初夢

 
「そら、其方に往ったぞ、功刀君」
ヨシツネの刀と、互い違いに斬り削いで舞う。
その、間隔を数拍ずらした厭らしい攻撃に、リリスが蛇を引っ込める。
「あんたで始末しろよ…!」
じわりと、嫌悪を滲ませた返答。
人修羅は視線を、そのチロチロと舌を踊らせる蛇に向けた。
うねる大蛇の隙間から零れた豊かな胸、一瞬それに頬を染めつつ、手を翳す。
恥らう頬の朱と、指先の朱が君を濡らし上げた。
続いて、その朱は外法の属を焼き尽くすのだ。
『ひゅう、やっぱし奴の焔おっかねえのよな』
黒く爛れ始めたリリスを眺めつつ、傍の烏帽子が苦そうに笑う。
「それ位しか特筆すべき攻撃法が無い」
哂って云ってみれば、リリスを乾いた眼で見下ろす人修羅が面を上げて見つめてくる。
彼の指先に燻る焔の様に、何かを云い掛けては微かに揺れ惑う、その視線。
『最近の旦那等、喧嘩ばっかじゃあねえのかい』
へらりと笑うヨシツネを、もうひと哂いして管に戻す。
一瞬震動を感じたその管の隣、それを空いた手指で撫ぜる。
「迎え入れよう、外法の淑女」
かつりかつりとヒールを鳴らして歩み寄れば、金色の視線で応える悪魔。
だが、その金の強さは、いつも見ているものより弱い。
『乱暴ね…』
「交渉した所で、誘いに乗る程軽い女性に見えなかったので」
『あら、評価高いのかしら?わたし…』
崩れた御髪を三本指で掻きあげて、やや辛そうに発する暗色の唇。
「ふ、それこそ蛇足だろう?」
見えない抵抗を許可と判断し、空管を振り翳した。
零れるMAGに、瞬間、癒しを感じて恍惚となるリリス。封じられて往く。
空気に融け込んだ蛍光色の揺らぎの向こう、今の悪魔より強い金色が射抜いてくる。
「交渉に応じなくても、欲しいものは奪う癖に」
細められるそれが、まるで晦の月を思わせる。
「ライドウ…」
その呼びは、誰を指しているのか、感じる度に痛い。
「文句するのかい?」
「文句の無い時なんか、無い」
外套を靡かせ、彼に寄り添う。
この上背と、ヒールの厚みで見下して、その睨み付けてくる顔を、掌で鳴らした。
上質の和堤が如き音、アカラナに響く。
「っ」
抑えた悲鳴が、やや遅れて囀る。美しく、輪唱する。
「そうやって、刃向かう悪魔が居るからこそ…だろう?功刀君?」
嗚呼、どうしてか、今となっては自然と出る、この仕打ち、言の葉。
瞑られた黄金の眼、それにやはり月を感じる。
そういえば、今宵は年の晦日…晦のそれに連想し、やや思いを馳せる。
「結局君は、年が明けても代わり映えも無さそうで」
皮肉めいた衣を着せた。だが、それの裸の声は…
君まで、変わらなくて良かった、という想い。
「あんたは…相変わらずの外道だったな」
「有難う」
「でも」
言いよどむ人修羅を見る、叩かれた頬の朱がまだ消えぬ顔。
それは少し、疑惑めいて。此方まで不安になる。
「…でも?」
「……いいや、別に…」
何処か、おかしかったろうか。
まだ、まだまだ足りぬのか?ライドウの…夜の成分が。
「さて、帰還しようか。リリスを業魔殿にて診せたいからね」
「で、新年早々扱き使う算段か?」
「即戦力に成り得るなら」
「鬼…」
侮蔑の眼差し…それに笑みで返す。
空虚とも云える空間、アカラナ自体に時の流れは無い。
掻い潜り戻る路、癖で、一瞬あちら側に往きそうになる。
だが、君がその一辺を通る瞬間、同じ様に心をざわめかせるを、知っている。
この肉体が感じ取る、サマナーと悪魔としての、MAGの糸が揺れるから。
「…雷堂さん」
君のほんの微かな、その呟きが琴線に触れる。
此処で修行ばかりしていた影は、もう居ない。
「その名前、紛らわしいから止めてくれ給え」
刀の鞘で、柄を傾けて叱咤する。
黒い斑紋の脛を打ち据えれば、眉を顰めて睨み上げてくる金。
その胸元、着物の袷から覗く銀色が、この眼に映るれば…滲み出る愉悦。
「此処で真面目に鍛錬してたんだ」
「知っているよ」
「あんたと違って」
「その割には、僕より弱かったねぇ、クス…」
キッと踵を返し、飛んできたその拳を、受け止め流す。
先刻打った脚を、この妙に長く感じる脚と絡ませ、閃かせた。
「うぐぁっ」
項の角が床を抉る。その脳髄に響きそうな衝撃に眼を剥く人修羅。
関節を捻り、そのまま床に押し倒しつつ…耳元で囁いてみた。
「もうアレは消えた、弱かったからだ」
「っ…ぐ…」
「惑わせた君とて同罪……だろう?」
震えている首筋の、薄っすらと隆起する骨を撫ぜる。
其処に零れ落ちる銀色を、指に拾い上げた。
「せいぜい、僕の支配下で贖い給えよ?人修羅?」
冷たい十字架。君の、温もりの薄い悪魔の肌で、更に冷えている。
しゃら、とその細い鎖を首に巻きつけ高笑い。
どうだろう、これで、間違い無いだろうか?
君の隣に居たサマナーは、こうだったろうか?
押し退けてくる君の手脚を、やんわり押さえつ思うのは、間違い探し。
「煩い……煩いっ!」
首の鎖を掻き毟って叫ぶ君に、問いたくても、問えない。
どかりと胎に膝を割り込ませてきたので、いい加減上から退いた。
肩で息するその姿に、加虐の心が萌え出す。
いいや、可笑しいだろう、こんなの…この肉体の、記憶だ。
我は、違う。
「仕事納めに、もうひとつくらいこなそうか?功刀君」
寧ろ動き回っていなければ、この衝動を抑えきれぬ。
嗚呼、本当は…ずっと傍で、抱き寄せたいのに。
優しい揺り篭に成りたいのに。
君に、正体を明かすなぞ…そんな事。



『全く…この一年近く、お主の動向には肝を冷やしたわ』
「でしょうね」
事務所のストーブが、じりじりとその黒猫の尾を炙っている。
見目は同一なのだが、やはり違う。
叱咤というよりかは…呆れ。
そして何より、放任気味であった、此方の童子。
ライドウが…恐らくこの猫をそうさせたのだろう。
我の様に、口を挟まれずとも、充分過ぎた十四代目…
『新たな年も、こうしてヤタガラスに居れる事を感謝しろよ』
「お叱りなら、もう随分受けましたし、良いでしょうに」
『そういう問題では無いわ!』
身代わりでも置いてあったのだろうか、里の座敷牢からいつの間にやら消えていたライドウ。
格子の中は蛻の殻。
この体に成った我は、怒れる烏の群れに飛び込む羽目になったのだ。
思い出すと、ぞわりと悪寒のする、おぞましい罰。
あんな仕打ち…我の機関では起こり得ぬ。
この肉を穿つ鞭は、人修羅の爪の痛みと全くの別物であった。
ライドウは…こんな物を、もうずっと受け入れて生きてきたのか。
そう思えば、負けれる筈も無く。
奥歯を喰い縛り、悲鳴を喉奥に押し込めた。
昔吐いた言葉を、脳裏に蘇らせる…
“なぁ紺野よ!!貴殿の背の何倍も、美味しかろう!?”
当然だ。
残酷な事をと、今更…胸が澱む。
しかも…鞭の後には……後には…
「ライドウ」
その飄々とした声音に、視線を猫から外した。
「顔色、悪くないかお前?大丈夫かぁ?」
椅子に座って書類を整える所長が、訝しげに我を見る。
「問題ありませんよ」
「年越しの瞬間くらいは仕事外せよ?」
「尽力します」
「また麻雀しようぜ麻雀!矢代君も入れてさあ〜」
快活に、しかし強制の意は含ませずに笑う鳴海所長。
我の見てきたあの人とは違う、その朗らかさに、最初は冷や汗が出そうだった。
「残念ながら、今年最後の依頼には続けて同行させますよ」
「ええっ、おい待てよ、矢代君には御節を作ってもらうという大任がだなあライドウ…」
「独り寂しく出前でも取って下さいな」
文句を垂れつつも笑顔の所長、その差し出してきた地図を受け取る際…
反射的に身構えてしまう。我の知る鳴海なれば、笑顔のまま攻撃してきそうで。
「最後だからって気ぃ抜くんじゃないぞ?」
「ええ…」
しかし、この鳴海は、笑顔のまま見送るのだ。
「おや、ゴウトちゃんは行かないのかにゃ〜?」
猫に猫撫で声をかけつつ、葉巻を指に踊らせる。
それをストーブの傍に見上げて、童子はフン、と鼻を鳴らした。
『人修羅が傍に居れば、ある意味安心だからな』
まるでその言葉は、ライドウを突き抜けて我を嗤っているかの様にすら聞こえる。
「あっはは、俺と年越ししてくれるのぉ?優しいなあもう」
『ほざけ』
ミャウと応え、そのまま丸まり猫玉になった。
軽く会釈して、受け取った地図を外套の衣嚢へと忍ばせる。
暖かな空気の事務所を抜け出でて、廊下の冷気を風切って進む。
この、階段を下るヒールの音にも、もう慣れた。
これでよく戦えるものだ、と、出逢った時から思っていたのだが。
案外、踵の厚みが有る方が楽だったりする事に気付く。
白く霜の羽衣を纏う、扉の硝子…その向こう側から、此方を窺い見る視線。
下り往く我に合わせて、その視線が下がってゆく。
小さな唇が、ぱくぱくと意を告げる。
“ お そ い ”
その無意識に心をくすぐる仕草が、辛い。
ゆるりと綻びそうになる口元を引き締めて、くい、と吊り上げた。
気付かれぬ様、深呼吸する。
我は、雷堂に非ず…葛葉ライドウ……紺野。
「寒いなら、擬態でも解いたらどうだい?」
開け放ち、まず第一声。
「嫌だ。そもそも、あんたがキレるだろ、そんな事したら」
着物の上に別珍のインバネス。
深い黒が…彼を包んでいる、所有者の色が滲んだそれ。
「今年で済ませれそうなものが矢張り有った、今から向かうよ」
「仕事熱心な事で…」
さらりと流す口調、その人修羅の冷たい視線に哂って返し、衣嚢をさぐる。
少し煙草の薫りが移ったその書類を広げる。
簡単な説明と、地図。
「……こ、此処、は」
紙の上に展開された場所を見るなり、眩暈がした。思わず声が…
「ライドウ…?」
いけない、動揺しては。
「…少し遠いね、まあ、歩きで行ける範囲ではあるが」
「コウリュウは?」
「上の方が寒いけど?」
「…だったな、遠慮しておく。擬態解いても寒い位だ」
「それに街中で降りれぬからね…年末に神が降臨したと勘違いされても困るだろう?」
襟を寄せ、白い息を吐く人修羅。      
同じく、我の…この肉体の呼吸も白かった。
どれだけ冷たい君とて、胎内は熱いのだろうか…
その腕で包まれたなら、微かに温かなのだろうか…
抱擁、が、酷く遠い。




「そろそろ明けますよ、明」
「明ける、というのは、同じ字だなあ、いや〜目出度い目出度い」
囲炉裏を囲む、小父様と小母様…と、俺。
「こんなに遅くまで起きて良いのは、今宵だけですよ?」
ふわりと微笑む小母様は、そのまま初詣に行ける様に、薄化粧。
「ほら、寒いでしょうに…おいでなさいな」
寝着のままうつらうつらとしていた俺を、ぐい、と引っ張り寄せる。
おしろいの匂い…
「おれ、まだねむくないです」
「嘘仰いな、振り子になってたわよ?うふふ」
ぬくもり…
「もう今年の稽古は閉めたろう?拍子を踏む必要は無いぞ明」
かっかと笑いながら、小父様が火箸で朱を突く。
火箸でさくさくと、炭化した蒔を崩している、芳ばしい粉が舞う。
竹細工の支柱から吊るされる、鯛の横木がゆらゆら泳ぐ、灼熱の海。
「年賀の公演は、きっと上手く踊れるわ、毎日頑張っているものねえ?」
小母様の細長い指が、左の旋毛から髪を撫ぜ、我ながら癖の有るもみあげで遊ぶ。
それがくすぐったくて、でも嬉しくて。
「まだまだ、へたくそだから…です」
「もう、明ったら…稽古場でないのだから、もっと砕けなさいな」
棄てられていた俺を、拾い上げ、こんなにも情愛を注いでくれる二人。
幼くも感じていた、罪悪感…
何者かも解らぬ俺を、そのまま跡取りに、と…育てるこの一座の行方が怖い。
申し訳無さ…本当に、此処に居て良いのかという、不安。
「母と呼んで頂戴、明…」
穏やかな声音の後、くたり、と囲炉裏の煤が舞った。
轟々とした吐息が鎮まってゆく…火が、微かになれば、冷えが周囲から這い寄る。
「おれ、とってきます!」
柔らかな指先を押し返し、その膝から飛び立つ。
「明、外は今宵、雪模様よ…良いわ、私が行きましょうね」
「おば様は待ってて、雪見がてら行ってくるから」
半分はこじ付けだ。云い様の無い不安が急き立てる…この居場所から。
すれば、乾いた頬を撫でて、小父様が頷く。
「おい、明に行かせておやり、そういう好意は歓んで受けるべきだろう」
「ですが、寒いですよお前様」
「なぁに、すぐ裏手の納屋だ、風邪をこじらせる距離でも無かろうて、なあ明?」
こくこくと頷けば、小母様は眉を八の字にして、自らの羽織を寄越す。
お気に入りと思われる、花喰鳥の柄。
人肌のぬくもりを纏って、緩みそうな唇を噛み締めた。
「明や、外の白はあわゆきと違うからなぁ、食べん様にせんと」
「おじ様!」
腹からの笑い、まるで舞台上で鬼が笑うかの如く、快活に。
「そこまでお腹すいてないよ!おれっ」
思わず云い返す。確かに、あの頃からあわゆきが好きだった。
稽古の後、用意された御褒美…いつも甘やかな和菓子。
照れから憤慨しつつ、がらりと障子と襖を開き、続けて廊下を走る。
「おや、明坊」
「まだ夜明けは少しばかり早いでしょうに、くすくす」
使用人の笑いを潜り抜け、小母様の羽織をなびかせる。
爪皮の掛かった雪下駄に足袋の脚を突っかけ、ざりざりと門を開く。
吐く息の白さが、深夜の空気を感じさせる。
不思議と星も月も見えず、一面の白だけが、自ら発光でもするかの如く輝いていた。
納屋までの小路を、さくさくと踏めば、足跡という名の模様が出来上がる。
角型にぎゅう、と押されたその浅い壁面を見ると、脳裏を過ぎる…
白くて優しく甘い、ふわりと舌に溶ける菓子。
そんな夢想にはっとして、首を振るいそれを払い除ける。
ぎい、ぎい、と、やや大きめな納屋の木扉を開き、真っ暗な其処を覗く。
見えなくとも、位置は把握していた。横着して灯りすら持たずに来たのだ。
闇に、脚を踏み入れる。閉じ込められた冷気が埃と共に飛散する。
数歩、歩いた先で少し屈めば、指先に触れる香木の感触。
これが燃え朽ちる瞬間に、ふわりと薫るのが好きだった。
いくつか袖に携え、ふと思考する。あまり持っては羽織が汚れてしまうかと。
その瞬間だった。
頬に、微かに触れた何かを感じ、面だけ上げる。
白いそれが、雪かと思い見上げたのだが…
「…ぁ」
頭上、視線の先に窓なぞ無い。納屋の中、雪は降らぬ。
―――羽根。
白い羽根の舞う、向こう側に…
薄金色の、光る…相貌が。
『ミツケタ』
「ひっ」
はっきりと、あの瞬間、まみえたのだ。
「はっ、はっ…」
一片腕の中から転げ落ちた薪が、子気味良い音を立てて納屋の床を撥ねた。
「おば様っ!おじ様っ!」
表口から座敷まで、一気に駆け抜け、驚き此方を見た養父母。
「…ど、どうしたの明!?」
「泥棒でも居たのか?」
嗚呼、泣きそうになった、あの瞬間。
温かく、心配を見せてくれる二人と空間。
しかし、これを述べた俺は、なんと駄目な子だったろう。
「て、て…天使、が!」
視えぬものを、声高に叫ぶ。
「天使がいた!!しろい…羽根の…っ!」
皆に、視えぬものが視える、異端に成ったのだ。
貴方達の息子は、異端だ、と、証明したのだ。




「こんばんは」
外面は、殆ど同じか…その懐かしい屋敷を見て、記憶が脳内を巡る。
出てきた使用人が、此方を見る、あっ、という顔をした。
「鳴海探偵社の者です、話は通っているのでしょうか」
「ええ!はいはい!どうぞお上がり下さい」
「では失礼…」
門戸の注連飾りの、ゆずり葉が虚しい。
子宝には、やはり恵まれていないのだろうか。余計な思考がまた巡る。
幼い頃には鳴らなかった床板が、ぎぃぎぃと音を発する。
通された先、囲炉裏の隣の部屋…
見たい…が、見たくない。
「奥様、探偵さんが見えましたよ」
すす、と申し訳無さそうな音で開かれた障子。
唇を…叫びそうになる唇を、噛む。一息ついて、夜の仮面を纏う。
「鳴海探偵社の葛葉と申します、後ろのは手伝いです」
「…功刀です」
敷布団から上体を起こし、あの見覚えのある羽織を肩から垂らす女性。
少し喉を鳴らしてから、困った顔をして発する。
「御免なさいね…布団から、なんて…しかも、こんな日に」
「いえ、お気になさらず」
袷から覗く肌の、妙な白さは…悪魔の彼を思わせる。
「どうぞ、其処の座布団に下ろして頂戴な」
云われるまま、依頼主である女性を見つつ、膝を曲げた。
横に刀を置けば、女性が少し眼を剥いた。
「まあまあ…それは、小道具…では、無いですよね?」
「ええ、真剣です、物騒で申し訳ありません」
「いいえ、オッカルト…ですものね、外連じみた何かに巻き込まれたりするのでしょう」
「視えぬモノと対する事がありますからね」
「二人ともお若いのに…きっと苦労してるわねえ…」
そこまで云って、咳き込む。その背をさすってあげようと、手を伸ばした。
「待って頂戴」
と、それを制す細い指。血色が芳しくない。
「…触らぬ方が宜しいですよ…今、身重なの」
子、が。
「神聖な物とやり取りする身分なら…今の私に触れるは禁忌でしょう…ね?」
“小母様”の胎に、子が。
「そうでしたか……お気遣い、感謝…致します」
嗚呼、此方の世界では…子が、居るのか。
誰かを拾う事も無く、子宝が。
空白は、既に埋まっていたという事か。
「して、依頼の件、詳しくお聞かせ願えますか、御婦人」
まるで、意識を叛けるかの様に、問い詰める。
すれば女性は、伸ばしていた手指を喉に添えて、呟き始めた。
「新年の公演がありましてねえ…身内だけで行う、非公式のものよ」
「ええ」
知っている…
「数日前から、遠方の一門を呼んでいるの、中にはまだ幼い子も居ましてね」
少し微笑む、その笑み…我に与えられていた、その優しい…
「まだ小さいのに、舞が上手でね…って、話が逸れてしまったわねえ」
「いいえ、周辺が見えた方が都合が良いですから」
「そう?それでね…その子の衣を…干しておいたら…」
「それに血が付着していた、と?」
「そうなの…連日よ?見張っていても、何かの拍子に、一瞬で」
また、咳き込む彼女。隣の人修羅が、本当に大丈夫なのかと、気配も漫ろだ。
「…っ……御免なさいね度々。他にも、ね…どうも私、憑かれてる気がしてしょうがないの」
「心当たりは?」
「人様の怨みなんて…聖人君子で無いにしても、買う覚えは…」
その不安気な枕許…ちらりと見えた、札を見て…察した。
「少し、見て回りたいのですが、宜しいでしょうか」
「ええ、屋敷の者には先刻の者が通達した筈だから、好きに見て下さいね」
「大晦日に外部の人間が居て、大丈夫なのですか?」
羽織の鳥が舞う。くすりと微笑んだ貴女は、昔見た記憶のままだった。
「私からしたら貴方達も子供と差し支えない齢よ、もう少し砕けなさいな」
無理だ、そんな事…今だって、仮面を着けて舞っているのだから…




「明、今日はこれを扇に付けて舞いなさい」
手渡された、綺麗な房飾り。
掌でさらりと広がるそれは、不思議な色合いをしていた。
「父様が、貴方にと作らせた特注の物ですよ明」
「おれに…」
「草木染めの結び房…貴方に人縁が、これからもありますように、ね」
舞の狩衣をそっと押す、小母様の手。
「結びがあるように、ね……今年も宜しくね、可愛い私の…息子」
灯篭揺らめく舞台。
席には、遠くから来た、一門衆。
馬の骨、と笑われてはならぬ。
舞え、俺がたとえ誰の子だろうと…此処で失敗する訳には…
笛が啼く、舞囃子の中、本当の子と成る。
そう…いつも通り、今まで通り、やれば良い。
摺り足、そして、右の脚を打ちつけ拍子を取る、面を上げ…
「っ」
上げた、先に見えた。
客席の中、ほくそ笑む…白い翼の…
「にげて!!」
舞囃子は不協和音。乱れた笛と太鼓の中、俺の声が喚きたてる。
「ねえ!そこにいる!!そこにいるからっ!」
扇で指し示した先、疾風を巻き上げ天使は去った。
荒れた公堂、虚空に叫んで舞台を台無しにした俺だけが……異端だった。

「お前様!本気ですか!?あの子は私達が拾ったのですよ!?」
「天主教会の神父に…と云うお前こそ、冷静になれ!奉られるだけだぞ?天使が見える等と云っては」
―――やめて…
「だからとて、急に来た機関に引き渡すのですか…」
「視えぬモノを使役するそうだ…此処の環境より…理解が有る、だろうに」
―――やめて、おれでケンカしないで。
「此処の…本家筋は、どうなるのですか」
「…あの子とて、本来は他人様の子…自分達が勝手に路を決めるべきでない」
「明に、決めさせましょう」
盗み聞き…して、狸寝入りして、布団の中で丸まっていた。
その翌日…黒い装束と、黒猫が、黒い車で来た。
「明…っ」
泣いている小母様の顔を、今でも忘れない。
どうして、あの時、俺はあの家を離れる選択をしたのか…
あの時の俺を、叱咤したいが、理解してやりたくも、ある。
車の中、夕刻の陽が窓から射しこんでいた。
『おい、いつまでもぐずっておるでない、小童』
猫が、喋った。




「見て回るだけで何か分かるのかよあんた…」
「おや、ゴウト童子も口を酸っぱくして云っているではないか…まずは現場検証、とね」
とは云え、既に憶測は出来ている。
人修羅が、寒そうに腕をさする。物珍しそうに辺りを見渡して…
「賀正の飾りなんて、もうずっと見てなかったな」
「君の家は飾らないのかい?魔除けだというのに」
「俺が小さい頃は飾ってたっぽいけど……って、おい、何処行くんだよライドウ」
話の途中で、表口までつかつかと進む我。憤慨する人修羅がたたっ、と小さく駆けた。
ざくざく、踏み入れるは雪化粧を済ませた納屋。
「ライドウ!おい、そこまで見るのか?」
「許可は得ているよ」
木扉を開き、真っ暗な其処を覗く。
記憶の光景より、高くなった視点。
引き寄せられる、その感覚に…背後の人修羅が微かに呼吸を乱す。
「…そこ、何が、居る…?」
振り返らずに、返答する。
「身重の女性に手出しする…子供を狙う……まあ、察したモノとほぼ一致した、かな」
ライドウの愛した細身の刀に手をかければ、暗闇からずるずる、と蠢く何かが此方を見た。
「凶鳥…姑獲鳥」
名を唱えれば、昔見たそれより、やや染み茶けた羽根が舞い散った。
それ等が無風の筈の屋内で、一斉に我等へと射られる。
柄を指先で繰り、一閃し駆除する。
が、漏れた二・三だけ肩に刺さり、その羽根からぐわりと鬼火が立ち昇った。
空いた手を其処に伸ばそうとしれば、背後から指が。
「おや、気が利くじゃないか…フフ、素手では焼けてしまうからね」
「どうせ、させるつもりだったんだろ」
斑紋の縁が、その火に負けぬ輝きで。
我の肩に刺さる羽根を、指先の焔で焼き尽くした。
その際、少しばかり外套の衿えお焦がしたのか、化繊の焼ける臭いがした。
「クク、下手糞」
哂ってその指を捉える、と、反射的に焔を消す君。
本当は、我の指なぞ焼いてしまっても良いのではないか?何故引っ込める?
「放せよ!おい――」
「動くでないよ、功刀君」
我の言葉に、この乱暴な指先が決して嫌味の為だけで無い事を察したのか。
人修羅は、完全に擬態の解けたその体を、まだインバネスコートで覆っていた。
美しいのに、なんと…勿体無い。
『負ぶってたもぉ…負ぶってたもぉォ』
姑獲鳥は女の声で、呻きながら、その総身を震わせている。
周囲から、さざめく魔力に、警戒しつつも挑発す。
「何を負ぶえば良いのだい?罪かい?確かに、功罪相半ばする職には居るがね」
『子ぉ…赤子ぉォ』
ぼんやりと、火が巡回する…その灯りで、ゆるゆると見える姿。
背中合わせの人修羅が、うっ、と息を詰まらせた。
蜘蛛の脚をした、首を真逆に捻られた赤子達。
カサカサカサと取り囲み、我等をそのビー玉の様な眼で見つめている。
「気…持ち、悪い」
端的に述べた人修羅の声は、引き攣っていた。
「赤子の悪魔を使役しむるとは、拘ってるではないか」
脚を振り抜こうとした背中の気配。瞬間、この身の愛用するヒールで足蹴にする。
「っ痛!」
「納屋を潰さないでくれ給え、ジャベリンレインは拡がりすぎるだろう」
「いっ…ちいち蹴るな、下衆野郎…っ」
吐き棄てた人修羅を、せせら笑うかの如く周囲の赤子がきゃいきゃい啼いた。
蜘蛛の節足をきりきり擦らせ、おしゃぶりをぷっ、と吹き飛ばす。
それは地面に落ちる事は無く、宙にて細い線上と成った。
針状の魔力が放たれる。背で、ひっ、と息を呑む人修羅。
その、君の光る腕をコートの隙間から引っ掴み、真上へと飛ぶ。
刀を梁に突き立て、それを軸にぐるりと上へ更に飛ぶ。
抱えた腕を、力任せに放る。高い天井という事は既に知っていたから。
そして、この手袋の下の左手が、愛おしい御手であるからこそ出来る業だという事も。
「っく!」
斜に架かった梁に背中を打ちつけながらも、人修羅が其処にぶら下がる。
下では、向かい合った赤子同士が、互い違いに吹き付けた針に顔を歪ませていた。
環状になっていたのだ、中央の標的が抜ければ、当然の事。
「九十九の針とて、梁さえ有ればかわせるのだねえ、功刀君?」
「…んな、下らない洒落云ってる場合かよ…っ痛ぅ……ッ」
実際、この状況で冗談が云える様に成った己が虚しい。
仮面に内面を塗り替えられていると、実感する。
『わちきの子ぉぉお負ぶってぇえええ』
唸る姑獲鳥の声に、柔らかそうな頬を剣山にしたウブ達が蠢く。
「灰に…したい」
「駄目だよ、焔を飛ばしては此処も燃える。屋敷がこの冬を過ごせなくなってしまうだろう?」
「俺は触りたくない、赤ん坊の顔を素手で殴りたくない」
「全く、我侭だねえ君は」
その頑ななまでの潔癖さが、いじらしいのだ。
しかしそれを賛美する事も出来ぬこの肉体で、我は哂い、舞うのみなのだ…
MAGを流して、一息に梁から刀身を抜き取る。
切っ先を魔力で、生体エネルギイで補い、昔駆った大太刀の如く振り下ろす。
ずちゅりと抉れた赤子の面、飛び散った頭蓋の破片が薪に付着した。
それがやや気がかりになり、管をホルスターから取りつつウブを惹きつけた。
『あら、たくさん居るのね、どの仔をあやせば良いのかしら?』
大蛇を纏う外法の悪魔、数刻前に仲魔にしたばかりのリリス。
「あの凶鳥を屠ってくれ給え」
『寸止めしなくて良いのかしら?』
「構わない」
主人の断言に、淑女は愉しげに微笑んだ。
その蛇を腕に巻きつかせ、しなやかに繰り出す破壊の激。
喰い破られていく鳥は、いつしか人の女体を剥き出しにし、骨まで見せ始めた。
ウブの残骸の中、納刀した我の傍…人修羅が落下してくる。
着地の際の滑り音に、眉を顰め、嫌悪感を撒き散らして…
「どうして此処って分かったんだよ」
問い質す声に、黒い手袋を嵌め直しつつ返す。
「霊道が奔っているかと思ってね」
「霊道、かよ…随分と憶測だけ、だったんだな…」
「この裏手には水路が有る…屋敷の門にある注連縄は破られていなかった…」
喰い終わったのだろうか、リリスの蛇の動きが鈍重になっている。
「つまり、悪いモノとされる輩を閉じ込めてしまっていたのさ」
違う、昔、平行世界の此処で見たからだ……天使を。
舞台の公堂と一直線に、結べば分かる。水脈と力場。結界…
「道の上にしか居れない、という訳では無い…集い易く視え易い、というだけだ」
口を汚した蛇の頭を、三本指でいいこいいこしているリリス。
眼が合った、彼女もまた、金色の眼をしていた。
「枕許の護符がね、少し綻んでいた…産女観音の蟲封じ札」
「産女観音…?」
「子宝を望む産女大明神の札…なかなか子を生さぬ者が向かい、得る御札だ」
「産女って、あの、今リリスが片付けた…」
疑問だらけらしい人修羅、雪で湿った鞣革のブーツ…底にこびり付いた残滓を床に擦り付けている。
ああ成る程、こういう時にヒールだと楽なのか。と、己の靴も倣って床にカツカツ、と打ちつけた。
「どちらも“ウブメ”だよ…ただし、天帝少女とも云われる妖怪にも等しいのが、今のアレだ」
外套をばさりと払えば、何の肉片ともつかぬ濁った何かが床に散った。
「大方、身重の婦人を、仲間にでも引き込みたかったのではないかね」
「勝手な奴」
「あのまま姑獲鳥の気を中てられ続ければ、産まれぬまま産褥にて死んだろうね」
と、そこまで云った途端、からからと笑い立てる声が納屋に響いた。
大蛇が舌をチロチロと、小馬鹿にするかの如く揺らしている。
『何…わたし、妊婦を姑獲鳥にしてしまうのを阻止した…って事かしら?』
「そういう事だ」
『リリトゥの記憶も併せ持つわたしに、そんな役目任せて良かったのかしら?』
艶っぽい黒の唇で妖艶に微笑む悪魔…確かに、身重の女性を狩り殺す逸話も有ったか。
「命に背けば討つまでだ」
『クス…男って皆マザコンね…』
「お勤めご苦労だったね、然らば、リリス」
管をトン、とホルスターの筒状の箇所で鳴らし、先端からMAGと共に帰還させる。
「なんで俺まで見て云ったんだよ、あの悪魔」
苛立ちを含ませ、文句する人修羅…が、拗ねている様で可愛い。
が、裏腹に、それを嘲り笑ってやらねばなるまい…ライドウの姿ならば。
「召喚、掃除し給え」
管をくるりと回し、喚び出した餓鬼が、汚れた地面を這い舐める。
傍の人修羅が、それを汚いものを見る眼で、見つめていた。
「闘技場で同じ事してた」
「へぇ、そう」
「あんただって、居ただろ…マントラの」
「似た光景を見過ぎてきてね、合致するのがどれか分からなかったよ」
我は知らぬ、適当に相槌する、もう慣れた。
「それに……雷堂さんの…小父さん…が…餓鬼、は……」
ぼそぼそと云い澱み、やがて声を消した人修羅。
嗚呼、知っている、みなまで云わずとも良い。
君があの人の棺に成った事を、しっかと見届けた記憶がある。
我は…雷堂なのだから。真実の魂は、日向明なのだから。
この、夜の姿でなければ、君の前で二度と餓鬼なぞ使役出来なかったろう。



「急に体の重みが消えたの」
実際、憑いていた悪魔を屠ったのだ、もう大丈夫…だろう。
「それは良かったです」
「明日の公演の手伝い、これなら出来そうで…本当、有難うね、お二人共」
微笑みに本来の血色が戻ってきている。人修羅も、つられて穏やかな表情をしている。
布団から、少し這い出て、依頼主が好奇心を覗かせた。
「ところで葛葉君、どんなオッカルトだったの?」
うふふ、と、体が回復した所為か、生来の活発さが見え隠れする…
幼い我に、悪戯っぽく微笑んだあの顔が。
「それこそ外連じみた…非現実に御座いますが」
「差し支え無いのなら、教えて頂戴な」
業斗やヤタガラスから教わってきたのは、一般の者にソレを流さぬ事。
余計な情報を与えては、混乱を招き易いから…だ。
しかし……
「僕の」
我の
「説明で、宜しければ」
心は伝えたい
「舞いましょう」

立ち上がり、驚く人修羅の視線を感じながら、左の手袋を外す。
現れた斑紋の手に、えっ、と小さく発する“小母様”…息を呑む人修羅。
この、君の美しい手を扇に見立てよう。

「凶鳥鬼神の類なり 能く人の魂魄を収む 荊州多くこれあり…」

狭い畳の上、摺り足もままならぬだろう。

「人の子を捕り養って己の子となす 凡そ小児ある家 夜衣物を露はすべからずや」

黒の滴る指先で、枕許の札を指し示す。
「蟲封じ 喰われたりしや 憐れなり水子の母よ…」
驚く“小母様”に、続けて唱える。
「御安心を、既にその凶鳥は祓いました」
「…じ、じゃあ、お腹の子も、大丈夫?ね、ねえ…!」
「きっと生まれます」
そう、我の居場所は、やはり無い。
この世界の、この夫婦には、我では無い宝が。
「ではもうひとさし、初子の祝いに」
腕を広げ、この身違えども
貴方達に、大きくなったら贈りたかった演目を。

「千秋楽は民を撫で、萬歳楽には命を延ぶ…」

“小母様”が、笑った。

「相生の松風、颯々の聲ぞ楽しむ、颯々の聲ぞ楽しむ」

此処で、トメ拍子。
歩みは無く、動きに欠ける分、指先で舞う高砂。
「…有難う、有難うね、葛葉君…貴方、まさか舞えたなんて…探偵さんでしょう?」
羽織の袖で胎を撫ぜ、感極まったのか、その眼が潤んでいた。
「うふふ、でも、枕許に高砂が観られて、良い新年になりそうよ。初夢にも見そう」
「明日、また参りましょう、経過も気になりますので、納屋は数日立ち入りを禁じて下さい」
「綺麗な扇ね」
深く追求せず、ただ、この左手を…眼を細めて、讃えた貴女。
嗚呼、やはり優しいままだ。
「フフ…そうでしょう?」
黒い手袋に、再び包み隠す。人修羅が、息を吐いた。緊張の糸が切れたのだろう。
「お腹の子にも聴こえてるわね…ねえ?うふふ」
呼びかける、当然子は胎から返事せぬ。我が、返事しそうになり、苦しくなる。
「あの…」
と、座ったままの人修羅が、突如割入った。
「どうしたの?功刀君?あ、脚が痺れたなら崩して良いのよ?」
「ち、違いますっ…その、お子さんの名前って」
どうして確信を突く、君は。
「名前ねえ…それが、生まれてくれるか分からなかったものだから…まだ何も」
「な、ならっ、候補のひとつにするだけで良いですからっ、俺からひとつ…!」
まさか。

「明…夜明け、の“明”」





空には、何も見えぬ。
白い何かがちらちらと、まだ起きている家屋の窓明りに照らされるだけで。
それとて、殆ど闇に近い。
こんな宵、外灯も寝ている。稀に有る僅かな明かりを頼りに…帰路を辿る。
「非難しないのかよ」
ぼそりと呟く君。
「罵ればどうなんだ?あの人の名前を出すのすら、嫌なんだろ、あんた」
それが…望みならば。
「もし、あの赤子が明となり得たとしても…全くの、別人だ」
「分かってる」
「姿形、声も何もかも、違う」
「あの舞台小屋の夫婦の…子供なら、そうだろ」
吊り上がる唇…嗚呼、これは自嘲なのだろうか。
「あの位置に明という存在を作って、君は贖ったつもりなのかい?」
銀楼閣の扉を開け放つ。事務所の明かりは消えていた。
「別に…赦して欲しいとか、誰も云ってない」
吐き出す君を背に、軽く事務所の扉を開けば。麻雀の牌で塔を建設途中の所長…
机に突っ伏して、いびきを立てていた。
既に消えたストーブ、その傍でゴウト童子が縮こまって、すやすやと。
「鳴海さん、新年早々風邪ひきますよ」
掛けてあるコートを掴み、その丸まった背に掛けた。
まさか、自分の世界の鳴海にこんな事はしない…いや、怖くて出来ない。
むにゃ、と唸った鳴海。どうやら熟睡らしい。
それが可笑しくて、建設中の塔をそのままそっと机の端に除けてやった。
目覚めの伸びで崩落しては、きっと自己嫌悪するだろうから。
“赦して―――”
はっ、と、脳裏を過ぎる。
“鳴海所長!!鳴海さんっ!!赦して!”
“お願いだ!俺は殺したく無かったんだあぁっ!”
ぞわぞわ、と、背筋を這い上がる、我の叫び。
「…っ……」
指先が震える。そう、この、眼の前の男性を…自分の居た世界では…
殺したのだ。
「よ、夜」
その声に、びくりとした。
見上げた先に、彼が哂っていそうで、思わず強張る。
「おい…おかしくないか、あんた」
夜、ではない。人修羅だった……
安堵と同時に、息苦しさが胸を締め上げる。仮面の息苦しさ。
「…何が」
「気が…何処かに往ってる事、今日多いだろ」
「さあね、流石に年の変わる宵…疲れでも出たのかな?フフ」
「おい…っ」
ゴウト童子を踏まない様に跨いで、事務所から出る。
靴を履き、カツカツと階段を上がる我に、先回りして人修羅が云った。
「名も無き神社には…行かないのか」
「今から?何故?」
「……いや、前、行ってたから…少し気になっただけ、だ」
ああ、そうなのか。
こういう瞬間、ライドウの…紺野夜の記憶を、もっと眺めておけば良かった、と…
非常識な気持ちが頭を擡げる。
何を、どう足掻こうが、この肉体は…この存在は…葛葉ライドウ。
紺野夜、なのだから。
「君こそ、舞台小屋に明の様子でも見に通ったら?」
嘲笑し、君に向かって云い放つ、この言葉は…己をも嗤っているだろうて。
「明さんじゃないって、あんたが先刻云ったばっかり――」
「そんなに雷堂に…明に逢いたいなら、夢見にでも望むが良いだろうが…!」
嗚呼、仮面が、割れそうだ。
君の着物衿を掴んで、夜の部屋に引きずり込む。
まだ帯刀している我を警戒して、そのまま君は押し倒される、夜の寝台に。
「まだ君はアレが気になるのか!?」
左手にMAGを流して、夜の斬り落とした君の手で、君の喉笛を絞める。
「っひ、ぅ」
「僕がどれだけ君を―――」
夜が、最期に求めていた、狂おしいあの叫びが、頭から消えてくれぬ。
それを知って尚、この魂の衣として纏う、愚かしい舞台。
「矢代…っ」
嗚呼、我は、我は此処に居るのに。
この血肉は夜なれど、君が向かい合うこの魂は…!
「ぁ、はぁ…ん、ぐ……よ…よる、ぅッ」
睨み上げるその眼が、完全なる金色に。
憎しみと同居する…哀しみが、その悲哀が…夜を惹いていたのか。
我とて、我とて…!
「寝て、しまえ…っ!煩い、煩い煩いッ!」
ライドウと、夜と呼ばないでくれ。
夜を見つめるあの金色を、魂まで通してくれ。
その鼓動が、呼吸が、MAGの胎動が、全てが夜を見つめている―――!!
昔、この部屋に入り、君は寝台に封じられていた。
我の機関へと導こう、と…天使を駆って、催眠させた。
なあ、矢代君、今宵は、我の為に。

『ふふっ…《ドルミナー》』

引き抜いた管から、出でた外法の淑女に…咄嗟に命じた呪文。
眼を見開いた君が、何か叫びかけ…くたりと体を寝台に沈める。
『これで宜しいのかしら、御主人様?』
「ああ……ああ、良い、これ、で」
『この悪魔、云う事きかなかったから…仕置きでもされるのかしら?』
人修羅に馬乗りのまま、リリスの声を聞く。
心を覗かなくとも察しているのだろう、きっと欲が滲み出ている。
『わたし、別に支配欲を卑下したりしないわよ…?寛大に見えないかしら?』
暗闇の中、人修羅の斑紋だけが輝いている。
その薄い明かりの手前に、大蛇の影が蠢き誘う。
『その悪魔のサマナーでしょう…好きにしてしまえば如何かしら?』
じり、と視線だけを返せば、口角がくい、と上がる。
『別に、心を繋ぐだけだもの…わたしには見えない。わたしはMAGさえ貰えたら良いのよ』
蛇の舌が、我に向かってくる。覗く牙が、ぬらりと輝く。
「…繋…げ…」
『うふ…では、前払いで良いかしら?』
ずい、と覗き込んできた蛇に、舌を突き出す。
ずくり、と鋭敏な痛みが、その先端に埋まった。
「っ…っく…ぁ、あっ、は…」
抉りこみ、傷口から血を啜る蛇が、ぶるぶると鱗の総身を奮わせる。
その身からリリスの腕まで、MAGが流れ往く。
『ん、んぅ〜っん…あ、イイ』
恍惚とした淑女が、淫靡な声音で感想を喘ぐ。
ひとしきり吸い上げた蛇は、ずるりと牙を抜き取り、退いて往く。
「ふ…はぁ、っ…吸いすぎ、だ…意地汚い、蛇…め」
血混じりの唾液を手の甲で拭い、びくんびくんと跳ねるリリスを見上げた。
『ん…んふ…分かってるわぁ…っふ、催促しないでぇ…っふふ』
蛇の頭を、指の間でしごきながら、金色の眼を光らせた。
『準備は良い、かしら?』
「おかしな真似をすれば、その身が朽ちる呪いを今流した…そのつもりで」
『あらぁ…用意周到ね』
業斗からの教えだ。外法の管属と契約する際には、念を入れよ、と。
そして…心に潜る、方法も、ヤタガラスから教わった。
異端の我にしか出来ぬ…と、教え込まれた。
それを…初めて、私利私欲に、使う。
『ふふ…心地好い夢を』
しゅるり、と、繰られた大蛇が奇怪な音を発する。
その鳴震が…繋ぐ…アルケニーの糸の役割だろうか…



薄暗い、紅の光が舞い上がる…ふわりふわりと、逆流して。
その山の頂に、うずくまる生き物が見える。
ちらりと覗いたそれは、金色の相貌。
「…夜」
呟かれるその名前、だが、構わず突き進む。
「どうしていつも、俺を拾うんだ」
泥の山を登る。掴んだ壁面が掌でぐずる、まるで人形の様な。
「こんな夢ばかり見て、俺の方がいかれてるのか――」
間近に迫れば、そこまで述べた君の台詞を途絶えさせる。
唇が、戦慄いて…夜という単語を…掻き消す。
「あ…明…さん」
嗚呼、矢張り間違い無かった。
魂は我なのだ…心の中では、我は我の形をしているのだ。
此処では、君の中では、葛葉雷堂…日向明で居られるのだ…!
「矢代、君…」
「あ、あ…ははっ、俺、なんて夢……見てんだ」
嬉しそうで、それでいて泣きそうな、困った様な表情。
ああ、それは…幼い頃の我にも似て。
「矢代君、我は君を恨んでなぞおらぬ」
抱き寄せて、その体を、感じる。
「憎んでなぞおらぬ、我は、我はもうずっと君を」
嗚呼、心で繋ぐ所為か、錯覚なのか。
とても…あたたかい。
「俺、酷い…ですね、貴方に夢でだけでも赦されたいんだ、謝らせてるなんて」
「違う!」
叫んで、そこで気付く。胸元に何かの硬質な感触。
そっと人修羅の肩を離せば、先刻は無かった筈の十字架が彼から下がっていた。
「ライドウにも云われました、罪人だって」
それを口にしたのは、本当は…
「これ、御免なさい…ライドウが、明さんの身体から…外して、俺、に」
「いいや、いいや…構わぬ、寧ろ…ずっと」
ずっと、囚われ続けてくれ。
「君を今拾い上げるのは、この日向明だ」
強く、今度はもっと強く抱き締める。
「怖い夢でも見ていたのか、矢代君…なあ、我が来たからには、もう大丈夫だ」
仮面を脱ぎ捨て、今ようやく…息が。
その項の角をゆるりと撫ぜ上げ、山を下る。
ずるずると滑る足場を、一息に飛び降りれば、輝く太陽…いいや、月?
強い光に身体が蒸発してしまいそうな、そんな畏れさえ感じる。
「カグツチ…」
腕の中、震える君が呟く。
「俺を…俺を悪魔に、する…っ」
「矢代君」
「はぁっ、はぁっ、あ、あああアレの、アレの光が!怖い!怖いッ」
真上から照りつけるかの如きそれからは、逃げようも無い…
外套で包もうにも、その光は遮断出来ぬ。
「嫌だああああああッ!俺を!俺を曝すなぁあッ!!」
「落ち着け!君はそれ以上悪魔に成らぬ!しっかり気を持て!」
半狂乱の君は、その光に照らし出され、斑紋が黒く蠢く。
明るくなった周囲を取り囲むのは、先刻の泥山。
『殺した』
『ぼくたちを』
『悪魔』
『人間以外なら簡単に殺す癖に』
ばくばくと口を開くは泥の人形…これは人間か?悪魔か?
そして…君は、糾弾されているというのか?
「違うぅ!違う!!俺は…俺はッ」
頭を掻き毟り、びきびきと血管の浮き出た手の隙間から金色が濡れる。
「俺は殺したく無かったんだあぁっ」
重なる、声。
我の叫びを、君は聞いていなかった筈なのに…全く同じく、その言の葉を吐いた。
君の心の中の、それが、我等を惹き合わせてたのだろうか。
嗚呼、人修羅…矢代君、君は…君は!

「矢代」

周囲の、泥が爆ぜる。
その、冷たい氷の様な声音が、我と人修羅を制止する。
ずるずると、照らされていた周囲が、暗くなる。
「おいで…」
血濡れの暗幕を、するすると引いて往く影が哂う。
それに隠され、カグツチという光は鎖された。君を嗤う者達が消えた。
「は…ぁ…はぁ…っ…よ……」
君の心に…
「夜っ」
“夜”が訪れた。
ただ、不敵に微笑んで…我など見えていないのか、いやそれはその筈。
此処は、人修羅の心の中なのだから…あれは、夜の魂では無い。
「ねえ、おいでよ早く…其処は明るいだろう?疲れてしまうよ…?」
その誘いに、我の腕からするりと抜け往く君。
「暗闇に乗じれば、石も投げられない…醜い己を見られる事も無い…」
「はぁっはぁっ」
「でも僕が君を見つける事は容易い…」
「はや、く、掬い上げてくれ」
「その金色を僕によくお見せ…僕の…」

「矢代ッ!!」

先刻と逆転。我は、人修羅の腕に…縋りついた。
「行くでない…行くで無い!!」
戸惑い、振り返る君。その金色を、内包した我を…どうか、どうか!
「棄てない…で…くれ…後生だから……」
もう、嫌だ。棄てないで、俺を。心の中でまで。
「あ、あ…っ、ああ」
「俺は、君の事をずっと…っ…この先だって!」
どろり、と、闇すら融け往く。君の心を掻き乱すと解っていたのに、叫んだ。
「どうか今だけでも!君を呉れ…」
朽ちる闇の向こうで、夜が煙草を咥えて哂う。
きっと、人修羅が…君がよく見ていた、彼の姿なのだろう。
それが映写機の映し出すものの様に…煙草の紫煙と共に消えた。
引かれた暗幕が、するりするりと開き往く…
「明…さん…」
開いた先に現れしは…いつか、君と観た舞台。
あの時の状態が、そのままに。

「棄てれる筈…無い…だって、俺も、もう棄てられるのは…嫌だから」

泣きそうに笑う。どうしても、それは変え難いのだろう。
同じ生き物だから、解る。君と同じだから。
「明さんの好きに舞って下さい」
嗚呼、その声が、この名を紡ぐだけで、既に心は舞っている。
夜と現で共に在ると思って…これを赦すのだろうか、君よ。
だが、現の夜は…仮面をした我なのだ。
そう、これがたとえ情けだろうと…この瞬間、君が我を見ている事が至上の…
「舞いたい、君の…君の上で、下で、中で」
持たされた扇、ああ、この色模様…君の手で舞ったそれが記憶に強いのか
黒と露草色の扇。嗚呼、欲しい、こんな扇。
「俺…こんな、厭らしい奴だったのか…こんな夢」
用意された舞台の上、視線を逸らして吐く君を、艶やかな床に横たえる。
「厭らしくなぞ…」
「明晰夢…でしたっけ?でも、目覚めたら半分は忘れてるんだ、きっと」
何時の間に、互いに着物を纏っている?君の心が連想したからか。
「だって、こんなの…都合悪いから、きっと忘れる」
深い藍色の着物…嗚呼、あの時の願望が、今なら果たせる。
その衿を、朝を待たずして花を開かせる。中に蜜が在ると知って。
「ど、どうせ…夢、だから」
「だから赦されるのか、我は」
「…どう、解釈しても良いです…ん…っ」
鎖骨の窪み…薄く浮き出る血管…舌を這わせ、吸い上げる。
嗚呼…不思議だ、ありありと感じる、微かなぬくもり、MAGの味。
「せ、性急、です、っ」
「夢が覚める前に、沢山味わいたいのは下品か?」
「あ――ひっ、どうし、て」
心が…夢が、身体に影響を及ぼす事は、そう珍しくもない…が。
きっと君が思っていたより、強く出たのだろう、その…戸惑った顔。
胸の先端を、声がかすれるまで舐めしゃぶってみようかと、しつこく愛する。
「い…ッ」
少し噛むと、舌上にころりと転がり込んできそうな錯覚。
赤い果実…と思ったのだが、それは我がこの舌で熟させたからであって…
「意地、悪…っ」
その浅い吐息と共に吐き出された声が、鼓動を早く打つ。
脳内では、既に舞囃子が鳴り響いている。
人修羅の、腰の帯を、するすると…整った縫い目を解く様な気持ちが爽快で。
綺麗な、綺麗な君の肌が露になれば、君の羞恥もみるみる露になって。
黒いその斑紋に指を走らせてみた。身を捩る人修羅が我を見る。それに微笑んで返す。
「綺麗だ…衣装をその肌に、既に纏っているのだな、君は」
「だったら、俺が人間の時はどうなんですか」
「それも飾らなくて、綺麗だ」
「…おっ…かしいだろこの夢、もう、無茶苦茶、だ」
頬を染めた君が、愛おしい。
「可笑しい事は無い、君にずっと…こうしたかった、ついぞ叶わなかったから」
己の着物を剥ぐ、君の抱いたイメェジを、はだける。
「矢代君…なあ、如何して、君に惹かれたのか、解った気がする」
「…え……っわ!」
「ふふ、だが、この欲はそれと違う」
両脇から差し入れた腕、そのまま君を抱き締め、ごろりと床に反転す。
我を下にして、君を、子供に高い高いするかの様に、持ち上げた。
その彼の脚に絡み付いている着物ごと、下肢をぐ、と己の脚で支える。
「ちょ、っと」
慌てる君を、ぐるりと手脚で旋回させ、とさりと我の体に落とす。
男にしては細い両脚を掴み、ぐい、と寄せた。
「何してんですか!」
「ああ、君はしっかり夢の中でもこの下着を穿いているのだな」
「なっ、な…あ、ああっ」
その脹らみに、感情を膨らませて、舌を…着物の隙間から。
じっとりと、噛まずに、舐める。
「ん、ん、んんんっ、あ」
断続的に零れる囀りが、もっと聞きたくなる。
その、薄い絽の着物を思わせる下着の中で、君が育つのがたまらない。
「ぅ、は……っ」
「辛い、か」
「ぁ、明さん、こそ……さっきから、邪魔なくらい、当たって、ます…けど」
「態とだとしたら怒るか?」
「…いえ、半分くらい…確信的だと思ってたから…って、どういうこれ、本当」
「で、君は如何してくれるのだ?どうせ夢、なのだろう…?」
自覚は、有る。我は…意地が悪い。
「…良い、ですよ、どうせ…夢ですから」
硬質だが、骨っぽくもない手が、脚に触れる。
しゅる、と、褌がただの布一枚になる…浮付いた感覚。
人修羅の心の中なのに、外気に触れる其処がひくりとする様な。
と、突然、我の下肢から響いた、冷たい声が背筋を這い上がる。
「歯…折りますか」
思わず、顔を離し叫んだ。
「そのままで良い!」
「無い方が…気持ち良いんでしょう…ねえ、明さん」
「君そのままの形で、頼む…歯を立てられようが、君になら噛み千切られても本望だ」
云い切れば、ため息と同時に少し失笑した君。
「そう、か…どうせ夢だから、大丈夫…ですよね」
食まれる。嗚呼、その瞬間の筆舌し難い幸福よ。
その唇がそもそも小さいのだ、自然としごかれるこの下肢の雄。
「…ん、ぁむ…ふ…ふぅ…んっ」
ああ、その唇と鼻先から僅かに吹きぬける淫靡な声。
しとどに零れる唾液が、股座を伝う感覚まで、鮮明に。
「っあ、ああ、矢代……は、はは…っ」
頭の中で辻褄が咬み合わぬ、もう、混乱しそうなまでに嬉しくて、感極まって。
それがもたらす怒張が君を苛めるのを、知って尚憚る、君の口を頂く。
「ん、んぶぉっ、おぐ、っ」
君のもしっかり、今度は布越しではなく、引きずり出して、この舌に、直に。
すれば君のくぐもった声が、一段高くなる。
互いに吸い、舐めしゃぶるは低俗か?いいや、こんなに嬉しい事は無い。
「ん、はっ……はぁ…はぁ…や、矢代、君…」
夢が覚める前に、そう、しておかねばならぬ事が。
じゅぷ、と君の整った器官を抜き取り、君の頭をそうっと引っ張る。
「はぶっ…っ、ふぁ、はぁ、っ……な何、です」
「なあ…我は…サマナーの契約と、関係無く…」
下肢から君を抱き寄せて、その耳元で、告白する。
「繋がりたい…君と」
君が、いよいよ視線を泳がせる。
「やっぱり…おかしい、です…その感情」
「知っている、もう病んでいる事なぞ…」
「こんな夢見る俺こそ、酷い」
君はそうやって自身を嗤うが、それは違うのだ。我が勝手に君の心に介入しているだけで。
「明さん…天使達に囲まれて、真面目な顔して……悪魔と交わりたいなんて」
「君は悪魔でも人間でもない、功刀矢代という…我にとっては唯一無二の生き物だ」
「俺、自惚れてたんですね…よく解りました」
諦観か、情けか…
「明さんの気持ちを、ここまで推測しておきながら…天界に置き去りにしたんだ…」
小さく笑って、その薄く申し訳程度に着いた筋肉をひっそり躍動させた。
「俺の罪が、それで拭えるのなら…」
「…今度は、今度こそは、君なのだな」
濡れた己のソレを…君の…中に…
夜しか踏み入れた事の無い、領域に。嗚呼、焦がれた君の肉を。
たとえ、これが精神のみだとしても、構わない。

「ぁ……ぁあ!あっ、ああ!!」

悲鳴を上げる君の、そのすべて、愛…している。
君にだけ、はっきりと云える。この言葉を罪だと思っていたのに、昔からずっと。
何処に居ても、存在していても、違和感を感じていたのに。
「矢代っ、な、まえ、を…我の…!俺の名を!」
君の心だけでも、欲しい、喰らってしまいたい。
「いっ、いぎぃぃいいぃっ」
舞い踊る君を、放さない。
「俺が誰なのか!答えてくれ…っ」
「あーッぁあぁっあ、ああ明!明ぃッ」
居場所は…此処だけ。君の…中だけ。
「はぁ…っき、気持ち、良ぃ…っ、君の、中」
この快感は、俺の居場所、だから…だろうか。それとも肉壁の…?
ともあれ、君と繋がったというこの、この事実だけが。
「ずっと、ずっと一緒だ、なあ、矢代!なあ!ずっと傍に居る!居るから!!」
純粋に愛を詠えど、吐き出したい欲望が先走る。
「あ、き…さ、おれ、っ、あ―――」
「俺を記憶から消さないでくれ!矢代―――

…――っ」
ぐちゅ。
生温い、感触。
「はっ…はっ……」
荒い息の己と、煩い鼓動。
「…ぅ…ぅゥぅううッ、あ、ああァぁ」
奇声を発する己の喉笛を斬り裂きたくなった。
腰を打ちつけるは…眠るままの人修羅。
眉を顰め、時折呻いて…しかし、強制催眠にて目覚めない。
震えながら抜き取れば、ぐぷり、と白い粘液が、君の下肢を伝った。
「や、矢代…ぁ、ああ、すまぬ…すまぬ…っ」
乱れた着物、剥いだ下着、艶やかな御髪は寝台に擦りつけられ…
涙の痕が…痛々しい。
『心の中では足りなかったのかしら?ふふっ』
寝台の傍、リリスがうっそり微笑んだ。
『まさか、こっちの生身の方まで動くとはね…激しかったわよ?』
「…見た、のか」
『心はさっぱりよ、見ようが無いもの。でもこっちは流石に…丸見え、くす』
おぞましい、浅ましい。
『催眠した悪魔を犯すなんて…イカレてるのね…』
もう、二度とこの悪魔は召喚しない。
瞬間、リリスを管へと戻し、その管を握り締め机へ向かう。
おぼつかぬ手で引き出しを開け、突っ込んで即座に閉じた。
「はぁ、はぁ、はぁ、あ、ああ」
小さく振り返れば、汚された愛しい君が、寝台の上…ぐったりとしている。
(繋がった、幸福…だと?)
愚かしい、あまりに…我は滑稽だろう。
現の世にて、君の内腑を抉ったのは…
結局、この肉では無いか。
「夜…俺を、俺を何処まで赦さぬのだ」
君から滴り落ちるあの白も、この身体の…
嗚呼、我の踏み入れる場所は、何処にも…何処にも…




「御加減は如何です?」
「あらまあ!あけましておめでとう葛葉君!」
会釈すると、嬉しそうに微笑む貴女。どうやら姑獲鳥に生らずに済んだ様で、良かった。
「功刀君は今日は来ないの?」
「まだ寝てますので」
「あらあら、お寝坊さんなのねえ」
花喰鳥の柄が、その口元で揺れる。矢張り変わらない、俺が居ないだけで、皆普通だ。
「納屋も確認が済みましたので、これは餞別に御座います」
差し出したそれの包の中をチラ、と覗き見る貴女が、眼を輝かせた。
「まあ、あわゆきじゃないの…驚いたわ、私好きなのよこれ」
知っていた。自分も好きだから、俺に食べさせてくれていたのですね。
「有難うね、本当に…」
「では、一座の繁栄を願っております、心から」
「あ、あのね、お腹の子…」

“明にするの、名前”

銀楼閣、注連縄すら飾らぬその扉。
開け放ち、上れば…事務所から団欒の声。
此方の世界の鳴海所長。
此方の世界のタヱさん。
此方の世界の童子。
「あ、俺、ちょっと抜けます。用意は出来てますから、御節は勝手につまんで下さい」
「え〜ちょっと矢代君!新年麻雀やんないの?」
「そーよ!大丈夫!葵鳥さん弱いから!」
『…人修羅の方が弱いと思うぞ…』
がやがやと、その席を抜ける…独りの、生き物。
がちゃり、と事務所の扉が開く…我を見る、相貌。
人間の君は、夕刻の霧の色をしている。そのまなこ。
「…何」
気配を感じて、出てきた癖に。
君も、ああいった空間に溶け込めない癖に。
「あけましておめでとう、功刀君」
「…行ってきたのか、能樂堂」
「ああ、新年の挨拶と手土産を持ってね」
「手土産?」
敢えて答えず、しかし傍に寄って往き、訝しげな君に持ちかける。
「そしたらね、今泊まっているという小さい子役者から、手土産を逆に頂いてしまったよ」
す、と差し出すは、綺麗な飾りの羽子板。
「ねえ、屋上で勝負しようか、功刀君」
「…あのな、俺等、何歳だと思ってんだあんた」
呆れた、と突き放す声音。
「それにな、俺は今朝から具合が…目覚めたら妙に身体がだるくって」
「ほら、云う事が聞けぬのかい」
その頤を羽子板でくい、と持ち上げてやる。睨む君を、いつもの様に…
「賭けようか」
「…何をだよ、俺の持ち物なんか無い…賭けるモノは」
「初夢、教えてよ」
人修羅の唇が…止まる。逆に、我の唇が、吊り上がる。
夜の仮面なのか、これは本来の意思なのか。

「…ただ打ち合えば良いのか、これ」
花鳥の飾りも煌びやかなそれを、ひっくり返したりしつつ眺める人修羅。
我も、本当に幼い頃しか遊ばなかったので、やや不鮮明だ。
「少し決め事を変えるよ」
「何だよ…」
「拾えず落とした方が、墨を相手に入れる」
ぎょっとした人修羅、続けて疑問を吐きつける。
「逆だろそれ、そもそも墨なんて用意してな――」
言葉の尾が踊る瞬間、帯刀した柄を握った。
察したのか、更にため息を深くした君。
嗚呼、この仮面に、我の精神も、毒されてきたか…酷く、乱暴な発想が楽な今日この頃。
「では、始めようか」
放られた羽、天使のそれにも似た、白い羽…歌と舞う追羽根。
覚えている歌を、哂いつつ歌う。
 「一人来な 二人来な 見て来な 寄って来な」
揺れる袖、我の外套、互いの視線。
 「いつ来ても むつかし なんの薬師」
かつん
「あ、っ」
取り落とす君、薄く積もった屋上で、羽を探す。
「君が落としたから、僕の顔に刻み給え」
「…何投までやるんだよ」
「二」
「なら、まとめて刻むから、後で」
この数には、意味がある。
「さて、再開」
放る羽、打ち付ける板。流れる花鳥と華飾り。
悪魔の君と、悪魔を使役する我が、破魔のそれで戯れる…酷い矛盾が惹き合う。
 「いつ来ても むつかし なんの薬師」
君の顔に、刻むなぞ…本当は嫌なのだから。
夜とてそうだったろう。顔は…治癒せども、そのままで、常に在って欲しいから。
だから、君よ、落としてくれ給え。
 「ここの前よ 十よ」
「っ!」
ざり、と雪を掻いて、突っ伏した人修羅。伸ばした板の先…寸前で拾えなかった羽。
嗚呼、良かった、望みの通りに流れた。
倒れるままの君を、ぐい、と引き起こす。
「ねえ、二回分…刻んで御覧、さあ」
「あんた、いつからマゾになったんだよ…っ」
「どうせ見えぬ、悪魔になれば刻むのも容易いだろう?」
「どうして羽根つきで…っ…んな事……」
が、やがて鎮まる君。我が、ただ黙って、見つめれば…大人しくなる。
「しかし、勝負には僕が勝ったのだ、そうだねえ…初夢を唱えながら、刻んで」
伸ばされる指先に、瞬間、斑紋が奔る。
曇り空の白と、雪の白が、我々だけを浮かび上がらせる。
「まず、ひとつ」
「…よく居る場所で、雷堂…明さんが、俺を拾い上げた」
ず、ず…と、人修羅の尖った爪先が、斜めに刻む、仮面を遮断する。
「もうひとつ」
「……ずっと……ずっと、一緒だと、云われた」
右眼の瞼にその指が向かった瞬間、悦びがこみ上げる。
「そう、それだけ?」
「…煙草を燻らせるあんたと、扇で舞う明さんと…舞台が…」
「そう…“四扇、五煙草、六座頭”だ…良い初夢だねえ、舞台になら座頭が居るだろうから」
「どうしてあんた、昨日から舞台に饒舌なんだ」
「早く刻み給えよ」
「どうして最近、昔からの仲魔召喚控えてんだよ」
「ほら、刻めよ功刀君」
「どうして銃、使わないんだよ」
「さっさと刻め!!」
「…あんたは夜だろうが…っ!」
白い地面に舞った赤い華…羽子板の色より鮮明な、馴染み深い色。
夜と呼びつつ、君は…
なあ、何故、この様に、顔に刻んだ?
「…明さん、は…もう居ないって、解ってるんだ」
十字架を握り締めて、何故泣くのだ。
「だから、思い出させないで、くれ」
年が明けても、冷たい空気、雪の帝都、探偵事務所、能樂堂
すべてが、そのまま。我が、居ないだけ。どちらの世界にも。
“結びがあるように、ね”
今は既に手元に無い…あの房の感触を、大太刀の柄に揺れる愛の色を。
嗚呼、何時まで思い出せるだろうか。
“今年も宜しくね、可愛い私の…息子”
この感情を、ただ…ただ素直に、君にぶつけたいだけなのに。
正体を明かせば、本当に消えるであろう我の存在。
そう、だから…君の、心の中で…だけで、生かしてくれたら、それで良い。
嗚呼、しかし、消したくない、この傷…

「今年も宜しくね…“矢代君”」


右眼と眉間を奔る傷跡
君が、何処かで求めてくれたこの証…

夜の仮面に亀裂が生じる
嗚呼…幾年……
この面で、年を越せるのだろうか…

初夢・了
* あとがき+a *

居場所…不安から甘受出来ない葛藤…夢…渇望…
自ら居場所を消した雷堂、その不安の具象化。
眠る愛しい人を犯すだけに終わった。
結局は、繋がれない…

【作中のあれこれを適当に解説】

《花喰鳥》
花や樹枝を銜えて羽ばたく鳥の図柄。鳥が幸せを運ぶという意味から縁起が良いといわれている。鳥は鳳凰、オウム、鴛鴦、尾長鳥、鶴など、また牡丹の花や空想上の花、宝相華など当時流行していた図が多く、正倉院宝物の図柄にある花喰鳥は、官職のしるしとした組紐、綬帯やリボンを銜えたものとなっている。
縁起を担ぐものを纏わせたかったので。それと見目が華やか。

《草木染めの結び房》
大太刀に付けていたタッセル。大日本帝国陸軍の軍刀装飾に刀緒として在るものをイメージしていますが、それの意味する階級・実用性とは全く逆で、雷堂の感情的な働きがこれを大事にさせている…感じで。

《注連縄》
しめなわ。ゆずり葉は子宝を願ってのもの。だから一目見た雷堂は虚しさを感じていた。

《蟲封じ札》
「癇の虫」赤子ががぐずったり、体調が優れず泣き止まないなどの症状を鎮めるためのまじない。産女観音の院にて頂戴出来る。これが綻んでいた=結界の綻びを感じさせたかった。

《姑獲鳥》
産女(ウブメ)は日本の妖怪。京極さんの小説で名前は知られているのでは…。
産めずに死んだ女性が成る、という解釈にて作中では出しました。茨城県のウバメトリに近い描写で。

《ウブ》
嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛の形で赤子の様に泣き、人に追い縋り命を取る。
SJプレイした方は記憶に新しいのでは…。ビジュアル的に出したかった。九十九針をおしゃぶりにしたのは、吹きつけるイメージが強く連想されたから、という私の勝手です。

《リリトゥ=リリス》
ギルガメシュ叙事詩のキ-シキル-リル-ラ-ケとかいう妖怪と同一視されていたらしいリリス。その妖怪の次期出現が前9世紀ごろのバビロニアで、その女妖怪は闇の時間帯にさまよい歩き、新生児や妊婦を狩り、殺す。らしいので…というあまりに適当な寄せ集め方にて執筆。妊婦や赤子を殺す悪魔が、今回妊婦と赤子を助ける側に立った…という妙な廻り合わせにしたかったので。

《凶鳥説明の舞》
「鬼神ノ類ナリ。能ク人ノ魂魄ヲ収ム。荊州多クコレアリ――…」本草綱目(ほんぞうこうもく)なる中国の薬学著作より抜粋。1578年(万暦6年)頃の本。響きが歌に合いそうだったので。

《高砂》
(たかさご)相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛で、人世を言祝ぐ大変めでたい能。雷堂の気持ち…心から願うしあわせ。を表現したかった為の選出。

《羽根つき》
二人以上でつくのを追羽根・遣羽子という。本来女子の遊び。「一人来な 二人来な 見て来な…」と雷堂が歌うのは大正頃の羽根つき歌。参考にした処に注釈は無かったのですが、数え歌なのだと思います。「“一”人来な」「“二”人来な」「“見”て来な」「“寄”って来な」「“いつ”来ても」「“む”つかし」「“な”んの“薬”師」「“ここの”前よ」「“十”よ」
男二人に羽根つきをさせるシュールさ…。入れる墨は厄除け・病気除けの効果があると考えられていたそうですが、此処では雷堂の傷の形に刻む、という流れにしたくて羽根突きをさせた…だけです。

《初夢の四五六》
四扇(しおうぎ)、五煙草(ごたばこ)、六座頭(ろくざとう) 一富士二鷹三茄子…は有名ですが…。今回まさにしっくりきましたが、実は終盤執筆中に気付いたという…。座頭、は舞台の頭という意も有り…盲目人の階級の意もあり(盲目の奏者が多い連想で「舞台になら座頭が居るだろうから」と云わせました、ので雷堂はこちらのイメージなのかと…)

《洒落》
リリスに云った「“蛇”足」はリリスの「“蛇”」と掛けて。
九十九“針”と天井の“梁”を掛けて。
って、わざわざ記述するこそ蛇足でしょうが…今回は少ないです。他作品にも遊びでこういうのは入れてますので、それとなく気にして読むとニヤリとするかもしれません…