徒花
銀色の月は、針で刻む。
生まれた時より、共に鼓動を止めぬそれ。
「人間の時間というのは、それこそ一瞬だね」
傍の堕天使が、懐中時計を見る僕を横目に呟いた。
「ぼくが君を見初めて、友好関係を結んだのも一瞬」
「友好関係?フン…よく云う」
「君の居る国を脅かすモノ、それは君にとっても脅威だった?」
「葛葉ライドウの十四代目として存在しているのだから、そう捉えた、それだけだ」
「成る程…」
翼を広げたその姿は、これから屠るであろう天使の姿と一致する。
だが、まるで否定するかの様に、堕天使は角を撫ぜた。
「では、君が“紺野 夜”として存在した事は一瞬にも足りぬ程、という事だね」
うっそりと微笑む元悪友に、一瞥くれてやる。
「ライドウを貫いて、僕を見る者なぞ皆無に等しい」
「なら、どうして天に乗り込むのかな?」
「一人くらいは作っておきたくてね、皆無というのも味気無い」
懐中時計の蓋を閉じる。
秒針の音は消える。
ライドウでは無く、僕が契約した悪魔。
悪魔と呼ぶには、あまりにも弱々しい混沌の君。
あまりにも愚かしい君を、首だけでも再びこの手に。
「ねぇ、ルイ、僕は嫉妬深いから」
「…」
「何処かの誰かみたく、ね」
「…クスッ」
誰も居ない謁見の間、昔の空気が一瞬過ぎる。
きっとこの堕天使、僕が依存する矛先を変えた事を、アマラ深界で察知したのだろう。
そう、お前との戯れこそ、一瞬だったよ。
「君の故郷、荒らしてきて良い?」
銀の月を、外套の衣嚢へ落とし込む。
訊ねつつ視線を送れば、深い青色が光った。
「あのお方に宜しく」
「遇えたらね」
このほつれた身体を鋭く戒める、黒革の装具。
黒の学生服の上から、魔界の技師が造りたもうた物を巻く。
「お似合いだよ」
堕天使の賞賛に、鼻で笑って返す。
「黒曜石の鏡に映る僕は、人間?」
天辺から、爪先まで、暗闇に包まれている。
ホルスターさえも、今は悪魔の革。
「ふ…脆弱な人間だからこそ、与えたのではないか…」
嘲る声で、堕天使が述べる。
鏡に映る僕の胸元に、その白い指が滑る。
「此処の鼓動を少しでも長引かせる様に」
左胸、管を伝って、溝から落ちる。
黙ってそれを見ていた。
「リリスの蛇から拝借した革をね、黒く煮詰まった秘薬でコートするのだよ」
「へぇ、そんなに大層な物を」
「勿論さ、夜」
黒い尖った爪が、滑り込んだ装具隙間から、心臓を指差した。
「簡単に野垂れ死ぬなんて、愉しくないだろう…?」
暗に、踊れと云っている。微笑む残酷な堕天使。
「天上の光は、きっと君には毒だからな…クス…クスクス……」
「この手袋は?」
「カタキラウワの鞣革」
「道理で、伸びが良い、艶やかだ」
伸ばした手袋の指先を、鏡に当てる。
きゅ、と鏡面と革が擦れて鳴った。
その隙間から見える僕は、薄い笑みを浮かべている。
破壊の徒。
此処に映るのは、存在するのは…
背後の堕天使と同じ、嫉妬に狂う浅ましい愚者。
十四代目葛葉ライドウとして、ではない。
夜として、略奪しに往く。
混沌の悪魔を駆る、もう一度この手に。
それが帝都どころか…人の世に何かを及ぼそうとも…
人なぞ、勝手に混沌に身を沈めているのだから。
でも、追い求める、その対象は人でもある。
そして、脆弱な僕も。
「ああ、カオス、だ」
僕の呟きに、背後の堕天使が笑った。
『貴方様はその溢るる気を以ってして、我等を奮い立たせて下されば良いのです』
今まで、意識もしなかった。
ただ天使が下りて来て、我に傅く、それだけだった。
「して、この天が崇める偉大な君主は?」
『あのお方は姿を曝さぬ』
『下賤なる亡者共の眼に触れさせる事は、あるまじき事』
『おい、そこまでは云っておらぬ』
『秩序すら解さぬ愚者は殲滅されるべき事』
白い羽とは少し違う、雑兵より格上の天使が傍に付く。
「貴殿等、名は?」
両端に目配せし訊ねれば、気の強い方から先に名乗る。
『メルキセデク、誓うは貴方様の剣となる事』
反対側、四つ羽の天使が続ける。
『イスラフィール、貴方様が気遣う必要は在らぬ』
双方共、管に入らずに我の命を聞く。
成る程、管の必要を無くすだけある。
確かに、我の命とMAGひと振るいで、この天使達は翼をはためかせる。
「何故に我が救世主なのだ?」
そのまま聞けば、メルキセデク。
『生まれながらに天上の気を纏っておられた、当然の事』
反対からイスラフィール。
『我々に豊穣をもたらす人間の存在を、欠いてはならぬ…』
「つまり、我は条件一致の丁度良い存在だった、という事か」
問えば、一瞬の間の後、同時に発される号令。
『『あのお方の寵愛なさるは人』』
そこから読み取れるのは、人間である事の重要性。
天使でも悪魔でも駄目、という事か。
ヤハウェ…か。
そんなにも、敵となったルシファーに人間をぶつけたいか。
ルシファーが憎んだ、人間を…
「我とて、此処に恩が有る訳でも何でも無い」
両の翼が強張る。白い大理石の如き回廊に、我の靴音だけが響いた。
「…しかし、人修羅が望んだのだ、魔界と対峙する事を」
与えられた、眼に痛い純白の外套。翻し振り返る。
黒点を赦さぬその極端な清廉さが、この天を表している。
統制された、輪を乱す存在の無い世界…
鳴海所長の云っていた、平等な?
「確かに、下界は我にとって、虚像だらけであった」
『メシア様、下界は既に半数の者が我々の支配下にあるとの事』
『いずれは此処が現に成りまする…いえ、成らねばならぬ』
帝都守護、どころではない。
我が刻み付けられていた運命は、もっと…
「我の敬愛するは、ヤハウェでは非ず」
息を呑む、対面の天使達。だが、それが我の心根だ。嘘は吐かぬ。
「人修羅が居る此処の力になろう、それだけだ」
首のロザリオが揺れた。
罪の証。我に天上の聖人を語る資格なぞ…無きに等しいのだから。
ならば、己の居場所は此処でもあるまい。
しかし…彼と居たい浅ましいこの欲望が、彼ごと此処に縛り付けてしまえと云う。
『門が開きました、いずれ下から来るとの事』
硬質な黒光りする羽で、メルキセデクが云う。
此処に来てから思う事は、天使といっても…
酷く無機質だ、という事だった。
(悪魔に分類される筈だが…)
これなら魔界のならず者共の方が、いくらか生物的だ。
その金属の様な肌と、見えぬ眼からは感情が読み取れぬ。
『メシア様の連れる配下が我等二体だけでは…最善ではあらぬ』
イスラフィールの呟きに、思う事を返した。
「いいや、そう慌てずとも…良いだろう」
『油断はなりませぬ』
「向こうから来るであろうデビルサマナーは…少数しか連れて来ない」
訝しげなメルキセデクが顎に手の先をあてがう。
きっと動かぬ視線は我を射抜いている。
『何故、その様な事…』
「彼に仕える悪魔が多い訳では無い」
管に居る仲魔を抜けば、向こう側の悪魔達が仕えるのはライドウでは無い…
此方に今居る、人修羅だ。
その…いずれ混沌の王たる彼を、躍起になって連れ戻しに来るか?大群で…
いいや、それならば今までルシファーが黙っている方がおかしい。
(人修羅の動きを見ている…)
まだ、様子を見ている、そういう策謀なのか、ただ愉しんでいるだけなのか。
「きっと、ルシファーは軍を寄越さぬ…数だけなら此方が圧倒すると思われる」
面を見合わせ、ゆるやかに頷くメルキセデクとイスラフィール。
メシアの甘言は納得のものに変化したろうか?彼等の中で。
だが、それすらも、我の記憶を軋ませる。
戦い方…仲魔や部下の執り方…この思考回路…
(業斗…)
あの方は、天上の者ではなかった。
ただ純粋に、我を育成したのだ、十四代目葛葉雷堂として。
(貴方の采配が、今生きるとは)
皮肉だった。
こうして、帝都を見下す位置から、その成果を揮う事になろうとは。
だが、それを嘆く事は、歩みを止めろという事になる。
「あ…」
ふと、天使達の向こうから、君の声が。
それだけで、我の思考は中断する。
面をつい、とずらし確認した後、天使が両端に割れる。
その隙間から見える、白い衣の半人半魔。
「明さん」
その呼び方に、思わず破顔する、馬鹿な己。
「矢代君、君は無理に出なくとも良いというに」
「別に、向こうに情ある訳でも無いんで…」
すたすた、と歩み寄る、その脚の斑紋。
それを確認した天使は皆、じっとそれを見つめるのだ。
思う「何か文句が有るのか?」と。
望まぬ悪魔にされた彼を、寧ろ慈愛の精神で向かえるべきであろう?
貴殿等の天主はそれを赦さぬのか?
「俺が出れば、手が出せない奴も居ますよ…きっと」
云いながら、密やかに笑む君。
その妖しく光る金色に、半分の魔を感じる。
「だから、明さん…俺を使って下さい、結んでないですけど」
「契約の儀、か?」
「なくても、俺の中の悪魔が貴方に仕えます」
片眼で交わされる、言葉。
「開いてみてくれ…」
我は云いながら、人修羅の右瞼に指をそっとかすめた。
指が離れると同時に、ゆっくりと開いていく瞼。
其処には艶やかに潤む金色があった。
再生したその宝石に、口元がたわむ。
「……では、その間は一心同体か?」
ぴくり、と震える睫。一瞬の怯えの後の返事。
「は、い」
きっと、また眼を差し出す光景を思い描いているのだろう。
「そうか…ふ、ふふ」
突如笑う我に、傍の天使達が無言なのは、思うところがあるからか。
白い外套から出る、華奢な脚が、たたりと躍る。
「あ、あのっ」
「少し見ようか、外を」
天使を無視して、人修羅の腕を掴み回廊を流れる。
そう、別に我は天使と戯れたいのでは無い。
その為にテンプルナイトと成った訳では無い。
回廊を抜け、開けた外部に出た。空は白んでいる。
「本当に空に在る訳では無いのに、天上とはな」
「此処が、ですか?」
「地階より繋がっている…見てきたか?下を」
柵に手を掛け、ちらりと下を見下ろす人修羅。
「でも、まあまあ高そうですけど」
「唯一なる神なぞ、我にとっては君だけだ」
そう発すれば、下を見ていた君の、柵を掴む手がぎゅっとなる。
「此処で、その発言は不味いんじゃないです…」
「ふ…冗談」
「に聞こえなかった」
遮られた、我の常套句。
今回ばかりは君も苦笑しておらなんだ。
その彷徨う意思…そこまで一心同体を望むのか、我は。
「我が成果を上げれば、君を人に還せるかもしれぬのだ…」
その顰めた眉の上、短めの黒髪に白手袋を梳かす。
「その為なら、神の傀儡になろう」
「あ…明さん…」
「我の救世主は君だからな…君の為に此処の救世主になろうと、思った」
初めて、生き方を選んだのだ。
そうやって、自分を現に留めてくれた君を護る事が…望み。
「愛する神の為の世界を創ろう…」
我の唯一信ずるは、君。
功刀矢代。
君の存在が尊ばれる、素晴らしい世界。
もし天使の世界となったならば、その時には君の背に翼を移植しようか。
君を上級の者とする、それが真実になる世界。
おぞましい選民思考。信じる心。
「ロウの人形…か」
我の呟きに、人修羅がまばたきをする。
「え?蝋人形?えっ?」
そんな反応を彼にされ、引き戻されたかの様に我から微笑みが零れた。
(云い得て妙なり)
そして、つられて君も首を捻りつつ、困った様に微笑む。
ああ、そう、それで良いのだ。
我の真意は、この純白の外套に隠して、微笑みを塗しておこう。
不味い素地を、砂糖で誤魔化すのだ。
君に食まれる為に、偽ろう、まだ、この先も芝居をしよう。
踊る舞台が変わっただけだ。纏う衣装が変わっただけだ。
死ぬまで踊ろう、君の為だけに。
『…少な……』
背後からのぼそぼそとした声と、馬の嘶き。
振り返らずとも、数刻前に聞いた声音で誰かは認識出来る。
「僕に人望は無いですからね、あの城において」
『ヤシロ様の事…崇拝者結構、来ると思ったのに』
「違う、ルシファー閣下勅令で無いから、ですよ」
僕を先頭にして、蠢く闇色の集団。その数は多くない。
雷堂世界…その半壊しているヤタガラス本部から転移した、天上の領域。
『……閣下…勅令…でないから?…』
傍まで浮遊して寄り来る、黒馬の鼻面。
『…閣下、ヤシロ様の事、心配じゃないの?』
「ちょっとした反抗期程度にしか思っていないのでしょうね」
『あぁ…まあ、そりゃボクだって…性急とは思う、けど…さ…』
「だからこの集団は、余程血気盛んか…」
歩みつつ、横を見て続けた。
「人修羅を崇拝してる馬鹿の、どちらか」
僕を見る、セエレの眼が細まる。
『クズノハライドウは?』
「さぁ?どちらでしょう?」
僕の撹拌させた答えに、セエレは追求しなかった。
「ところで、貴方は何故参加したのです?」
問い質すと、馬上でう〜ん、と頭を傾けて脚をぶらつかせる悪魔。
『…ちょっと帰郷?』
「此処が好きで無いのに?」
『……だって、クズノハライドウ、此処の構造、知らないでしょ…?』
つい、と馬の首を抱き締め、前へと腰を寄せるセエレ。
白金の髪が、黒馬の首にさらさらと掛かった。
『…後ろ、乗っていいよ』
前にも聞いた台詞。
思わず口の端がすい、と上がる。
「宜しいのですか?僕は人修羅を個人的に連れ戻したいだけですよ」
『…ブエルも本当は来たがってたんだけど…』
「へぇ、彼が」
『常駐してろって、他にたしなめられて、ぶーたれてたの…』
「フフッ、それはそうだ、治療師をこんな私情で割かれては困るでしょうに」
『……ボクは暇だから…』
「ありがとうございます」
『………悪名高いデビルサマナーの戦い、ちょっと興味ある…』
その素直な悪魔の呟きに、ククッ、と哂いが漏れた。
「お見せ出来ると思いますよ」
白が眼に痛い。
神殿の色だけでない、羽ばたく無数の邪魔者達の色。
「すぐにね」
捨て駒のエンジェル達が、弾幕の如く此方に特攻してくる。
きっと出方を窺っているであろう、更に向こう側を意識する。
『アナキスト』
馬の名だろうか、そう唱えてぶらつかせていた脚をばしりと打つセエレ。
嘶き、躍り出る。
僕が突っ込みたいという意思表示をせずとも、滲むMAGで判ったのか。
「蹴散らせ」
与えられた黒革のホルスターから、銀色に光る管を抜く。
群れ寄る半裸の天使達を、疾風に巻き上げつつ光と現れた反逆の神。
『これはこれは、聖人気取りの集団ですか?』
舞い散る羽と、赤い雫の中、不敵に笑むアマツミカボシ。
その疾風に啼く姿を見て、改めて僕に向き直った。
『エンジェル相手に私ですか』
「あの露出狂はボルテクスで見た類だからね」
『ああ、成る程、ではテンペストの餌食にしましょうか』
そう、僕等の居た帝都の類では無いのだ。疾風の術が効く。
先刻のテンペストから逃れた残党共が腕を翳す、術の準備態勢。
腰から抜いたリボルバーで、その腕を狙う。
被弾した天使が、一瞬弾かれた様に両腕を両端に移動させる。
その隙間、首の金具を狙い定め、引き金を引く。
甲高い音が一瞬鳴ると、その金具で歯止めを失った黒いレザーが捲れた。
『!!』
豪快に胸を露出させたエンジェルが、顔面で唯一見えている口元を歪ませる。
打ち抜かれて穴の開いた手で、その豊かな胸元を覆う。
「天使ならば羞恥して然るべきだろう?」
フフ、と哂って、その向こう側、上空、回りこんでいた者にも同じ様に。
連射の速度で次々に、その胸元を暴いていく。
『非道者!』
『猥雑なり!』
方々からヒステリックに僕を詰る声。
普段は聞けぬその、女性からの糾弾が、まあまあ心地好い。
「天使様のが拝めて眼福だねぇ?…ククッ」
皮肉ってリボルバーの装填を流れる様に行う。
背後から魔界悪魔達の口笛がした。
『…確かに悪魔…』
前からのセエレの反応に、益々気分が高揚する。
「腕が邪魔で見えない」
云いながら、アマツミカボシに目配せする。
『ふふ、御衣』
ひらりと薄袖を優雅になびかせるアマツミカボシ。
空で踊る様に、腕から紡ぎ出す風の刃。
「邪魔な腕は取り払え」
その命と共に、MAGを彼に念じ、流し込む。
意思疎通と技の発動で、一気に引きずり出される僕の魔力。
周囲の風が強まり、翼からブチブチと白羽根が毟り取られていく。
つんざく悲鳴。ごうごうと啼く風の音に掻き消えて。色々もいでいく。
その疾風に巻き上げられ、上から降ってきたモノを抜刀し、貫く。
「隠すなど邪道だろう?」
刀の先には、先刻まで胸を隠していた腕が突き刺さっていた。
まるで串刺し肉みたいなそれは、手首から本来鎖に繋がれている。
まるで神の奴隷、哀れな奴等。
「ねえ、どう往けば良いでしょうかね?」
セエレに訊ねつつ、向かって来たパワー達を斬り伏せる。
先端に刺さっていた腕の鎖が、鞭の如くしなり穿つ。能天使の脳を揺らす。
『…多分、こっち、かな?』
黒馬が向きを定め、ふわりと空を翔る。
飛べる悪魔が背後に追従してくる気配。
此方の数は圧倒的に少ないのだ、最奥まで、一気に進むが最良。
僕の身体には無数のMAGが在る訳でも無し。
そう、ただ望むのは、人修羅の心に縋り続けるあの傀儡。
僕の影、あれを叩く事。
『…ん』
セエレの息遣いに、前方を注意深く見る。
燃える車輪が突撃してくるその光景。
『…跳べ』
淡々と述べられるその号令に、忠実な黒馬はひと跳ねした。
神殿の壁に跳び、その白い石壁を蹴りつける。
跳ね返りつつ、その焔の輪と対峙する。
『裏切り、盗人に墜ちたセエレではないか』
止まった車輪はソロネだ。
その黒いフードの下から向けられるのは、間違いの無い敵意。
『…盗人じゃないよ…失せもの探しだって…』
『ルシファーについて堕天した罪は重いぞ!』
『…だから……ボクは別に…ヤハウェが一番上とか、思ってない…』
そのぼそぼそと告げられた挑発に等しい返答。
怒りの車輪は焔を強くした。
『ん……怒らせちゃった……』
空で停滞しつつ、間合いギリギリで黒馬を遊歩させるセエレ。
反省の色の見えない声で、ぼそりと呟いた。
僕は腕の既に抜け落ちた刃先を車輪に向け、セエレに説いた。
「貧乏人は心に余裕が無いのですよ」
『…ぁあ、火の車だから?…』
「御名答」
ニタリと哂えば、その火の車は僕等に向かって回転速度を上げて来た。
戻ったアマツミカボシの隣に差し込まれた馴染みの管をすい、と引き抜く。
『んふっ、お・待・た・せ』
しな垂れて僕に脚を絡ませるアルラウネ。
『あらぁ、今日はいつにも増して真っ黒ねぇ』
「指先までね」
『先日はごめんなさいねぇ、アタシの棘で』
その脚の腿を、手袋の先で撫ぜる。
「いいや、構わぬよ」
するすると上がっていくと、アルラウネの吐息も舞い上がる。
『ぁはん』
「傷口が傷み熱を持っているのだよねぇ」
指先で胸をひと揉みして、その赤い唇に舌でくすぐった後、耳元に囁く。
「冷やしておくれ」
『イイっ』
「息の根が止まる程にね」
『イイわァ…っ!』
胸元に遊ばせた僕の腕は棘に絡まれ、その指先で燃え滾るソロネを指した。
アルラウネの身体が震え、冷気が矢の様にそこから放たれていく。
しかし、そのブフ・ラティに鎮火し切らぬ車輪。
「フフ、もっとイけるだろう?」
『ん!んふぅ…ん』
囁いて、薔薇色の唇を食む。流し込む。
すると、甘い呻きと同時に彼女の薔薇が咲き乱れる。
僕のMAGを供物にした薔薇が、キン、と凍る。
絶対零度に昇華した熱量が、僕等の指し示す指先から火の車輪を射る。
ソロネは炎が完全鎮火した、パキリと凍りついて。
空で止まるそれは当然重力に支配され、墜落していく。
下を巡回し、此方の隙を窺っていたヴァーチャー達を数体下敷きにして終幕。
「あははっ…『車輪の下』とはまさに」
『何それぇ?』
「神様が嫌いになる話」
『カミサマ?あは…んっ、んふ、ライドウの口から出るとキモいわ』
「此処の奴等に読ませてやりたいよ」
仕上げに下唇を啄ばんで、管をトントン、と指先に叩く。
欲求不満な表情で光と共に帰っていくアルラウネ。
『…背中の半分は灼熱で、半分は極寒だった……』
髪にまとわりついた凍れる花びらを摘まんで、パキパキと砕くセエレ。
「すいませんね、僕の仲間は随分享楽的なもので」
『…似るんだね』
誰に、とは云わぬセエレが、そのまま脚で愛馬を動かす。
横胎を、その細い脚で打たれたアナキスト。
名前の通り、統制された神殿を蹄で砕きつつ駆け上がる。
「貴方と愛馬もそっくりですね」
『……ん』
前に語りかければ、恐らく肯定と取れるその相槌。
雑兵は、追従してきた暗闇の悪魔達が喰い合いして潰している。
『……ヤシロ様が…襲い掛かってきたら、どうするの?』
黒馬に跨り刀を振るう僕に、天使の返り血が飛ぶ。
その痛みに嘆き、怒れる感情のこもったMAGを肌から吸う。
「セエレ、それは、愚問というものっ」
プリンシパリティの杖先から術が迸る前に、両断する。
飛んだ首の鋭利な冠が、僕の頬を裂いた。
天使の血と混ざり合う。
「僕はねっ、人修羅を、斬るのを厭わぬのですよっ」
ああ、昂ぶってくる。
思い出せば思い出す程に、狂おしく求める、僕の悪魔を。
どうして、こんな小奇麗な虚構に居る?
こんな処で、君は赦されたつもりなのか?
中が腐った食材を見分けられるのに、これは見えぬのか?
「此処がそんなに良いなら、脅威となる前に潰しませう!あの半人半魔を!」
引き攣る身体、だが、戒める黒革のホルスターが支える。
廻る気は陰。
赤黒くてらりと艶めく外套は重い。
『クズノハ…』
「拾ったのは僕だ!捨てるのも僕だけに赦される…!」
穿つ蹄の音が途絶えた。
壁が消えた。
一気に開けた空間、白い空虚な空と霧。
辿り着いたエデンには…アダムもイヴも居ない。
風にはためく白い外套、一閃される蒼い紋様、整然とした十字。
「…ライドウ」
対面するは、僕の影…
両側に、見慣れぬ天使を従えて、僕を真っ直ぐに貫く片眼。
黒馬から、流れる様にするりと飛び降りた。
セエレは何も云わない、僕が勝手にした事を理解している。
「退いて下さいな」
『…どうして…』
「左の天使、疾風を起こす翼の形状だ」
『ぁあ……確かに、ボクは風に弱い、ね』
「帰りの足が無くなるのも嫌ですから」
哂って云えば、上体を上げて吼える馬。
後ろ脚を軸にしてくるりと方向転換。
『…じゃ、気が向いたら、後で来る…』
「どうも」
セエレに対して追撃は無いらしい、前方の彼等は追わせる様子を見せない。
吹き荒ぶ風が、心を乾燥させる。
潤いなぞ、求めてはいない。
「やあ、御無沙汰」
「…そう経っておらぬが」
「随分と漂白されたねぇ?脳内も洗脳済みか?」
「我は自我に従い此処に立っている…!」
白い外套が揺れ、構えるのはやはり大太刀。
そこは結局変わらぬのか、烏の頃のままに。
「自我…ねぇ」
「貴殿とは相容れぬ、それは確かだろう」
「人修羅で全ての指針が決まる、それが自我?」
ぴくり、とその頬が引き攣る。
きっと、同じ事を云われたならば、鏡の様に僕も引き攣るだろう。
「この、嘘で塗り固められた箱庭で飼い殺されたら?」
「人修羅の彼に生かされるこの身…彼が居る場所が我の場所だ」
「ほざけ」
その場所の占有権は誰に有った?
それを考える事も無く、堂々と云い張るお前は…やはり邪魔でしかない。
僕の動きを、僕の想いを、鏡の如く真似するな。
砕け散れば良い。
「掃討するぞ、お前達」
胸元から引き抜くと同時に、管の先端、環が廻る。
溢れる光は僕の両端に構えて、相手を見据えた。
『へっ、白い旦那が見えるぜ?俺まぁだ酔ってんのか?』
両手に構えた刀を交差させ、その向こう側に敵を捉えるヨシツネ。
「お前はシラフでも頭が弱いからな」
『痺れる褒め言葉ありがとよぉ!』
同時に駆け出す。
雷堂の左に居た天使が赤い翼を広げた。攻撃の前兆。
『音速ノ刃!脚ニクル!』
脳内に直接響くイヌガミの声。
ヨシツネと共に上へ跳ぶ、すると先刻の位置に一瞬見えた空間の歪み。
『逸レタ!』
続くイヌガミの号令に、宙で軌道変換なぞ出来ぬ僕は刀を構える。
受け流せる術ならば、零に。不可だろうが、軽減は意地でもする。
『八艘飛びィ!』
その咆哮に視線を流せば、固い篭手の感触に肩が包まれた。
ヨシツネの腕に運ばれつつ、空で散り散りになり、各々石畳の上に着地する。
『十八番出たぁ〜ッ!俺様の流れに戦いの潮も逆らえねぇぜ』
「流石は烏帽子の中まで筋肉」
せせら笑い、刀を片手に持ち替える僕。
ヨシツネが鎧をがしゃりと鳴らして一瞥くれてきた。
『助けたのによ〜ちきしょう』
不満を漏らしつつ、あの赤い翼に躍りかかって往く彼。
ご自慢のその飛びで音速刃を掻い潜り、所々を裂かれながらに迫る。
僕の方に迫るは残りの二名。
『ふん、あの鎧武者、小賢しい事』
鋼の如き羽で舞う天使と、同時に斬りこんでくる雷堂。
イヌガミの意識が読む、その軌道。
大太刀は横から薙いでくる、が、天使は背後に回る。
片手にもったリボルバーを背後に構え、発砲しつつ、片手の刀で大太刀を流す。
いや、流しきれるか?
「っ」
「折れてしまえ!ライドウ!」
一気に腕を奔る痺れ。指が弛み、落としそうになる柄。
瞬間、その左手に魔力を集中させ、持ち直す。
手袋の中で斑紋が光り、ぐぐ、ときつく握り締めた、筋力でなく魔力で。
『ライドウ!背中!』
そのイヌガミの声に弾かれた様に、再度発砲をしたが、それを厭わずに来る衝撃。
「かはぁ、っ」
腰骨の軋む音、食い縛り大太刀を流して背後に向き直りつ跳ぶ。
脚を虚空に泳がせたままの天使が、嗤った気がする。
よく見れば筋肉質な四肢。意外…肉弾系だったのか。
他所で見た“ツイスターキック”なる技だ、恐らく。
『汚い烏は残飯の啄ばみ過ぎで、骨が脆い事』
そんな嫌味を聞きつつ着地すれば、ぐらりとおかしい重心。骨が逝っているな。
傍に召し寄せたイヌガミから発される簡単な回復の術で、踏み止まる。
「フ、フフ…しかし胃はお陰で丈夫さ…」
返答して、口内に溜まった血を横に吐き捨てた。
白い石畳が赤く汚れて、天使が唸り声を上げたのが可笑しい。
『下賤な血で汚すなぞ、赦されぬ事』
羽音というよりは、金切り音を立ててはためく翼。
間合いを計る雷堂を遠目に確認しつつ、その天使を挑発しにかかる僕。
リボルバーを仕舞い、刀を違う手に持ち替える。
「何でしたら、此処の床上で失禁でもして差し上げましょうか?」
黒鋼の羽がザリザリと開き切って、四肢の筋肉が隆起する天使。
『…ふざけた事』
「あっはははっ、聖人様方の汚物は地上に垂れ流しだろうからね」
僕の高笑いを皮切りに、飛び込んできた。
「メルキセデク!乗るな!」
雷堂の叫び、だが遅い。
刀で、その腕の突きの軌道を逸らせる。
逸れた拳は左胸に激突する、と思ったろう。
だが、僕はそれを受け止めた、左の掌で。
『…!?如何なる、事』
一見すれば“人間の手”に受け止められ、唖然としている天使。
ニタリ、と哂う僕は、獲物を捕らえた蜘蛛の気分だった。
「ヤハウェの創りたもうた人間の手で潰されるのは如何?」
その硬質な拳を左手で握り締め、更に魔力を流し込む。
人修羅の力の出し方を意識する。
『ぁぁああああぐああ!!』
包んでいた僕の左手は、握り拳になった。
中で爆ぜた肉が飛び散って、金属がミキミキと砕け散ったからだ。
眩暈を起こした患者の様に、ふらりと片腕を押さえてよろけるメルキセデク。
此方に飛び掛らんとする雷堂に、イヌガミがファイアブレスで遮断する。
「残念でした…」
ぐっ、と力を篭めて、その鉄火面の横っ面に思い切り蹴りを喰らわせた。
ビタン、と叩きつけられ、石畳を体液で汚し、砕けた羽で更に傷つけたこの天使。
その愚かしい頭を、靴底で踏んでやる。
「脚技は僕、負ける気がしないのでね」
そうやって固定しつつ、その胎を刀で貫いた。
『がっがああああああ』
「ああ煩い…結局自分で汚してるしねぇ…?ククッ」
『ヒ、ヒギィッ』
「あぁ…訂正するよ“ヤハウェ”では無いね…慈悲も糞もありゃしない」
『愚弄、するなぞ、それこそ愚かしい…事』
「偉そうに粛清する“エロヒム”だな、ククク…エロヒムエッサイム?かい?」
『ァ、キ、サマ…』
「丁度良くお前は黒い羽だ…生贄の雌鳥の如く、ね」
『…アク、マ』
「Eloim, Essaim,frugativi et appelavi……フ、クク…ッ…あははは!!」
ああ、破壊だ。
殺戮だ、犠牲だ、契約の上に在る命達。
所詮、天使だろうが悪魔だろうが…人間だろうが。
使役の上に成り立つ世界なのだ。
「ははは…ぁ…っはぁっ…」
流れる血、それに沿わせる魔力、唱え挙げる呪文。
なのにどうして望む悪魔は現れない。
ねえ、どうして、こんなに残酷なまでの所業を繰る僕に
悪魔である君が寄り添わぬ?
人間を捨てて、君にこんなにも近付いたのに。
過去からの、密やかな望みさえ捨て…切り離し…君を嘲笑い
人に戻ろうとする君を、僕に近く置いておきたかったのに…
矢代。
あとどれだけ壊せば、戻って来る?愚かな人修羅よ。
何をすれば、再び僕の下に、召喚される?
雷堂を壊せば?君を壊せば?僕を壊せば?
「矢代…」
来い…
「僕の手に、縋れ…」
ボルテクスの、あの瞬間の、あの眼で僕を視ろ…
世界で、たった独り、同じ生物なぞ居ないのだと途方に暮れ、彷徨う。
惨めで、哀れな、人を希う寂しい愚者。
使役する、君は、僕の、分身。
「お前を使役するデビルサマナーの名を唱えろッ」