』
その指摘に、言葉を呑んでしまう。云い訳の台詞も浮かばぬ。
身体に影響するほど戯れた訳でも無い、そもそも謝罪の必要も無いだろうて。
既に隣の布団はもぬけの殻で、掛布団の中に手を挿し込んだが冷たかった。
「おう、おはよう」
「おはよう所長……もう身支度してあるとは、朝から一体何用で? それともまさか、着の身着のまま朝帰り……」
「お前、俺の事なんだと思ってるの?」
「や……その、すまん――」
「よく分かってるじゃん、でもハズレ。なんと今日は花月園行きだ、ちゃんと早起きしたんだぜ? 雨が降らない事を祈るよ」
ハハ、とひと笑いすると、帽子を掴んだ手で此方の脳天を小突く鳴海。
そのせいでズレた学帽をついと直しつつ、我はソファに腰かけた。
「あの人と逢瀬か」
「はぁ、お前も目敏くなったもんだ。やっぱ色気づくと違うもんかねえ? な、業斗ちゃん」
「所長、業斗は“俺に振るな”と云っている。それ以上同意を求めても無駄だ」
「本当かねぇ、お前が勝手に吹き替えてんじゃないの?」
「そんな事は無い、本当にそう云っているのだ、我はそのまま伝えただけで……」
嘘吐きと詰られてやいまいかと不安になり、鳴海の背を追う様に腰が浮いた。
そこを遮る様にして、小袖が目の前を藍色に変える。
「鳴海さん、雷堂さんにそんな機転利きませんから」
卓上の新聞紙と灰皿を回収し、湯呑を残して手を退ける人修羅。
助け船なのか追い打ちなのか分からなかったが、正直どちらでも構わない。
「豆切らしてるんで、お茶ですいません」
「いや、我はどちらでも……」
「後で茶店に買いに出ます」
「それなら、我が外回りのついでに」
「じゃあ一緒に行きましょう」
何の躊躇いも無い誘いに、お茶をすする前から顔が熱くなった。
それこそ君にとっては“ついで”なのかもしれないが……切れてくれた珈琲豆に感謝した。
「機転は利かないけど、云い逃れの為には頭回るんだよコイツ」
「……鳴海さん」
咎める様な人修羅の声音に、鳴海はおどける。
「ハハ、冗談だって。でもな、もうちょっとは悪びれずに居た方が良いぞ雷堂。そんなんだから賭け事弱いんだよ、もっと堂々としな。花月園のお土産買ってきてやるからさ、記念切手で良いだろ? んじゃ行ってくるよ」
嫌味も無く打ち返し、帽子を被る鳴海。今日は茶系統のスーツだった。銀糸を織り込んだネクタイ。タイピンは大人しい形。偶にしか見せぬ着こなしだ、きっととっておきなのだろう。事務所を出る間際、業斗に尾で軽くあしらわれていた。
「矢代君は、豆を買った後はすぐに帰るのか?」
「えっ、特に決めてませんが……まあ、商店は軽く覗いていこうと思ってましたけど」
「喫茶の後も、少しばかり付き合ってはくれないだろうか」
業斗の眼が鋭くなったが、気付かぬ振りでやり過ごす。恐らく、我が人修羅を連れてふらふらと散歩するとでも思っているのだろう。
当たらずとも遠からず、ではあったが。
「軽く戦闘すると思うので、軽装も用意しておくと良い」
我の忠告に少しだけ眉を顰めた人修羅、空いた湯呑を下げつつ「じゃあ、喫茶店は後の方が良いですね、戦っている間に豆をばら撒いてしまったら嫌ですから」と呟いた。
『まさかアカラナ回廊へ逃げ込むとは、恐れ多い奴だ』
業斗の侮蔑混じりの声に、ふと思う。今回アカラナ回廊へ赴いた理由は、ヤタガラスからの依頼の為だ。要人保護とは聞いていたが、機関所属者なのだろうか……何故、行方を眩ませたのだろうか。
「雷堂さん、その野上さんて方の顔は知ってるんですか」
「いいや……先刻説明した特徴しか。その御仁の立場までは知らされておらぬ」
「知ってる奴に依頼すれば良いのに、どうして雷堂さんにこんな任務寄越すんでしょうかね。本当、杜撰な組織」
業斗に睨まれようが気にも留めず、寧ろ挑発気味に零した人修羅。此処に到着してから袴と着物を畳み、風呂敷に包んで持っている。中に薄手のスラックスを穿き込んでいたらしく、するすると袴を脱ぎだした時は慌てて止めに入ってしまった。
『おい雷堂、こいつを連れてきた理由は、足並み揃えてアカラナを徘徊する為か』
業斗に言葉で鋭くつつかれ、人修羅と離れるのは名残惜しいが……予定を伝える事に決めた。
「矢代君、此処の構造は大体記憶してあるだろう」
「ええ……次元の裂け目なんかは、無暗に飛び込む気もしませんけど」
「階層移動だけで良い、迷い込んだ者も先が見える範囲しか踏み入れぬだろう」
「二手に分かれて捜すって事ですよね、良いですよ。じゃあ何処で落ち合いましょうか」
「物分かりが早く有難い、そうだな……場合によっては遠くなるが、我々の侵入口……筑土町異界へ通ずる階段の麓で」
「異界送りしてくれる黒装束に野上さんを引き渡して、依頼達成って事ですか」
「その通りだ。暫く捜索しても見当たらぬ場合は、すぐに其処で待っていてくれても構わぬ。では、くれぐれも気を付けて…………」
「……そんな顔しないでくださいよ、逆に不安になる」
「す、すまぬ」
ぴしゃりと突き放されるが、彼の心配してくれる気持ちは十分伝わってくる。
素っ気ない言動は恥じらいの裏返しだと、我が一番よく知っているのだから。
『おい雷堂、そんな顔は止めろ、本当に不安になるわ』
ぴしゃりと靴先を尾で叩かれ、業斗を見下ろした。
何やら顔の筋肉が緩んでいたらしく、俯いた際に軽く涎が垂れそうになった。
『雷堂様!』
羽ばたく音がする……
上空を見あげれば、偵察に向かわせていたパワーが其処に居た。
「どうだ、居たか?」
『向こう1980年の辺りに人影を確認、しかし……』
「どうした?」
『もう一人確認しているのですが』
この回廊にそんなゴロゴロ人影が居る筈無い。
「何者か分かるか?」
『それが、正直貴方様と見間違えてしまう風貌でした』
「我と?」
まさか。だが、思い当たる人物は……居る。
「分かった、有難う」
『お役に立てて光栄です』
管へと戻し、天使の指し示した方へと歩みを進める。
(居た……)
砂時計の傍で縮こまって、男は身を潜めるように居た。悪巧みなどとは無縁そうな、文豪のようにも見えるその姿。シャツを内側に着込んで、少し折り皺のついた灰色の袴を穿いていた。聞いていた特徴のままだ。
(何を恐れて逃げたのだろうか、ヤタガラスを離反したいのか)
歩み寄り、話し掛けた。
「もし……ヤタガラスの命により参った者だ」
「……傷の十四代目!」
一拍の間を置いて、その男性が返答した。面識は無くとも、我の面持ちで察したらしい。
あまり嬉しい認知の形とは云えぬが、この身が何よりの証となるのなら都合が良い。
「野上殿で合っているな? 何故こんな処へ逃げ込んだのだ」
「あんたは本当に、ヤタガラスが国を良くすると思っているのか!?」
想定外の問いに、思わず歩みを止める。
「思っている」
言葉は自然と紡がれた。己の携わる限りでは、そう思ったのだ。
「此処の砂時計の装置に触れてみろよ! それでも考えは変わらんのか?」
周辺に有る、巨大な砂時計を指差し男性が叫ぶ。
「我が其れに触れる事は、お上より禁じられている」
静かにそう返すと、男性は憐れむかの様な表情を作った。
「本当に、あんたそれじゃヤタガラスの犬だ」
(犬……)
他の者にも云われた事が有る、自我の無い人形に等しいと。確かに我は幼き頃から、葛葉……いや、ヤタガラスの為に、それが国の平穏を守ると思い従ってきた。デビルサマナーとしての自身に、大層な目的は無い。この力が役立つのなら、活かしてくれる機関に身をゆだねよう、その程度であったから、この男の言葉はやはり鋭く感じた。
嗚呼いかん、気落ちしそうな心を引き摺ってはならぬ、この後また人修羅と顔を合わせるのだから。
「何と云ってくれても結構。貴殿の身内も待ち侘びているそうだ、大人しく御同行願うぞ」
「まだ、まだ帰る訳には」
「……此処に逃げ込んだ理由が有るのか? ただの目眩ましではなく?」
訊ねても無言を貫くこの男性、余程の事情が有るのだろう……ただ、それを聴いた所で、助けになってやれる可能性は無きに等しい。 このまま野放しにして悪魔に惨殺されるも不幸であるし、望みを叶えてやれる程の権威も我には無い。
「恨みは無いが、暴れるようならば相応の対処をさせて頂く」
「……連れ帰れ、とだけ命じられているんだな?」
「ああ、他の条件は請けておらぬ」
野上は、ちらちらと周囲を横目に確認してから、我に耳打ちをした。
「ひとつ、おれからも頼まれて欲しいのだが」
「……内容による」
「おれは向こうの世界に行き、ある書簡を入手した。実はその関係で追われている。正直あんたを見て肝が冷えたよ……平行世界と云うだけあって、本当に瓜二つなもんだから」
誰とそっくりだったかなど、訊くまでも無い。我は野上が懐から抜き出した筒を受け取り、掌に軽く遊ばせた。呪いの気配もMAGの匂いもしない、本当に書類だけが入っているのだろう。
「これを向こうのヤタガラスから奪った、という事か?」
「ああ……勢い余ってつい持ち出しちまったが、内容は一通り頭に叩き込んだ。だから、それ自体にもう用はない。申し訳無いんだが、あんたからその機密文書をアッチに返還してやっちゃくれないか」
「内容が知れたのだ、貴殿の命が狙われる可能性は」
「ブツを返すだけで、ちょっとは生存率も上がる。あとはアッチの十四代目が、どれだけ忠犬かって所にかかってるだろう」
「追手が組織の命に忠実である程、貴殿に容赦しないと……そういう事か。しかし我とて先刻詰られた通り、犬であるからな」
「あんたはおれの保護だけを云われてるんだろう、他に関しちゃ融通が利く筈だぜ」
さてどうしたものか、と、我は足下を見た。業斗は勝手を云う男性にも苛々した様子だが、すぐに決断しない我にも同等の感情を抱いているのだろう。 逆立てた尾が、沸々煮え滾る熱で煽られているかの様だ。
「其処におわす業斗様にとっても、悪い話じゃあない。平行世界たって、片方に存在して、もう片方には存在しないモンも有る。その機密文書は、組織の腐った根子を白日の下に曝す事が出来る、そんだけ大事なコトが書いてある」
「貴殿、ヤタガラスを瓦解させんと企てるのか?」
「何を云う、このまま放っておいたら崩壊するから土台の設計図が欲しかったんだ。ハタから見れば形だけは小奇麗なもんだが実際は砂上の楼閣。殆ど寝惚けた三本松に、その寝言を捏造する一部のお上連中。そういった淀んだ水を棄てる為に、もっと古い……デビルサマナー達と機関発足に関する資料が欲しかったんだ、おれは……おれはそれこそ、人間が悪魔から害されぬ様に――」
野上の声は、其処で遮断された。暗く澄んだ空間に銃声が響き渡り、彼方へこだましていった。
我は書簡の筒を胸元にしまい、代わりに抜いた管よりサンダルフォンを召喚する。硬質な肉体が幾つかの弾丸を弾き、その跳弾音に背後の野上が息を呑んでいた。悲鳴が無いという事は、ひとまず怪我をさせずに済んだ様だ。
空間の薄明かりを反射して、からからきらきらと転がる弾。我の扱うコルト弾より、やや大きい……
「サンダルフォン、背後の男性を下層の出口まで送り届けよ。いつも我が休憩に使う層だ、分かるな?」
『御意』
「人修羅が既に居るやもしれぬ、事情は説明して欲しいが此方には戻って来ずとも良い。我の加勢より要人警護を重視せよ」
『はっ』
それまで盾が如く浮遊していたサンダルフォンが退くと同時に、ひらりと黒い影が躍り出た。刀身の冷たい光と空を斬る音が、体を強張らせる。我は己の為に一歩引き、間合いを調節しつつ抜刀した。ぐわりと鞘を開きつつ放った一撃は、相手の刀を振動させる。
「フン、馬鹿力」
鍔迫り合いの隙間から、絶対零度の笑みが覗いた。
平行世界の十四代目、葛葉ライドウだ……
「御久し振り雷堂、挨拶も早々に悪いが、僕は先刻の男性を始末しに参ったのだよ。君は何と命じられているのだい」
「……保護、それだけだ」
異世界の自身と睨み合いする狭間、ギチギチと刀身が悲鳴をあげている。
「へえ、ところで何か渡されてはいないかね?」
「分かっているのだろう……? もし、それを引き渡せば彼を見逃してくれるとでも云うのか」
「さてどうしたものかね、僕は始末しろと云われているのだけどねえ……フフ」
押しているのは我だというに、不敵な笑みで受け止め続けるライドウ。
「貴殿は命とあらば、容易く人の殺生をするのか? 悪魔では非ず、人間なのだぞ?」
「何だいそれ、では悪魔を殺そうが君に呵責は無いのかね」
「それは……」
答えの代わりに力を籠め、いよいよ弾いた。互いによろめきながら、構え直す。
ライドウは既に管を叩き、アマツミカボシを召喚していた。素早い判断と、抜かりの無い同時召喚が強みであるこのデビルサマナー……我の戦い方と毛色は違うものの、姿形や内包する魔力はほぼ同等なのだ。拮抗する筈だというに、どこか押し負けするのは己が気質の所為か。
「そもそも此方の機関が有していた物だろう、返還されるが道理さ」
「そう簡単に終わらせる訳にはいかぬ。物を取り返した貴殿が結局は氏を追い、斬り捨てるという展開……無きにしも非ず、だ」
「ククッ……そんなに僕がヒトを殺したがっている風に見える?」
此処で「見える」等と云えば、火に油を注ぐ事になろう。本心とは裏腹に口を閉ざし、我も管に手を伸ばした。
何を召喚するか……向こうにアマツミカボシが控えているという事は、ドゥンやソロネは避けねばならぬ……衝撃の術を放たれる事を推測すれば、手元に残すべきこそサンダルフォンだった気がする。あれは銃撃の耐性を施してある為、ライドウの狙撃から野上を護り易いと思ったのだ。
『おい、潰し合うなよ貴様等。喧嘩の尻拭いなぞ、俺は御免だからな』
「しかし業斗、喰い止めねば……先刻の男が」
『人修羅が居るだろう、どこまで信用出来るか怪しいものだがな』
「っ、彼は……!」
また意地悪を云う業斗に憤慨して、黒猫を見下ろした。途端、足元の影が色濃くなる。アマツミカボシの接近だと察しがついた癖に、思わず反射的に見据えた己を恨む。眩んだ目に構えが遅れ、テンペストが四肢を乱暴に撫でて往った。靡く外套が落ち着くより早く、ライドウの一閃を迎撃する。
「他にも召喚していたのかい」
「貴殿とは関係無い、云わば我とも本来無縁なり。巻き込んでくれるな」
「どんな悪魔か見せてくれ給えよ」
「ものを頼む状況か……っ」
我の太刀を綺麗に受け流してくるライドウ。彼の都合の良い方へ、ぐらりと誘い込まれそうになるを踏み止まっては、腰を使い体軸を捻る。
相手の二撃目を受ける暇は無いと判断し、先に水月を狙った。心臓を狙うより、余程危うい。
「うっ」
弾かれ数歩、背後によろめく。しかし刃の競り合った嫌な音は無く、代わりに刺すような視線が我の眼を捉えていた。
どくどくと鼓動が奔る、MAGを緩やかに吸われている。そのような状況でないと解かりつつも、彼の気配に胸が高鳴る。
「何を人間相手に……マジになってるんですか、雷堂さん」
「矢代君! 怪我をしなかったか」
「あっちの葛葉さんはただ避けただけですからね。多分これ、貴方の刀で受けた傷ですよ」
薄く切れた指を眼前に翳し、苦笑する人修羅。我は血の気がひいた、外傷を与えた事なぞボルテクス以来だった。
彼はその赤い手で、駆け寄る我を制す。向こうのライドウとの間合いを気にしているのか、緊張の糸を張りつつ此方に忍び寄る。
「こんな傷はすぐに治るからどうでもいいんです、ところでこの喧嘩はする必要が有るんですか」
「や、時間を稼がねば……彼が野上を追い、仕留めるかと」
「あの人なら業斗さんが今頃、ヤタガラスの黒装束に引き渡してますよ……俺が代わりで来たんです、猫よりは加勢出来ますから」
云われて気付く、思えば業斗の姿が見当たらぬ。辺りをちらちらと見やる我に対し、ライドウがせせら哂った。
「何だい、君が指令した訳では無いの」
指摘に頬が熱くなり、そもそも童子に願いこそすれ命令なぞ出来る筈が……と云いかけ、噤む。何を云おうが追及されるし、己が業斗の動向を察していなかったという事実は変わらない。ライドウが人修羅を気にかけ始めてからというもの、我は間違いなく動揺していた。
「そっちもそっちですよ、貴方から
嗾けたんでしょう? もう要人はこっちの機関が引き受けたんですから、流石に手は出せない筈だ……お引き取り願えますか」
恐れを知らぬ物云いの人修羅を、じいっと睨み続ける葛葉ライドウ。出来れば邂逅させたくは無かった、こう云うと人修羅は憤慨するであろうが、あのライドウは珍しい悪魔に目が無いのだ。
「君が噂の人修羅?」
「……だから何だっていうんです、今は関係無い」
「管には入らぬのかい、それとも入れない? あぁ、其処の雷堂が《友人ごっこ》でもしたくて常に出しっ放しなのかね、フフ」
「俺はにんげ……半分人間だから管に入らない、それだけです」
「へえ、半分? それは維持しているから? それともいずれは人と悪魔のどちらかに成る?」
探るかの様なライドウの声音、弧を描く口許に敵意は無くとも興味が見え隠れしており、眩いアマツミカボシを後方へと下げていた。
あの眼を見つめてはいけない矢代君、彼は邪視の使い手と見紛う程に、強い眼差しで標的を射るのだ。堅気の者なれば知らずのうちに誘導され、初心な悪魔なればたちまち魅了されてしまう。ライドウは口も達者だが、それ以上に眼が恐ろしい。我は物質的戦闘の最中でなければ、其処へ着眼する事も無い。心理的戦闘の最中、あの眼は最も視てはならぬ箇所なのだ。
永続しそうな空気感に耐えきれず「これ以上会話を続けないでくれ」と、人修羅の耳元に訴えた。
「そのつもり……なんですけど」
少し待ってくれ、と云わんばかりに相手ばかりを見る人修羅。間違いなくライドウの術中に嵌まっている、これは不味い。平行世界の同一存在なのだ、吸い慣れたMAGと錯覚しているのかもしれぬ。「それは毒なのだ」と叫びそうになる口を縛り、我は人修羅の手を掴んだ。
「どうせ其処の男が軽々しく 人間に戻してやる 等と宣ったのだろう?」
ライドウの言葉に、人修羅が小さく息を呑んだ。我はといえば図星に面食らい、堪らず指の力を強めた。
「……勝手な憶測で物を云わないで下さい。雷堂さんはごっこなんかじゃなく、一人の友人として俺を扱ってくれますから」
「人の倫理感が半分も残っているのなら、まずサマナーに使役されたいと思う筈が無い。管へと入れられ、行動を制限され……まあ面白い訳が無いだろう。生粋の悪魔なれば、永き命と刹那の感覚が許せるのかもしれない、持て余すよりは戯れてみようとね。だから人修羅、君が其処の雷堂と行動を共にするのには絶対的な理由が必要という事だ」
「あんたには関係無い」
「デビルサマナーの傍に居れば悪魔を自覚してしまう、そんな瞬間が有るだろう? それなのに君はまだ、ヒトと同じ形に留まっている。酷く荒削りなその魔力も、ムラの有るMAGの流れも、悪魔としてはとても魅力的なのに。肌に墨を奔らせておくだけで満足? もっと爪を尖らせないの? その跳ねた癖毛の辺りからツノでも生やさないの? 全く、苛々しないのかね。まだまだ伸び往く力を抑え込む事に君は苦心するというに、隣の男は君を『人だ』と唱え続けながら異界を歩かせるのだよ――」
ライドウの語りが終わらぬ内に、人修羅がすうっと胸を張った。ああ、これはファイアブレスの息差しだ。周囲が一瞬冷えるのは、大気の熱を奪うからである。それを体内の鞴で更に煽ぎ、轟々とした火炎に変えて噴き出す技。
「止めろ矢代君!」
我はもう片方の手を背後から回し、人修羅の口を塞いだ。軽く呻いた後、ぐぐ、と脚を震わせる君。炎を呑み込んだのだ、苦しかろう。腕の中でもがく人修羅を気の毒に思いながら、我はじりじりと距離を取った。
「これで勘弁願おう、ライドウ」
懐より抜き、投げつけた。野上が持ち出したという、例の書簡だ。
我から眼を外し過ぎぬまま、其れを掴み取るライドウ。
「それを手土産に、烏の巣に帰ると良い」
「なんだい、捏ねた癖に結局は渡すのか。君単身か、其方の業斗様でも居れば意地でも投げなかったのかな……フフ」
挑発に乗ってはいけない、業斗が居ようが今の状況なら投げていた。何と扱き下ろされようが、それで構わぬ。
我はようやく人修羅の口許から掌を外した。早く姿を晦ませてしまおうと、その手を運び衣嚢を探る。小型の特製煙幕を指先に確かめながら、人修羅の耳に「退避する、放った火薬を燃して欲しい」と囁いた。じっと聞き入るその姿勢から、了解の意を得る。
「然らばライドウ、次まで引き摺るでないぞ」
しっとりとした重みの火薬包を放る。人修羅が蒲公英を吹く幼子の様に、其処へ噴き付けた。暗色の空間にわあっと綿毛が舞う幻想、しかしキナ臭さが一瞬で現実へと引き戻す。
人修羅の手を握るまま、白い靄を掻き分ける。足を踏み外せば何処に落ちるか分からぬ空間だ、相手も恐らく慎重な筈。
空間把握の感覚だけは自信がある、惑いの無い歩みで往けば手を引かれる人修羅も不安が無いだろう。そろそろ階段かという矢先、周囲の白が明度を上げた。動揺を隠しつつ、目先だけで背後を見れば……更に明るい。
(アマツミカボシの光か)
ライドウが何を召喚していたか思い出し、落胆した。霧に影が映り込む……いや、恐れる事は無い、此方が照らされるだけあちらも同じく照らされるのだ。警戒しつつ歩めば、まず先手を取られる事は無い、悪くて相打ち程度であろう。まさか煙幕の中で銃を使う事もあるまい。
『そろそろ宜しいでしょうかね』
明るい方から鮮明に聴こえた、この響きは悪魔の声だ。続いて巻き起こる疾風、外套が煽がれ辺りの煙が流動する。テンペストだとはすぐに判ったが、己だけ回避しては人修羅に当たるやもしれぬ。腕を引くべきか、各々で避けるべきかの判断が出来なかった。
「雷堂さん!」
唱える人修羅が我を突き飛ばす、すぐ傍を轟と鋭利な風が走り去って往った。反動で向こうに離れた人修羅が、迫り来るアマツミカボシへと爪で薙いだ。眩い狩衣に軽く裂傷が入ったものの、悪魔に慌てる様子は無い。人修羅も追撃には移行せず、取り払われた霧の残滓を辿る様に後ずさる。
「ひっ」
と、
斑に隠れる空間の中から、ぬっと現れる白い手。形だけは我と同じ……葛葉ライドウの手が、人修羅の項に触れた。そのまま黒い突起をむんずと掴み上げ、引き寄せている。
「離せ紺野!」
駆けようものならアマツミカボシが躍り出る、相手にしている暇があるものか。己の射撃の腕を完全に無視して、銃を引き抜く。銃口を差し向けた先で、ライドウがどこか呆けた表情をしていたのを憶えている。
「そんなに落ち込まないで下さいよ、珈琲が不味くなる」
向いの席でカップに口をつける人修羅。肌に紋様も無く、外出時の袴姿に戻っている。そうしていると、年がら年中黒づくめの自分よりも大衆に馴染めている様に見えて、どこか寂しい。
「……君は元々、珈琲が好きではないだろう」
「何拗ねてんですか、そのままじっとしてたら雷堂さんの分が冷めて不味くなりますよ」
拗ねているとな? いや全く持って反論の余地も無い。
我は無様にも取り乱し、まだ霧の晴れぬ中で発砲してしまったのだ。粉塵爆発というものはそうそう容易く起こるものでは無いが……運悪く引火したらしい。
「それにしても、よくあのライドウが見逃してくれたものだ。爆発も大したこと無かったようだな? 顔の傷がこれ以上増えるのは耐え難い」
「音は凄かったから、本当に心配しましたよ。ああ、でもあの人は大ウケしてましたけどね、気絶した雷堂さん指差して」
起きた時、既にライドウは居なかった。人修羅に揺さぶられ、業斗に呆れ顔にて見下ろされの目覚めだった。テンペストが抉っていった傷痕だけが、現実味を帯びていた。
「この際、我の事はいくら嗤ってくれても構わぬ。君があのまま攫われてしまうかと思い、我はもう本当に……」
感極まって、またぐっと言葉を呑み込んだ。窓の外から業斗に水を差されぬよう選んだ地階だったが、周りのテーブルに丁度客が少ない為、我の嗚咽が目立って死にたくなった。
「そろそろ出ましょうか」
「しかし、君との折角の喫茶店……」
「またいつでも来れるでしょう、此処が潰れなければ。そろそろ出ないと、また業斗さんがキレますよ」
「なあ矢代君、君が止めに来てくれて助かった。遅くなってしまったが、礼を云いたい」
ようやく切り出せて、自身安堵した。そろそろとカップのつるを指に引っ掛け、両手で包み込んだ。すっかり冷めている、今からミルクを入れても斑になるだけだろう。その白い斑に潜んだ手が、ぬらりと出やり人修羅を……
「雷堂さんの敵は、基本的には悪魔でしょう。絶対命令でも無いのに、人間斬る必要なんて無い」
生産性の無い妄想を、人修羅の声が打ち払ってくれた。嗚呼、本当にそのまま、その通りなのだ君よ。我はいくら機関からの命令であろうと、人を殺めるなど出来やしない。半分は人間だという君と戦った時も、気乗りはしなかったのだから。
「有難う、矢代君」
「まあ……俺も冷静でいられない時、挑発に乗りがちですから人の事云えませんけどね。それにしたって向こうの世界のライドウは喧嘩っ早いでしょう、あんなの相手にしない方が良いですよ」
「今回は偶然、互いの請けた依頼が喧嘩していただけだ。普段アカラナで会う彼は攻撃してくる事も無い、言動が少々奇抜だが実力は間違いない」
「そりゃ……襲ってきたらその辺の野良悪魔と同じじゃないですか」
「いつも出くわす時は、互いに一瞬警戒するぞ。カゲボウシではないか、更にまた別の世界の十四代目ではないか……など。いや、我のカゲボウシよりも断然、彼の方が強かったな、はは」
「何笑ってんですか。あのライドウと貴方は、たぶん五分五分って所でしょう? それにいくら強くたって、あんな振舞いしてればいつかは身を滅ぼしますよ。ああいう奴はいざって時に素直になれなくて、それがトドメになるんですよ」
まるでライドウの人となりをよく知るかの様に、饒舌な人修羅。
君が彼を語る言葉が胸に飛来すると、それが芽吹いて不安の花を咲かせる。その毒々しい花は音も無く茂り、心に濃い影を作ってしまう。毒々しいとは云ったが、とても綺麗な花なのだ。醸す気配が葛葉ライドウを思わせ、其処が一層憎らしい。
「あ……お前が云うなよって、今思ってませんでした? 妙に静かだった」
「いいや」
「雷堂さんに対しては、以前より素直なつもりですけどね、俺……拾ってくれたのが雷堂さんで良かったですよ。実力は鍛えてなんとかなりますけど、人格矯正の方が難しいでしょう。だから雷堂さんの方が将来性が有りますよ、あいつより」
もう堪らなかった、何かと比較される事には慣れていたつもりだが、その上で人修羅は我を推してくれたのだ。
意気地なしと罵られる覚悟でいたが、思えば「人を斬るべきでない」と、立ち向かう事を否定してくれたのだ。慈しみをここまで鮮明に味わった事があったろうか?
急ぎ足にて退店しようとし、会計台へと預けた刀を忘れ、更には本来の予定であった珈琲豆の購入を忘れそうになった。ベルを鳴らして街路に出れば、すぐさま業斗が我に怒鳴る。それを話半分で聞き流し……というよりは、おぼろげに相槌しながら銀楼閣へ到着した。空は夕暮れ、夕餉の匂いを遮断するかの様に扉を閉める。
人修羅が珈琲豆を瓶に詰め替えようとしていたので「すまぬが、それは後回しにしてくれないか。所長なら朝帰りだ、それまでに準備しておけば良い」と、返事も聞かずに手を引いた。
『野上の処遇、どうしたものか。謀反の兆しは有るものの、機関体制に間違いなく一石投じるであろう事を吐いていた。葛葉一門の身の振り方を、今一度考えた方が良いかもな……おい、聴いているのか雷堂』
「頼む業斗……明日にしてくれ、今の我は腑抜けに等しい」
『そんな事は今更だが、爆発とやらの衝撃で螺子が外れたか? おい人修羅、現場に転がっていたのを見なかったのか』
無茶な振りをする業斗に対し、人修羅は悪びれる様子も無く「見ませんでしたね」と返事した。
『はン、その腑抜けが寝惚けて階段から落ちぬよう見張っているが良い。今日の様な依頼の日は特に、寝つきが悪く目覚めも悪いからな』
自室の前まで来ると、黒猫だけが動きを止めた。我は扉を開け、人修羅を先に入れた。じっと睨み上げて来る業斗の眼を呆然と見下ろしていると、やっと言葉が浮かんで来た。
「向こうのライドウとは相克の様なもの、しようがあるまい」
『そうやっていつまでも云い訳している様では、今後相対した時が思いやられるな』
「しなければ良いだけの話だ、そもそも何が悲しゅうて同じ姿と戦わねばならんのだ……」
『その続きは人修羅に聴いてもらえ、じゃあな』
最近の師は実にあっさりとしている、我が人修羅を連れるようになってからだ。
我の欝々とした言葉を受け流す事に、きっと疲れていたのだろう。文句や叱咤で返してくれつつも、毎晩の様に反応をくれていた。我はそれだけで嬉しかった。涙を受ける板が、業斗から人修羅に変わった……そういう事なのだろう。
「すいません、俺うっかりしてて……畳むの忘れてました」
部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。人修羅が敷布団をせっせと部屋の隅に積み上げていた。
「いいや、我が遅れて起床したから、君の流れを崩したのだろう。本来、後に起きた方がやるべきなのだ」
「すぐ出掛けるっていうから、俺も慌ててたみたいで」
「我はもっとゆっくりでも良かったのだが、業斗に 人命がかかっている、早くしろ とせっつかれたので、改めて依頼内容を確認した次第だ……それならば《急行セヨ》と伝達してくれたら良いものを、な。とりあえず装備を脱ぎたい」
既に愚痴っぽい事を自覚しつつ、襟を寛げた。脱いだ外套が後ろに持って往かれる、人修羅が衣紋掛けへと、丁寧に被せていた。
少し身軽になった我は銃を抜き、抽斗の中へしまう。続けて腰のベルトを外し、帯刀輪から抜かぬまま刀を壁へと立掛ける。本当は別々にすべきなのだが、手入れの際へと後回しだ。
「……そういえば、紺野って……あいつの苗字か何かですか」
「ああ、そういえば叫んだな。そうだ、我にもあの男にも、葛葉とは本来無縁の名前が有る」
「明さんが気絶してる間、紺野から水を向けられました」
「えっ」
「聴きたいですか」
「すぐに、というかその、犯されてはおるまいな!?」
背後で吹き出す人修羅に、少しだけ胸を撫で下ろした。どうやら心配していた事はされていないらしい。
「飛躍し過ぎでしょう、どうして俺が男にそんな事されるんですか」
「いいや君がそうは思っていてもだな……あの男は兎にも角にも好奇心で動く生き物で、葛葉の面子などと宣って自制をする様に見えるか?」
「紺野がそういう奴って事は理解しましたけど、俺とする必要性なんて皆無でしょう」
「嗚呼駄目だ、我の君に対する評価は客観性を持たぬ。確かに夜道を君が歩くより女性が歩く方が、襲われる確率は高いだろう。しかしそれは世間一般の持ちうる感覚であってだな……そうだ、強盗目的であれば話は違うだろう。やせ衰えツギハギの着物を着た女性と、恰幅は良いが動きの鈍そうな背広の男性ならば、襲われるは後者だ」
「紺野は強盗みたいなもんって事ですか」
「いや、何やらややこしくしてしまった……すまぬ」
「俺を人間に戻す気概が明さんには無いって、そう紺野から云われたんです」
ぎゅうっと胸を締め付けられる様な錯覚に、思わず息を吐いた。後ろから人修羅が「ホルスターも、もう外して良いんですよね」と訊ねてくる。我の苦しい息づかいが、気を遣わせたのかもしれない。
「我は……君を人に戻したい、それは……人として生まれたのだから、人として生涯を送って欲しいから……それが君の幸福の条件と知るからだ」
「デビルサマナーは他にも居る、って誘われましたけど……断っておきましたよ。あいつからは確かに、魔的な何かを感じましたけど……それだけの実力があって俺を人間に戻す手段が得られても、意図的に避けそうだから」
「そう、か」
「珍しい悪魔としてしか、俺の事認識してないですよ、多分」
両脇背後から回された手が、我の胸元を探る。彷徨う指が金具を捉え、かちゃかちゃと音を立てる。ホルスターのフロントを外し終えた人修羅が、そのままの腕でぎゅうと我を抱擁した。
「……云ったでしょう俺、明さんに対しては割と素直になってるって」
ああ、嗚呼……そうだ、我は喫茶店で会話している時から、一刻も早くこうしたかった。君の低めの体温を感じたくて、いくら膝で甘えても溜息ひとつで許して欲しくて、MAGとは違う気を確かめ合いたくて。
「素直でなくとも可愛い」
「何ですかその歯の浮く様な台詞は。でも明さんが云うと、ふざけて聴こえないから却って困りますよ……」
夕間暮れから夕暮れへと、緩やかに色を暗くしてゆく窓。薄く映り込んだ我々の姿がどことなく不埒で、思わず手を伸ばしカーテンを閉めた。と、唐突にその手を掴まれる。
「そういえば、掌見せて下さい明さん、火傷とかしてませんか? その……俺の火、殆ど出かけてたから」
背から前方に回って来た人修羅が、我の左手を扇の様に眺めている。じっと眺める眼がゆらゆらと金色を帯びる、擬態していても此処だけは揺らぎが見られる。なのでついつい、普段から見つめてしまう。
「気にする程でも無い、寧ろ急に制して申し訳なかった。さぞ苦しかったろうに」
「明さん止めたくせに、その俺が挑発に乗った訳ですから、そっちは怒っても良いくらいですよ……あ、ほらやっぱり、水膨れになってる」
「なに、ドゥンにじゃれつかれた時も似た様なものだ、翌日にはすっかり治って……ぁっ、何、矢代君」
妙な声をあげてしまった。我の掌を両手でやんわりと広げた人修羅が、水膨れをれろりと舐め始めたからだ。己の指の隙間から、眦を染める君と目が合ってしまい、ずくずくと躰に響いた。積極的でありながら痴態と自覚しているその仕草に、脳髄が融かされそうだ。
水膨れの薄い膨らみを確かめる様に舌先は撫で往き、次第に指の股へと場所を移す。窪みと節に溜まる唾液が、微かな音を立て互いを煽る。
「……明さん……さっきから、前、張ってたから」
「ぅ……そ、それはまさか、帰路の際、既に目視出来たのか?」
「外の時は、外套で隠れてました、けど」
ちゅぶ、と親指を咥え込まれ、堪らず黙ってしまった。指の腹をくすぐられながら、やんわりと股座に膝を入れられる。こりこりと局部を圧迫する膝は、絶妙な緩急で我を焦らす。大腿で袋を揺すり、膝の皿で幹を扱いて……ああ、其処が勃つは容易なれど、自身が立っているのはやっとの思いだ。
「うぅッ、あ、はぁっ……狙う箇所の趣味が、良いとは云えんな……」
少し責める様に問うてみれば、我の指をもう一本咥え込んだ人修羅が薄く微笑んだ。弓なりになる眼は金色を強め、滲むMAGも色濃くなるばかりで。云えばやはり憤慨するであろうから、心の中だけで「悪魔の様だ」と囁いた。
「っぷ、ぁ……はぁ……はっ……趣味悪いなら、もうしません」
「他の者に対しては、だ。我に対してならもう、いくらでも」
「現金ですね…………喫茶店で俺、スプーン落としたからって、テーブルの下に屈んだじゃないですか……あの時、明さんが凄く膨らませてたの、間近に見ちゃったんですからね」
「期待に胸を、か?」
「……ふ、ふはっ、流石に苦しいですよソレ」
絡み合いもつれる様に、畳に倒れ込んだ。あのまま布団を敷いておいても良かったな、と脳裏で思いつつ接吻し合った。ホルスターを完全に腕から脱がせて、身体が乗らぬ様に遠くに放った。冷たく光る管が、僅かな理性になんとなく突き刺さった。
「昨晩もしたのに、飽きないんですか」
「我の独り善がりなら、止めても構わないが」
「本当に止められるんですか?」
「嫌だ、矢代君」
「はいはい……ふふ、分かってますから泣きそうな顔しないで下さい」
嗚呼なんて優しい、まるで母の様な温かな声音で……
母の様な? そういえば我は、母の記憶なぞ……無い筈だが。お里の人間に育てて貰っただけで、その中に女性が居なかった訳では無いが、母と認識した事は無かった。では何と錯覚したのだ? まるで母親の大きな愛に包まれた、かつてを思い出した様なこの郷愁は……
「俺は明さんに逢えて良かったと思ってますよ……あんな酷い世界の中、人間ってだけでもとにかく救われたんです。行けども行けども砂漠ばかりだし、ボルテクスは本当に気が滅入りました」
「あ、ああ……そうだな、出逢いはやや殺伐としていたが、すぐに打ち解けて良かった」
いや、ボルテクス界が出逢いの場だったろうか? 砂漠の世界を思い出せはするのだが、君との記憶が無い。
「疼くでしょう明さん、最初に抜いてあげますね……」
いつの間にやら寛げられた我の下肢、ずるずると下されるスラックスに、きゅうきゅうと揉まれ解される褌。されるがままの我は、おしめを替えらている赤子になった心地だ。行為自体は、酷くかけ離れた俗的なものだが……その倒錯感が心を火炙りにして、血を滾らせる事は最近知った。
「うわ、恥ずかしいくらい勃ってる……ねえ明さん、しゃぶらせて下さい」
「も、もう好きにしてくれ……ああ、矢代君」
我の股座へ頭を垂れ、ずもりと咥えるその姿。直視するだけで達しそうになる予感から、我は明後日を眺めていた。だが、否応無しに快感は訪れ、深く導かれる程に腰が跳ねた。ああ、何故こんなにも気持ち好いのだろうか、気が狂いそうな程、ぬろりぬろりと坩堝に搾られる様なこの感覚。ああ、嗚呼おかしい……おかしい、ぞ、この感触、は。
「矢代君」
上体を起こした我は、人修羅の頭を両手でそっと挟み、ぐいと離させた。糸を引いたまま、我の雄からずるりと口を外した君は何処かうっとりしたままで。
恐る恐る……その唇へと口付け、舌を挿し入れた。ちゅくちゅくと咽喉にまで響く様な淫行にくらくらしながら、舌をねっとり這わせた。先刻得た感覚に間違いは無く、我の興奮はみるみるうちに焦燥へと変貌した。
「っぷはッ……はぁっ、はぁ、矢代君……君、歯はどうした」
「……は?」
「歯だ! 何故、何故唐突に消えるのだ!」
「はは」
歯抜けの君は喋る事も出来ずに笑い、そっと拳を突き出した。下へと開かれた手の内からは、バラバラと歯が零れ落ちて行った。
「あ、ああっあ……ぅ」
畳を毟り、後ずさる我に向かって「どうしたんですか、明さん」と言葉を発する人修羅。何故か白い歯列は再生しており、零れ落ちた歯も消えていた。
「何だ、どういう事だ、今のは」
「どうしたんですか、気持ち悪い? とりあえず横になって……布団一枚敷いた方が良いですかね」
気遣いの君が、積み上げた敷布団を一枚広げてくれた。
《矢代 矢代 矢代 矢代 矢代 矢代 矢代 矢代 》
布団一面びっしりと赤い文字が、呪文の様に繰り返し綴られていた。乾いた血の色をして、走り書きの様に。
「嫌だっ! こんなのは、あ、ああッ! 矢代君!」
先刻より我を蝕むは恐ろしい幻覚だと、人修羅に泣きついた。よしよしと抱きしめ、あやしてくれる君の手には黒い紋様が刻まれていた。良い、構わぬのだそれは、君は半魔の姿とて勇ましく美しいのだから。
「そんなに、眼を腫らすまで泣いて……明さん本当に泣き虫ですよね」
「……むかし、よく、業斗に云われた……」
「充血させちゃって……痛いでしょう? 今、取り替えてあげますからね」
微笑みながら片目を抉りだす人修羅を、必死に止めた。
「もういい、いいのだ矢代君! 我がいけなかったのだ! 君の片目が得られれば君を近くに感じると、駄々を捏ねて芝居を打ったのだ! この右目は元より義眼でっ……左は判然と見えている!」
最早、何の云い訳を叫んでいるのか自分でも分からぬ。ようやく手を止めた人修羅に安堵していれば、部屋の扉をがらりと開き、別の人修羅が入って来る。
「明さん! そいつは偽物です!」
増殖した人修羅にも戸惑うが、今抱きしめている彼が偽物だという事実が受け入れ難い。すると、侵入してきた方の人修羅が、我と彼を引き剥がす。弾かれた衝撃で、たった今まで抱擁していた人修羅の小袖が崩れた。
「そいつの背中を見て下さい!」
徐に起き上がる人修羅の肩から、完全にずり落ちる衿。隙間から見えたのは、無数の傷痕。
「そいつは擬態術で化けたライドウだ!」
糾弾する人修羅に上半身の着衣は無く。下肢にはひたりと密着する革製の、黒いスラックスを穿いている。
「ほ、本当なのか?」
「そんな、そっちが偽物だ! いきなり現れた奴の云う事信用するんですか明さんはっ!」
「いや、しかし」
袴の人修羅に手を差し伸べれば、スラックスの人修羅が怒鳴る。
「そいつを放置したら不味いんですよ明さん! 俺達の仲を引き裂こうとしてるんだ! もう一度近付いたら斬られますよ!」
ああ、嗚呼……どうしたら良いのだ。どちらも人修羅の形をしている、片方に傷は確認出来たが、ライドウたる確証が持てぬ。では人修羅が複数居るのはどう説明する? この際いっそ、矢代君の中身をしているのならば複数居ても……
「いきなり乱入してきやがって、あんたこそ偽物だっ」
乱れ着物の人修羅が、もう一人の人修羅に襲い掛かる。手首の捻りと肩の使い方からして、アイアンクロウを放つつもりだ。
「止めろ!」
既に体で止めるには距離が有った為、思わず刀に手が伸びた。鞘を割りつつ薙いだ一閃が、人修羅の背中を割く。悲鳴もあげずにべしゃりと畳に突っ伏した人修羅は、ぜえぜえと苦し気に喘いでいた。
「助かりました、有難うございます」
スラックスの人修羅が礼を云いながら、我の傍に歩み寄る。赤を滴らせる人修羅の背を見下ろせば、今度は鮮明な傷痕が幾重にも確認出来た。
「こいつが葛葉ライドウ……紺野夜ですよ、トドメを刺しておいた方が良いんじゃないですか」
「……いやしかし、どうして此処へ」
「だって明さん、本当はこいつの事消したかったんでしょう? 劣等感の塊の貴方が、こういうタイプの隣に居られる筈が無い。しかも同じ葛葉で平行世界の自分ときたら……周囲がしなくても、勝手に自分で比較し始めるから性質が悪い。もう夜を消すか、アカラナ回廊が不通になるか、完全に忘却するか……それしか道は無かったんですよね?」
「そんな……我はこれでも、紺野を尊敬出来る部分も有った。確かに、あの男に対する苦手意識は否定出来ないが……君が手元に居る今以上の幸福は無いのだ、己の劣等感くらい付き合ってゆける」
「どちらにせよ、俺が二人居たら困るのは明さんですよ。この偽物を殺しておかないと……」
柄を握る我の手の上から、そっと君に握られる。精神を掌握されているかの様な心地に、謎の畏怖と神聖ささえ感じ始めていた。
「怖いなら、一緒に振り下ろしてあげますから」
優しい声……横を向けば、いつもの君の微笑みが其処に在る。
だが、何処か矛盾を感じて、思わず訊ねてしまった。
「人を斬るな、という君の想いは……消えてしまったのだろうか」
「それもエゴでしたね。だって明さんが本当に消したい存在がヒトだった時、俺が止める理由や権利も基本的には無いですし。明さんの人生なんですから、もう自分で考えて良いんだ、罪じゃない」
「しかし……殺戮は罪そのもので」
「今も、そしてこれからも、半分背負ってあげるって云ってるんですよ……ほら」
ぎゅう、と掴まされる柄が鳴る。共に添えられた人修羅の手は、妖艶に光っていた。淡く碧いその光が、刀身をぼんやり輝かせている。刀の重みが減った気がする、いいや、二人で持つ以上に軽い……まるで羽衣の様に。
「……ふ、フフ……雷堂さん……貴方、擬態かどうかなんて、本当はどっちでも良いんでしょう」
血塗れの人修羅が、裂けた着物を払い除けつつ笑う。
「何を云うんだ……や……矢代、君」
「よく斬った相手を気安く呼べますね。どっちがどっちでも、性行為は続けたし、流されるままに斬っていた……違います?」
「だが君が、君があのままでは隣の矢代君を殺してしまいそうでっ」
「俺である必要なんて無いんでしょう……その時その度に、都合の良い俺の形をした生き物に縋っている……それだけだ」
「もう止めてくれ!」
「……怒って、ます?」
「違う!」
「ぁ、は……怒ってる、じゃ、ないですか……」
苦し気に笑うその顔を見ているだけで辛く、堪らず顔を背けた所を横の人修羅に接吻される。唇を甘噛みされ、舌が大胆に……それでいてどこか遠慮がちに侵入して、我の舌と一寸触れ合い去っていった。錆の様な匂いの後、舌の上で芳醇な味わいに昇華する。
「はぁっ、はぁ、今の、は」
「俺の血をあげました、強心剤の代わりにはなるでしょう」
歯の有無は別として……少し前にたっぷり味わった口内と、全く同じ感触だった。その興奮が後押ししてか、振り翳させられた刀を止める心よりも、問題を壊してしまいたいという攻撃的な衝動が勝る。
「そ……うだ、そうだな、我はあやつに謀られたのだ……愛し君の姿で、身体を繋げ……う、うぁあああぁっ!」
偽物だと己に云い聞かせ、二人で刀の柄を押した。共同作業の歓びに高揚する、共に酒樽を木槌で砕く様な錯覚だ。
幾度か斬りつけ、対象は薔薇色の内臓を見せながらひしゃげていった。飾り切りの果実の様に、瑞々しいまま喋らなくなった。
「明さん……これで俺達を邪魔する奴は居なくなりましたよ。俺と貴方を縛る足枷を壊せたんだ……ふ、ははっ」
隣の君は酷く嬉しそうにはにかみ、我に頬をすり寄せじゃれついた。
「はあっ、はぁ、こ、これで良かったのだろうか」
「何云ってるんですか、やらなきゃやられてたんだ。周りに何と云われようが、俺は貴方の味方ですよ、明さん」
刀から滴る血が、花弁の様に畳に弾けている。それは心の中に陰りを作る、不安の花に似ていた。百合の花の毒々しさと、白檀の馨しさを混ぜた様な……人の匂いとかけ離れた、冷たい芳香。
「本当、よくやりましたよ……ふ、フフ……」
我の手を優しく撫でていた人修羅の手から、じわりじわりと斑紋が消えてゆく。人の姿へ擬態し始めたのかと思ったが……覆い隠すというよりは、何かが剥がれ落ちていく様に感じる。「礼を云わないと」そう呟いた人修羅が、まるで脱皮するかの如く肢体を震わせた。不安の花がまるで床から聳える様に、目の前で哂っていた。
「クク……あははっ、よくやったよお前は本当、日向」
声も出なかった。我の手に爪を立て、せせら哂うは葛葉ライドウ。ばさりと漆黒の外套を片手で払い、毛繕いでもするかの様に頬の血を袖で拭っている。
つまり我は、また謀られたという事か? いいや、このばらばらになった人修羅が偽物というのは事実かもしれぬ。下手すれば、目の前のライドウも偽物の可能性が……ああ、これはそもそも現実なのだろうか?
「僕が悪魔召喚皇となるにはねえ、人修羅が必要だったよ確かに。でもね、いつかはこうして殺さねばならないから、それだけが重荷だったよ。コレが強大な力を宿せば、きっといつか反逆される。やられる前にやらねば……悪魔に喰い殺されるサマナーなぞ笑い話にもならぬからね」
「そんな、そんな事……分からぬではないか! 貴殿の疑心が勝手に矢代君を殺しただけだ!」
「契約を結んだ日からこうなる事は必然だった、人間へと還る為に人修羅が僕を殺そうとし……僕はそれを拒絶する。人修羅が人間を諦めようが、いつか自我を失う程に強大となれば僕のMAGを無尽蔵に吸い、魂を喰らうだろう。そうされる訳にはいかぬ、僕の思うままに、僕の死に方は僕が決める」
「思い上がるな! そんな事ならいっそ、我に……我に人修羅を託してくれたら!」
「フフ…… 我も欲しい などと云えば良かったのに」
柄を握り直したが、上から叩かれ一歩出遅れる。ブンと空を薙ぐだけに終わり、跳び退くライドウは文机にそのまま腰掛けた。行儀悪く脚を組み、積まれた教科書を手に取りはらはらと捲っている。
「云った所で、あげないけどね」
「何故、何故我に……殺させたぁッ……」
「だって、僕とて殺したくないもの。功刀の亡骸だって、くれてやるものか」
耳を疑った、いや受け止めたくなかった。悪逆非道のデビルサマナー、紺野であって欲しかったから。真意を悟る事は出来なくとも、その台詞だけで充分……彼の人修羅への想い入れが感ぜられ、吐き気がした。
「こんな生温い箱庭に、ずっと閉じ籠るつもりだったのかい? 駄目だ、許さぬ日向明。お前には僕の亡骸をくれてやったではないか」
「貴殿の……亡骸……」
「お前はこの僕として生きねばならぬのだ。肉体と魂が共存出来る道はそれひとつ。お前が本来のお前であろうとする程に、胸が軋むだろう? それでもお前は人修羅の傍に居る為、僕の躰を奪ったのだ……それくらいの報いは受けて当然だよ、ねえ?」
閉じた教科書と積まれた他の本を束にして、ライドウが窓からそれ等を投げ捨てた。
「勉学に逃げるなよ、教科書なぞ要らぬだろう? 甘えに還る所も養父母も僕には居らぬし、里での扱いも知れたものだ。それでも身体は羽の様に軽く、MAGを出し惜しむ癖も無かろう。お前のすべてを鈍くしていた自信の無さも、僕という仮初の器が払拭してくれる。破壊の手は得られたのだ、後は好きに使うが良いさ」
キイキイと揺れていた窓硝子を、大きく観音に開くライドウ。
「その手に誰かを抱こうとすれば、どうなるか分かっているよね? そんな事が許される器ではないのだよ……僕は」
ざあっと部屋に舞い込んでくる、大量の白。視界を埋め尽くす折り紙は、我にばたばたとぶつかっては花開く。見慣れた薬包紙、綴られた
呪い……これは、式だ――……
己の悲鳴で飛び起きた。額から落ちた濡れ布巾が、掛け布団の上でぼふりと音を立てた。
周囲を確認する、式は無い、葛葉ライドウも居ない。部屋だ……畳敷きではなく床板の。机も文机ではなく、ライティングビューローの形をしている。頭上の照明は薄暗く、窓外の蒼い空気を浮き彫りにしていた。
「は……吃驚した……あんたの悲鳴なんて滅多に聞かないから、心臓に悪い」
寝台の傍、椅子に腰かけた人修羅がどこか疲れた表情で呟く。我は膝上の布巾を手に取り、その生温さに気持ち悪くなる。早く己の顔を確認したい。胸を掻き毟れば、シャツに皺が深く寄る。
「……鏡を」
「は? 鏡?」
「鏡を……手鏡で良い、寄越してくれ」
押し殺す様な声しか出なかった。確信が得られぬ為、俯くままに待つ。
人修羅は程無くして腰を上げ、部屋の隅の机を漁り始める。幾つか並ぶ抽斗のひとつから何かをそっと取り出し、再び傍に腰かけた。
「……これでいいのか、適当に有るのにしたけど」
差し出されたそれはムジナ菊の紋様が刻まれており、見事な貝象嵌だ。
恐る恐るひっくり返し鏡面を覗き込めば、学帽と傷の無い葛葉ライドウの顔があった。相変わらず前髪の分け目が慣れぬ、そして今の自分だと認識出来ない。少し傾ければ、訝し気な目をした人修羅が映り込む。
「元々血色良いとは云えないけど、顔色好くないぞあんた」
「いつ倒れたか、記憶が無い」
「それは……」
云い淀む人修羅が、着物の衿をはたりと軽く煽いでから吐き捨てた。
「俺を甚振ってる最中に……ふらっと倒れたんじゃないか」
「甚振っていた……と君は云うが、それだけでは思い出せるものも思い出せぬよ」
「はぁ、もっと詳しく云えって? 新手の嫌がらせか?」
「僕が君を嬲るのは毎度の事ではないか、もっと僕の海馬を搾る様な供述をくれ給え」
手鏡をつき返しながら要求すると、いよいよ観念した人修羅が視線を合わせず淡々と語り始めた。
「MAGを俺に……入れてたあんたが、背中に立てていた爪が……だんだんと強くなって。あんた妙にエスカレートしていったよな、アルラウネに鞭打たせたんだ……俺の背中を」
「……背中を」
「アルラウネなんて久々に見た、最近あれの管を持ち出していなかっただろライドウ。あっちも戸惑ってた、久々に喚ばれたと思ったら鞭打ちだもんな……しかも同じ使役悪魔にときた、ははっ」
乾いた笑いで立ち上がり、抽斗へと鏡を仕舞いに行く人修羅。我はその背を抱きしめ「君は悪魔ではない」と叫びたくなったが、堪えた。夢想するだけならば許されよう、しかしいざ実行に移した時、この肉体が崩れ落ちそうな予感がして震えた。
「いざ傷付けた俺の背を見て、気絶したのか?」
「……まさか、それなら最初から君を穿ったりせぬよ」
「だって、あんた嫌だろ、お揃いだなんて」
抽斗を閉じた人修羅は振り返りもせず、前を寛げゆるゆると衿を落としていった。上だけはだけ、白い背を晒し笑う。
「もう何も残ってないだろ、あれくらいあっという間に再生する。あんたと同じ背中にはならないんだ……残念だったな」
ここで本物のライドウならば、近くの物でも投げつけたろうか。更に鋭い棘を持った言葉で、今度は鞭打っていたろうか。嗚呼……今の我には憶測で演じる事など無理であった、それ程に夢で疲弊していた。
無反応な《ライドウ》を思ってか、君がどこか急いた様子で振り向いた。何故そんなにも、残念そうな眼をしている? 同じ傷を持てぬ事を、まるで君こそが嘆いているかの様な……そんな気配を纏って。
「どんな夢を見ていたんだ……酷い魘され方をしてた」
「お察しの通り、酷い夢さ」
お節介で優しい鳴海も、ほどほどに放任してくれる業斗も、我が居座る必要の無いヤタガラスも……すべては空想のもの。
君が当然の様に我の隣に居る、それだけで既に狂った世界だったというに、浮かれてついつい留まってしまった。あのまま醒めず、永遠に理想の世界で暮らせたらどれだけ良かった事か。
きっと人修羅の歯を零したのも、二人目が乱入してきたのも、この躰に残留した意識が見せた歯止めだったのだ。
「……あんたの仕打ちを思えば腹立たしいけど、動けなくなられちゃ俺が困る」
手元の布巾を取り去る人修羅が、白い琺瑯洗面器にそれを放る。とぷんと微かな水音がして、空気が涼やぐ。続いてしゃらりしゃらりと、波の遠鳴りがした。着物を正し紋抜きへと指を滑らせる君の胸元で、鎖が擦れる音だった。我が常に提げさせている……罪の証だ。それは決して君の罪では無い、そのロザリオを見て雷に打たれるのは我なのだ。
君を見ると同時に視界に入るそれが、君が動くと同時にさざめくそれが、我が何者だったのかを思い出させるから。
「下から体温計持ってくる、ついでに飲み物欲しいなら――」
我はついと手を伸ばし、揺れる十字を掴んだ。首が絞まる人修羅は、自然と此方に身を屈める。息を呑むと、張り詰める鎖が揺れた。
「君の血が良いな」
「……吸血鬼みたいな事云うな、MAGなら俺が足りないくらいだ」
「吸血鬼なら、こんな物触れないだろうさ」
更にロザリオを引けば鎖の強度を気にしてか、人修羅は仕方なくといった顔で我に跨った。緩いままの隙間へと手を下ろし、脇腹を爪先でくすぐる。見悶えた君がは、と息を吐き、下肢が強張るのが分かった。
「日向明になった夢を見ていた」
我が呟けばその眼が一瞬、金に輝いた。憐れ、動揺を隠しきれぬ人修羅はされるがままだ。上等な袴なのに、それを物ともせず強引に解いた。掛布団など蹴り落とし、千切れんばかりに袴帯を引き、君を剥く。
あれが夢であった事への失望や怒りを、ぶつけたくなった。これでは、まるで八つ当たりではないか。心に素直なまま生きる夢の我等が、酷く妬ましかった。
「だから何だ……もうあの人は居ない、全部過去だ……夢の話を俺にあてつけられても、困る」
無体をされる事に慣れたのか、どこか諦観めいて投げやりに吐露した人修羅。
「君は日向の使役悪魔だった。ボルテクスにて君を拾い、常日頃から友人として接し、夜中には愛し合っていた」
下手な愛撫よりも効くのか、我が夢を紡ぐだけその眦を染めていく君。歓びというよりは恥なのだろう、雷堂との睦まじさを祝福するライドウではない。恐らく馬鹿にされていると、そういう感覚が人修羅を苛むのだろう。
「じゃあ夢の中で明さんだったあんたは……俺に優しく出来た、って事か」
「吐き気のする過保護ぶりだったよ、でもね……あれではとても君を人間にしてやる事は出来なかったろうね」
「……どうして、だ」
「人間に戻れた君が、悪魔と親和性の高いデビルサマナー相手に関係を持ち続けると思う? 僕は思わないね、人間に成れた君は、間違いなく日向から離れる」
嗚呼、己を滅多無性に打ち付ける様な心地だ。夢でああは云ったが、我は心の何処かで確信していた。所詮は悪魔召喚師、悪魔を拒絶する人修羅からすれば、デビルサマナーは悪魔も同然なのだ。我は、人修羅を……「人間に戻す手伝いをしよう」と甘言のうちに手元に留め、そのまま飼い殺しにする事を……夢見ていたのかもしれない。
「だから君は、やはり僕に飼われて正解だったのさ……ふ、フフ……功刀君、君はどうなの」
無言の人修羅に、やるせない憎しみが湧きあがる。何故、雷堂の覚悟の無さを否定してくれないのか。何故、ライドウとしての問いかけに恍惚な眼をしたのか。
答えは分かっている……君が信用していたのはライドウ、紺野夜だったからだ。口ではどうこう云いながらも、紺野がやり遂げる男だと信じているからだ。人間に戻れる可能性も、紺野に与した方が高いだろう。
当然といえば当然なのだ、紺野は揺らぐ事の無い決意しか口にはせぬ。二転三転、転がり落ちる無様を見せぬが身上か、破天荒に見えて言葉選びは慎重だった。演じてみて実感する……このピンと張り巡らせた己の糸で、身を切りそうな感覚。自尊心が強さの秘訣だろうが、その反動を制御する事の疲労感よ。
ぶつけてしまう、己に縋る他ない猛き半魔に。縛り縛られを薄々感付いているのに、止められない。人修羅への愛着は変わらず持ち合わせているのに、立場が変わっただけで発露は形を変えた。
「明さんは……間違いなく、あんたよりは善人だった」
雷堂を擁護するようでいて、「いい人」と終わらせている君が憎い。
いよいよ躰に魂が馴染んでしまったか。人修羅を甚振る度に、脳裏で云い訳を唱える様になってきた。どれほど酷くしても離れぬ君は、我の思惑を遥かに凌駕する。どうりで、歯など容易く折れる訳だ。痛みは確かに有ったのだろうが、暫く経てば元通り……我の為を思い人修羅は身を挺してくれた、それは真実他ならぬ。ただ、あの瞬間が君にとっての一大事であったのか……問う事さえ躊躇する。
我にとっては……急転直下、吊り橋から足を踏み外したに等しかった。夢と現をうつろうが君を想い……宿る躰を移ろうがそれは変わらず。紺野を羨んではみたものの、いざ成り代わってみれば魂が息をしておらぬ。意味が無い、これでは殆ど死んでいるも同然。
「そういえば矢代君、以前依頼にて連行した野上という男を憶えているかい?」
「……ああ……アカラナ回廊に逃げ延びてたあの……」
唐突な話題に聞き耳半分の人修羅、我は頭を整理しつつ言葉を選ぶ。雷堂の記憶で物を語ってはならないのだ、ライドウの視点に置き換え、矛盾無きよう話さねば。先程の夢の中とも、少しずつ違うのだから。
「あの男が三本松の中身に関し、以前より食って掛かっていたのは知っていたかね?」
「……松の中身なんて、繊維だ」
「クク、可笑しなことを云う、君もあの老木が喋る所を散々見ているだろう。それよりねえ……君こそが喰い付きそうな話が発覚したのだけど、聴きたい?」
「俺がなんて答えようが、あんたは話したいんだろ、勝手に……し、ろ」
此方に脚を向けた人修羅に跨り、ゆったりと胸を捏ねる。黒き紋様が擬態によって押し殺されている、薄い銀朱を撫ぞれば自然と円を描く形となり、まるで痛みを堪える様に目を瞑る君。
「ゴウト童子を見れば分かるだろうが、魂魄を移す先は多細胞生物である事が基本だ。それも死骸の状態で、脳という器官があれば、尚宜しい。最低でもミトコンドリアを必要とする」
「こんな事しながら何の授業のつもりだ……雄しべと雌しべとか云ったら、ぶっとばすぞ……」
「同じ真核生物であろうと、植物などに魂魄を移す事は極めて難しいものとされていた……何故か、それは魂魄の持つ記憶が拒絶反応を引き起こすからさ。記憶は肉体のみに依存しない、ヒトに限った話では無いがね」
「拒絶反応なら、どんな生物に移したところで多少出るモノじゃないのか」
「猫の鳴き声に言語を載せる事が容易でも、葉のさざめきや養分の流動で意思を伝えられる相手は流石に限定される。転移先の肉体が身動きも意思疎通も出来ぬ状態……となると、魂魄が元は人間であった場合、先に精神疲労を起こし自ずと死滅してしまう、これが先刻述べた拒絶反応に該当する」
「……三本松は、元々人間?」
「フフ……禁忌とされた話題だが、最早周知の件でもある。野上氏は、あの三本松の中身が果たしてこの永きに渡り“ 同一人物なのか ”という疑問を提唱していたのだよ。機関にとってその暴きは厄介でもあり、注視すべき内容でもあった」
「俺と何の関係があるんだよ。あの松の中身が何者だろうと、いつの間にか別人になってようと、興味ない」
そっぽを向く人修羅の乳首を、きゅうと抓った。軽く呻いて弾かれたが、その手を掴み返し耳元に迫る。
「野上氏の持ち出した資料というのはね、魂移しの術を確実に成功させる技法が、それは事細かに載っていたそうだ……中には、悪魔が雑じっていようが成功させた例も有った」
「悪魔が……雑じった? それは人間と悪魔と……って事か」
「そう、悪魔との合い子、とかねぇ……フフ、だから君にも適用される秘術かと思ってね」
「別の躰に移れってか? 馬鹿馬鹿しい……俺が人間に戻りたいってのは、元の形も含めてだ」
そう云うと予測はしていた、だからこそ返しも既に考えてあった。
「平行世界の君を乗っ取れば良いじゃないか」
愛撫の手を止めながら云ったというのに、人修羅はまるで雷にでも打たれた様な顔をした。そして唐突に我の手を掴むと、ぐっと起き上がる。此方に迫るにつれ、袴が完全に置き去りとなる。素肌を晒す事を、最早気にしていないらしい。
「あんたは……見知らぬ相手を殺してまで、体を乗っ取れっていうのか」
「童子の様に制約を受ける事もなく、同一の肉体に移るのだから恐らく容易だよ」
「平行世界の俺も、マガタマ飲まされて半魔だったら意味無い」
「飲まされるより前の君が居る世界を探せば良いのさ。それに君、もしかすると東京が受胎しない世界も有るかもねえ、そうしたらその世界の君はずっと純粋な人間のまま……」
受胎の無い東京、というものを想像したか、人修羅の表情は曇った。ないものねだりを脳内で始めたのだろうか、その感覚は我もよく知る所だ。同じ背格好、顔に声……それだというに何故こうも違うのかと。きっと君は、人のまま過ごす己の分身を羨み、そして憎々しく思ったのだろう。そんな対象が実在すればの話だが……此処に証が存在しているではないか、我はほくそ笑んだ。
「ふ……ざけるな、ふざけるなぁッ! いきなり何云い出すのかと思ったら、俺に散々な事しておいて何だよその提案は!」
「人間の躰が欲しいのだろう?」
「そんな事……許される筈が無い!」
張り詰めた糸を断ち切って、君へと垂らそう。緩く甘い夜の声に釣られた君は、それを縋る。
「僕が許してあげるよ……矢代君」
慟哭する人修羅が、我の手を幾度か引っ掻き、シャツにしがみ付いてきた。吠える様に、酸欠の様に、全身を震わせて欲望と戦うその姿。我が死の恐怖と戦い破れた、あの瞬間を見下ろしているかの様だ。
たった今、すぐ近くに君とそっくりの肉人形を用意したら、君は移ってくれるのだろうか? 移したところで、それは功刀矢代といえるのだろうか。いいや大丈夫、我が居る……安心して欲しい。姿形は夜と成ったが、中はこうして明が生きているのだ。
君よ、どうか恐れないで。同じ生き物になろう、同じ時を生きよう。我の秘密は明かせぬが、君が器を新調したところで、それを誰に洩らそうか。それをずうっと互いの秘密にして、ひっそりと二人で生きよう。君が二度と悪魔を見たくないのならば、我は葛葉を棄て君と逃げよう。
人間の躰を得た君は、久々の感覚に胸を震わせ歓喜するであろう……しかし、来るべき時は視えている。
己の全てを緩慢に感じ、老い衰え、なかなか癒えぬ傷……きっと君は、折角奪った躰を嘆く。圧倒的な力を失った者の末路なぞ、鈍い我にとて分かる。元の《功刀矢代》として人間に戻るのならば、すぐにその気持ちも治まるだろう。しかし他者の躰を奪った君は己を恥じ、日陰に生きる事となる。この誰にも打ち明けられぬ、鬱屈とした秘密と不安に蝕まれる日々を送るのだ。
「あんたおかしい、最近おかしい、悪魔の俺が欲しかったんじゃないのかよ、夜」
泣き濡れる金の眼と、その首に提げたロザリオの金が交互に煌めく。激昂の為か、擬態も解けて黒々と冴え渡る人修羅。夜が照明を薄暗い物にしていたのは、この為だろうか……嗚呼、こうして結局は、あの男の影が付き纏う。
夢の中で彼がした宣告は、どこまで本当なのだろうか。我の畏れが見せた幻か、それともこの器に残留する思念の見せた亡霊か。このまま人修羅を愛すれば、肉体が魂を許さんと絞め殺すのだろうか。
不安の花を揺らす声、夢の中の鳴海が云った「悪びれるな、堂々としろ」という声が背中を押した。痛い気もしたが、恐らく気のせいだ。本来の我の背には、鞭打ちの痕は無い。やや浅く、微かに残る人修羅の爪痕のみだった筈。この躰の傷なぞどうでも良いのだ、これは夜に与えられた傷である。
「傷なんかより、もっと素敵なお揃いを手に入れよう? 矢代君……」
「俺に……どうして俺に固執する」
「だって、中途半端な君がいけないのだよ。悪魔と人間の狭間に揺れて、雷堂とライドウの狭間に揺れて……ねえ、本当はどちらについて往く予定だったの? 僕と日向の」
この期に及んで断言出来ない君に、酷い苛立ちが積のる。目の前の黒髪を引っ掴み、目線を同じ位置へと寄せた。
「う……」
「何、悪魔の路を選んでくれても良いのだよ。君が異形となり手脚の数が変わろうとも、それならば使役を続けるだけ。他所の君を殺し、奪う躰の癖が少しずつ違っても、こうしてまた掴んであげる。勘付いた機関に追われようと、契った縁だ、僕が死ぬまで付き合ってあげる」
嗚呼、するすると出てくる我情にまみれた台詞。夜の真似ではなく、我の意思が唇を動かせ……そう云わせる。はじめの頃は、君を悩ませ傷付ける事に酷い罪悪感を抱いていたが、最近は心地好ささえ感じ始めたのだ。
掴んでいた人修羅を、開放しきらぬ様にシーツへと押し付ける。その光景に夢の火照りがぶり返し、躰が猛ってきた。
擬態の解けた君は仰向けに苦しみ、項を庇いつつ横を向く。黒い突起が冴え冴えと、上質な黒革の如し光沢を見せた。
「色ボケ野郎、っ……あんたを突き動かしてた熱は、冷めたのか? ヤタガラス蹴って……ライドウ辞めるって事だろ!? そんな言葉、簡単に抜かす奴だったか? それに……友人ごっこなんて……今更、止めてくれ」
友人ごっこ、さて、誰かにも云われた気がする。それが誰であろうと問題無い。
今はただ戸惑っているだけ、そうであろう? 少しずつ絆してしまえば、君の中の不安の花も、紅から白へと生まれ変わるだろう。夜の気配を飛ばして、素直に愛し合う朝を迎えよう。もう頑なにならずとも良いのだ、人修羅の君よ。互いのMAGを啜り合い、かけがえのない存在だと確かめ合おう。本当の心を、水の流れる優しい場所で君と……僕と……
「平行世界の自分が死んだら、影響あるんじゃないのか。あんたを見てるとそう感じる」
僕を見ていると? ぼく?
「明さんが亡くなってから……あの人の何かが、まるであんたに流れ込んだみたいだ」
人修羅の声が……名を読んだ。それに一寸反応が出来なかった。己の頬を撫でる……傷痕の感触は無い。
いいや、違う、自分は……明だ。我は、俺は、日向明だ……
危ない、忘却する所だった――……
鳥の声がする。
ハッとして窓を見れば、もう日が射している。空は白み始めていた。
-了-